一話
◇
「由依は私と結婚するんだと思ってた」
窓から淡い光が差し込む式場の控え室。私の突拍子もない言葉に、由依は「何いってるの?」とおかしそうに笑った。私は「冗談だよ」と応える。
「もう。変な冗談はやめてよ」
「ごめんごめん。親友の結婚式でテンションがあがっちゃったの」
私はそう言って口角を上げ、笑った顔を作った。
由依は高校時代から付き合っていた菅原新と結婚し、その披露宴が今日この地ハワイで行われる。本日晴れ舞台に立つ由依は、華やかなドレスを身に纏い、幸せを噛み締めるように笑みをこぼしていた。今着ているこのドレスも彼と一緒に選んだのだという。
よくわかってるじゃん、と私は思わず口にしてしまったが、由依には聞こえなかったらしい。
純白のウエディングドレスが由依によく似合っている。穢れのないーー清い水と空気の中で育ったような、世間の垢に染まらない純朴な美しさが由依にはあるからだ。私が彼女のドレスを選ぶことになったとしても、これを選んだだろう。
西洋の窓から差し込む淡い光に照らされた由依の横顔と、透明色になったベール。それらがあまりに幻想的で、美しくて、自然とため息が零れた。その儚げな佇まいは、まるで無垢な天使のようだ。
「綺麗だよ、由依」
「ふふ、ありがと」
思わず漏れた感嘆の声に、由依は綺麗な顔をくしゃっとさせて笑った。丸くて大きな目がキュッと細められる。
この笑顔を見るたびに、胸が苦しくなる。この痛みは今日で十回目。私の心はもうボロボロだった。
ウエディングドレスを身に纏った彼女は、普段よりもずっと綺麗に見えた。私が大好きだった長くて綺麗な黒髪が茶色く染められ、小綺麗にセットされていることが少し残念だったけれど。
____これで、隣に立っていられるのが自分だったらどれほどよかったか。
「由依が結婚かあ」
「なあに? 寂しくなっちゃった?」
私よりも背が低い由依は覗き込むように私と目を合わせ、意地悪く笑った。可愛らしい口が弧を描く。
これで十一回目。この胸の痛みを悟られないよう、偽物の笑顔を貼り付ける。この笑顔を覚えたのは、由依が新くんと付き合うようになった、あの夏の日のことだった。
それから二人は十年間付き合い、結婚した。
二人は結ばれたという事実を前にしても、「この想いを打ち明けられていたら、もっと別の未来が待っていたかもしれない」なんていうくだらない想像力を働かせてしまうくらいには、私はこの感情に折り合いをつけられていない。
もし、あの頃に戻れたら、私は_______
「ーーせ」
「ももせ」
「おーい。百瀬?」
霞んだ視界が徐々に覚醒し、世界の輪郭を捉えてゆく。寝ぼけ眼に真っ先に飛び込んで来たまんまるな瞳は、由依のものだ。
「ゆ、い?」
「もう授業終わってるよ」
「……授業? 何の話?」
「なーに寝ぼけてるの」
由依は私の肩を揺さぶりながら、ふにゃふにゃと笑った。こういうふうに笑うと、いつもより幼く見える。
そこで、私は一つの違和感を感じた。由依は新くんと同じ部屋に泊まったはずだ。それなのにどうして私の部屋にいるのだろうか。
「新くんは?」
「新くんって菅原のこと? どうしたの、急に」
あんたも菅原でしょうと口にしかけたが、咄嗟に飲み込んだ。
「なんで制服着てんの?」
「え、だって学校だし。百瀬、寝ぼけてる?」
私の目の前にいるのは、高校の制服を身につけた由依。艶やかな黒髪が蛍光灯の光を反射し、天使の輪のようなハイライトが浮かんでいる。
そう、由依は黒髪だった。私が大好きだった、長くて美しい、黒髪。____つまり、私の目の前にいるのは、高校時代の由依なのだ。
「夢?」
「もう! 何言ってんの!」
由依が私の頬をつねる。
「痛っ。何するの」
「ほら、夢じゃないでしょ」
「嘘、」
ガバリと体を起こし、辺りを見渡す。規則的に並んだ机と椅子。黒板と教卓。制服を着た
少年少女たち。そこは、私が高校時代通っていた教室だった。
教室?!
