僕を残して、君のいない春がくる

 それは決して、優しさなんていえるほどきれいなものではなかった。
 もっと身勝手で薄汚い、哀れみと優越感が胸に湧いたからだった。
 ――あの日、俺が彼女に、近づいたのは。


「久世さーん、もう消しちゃっていいー?」
「あっ、うん! 大丈夫!」
 間髪入れず彼女が返した答えに、俺は思わず眉を寄せた。
 質問を投げたのは、教壇のところに立っている日直の男子。彼の後ろにある黒板には、先ほどの授業で英語の先生が書いた、だいぶ癖のあるアルファベットが並んでいる。
 黒板消しを手にした彼は、さっきから少し苛立った様子で、彼女のほうをちらちら見ていた。
 窓際のいちばん前の席。教室内でひとりだけ、まだ黙々と板書をノートに書き写していた彼女を。

 彼女もきっと、迷惑そうなその視線に気づいていたのだろう。
 どう見てもまだ途中だったのに、耐えかねたように彼がそう訊いてきた瞬間、ぱっと手を止めて即座に頷いていた。

 ――いや、大丈夫じゃないだろ。
  俺は心の中でだけ呟いて、こっそりため息をつく。
 日直のやつだって、訊くまでもなくわかるだろうに。彼女がまだぜんぜん、ノートをとれていないことなんて。
 気にした様子もなく、彼は彼女の返答を聞くなり、さっさと黒板を消しはじめた。なんの気遣いもない速さで。

 容赦ないなあ、なんて思いつつ、だけど彼が、いつもこんなに冷たいわけではないことを俺は知っていた。もし今、必死にノートをとっているのが彼女ではないべつのクラスメイトだったなら、彼はもっと待ってあげたはずだ。せめて、次の授業が始まる五分前ぐらいまでは。
 容赦がないのは、それが彼女だからだ。
 彼だけではない。誰が日直だったとしても、彼女のことは待ってくれなかっただろう。きっと。

 久世みのり。
 それが彼女の名前だった。
 一度もまともに話したことはないけれど下の名前までばっちり覚えているのは、ただ単に、彼女が目立つから。
 これ以上なく、悪い意味で。

 そもそも、さっきの授業の板書はたいして多くなかった。のんびりノートをとっていても、授業中だけで充分書き写せる量だった。
 久世みのりがノートをとれなかったのは、彼女の責任だ。
 彼女が、授業が始まるなり机に突っ伏して、寝息を立てはじめたから。

 だけど先生が、そんな久世に対してなにか言うことはなかった。最前列の席で堂々と眠る彼女を、完全無視して授業を進めていた。
 英語の先生がとくべつ冷淡だというわけではない。この学校の先生は皆、そうだった。
 久世にはなにも言わない。授業中に寝ていても、咎めもしない。かまっていたらキリがないからかもしれない。
 久世は授業中、本当によく寝る。うたた寝どころではなく、最初から最後まで爆睡していることも多い。しかも、それが当たり前のような態度で。

 いつからこうなったのかなんて覚えていない。最初は怒られていたような気もするし、あまりに彼女が悪びれずに眠るから、先生たちも最初からあきれてなにも言っていなかったような気もする。
 怒ってもらえるうちが華だなんていうけれど、彼女を見ていると、本当にそうだなあ、と思う。
 とにかく彼女はもう、あきらめられていた。先生たちからも、クラスメイトたちからも。

 斜め後ろの席から、俺はちらっと久世の横顔を見てみる。
 あきらめたようにノートを閉じる彼女の表情は、いつもと同じ穏やかなものだった。
 たいして困った様子も、傷ついた様子もない。淡々と机の上を片づけ、鞄にしまっている。彼女はいつもそうだった。だからいつしか、クラスメイトたちも気にしなくなった。彼女が授業中、うたた寝どころではなく最初から最後まで爆睡していても。そのせいで一文字もノートがとれていなくても。

 ――困らないわけ、ないのに。
 さっきの授業、先生は黒板に書いた文法を指して、「これテストに出すぞー」とか言っていた。だから皆、必死にノートをとっていたのに。
 だけど久世にはもう、それを知るすべはない。黒板は消されてしまったし、誰も久世にノートを貸してあげたりはしないだろう。彼女に友達がひとりもいないことは、知っていた。

 どうしてそんな気になったのかは、自分でもよくわからなかった。
 だけど気づけば、俺は立ち上がっていた。
 さっき書き写した英語のノートを手に、久世のもとへ歩いていく。
「――なあ、これ」
 彼女の席の前に立ち、ノートを差し出す。
「へっ?」と弾かれたように顔を上げた彼女は、目を丸くして俺の顔を見つめながら、
「え、え、なに?」
「なにって、ノート」
 ぱちぱちと短くまばたきをする彼女へ、俺は再度ノートを差しだした。
「貸すよ。写していいよ」
 彼女にとっては、これ以上なくありがたい申し出のはずだった。
 誰も助けてくれる人なんていない、先生にすら見放された彼女に、俺だけが今、こうして手を差し伸べてやっているのだから。
 ありがとう、と彼女は俺の手に飛びついてくるはずだった。だから俺も、数秒後のそんな光景を想像して、優しいクラスメイト風の笑顔を作っていたのに、

