――私の夢が、ひとつ叶った。

 目の前では本物の警察と偽物の警察がすれ違い、ウォーリーをさがせ!の世界がリアルに現れたこの街に、私は興奮していた。
 赤と白のボーダーシャツを着て眼鏡を掛けている男の人を見たのは何人目だろう?

 大学生になって初めてのハロウィンの日、私は大学の友人たちと渋谷へとやって来た。ほとんどのメンバーが地方出身者という私たちは、これぞ東京という雰囲気に浮かれ、大いに喜び、そして、はしゃいでいた。

 けれどもまだまだ都会を初心者マークで歩いているようなところもあり、気合の入ったコスプレをして練り歩くまでの勇気はないものだから、結局ありがちではあるがドンキホーテで買ったお揃いのマリオの服を着て繰り出して来たという訳だった。
 それでも気持ちはじゅうぶんに満足していた。

「ねえ香穂(かほ)、向こう見て」
「何?」

 名前を呼ばれて振り向くと指をさした向こうにもマリオの団体がいて、こちらを見て手を振っていたから当然のように私たちも笑顔で手を振り返した。

「すっごく楽しい!」

 私は今の気持ちを思わず口にしていた。
 地元のお祭りなんて比べものにならない人数に圧倒され、迷子にならないよう私たちはくっつくようにして人ごみのうねりの中をあてもなく歩き続けた。

 力強いセリフで何度も自分が救われた気持ちになった大好きなアニメの主人公や、映画のヒーローにも出会ったりしてテンションが上がってきた頃だ。

 私の目の前に美しいゾンビが現れたのだった。
 
 現れたというのは大袈裟かもしれないけれど、対面した距離が近かったこともあり驚いてしまった。
 ゾッとするような瞳のコンタクトをした目元。しっかり白塗りをしたベースの顔には血が流れているようなメイクを施している。その人は迫力のあるメイクにもかかわらず整った顔立ちなのだろうと想像できた。

 ハロウィンのコスプレだとわかっているのに、私はまるで本物のゾンビにロックオンされたような感覚になって、美しいゾンビの前から動けなくなってしまったのだった。

 すると、

「香穂?」

 ゾンビは驚いた顔で私の名前を呼んだのだった。
 他人の空似みたいな感じだったとしても、名前まで同じなんて考えられない。

「えっ?」

 状況がまったく把握できないし、違う意味で驚いた私は両手で口を押さえた。

「えっ? 誰?」

 この大都会に知り合いなどいない私は軽く動揺しているのに、ゾンビは私を見て少し笑っていた。

「やっぱりそうだ。香穂だ!」

 そして間違いなくそう言ったのだ。

ーーえっ?

「そのクセも、やっぱり変わってない」

――私のクセを知ってるって?

 ようやく私はハッとした。
 半信半疑だったが、中学校で同級生だった――。

「もしかして……愛梨(あいり)?」
「そう!」
「苗字が佐久間だよね?」
「そうだよ。佐久間愛梨」
「えー、もう噓みたいビックリ」

 興奮していたせいもあったのだろう。私は思わず愛梨の手を取りぴょんぴょん跳ねながら喜ぶと、愛梨も同様に跳ねながら喜んでくれたのだった。

「元気だった?」
「うん……」

 でも、「うん」と言った割に愛梨の表情は元気そうには見えなった。

「いつから東京にいるの?」

 私がそう聞くと愛梨の顔から表情が一瞬消えてしまった。

「えっと……」

 愛梨と一緒にいたゾンビ友達が私たちの会話の空気を読んだのか、「そっちに行ってるね」と合図してどこかへ行ってしまった。
 それからすぐのこと、こちらにいる理由を話すことに戸惑っている愛梨を見ていたら、昔の思い出がふと頭を過った。

