『もも』として学校には行けない。でも、早くに両親が他界した私は、ひとりで生活をしていかなきゃいけない。
 だから、日がな一日バイトに没頭した。
 最初は距離感がつかめなくてお皿を割ってしまったり、まだ情緒が不安定で、慣れない男の子の身体に泣き出してしまったこともあった。
 だけど、根気強くシュウさんが手助けしてくれたおかげで、前みたいに仕事をこなせるようになった。ううん、むしろ男の子になった分、体力もついて、すごくやりやすいかも。
 楽しい日々が、戻ってきた。

「……おまえ、名前は?」

 そんなとき、やってきたあいつ。
 まさか、バイト終わりの裏口で待ち伏せされているとは。踏み出そうとすると、通せんぼうをされる。
 くそ、こいつも無駄に背は高いから、邪魔ったらないよ。

「顔見せんなって言いませんでした?」
「名前は」
「めんどくさ……はじめです」
「はじめ? ももとはどういう関係だ」
「双子の兄ですよ」
「嘘をつけ。あいつに兄弟はいない」
「言ってなかっただけ」

 ももの双子の兄、はじめ。遥か昔に養子に出された、生き別れの家族。
 これが、男として過ごすに当たって、あらかじめ決めた設定だ。シュウさんとも共有しているので、信憑性は増すはず。

「ももはいまね、遠いところにいる。ある日、極度のストレスが祟って、階段から足を踏み外したんだ……」
「──っ!!」

『はじめ』なんて人は実在しない。『もも』は、希望を持つことを諦めた。
 これは半分嘘で、半分本当。 

「半端な気持ちで詮索するのはやめろ。知った風にももを語るな」

 ……言った、言ってやったぞ。
 もちろん、ユウが負けん気の強い男だってのは知ってる。つかみかかるなりなんなりしてくれ。やり返してやる。
 と、思っていたら。

「それじゃあ……もう二度と、ももには、会えないのか……?」
「は……」

 目を疑う。なんだ、これ。誰だ、この、絶望の面持ちでぽろぽろと大粒の涙をこぼす、頼りない少年は。

「嘘だ、そんなの……信じたく、ない……」
「…………」

 このお葬式みたいな空気……気のせい、じゃないか。まさかとは思うけど。こいつ、勘違いしてない?

「一応言っとくけど、勝手に殺さないでね?」
「なっ、じゃあももはどこにいるんだ、元気にしてるのか、教えてくれ!」
「え、無理」
「何故!」
「ももがユウくんに会いたくないって言ってます」
「はぁあっ!?」

 うわっびっくりした……めっちゃ食いついてくるやん、耳元で叫ぶなよ……
 思わず顔をしかめる私は、この直後、予期せぬ展開に見舞われることになろうとは、知るよしもない。

「なんでだよ、もも……将来は俺と結婚するって、お嫁さんになってくれるって、言ったじゃん……」
「ん……え……え??」

 二度見ならぬ、二度聞きしてしまった。

「そんなこと……言ってた?」
「言った、指切りした! 指輪は無理だったけど、花冠プレゼントしたら、ももだって喜んでたしっ!」
「……あぁあ~」

 言ったっけ。幼稚園の頃、おままごとで。
 ん? じゃあ、つまり……

「ユウくんって、子供のころにした結婚の約束、真に受けるタイプ?」
「は? 冗談でプロポーズするわけないだろ。なのにもものやつ、好きです、付き合ってくださいだなんて……ふざけてんのか? もう付き合ってるだろ結婚するんだから。おちょくるのも大概にしろよ、俺のほうが好きだわ、愛してるわ!!」
「ひぇ……」

 どうしよう……私、今頃になって、気づいちゃったかもしれない。
 もしかしなくてもユウは、めんどくさいやつだ!

「シュウさん! 助けて! シュウさぁ~ん!!」

 なにがなんだかわからないけど、このままじゃやばいことだけはわかる!

「話はまだ終わってないぞ!」
「知るかよ、来んなよ、さわん──のぅわッ!?」
「なっ、おいっ!」

 突然ですが問題です。
 全力で逃げる者を全力で追う者があると、どうなるか。

「はじめくん? 呼びました? 僕になにか──」

 詰襟から紺の作務衣(さむえ)にチェンジしたお仕事モードのシュウさんが、薄く開いた裏口のドアからひょっこりと顔を見せる。それから。

「…………え?」

 それからどうしたのかは、正直よくわからない。
 だって、遮られて、見えないんだもん。
 にっくきあいつの顔しか、見えない。
 逃げようとした私は、つまずいた。そして運動神経おばけのユウが、とっさに腕を引いたときたら、ふたりしてもつれ込むのは必至。
 ベタなラブストーリーなら、何かしらのイベントが発生する。そういう場面で、フラグは見事に回収されて。

「…………はじ、め?」

 顔を離したユウが、吐息のかかる距離で硬直する。そうして、自分が押し倒すかたちとなってしまった相手を目の当たりにして、声を震わせるんだ。

「違う、おまえは………もも、か……?」

 トドメの一言に、違いなかった。
 ろくに身動きの取れない『私』は、非力な身体を持て余し、ただただ、呆然とするばかり。

「なんで……いや、もうなんでもいい……もも、ももっ……!」
「やっ……!」

 きゅっと唇を引き結んだユウの、悲痛な呼び声が響き渡る。
 か弱い女子の力では、到底男子に叶うはずもない。
 ぐっと強い力にさらわれて、ぎゅっとまぶたを閉ざす。

「ダメだよ」

 だけど、次いで間近に聞こえたのは、あいつの声じゃなかった。

「ごめん、ユウくん。それ以上は、ダメ」

 そっと、まぶたを押し上げる。
 地面へ座り込んだままのユウに、見上げられている。
 いつの間にか抱え上げられていて、私を腕に閉じ込めたシュウさんは、いつも抑揚に乏しい声を低く唸らせていた。
 これは夢か。ううん。

「見守ろうって思ったけど……やっぱり無理。渡せない」

 痛いくらいの力強さは、気のせいじゃない。

「だってももちゃんは、僕の大好きな子だから。男の子でも、女の子でも」

 ちょっと震えたその言葉も、私の願望なんかじゃない。
 シュウさん自身の意思で、告げられたもの。
 沈黙。ふたりは、どれだけ視線を交わしていたことだろう。やがて、深い深いため息が耳に届く。

「だってよ。よかったな、もも」
「……ふぇ」
「おい、少しは喜べよ」
「むり……しんどい……」
「……んん? あら?」

 ここまで来て、なにかがおかしいことに気づいたらしいシュウさん。
 状況を理解していないのは、いまこの場で、控えめに挙手をしてきた彼だけだ。

「あの、えっと……どういうことでしょう?」
「どういうこともなにも」

 呆れたように、肩をすくめるユウ。

「あーだこーだ考える前に、惚れたやつはとっとと捕まえとけよって話、馬鹿兄貴」
「えっうそ、それじゃ、ももちゃん……」
「…………」
「ちょっ、黙んないでももちゃん!?」
「だから、むりなんですってば……」

 顔見れないの、恥ずかしいの。
 言わせないでよ、わかるでしょ。

 つまりは、そういうこと(・・・・・・)だって。
 この……にぶちんめ!