「あ、ううん、大丈夫だよ。ありがとね」
 彼女の手はノートを素通りして、ひらひらと彼女の顔の前で揺れていた。
「……は? 大丈夫って」
「ノートは大丈夫。間に合わなかったのは仕方ないし、もうあきらめてるから」
 朗らかな笑顔で、当たり前のように彼女が言う。
 遠慮して言っているわけでもなさそうだった。彼女の口調は、断ることにまったく迷いがなかったから。

 予想外の返答に、一瞬反応が追いつかなかった。
 ぽかんとして彼女の顔を見つめてしまった俺に、
「でもありがとう。気にしてくれて、うれしいな」
 弾んだ声でそう言って、彼女はくしゃりと笑う。その言葉にも笑顔にも、嘘は見えなかった。本当に、うれしそうだった。目を細め、歯を見せて、幼く目一杯に笑っていた。
 だからよけいにわからなかった。どうして彼女は、俺の申し出を断ったのか。この状況なら、百パーセント喜ばれると思っていたのに。

 ――そうだ。だから、声をかけたのに。
 かわいそうな彼女を助けて、感謝されて、ほんの一時の充足感を味わうために。

 わけがわからなくて困惑していると、
「あ、先生来たよ」
「え」
 久世に言われて振り向くと、次の授業の日本史の先生が教室に入ってくるところだった。
「じゃあね。ほんとにありがとう、成田くん」
 いそいで自分の席に戻ろうとした俺の背中に、ふたたびそんな感謝の言葉が投げられる。噛みしめるようなその口調に、俺はまた困惑した。

 本当に、うれしそうだったのに。
 一瞬問い詰めたくもなってしまったけれど、そこで先生が授業の開始を告げたため、彼女が受け取らなかったノートを手にしたまま、なんとなく釈然としない気分で椅子に座るしかなかった。
 次の授業も、久世はあいかわらずだった。
 開始直後こそ、いつになく上機嫌な様子で、シャーペンを指でくるくると回したり(そして取り落としたり)していたが、すぐにその動きは鈍くなり、そう時間が経たないうちに頭が前後に揺れはじめた。
 彼女に、眠気に抗う気なんてものは最初からないらしい。眠そうだなあ、と思った数分後には、揺れていた彼女の頭は机に突っ伏していた。
 さっきもさんざん寝ていたくせにまだ眠いのか、といっそ感心してしまう。
 まあ今更だけど。
 高校生活が始まってから半年、久世がまともに授業を受けている姿なんて、ほぼ記憶になかった。たいていこんなふうに寝ているか、そもそも教室にいないかだ。
 授業中に眠りこけるのと同じぐらいの頻度で、彼女はよく授業をさぼってもいた。

「あー、目障り」
 プリントを回すために後ろを向いたところで、後ろの席の鹿島がぼそっと呟いた。
「なにが」と小声で聞き返せば、鹿島は目線で斜め前にいる久世のほうを示してみせ、
「ああいうやつがいるとやる気削がれるよなあ、ほんっと」
「いいじゃん、べつに。視界に入れなきゃ」
「嫌でも入ってくんだろ。斜め前にいるんだから。あー、早く席替えしたい」
 虫の居所でも悪いのか、いつになくイライラした様子でぼやく鹿島に曖昧な相槌だけ打ってから、俺はまた前を向き直る。
 そうするとたしかに、久世の丸まった背中が否応なしに目に入ってきて、鹿島の苛立ちにもちょっと同意した。

 鹿島のように、久世に対して苛立っているクラスメイトは少なくない。
 いちおう進学希望者の多いこの高校生の生徒たちは、皆そこそこ真面目だ。たいていのやつが授業ぐらいは真面目に受けているし、久世みたいにしょっちゅう授業をさぼったり、授業中堂々と眠りこけるやつなんて他にはいない。
 まあ、クラスメイトがひとり授業を真面目に受けないところで実害があるわけではないし、普段は皆あきれている程度だけれど。
 ときどき、久世のあまりのやる気のなさに、苛立っているやつもいる。さっきの鹿島みたいに。

