父が空になったグラスをガツンてテーブルに置いた瞬間、私はヒュッと息をのんでお腹にぎゅううっと力を入れた。
くる!!
ーーーって思ったから。だけど、それは空振り。
父はビールの缶に手を伸ばしただけだった。
お酌をし損ねた母が慌てて腰を浮かすのを無視して、父は自らなみなみとグラスにビールを注ぎ、「くっだらねえ番組だなあ。出てるやつらもバカばっか」なんて笑いながら機嫌よくグラスに口をつけたのだ。
母がホッと胸をなでおろして椅子に座り直す。
私だって思った。
ひとまずは「ああ、よかった」って。
ところが父はすぐにテレビに興味を失って、くるりと話題を変えてきた。
「それより来月の法事、あれちゃんと断ったか?」
再び母にギクリと緊張が走る。
「あれはもう少し先でないと断りづらいでしょう?」
お断りの口実に急な仕事ってテイを装いたい母がそれを説明するんだけど、そんなのはムダ。
「言い訳をするなあッッ!!」
強烈な一喝とともに、待ってましたとばかりに父のイビリがはじまった。
理由なんかなんだっていい。理屈や辻褄だっていらない。
怒鳴りまくって相手が平伏すのを見たいだけ。すっきり気持ちよくなれればそれでいいのだ。
そもそも今夜は機嫌が悪い。
何事もなく終われるわけがなかった。
激高して怒鳴り散らす父と肩をすくめて青ざめる母を尻目に、私は必死でゴハンをかきこんだ。だけど後少しで「ごちそうさま」ってところで、たまらなくなった母が隙をついて私に話をふってくる。
父が喜んで食いつきそうな、新たなエサをまくために。
「そういえばすみれ、男の子と一緒に歩いてたんだって? 坂上さんから聞いたんだけど、だあれ? 彼氏?」
「男!? オマエ、その男とつきあってるのか!!」
ああやられた。
今度は私の番だ。
真っ赤な顔で怒鳴りまくる父と、眉を下げて困ったように笑ってみせる母。
私は残りのごはんを一気にかきこむと、
「ごちそうさま!!」
って叫んで猛ダッシュで自分の部屋に駆け込んだ。
最初はコレをやると怒り狂った父が部屋まで追いかけて来たものだけど、最近じゃめっきりそういうこともなくなった。
戦わずして逃げるっていうこの一見すごくみっともない『対父防衛法』。
だがしかし、侮るなかれ。
『同じ土俵に上がらない』って姿勢を見せることは、すごーく意味のあることだと私は思っている。
父みたいなヤツーーー歩みよる気もなければ、自分の行いを振り返ってみようって気もないーーーそういう相手を片側だけの論理でどうにかしようってのはホントに至難の業なのである。てか、無理なのだ。
早々に諸々を諦めた私は、家族と距離をおきつつ、今は自分の心を守ることだけに専念し、日々慎ましく生活している。
暴力をふるわれたことはないけれど、それでも私はこの生活に十分精神を削られた。
物心ついた頃からうちはずっとこう。
笑い合う両親の姿なんて見たことがない。
加虐心をたぎらせて怒鳴り狂う父は、小さな私には最強で最悪の恐怖の対象だった。父に許してもらうためだけに、わけもわからず泣いて謝る。それを延々と繰り返す日々は辛くて寂しくて。
うっかり気を抜けば母にだって背中を蹴られるような生活は、それなりに私を蝕んだ。
病み崩れてひきこもり寸前まで堕ちていた中3のある日、私は父の呪縛から逃れる決心をした。そしてあの日から、私は一度も父の相手をしていない。
自分では一応立ち直れたって思ってる。
ある程度までは。
部屋に籠もった私は、ベッドにゴロンと横になって加瀬くんのことを考えた。
私たちは、所謂『両想い』ってやつだ。
普通なら、このままおつきあいってことになんだろな。・・普通なら。
だけど私にはどうしてもそうすることができない。
なぜって自分のことが信用できないからだ。
自分自身が一番怖い。
私がやらかす可能性のある「なにか」によって加瀬くんを傷つけることが、失望させることが怖いのだ。
例えばよく言われる『虐待の連鎖』ってやつ。
あれは、血の遺伝なんかじゃない。
日々繰り返される生活の中で、無意識に染み付いた『心の癖』とか『刺激への反応のパターン』みたいなものが、世代を跨いで『文化』として親から子へ刷り込まれ、受け継がれるために起こる現象だ。
パブロフの犬みたいに、長ーい時間をかけて私は両親にロクでもないものを刻まれた。
もちろんそんなものを後生大事に抱えとく気なんてないから、あやしげなものは片っ端からぜーんぶ削って捨ててきたつもり。
だってあの人たちみたいにはなりたくない。
自分自身が本当に納得のできる生き方をしたいって思うから。
んだけど、まだ、自信がない。
自分が本当に大丈夫かどうかがよくわからないから。
自分じゃ『あの人たちとは違う』なんて思ってるけど、それだってホントのところはわからない。もしかしたら私の驕りか、勘違いかもしれないし。
結局なにひとつ確信をもって「確かだ」と言えることがないのだ。
胸がモヤモヤと苦しくてたまらなくなる。
ぐるりと枕にうつ伏せて、きーって頭を搔きむしった。
くっそう。悔しい。
わかんない。
んで私は、この『わかんない』ってのが、怖くて怖くてたまらない。
誰か私に『大丈夫』だっていう太鼓判を押してくれ・・!
