「なあ、この壁の向こう側はどうなっていると思う?」
「……どうかしたのか? お前がそんなことを言うなんて」
「いや、ただ気になっただけさ」
「『大脱走』でも再現する気か?」
「それもいいかもな」
「バカ言え。あの作品のラストを知っているのか? 主人公のスティーブ・マックイーン以外、みんな、死ぬんだぞ。お前が脱走してもまた、この壁を見ることになるさ」
「ああ……そうだな。俺一人のためにお前達を殺すわけにいかないな……」
「……やってみるか?」
「え?」
「やってみよう。あいつらも、お前のわがままなら聞いてくれるだろう」
*
「Cブロック、Bブロック共に壊滅状態! このままではAブロックも突破されてしまうぞ!」
白衣を着た男達は大型のコンピュータと複数のモニターに囲まれた部屋の中を慌しく駆け回っている。
「どうしたというの! 一体、誰がこんなことを?」
慌しい部屋に男達と同じく、白衣を纏った女が現れた。細身ではあったが背が高く、長身のそれはモデルのような体型であった。
「江崎所長! 大変です! PX‐0082が暴走しました。現在、Aブロックを進行中です」
江崎と呼ばれた女はまだ三十代半ばと見える若さで所長と呼ばれていた。
「PXシリーズが! 私だけでは手が負えないわ。至急、“現時会”に連絡して!」
激しく点灯するモニターの光が江崎の眼鏡に映る。
「何をするつもりなの……“冬の蝉”」
「だ、だめです! やられました……Aブロックも突破されました!」
慌しかった所員達の顔が青ざめていく。
「さすがね……現時会のジイさん達にどやされるわ」
一年後
「おはよう」
振り返るとクラスメイトの品田 由香がニコニコ笑ってこっちを見ていた。
「ああ」
「今日は私と一ノ瀬君が日直だよね。さっ、早く片付けちゃおう」
一ノ瀬 守は由香に腕を引っ張られて教室に向かった。
「はぁ~、なんで、この学校の日直ってこんな朝っぱらから、授業の準備なんてしなきゃいけないのかな。不公平だよね、先生達は何もしないんだよ」
二人は一時間目に使われる教材を教卓に並べていた。
「ああ」
守はうつむいたまま、無愛想に返事をした。
「元気ないね。ちゃんとご飯食べてる?」
「ああ」
「もう、一ノ瀬君、今日はまだ、『ああ』しか言ってないよ」
「ああ」
守はこの三枝高校に転校してきて一年になる。学校生活の面では極力、人との接触を避けて、友達もつくらずにいた。
それが彼の望みでもあった。
だが、クラスメイトも近づかない彼にずっと、引っ付いてくる少女がいた。
それが同じクラスの品田 由香である。彼女は守が転入してから、持ち前の笑顔で彼をいろんな行事に誘ったりして、なんとかして守の心を開かせようと努力していた。
それが守には面倒でしかたがない。
彼女を突き放したい気持ちも山々だが、あの無拓な瞳とえくぼにはかなわない。
「おい、こっちは終わったぞ」
「あ、やっと、喋ったねって……もう、終わったの! 早いな~」
「じゃあ、俺は行くからな」
「えっ、どこに行くの? ホームルームまでにはまだ時間あるけれど……」
「さあな」
守は無意識のうちに由香を遠ざける癖をつけていた。この投げやりな答え方もその一つである。
「さあなって……あ、そう言えば、今日は転校生が来るんだよ。楽しみだね」
「別に……」
守は鞄を持って、教室を出た。
(あの女は本当に疲れる)
守はやっとのことで由香から逃げ出すと、胸を撫で下ろした。
*
「由香、日直おつかれ~」
「本当にそう思ってんの? 私、マジで疲れたよ」
由香は机にぐったりと頬をつけた。
「ハハッ、あんたが真面目すぎるんだよ。それより、大丈夫だった?」
「え、なにが?」
「だから、あの男だよ。一ノ瀬守、あいつ、マジで怖いじゃん。なんかされなかった?」
「されるわけないじゃん。一ノ瀬君って物静かなだけで全然、怖くないよ。まあ、確かに無愛想だけど」
由香は初対面の人間でもすぐに仲良くなれるような人なつっこい性格の持ち主で、活発的で明るく、いつも笑顔を絶やさない、そんな少女であった。
由香にはクラスメイトが守を避ける理由が分からなかった。クラスのみんなは私が変わっているからだと言う。でも、そうは思わない、彼は社交性が乏しいというだけであって悪い人間ではないと確信していた。
「よし、ホームルームを始めるぞ。みんな、席につけ」
担任教師が教卓に立ち、出席簿を開いた。
「えっと、今日は出席を取る前に転校生を紹介する。君、入りなさい」
教室の戸が開くと、一人の女が入ってきた。
175センチの長身、その姿は高校生とは思えない抜群のプロポーションであった。
「おお、スゲー美人じゃん」
「なんだあの胸は? バケモンか!」
転校生を見て、生徒達はざわめきだした。
「こらっ、静かにしろ! それじゃ、自己紹介をしなさい」
「はい」
そう言うと、黒板に自分の名前を書き始めた。
「赤穂 夕貴といいます。皆さん、どうか、よろしくお願いします」
赤穂 夕貴が一礼すると生徒達は拍手をして歓迎した。
「へえ、キレーな子だな。一ノ瀬君、どう思う?」
守は窓の外ばかり見ていて、転校生など眼中にないといった感じだ。
由香が彼の肩を揺さぶると振り返った。
「どうかしたのか?」
「どうかしたのかって、ほら転校生だよ」
由香に言われて守はやっと転校生に目を向けた。
「ああっ!」
守は赤穂夕貴を見るなり、急に席から立ち上がった。
「ど、どうした? 一ノ瀬、知り合いか?」
教室にいる生徒達の視線が一斉に守の方に移る。
「あ、いや、その……」
守が返答に困っていると夕貴が代わりに答えてくれた。
「はい、一ノ瀬君と私は小学生の時に同じクラスでした」
「ほう、そうか。しかし、一ノ瀬、お前もオーバーだな」
「あ、す、すいません……」
守はうなだれて席についた。
「それじゃ、久しぶりの再会ということもあるし、話しやすいだろうから、赤穂、お前の席は一ノ瀬の隣にするぞ」
「はい、ありがとうございます」
夕貴は腰まで伸びた美しい髪をなびかせて、守の席についた。
「よろしくね、一ノ瀬君」
