それは決して、優しさなんていえるほどきれいなものではなかった。
 もっと身勝手で薄汚い、哀れみと優越感が胸に湧いたからだった。
 ――あの日、俺が彼女に、近づいたのは。


「久世さーん、もう消しちゃっていいー?」
「あっ、うん! 大丈夫!」
 間髪入れず彼女が返した答えに、俺は思わず眉を寄せた。
 質問を投げたのは、教壇のところに立っている日直の男子。彼の後ろにある黒板には、先ほどの授業で英語の先生が書いた、だいぶ癖のあるアルファベットが並んでいる。
 黒板消しを手にした彼は、さっきから少し苛立った様子で、彼女のほうをちらちら見ていた。
 窓際のいちばん前の席。教室内でひとりだけ、まだ黙々と板書をノートに書き写していた彼女を。

 彼女もきっと、迷惑そうなその視線に気づいていたのだろう。
 どう見てもまだ途中だったのに、耐えかねたように彼がそう訊いてきた瞬間、ぱっと手を止めて即座に頷いていた。

 ――いや、大丈夫じゃないだろ。
  俺は心の中でだけ呟いて、こっそりため息をつく。
 日直のやつだって、訊くまでもなくわかるだろうに。彼女がまだぜんぜん、ノートをとれていないことなんて。
 気にした様子もなく、彼は彼女の返答を聞くなり、さっさと黒板を消しはじめた。なんの気遣いもない速さで。

 容赦ないなあ、なんて思いつつ、だけど彼が、いつもこんなに冷たいわけではないことを俺は知っていた。もし今、必死にノートをとっているのが彼女ではないべつのクラスメイトだったなら、彼はもっと待ってあげたはずだ。せめて、次の授業が始まる五分前ぐらいまでは。
 容赦がないのは、それが彼女だからだ。
 彼だけではない。誰が日直だったとしても、彼女のことは待ってくれなかっただろう。きっと。

 久世みのり。
 それが彼女の名前だった。
 一度もまともに話したことはないけれど下の名前までばっちり覚えているのは、ただ単に、彼女が目立つから。
 これ以上なく、悪い意味で。

 そもそも、さっきの授業の板書はたいして多くなかった。のんびりノートをとっていても、授業中だけで充分書き写せる量だった。
 久世みのりがノートをとれなかったのは、彼女の責任だ。
 彼女が、授業が始まるなり机に突っ伏して、寝息を立てはじめたから。

 だけど先生が、そんな久世に対してなにか言うことはなかった。最前列の席で堂々と眠る彼女を、完全無視して授業を進めていた。
 英語の先生がとくべつ冷淡だというわけではない。この学校の先生は皆、そうだった。
 久世にはなにも言わない。授業中に寝ていても、咎めもしない。かまっていたらキリがないからかもしれない。
 久世は授業中、本当によく寝る。うたた寝どころではなく、最初から最後まで爆睡していることも多い。しかも、それが当たり前のような態度で。

 いつからこうなったのかなんて覚えていない。最初は怒られていたような気もするし、あまりに彼女が悪びれずに眠るから、先生たちも最初からあきれてなにも言っていなかったような気もする。
 怒ってもらえるうちが華だなんていうけれど、彼女を見ていると、本当にそうだなあ、と思う。
 とにかく彼女はもう、あきらめられていた。先生たちからも、クラスメイトたちからも。

 斜め後ろの席から、俺はちらっと久世の横顔を見てみる。
 あきらめたようにノートを閉じる彼女の表情は、いつもと同じ穏やかなものだった。
 たいして困った様子も、傷ついた様子もない。淡々と机の上を片づけ、鞄にしまっている。彼女はいつもそうだった。だからいつしか、クラスメイトたちも気にしなくなった。彼女が授業中、うたた寝どころではなく最初から最後まで爆睡していても。そのせいで一文字もノートがとれていなくても。

 ――困らないわけ、ないのに。
 さっきの授業、先生は黒板に書いた文法を指して、「これテストに出すぞー」とか言っていた。だから皆、必死にノートをとっていたのに。
 だけど久世にはもう、それを知るすべはない。黒板は消されてしまったし、誰も久世にノートを貸してあげたりはしないだろう。彼女に友達がひとりもいないことは、知っていた。

 どうしてそんな気になったのかは、自分でもよくわからなかった。
 だけど気づけば、俺は立ち上がっていた。
 さっき書き写した英語のノートを手に、久世のもとへ歩いていく。
「――なあ、これ」
 彼女の席の前に立ち、ノートを差し出す。
「へっ?」と弾かれたように顔を上げた彼女は、目を丸くして俺の顔を見つめながら、
「え、え、なに?」
「なにって、ノート」
 ぱちぱちと短くまばたきをする彼女へ、俺は再度ノートを差しだした。
「貸すよ。写していいよ」
 彼女にとっては、これ以上なくありがたい申し出のはずだった。
 誰も助けてくれる人なんていない、先生にすら見放された彼女に、俺だけが今、こうして手を差し伸べてやっているのだから。
 ありがとう、と彼女は俺の手に飛びついてくるはずだった。だから俺も、数秒後のそんな光景を想像して、優しいクラスメイト風の笑顔を作っていたのに、

「あ、ううん、大丈夫だよ。ありがとね」
 彼女の手はノートを素通りして、ひらひらと彼女の顔の前で揺れていた。
「……は? 大丈夫って」
「ノートは大丈夫。間に合わなかったのは仕方ないし、もうあきらめてるから」
 朗らかな笑顔で、当たり前のように彼女が言う。
 遠慮して言っているわけでもなさそうだった。彼女の口調は、断ることにまったく迷いがなかったから。

 予想外の返答に、一瞬反応が追いつかなかった。
 ぽかんとして彼女の顔を見つめてしまった俺に、
「でもありがとう。気にしてくれて、うれしいな」
 弾んだ声でそう言って、彼女はくしゃりと笑う。その言葉にも笑顔にも、嘘は見えなかった。本当に、うれしそうだった。目を細め、歯を見せて、幼く目一杯に笑っていた。
 だからよけいにわからなかった。どうして彼女は、俺の申し出を断ったのか。この状況なら、百パーセント喜ばれると思っていたのに。

 ――そうだ。だから、声をかけたのに。
 かわいそうな彼女を助けて、感謝されて、ほんの一時の充足感を味わうために。

 わけがわからなくて困惑していると、
「あ、先生来たよ」
「え」
 久世に言われて振り向くと、次の授業の日本史の先生が教室に入ってくるところだった。
「じゃあね。ほんとにありがとう、成田くん」
 いそいで自分の席に戻ろうとした俺の背中に、ふたたびそんな感謝の言葉が投げられる。噛みしめるようなその口調に、俺はまた困惑した。

 本当に、うれしそうだったのに。
 一瞬問い詰めたくもなってしまったけれど、そこで先生が授業の開始を告げたため、彼女が受け取らなかったノートを手にしたまま、なんとなく釈然としない気分で椅子に座るしかなかった。