「おはよ、晴翔~! 体調は大丈夫か?」

 一年三組の賑やかさに負けない元気な声のあいつが、俺に向かって手を振った。

「おはよ。すっかり元気だよ。寒暖差でちょっと具合悪かっただけ」
 
 俺は少し笑って休んだ理由を誤魔化しつつ、隣の席のこいつ——新山春哉に挨拶を返す。
 クラスの中で唯一と言っていいほど、気を使わないで話せるのは春哉だけだ。他のクラスメイトとも仲はいいが、よく絡むのは春哉ぐらいで、春哉の方も俺とよく話してくれる。
 正直、昨日の名無しさん(名前がないため俺が勝手にそう呼んでいる)からの返信でかなり気分は落ち込んでるし、あんまり元気じゃない。朝だって地下鉄内で音楽を全く聴かなかった。

「そいえばさ、来月の桜フェスになんかシークレットゲストが出るんだって」

 そう言いながら、春哉は一枚のプリントを俺に渡す。
 『桜フェス! 歴代最多のアーティストの出演と屋台の出店! 桜が咲く一足前に、寒い冬をみんなで盛り上げよう!』と書かれたポップな紙。

「えっと、そもそも桜フェスって何?」
「あぁ、そっか。晴翔はこの付近のことあんまり知らないもんな」

 そう。家から高校まで来るには、地下鉄とバスの乗り継ぎを使って一時間以上もかかる。この付近に住んでる人よりは圧倒的に、俺はこの地域への知識がないのだ。

「桜フェスってのは、毎年恒例のこの地域の祭りみたいなもん。夏場はここら辺虫が多いからな。都会っぽいわりに山近いし」

 確かに夏場はよく虫に遭遇したし、結構蚊に刺された記憶がある。あんまり虫が好きではないので、春哉に虫退治してもらってたけど。

「ってわけで、元々夏にやってたけど虫が多すぎて人気が下がって。だから虫の出ない春前の三月にやることにしたんだって。ってまぁ、そんなことはどうでもよくて。割と有名なアーティストも結構出るし、一緒に行かん? シークレットゲスト気になるし」

 音楽に関することにはあんまり今は関わりたくない気持ちだったが、フェス自体は楽しそうだ。

「行ってみたい」
「オッケー! じゃあ会場集合にして、一緒に回ろうぜ! 他の奴らも誘っていい?」
「もちろん。春哉の誘いたいやつ誘って。俺はそれに合わせる」
「了解~! うわ~来月マジで楽しみ!」

 そんなことを言いながら、春哉は席に戻っていく。
 思わずため息が出そうになるのを必死でこらえた。フェスは楽しみだ。「音楽」さえなかったら、もっと素直に楽しめたけど。
 先生が来るまでまだ時間はある。少し調べてみるか。「桜フェス 出演者」と検索欄に打ち込んで、一番上に出てきた公式のページを開く。
 本当に今年は豪華らしい。俺も知ってるアーティストが何人も出るみたいだし、中にはマイナーだけど俺が応援してるアーティストもいる。そして一番下の言葉に目を向けた。

『この町は昔から【音楽の街】と言われています。桜フェスも今年で五十年目。たくさんの人が来てくれることを心から願っています』

 こらえきれなかったため息が、小さく吐き出される。そして重い何かが心の上にのしかかる。今思ったのはこれだけだ。
 なんて最悪なタイミング……!
 昨日覚悟を決めて、名無しさんの一言に打ちのめされて、好きだった音楽が苦しいものになってしまって。そのタイミングで「音楽の街」の桜フェスに行くのか……。
 春哉に行くと言ってしまったのを今さら後悔する。そして俺は改めて感じた。嫌なことは恐ろしいほどの速さで近づいてくるのだと。


 あっという間に桜フェスの前日になってしまった。

「そんじゃあ晴翔! また明日なぁ!」

 春哉の元気な声が、今の俺には現実を見させられる重い声となっていた。
 家にようやく着いて、ベットの上に倒れこむ。
そういえば今日はシークレットゲストの名前以外の詳細が少しだけ公開されるとかって、春哉言ってたな。
 ベットに寝っ転がりながらスマホの画面を開いて調べてみると、そこにはこう書かれていた。

『シークレットゲスト、詳細情報! 音楽の街が生んだ奇跡のクリエイター! 先日の動画はあっという間に伸びて百万再生を突破。【名前の無い曲】を生歌唱!』

 待て待て待て! こういう偶然って小説の中だけじゃないのか?
 名前の無い曲って、まさかあの曲のことか……⁉
 あの日から今日まで一か月近く音楽を聴かなくなった俺は、久しぶりにスマホの動画視聴アプリに飛びついた。あの時すぐに自分のお気に入り曲にいれて、それ以降全く聞いてない名前の無い曲。
 再生回数はすでに二百万を越えようとして、チャンネル登録者数もすでに五十万人を突破している。コメント欄もほとんどが賞賛の言葉で埋め尽くされていた。この中にあの時のやり取りは残っていない。自分のコメントはあの後すぐに消している。あんなコメントと返信を、あの曲に残すのは忍びなかった。そして、概要欄にこんな言葉が追加で書かれていた。

『この曲はまだ未完成の曲です。この曲には名前がない。名前が無い曲もアリかもしれないけど、僕はこの曲に名前をあげたいと思っています。この曲に名前がつくのはいつかはわかりません。でも、名前がついたとき、きっと皆さまの心に残る曲になるでしょう。その日まで気長に待っていただけると嬉しいです』
 
 あれは、未完成なのか。あんなに完璧に思える曲でも、「未完成」だと言うのか。やっぱりこの人は、ただものじゃない。
もし、このシークレットゲストが名無しさんのことなら——。あの日に感じた苦い思いと共に、会ってみたいと思った。そして聞いてみたかった。「なんであんなことを言ったんですか」と。
 桜フェスまであと半日。明日の天気予報は、快晴だ。