夕貴は守に微笑んだ。
「ちっ」
守はひどく動揺していた。彼の動揺は異常なまでに激しかった。そんな彼を見て由香は首を傾げるばかりであった。
*
「なぜ、ここに来た! 俺がやってきたことが全て無駄になるじゃないか!」
ひと気のない理科室の中で守は夕貴に激しく迫っていった。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ。おやっさん。私も悩んだ末に、おやっさんのそばにいることにしたんです。みんな、心配していたんですよ」
「余計なお世話だ。俺は俺のやり方で、“マザー”の連中と戦うつもりだ。お前らは黙っていろ!」
「そんな……おやっさん、一人で死ぬつもりなんでしょ? 嫌ですよ。そんなの」
夕貴の大きな瞳には涙が浮かんでいた。
「ちっ、もういい……勝手にしろ!」
そう言うと、守はやりきれない顔で理科室から去って行った。
守と入れ違いに一人の女子生徒が現れ、涙を手で拭く夕貴に気がつくと話しかけてきた。
「あ、赤穂さん。さっき、一ノ瀬君と話してたの?」
「あなたは、え~っと……」
慌てて涙を拭いて、女子生徒の名前を思い出そうとしたが、動揺しているせいか、なかなか名前がでてこない。
「あ、私は品田 由香。よろしくね」
由香は夕貴に手を差し出した。
「あ、うん。こちらこそ、わかんない事とかあるだろうから」
二人は照れくさそうに握手をした。
「ねえ、さっき一ノ瀬君と話していたの? あなた、泣いていたようだけど」
由香が心配そうに夕貴の顔を覗きこんだ。
「あ、あれ、大丈夫だよ。別におやっさんに泣かされたわけじゃないから」
「オヤッサン?」
由香は顔をしかめた。
「あ、ごめん、それ、一ノ瀬君のあだ名なんだ」
それを聞いて由香は腹を抱えて大笑いした。
「アハハッ、一ノ瀬君がオヤッサンだなんて可笑しい!」
「そうかな?」
「可笑しいよ! オヤッサンなんてまるでヤクザじゃん。でも、一ノ瀬君もこんな美人の知り合いがいるなんて、彼も隅に置けないな~」
由香が目を細めてわざとらしく夕貴の胸を指で突っつく。
「私とおやっさんはそんなんじゃないよ」
「え、そうなの。私は普段、クールな一ノ瀬君があなたを見て、あんなに驚いていたから、こりゃまた、何かあるな~なんて思ってたけど……」
「誤解だよ。私とおやっさんはなんて言ったらいいか、兄弟に近い関係だよ」
「ふーん、兄弟なんて、なおさらヤクザみたいだな」
「ハハハッ、そんな人聞きの悪い……」
夕貴は頭を掻いて苦笑いをした。
“マザー”それは世界を裏で操る巨大な力の集合体といえるだろう。
世界中のどこの国でも、この名前はトップシークレットで扱われており、メディアにその名が知れることはない。
例え、それが世間に洩れたとしてもそれはなんらかのかたちで消去される。
完全な武装組織、謎という不気味なオブラートに包まれ、人間社会の地下に潜む悪魔に近い。
正に世界を裏で牛耳る闇の集団である。
その圧倒的な力の最深部、マザー本部に江崎 桐子は呼び出されていた。
「一体、どうなっているのかね! 江崎君! PX‐0082が脱走して、もう、一年になろうというのに、未だに、何の報告もないじゃないか!」
呼び出された部屋はかなり広かったが、中には半円形のテーブルとそれを囲むイスがいくつか置いてあるだけでなんの工夫もない、無機質な部屋だった。
江崎桐子の周りには八人の老人がテーブルを前にして、江崎を睨んでいる。
「はい、ですから、今、ご報告致します。PX‐0082の潜伏先が判明しました。どうやら、日本のY市に潜伏している模様です」
「なんだと! それを一年間も黙っていたのかね? 一体、何をしていたんだ。返答次第では君の研究所の資金援助を考えさせてもらうよ!」
坊主頭の老人が血管を浮かび上がらせて、江崎に怒鳴る。
江崎 桐子はマザー研究所の所長を五年前から勤めている。
彼女が大学の助教授をしている時に、この組織にスカウトされ、現在に至る。科学者にとって宝庫ともいえる情報、資料、サンプル、全てが研究所には揃っていた。
ただし、その研究材料は異質なものが混じっていた。
人体実験を繰り返し、人間の力を遥かに超えた超人を創る、もしくはそれを育成するのが研究所の役目であった。
「ええ、承知しておりますわ。私達はPX‐0082を三ヶ月ほど前に確認しました。しかし、そう簡単に追跡者をつけるわけにいきません。仮にも“冬の蝉”ですわ」
江崎が反論すると、テーブルの中央に座っている顎から胸まで伸びた長い髭の老人が言った。
「PX‐0082、通称、冬の蝉。マザー本部直属部隊、馬斬隊隊長にして、マザーナンバー1か。その実力は一艦隊をも、壊滅するものがある。確かに、一筋縄ではいかんな」
この髭の老人こそが闇組織マザーを裏で動かす“現時会”を統べる人間、オウラ・ハーンであり、事実上、マザーの全権を握っている。彼の命令次第では一つの国をも消滅できるのだ。
「オウラ会長、正しく、その通りです。冬の蝉の恐るべき力はマザーの人間に知りわたっております。ですから、部隊の者はおろか、皆、恐れて彼の追跡命令にそう容易く頷く者はおりません」
冬の蝉、おそらくマザーの中で最強の人間と言えるだろう。
どんな状況下でも事態をよく把握し、危険を回避して、目標を排除する。その驚異的な適応性から冬でも鳴き続ける蝉と言われている。まさしく、マザーが望んだ最高の逸材であった。
だが、その蝉が籠から逃げたのだ。これはマザーにとって最大の危機である。現時会の老人達も頭を抱えていた。
その解決策を江崎は強いられていた。
「しかし、一人だけ、この指令に志願する者がいます」
江崎の話にオウラ会長の眉がピクリと動く。
「ほう、誰だね?」
「今日、連れてきております。実際にご覧になってはいかがでしょうか?」
「よかろう。連れて来たまえ」
「入りなさい。“ハイ・エンド”」
部屋の扉が開き、一人の青年が老人達の前に現れた。同時に老人達のテーブルに江崎が用意したファイルが配られる。
「君がFX‐0987、ハイ・エンドかね?」