 かくいう俺も、たまにイライラした。テスト前、ピリついているときとか。
 俺からしたら、授業中に寝ることも、ノートをとらないことも、ぜったいにあり得ないから。

「成田くん、お願いっ。ノート見せてくれないかな?」
 授業が終わるなり、俺の机の前に立った宇佐美が、そう言ってぱんっと手を合わせてきた。
 聞き慣れた台詞だった。週に三四回ぐらいの頻度で、俺はこのお願いをされる。宇佐美だけでなく、ときどき、たいして仲良くないクラスメイトからも。
「さっきの授業、ちょっと居眠りしちゃってさ、ノートとり損ねたところあって……」
「いいよ、どーぞ」
 合わせた両手の指先を口元に当て、上目遣いにこちらを見てくる宇佐美に、俺は短く返してノートを差しだす。
 途端、宇佐美はぱっと顔を輝かせた。「ありがと!」と明るい声で笑って、少し癖のあるセミロングの髪を耳にかける。
「助かる! 成田くんのノート、ほんときれいでわかりやすいから」
「だろ」
 クラスメイトたちが俺に頼むのは、きっと信用があるからだ。ノートのきれいさやわかりやすさというより、俺ならぜったいに、間違いなくノートをとっているという。
 たしかに俺は今まで一度も、ノートをとり損ねたことなんてなかった。

「昼休みまで借りててもいいかな?」
「いいよ、べつに今日一日中でも」
「ほんと? ありがとう!」
 両手で大事そうにノートを受け取る宇佐美の向こう、まだ机に突っ伏したままの久世の姿が見えた。授業が終わったことにすら気づいていないような熟睡っぷりだ。周りのクラスメイトたちももう慣れた様子で、誰も起こそうとはしない。
「あー、あいかわらずよく寝てるね。久世さん」
 俺の視線の先に気づいたらしい宇佐美が、久世のほうを振り返って苦笑する。
「すごいよね、ある意味。不安にならないのかな。授業についていけなくなっちゃうかも、とか」
「ならないんじゃないの」
 宇佐美の口にした心配は久世とはあまりに縁遠い感じがして、俺も思わず笑っていた。さっき向けられた久世の言葉を思い出しながら、続ける。
「なんかもう、あきらめてるらしいし」
「え、なにを? 進学?」
「たぶん。知らないけど」
「えー、あきらめるの早くない? まだ高一だよ」
 宇佐美は肩をすくめてから、「じゃあ、借りていくね」と笑って踵を返した。

 宇佐美がいなくなると、久世の姿がまっすぐに視界に入ってきた。
 ――もうあきらめたから。
 さっきの久世の声がいやに耳に残っていることに、今気づいた。
 きっと、彼女が“あきらめた”のは英語のノートだけではない。宇佐美の言ったように、きっと進学も、彼女はすでにあきらめている。それぐらい、普段の彼女を見ていればよくわかった。
 そして彼女があきらめたのは、至極当然だということも。

 早くなんてない。半年もあれば充分だったはずだ。久世はたぶん知ったのだろう。高校生活が始まって、授業を受けていくうちに。自分が勉強ができないこと。どんなに頑張っても、周りの生徒たちについていけないこと。だから頑張ることをやめたのだ、きっと。届かないものに手を伸ばしつづけるのは、血反吐が出そうなほど苦しいから。
 ――俺だって、それぐらいならよく知っていた。
 家に帰ると、母がやたら上機嫌だった。晩ご飯の準備をしながら、鼻歌なんて歌っている。
 理由はすぐにわかった。俺の少しあとに兄が帰ってくると、
「日向。どうだった? 結果」
 期待を隠しもしない弾んだ声で、母が真っ先に兄へ訊ねていた。料理の手を止め、タオルで手を拭ってから、兄のもとへ歩いてくる。
 そして兄はいつだって、その期待を裏切らない。
「ん、こんな感じ」
 鞄から取り出した細長い紙を、兄が母へ差し出す。
 それを受け取った母は、ぱっと表情がほころばせ、
「さっすが! 頑張ってたもんね」
「まあ、前回よりは落ちたけど」
「充分充分。また一位じゃない。難しかったんでしょ、今回のテスト」
 うれしさと誇らしさに満ちた母の高い声が続くのを、俺はリビングのソファでぼんやり聞いていた。
 しばらく成績表を眺めてから、母は満足そうな様子で料理に戻る。さっきより音量を上げて、鼻歌も再開する。
 今日の母は、朝からこんな調子だった。
 兄の、定期テストの結果が返ってくる日。母はこの日が大好きだ。
 兄の結果はぜったいに、母を喜ばせてくれるから。

 その少し音が外れたスタンドバイミーを聞きながら、俺はスマホに視線を戻す。
 おもしろくはないけれど他にすることもないので、クラスのグループラインで交わされている会話をなんとはなしに眺めていたら、
【今日返ってきた中間やばい。ぜったい親にキレられる】
 と誰かが発言した。
 それにぽんぽんと、適当なスタンプが返ってくる。笑っていたり、慰めていたり。
 眺めているうちに口の中に苦いものが広がってきて、俺はスマホを閉じた。
 ソファから立ち上がり、リビングを出ていこうとすると、
「あ、晴。もうすぐご飯できるからねー」
 という母の声が背中にかかった。
 うん、と返事をしながら振り返る。母は手元のフライパンを見ていて、目は合わなかった。