――何てこと聞いちゃったんだろう私。

『後悔先に立たず』とは、こういうことなのだろう……。
 すっかり忘れていたけれど、私は大変なことを思い出してしまった。

 中三の時、愛梨はまるで神隠しのように突然行方不明になってしまった子だった。学校どころか田舎町ではあっという間にその話は広がって、とにかく色んな噂が広まっていた。

 だから、ショックだった。

 その事件があってから愛梨の家族も引っ越してしまい、元々地方から引っ越してきていた佐久間家は身内などもいないこともあって、結局本当のことはわからずじまいのまま月日が経った。
 それからみんなそれぞれの道へと進み今に至っているというわけだった。

 そして愛梨が言った通り私は驚いたりすると両手を口元に持っていくのがクセらしい。気がつけばまた私は両手でそうしながら申し訳ないと思っていた。

「ごめんね……」
 
 いくら同級生とはいえ失礼な振る舞いだったのかもしれないと思い、私はうつむいて謝ることしかできなかった。
 
「ううん。大丈夫」
「あのね、これからどこかで話さない?」
「これから?」

 私は大きくうなずいた。

「私の友達もどこかに行っちゃったみたいだし」
「友達?」

 と言って、愛梨は私の周りをキョロキョロと見回していた。

「うん。一応、大学の友達」
「……そう。せっかくだからそうしよっか。友達には連絡すればいいことだし」
「愛梨は今何してるの? こっちで進学とか?」

 愛梨は左右に首を振ると、

「派遣で事務をやっております」

 と真顔で言った。

「かっこいー。事務って」
「かっこよくないよ。割と大手の会社だけど、どうせ派遣だし、せいぜい雑用係のお姉さんってとこじゃないかな?」
「でも、雑用ってさ、何でもできるってことじゃない?」
「ありがと。昔と変わらず優しいんだね香穂は」

 すごく嬉しかった。
 クールな性格の中学生だった愛梨の言葉には女子特有のお世辞や忖度がなくて、『ダメ』なこともきちんと指摘してくれて、いつも本当のことを言ってくれる子だった。だから嘘は感じられなかった。

「落ちつかないけど、ここら辺座って話そっか?」

 私が提案すると、

「そだね。なんかさ、今、香穂と話しておかないと……」

 一瞬、表情が暗くなった。

「何?」
「大学生だって結構忙しいじゃん? そしたら当分会えないかな?って思っちゃってさ」
「私は愛梨のためならいつでも時間作るよ」
「マジで? 彼氏みたい」

 と愛梨は笑った。

「もしかして、愛梨の彼氏待ってた? あのゾンビの中にいたんじゃないの?」

 更に笑い声を大きくして、手のひらを思い切り振って否定した。

「いない、いない」
「香穂は?」
「いないよ」
「じゃあさ、最悪な元カレの話聞いてくれる?」
「聞くー。愛梨を困らせる男なんて信じられない」

――大人になっちゃってる。

 そんな会話をしながら適当に歩いて、結局一番近くにあったコンビニで飲み物を買い、シャッターの閉まったお店の前に座り込んで話をすることにしたのだった。

 私はミルクティーを握りしめて愛梨がお茶を飲む横顔を見ていた。昔は目が隠れるほど前髪を長くしていて顔がよく見えなかったけれど、パーツが整っていて羨ましいと思っていた。
 
「昔っから思ってたんだけど、愛梨って美人だよね」
「ホントは根暗なヤツって思ってたでしょ?」

 愛梨はイタズラに笑いながら言った。

「根暗?」

 思わず首をかしげてしまった。

「うん。根暗っていうか、幽霊」
「そんな、幽霊って……」

――あっ。

 クラスの隅の席でうつむいて座り、目が隠れてしまうほど前髪を伸ばした女子が頭に浮かんだ。

 気がつくと保健室の天井を見上げていた。
 ベッドのカーテンが引かれている。
 思い出せるのは、空腹だったことと未奈美たちに又嫌味を言われたことくらい。
 それから気が遠くなって……。

 そうだ、思い出した。きっと倒れて保健室に運ばれたのだ。こんなことは初めてだった。

 もう起きれるとは思うけど頭がぼんやりしていたし、正直なところ教室には戻りたくなかった。
 未奈美や沙月、文句を言いながら結局はその二人にくっついているらしい、りりあの意地悪な顔が浮かんで空腹の胃にキリキリと痛みが走ったからだ。

――いっそのこと寝たフリでもしていようかな?