「ああ、そうだよ。つーか、俺をコードナンバーで呼ぶのはやめてくれよ」
その青年はマザー最高幹部の老人達を前にしても、うろたえることなく、タメ口で言った。
ここまで愚かな態度をとる人間を現時会の老人達は見たことがないだろう。
民間人が彼らに容易く近づくことなどあれば、秘密保持のために、時には殺されることさえあるのだ。
そのような冷血な人間達を前にこの青年は毅然としている。
「なんだ、その態度は! 会長に対して失礼だろう!」
オウラ会長の隣にいた老人が怒鳴る。
「まあ、いいじゃないか。よかろう、君をコードナンバーで呼ぶのはやめよう。ハイ・エンド君、これで満足か?」
「ああ、上等さ。じゃ、さっそく、話に入るけど、その前に条件がある」
「なんだね?」
「もし、この指令に成功したら、俺をマザーから開放してくれ」
「なぜだね?」
「まあ、俺も元ナンバー1を相手にするのは命懸けなんでね。それぐらいの報酬はあってもいいだろ?」
「確かにそれは言えるな。いいだろう、その条件、呑もう。しかし、君はマザーシステムを一つも確立していない。それで冬の蝉とどう対抗する? 奴は我々が確認しているだけでも、保護システムを20以上、具現化できるという」
ハイ・エンドを含むFXシリーズは冬の蝉がいた馬斬隊、PXシリーズとは違い、マザーの落ちこぼれ的存在であった。
その決定的な違いはマザーシステムなるものにある。マザーシステムは主となる母体を守るためにある特殊能力、即ち、人間が超人になるための武装である。
特にマザーシステムの中で最も重要なのが保護システムである。主が自から創りだしたもので個々に感情を持つ。つまり、心の中で別の人格を創るのだ。
その人格をコントロールし、具現化、それを人の形として現したり、時には武器として強大な力となる。
これがマザーシステム最大の利点である。
彼らFXシリーズは常人と比べると体力、知力、精神力と共に上回っているのだが、マザーの中では凡人に近い。
FXシリーズには肝心のマザーシステムを持ち合わせていないのだ。
ハイ・エンド自身、この事に強くコンプレックスを感じている。
いくら、自分達が研究所で開発した特殊武器を使いこなしても、マザーシステムを持つPXシリーズには敵わないのだ。
そこで彼はある決意をしてオウラ会長に申し出た。
「確かに俺はマザーシステムを使えない。でも、武器の扱い方は誰よりも知っているつもりだぜ」
「つまり、なにを言いたいのかね?」
「だから、貸してくれよ。SSSを」
それまで沈黙していた老人達が急にざわめき始める。
「なんだと! 貴様、調子に乗るな! あれを使うなど」
「そうだ! 我々はあれらにどれだけの金と時間を費やしたことか」
激しく罵倒する老人達とは違い、オウラ会長は冷静にハイ・エンドの目を見つめている。
「五宝剣か……よかろう、SSSの使用を許可する」
「そ、そんな! オウラ会長、それはなりませんぞ! 五宝剣は我らの切り札に等しいものです」
「だから、その切り札を使う時ではないのかね? それだけ冬の蝉は危険だということだろう」
「で、ですが……」
「迷っていても仕方あるまい。これも“タイガ神”の意思によるものかもしれん。君も忘れたわけではあるまい。我ら現時会、いや、マザーの使命を」
「そ、そんな! 私ごときが申し訳ありません」
悪態をついていた老人が急にうろたえた。
「うむ。全てはマザーの流れと共に!」
「はっ! 全てはマザーの流れと共に!」
オウラ会長が席から立ち上がり、腕を上げて敬礼すると周りの老人達もそれと同様の行動をとった。
「けっ、くだらねぇ」
ハイ・エンドは舌打ちをして、部屋を出ると廊下を歩き始めた。
「待ちなさい、辰則君!」
江崎 桐子がハイ・エンドの肩を掴んで彼を止めた。
「なんだよ? 博士。俺の名前はハイ・エンドだってんだろ。あんたらがつけた名前じゃないか」
「ごめんなさい。ついつい、癖でね。だってあなたにはその名前が似合わないんだもの」
「くだらねぇ。それより、あんた、なんで現時会のジジイ達にヘコヘコしてんだよ? 情けないぜ」
「仕方ないじゃない。私達は彼らあっての研究員よ。マザーを動かしているのは彼ら現時会で私達はそれに従うだけ。でも、一応はあがくつもりよ」
ハイ・エンドが鼻で笑う。
「博士らしいや」
「でも、あなた。本当にやるの? まさか、SSSを要求するとは思わなかったわ」
「当たり前だろ。冬の蝉はPXシリーズだぜ。俺達FXシリーズとは訳が違う。あいつら、優等生にはSSSぐらいなきゃ勝てないよ」
「PXシリーズか。マザーシステムを自由に操れる者、正しく、選ばれた者ね」
「惜しいと思っているのか?」
「えっ、どういうこと?」
「とぼけんなよ。あんたら学者は理屈でしか考えないだろ?」
「確かにそうかもね。まあ、本音を言えば、あなたも冬の蝉も返ってきて欲しいわ」
「ふざけろ」
ハイ・エンドは吐き捨てるように言った。
「そうね。じゃあ、行きましょう。勝利への切り札とやらにね」
江崎はハイ・エンドと共にロビーまで来るとエレベーターの中に入った。
何十個もあるボタンの下に鍵穴があり、そこに江崎はポケットから取り出した鍵を差し込んで回した。
すると、ガクンと大きく揺れ、エレベーターが動き出す。
エレベーターは物凄い速さで地下へと降りていく。
「こいつは厳重だね」
ハイ・エンドが嫌みったらしく言う。
「仕方ないわよ。なんせ、本部の宝ですもの」
エレベーターが止まり、自動ドアが開く。
二人がエレベーターを降りると武装した兵士達が現れ、江崎の胸につけていた。
バッジを確認すると部屋の奥へと案内してくれた。
地下は薄暗く、気のせいか空気が薄い感じがする。
これが世界を裏で牛耳るマザーの本部の中心部だと思うとハイ・エンドは背中にゾクゾクするものを感じた。
「へえ、スゲーな。ただのビルだと思ってたのに中はこうなってたのかよ」
部屋の奥に進むと、巨大な空洞があり、その縦穴ホールの中心に柱が立っていて、柱まで橋のような通路が続いている。
「これがマザー本部のコアよ」