 自分の部屋に戻り、鞄から成績表を引っ張りだす。さっき兄が母に見せていたものとよく似た、細長い紙。奥のほうに乱雑に突っ込んでいたせいで、ぐしゃぐしゃになっていた。
 しわを伸ばそうとして、すぐに、まあいいか、と思い直す。
 どうせ誰も見ないから。

 77、80、85、82……。
 歪んだ文字で、なんともぱっとしない数字が並んでいる。
 いちばん端に載っている校内順位は、十七位。本当に、ぱっとしない。
 まあ、仮にここが一位だったとして、通っている高校の偏差値自体が低いので、兄に比べればたいしたことはないのだけど。現実はそんな低ランクの高校でこの順位なのだから、もう救いようがない。

 今日は俺の高校でも中間テストの結果が返ってくる日だったなんて、きっと母は知らない。訊かれていないから、教えていないし。
 いつから訊かれなくなったのだろう。
 入学したばかりの頃は、訊ねられて成績表を母に見せていた気がする。だけどそのたびこんなぱっとしない結果を見せられて、母も嫌になったのだろう。兄の成績表みたいに、見るだけでテンションが上がるようなものでもないし。
 母の気持ちはよくわかる。だからべつに、それについてなにか思うことはない。当然の差だと思うだけ。おまえはだめだ、とか、お兄ちゃんに追いつけるように頑張りなさい、とか、きついことを言われるわけでもないし。昔はちょっとだけ言われていたような気もするけれど、今はもうなにもない。だからなんの問題もない。いたって平和。
 ただ、期待されていないだけ。
 あきらめられた、だけ。

 ふと思い立って、俺はまたスマホを取りだした。さっきまで眺めていたグループラインの、メンバー一覧開く。ずらっと並んだ名前を、上から順に眺めていく。
 ほとんど全員のクラスメイトが参加しているその中に、やはりというか、久世みのりの名前はなかった。
「久世」
 翌日。一限目の数学が終わったところで、俺は久世の席へ行き、声をかけた。
 ちなみに先ほどの授業も、彼女は九割方寝ていた。
 もちろんノートなんて一文字もとっていなかったし、日直がさっさと黒板を消しはじめた今も、まだ机に突っ伏したまま動かない。

「授業終わったけど。起きて」
 我ながら変な台詞だと思いつつ、彼女の後頭部にそんな声を落とす。
 しかしそれでも、彼女は起きなかった。ちょっとためらったあとで彼女の肩に触れ、軽く揺する。
「久世ってば」
 そこでようやく、彼女は夢の世界から帰ってきたようだった。
 ぴくっと頭が動いてから、伏せられていた彼女の顔がゆっくりと上がる。
「……え」
 長い前髪のあいだから、まだぼんやりとした双眸が俺を見上げた。
「成田くん?」
「うん。ほら、これ」
 彼女が完全に覚醒しきるのを待たず、俺は手にしていたノートを彼女に差しだした。さっきの、数学の授業のノート。
 突然眼前に突きつけられたそれを、久世は寝起きのあいまいな目で眺めながら、
「えっと……なに?」
「なにって、ノート」
 昨日も同じやり取りをしたな、と思いながら、俺は短くまばたきをしている彼女に突っ返す。
「数学のノート。貸してやるよ」
 久世はなんだかきょとんとした目で、俺の顔を見た。戸惑ったように、また何度かまばたきをする。
「え、なんで」
「さっきの授業寝てたから。ノートとってないだろ」
「でも私、もういいんだって……」
「久世があきらめてるのはわかったけど。でも進学はしないにしても、定期テストぐらいは赤点とらない程度に頑張っとかないと、留年するかもしれないし。だから」
 つらつらと並べた理由は、なんだか自分へ言い聞かせる言い訳のようだった。
 ――そう、久世のため。
 久世が、困るだろうから。
「このノート、とにかくテストに出そうなところまとめてるから。このノートだけでも完璧に覚えとけば、最低でも七十点は」
「あ……あの、あのね、成田くん」
 つい早口にまくし立てていた俺の言葉を、久世がおずおずとさえぎる。
 そうして申し訳なさそうに眉を下げた笑顔で、
「ごめんなさい」
 だけどはっきりとした声で、そう告げた。
「私ね、たぶん、成田くんが思ってるレベルじゃないっていうか……。本当にぜんぜん、わかってないんだ。授業にもぜんぜんついていけてないの。だからせっかくだけど、成田くんのノート借りたところで、どうにかなるような成績じゃないというか……」

