……ふ、と静かに寄りかかってくる重みをアディは右肩に感じた。
見ると、フィリカが頭を凭れかけさせた状態で、眠ってしまっている。疲労と発熱の負荷が限界にまで達したらしい。
どうしたものかと少しの間だけ考え、横にならせる選択肢ではなく、彼女がそのままの姿勢で倒れたりしないように支えることを選んだ。しばらくは起こさずにいたかったから、なるべく動かしたくなかった……いや、それは口実だと自覚している。
今の彼女が、一旦眠ったら多少動かしたところで目を覚ましはしないのは、この数日ですでに分かっていた。おそらくは、怪我で体調が狂っているせいだろう。
分かっていながら、しばらくはこのままでいたいという誘惑を、反射的に感じてしまった。
理屈に合わないと、頭の一部分では冷静に考えているのだが、残りの大部分はその誘惑に占められていて、理性では対抗しきれなくなっていた。
肩に乗せられた頭がずり落ちないように、注意深く少しだけ身体を斜めにして、左手で彼女の肩を押さえ、遠慮を感じながらも右腕を胴に回した。
……やっぱり細いな、と何度も思ったことをまたあらためて思う。最低限の筋肉は付いているのだろうが、おそらく元々の骨格が華奢なのだ。
そうやって、半ば抱きしめるような格好になって──ほぼ直後に、離さなければいけないという気分にさせられる。実際には腕を解かずにいたが、最初からやはりそうすべきではなかったとは思った。
フィリカが、おそらくは眠る直前に考えていたことが緩やかな波のように、しかし止めようもなく伝わってくる。穏やかな寝顔を見て、どんな夢を見ているのだろうかなどと考えてしまったせいだ。
……無意識であっても、触れた状態で彼女について気になることを明確に思い浮かべると、絶対といっていいほど、それに関する記憶が視えてくる。
これまで、他の誰に対しても、意識してそうしたとしても必ず視えるというわけではなかった。だが彼女の記憶だけは確実に、しかも知りたいと思った以上のことまでもが伝わってくるのだった。
意図してそうできると分かってしまっては、もはやできるだけ触れずにいるべきである。これ以上、彼女の事情に土足で踏み込むような真似をしたくはない。それは確かに本心だった。
しかし同時に、そんなことは関係なく、腕の中の温もりを手放したくないと願っている自分がいる。
──そしてフィリカも、似たようなことを思っていたのだと、知ってしまった。
彼女が、自分を信用してくれるようになったこと自体は、有難いと思う。だがこういう方向への変化は、本能的に危険なものを感じる──フィリカだけでなく、アディ自身にとっても。
余計なことをそれ以上視ないように、意識を他に逸らさずにいるために支えることに集中するのが、今は精一杯だった。それでもつい、フィリカの顔を視界の隅に入れないではおけない。
そうしていて、彼女の目の縁に髪が貼り付いているのを見つけ、払ってやろうと手を動かしかけた。途端に、頭ががくりとアディの肩から落ちかける。
慌てて支え直した拍子に、胴に回していた右腕が上の方へとずれる。腕に感じられた感触が、普段は奥深くに眠らせているものを唐突に目覚めさせた。
──手も足も他の何もかも、動かすことができなくなった。心臓の鼓動が異様なほど全身に響く。
恐ろしく長く感じた時間の後、ようやく硬直状態から抜け出し、あくまでも慎重に、毛布を巻き付けてやりながらフィリカの身体を横たえる。……彼女が目を覚ます様子はなかった。
極力音を立てず、ゆっくりと後ずさって彼女との距離を空ける。小屋の壁に背中が当たった時、詰めていた息を思いきり吐き出し、次いで吸い込んだ。勢いよく吸い込みすぎたせいでむせてしまい、激しく咳が出そうになるのを、必死で堪えた。
先程、頭に浮かんだことが信じられなかった。
……彼女の胸の、男にはあり得ない柔らかさ。
わずかな感触に過ぎなかったにもかかわらず、その瞬間、腕の中の女が欲しいと──抱きたい、と強く思った。そして同時に、そんなことを考えた自分自身にひどく動揺させられた。