はーあ、って大きなため息をついてゴロリと身体の向きをかえながら、なんとなくお化け屋敷でくっついてた加瀬くんの背中を思い出した。
加瀬くんが一緒だと、全然怖くなかったな。
むしろ楽しかった。
彼女として一緒にいられたら毎日幸せなんだろうけど。
自信がつくまで待っててなんて・・言えないしなあ。
「やっぱりムリだよ、加瀬くん・・」
私はもう一度枕に顔を埋めて、ふかーいため息をついたのだった。
ふたりきりですごした坂川の夜が楽しかったオレは、学校帰りの小宮山をつかまえては彼女をオヤツに誘うようになった。
いつも一緒の西野と佐々木が部活の日に、一人で下校する小宮山を狙う。
下駄箱や校門の辺りで小宮山を捕まえちゃ「小宮山、偶然だネ? 一緒にオヤツ食べて帰ろ?」って。
最初はバッサバッサ容赦なく断られてたんだけど、でもコレ、実はちゃんと誘い方がある。
「なあ、オレの数プリ、見たくない??」
「み、みたい・・」
学校から少し歩いたところにある公園の大きな百日紅の木陰は、周囲の植栽のおかげでほどよく人目が遮られてて好きな女の子連れてくるにはもってこいの場所。
ここに座ってふたりですごすのが、だんだんとオレらの定番になっていった。
数学が死ぬほどキライな小宮山に宿題のプリントをチラつかせながら一緒に菓子食うだけなんだけど、それでもオレには十分楽しかった。
そんなある日。
2人でポテチ食ってる時に、校長の泣きぼくろが右か左かでちょっとした論争になったのだ。オレは左、小宮山は右って言って譲らない。
「じゃあ、賭けようぜ。明日、校長見に行って決着つけよ?」
「いーよ。何賭ける?」
自信満々の小宮山に怯む様子は全くない。
「勝ったほうのお願いいっこ聞くってのは?」
「・・ヘンなこと、言わない?」
「言わねえよ。常識の範囲内にきまってんだろ」
って約束したら、小宮山がホッとして頷いた。
「いいよ。じゃあ、賭けよ」って。
で、結果がどーだったかって言うと・・
「うっそ、左じゃん!」
「やっぱりね。んじゃ、オレのお願い言っていい?」
渋々頷く小宮山に堂々とオレの希望を口にする。
「お化け屋敷、もっかい行きたい」
「え〜〜!?」
イベント終了間際のお化け屋敷はガラスキだった。
中に入ってすぐ、前回同様、後ろに回り込もうとする小宮山をつかまえてオレはすかさず彼女の隣に並んだ。
今回は背中を貸すつもりなんて全くない。
ビビリの小宮山の手をとって、しっかりと繋ぐ。
「ハイ、いーよ。行こ」
オレらは薄暗いお化け屋敷の中を、恋人同士みたいにぴったりくっついて歩いた。
「こういうのってさ、当たり前だけどふたりで歩くと格段に怖くないね?」
たしかもうすぐ不意打ちがくる。それを覚えてる小宮山が、ぬかりなく左右を確認しつつささやいた。
小宮山がこぼした何気ない言葉を聞いてふと思ったのだ。
オレがいつもそばにいてやれたらな、って。
お化け屋敷の中だけじゃなくて、小宮山が怖い時、不安な時、困ってる時とか。そういう時に、いつもオレが。
「ねえ、全部オレがいいって思わない?」
「え? なんか言った??」
「や・・なんでもナイ」
そうボソッとつぶやいた瞬間、オレらの耳元で何かが風を切った。
この時のオレは小宮山のことしか頭になくて、さっき小宮山が警戒していた暗闇からの不意打ちのことをすっかり忘れていた。
結果、オレだけがソレをまともにくらってしまう。
「うっわあああ」
すげービビって、オレは気がついたら小宮山にしがみついていた。
絵ヅラは最悪。タッパのあるオレがひとまわり小さい小宮山にすがりつく様子ときたら、まるで女子。
そしたら半笑いの小宮山が、暗闇の中、オレの背中をさすりつつ優しく声をかけてくる。「大丈夫? 怖かった?」って。
「ちょ、ちょっと怖かった。くっそー、やられた・・!」
「じゃあ、私が先歩いてあげる」
まだ胸がバクバクいってるオレの手をとって、小宮山がオレを背中に庇って半歩前を歩き出す。
オマエ、やること結構、男前だネ?
できればオレがそれやりたかった。