 ――それはお前が、真面目に授業を受けてないからだろ。
 困ったように指先で頬を掻きながら、言いづらそうにそんなことを言う久世に、喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込む。
 代わりに、「大丈夫」と出来る限りの笑顔を向けてみせ、
「今までの授業、理解できてなくても。このノート覚えれば、次の定期テストはなんとかなるから」
「えっ、今までの内容ぜんぜんわかってなくても?」
「大丈夫だよ。定期テストぐらいなら、わかってなくてもとれる」
「え、うそ。そうなの?!」
「そうだよ」
 だって俺は、ずっとそうだった。
 たぶんもう長いこと、理解なんてできていない。ただ定期テストは範囲が決まっているから、その範囲だけ完璧に暗記すれば、案外なんとかなっただけで。英語の文法も、数学の数式も。
 そんなやり方で、今までずっと、乗り切ってきた。
 自分の頭の悪さを、取り繕ってきた。
「だからとにかく、このノート貸すから写してみて。あとで英語とか日本史のノートも貸すよ。まとめてるから」
 そう言って久世の机にノートを置けば、久世はしばし無言で俺を見た。
 なにかを探すみたいにじっと、俺の目を見つめる。
 その視線になんだか少し気恥ずかしくなって、俺が目を逸らそうとしたとき、

「なんでそんなに、親切にしてくれるの?」
 純粋に理由がわからない、というようなまっしろな口調で、久世が訊ねてきた。
 だから俺は逸らしかけた視線を、久世の顔に戻した。
 その口調と同じぐらい彼女の目もまっすぐで、一瞬、胸の奥が嫌な感じに波立つ。だけどそれを押さえつけ、俺も彼女の目を見つめ返すと、
「なんか、心配だから」
 笑顔を崩さないよう努めながら、言葉を返した。
「心配?」
「久世、このままだと赤点とって留年しちゃうんじゃないかと思って。よけいなお世話かもしれないけど、せっかく同じクラスになれたんだし、みんなでいっしょに進級したいじゃん。だから」
 言いながら、あまりの安っぽさに笑ってしまいそうな台詞だった。
 だけど久世は食い入るように俺の顔を見つめたまま、じっとその台詞を聞いていた。だから俺も、視線を動かせなかった。作った笑顔を崩さないまま、久世の顔を見つめる。そうして続けた。
「頑張ろう。ぜったい、なんとかなるよ」

 ――本当に。
 反吐が出そうな、台詞だった。
「成田くん、これ、ありがと!」
 次の休み時間。そう言ってノートを返しにきたのは、宇佐美だった。
 俺の机の前に立った宇佐美は、八重歯をのぞかせて明るく笑いながら、
「やっぱりきれいでわかりやすかったー、成田くんのノート。ほんとに助かりました!」
「どういたしまして」
 俺も愛想良く笑って、返されたノートを受け取る。
 それで宇佐美の用事は終わりかと思ったけれど、ノートを渡したあとも彼女はなぜか立ち去ろうとしない。その場に立ったまま、どこか落ち着かない仕草で前髪を軽くいじっている。
 なんだろう、と思っていると、
「……あのさ、成田くん」
 しばし迷うような間を置いてから、宇佐美がおずおずと切り出してきた。
「さっき成田くん、久世さんにノート貸してなかった?」
「ああ、うん。貸したよ」
 宇佐美の強張った口調は気になったけれど、嘘をつく理由もないので正直に頷けば、
「え……成田くんって、久世さんと仲良いの?」
「仲良いってほどじゃないけど。あんまり話したことないし」
「じゃあなんでノート貸したの?」
「なんでって、久世、さっきの授業のノート取り損ねてたみたいだったから。困ってるんじゃないかと思って」
 いかにも優等生らしい笑顔を浮かべて、いかにも模範的な、思っていない理由を並べる。
「そ、そっか」と宇佐美はあいかわらずどこか強張った声で相槌を打って、
「やっぱり優しいよね、成田くん」
「……そうかな」
 呟くように宇佐美が続けた言葉に、一瞬だけ、口元が引きつりそうになった。
 だけどなんとか優等生らしい笑みは崩さないようにして、そんな適当な相槌を打ったとき、

「――あ」
「え?」
 ふいに宇佐美が声を上げると同時に、眼前に白い手のひらが現れた。
 思わず間の抜けた声が漏れる。
 宇佐美の手だと理解した次の瞬間には、それは俺の前髪に触れようとしていた。俺の額を覆う、長めの前髪に。
 途端、心臓が跳ね上がり、息が止まる。背中に冷たい汗が噴きだす。