当然ながら、フィリカが女であることを忘れていたわけではない。本人が殊更に女扱いされるのを嫌っているので、そう受け取られそうな言動は避けようと考えているのは確かだ。だが、さらに彼女が望むように、完全に男として扱うのはやはり無理がある。
普通の女のような色気といったものは感じられなくとも、彼女の性質は極めて女性らしいと思うからだ。その強情なほどの意思の強さも、内側に秘めている繊細さも。
そう認識していたはずなのに、何故今さら、不可抗力で胸に触れた程度でこんなにも狼狽するのか。フィリカに──本人は気づいていないだろうとはいえ──申し訳ないと思うのではなく、彼女が欲しくて仕方がない気分になるなど。
……まずいな、と思った。この数日の中で、最も真剣に、心の底から。
先程の衝動が、単なる本能的な欲望なのか、それとも別の感情なのかの判断はできなかった。だがどちらにしても、危険な衝動であることに変わりはない。従えば、確実に彼女を傷つける。
額の冷汗を拭いながら、本気でフィリカとの距離を、余分に置く必要があると考える。
──そうしなければ危険だと、自分を戒めざるを得ない心境になっていた。
……何かが動く気配を感じて、目を開ける。
いつの間にかうつらうつらしていたことに、その時気づいた。案外長い時間だったらしく、まだ充分に燃え盛っていたはずの炎はほとんどが消えて、今は熾火の状態になっている。散らばった赤い光が、小屋の内部をぼんやりと照らし出していた。
その薄明かりの中、アディが座っている位置からの延長線上の壁際に、フィリカの後ろ姿が見えた。起き上がり、くるまっていた毛布を肩から落としている。
声をかけようかと考えたが、この状況だと不必要に驚かせてしまいそうな気がした。加えて、先程のことが思い出され、ためらいがより強くなる。
そうやって躊躇している間に、フィリカはゆっくりした動作で上着を脱いでいる。何をするつもりなのかと見つめている前で、彼女は──その下の、袖の破れた衣服までも脱ぎ始めた。
危うく声を上げそうになったが、どうにか直前で抑えられた。彼女は、アディが目覚めていることに気づいていないのだ。でなければそんな行動を取るはずがない。
幸いにというか脱いだのは上だけで、しかも袖から腕を抜くのと同時に毛布を肩に掛け直していた。
慎重に動かしている腕、左手には布らしきものを持っているところからして、身体の雨と汗を少しでも拭っておきたかったのだろうと推測する。
兵士とはいえ、今の情勢ではまだ彼女に実戦経験はないだろう。何日も続けて野営をする必要にも、直面したことはないかも知れない。
そうでなくとも、彼女はやはり若い女性なのだとも思った。途端にまた、あらぬことを考えそうになる自分を抑えるため、目を閉じかける。
その瞬間、何の拍子でか、フィリカの肩から毛布が滑り落ちた。
即座にまた掛け直していたし、本当に短い間ではあったが、それでも、彼女の肩から背中にかけてのむき出しの肌を、目にしてしまった。胸の高さには布を巻いていたので、正確にはそれに隠されていない部分ということだが……細かいことは今は関係なかった。
見たものが、目に焼き付いている──意外なほど白く見えた肩や背中そのものよりも、そこに刻まれていた傷痕が。
右肩の引き攣れた痕と、背中に複数ある長い痕。
どちらの傷についても、すでに彼女の記憶の中で視ていたから、存在も理由も知っていた。肩の傷は彼女の父親が弾みで斬ってしまったもので、是非はともかく、まだ理解はできる。
しかし背中の方は……フィリカの腕を傷つけたのと同じ連中が関わっていた。そして経緯も、同じほどに理不尽なものだったのだ。
知っていたとはいえ、実際に見た時の衝撃は予想以上に大きかった。あらためて、強い怒りが湧いてくる。
他人に代わって鞭打たれた上に、逆恨みで縫うほどの傷を負わされることなど、あっていいものか。
フィリカ本人が、ある意味それを仕方なかったと考えているとしても──たとえ、傷痕をさほど気にしていないのだとしても、原因となった連中を許し難いとアディが感じることには変わりない。