 と思った。
 でもその数秒後には、自分の性格上、罪悪感を感じて逆に眠れないだろうと簡単に想像ができたから、すぐにあきらめはついた。
 私は仕方なくゆっくり起き上がることにした。
 が、目の前が突然ぐわんと斜めに大きく揺れてベッドに倒れ込んでしまい、養護の小杉先生が慌ててこちらに来た。

「高瀬さん?」

 小杉先生の声と同時にカーテンが開かれると、心配そうに私をのぞき込んだ。

「起きようと思ったら、なんか目の前がクラクラして……」
「無理しないで。まだ横になってたほうがいいと思う。石川先生には伝えておくから。心配してると思うし」

――私の心配なんて、しないと思うけど。

 頭の片隅でそう思いながら一応の返事はした。

「はい」

 担任の石川先生は学校行事には「一致団結!」とか言ってやたら張り切るタイプなのに、ちょっとしたトラブルでさえも見て見ぬフリをするから嫌いだった。

 そういう性格だとみんなも思っているからなのか、そこはクラスの中で暗黙の了解みたいになっていて、そもそも担任なんてこれっぽちも信頼していなかったし本当は言っても言わなくてもどっちでもいいと思った。
 だからと言ってそんな事を保健室でグチる余裕も元気もない。

 力なく返事をすると同時に、私のお腹がぎゅるぎゅると大きな音を立てて活動した。
 小杉先生は目をまん丸くして「ん?」という表情をしながら私に言った。

「高瀬さん、もしかして、朝ご飯食べてこなかった?」

 楽しみに残しておいた食パンが昨日ラス1で、そこからお腹に入ったものは水だけで何も食べていなかった。しかも賞味期限が切れていた。それを知っていても私にとっては大事な食事だったから、早く食べ切ってはいけなかったのだ。

――食べる物がなかったなんて、恥ずかしくて言える訳ないじゃん。

「えっと……ダイエットでもしようかな?と思って」
「ダイエットしなくても十分痩せてるよ」

 見えすいた嘘は通じなかった。頭も働かないから余計に何も言い返す言葉が見つからなくて、私は黙って視線を外した。
 小杉先生は胸の前で腕を組み、小さなため息をついた。
 いつも優しいその顔が笑っていなかった。
 むしろ半分怒ったような表情にさえ見えた。
 すると、くるりと背中を向けて歩き出したと思ったら、自分のバッグの中から何やら探してすぐに私の寝ているベッドに戻って来た。

「まだ給食には早いから。これ食べて」

 目の前に差し出されたカロリーメイトを見て、反射的なものだったのかわからないけれど、タイミングよく又お腹が鳴った。
 こうなると空腹を否定することはできなかった。

「すみません……」

 無心で袋を開けると私はむさぼるように食べた。望んでいる食感ではなかったけれど、すごく美味しかった。泣きそうなくらい嬉しくて、それ以来、私の中で忘れられない味になった。
 すると食べる勢いとパサついた口の中のせいで当然ゴホゴホとむせてしまった。けれども私の食欲は止まらなくて、口からこぼれてしまったものを集めながら食べ続けた。
 誰も見ていないとわかっていたこともあるけれど、その時の私には恥ずかしさも何もなかった。とにかく空腹のお腹が満たされることに必死だったのだ。

 そんな私に小杉先生がインスタントのカフェオレをこれまた内緒で出してくれて、背中をさすってくれた。
 その時の私を、先生はどう思っていただろうか?