なんで、私が高校の教室に? 私はさっきまで、ホテルでシャワーを浴びて、買ってきたウィスキーを飲んで、それからーーーー
訳がわからないこの状況。夢でも見ているのだろうか。それでも、由依につねられた頬の痛みが、夢じゃないと教えてくる。
瞬間、私は完全に理解した。
私は、高校時代にタイムスリップしてしまったのだ。
呆然とする私に向かって由依が「大丈夫? 具合悪いの?」と心配そうに眉を下げた。私は呼吸を落ち着かせると、「なんでもないよ。ちょっと寝ぼけてたみたい」と、高校時代の自分になりきって笑ってみせる。
「そっか、ちょっとびっくりしちゃった。……それで、夏休みのことなんだけどさ」
由依は、あの時と全く変わらない調子で話し始めた。
二話
◇
「すっごい! これ、本当に菅原の家の島なの?」
由依がはしゃいだ声を上げてパタパタと船から降り、両手を広げて浜辺の上でくるりと一回転した。長い髪が潮風に流れる。
「おい、危ねえだろ」
弾けるようなその笑顔に思わず見惚れていると、背後から鋭い声が飛んできた。振り返ると、菅原くんが呆れたような表情で由依を見つめて立っていた。
この夏、私は、由依の未来の夫ーー菅原くんの家が所有する島にある別荘に遊びに行くことになるこになっていた。
この夏の記憶もちゃんとある。楽しかった高校時代の思い出。____三日後、夕日が島を覆う頃、由依が菅原くんに告白することも、私は知っている。
菅原くんはかっこいい男の子だ。すらりと背が高く、色素の薄い髪と彫りの深い顔立ちは日本人離れしていて、外国の彫刻作品のような芸術的な美しさをもっていた。
実家は有名な資産家で、私たちが住む田舎町で一際目立つ立派な日本家屋は彼の家だ。
ちょっとガラが悪くて乱暴だけど、根はすごく優しくて。
そして、由依のことが好き。
各々に与えられた部屋に荷物を運び終えると、みんなは浜辺に遊びに行った。
私は彼らには混ざらなかった。砂浜に立てられたパラソルの下に座り、浜辺でビーチボールを打ち合う三人をぼんやりと眺める。夏の強い日差しが砂浜に突き刺さり、辺りには熟れるような熱気が漂っていた。パラソルの影の向こう側に降り注ぐ白い光に、目が眩む。
私は水着を持ってこなかった。持ってくるのを忘れたわけではなく、過去の私がこのとき水着を忘れたから、今回も同じようにそうしたのだ。
『____歴史を変えることは許されないんだ』
小さい頃に読んだ漫画の主人公が、過去にタイムスリップしてしたときに言われていたセリフだ。高校時代にタイムスリップしてしまったと気づいたとき、真っ先にこの言葉が思い浮かんだ。
歴史なんていうたいそうなものではないが、ここは私にとっては過去で、私はこれから起きることを全て知っている。私が当時の私と違った行動を取ったとき、これから訪れるであろう未来がどうなるのかはわからないし、元いた世界に戻ってしまった場合、その世界がどう変わってしまうのかもわからない。
だから私は、当時の自分が取った行動を忠実に再現することが最も安全であると判断した。
でも、想像してしまう。
由依が菅原くんと付き合い、結婚するきっかけとなったこの旅行で、由依が菅原くんに告白する前に、私が本当の気持ちを伝えたら。そうしたら、何かが変わるのかもしれない、って。
「百瀬!」
海に向かって駆け出した由依が振り返り、私に向かって手を振っている。私も小さく振り返した。
ザブザブと細い足が海水を切り裂いていく。真夏の太陽にさらされた薄い肩が小さく揺れる。
白い太ももの半分までが塩水に浸かったとき、由依の顔にパシャりと水がかかった。驚いて目をパチクリさせる由依の側では、菅原くんが悪戯っ子のような顔で笑っている。
濡れた顔を拭った由依は頬を膨らませ、菅原に仕返しをすべく、細い腕いっぱいに水を掬って菅原くんの方にふりかけた。宙を舞う水飛沫が強い日差しを受け、キラキラと輝く。