……彼女は、そんな奴らのいる所へ戻ろうとしているのだ。思い至って寒気がしてきた。
また同じような事態が起こる可能性を考えてはいないのか──否、彼女も分かっているはずだ。
だがやはり、戻らずにいるという選択肢はないのだろう。考えることさえ拒否しているほどなのだから──自分の存在を否定するのと同義であると彼女が思っている以上、自分からは何があろうと、絶対に逃げることを選ばないだろう。
……それを、ただ見ているしかないのか。
強く襲い来る無力感と焦燥感に、アディは歯噛みした。
雨は幸い、夜中のうちに止んでいたらしい。
フィリカの熱も朝方には一応下がっていたが、すぐにまた出発しようとしたらアディに制止された。昨日のように声を荒らげたわけではないが、彼の様子は怒っているように見えた。
だから「すみません」と謝ったら、アディは何故か逆に戸惑った表情で「……ああ、いや」と口ごもった。彼が怒るのは当然だと思ったからそう言ったのだが、何か違うふうに受け取られたのだろうか。
逃げてきてから今日で三日が経つ。
朝になっても見張りから戻らなかった時点で、すでに問題にはなっているだろう。組んでいた新入り兵士がどう説明したかは分からないが、少なくともウォルグとの関わりを正直に打ち明けているとは思えない。
たとえ打ち明けたとしても、どれだけ上が取り上げるかは疑わしいのだが──というより、ウォルグ自身が関わりを否定してしまえば、十中八九それが通ってしまうだろうと思う。そうでなくとも、兵士同士の私的ないざこざより、任務を放り出した規律違反の方が問題とされるのは自明の理だった。
戻ったら事情は隠さずに話すつもりだが、それが聞き入れられず重い処罰が課せられる可能性も充分にある。事情はどうあれ任務放棄したことは間違いないから、その点自体は言い訳する気はない。極端な処罰でない限りは甘んじて受けるつもりでいる。
ともかく、可能な限り一日でも一刻でも早く戻らなければいけない。それが今の第一命題のはずだ。
……しかし、絶対であるはずのその思いが、今はいくぶん揺らいでいるのも確かである。体調が万全ではないという自覚も多少は影響しているが、原因の大半はアディの態度だった。
今朝、出発を止めた後、彼は二日前と同じ話を持ち出した。つまり、自分の知り合いのところに身を寄せる気はないかと。
何故またその話をするのだろうと思いながら再び断ったが、さらに不可解なことに、アディは二日前ほどにはあっさり話を終わらせなかった。抑えた口調ではあったが繰り返し、こちらに翻意を促してきたのだ。彼がそれほど言ってくる理由が、いまひとつ見当がつかなかった。
逃げてきた事情については未だ一度も話していない。自分から話したいとは思わないものの、今でも聞かれれば説明する心積もりはある。
だが、彼は何一つ尋ねはしない。余程のことだったのだと察して遠慮しているからなのか、あるいは詳しい話などどうでもいいのか……どちらとも判断はつかないが、妙なことには違いなかった。
これが昔馴染みのレシーだったなら、遠慮はしたかも知れないが、もっと聞き出す努力をすることだろう。──本当に、まるで気にはならないのだろうか。
何も聞かれないのを居心地悪く、もっと言えば不満に思うなど初めてだ。詮索されるのは嫌いで、普段はそうされないことこそを願っているのに。
四度目か五度目の断りを口にした時点で、ようやくアディは諦めたらしく、このまま逃げた方がいいという話は打ち切った。その代わり、あと二刻は休んでから出発にしろと言った。怒っていくらか不機嫌そうな雰囲気は変わらないままで。
小屋を出たのは結局、陽がずいぶんと高くなってからである。地面は、土の部分はだいぶ乾いているようだが、草や落ち葉に覆われたところはまだ湿っており、滑りやすいように見えた。