「ゆっくり食べないと。布団にこぼれたのは気にしないで。とりあえず石川先生にもう少し保健室にいるように伝えてくるから」

 私は小さく頷いて見せた。
 その後、小杉先生が職員室から戻ってくると、安心からなのか私はふたたび目を閉じた。
 次に目が覚めたのは、給食室からいい匂いが漂ってきた時だった。
 私はずっと思っていたことをカーテン越しに先生に聞いてみることにした。

「先生」
「どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「いえ、あの、私って……」
「私って?」
「クサイですか?」

 少しの沈黙が流れた。

「誰かに何か言われたの?」
 
 カーテンがあって良かった。私の顔も見えないし、先生の困った顔も見なくて済むから。
 それでも私はすぐに答えられなかった。思い出したくなんてなかったけど、その時のことは頭の中で勝手によみがえってくる。
 休み時間に座っていると未奈美が大きな声で「なんかクッサ」と私のすぐ後ろで言って、大きな声で笑ったのは最近の話だ。
 背中が……特に、頭の後ろ辺りがざわざわした。
 最初は何のことやらわからなかったし、まさか自分のことを言われているなんて思ってもみなかった。ただ、もしかしたら、私に意地悪をしたいからわざとそんな言葉を言っているのかもしれないと思い直した。

 そして嫌な予感は的中してしまった。

「この人もしかしてお風呂入ってないんじゃない?」

――どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 頭の中で「どうしよう」という言葉だけが繰り返された。

 だって……本当のことだったから。

 食事もそうだけれど水道が止められて5日目という日でもあった。トイレは近所の公園に行き、夜は極力水も飲まないようにする事でどうにか生活していた。
 身支度は、朝公園のトイレに行ったついでに水飲み場で怪しまれない程度にしていたけれど、さすがにシャンプーを持って行く勇気はなかった。
 
――これが冬じゃなくて良かった。

 と毎日頭の中でそう思っていた。

 それから真っ赤になっているであろうと想像かつくくらい急激に顔が火照り始めて、手のひらが汗ばんできたから両手のこぶしをぎゅっと強く握った。

「ウソでしょ?」

 沙月は半信半疑だったのかもしれない。

「えー、やだー」

 いつも大袈裟な話し方をするりりあは当然オーバーに言った。

――そっち行ってよ。

 冷や汗が流れて何か言い返すことなんてできなかったし、動けなくなってうつむくことが精一杯だった。
 そして、その時の私はなぜだか、

――泣いてはいけない。

 と強く思ってしまって、泣きたいのを我慢して奥歯をかみしめて耐えた。

 その声色から冷やかしとしか思えなかったし、すごく嫌な響きで言葉を放った。
 だからなのだろう。一瞬クラスの中に静けさが走った。

――みんな、そう思ってるんだ……。

 ショックだった。
 それから未奈美たちが大笑いしてた。
「マジかー」って言って楽しそうに、ずっとずっと笑っていた。
 みんながこちらを見ているような気がした。
 そんな恥ずかしいことで私に注目してると思ったら、急に身動きがとれないほど体が緊張して顔が強張って、悲しいっていうより、この場から一刻も早く逃げたいと思う気持ちが強くなってしまってトイレに走って逃げ込んだのだ。
 とにかくタイミングが悪かった。チャイムが鳴ったけど私はトイレから出る勇気がなくて、結局、六時間目の国語をすっぽかす形になってしまったのだった。
 