 咄嗟に、俺は身体を後ろへ引いていた。
 宇佐美の手が俺の髪から離れる。それに反射的に安堵していたら、
「え……ご、ごめん」
 宇佐美の驚いたような声が聞こえて、はっとした。
 宇佐美のほうを見ると、彼女は右手を宙ぶらりんに浮かせたまま、困惑した顔で俺を見ていた。
「髪に糸くずがついてたんだ。だからとろうかと思ったんだけど……ごめんね、急に触ったらびっくりするよね」
「い、いや、俺こそごめん」
 まだ心臓はばくばくと落ち着かない。だけどなんとか落ち着いた表情を作ろうと、必死に努めた。
 宇佐美が申し訳なさそうな顔をしていることに心苦しくなる。
 なにをしているのだろう。べつに宇佐美は悪くない。彼女の言うように、髪についていた糸くずをとろうとしてくれただけだ。なのに。
「ごめん、ほんと。ちょっとびっくりしただけで」
「ううん、あたしこそ。いきなりごめんね」
 お互いなんとなくバツの悪い感じになってしばらく謝り合う。そこで助け船のように、始業を告げるチャイムが鳴った。
 宇佐美があわてて自分の席を戻る。その背中を見送りながら、俺はゆっくりと息を吐いた。大丈夫だ、と心の中で呟く。長めに伸ばした前髪に、指先で触れる。
 大丈夫、宇佐美には見えていない。
 俺はちゃんと、隠せているはずだから。
 その後もなんとなく気持ちが落ち着かなくて、昼休みになると俺は教室を出た。
 最初はトイレに入ろうとしたけれど、中で数人の男子がしゃべっていているのを見て、すぐにやめた。
 どこか人のいない場所はないかと探しながら、校内を歩く。

 そうしているうちに思い当たったのは、北校舎の空き教室だった。
 北校舎にあるのは音楽室や美術室といった特別教室ばかりで、どの教室も基本的に授業中以外施錠させている。だから休み時間の北校舎は、いつもほとんど人がいなかった。
 だけどその中にひとつだけ、なににも使われずあまっている教室があるのを、前に見つけていた。三階のいちばん奥、汚れた机や椅子がいくつか乱雑に置かれているだけの、空き教室を。

 渡り廊下から北校舎に移り、迷いなく階段を三階まで上がる。そのあいだ、ほとんど無意識に指先で前髪をいじっていた。
 先ほど、宇佐美がなにげなく、ここに触れようとしたときから。
 授業中もずっと、気になって仕方がなかった。落ち着かなくて、じっとしていられなくなって、それで視線から逃げるように教室を出てきたのだ。
 わかっていた。べつに宇佐美はなにかに気づいたわけではない。ただ、糸くずをとろうとしてくれただけだ。なのに。
 気になりはじめたら、もうだめだった。一度、鏡で確認したくてたまらなくなった。手鏡なら日頃から持ち歩いているし、今も制服のポケットに入っている。けれどさすがに、教室で堂々とそれを取りだすのは憚られて。

 ――男の子なんだから、そんなに気にしなくてもいいじゃない。
 いつだったか、母に言われた言葉。
 あきれたような、どこか少し、悲しそうにも見える顔で。
 たぶん小学生の頃の俺が、あまりに額の痣を気にして、顔を隠してばかりいたから。
 その表情と声が、今でも奇妙なほどくっきり、脳に焼きついていた。

 早足に廊下を奥へ進み、空き教室に入る。そうして窓際まで歩いていくと、壁にもたれかかり、ポケットから手鏡を取りだした。
 長めに伸ばした前髪の、右のほうをかきわける。その下に隠れていた額を、鏡に映してじっと見る。
 今朝もそこに塗った、コンシーラー。それは今日も完璧に、本来そこにある赤い痣を、隠してくれている。
 大丈夫だ。いつもどおり。――ちゃんと、隠せている。

 息を吐いて、今度は反対側のポケットに手を入れた。教室を出る前、クラスメイトにバレないようこっそり鞄から持ち出してきた、それを取りだす。
 手のひらに収まるサイズの、黒いスティック。キャップを外すと、マジックペンのような先端に、肌色のクリームがにじんでいる。
 せっかくだし、塗り直しておくか。
 ふとそんなことを思い立って、鏡を見ながらそれを顔につけようとしたときだった。

 がたっ、と物音がした。教室の後ろのほうから。
 びくりと肩が揺れる。本当に一瞬、心臓が止まりかけた。
 弾かれたように振り返ったそこにいたのは、人だった。
 教室の後方に備えつけられた棚の上。ひとりの女子生徒が、横向きに寝ころんでいた。
「は……? え?」
 理解が追いつかなくて、引きつった声がこぼれる。
 カーテンだけが閉められた教室内は、薄暗くはあった。だけど日の光はカーテンを透かして差し込んでいるし、真っ暗というわけではなかった。
 だからこちらを向いていたその女子の見知った顔も、すぐに捉えることができて。
「く、久世……?」
 え、いつから? いつからいた?
 混乱する頭で俺は必死に考える。
 最初、この教室に入ったとき。そういえば俺は、中を確認しただろうか。誰もいるはずはないと思い込んでいて、教室の後方なんて見もしなかった気がする。
 ――だったら、最初から。
 久世は、ずっと……?