それもあってか、数歩前を行くアディの歩みは、昨日以上にゆっくりとしている。そしてこちらを振り返る間隔も心なしか短い。昨日の前科があるから信用されないのは仕方ないが、彼の、突き刺すかのような強い視線には、向けられるたびに落ち着かない気持ちにさせられる。
そんなふうに感じてしまうのには、別の理由もある。夜中に目が覚めて、しばらく起きていた間のことをまた思い返した。
今までにも野営の経験はあるが、三日以上に及んだことはない。加えて雨に濡れた後で、服が肌に貼り付く感覚がさすがに少しばかり不快だったので、濡らした布で身体を、上半身だけでも拭っておきたいと思った。
その時点で小屋の中はかなり暗かったし、アディは見た限りでは眠っているふうだった。それまでの二日間、いつフィリカが目を覚ましても必ず起きている状態だったから、どう考えても相当に疲れているはずだ。それでも、万一彼が起きた時のことを考えて背中を向け、服を脱いでいる間は毛布を羽織っておくことにした。
……しかし、一度だけ毛布が滑り落ちてしまった時には、見られていたかも知れない。その少し前から、彼が目覚めている気配を感じていたからだ。
そうであれば、もしかしたら背中の傷痕にも気づかれたのではないか──暗かったとは言え完全な闇ではなかったし、職業柄アディは人よりも夜目が利く可能性が高い。
だから、彼があの話を蒸し返したのはそれが理由なのか、とは思う。傷の原因は分からなくとも、何かしら不穏なものを感じたのかも知れなかった。
そうだとしても、原因そのものはやはり聞こうとは思わないのか、何も言ってこないが──見られたこと自体確定ではないのだが、八割方は間違いないと考えている。それ故に、全く尋ねてこないアディの態度が、不可解であると同時に不満に思えた。
それほど、こちらの事情は彼にとってどうでもいいことなのだろうか──純粋な疑問に寂しさと苛立ちとが混ざった、表現する言葉を思いつかない感情とともにフィリカが考えた時。
前を行くアディの足が唐突に止まった。
本当に唐突だったので、すぐには気づけずにぶつかってしまう。こちらよりもさらに頭一つ高い長身のため、顔がまともに彼の背中と衝突した。
謝ろうと見上げたが、アディは振り返らず前を見たままでいる。フィリカがぶつかったことに気づいているのかさえ怪しいように思えた。
一体どうしたのかと、肩越しに彼の見ている方向に目をやる。確認すると同時に、血が一気に足元まで下がるのが分かった。
黒い服はあの夜と同じだが頭巾は付けていなかった。だから顔は隠されておらず、汚れてはいるが、誰なのかは容易に判別できる。
こんな所で遭遇するとは思いもしていなかった。
──ウォルグ・ロンデール・イルゼ。
その男が樹の陰から現れた時、アディはほとんど考えることなく、相手が誰なのかに気づいた。名前は半ば以上忘れているが、顔は覚えている。
フィリカが腕と背中に、痕が残るほどの傷を負う原因を作った奴だ。彼女がすぐ後ろで、男を見た途端に青ざめ、全身を強張らせた様子でさらに確信する。その途端、身体が怒りで熱くなった。
男はフィリカを認めて、にやりと歪んだ笑みを浮かべた。この上なく嫌らしいものを感じさせる笑い方だった。
アディが反射的にフィリカを背に庇う動きを取ると、男は「どけ」と明らかな命令口調で言った。
「その女に用があるんだ。関係ない奴は消えてろ」
「──生憎だが、無関係じゃない」
感情を抑えて口にした言葉に、男は「へえ?」とますます表情を嫌らしく歪めた。何を考えているかの予想がつき、さらに頭に血が上る思いがする。
男が手にしている剣をこちらに向けてきたので、アディも自分の剣を抜いた。フィリカが困惑し不安がっていることを、これから起こることを止めようとするかのように右腕に触れてきた彼女の震える手が、直接に伝えてくる。
振り向かずその手を外しつつ、アディは小声で、
「危ないから離れてろ」
と言った。心底きょとんとした顔で「……え?」と呟く彼女に、早口で説明した。
「俺が何とかするから、あんたは逃げろって言ってるんだ。昨日の小屋の場所は覚えてるか──なら、だいたいでいいからそっちの方向へ、なるべく遠くまで行っててくれ。後で必ず見つけるから」