――あー、もう……リュック持ってくればよかった。

 トイレに腰かけたままで、少し凹んだ。でも仕方がないのだ。
 リュックなんて気にせずに帰ろうと思えば帰れた。けど、帰らなかった。
 自分で言うのも変だけど私は基本的に真面目なところがあるから、授業をさぼったのも初めてだったし、勝手に帰ったとしても絶対バレてお母さんに怒られると思ったからだ。
 怒れらるのも嫌だったけど、どうしてそうなったのか聞かれたら、きっとお母さんは間違いなく心配すると思ったから尚更帰るという選択はできなかった。
 お母さんにはこれ以上悲しい顔をさせたくなかった。
 それにリュックを置いて帰ったら、未奈美たちに何かいたずらをされてしまいそうな予感がしたから、どうしても持って帰りたかった。
 授業が始まって誰の足音も聞こえなくなってから、色んなことを考えて、色んな思いを巡らせた。

 その日の放課後、教室を出て早く家に帰ろうと思ったのに、誰が聞いても『怒ってます!』みたいな声で私を呼んだのは担任だった。

「高瀬!」
「はいっ」

 私は仕方なく立ち止まり、肩をすくませて振り返った。

「国語の時間どこにいた?」

 まだ二十代だというのにぽっちゃり体形で、服のセンスの無さといつも煙草の臭いがしてオジサンみたいだから、陰では『石川オジサン』ってみんなに呼ばれていた。

「えっと、トイレです」
「トイレ?」

 驚くのは仕方ないけど大きな声で言うから、廊下でも私はさらし者みたいな目でみんなに見られた。

「……はい」
「そんなとこでサボって何したかったんだ? とにかく鹿島先生に謝りに行くぞ」
「職員室にですか?」
「当たり前だよ」

――先生たちにもクサイって思われたらどうしよう?

「えっと……それって、今からですか?」
「今謝らないでどうする? 悪かったことはすぐに謝らないと意味がないんだぞ」

――わかるけど、ホント、ムリ。

 私がずっと黙っていると石川先生はしびれを切らしたらしく、私の目の前まで来た。

――相変わらずタバコくさいんですけど。

 私はハッとした。
 みんなと同じく石川先生をタバコくさいと思っていたけれど、私もそれと同じように美奈未たちにそう思われているのだ。顔をしかめたくなるような独特なタバコのニオイも、お風呂に入れず髪を洗えていなくて少しギトついているニオイも同類なのかもしれない。
 そんなふうに考えたらゾッとした。

 すると私の左手を引っ張ろうとしたから、無意識に腕を振り払っただけなのに、すごく力が入ってしまったみたいで自分の腕の方が痛かった。先生も驚いたらしく素直ではない私に更に怒った顔をした。
 反抗したくてそんな態度をとった訳じゃない。たった1ミリも私に近づいてほしくなかったからだ。
 いくら石川オジサンと陰で呼ばれているような先生だったとしても、たった今の自分が不潔だと思われる事が嫌だったからだ。

 そんな抵抗も虚しく結局私は職員室まで来ることになった。
 机に座っている鹿島先生の前まで来ると、

「謝りなさい」

 と石川先生に言われた。
 鹿島先生はゆっくりと振り向いて私の顔をじっと見つめた。

「すみませんでした」

 私はそう謝ったのに、石川先生の怒りは収まっていなかったらしく、

「ちゃんと頭下げろ!」

 と怒鳴って私の頭をぐいっと押して無理に下げたのだ。

――私にさわらないで!!

「やめて!」

 自分でも驚くほど私は大声を出した。そして頭に置かれた石川先生の手を思い切り振り払ったのだった。

「さっきといい、今といい、その態度は何だ?」

 石川先生も負けじと大きな声だった。
 そして職員室でもさっきの教室みたいに、一瞬シーンと静まり返ったのだ。

――そんな目で私を見ないで……。

 すでに涙目でぼやけてはいたけれど、先生という大人たちの刺すような視線が痛くて私の涙は次から次へと溢れた。

「何があったの?」

 鹿島先生も驚いていたけれど優しく冷静に私にたずねた。

――不潔だって思われたのが嫌だった。

 そう言えたらどんなに気持ちが楽になっただろう。
 でもそんなこと言える訳がないから、「何もありません」という代わりに首を左右に振って否定した。
 私は少しだけ顔を上げたけれど注目されているのがわかって、すごく怖くなった。
 その時からだと思う。人が『怖い』と思うようになった……。

――お願いだから見ないで!