「これ、ぶっ壊したら、このビルの人間、全員死ぬんだろ?」
ハイ・エンドが江崎の顔を見てニヤニヤ笑う。
江崎がどういう反応をするか、試しているのだ。
「悪い冗談よ」
江崎はハイ・エンドの言葉を軽くかわした。
「では、博士。私達はここまでです。お帰りの際は声を掛けてください」
「分かったわ。ごくろうさま」
二人が通路に入ると兵士達は戻って行った。
「さあ、入りましょう」
江崎は柱の前まで来ると、柱の中央にある銀色のプレートに手を当てた。
すると、江崎の指紋を認識したコンピュータが電子音を鳴らした。
それまで柱の一部分だったはずの壁が二つに割れ、中へと入れるようになった。
「変わった自動ドアだな」
二人は中へと入って行った。
柱の中は思ったより広く、壁にはそこら中に“CAUTION”という文字がある。
そして、壁には五本の剣が厳重に重く硬い鎖で巻かれていた。
「で、どれを使う気?」
「これさ」
ハイ・エンドが選んだのは古びた赤い小さな短剣であった。
「〝赤の剣〟を使うの? それはちょっと、扱いにくいわよ」
「いいんだよ、これが俺には似合っている。オウラのジジイに伝えといてくれ。二週間、待ってくれってな、絶対にこいつを使いこなしてみるぜ」
「あ~、お腹空いた! 早く食べよ」
由香が弁当を持って、守の机に現れた。
「品田……なんで、お前、いつも昼は俺と一緒に食べるんだ?」
「だって、一ノ瀬君、いつも一人で寂しそうなんだもん。友達ができるまで一緒に食べよう」
由香はそう言いながらも、既に箸を手に取っている。
「俺に構うな。お前はお前の友達と一緒に食べればいいだろう」
「あ、一ノ瀬君、気を使ってくれているの? いいってば! それより、赤穂さんとはいつ頃知り合ったの?」
守は由香の問いに少し、息詰まったが直ぐに冷静さを取り戻した。
「小学生の時だよ。同じクラスだったんだ」
「へえ、でも、なんかピンとこないんだよね」
由香は箸を口に銜えて考え込んでいた。
「な、なぜだ?」
守は少し、裏返った声で訊いた。
「いや、なんていうか、一ノ瀬君の小学生時代がイメージできないんだよね。一ノ瀬君っていつもクールだからさ。一ノ瀬君がランドセルを背負ってるなんて……ハハハッハ、可笑しすぎるよ!」
「お前は……」
守は少しでも由香の洞察力に恐れた事が自分でも馬鹿馬鹿しく思えた。
「ん? どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「ふーん。そう言えば、うちの2組以外にも、3組に転校生が来たんだってね。珍しいよね」
「なんだって!」
守は急に机から立ち上がった。
「そいつはどういう奴だ?」
「えっ、直接、見てないからわかんないけど、なんか男の子らしいよ」
「ちっ!」
守は慌しく教室を出て行った。
「また、知り合いかな?」
由香は厚焼き玉子を頬張りながら、守の言動について考えてみた。
*
守は隣のクラスの教室に入ると、ドア近くにいた生徒に問いただした。
「おい、転校生ってのはどこにいる!」
「えっ、相場のことか? あいつならそこにいるぜ」
その生徒が指差した方向には楽しそうにクラスメイトと話す少年がいた。
「おい! お前までここに来たのか!」
守は少年の顔を見るなり、殴りかかっていくような勢いで迫っていった。
「よう、守じゃねぇか。なに怖い顔してんだよ」
「いいから、来い!」
守は少年の耳を引っ張って無理矢理、教室から廊下に連れ出した。
「どういうことだ! 史樹! 夕貴やお前はなにを企んでいる?」
相場 史樹は赤くなった耳を撫でながら言った。
「そんなに怒んなくてもいいだろう。なにも企んでなんかいないさ。ただ、お前が心配になって来ただけだ」
「お前達以外にも来ているのか?」
「ああ、この三枝高校の近くにいるはずだぜ。なんなら、召集でもするか?」
「バカ野郎! なんのために俺はお前らを研究所から逃がしたのか分かっているのか! この一年が無駄になるだろうが!」
守の怒鳴り声が廊下に響き、それに驚いた生徒達がケンカだと勘違いして、野次馬と化す。
「こんな所で大声出すなよ。野次馬が集まっちまったじゃねぇか」
「ちっ、どいつもこいつも勝手なことばかりしやがって!」
守は唇を噛み締め、悔しそうにその場を去って行った。
*
「赤穂さん、途中まで一緒に帰らない?」
夕貴が教科書を鞄に入れていると由香が守を引っ張って誘ってきた。
「うん、じゃあ、一緒に帰ろう」
「お、おい、品田、お前達だけで帰ればいいだろう。俺は一人で帰る」
「またまた~、一ノ瀬君、カッコつけないの」
守はどうにかしてその場を逃げようとしたが、由香の右腕がガッシリと自分の左腕に組まれている。
「さっ、行きましょう。赤穂さん」
「え、ええ……」
さすがに夕貴も由香の強引さにはタジタジであった。
守は学校から最寄りの駅まで来ると由香に聞こえないように夕貴に耳打ちをした。
(おい、夕貴。品田をどうにかしろ。俺は隙を見て逃げ出すからな)
(え、ちょっと、そんなこといきなり言われても……)
守はせわしい由香から脱け出すつもりなのである。
(自分の家にでも誘うとかすればいいじゃないか)
(え~っ、そんな~)
「あれ、どうしたの? 二人とも」
由香が二人の行動をいぶしげに見つめている。
「あ、由香ちゃん。今から私の家に遊びに来ない?」
「え、いいけど、いきなりお邪魔してもいいの?」
「あ、うん。平気だよ」
「じゃあ、一ノ瀬君も一緒に……ってあれ!」
由香が周りを見渡すといつの間にか、守は姿を消していた。
「あれ~、一ノ瀬君は?」
「ハハハッ、どこに言っちゃったのかしら……」
笑う夕貴の笑顔は引きつっていてとても不自然であった。
「ん~! 赤穂さん、なんか私に隠してない?」
由香の大きな目がギラリと光る。
「い、いや、なにも……」
夕貴は由香の視線に驚き、一歩、後退りした。
「一ノ瀬君と二人して私をハメたんじゃない?」
「あ、いや、その……」
夕貴の口調は段々、おかしくなっていく。
(もう! おやっさんのせいだ!)