説明しているうちに、彼女はさらに青くなった。相手の危険性が予測できるだけに、アディに任せて一人で逃げるなどとてもできないと考えている。
フィリカがそう思うのは無理のないことだが、この場にいさせるわけにはいかない。……なるべく早く、この男の視界から彼女の姿を消したかった。
「でも、そんな」
「フィリカ!」
反論しようとする彼女を黙らせるため、昨日とは違い、わざと声を荒らげた。呼ぶなと言われた名前を呼んだのも意図的にだ。思った通り、フィリカは絶句している。その隙を逃さずにさらに続けた。
「分からないか? 今のあんたじゃ足手まといになるんだ。だから行け」
あえて辛辣に言ったのだったが、彼女がその言葉に傷ついたことにはやはり罪悪感を覚えた。だが今は正直に謝ってなどいられない。
後ろ手に肩を押しながら、早く逃げろともう一度繰り返すと、フィリカはようやく後ずさり、走り出した。一度だけ振り返って確かめると、歩いてきた方向へどうにか間違わずに向かっているようだ。
当然ながら彼女を追おうとした男を、アディは立ち塞がる形で止めた。再びこちらを見上げた男の顔は、本来は比較的整った容貌なのだろうが、表情のせいでひどく醜く見える。最初からまとっている、異様な雰囲気のせいでもあるだろう。
……何故この気配に、相手が姿を現すまで気づかなかったのか。フィリカのことに気を取られて他への集中力を欠いていたとはいえ、あまりにも不注意だったと言わざるを得ない。
対峙している今では、望まなくとも嫌というほど感じられる──男の、フィリカへの歪んだ執着が。
絶対に追わせるわけにはいかない。男を逃せば、次こそ彼女は殺されてしまうだろう。その前に奴が何をするかと想像しただけで、全身の血が凍りつく感覚に襲われる。
何としてもここで始末してしまわなければ。
アディがそう決心するのとほぼ同時に、男が剣を振り上げた。肩に向かって打ち下ろそうとしたところを頭上で受け止める。男は一旦後ろへ飛びすさったが、間を置かずに再び向かってきた。
剣を交えながら、奇妙な不安を感じた。訓練は受けたのだろうが少なくとも今は型も何もあったものではない動きで、本来の実力もさほどではないのだろうと思われる滅茶苦茶さである。
だがこちらを倒そうとする勢いは異常なほどだった。その執拗さに、気づくとアディは少しずつ最初の位置から後ずさっていた。
わずかな戸惑いを察知したのか、男は一時消していた笑みをまた浮かべる。吐き気を覚えるほど不快な表情はいくつも見てきたが、そのいずれよりも、この笑いが最も醜い表情だと思った。
「おまえ、あの女を名前で呼んだな」
剣を繰り出す手は止めないまま、男が言った。
「そんな仲になってんのか。あの男女ともう寝たのかよ、え? 氷女とやるのは良かったか?」
嫌らしく笑いながら吐き出される侮辱的な言葉。さらなる怒りを覚えながらも、意外の念をかすかに感じているのは、相手の口調の端々から嫉妬と言うべき感情が視えてきたからだった。
フィリカに出会った当初のこの男は、存外真剣に彼女のことを想っていたのだ。だが他の男と同じように全く相手にされなかったため、必要以上に高い自尊心が「とことん踏みつけられて」、今のように歪んだ執着に変わる結果となった。
一瞬、本当にごくわずかではあるが、相手に同情を覚えなくもなかった。だがそれで怒りの目減りはしないし、ましてや許す感情が生まれるわけでもない。フィリカにとって危険人物なのは変わりなく、そうである限りは逃がすわけにはいかなかった。
衰えない勢いに依然後ろへ下がらされながらも、隙を見てなんとか前へ出ようと、足に力を入れ直しかけた時。
右足の下の地面がいきなり消えた。
踏み外したのだと思った時には、身体が後ろへと倒れ、斜面を滑り落ちていた──男の顔が、視界から消える直前に、心底愉快そうに笑ったのをはっきり見た。