 心の声を吐き出すことができなくて私は泣くだけだった。
 しばらくしても泣き止まない私に掛ける言葉もなくなったのだろう。

「今日は帰りなさい」

 仕方ないという声色で石川先生に言われ無言で職員室から出ると、下駄箱のところまで鹿島先生と小杉先生が一緒に来てくれていた。石川先生が来ないところが先生らしいと思ってガッカリというかやっぱりなと思った。
 私は外履きを出してから鹿島先生に改めて言った。

「ご、ごめんさない」

 幼い子供のようにしゃくり上げて泣いてしまったから喉が痛くて、しかも言葉が途切れてしまい上手く言えなかった。でも鹿島先生は何か悟っていたのかもしれない。

「高瀬さん。もしね、お家で困ってることがあるんだったら、先生か、小杉先生に話してね」

『早く帰りたい』という気持ちと『話そうかな』という気持ちが胸の中でぐるぐる回った。
 足元に目を移すと、外靴がいつもよりボロボロに見えて恥ずかしくなった。
 自分の気持ちに気がつかれないようにサッと顔を上げると、頑張って笑顔を作って答えた。

「わかりました……」

 先生たちは優しかったけれど、どこか悲しそうな目で私を見ていた。

 

 
 
 

 






 
 それから1週間くらい経った頃だった。

 期末テストが返されて教科の度にみんな一喜一憂していた。
 そしてその日は最後のテストが返されて、大体結果の把握ができたから放課後はみんなテストの順位を想定した話をしている子たちが多かった。

 私はいつも五番以内に入っていた。当然、我が家は塾に通わせてもらえるような環境じゃないから自分なりに勉強していたのだけど、それが逆に良かったのかなと思う。
 それに、「努力の賜物だよ」とお母さんはいつも誉めてくれた。
 だからどっちかっていうとテストは嫌いじゃなかった。勉強は一生懸命っていうか無心になれる。歴史が少し苦手だったけれど、進学校に行きたいという思いがあったから頑張れた。

――やっぱ数学が足引っぱんてんだな。

 心の中で小さなため息をついたその時、

「ほんっとクサイんだけど」
「マジで勉強に集中できなーい」

 未奈美が叫ぶように言った。

――きっと、私のことだ。

「もう私、クサイのはダメなの。マジ、ヤバイ!」
「順位下がったのって絶対、香穂のせいだ」

――私のせい?

 あまりにも驚き、信じられなくて両手で口を押さえながら未奈美の顔を見上げると、もうすぐそこに未奈美が立っていて、いきなり私の椅子を蹴っ飛ばしたのだ。

 ガンッ。

 体に衝撃が走った。

――何?

 未奈美の声と椅子を蹴飛ばした音にみんなもビックリしていた。

「アンタのニオイで又成績下がっちゃうんですけど。ママに怒られたら絶対アンタのせいだからね!」

 何がなんだかわからなくなって頬に伝った涙を拭っていると、

「自分だって香水のニオイまき散らしてんじゃないの?」

 そう言って私の前に立ちはだかったのは男子ではなく――愛梨だった。

――佐久間さん。

「何? アンタこそ、その前髪切りなさいよ。何て呼ばれてるか知ってる? 幽霊だよ幽霊!」

「じゃあ……」

 力強く未奈美を睨みつけ、低い声色に変わった。
 こんな私でさえ愛梨のことをおとなしい子だと思っていたくらいだから、クラスの子たちも本気で怒った顔を見て驚いていた。

 だからなのか普段から何かと悪ふざけしたりする男子でさえも、愛梨と未奈美の言い合いを茶化したりする男子はいなかった。
 むしろみんなが息をのんでその場を見守っていたような気がする。

