あたしと彼の間の距離は遠のくことこそあれ、縮まることはない。もっとも、縮めるために自分の時間を割いて何かしているかと問われれば「してない」というか「できてない」、もっと言えば「怖くてできない」としか返すことができない。これ以上彼から遠くに行きたくない。しかし本当は、空気を入れられ続けている風船を手に持っているみたいに、指先でつんと突いたら爆発しそうなほど膨らんだ恋心を、今更(いじく)り回すのが怖いのだった。

 高校入学後に初めて出会って、一年生は同じクラスで過ごした。一緒の教室で授業を受け、学校祭では同じ合唱係になり、出会って数ヶ月足らずで急に団結力を要求されたクラスメイトたちを練習に打ち込ませることに心をくだいた。うちの高校は遠くからやってくる越境入学組も多いから、初めの頃はつなぎの甘いハンバーグみたいにぐちゃぐちゃとしていたけど、彼がわりとクラスでも目立つ存在だったこともあって、徐々にそれらはまとまっていった。
 学校祭の順位では何かと忖度(そんたく)されがちな三年生を出し抜いて、あたしたちのクラスは合唱部門で総合三位を取った。なんの贔屓(ひいき)もなく聴いてみても確かにアレよりうちらの方が良かったわ……というクラスメイトのひそひそ話を耳にしつつ、あたしは彼と一緒に壇上で賞状を(うやうや)しく受け取った。

 おれだけでも、笠島(かさじま)だけでもない、おれら二人の成果だろ。
 ありがとね、とあたしが彼に礼を言ったとき、彼はぽかんとした表情を一瞬だけ見せたあと、満面の笑みでそう言ってのけた。あたしたち二人の成果。それがこの賞状用紙ペラ一枚だけなんて認めたくない。あらためて考えてみると、そこが始まりだったのだと思う。

 二年生になると再度クラス替えが行われて、あたしと彼は別のクラスになってしまった。三年生に上がるときはクラス替えがないから、実質あたしは彼とクラスメイトになる可能性を永遠に失ったことになる。中学生のとき、一時の気の迷いで上級生のしょうもない男に純潔を捧げてしまったのと同じくらい悲しかった。もう戻ってこない日々、床にこぼしたミルク、有効期限の切れたクーポン、手折ってしまった花。新しいクラスを知らせる貼り紙の前で地べたに寝転び、駄々をこねたくなる。

(れい)ちゃん、今度は同じクラスだね。よろしくね」

 指の関節が白くなるほどに拳を握っていたら、後ろからそんなふうに、春風にはためく白いシーツみたいな清々しい声が聞こえてきた。伊藤葵(いとうあおい)だった。
 葵はあたしの幼馴染だ。控えめなメイクと飾らないセミロング、たれ目と控えめな唇が可愛い女の子。傷んだ髪に細目で薄っぺらな顔をしているあたしとは対照的な存在でもある。葵が洗いたての白いシーツなら、あたしは地面に落ちて砂粒が新たな絵柄を描いている、首元がヨレたTシャツに等しい。

「え……」
「ほら、ここ」

 あたしは自分と彼の名前しかチェックしていなくて、女子の一番上に葵の名前があることに気づいていなかった。葵の指が自分の名前を指し示す。その存在と同時に、葵の指の爪は雫のかたちをしていることに気づいた。

「本当だね」
「よかった。これからは怜ちゃんと一緒にお弁当食べよっと」
「一年生の時はどうしてたの」
「ひとりで食べてた。うちのクラスはそういう子多かったから、別になんとも思わなかったけどね」

 へへ、と葵は照れ隠しのように笑ってみせた。反射的に手を頭にのせて、わしわしとやりたくなるような愛くるしさがあった。やりようによっては相当な大物になる気がするけど、おそらくそれは概ね非合法な方向に口を開けている種類のものだ。もっとも、あたしと違って葵は真面目だから、きっとそんなことに足を突っ込むことはない。

「今日から、またよろしくね」

 幼馴染の名前を見落としていた事実を覆い隠すように、あたしは敢えて明るめに言うと、自分に割り当てられた下駄箱の新しい場所を探し始めた。