追い込まれていたのだと今さら気づくが、遅すぎた。その斜面はかなり長く、もう少し角度が急なら崖と呼ぶ方がふさわしいほどであった。下まで落ちきる前に、どうにか身体を捻って落下を止め、全身に走った痛みを無視して起き上がる。
特に上半身を強く打った感覚と、左頬を切ったか擦ったかした、熱を伴う軽い痛みがある。だが幸い頭は打っていないし、普通に立ち上がれるので骨折も捻挫もしてはいないはずだ。剣は咄嗟に放り投げたので、無駄な怪我も負わずに済んた。
状態をざっと確認し、急いで斜面を駆け上がる。途中に落ちていた剣を拾い、先程の場所へと戻ってきたが、すでに男はいなかった。さほど時間が経ったとも思えないのに、見回した範囲に黒づくめの姿は確認できない。
考えるまでもなかった──男は本来の目的を果たしに行ったのだ。
アディはフィリカが逃げた方向を目指して、全力で走った。彼女が道を間違えていないように、同時に男が見当違いの方へ行っているようにと願いながら。それが叶うのならば、一度も信じたことのない神にだろうが何にだろうが、祈りたいと思った。
かなり走ってきたはずだが、まだ昨夜の小屋は見えてこない。正直に言えば方向を確実に覚えているわけではなく、こちらで良かったのかという不安は初めからフィリカに付きまとっていた。
この数日、高熱を出すことを繰り返したせいか、足取りが覚束なくなってきた。頭もふらついてきたため、倒れたりしないうちにと思い、足を止める。
体調が万全でないからとはいえ、息切れが凄まじかった。今の自分の、あまりの持久力のなさに情けない思いがこみ上げてくる。足手まといだと言われて当たり前だ。
アディが、自分を逃がすために故意にそう言ったのかも知れないと、思ってはいる。だが彼が本気だったかそうでなかったかは関係なく、自分があの場において彼の足手まといであったのは確かで、それがとても悔しかった。
一体、何のために今まで訓練してきたのか。肝心な時に役立てることができない「実力」など意味がない。訓練生最優等の過去も、とうにフィリカ自身にとっての価値は無に等しかったが、今はさらに空しいものに感じられた。
本来、自分が対処しなければならない問題を、何の関係もない他人に──しかも恩人に丸投げした。事情がどうあれ、その事実は重く肩にのしかかってくる。このままでいいはずがない、と心が叫び続けている。
足を止めた場所に立ちつくしたまま考えて、再び踵を返して走り出す。──やはり、戻らなければ。普段通りに動けなくとも、何かしらの手助けはしなければいけないと思った。こんなに時間が経っても追ってきていたウォルグの異様な執念には恐れを感じたが、アディを無関係な危険にさらしていることの方が今は余程堪え難かった。
進むうちに、半刻ほど前に見ていたものと似ている景色になってきたように思えた。気のせいでなければ、走ってきた方向は合っていたことになるが、完全な確信は持てない。ともかく、戻る方向だけは間違えないようにと、何度か速度を緩めながら必死に、記憶と周囲の様子を照らし合わせる。
しかし、一向に先程の場所に近づけているような気はしなかった。誰の声も、何の物音も聞こえてこないのだ。もしかしたら本当に方向を間違えてしまったのかと、焦りが強くなってきたその時。
背後から突然腕をつかまれた。右腕の、怪我に近い箇所だったために激痛が走り、一瞬何も考えられなくなる。思考が復活した時には、フィリカはすでに地面に引き倒されていた。
こちらを見下ろすウォルグの表情は、まさに獲物を手中に収めた者のそれだった。満面の笑みは見るからに嬉しそうで、楽しげでもあった。
「もう逃げられないよなあ?」
くっくっと喉を鳴らすように笑う。不快を覚えずにはいられない、下卑た雰囲気に満ちていた。
逃れようともがきかけるが、すかさず右腕を押さえこまれる。再び痛みに襲われて動けなくなった隙に、唇に何かが押し付けられた。反射的に思いきり噛みついてやる。
悲鳴とともに、のしかかっていたウォルグの身体が上半身だけ離れた。口を押さえた手に血が付いているのを見た途端、顔が憤怒に歪み赤黒くなった。