「は? じゃあ、何?」

 挑発するように未奈美が言うと、愛梨は自分の机の中からハサミを取り出してきて、まるで私を守るかのように席の前に再度立った。

「ちょっとハサミ持ってる」
「怖い」
「マジやばいって」
「危ないから」

 みんな口々に叫び始めたその瞬間――。

「私がこの前髪切るから、もう高瀬さんのことイジメないでね」

 と言って、みんなの前で前髪を切ったのだ。
 
 愛梨は何のためらいもなくハサミを動かした。

「佐久間さん、やめて」

 私はあわてて席を立ってハサミを取り上げた。

――佐久間さん震えてる。

 半分だけ斜めになって切られた前髪から見えた瞳は、大きくて美しくて、そして涙で溢れていた。

 私も、そして未奈美たち以外の女子も、愛梨が泣いている姿を見て泣いた。

 

 
 私たちは前髪事件以来、一気に距離が近くなっていつも一緒にいるようになった。
 あの日から愛梨の前髪が短くなってしまったけれど、その方が可愛くなったとコソコソみんなが言っていて注目されていた。

『ぼっち』の私と『ぼっち』の愛梨は、少なからずクラスから浮いているんだろうなと思ったけれど、愛梨のような勇気のある人間が友達なら、たった一人の友達だったとしてもそれは10人の友達がいるよりも心強かった。

 ある日の学校の帰り道で小さな女の子と母親が仲良く歩いていた。
 私はすれ違ってしばらく歩いてから、愛梨に自分の家庭事情を告白した。

「我が家はねお父さんのギャンブルの借金が見つかって離婚したんだけど、去年くらいからお母さんが体調崩して仕事できなくなっちゃってね、それでお給料ももらえなくなっちゃって、気がついたらめっちゃ貧乏になってて、水道も止められちゃって」

「なるほど。だからお風呂に入れなかったってことだったのね」

 探偵のように右の人差し指を立ててこちらを見ると、納得したという顔をして何度もうなずいていた。

「誰にも言えなくて」
「わかるよ。私もいっぱいあるもん言えないこと」

 愛梨は良い意味で言葉選びに遠慮がなくてハキハキした喋り方をする子だった。
 ありがちな例えをすると『明るい子』というのがピッタリで、なぜ幽霊と呼ばれるくらい自分の存在を消していたのか不思議だった。

「ていうかさ、それならうちで入りなよ。お風呂」
「え?」

 思わず足を止めた。

「大丈夫だって。心配しないで」
「だって……」
「お代は取りませんから」
「そういうことじゃなくて、愛梨の親になんて言うの?」

 すると愛梨は遠くを見つめて、

「うちの親も帰って来ないから……」
「どういうこと?」

 ためらいがちに聞くと、

「うちはさ、お母さんが浮気性なんだよね。こっちに転校して来たのもそう。新しい男がこの町の人だったっていう」
「そうなんだ」
「ねーねー、私ぜんぜん平気。あ、うちも離婚してるけど、お父さんは東京にいるの」
「東京? 都会から来た子なんて憧れちゃう」
「そうだよ浅草生まれ。でも浅草育ちじゃないんだよねー」

 そしてまた私から視線を外すと遠くを見つめた。

「お母さん芸者だったの」

 と静かに言った。

「浅草芸者。駆け落ちして生まれた子供が私なんだけど、どうやら相手はお父さんではないらしいってことがわかって離婚したの」
「複雑だね」
「じゃ、誰の子だよって話」

 愛梨は笑い飛ばしたけど、それは私に心配されないよう気をつかって話してくれたんだろうなと思った。

 それからいつもの分かれ道まで来ると、

「でさ突然なんだけど、さっき言ったお風呂の話なんだけど、このまま家に来ない?」
「え、いいの?」

 お風呂に入りたいというより愛梨ともっとお喋りがしたくて、私はいつもと反対方向の道へと歩き出した。
 そこから五分もしないうちに見えてきた二階建てのアパートが愛梨の家だった。
 私の家と暮らしている環境もそんなに変わりないように見えたけれど、違うとしたら愛梨のお母さんが煙草を吸う人というくらいな感じだった。