彼らの動作の一つ一つが、脳の奥に在る記憶にピッタリと重なり合った。
由依の髪が夏の空気に踊る。南風に拐われてふつりと切れてしましそうな、細くて、美しい髪。
跳ねる水。反射する光。透き通るような白い肌。どこまでも青い、夏の空。それらは映画のワンシーンのようで、その世界の中で、菅原くんに向かって笑いかける由依が一番美しい。
その美しさは、まるで透明色だ。夏の空気にすっと消えてしまいそうな、目を話した隙にふっといなくなってしまうようなーーーー水面に浮かぶ泡のように儚くて幻想的な色だ。
その透明色が、私の心を掴んで、離さない。
「水着を忘れてくるなんて、幸坂は馬鹿だね」
私のいるパラソルに涼みにきた羽山くんが、そう言った。
「羽山こそ。せっかく海にきたのに泳がなくていいの?」
「俺、海はそんなに好きじゃないんだよね。ベタベタするし」
「そっか」
羽山くんは太陽の光を拒むように切長の目を細めた。
羽山司くんは菅原くんと小学校のクラブチームが同じだったらしく、私とは中学校の時に知り合った。由依とも仲が良く、菅原くんと三人でいるところを何度か見かけたことがある。
それっきり私たちの間の会話は途切れた。気まずい沈黙の中、よく通る波の音だけが夏空へ駆ける。
「幸坂に聞きたいことがあるんだけどさ」
羽山くんが唐突に言った。何のことかと一瞬ドキッとしたが、すぐに昔の記憶が引っ張り出され、「ああ、これね」と、あの日したこの会話を思い出した。これから彼が話す内容は完全に覚えている。
私は高校生の頃の自分になりきって「何?」と相槌を打つ。
そんなこととは露知らずな羽山くんは、これから話す言葉に迷っているようだった。
「なんていうか、確認、的な……」
羽山くんが言葉に詰まったせいで、嫌な沈黙が流れる。ざあざあと寄せては引く波を目で追いながら、羽山くんが話すのを待った。
海面に流れる白波を眺めていると、しばらくして羽山くんが意を決したように言った。
「……幸坂、新のこと好きでしょ」
「全っ然」
あの時の私とと同じように、間髪入れず否定する。
まったく、勘違いも甚だしい。どうして年頃の男の子は身近にいる男女を恋仲にしたがるのだろうか。
「いつも目で追ってるから」
「勘違いだよ」
私が目で追うのは由依だ。菅原くんじゃない。
羽山くんは「それならいいんだけど」とはにかんだ。その顔は暑さのせいか赤く火照っている。何が「いいんだけど」なのかはわからないが、記憶通りに事が進んでよかった。
そのとき、一際強く南風が吹いた。その風に想起されたように、あの頃の感情が蘇る。
『もしかして、由依が好きなことがバレたんじゃ……』
物ありげに話を進める彼に、微かな不安を感じた。だから、彼が口にした的外れな言葉に深い安堵の気持ちを抱いたのだった。
あの頃は安心でいっぱいで、大事なことに気がついていなかった。
____由依、いつも菅原くんのところにいたんだ。
私が見ていたのは由依だが、羽山くんには菅原くんを見ていると思われていた。つまり、由依は菅原くんといることが多かったのだ。
当時の自分には気づけなかったこのことが、私の心をじんわりと傷つけた。
私にとって由依は幼稚園のときからの親友だ。登下校も移動教室もいつも一緒で、他の子達と違い、特別な関係だと思っている。
でも、由依と菅原くんも私とは違う種類での特別な関係だった。
二人は親同士が仲良くて、生まれて間もない頃からの幼馴染だそうだ。だから、今でも双子のように仲が良く、その間柄を揶揄われたときも、「由依は妹みたいなもんだから」「いや、菅原が弟でしょう」なんていう会話をしたりなんかもする。二人っきりでいるとき、由依が菅原くんを「新」と呼んでいることを、私は知っていた。
私は二人の輪には入ることができなかった。他者が介入することが許されない空気が二人の間にはあったのだ。
いつもは双子のように仲が良いが、不意に手が触れるとドキッとしてしまうような、そんな関係。