*
由香は頬を膨らませて駅の自動改札口に定期券を入れた。
「もう、一ノ瀬君ったら、いつも私を避けるんだから!」
「ごめんなさい。おやっさんって、人の親切とか苦手なの。信頼っていう言葉とはかけ離れた生活をしていたから……」
そう言うと夕貴は少し寂しそうな顔で定期券を財布にしまった。
「あ、赤穂さんが謝ることないよ。でも、一ノ瀬君も苦労してきたのね。私には何も話してくれないけど」
「おやっさんってそういう人だから……でも、私、安心したよ。おやっさんの周りに由香ちゃんみたいな人がいてくれて、心配してくれる人がいて。これからもおやっさんのこと、よろしくね」
夕貴はそう言うと改まって腰を深く下げた。
「ちょ、ちょっと、赤穂さん! やめてよ。私だって安心したよ。赤穂さんみたいな優しい人が一ノ瀬君の友達だってこと。こんなに一ノ瀬君のこと考えているのだもの。彼は幸せ者だよ」
「フフッ、そうだね。まっ、あんなの、ほっといて私の家にでも案内しましょう!」
「ハハハッ、ひどーい、赤穂さん」
二人は笑いながら駅を出た。
駅を出るとそこは高層マンションの並んだ高級住宅地があった。
「うわぁ~、スゴイな……赤穂さんの家ってどれ?」
「あれだよ」
夕貴が指差した方向には十五階建ての高級マンションがあった。
「うへぇ~、おっ金持ち!」
由香は口を開けて、上を見上げたまま、マンションの中へと入っていった。
由香はマンションに入ると更に驚いた。
大理石で作られた広々とした静かなロビー、ふかふかのソファーに観葉植物がいくつか置かれていた。
「な、なんじゃこりゃ~」
由香は思わず、ため息をもらした。
「じゃあ、行こう」
「あ、うん」
由香と夕貴はエレベーターに乗った。
「でも、こんなお家に住んでるんだから、赤穂さんってもしかして社長令嬢?」
「ん~、ちょっと、違うけどお父さんが貿易会社を経営しているの」
「ぼ、貿易会社! やだ、私、なにか持ってくればよかった」
「そんな、由香ちゃん、気にしなくていいよ。それに家には私一人だけだから」
「え、そうなの? へぇ~、でもこんなマンションで一人住んでるなんてスゴイな」
由香は興奮しているせいか夕貴の顔に目が釘付けになっている。
「ちょっと、由香ちゃん、そんなに見つめないでよ。恥ずかしいよ」
「あ、ごめん~」
由香は照れくさそうに舌を出した。
エレベーターから降りて廊下に来ると辺りを一望できる階だということに気がついた。
「うわぁ~、全部見れちゃうな」
「うん、夜景はすごくキレイだよ。今度は夜に遊びにおいでよ」
「えっ、ホント! 絶対、行く!」
夕貴は自分の家の前に立つと鞄から鍵を取り出し、ドアの鍵を開けた。
「さあ、どうぞ」
「おじゃましま~す!」
由香はワクワクしながらリビングに入っていった。
すると、いきなり何かが目を覆った。
「だ~れだ?」
「きゃあ!」
玄関で由香の為にスリッパを出していた夕貴が悲鳴に気づく。
「由香ちゃん!」
スリッパを放り出してリビングに駆けつけると、そこには顔見知りの男が由香の両目を両手で塞いでいる。
「あれ、夕貴? あらっ、じゃあ、この娘は……」
「えい!」
由香は男の手の力が緩むと、男の右手を掴み、勢いよく床に向けて一本背負いをお見舞いした。
「うおっ!」
男は無様にリビングに大の字に倒れる。
「あれ、君はたしか隣のクラスに転校してきた……」
男は顔をしかめて肩を揉みながらゆっくりと身を起こした。
「いつつ……相場 史樹だよ」
「あ、そうだ。でも、なんで君が?」
「あ、いや、その……」
相場 史樹は助けを求めるように夕貴の顔を見つめる。
それを追うように由香も夕貴の方を見る。
「あの、由香ちゃん。だからこれは……」
夕貴は慌てて弁解しようとしたせいか、言葉に詰まってしまった。
「あ~!」
由香はなにかを悟ったらしく目を大きく見開いた。
「あなた達! その歳で同棲しているのね! なんて不謹慎な!」
夕貴は由香の一人合点な思い込みに腰をぬかしそうになった。
「ち、違うよ、由香ちゃん。こいつも、史樹もおやっさんと同じでただの幼なじみだよ」
「そ、そうだぜ。由香ちゃんとやら」
慌てて史樹も付け加える。
「え、そうなの? でも、なんでただの幼なじみが合鍵なんか持ってるの?」
由香の言うとおりである。家の合鍵を持つ者と言えば、家族と恋人ぐらいものであろう。
「ハハハッ、いや、実は私、今、バスケットに凝っているの。それでバスケットがうまい史樹に放課後、近所のコートでコーチしてもらうように頼んでいたのよ。それで合鍵を渡したんだよ」
夕貴はとっさに思いついた話をあたかも本当の話のようにペラペラと話した。
とっさにおもいついたわりにはよくできていると心の中で自分を感心した。
「ホント~?」
由香の大きな目がギラリと光る。
(ある意味、由香ちゃんって怖いな~)
「まあいいや、でも、相場君も『だ~れだ?』なんて古いよね」
「ハハハッ、まあ80年代を演出したってわけよ」
「嫌だな~、史樹も悪趣味だよ」
未だに目をギラギラと光らせる由香だが、夕貴と史樹はなんとかその場をごまかせた。
「まあ、由香ちゃんその辺で座ってて、お茶でも持ってくるから」
「そうだぜ、由香ちゃんとやら。まあ、座ろうぜ」
史樹と由香はテーブルに向かい合って座った。
「ふ~、しかし、ビックリしたぜ。まあ、俺も悪かったけどさ……ん? どうかしたのか?」
由香は黙りこくって史樹の顔を見つめている。どこか警戒している感じだ。
「君、赤穂さんを泣かしたりしないでね」