 それから早速久しぶりのお風呂に入った。
 なかなか泡立たない髪の毛を念入りに洗うのは大変だった。
 湯船に入ると心地よい眠気に襲われて少しだけ目を閉じた。

――天国だ。

 お風呂を上がると、愛梨が炭酸ジュースをコップに入れてテーブルに出してくれた。

「ありがとう。気持ちよかったー」
「良かった。良かった。乾杯しよ!」
「うん」

 お菓子も食べたけどそれだけじゃ足りなくて、二人でキッチンに立ってインスタントラーメンを作って食べた。
 学校の話、家庭の話、そして将来の話もした。

「私、できるなら進学校に行きたいの。そして東京の大学に行きたい」
「いいなー私は夢とかないもんなあ。勉強嫌いだし。じゃ私も東京に戻るのが夢にしよっと」
「でね、もうひとつ……。恥ずかしいんだけど、渋谷のハロウィンに行ってみたいの!」
「わかるー! 私も行きたい、ってかコスプレしたい」
「何に着たい?」
「えっとね」

 私たちは喉が痛くなるほど笑って、疲れるほどたくさんの話をした。
 
 

 
 
 けれども私たちにとって、穏やかな時間は長く続かなかった。

 毎日のように私か愛梨の物がなくなったり汚れていたり、誰かに嫌がらせをされるようになったのだった。

 犯人は未奈美たちだろうと思っていたけど、先生に相談することは一切頭の中になかったし親にも話すつもりはなかった。

 誰かに話したところで解決なんてしないと思っていたからだ。
 
――愛梨となら嫌なことも乗り越えられる。
 
 そう思っていた。

 でも、実際の私は弱かった。

 裏庭で私と愛梨の上靴がカッターナイフで切られたのを発見した時、身も心もボロボロで、私はとうとう学校に行くことが怖くなって無断欠席を続けていた。

 相変わらずお母さんは帰ってきてもまたどこかへ行ってしまう生活を送っていたから、私の体の栄養面も最悪な状態になっていた。

 頑張って学校に行っていたはずの愛梨も、その時最悪な状況を迎えていたのだった。

「アンタさえ生まれなかったら、私はこんな不幸になってないんだよ」

 と愛梨のお母さんは言ったのだそうだ。
 酔っぱらっていたからお酒を飲み過ぎていたのかもしれないけれど、新しい彼氏に振られてしまった腹いせにそんな言葉を言ってしまったのかもしれない。

 あんなに頑張っていた愛梨でさえも、

「もう頑張れないや……」と、つぶやいた。

 私たちはある実行をするしかなかった。

 ある夜、マンションの屋上から揃って身を投げたのだ。

 
「あのね愛梨、私、思い出したんだけど」
「思い出した?」

 と言って愛梨はうつむいた。

「ごめんね。私だけがこんなふうに助かっちゃって、しかも逃げるように東京に来ちゃって、本当にごめんなさい」

 アスファルトには涙の小さな雨粒が降った。

「でも、こんなふうに元気な愛梨に会えて、ホント良かった」

――愛梨が言ってる意味がぜんぜんわからない。

 パニックになりそうだった。

「愛梨、どういうこと?」
「下に木がたくさんあって奇跡的に助かったけど、私は骨折だけですんだのに香穂は植物人間になちゃってずっと眠ってるって聞いて、私、怖くて、ずっと会いに行けなかったの」

――植物人間?

「ごめんね香穂、本当にごめんね」

 泣きじゃくる愛梨の横で私の記憶が完全に戻ってきたのだった。