それは、由依に恋する私が喉から手が出るほど欲しい関係だった。
別に、元から女の人好きだったわけではない。初恋は男の子だったし、中学の時には彼氏がいた。だから、由依への好意が恋心によるものだと気付いたときは少し戸惑った。同性、しかも親友の由依を好きになるなんて。
女性を好きになる人をレズビアンというらしいが、私はそれには当てはまらないと思う。
女だから好きになったんじゃない。由依だから好きになったのだ。恋愛対象は女性なのではなく、恋愛対象が由依だったのだ。その愛くるしい瞳に、背中まで流れる美しい髪に、綺麗な顔をくしゃりとさせて笑うその姿に、私は恋をした。
でも、由依の恋愛対象は女性でもなければ私でもない。
その度に私は性別を恨んだ。私が菅原くんのように背が高くて、声が低くて、指がゴツゴツしてて、ーーーー男の子だったら、迷わずこの気持ちを伝えられたのに。
嫉妬という薄暗い感情が心に降り積もっていく。私は、この想い伝えることすらできないのだから。
私だって由依のことが好きなのに。
年甲斐もなく湧き起こった黒い感情によって、私の頭の中に一つのアイディアが生み出された。
『未来を変えて仕舞えばいい』
由依と菅原くんが結ばれるを未来を変えてしまえば、この暗い感情を片付けることができる。
由依が菅原と付き合わないからといって、その相手が私になるとは限らないし、その可能性はかなり低いだろう。それでも、二人の『特別な関係』が更に『特別な関係』になることを止められたら、二人が結婚しない未来を迎えられたら、それで少しは報われる気がした。
それに、このタイムスリップが"神が私に与えたチャンス"だとすれば、由依の恋心が私に向くようになるという奇跡が起こるのかもしれない。
そんな"もしも"の可能性に賭けてしまうほど、私は由依のことが好きだった。
そのとき、私の頭の中から『当時の自分が取った行動を再現する』という考えは完全に消えていた。
三話
◇
私は、当時の記憶を一つ一つ、入念に思い出していった。
結婚式で聞いた話によると、二人は元々お互いが好きだったが、それは幼馴染みの延長線に近く、お互いを異性として強く意識し始めたのはこの旅行中でのことだったらしい。
だからこの三日間、二人の仲が深まるきっかけとなるようなことを片っ端から防げば、三日後の告白イベントを回避することができるはずだ。その代わりに、由依が私を恋愛対象として見るよう仕向ける。そして三日後、本来由依が菅原に告白するタイミングで、私が由依に告白する。
告白に対して望んだ返事が返ってくるとは思っていない。ただ、告白をすることで由依に今までとは違った意識を持たせることはできる。
完璧とは言えない作戦だが、今この状況での私にできる精一杯のことだった。
「拒絶されたら」という考えがないわけではない。その場合、付き合うことはもちろん親友でいることすらできなくなる。最も避けたいことだ。それでも、そんなことを気にしていては、十年にわたるこの恋心を救うことはできない。
昼食後、由依が皿洗いをして菅原くんがそれを手伝う、ということを私はよく覚えていた。
若い男女が広くない流し場で肩を寄せ合い、同じ作業をする。二人の心の距離が近づかないはずがない。
当時の私は二人の後ろ姿を離れたテーブルから見ていた。指先が触れてしまった二人が、目を合わせて恥ずかしそうに笑うその瞬間さえも、はっきりと。
妬みや羨望の感情を抱きながらも、私は二人の空間に割って入ることができなかった。
でも、今回は違う。
由依が菅原くんに手伝いを求める前に、私が手伝うと名乗りを上げる。そして、二人で皿を洗っている最中、由依が私を恋愛対象として意識するような言葉を一つ二つ吐く、_____つもりだった。
私はここで重大なミスを犯してしまった。
「皿どうする?」
「私するよ。でも一人だと大変だから菅原も、」