由香は突き刺すように言った。
(な、なんだ、こいつは。勘違いしていやがる)
その場の雰囲気に耐え切れなくなった史樹はキッチンで紅茶をカップに注ぐ夕貴の所へ逃げ込んだ。
「おい、こりゃ、どういうことだ? 今日は二人でマザーの追手の対策を考えるんじゃなかったのかよ?」
「そのつもりだったけど、おやっさんが由香ちゃんを私に押しつけたのよ」
「マジかよ。しかし、あの娘、なんか俺達のこと、勘違いしてやがるぜ」
二人は大きなため息をついた。
小さな公園で子供達がゲームの端末機を持って遊んでいる。
「風見君、僕のモンスター、レベル高いよ。どれか交換しない?」
「うん、いいよ。え~っと、じゃあ、僕はこれをあげるから、こっちのモンスターちょうだい」
「OK、商談成立!」
ゲームの端末機にコードをさして、液晶画面を確認しあう。
どこの公園でも見られる最近の子供達の遊ぶ姿だ。
だが、それを見て滑稽に見えたのか、一ノ瀬 守はクスクスと笑っている。
それに気がついた子供達は守を不気味そうな目で見ていた。
「なにあれ~」
「もしかして、最近ここら辺で噂の変態じゃない?」
噂というものは女子高生が豊富だと思われているが一番、噂が飛び交うのは小学生だといえる。
それは物事を一つの点でしか捉えられないからだ。
つまり、なんでも信じてしまう純粋な心の持ち主だからこその特徴である。
「風見君、どうする?」
「うん、気味悪いから帰ろう」
子供達は逃げるように公園を去って行った。
「変態と間違われたか」
守は鼻で笑うとベンチに座った。
「いきなり、現れるとはお前らしくもないな」
さっき、公園を出たはずの少年達の一人が守の隣に座った。
「風見君、モンスターの交換はいいのかい?」
守が嫌みったらしく言う。
「茶化すな。私も好きで小学生生活をしているのではない」
その少年はさっきまで友達とじゃれあっていた表情とは違い、非常に落ち着いた涼しげな顔で、口調も大人が話すような喋り方になっていた。
「それで用件は?」
「ああ、おまえじゃないのか? 史樹や夕貴に俺の居場所を教えたのは」
「知らんぞ。なんだ、あいつら、お前の学校に来たのか?」
「そうだ。じゃあ、あいつらの独断でやったことなのか……」
「私を疑っていたのか? 私は仮にも保護システムだぞ。それもPXシリーズのな。まあ、一部の保護シテスムを除けばな」
二人は声を合わせて笑った。
「で、マザーの動きはどうだ?」
「今のところ、目立った動きはないが……なにか匂うな。多分、もうお前の居場所はバレているはずだ。用心しとけよ」
「追手か。まあ、やるだけのことはやってみるさ」
そう言うと守はベンチから立ち上がり、少年に別れを告げ、公園を跡にした。
「死ぬつもりか……守」
風見 哲二、彼こそが冬の蝉の保護システムである。一見、ただの小学生であるが馬斬隊にいたところの冬の蝉をバックアップしていたのだ。計り知れない力を持っている。
マザーから身を隠すために小学生を演じているのだ。
組織から逃げ出した後も守と共に20以上の保護システム達を人間社会に逃がしたのである。
その中に赤穂 夕貴、相場 史樹らも含まれている。また、彼らも人間社会に潜んでいたのだ。
あれからもう一年にもなる。
依然、マザーからの束縛が解けた感じがしない。むしろ強く感じる。
「私達の戦いはこれからだな」
「赤穂さん、おはよう!」
「ああ、由香ちゃん。おはよう。昨日はありがとね」
「うん。今度は私の家にも遊びにおいでよ」
二人が満員電車の中でしばらく話をしていると途中の駅で、相場 史樹が同じ車両の中に乗ってきた。
「よう、お二人さん!」
「あっ、相場君。おはよう」
「史樹、あんた、制服のカラー曲がってるよ」
史樹の制服のカラーを夕貴が直していると例のごとく由香の目がギラリと光った。
「夫婦みたいね。あなた達……」
「おいおい、由香ちゃんとやら、また勘違いしないでくれよ」
「そ、そうだよ。由香ちゃん」
品田 由香に自分達が保護システムという訳の分からない人間などと告白するわけにもいかない。しばらくは由香に疑われそうだと、二人は覚悟した。
「う~む、怪しいなぁ」
由香が目をギラつかせていると、また、途中の駅で守が乗車してきた。
「お・は・よ・う、一ノ瀬君!」
由香はわざとらしく、嫌味をこめて言った。
「あ、ああ。昨日はすまなかったな。急に用事ができてな」
守は由香と一歩、距離を置いている。彼女の不機嫌そうな顔に気づいたからである。
だが、彼女はそんなことでは怯まない。由香は守の顔をしっかり、見てやろうと体の向きを変えた。
必然的に彼女の体が守の体に当たる。
当然、満員電車なので揺れもかなりある。二人は密着している。守は由香の胸が自分の腕に当たっているのに気がつき、顔を赤らめた。
「おい、品田。もう少し、離れられないのか?」
「できませんね」
照れている守を見て、これはおもしろいと思い、由香はじっと彼を見つめて、更に自分の体を押し当てた。
それに対して守の反応は更に顔を赤らめる。
「お、お前、わざとだろ?」
「な~にが?」
由香はツーンと澄ましていて気づいていないふりをした。
「ちっ!」
守は顔を赤らめたまま、そっぽを向いた。
それを見た由香は少し可愛そうに思い、守に耳打ちをした。
(昨日、一ノ瀬君が私から逃げた罰だよ。これでチャラね)
「な、なんだと!」
「おい、守。なに女相手にムキになってんだ?」
史樹がニヤニヤ笑いながら守の顔を見つめている。
「ちっ!」
「こりゃ、おやっさんも由香ちゃんには敵わないね」