 思い至った途端、ざあっと顔から血の気が引いた。
 拍子に指先からコンシーラーがすべり落ち、床にぶつかる。かん、という固い音が、いやに大きく響いた。
 久世の目は開いていた。
 まっすぐに、こちらを見ていた。
 さっきみたいな寝起きのぼんやりした目ではなく、大きく見開かれた、しっかりとした双眸で。

「えっ」
 驚いたようなその表情のまま、久世が勢いよく身体を起こす。
「それって!」
 興奮したように声を上げた彼女が指さしたのは、床に転がるコンシーラー。
 それに気づいた途端、よけいに絶望感が増した。
 ――終わった。完全に。
 手鏡で顔を確認する姿だけでなく、コンシーラーまで。しかもそれを自分の顔に塗ろうとしていた姿まで、ばっちり見られた。
 理解が追いつくと同時に、頭の中が暗くなる。指先から熱が引く。
 咄嗟に考えを巡らせたけれど、ここまで見られておいてうまい言い訳なんてできそうにもなくて。

 ――もうだめだ。終わった。
 男のくせにコンシーラーを持ち歩いている、きもいやつ。
 今後クラスメイトから叩かれることになるであろう陰口を想像して、凍ったようにその場に立ちつくしていたとき、
「すごーい! それ、ファンデーションってやつだよね!」
「……は?」
 ぱっと顔を輝かせた久世が、コンシーラーを指さしたまま弾んだ声を上げた。
 彼女の口にした見当外れな単語に、思わず間の抜けた声をこぼせば、
「わあ、いいな! ね、ちょっと見せてもらってもいいかな?!」
 言うが早いか、彼女は棚から下りてこちらへ駆け寄ってきた。
 俺がなにも答えていないうちに、床に転がるコンシーラーを拾う。そうしてキラキラした目で、顔の高さに持ち上げたそれを眺めながら、
「すごい、すごい。これ、顔に塗るんだよねっ? 塗ったらすごいきれいになるんでしょ?」
「……まあ」
「わー、いいな。ファンデーション、すごいなあ。成田くん、こんなの持ってるなんて!」
 お宝でも見つけたみたいに、ひとりで興奮気味に久世がまくし立てる。
 頬を上気させ、ひどく熱心にそれを見つめる彼女に、
「……ファンデーションじゃなくて、それはコンシーラーだけど」
「へ、なんて? こん?」
「コンシーラー。……久世って、普段化粧とかしないの?」
 その小学生みたいな反応に、つい気になって訊いてしまうと、
「うん、しない。したことないなあ、そういえば。朝は時間もないし」
 あっけらかんと答える久世の肌は、たしかに化粧なんて必要ないぐらいきれいだった。あまりに日に当たっていないのか、抜けるように白い肌には透明感があって、毛穴も目立たない。もちろん傷もシミもひとつもない。……うらやましいぐらいに。

「ね、ね、それよりっ」
 はじめて間近で見たそのきれいさに、一瞬目を奪われかけたときだった。
 ぱっと顔を上げた久世が、満面の笑顔で俺を見て、
「お願い! これ、少しだけ使っちゃだめかな?」
「……え」
「本当に少しだけでいいの。少しだけ、塗ったらどんな感じになるのか見てみたいなって……」
 期待に満ちた幼い表情で、じっと俺の顔を見つめてくる久世の目を、俺も黙って見つめ返した。
 彼女の表情にも口調にも、なにも裏なんて見えなかった。
 本当にただ、今の彼女はコンシーラーに心を奪われていて、それ以外のことなんてなにも考えていないのだろう。きっと。

「あ、だめ、かな……?」
 俺が答えないことになにを思ったのか、彼女の表情が少し曇る。
 その子どもみたいな顔と弱くなった言葉尻に、いつの間にか強張っていた身体から、ふっと力が抜けるのを感じた。
 ――さっきは、もう完全に終わった、なんて思ったけれど。
 やっぱり、たぶんセーフだ。まだ。

 だって、相手は久世みのりだった。クラスで思いきり浮いている彼女に、そもそも俺の秘密を言い触らすような友達もいないはずだし。
 それにちょうどよく、俺はさっき彼女に恩を売ってもいる。定期テストの出題範囲を的確にまとめた、これ以上なく有用なノートを貸してやったばかりではないか。泣いて感謝してもらってもいいぐらいのことをしてやっているのだ。そのわりに久世の反応は薄かったけれど、ともかく。
 ――これなら、たぶんまだ、なんとかなる。