由依がそう言って立ち上がったとき、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。突然の出来事に目を見張る由依。ほぼ無意識のうちにしてしまった行動に自分でも戸惑いながらも、もう後には引けないと思い、その細腕をぐいと引っ張りそのまま外へ飛び出した。
「ちょっと、どこ行くの」
その言葉に返事をせず、木々の隙間を駆け、別荘から距離を置く。目的地なんかはない。ただ、二人を遠ざけたかった。
「痛いよ。離して」
私は由依の腕を掴む力を強めた。ここでこの手を離してしまうと、由依がもう二度と帰ってこないような気がしたからだ。
嫉妬だった。
菅原くんの元へ行こうとする由依の姿が、バージンロードを歩くその姿と重なったのだ。
二人にためだけに用意された神聖な領域。そこに他者が立つことも、近付くことも許されない。
菅原くんに手を引かれる由依。全てが真っ白の清らかな式場の中で、口づけをする二人だけが別空間にいるように感じた。幸せなラブストーリーを観客席から覗いているような、そんな感覚。目の前で起こっていることのはずなのに、決して手が届かない。
羨ましくて仕方なかった。この幸せを壊してやりたかった。
二十六歳にってもそんな子供じみた衝動に駆られたことに情けなさを感じたが、由依と二人になれたということへの達成感の方が大きかった。
気が付くと私たちは、青空を覆う木々の葉たちによって作られた影の中にいた。昼間だというのに薄暗く、真夏だというのに肌に触れる空気がひんやりとしている。
きっと別荘からはそう距離はないだろうが、私たちを囲む木々の幹と生い茂る夏草のおかげで、二人っきりだという感覚を強く植え付けてくれた。
「百瀬?」
横目で由依の方を見ると、小さな手が私のTシャツの裾を握っていることに気がついた。私を見つめるその姿は身長差のおかげで自然と上目遣いになっている。由依は、
この状況に不安になったのか、私の肩に頬を寄せてきた。
このまま顔を下げたら、キスしてしまいそう。
熱い血が胸の中で脈打つ。脳内に広がる甘い感情が思考力を麻痺させ、緊張で震える指先がその髪に触れることを拒ませる。
「ねえ、百瀬」
由依は私の手を引っ張り向かい合うような形にさせた。愛くるしい目にじっと見つめられ、この身を揺らすような激しい鼓動に襲われる。反射的に目を逸らした。「何?」と返す自分の声に、恋人と話すような甘さが含んでいたことに少し驚いた。今の私はかなり浮かれている。
そんな熱い感情で胸を高鳴らせていたのは私だけだった。
「前から思ってたんだけどさ」
由依の声がワントーン下がった。
南風に草木が揺れ、強い葉の匂いを振り撒いた。
「百瀬、菅原くんのこと好きでしょ」
冷めた言い方で、微かな怒り深い悲しみを含んだ声で、そう問うたのだった。困惑の中、由依と目があった。普段の人懐っこい瞳ではなく、どこまでも真剣な瞳だった。その強烈な視線に気圧された私は「何言ってるの」とぎごちなく笑うことしかできない。
「私が菅原と話してるとこ、いつも見てるし」
違う。私が見ていたのは由依だ。
「私が菅原の話をしたら、いつも嫌そうな顔する」
それは、由依と仲が良い菅原くんが羨ましかったからだ。
「それで気づいたんだ。百瀬、菅原のこと好きなんだな、って」
違う。全然違う。
「何で言ってくれなかったの? 好きな人が被ったくらいで友達じゃ無くなってしまうって思ったの?」
「待ってよ、由依」
「黙ってられた方が余計傷付くんだけど」
由依が震えた声でそう言った。
違う。違うって言わなくちゃ。必死に声を出そうとするが、私の口は石化してしまったようにピクリとも動かない。
早く、私が好きなのは由依だって伝えなくてはいけないのに。
「だからさっき私が菅原に話しかけようとしたの邪魔したんでしょう? ねえ、百瀬も私と同じ人が好きなんでしょう?」
「違う!」