夕貴がそういうと由香はクスクス笑い始めた。
「なにが可笑しい?」
「いや、なにも」
そう言いながらも由香は笑いが止まらなかった。
*
昼休みのチャイムが鳴ると由香は早々と弁当を取り出した。
「あぁ~、お腹空いたね。早く食べよう」
「あ、由香ちゃん。そのお弁当箱かわいいね」
「ハハハッ、そう? でもこれ、百円だよ」
「え、ウソ? 安いな」
二人は楽しそうに弁当を開いていたが守は弁当を取り出そうともしていない。
「あれ、どうしたの? 一ノ瀬君、食べないの?」
「俺はいい。お前らだけで食べていろ……」
そう言って守は席を立とうとした。しかし、由香の手でがっしりとブロックされていた。
「ダメだよ! ちゃんと食べなきゃ! そんなんだから血の気ない顔してるんだよ。ほら、早く、お弁当出して!」
守は苛立っていた。
その理由は昨日、保護システムである風見から聞いたマザーの不審な動きである。
もしや、既に追手の牙が俺に近づいているのではと警戒していたのだ。
こんな危険な状況でのんびりと弁当などを食っている場合ではない。
むしろ、由香やこの学校の周りの人間に牙が向く危険性もある。
そんなことがあってはならない。犠牲は自分だけでいい。決してこの学校の人間に被害を及ぼしてはいけない。その焦りが彼を苛立てるのだ。
「まあ、おやっさん。座って」
守は観念して大人しく席に座り、弁当を取り出した。すると、夕貴が耳打ちしてきた。
(おやっさん。苛立っても仕方ないでしょう。ここは様子を見ましょう。変に動いたらそれこそ由香ちゃんに気づかれますよ。彼女、思ったより鋭いですよ。もしかしたら、イレギュラーの気があるかもしれませんよ)
(なんだと?)
(彼女、常人以上の勘ですよ。ヘタすりゃ、マザーがスカウトに来るかもしれません)
(つまり、品田はイレギュラーということか?)
(あくまでも推測ですから……)
マザーが派遣する部隊は主に、マザー研究所からであるが、この研究所では独自のルートで人間の精子や卵子もしくは受精卵でサンプルを作る。言わば、試験管ベビーである。
マザーシステムの発動は誰にでもできることではない。
ある程度の素質がなければいけないのだ。
この素質を持って生まれてくる子供は滅多にいない。100万人に一人の割合かもしれない。
そして素質を持っていたとしてもマザーシステムを発動するに至っては過酷な訓練が必要でそれを乗り越えて初めてシステムを確立できるのである。
だが、中にはそれを簡単に使いこなす者もいる。
それらの者を研究所ではマザー直系と称している。つまり、マザーに選ばれた者として、マザーから直接、血を与えてわけてもらっているということなのだ。
これらを微率ではあるが研究所では独自に培養することができる。
それらの実験を試験管ベビーで行っていた。
その実験で失敗したのがFXシリーズと言われており、失敗作という意味が込められたこの名前を背にしょって生きなければいけないのだ。
人工マザーシステムを持った者以外でまれにマザーシステムを持っていたり、その素質を持っていたりする者がいる。
マザーシステムを研究所以外で確立することなど不可能というのがマザーの定説だが、例外もある。
そんなことからマザーではこういった人間達をイレギュラーと呼んでいる。
イレギュラーでも、マザーは、ほっときはしない。スカウトというかたちで研究所へと連行する。イレギュラー達、本人の選択肢は二つしかない。それは組織を受け入れて生きるか、拒んで死ぬかだ。
こうして、半強制的にイレギュラーからマザーの人間へと変貌していくのだ。
それこそ、守が恐れていたことである。
自分が学校の人間との接触を極力避けてきたのはマザーと関わらせないためでもあったのだ。
ましてや、由香みたいな自分とはかけ離れた生活をしてきた人間をマザーの汚された手で潰されたくない。そう決心していた。
守は自分でも気がつかないうちに思っていた。
このまま、静かに人間として生きて、老いて、死んでいく。
言葉だけではどうってことないのように聞こえるが考えてみると素晴らしいことだと認識できた。
人間社会で暮らしてみて初めて感じることができた。
そんなことを普通の人間は考えたこともないだろうと妬んだりすることもある。
だが、彼にはマザーとの熾烈な戦いが待ちうけている。決して逃げられはしない。
マザーは寄生虫のように世界に群がっているのだ。
彼には胸の奥から押し寄せてくる恐怖をも、打ち消すものがある。
それは生である。これこそが彼の全て、唯一、人間であるということを証明できるものであった。
様々な思いを胸に一ノ瀬 守の戦いは始まる。
赤穂 夕貴と相場 史樹が一ノ瀬 守の在学している、三枝高校に転校してきて三週間が経った。
夕貴も史樹もこの学校の雰囲気に、徐々に慣れてきた。
だが、彼ら同様に守もこの温もりに休んでいる気はない。彼らの本来の目的はマザーの撃退だ。
しかし、風見 哲二が言ったマザーの奇妙な動きは感じられない。
本当に俺達の居場所に気づいていないのだろうか。何か、気になる。
喉に魚の骨が引っ掛かっているような気持ち悪さが残る。
守は常に気を許さず、五感をフルに活動させ、警戒していた。
「ねえ、赤穂さん、来週だよね、バレンタイン。誰かにあげる予定はあるの?」
昼休みに由香が少しワクワクしながら夕貴に尋ねた。
「え、私は誰にもあげないと思うよ。まあ、料理とか好きだから義理チョコぐらい作ってもいいかな」