「……久世」
「うん?」
 覗き込むように俺の顔を見つめていた久世の手から、俺はコンシーラーを取る。
 そうしてまっすぐに、久世の目を見ると、
「だめじゃないからさ、ひとつ、約束してほしいんだけど」
「え、なに?」
「このことは、誰にも言わないって」
 じっと久世の顔を見つめたまま、出来る限り真剣な表情を作って、ゆっくりと告げる。口調も、できるだけ切実な、訴えかけるようなものを意識した。
「このこと?」
「だから、俺が……これを、持ってたこと、とか」
「えっ、なんで?」
 久世からはきょとんとした調子で聞き返され、俺は一瞬、あっけにとられた。
「いや、なんでって」困惑しながら早口に突っ返す。
「知られたらやばいだろ。男のくせに化粧してるとか……」
 当然のことを言ったつもりだったのに、そこでなぜか「えっ」と驚いたような声が上がった。久世が目を丸くして俺を見る。
「成田くんって、化粧してるの?!」
 ……あ。
 墓穴を掘ったことに気づいたのは、そこでだった。
 間抜けに口を開けたまま、思わず固まる。
 そうだ。べつに化粧道具を持っているところを見られたからって、それが俺の私物かどうかなんてわかりようがなかったのだ。落とし物を拾っただけだとかクラスの女子にちょっと借りただけだとか、いくらでも嘘のつきようはあったのに。
「あ、い、いや」咄嗟に弁明しようと、俺は口を開きかける。
 だけどうまい言い訳が思いつかないうちに、「え、すごい、すごいね!」と久世がますます興奮したように高い声を上げた。
「じゃあさ、もしかしてこれ以外にも化粧道具持ってたりするの? あっ、そうだ、あれは? アイシャドウ、だっけ。あれも持ってる? 私ね、あれ憧れてるの。前にね、女優さんが水色のきれいなやつつけてるの見て、私も一回つけてみたいなあって思ったんだ! 化粧道具見たら急に思い出した! ね、ね、持ってる?」
 よりいっそう目を輝かせた久世が、食いつくような勢いでまくし立ててくる。顔までぐっとこちらに近づけてきた彼女に、思わず身体を引かせながら、
「……いや、持ってるわけないだろ。化粧するって言ってもファンデとコンシーラーぐらいだし。アイメイクとかしないから」
 そもそも俺は、きれいになるために化粧をしているわけではない。ただ、顔の痣を隠すため。それだけだ。断じて趣味だとかではなく、不可抗力のようなものなのだから。
「えー、なんだ、そっかあ」
 俺の返事を聞いて、久世はあからさまにがっかりした顔になる。
 だけどすぐに、気を取り直したようにまた笑顔になって、
「じゃあとりあえず、その、コンシーラー? だけでもちょっと使わせてほしいな。ほんの少しでいいから。どんなふうにきれいになるのか見てみたいんだ」
 言って、久世はとんとんと自分の頬に指先で触れる。
 透けそうに白いその肌を、俺は思わずじっと眺めた。眉を寄せる。
 ……どこに使うというのだろう。
 コンシーラーは、肌の気になる部分を隠すためのものだ。
 久世の肌の、いったいどこを隠すというのか。

 思ったら、声が知らぬ間に、喉から転がり落ちていた。
「……ない」
「へ?」
「ないよ。久世の顔に、コンシーラー塗るところなんて」
 隠すような傷もシミもニキビ跡も、そこにはなにひとつないのに。
 むしろ塗ったほうが、肌の色がくすみそうだった。そもそもこのコンシーラーは俺の肌色に合わせてあるから、間違いなく久世には合わない。
 だから、
「塗らないほうがいいと思う。久世、せっかくきれいなんだし、なんかもったいないっていうか……」

 そこではっとして言葉を切ったときには、もう遅かった。
 目の前にある久世の目が、大きく見開かれる。頬が上気して、薄く開かれた唇から、声がこぼれる。
「……きれい」
 ぼそっと呟かれたのは、数秒前の俺の言葉で。
 久世が繰り返したその響きを聞いた途端、いっきに顔が熱くなった。
「あっ、い、いや、その」あわてて口を開くと、ひどく不格好に上擦った声があふれる。そのことによけいに焦って、
「肌が! 肌がさ、傷とかなんにもなくて、きれいだから、久世」
「あ、う、うん……」
「化粧するなら肌じゃなくて、久世は目とか口元とか、そっち系のほうがいいんじゃないかって。さっき久世も言ってた水色のアイシャドウとかさ、たしかに似合いそうだし、そっちしてみればいいんじゃ」
「えっ……ほ、ほんとに?」
 咄嗟にまくし立てていた言葉を、久世が驚いたように拾って聞き返してくる。
 え、と俺もちょっと驚いて言葉を切れば、
「ほんとに私、そういうの似合うかな? 水色のアイシャドウとか……」
 少し恥ずかしそうな、だけどキラキラとした期待に満ちた目が、じっと俺を見つめてくる。子どもみたいな、心底まっすぐな視線だった。
 その顔を、俺もしばし無言で見つめた。

 思えば、こんなにも近くで真正面から久世の顔を見たのは、はじめてだった。いつもは机に突っ伏して寝ている、そんな姿しか印象になかったから。
 全体的にパーツは小ぶりで、決して派手な美人というわけではない。けれど配置は悪いないし、目鼻立ちは整っている。肌は本当に白くてきれいだし、少しアイメイクでもしたら、いっきに華やぎそうな気もする。

「……似合うと、思う」
 こぼれ落ちるように返していたのは、きっとなんの混じりけもない、本心だった。
 ――見たい、と。
 一瞬、思ってしまった。

僕を残して、君のいない春がくる

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