私の怒声に、由依の肩がピクリと震えた。その瞬間、ハッと正気を取り戻す。
「由依、あのさ」
この場を取り持つ言葉を探したが、上手く見つからなかった。
おずおずと由依の方を向く。大きな瞳に涙の膜が張っていた。
「違うんだよ、由依。私が好きなのは、」
「あ、こんなとこにいた」
不意に、この場に似つかない軽快な声が聞こえた。菅原くんのものだ。
「菅原」
「なんか忙しい感じ?」
彼は、私たちの間に漂う不穏な空気を感じ取ったのか、「午後から雨降るって。だから早く戻ってこいよ」と言い残し、去っていった。
その背中を追って私の横を通り過ぎていく由依。風に流れる黒髪から、シャンプーの匂いが香った。
四話
◇
お腹が痛いから、と言って夕食は取らず、ベッドに横になり、頭から布団をがぶった。こうすれば、みんなの声を聞かずに済むから。
菅原くんが言ったように、午後からは雨が降った。風に吹き飛ばされて消えてしまいそうな線の細い雨が地面を微かに濡らしていく。細々と降る雨の陰気が室内まで入ってきて、私の気分は一段階暗さを増した。
パラパラと窓ガラスを叩く雨音に耳を塞ぎ、低気圧からくる頭痛を眉を顰めて堪える。
好き、と口の中で発音した。
好き。好き。由依のことが好き。
それは次第に声となって零れ、抑えても抑えてもどんどん溢れてくる。
私はどうしようもなく由依に恋をしているのだ。
枕に顔を押し付け、由依への愛の言葉を吐きだす。由依への恋心を自覚したときから今日で約十年。ずっとこの胸に秘めていた熱い恋心を、心思うままに。この想いを打ち明けられたらどれだけ楽だろうか。
私はそうやってろくに外にも出ず残りの三日間を過ごした。扉越しに羽山くんが声をかけてくることもあったが、全部無視した。
そして最終日前日。明日で最後か、と空っぽな感情で考えていると、控えめなノックが聞こえた。また羽山くんだろうと無視を決め込もうとしたときだった。
「ねえ、百瀬」
それは、大好きな人の声だった。
・
「一度やって見たかったんだよね! 浜辺で花火!」
潮風が私の髪を乱暴に掻き撫でていった。三日ぶりに眺める太陽は、三分の一が水平線に隠れ、海の一面を茜色に染め上げている。
海岸に響く潮騒と縮まらないままの距離間のため、由依の声が自然と大きくなった。水平線を眺めるその顔は西日に照らされ淡い橙色に輝いている。
「もっと暗くなってからの方が良くない?」
由依は「そうかも」と笑い、花火に火をつけた。細長い棒の先から夕日色の火の粉がブワっと吐き出される。
「花火、菅原くんとしたかったんじゃないの」
私がそう言うと、由依はブンブンと首を横に振り、キッパリとした声で「百瀬と二人っきりがいい」と言った。
それが嬉しくて思わず顔が綻ぶ。
「綺麗だね、夕日」
「そうだね」
「明日の朝にはもうこの島ともさよならしなくちゃいけないんだよね。なんか寂しくなってきた」
「また来られるんじゃない?」
「そうだといいな」
由依が黙ると、私たちの間にあるのは波の音だけになった。とても静かな音なのに、茜空の隅々にまで響かせるような、果てしなく広がる音だ。
「私、菅原に告白しようと思う」
私はゆっくり顔を上げる。そこには、夕日を背に佇む由依がいた。
橙色に染まったワンピースと白肌が、夏の空気にそっと溶けているように見えた。そのあまりの美しさに目頭がぎゅっと熱くなる。
島を覆う茜空、黄金色の水平線、そして潮騒。それら全てが由依のためだけに、今、此処に存在していたた。
私は、強い意志を宿した瞳と不安そうに震える手を交互に見た後、「いいじゃん」と普段の会話と同じ調子で言った。
「いいの?」
由依の可愛い顔が不安色に曇った。心配しなくていいよ、と私は首を横に振る。
「さっきも言ったけど、私は菅原くんのこと、なんとも思ってないから。本当だよ。神に誓って____いや、由依に誓って」
「なんで私なの」
由依が綺麗な顔をくしゃりとさせて笑った。私が大好きなやつだ。その笑顔を見てまた泣きそうになる。