「またまた~、赤穂さんってば隠さなくてもいいのに。あ・い・ば・君でしょ?」
由香がわざとらしく夕貴の胸を指で突っつく。
「やだな~、由香ちゃん。まだ、言ってるの」
「だって、随分、ご熱心なバスケのコーチだもの。ここんところ、毎日、相場君が家に寄っているじゃない」
「ハハハッ、まいったな……。でも、由香ちゃんの方はどうなの?」
夕貴が切り返すと由香は顔を赤らめた。
「あ、いや、私は……ひ、秘密よ」
「あ、ずる~い!」
二人がじゃれ合っていると、昼の掃除を済ませてきた守が教室に戻ってきた。
「あ、一ノ瀬君。おつかれ~」
「ああ」
守は自分の机に座ると財布を取り出し、金を数え始めた。
「どうしたんですか? おやっさん」
「いや、昼メシを買いにな……」
「お弁当忘れたの?」
「いや、今日は作り忘れた」
由香は守の答えを聞いて目を丸くした。
「え、一ノ瀬君。毎朝、自分でお弁当作ってくるの?」
「ああ、それがどうかしたのか?」
「以外だな~。一ノ瀬君がお料理上手とは」
「別に上手というわけではない。生きるために作っているだけだろう」
「ううう……重い一言だ」
由香は守の率直さに感服した。
「あ、そう言えば、おやっさん。来週はバレンタインですよ」
「ほう」
「ほうって……気にならないんですか? うら若き乙女が一年にたった一度だけ、男の子に告白してもいいという、女にとっては大切な一日なんですよ」
熱弁する夕貴の思いとは裏腹に守はまったく興味などないといった感じで言った。
「そんなことよりも生きることを優先する。じゃあ、俺は下の食堂に行ってくる」
由香と夕貴は守の答えに肩を落とした。
「あの人には夢がない……」
*
校舎の一階にある事務室の隣に食堂はある。
食堂といっても、そこには炭水化物を中心とした、ただ、空腹を満たすだけのメニューが並んでいる。
家庭の食卓の暖かさとは程遠い。
だが、守にはそんなことは二の次であり、腹に食べ物を入れるのが優先である。
また、彼と同じく腹を空かせた高校生にはどうでもいいことで、それを証明するかのように食堂はいつも賑わっている。
ぶっきらぼうな感じの彼だが食事にはかなり気をつかっている。
常に万全のコンディションでなければ少なくともマザーとの戦いには勝てない。
(今日は焼きそばパンにでもするか。それと、野菜スープぐらいだな)
トレーを持ち、パンのあるコーナーに行く。
パンのコーナーは基本的にいつも混んでいる。
気がつくと守が狙っていた焼きそばパンがあとわずか一つとなっていた。
常人ならば焦って人ごみの中に入っていくだろうが、彼は決して焦らない。
マザーで鍛えられた瞬発力で一瞬にして自分の物にできるのだ。彼はさっそく行動に移した。
「むっ!」
取ったと思った瞬間、焼きそばパンを自分以外の手が掴んでいた。
「ほう。おたく、手が早いじゃないか」
そう言った男は金髪で肌が極端に白く、口と耳にピアス、首には銀のネックレスが、そして腰からは鎖が垂れ下がっていた。
(不良という奴か? だが、なんという速さだ)
守は驚いた。いくら、ケンカ慣れした不良といえども幾多の戦場や修羅場をこなしてきた自分の速さに追いついてこられる者などいないと思っていたからである。
守は相手の様子を探っている。無論、焼きそばパンは掴んだままだ。
相手も少し驚いた様子で焼きそばパンを掴んだまま、守の方を見ている。
緊迫した雰囲気がその場に伝わる。
それを周りにいた生徒達が気づき、人だかりができた。
「こりゃ、一勝負するか? 勝った方がこのパンの獲得権を得られる。どうだ?」
「いいだろう。で、どんな勝負だ?」
守は素直に勝負に応じた。彼にしては珍しいことだった。
「簡単だよ。この五百円玉を今から上に投げる。先に取ったほうが勝ちだよ」
「わかった」
「じゃあ、いくぜ!」
そう言うと金髪は天井に向けてコインを投げた。コインが宙に舞う。
クルクルと回転しながら落ちてこようとしたその時だった。
金髪が物凄いスピードで拳を突き出してきたのだ。
それに気がついた守はひらりと避ける。不良など、やはりこんなものかとあきれていると、相手は再度、攻撃を繰り出してきた。
間髪を入れずにパンチを打ち込んでくる。
鍛えぬかれた守には避ける事ができたが、金髪の速さが人間離れしていて反撃できない。
「フッ、もらったぜ。この焼きそばパン」
そう言った彼の手の中には既にコインがあった。
「汚いぞ! 殴りかかってくるなんて!」
守にそう言われながらも彼は焼きそばパンのビニール包装を破き、美味そうに食べ始めた。
「んなこと言われてもよ。俺はコインを先に取った方が勝ちだって言っただけで、その他のルールは決めてないぜ。それを決めないお前も悪いんじゃねぇのか?」
「くっ!」
なんて低次元な奴だと守は歯がゆい気持ちで金髪を睨みつけた。
「そんな怖いツラすんなよ。まあこれは勝負なんだからさ。じゃあな」
そう言うと彼はパンを頬張りながら去って行った。
「おい、待てよ……」
怒りが冷めない守は金髪を追いかけようとしたがその場に居合わせた男子生徒に止められた。
「やめとけよ! あいつ、停学明けだぜ」
「停学明け? 誰なんだ。あいつは?」
「知らないのか。三年一組の有里 慶吾だよ。三週間前にこの学校の近所のヤクザに因縁つけてケンカ騒ぎを起こしてよ。んで停学さ。でも、あいつ、ヤクザにドスで刺されて重体だって聞いたけどな。まあ、それだけ不良は不死身つーことかな……」
そう言って苦笑いすると教えてくれた生徒は去って行った。
「有里 慶吾……何者だ?」