由依は火の止まった花火をバケツに突っ込むと、今度は二つの花火に火をつけた。そして、その花火を両手に、薄橙に染まった砂浜の上をクルクルと回る。火の残映が、由依の纏うオーラのように彼女の周りに金の輪を作った。
白いワンピースが揺れる。長い髪が宙を舞う。
夕空に覆われたこの島全部が、由依のためだけに用意された舞台だった。由依が、由依という美しさを演出するための舞台だ。
「私、由依のことが好き」
自然と声が出た。十年間ずっと言えなかった「好き」の二文字が、あっさりと、なんのつっかりもなく、はらりと滑らかに流れていった。
由依は長いまつ毛を瞬かせた後、ふわりと笑った。
「私も百瀬のこと大好きだよ」
「違う。そういう意味じゃない」
友達としてじゃない。友達としてじゃないんだ。私はもっとーーーー。
私は、由依に恋をしている。
由依の両手から、花が萎れたように火の勢いが消え、魂が抜けたように煙が吐き出された。
「あ、菅原」
由依の視線が私から外れた。振り返ると、別荘から手を振る菅原の姿があった。由依の頬が赤く染まる。それが夕陽のせいではないことを、私はよくわかっている。
「行ってきなよ。片しとくから」
「でも」
「自分の気持ち伝えてきな!」
不安そうな由依の背中を思いっきり叩いた。パンッ、と想像以上に大きな音がなる。その音がスタートの合図のように夕空に響いた。声のボリュームを上げたのは、泣いているのがバレないようにするためだ。
由依が「ありがとう」と残し、菅原の方へ走っていった。私はその姿を目で追った。
溜まった涙と夕日に視界を奪われ、由依の姿がだんだん見えなくなる。その姿が完全に見えなくなったとき、堰を切ったようにはらはらと涙が頬を伝った。その雫の一つ一つが橙の光を受け、淡く光る。
由依が私のことを好きになればいいのに、と思っていた。でもそれは無理だ。凛とした瞳と、菅原くんを見つめる甘い表情を思い返しながら、私はそう確信する。
私が思っていたよりずっと、由依は菅原くんのことが好きだったのだ。
長い夢から覚めていくようだった。溢れる涙と一緒に、彼女に向けていた熱い感情が失われてゆく。
この身を焦がすような、熱い熱い恋だった。二度もこの夏を送るほど、長い長い恋だった。
私は今日、失恋をしたのだ。
心の大半を占めていた感情が消え、ポッカリと心に穴が開いてしまった私は、ただ静かに立ち尽くす。
溢れた涙は、透明な夏の空気に溶けていった。
五話
◇
朝食まではもう少し時間がある。私は、荷物を簡単にまとめると部屋を出た。
エレベーターを停めてくれた他の宿泊者に"thank you"と言って、ドアの間を滑り込む。
一階まで降りると、ぽんと軽い音が鳴った。
あの後、別荘の部屋に直行し、すぐにベッドに潜り込んだ。二人を祝福すべきなのはこの世界でではないと思ったからだ。私は早くこの"夢"から覚め、元の世界に帰らなくてはいけなかった。
私の狙い通り、目が覚めると元の世界に戻っていた。由依の苗字は菅原で、漆黒の髪は茶色く染められていて、ベッドの周りには酒瓶が転がっていて、二日酔いの頭が痛かった。
ラウンジには寄り添って座る由依と新くんの姿があった。顔は見えなかったが、昔と変わらず幸せで満ちた笑顔なのだろう。
どうか、これからもずっと幸せでいて。幸せ色に包まれた二人に、そっと祈りを捧げる。
きっとあれは私のどうしようもない感情を回収するために見せられた"夢"だったのだ。その"夢"が覚めてしまった今、私の心には何の蟠りもなかった。
それでも、透明な夏の空気に触れるたび、私はあの夏を思い出すのだろう。しかし、それで傷つくことはもうない。
二人を遠くから見守った後、こっそりと自動ドアをくぐり、外へ出た。
生暖かな風がゆるりと頬をなぞる。どこからか潮の匂いがした。
拝啓、透夏____
「親友に恋をしていた」
〈了〉