日が落ち始めたところで、兄が働いている法律事務所にたどり着いた。
由紀がいなくなったことは、町中でちょっとした騒ぎになっていた。白金家の長女が突然いなくなったのだから、誘拐の可能性も警察は考えてたらしいけど、今ではその線は薄くなり、情報公開されると同時に町を上げての捜索が始まっているみたいだった。
「待たせたな」
スーツの上着を脱いだ兄に促されてソファーに座る。僕とは十歳離れていて、小さい頃から可愛がってもらっていた。僕と違ってエリートコースを歩み、両親の期待に応えた兄自慢の兄だ。
「由紀ちゃんがいなくなった件だが、お前に頼まれて相談にのった内容がどうも関係していると思ってな」
先月、僕は由紀に頼まれて兄を紹介したことを思い出した。内容は教えてもらえなかったけど、切羽詰まってたみたいだったから、兄に拝み倒して相談に応じてもらっていた。
「本来なら守秘義務があるから言えないが、そうは言ってられないからな。実は、相談内容は相続に関することだった」
そう切り出した兄は、簡単に内容を教えてくれた。由紀とお父さんが親子関係になかったという内容に、僕は返事すらできずに兄を見つめるしかなかった。
「問題はそこじゃないんだ。本当の相談はその後になる」
事務員のお姉さんがコーヒーを持ってきた。兄は受けとるとすぐに口をつけた。
「由紀ちゃんの相談内容は、遺言書の書き方だった」
「遺言書の書き方?」
何だか悪い雰囲気が漂う言葉に、僕の胸を心臓が一段高く押し上げた。
「私でも遺言書が作れますかというのが、由紀ちゃんの相談だった」
「え? どういう意味?」
自分でも、声が掠れたのがわかった。遺言書を作るということからして、決して明るい内容は想像できなかった。
「お前、由紀ちゃんの姿、どう思う?」
「姿って?」
「急に金髪にして、化粧までして、制服は着なくてジャージ姿の意味だよ」
兄に問われて、僕はその意味を考えてみた。クラスのみんなは、お父さんが亡くなったから性格が荒れたと思っている。学校もサボるし、来ても大半が寝ているだけだからだ。
「あの姿は、カモフラージュだ」
不意に兄の言葉が、僕の思考を遮った。
「由紀ちゃんは、癌を患っている。しかも、かなり進行していて手の施しようがないらしい。化粧は顔色を隠すためで、長袖のジャージは、おびただしい注射の跡を隠す為だと言ってた」
兄の言葉が、ゆっくりと頭の中に広がっていくのはわかった。でも、ちゃんと意味を理解して聞くことはできなかった。
「嘘、だよね?」
言っても無駄だと思ったけど、自然と言葉がもれた。理解が遅れてやってきて、ようやく事態が飲み込めてきた。
「遺言書は、未成年者でも作れるんだ。十五歳になればな」
兄の意味深な言葉に、加速していく心音がさらに唸りを上げた。
「由紀は、昨日誕生日で、十五歳になって、え? ってことは、え?」
「おいおい、しっかりしろよ。確かに由紀ちゃんは、十五歳になったから遺言書は作ることができる。それを聞いた由紀ちゃんは、遺言書を作ると言ってた。ただ、気になったのが、やり残したことがあると言っていたことなんだ」
「やり残したこと?」
「ああ、その為に、行ってみたい所があるって言っていた」
その言葉で、僕は昨夜のことを思い出した。確か由紀は、キャッスルに行きたいと言ってた。
不意に、胸の中に由紀の感触が蘇ってきた。あの時、僕の腕に抱かれていた由紀は、自分が背負った運命に耐えきれなくなって泣いていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、僕はいてもたってもいられなくなった。今頃、由紀はキャッスルの中にいる気がした。今は調査が中断してて、あそこには誰もいないし近づく人もいない。もし、キャッスルの中で倒れていて、それこそひどい容態のまま放置されてたとしたら――。
「兄ちゃん、ありがとう。ちょっと心当たりを探してみる」
弾けたように立ち上がると、兄に礼を伝えて急いで外へと駆け出した。家に帰って自転車を取ってくるよりも、このまま走ったほうが早く行けそうだった。
由紀の容態はどうなんだろう。遺言書を作るくらいだから、死を覚悟しているかもしれない。問題は、それがいつ訪れるかだった。
嫌な想像が、吹き出す汗と一緒に全身を支配していく。由紀に残された時間はわからない。そして、由紀が残された時間を使って何をしようとしているかもわからなかった。
でも、答えはキャッスルにあると思った。由紀は、忘れた記憶を取り戻したいと言ってた。それがやり残したことどう関係があるかはわからないけど、死を覚悟した由紀が最後に望んでいることなら、僕もその手伝いをしてやりたかった。
無我夢中で走った先に、キャッスルの姿が見えてきた。今は誰もいないから、一直線に登ってたどり着けるはず。
そう思った矢先、スマホが鳴り響いた。現実に戻されたみたいで、震える手で携帯を握りしめた。
「まだかかりそうか?」
田村の低い声が耳をついた。電話口から、いつもの溜まり場の喧騒が聞こえてきた。
「ありさの奴、かなりヤバイんだけど。お前、昨日の夜に白金と会ってたのか?」
田村の予想外な言葉に、合流できない言い訳を考えていた思考が停止した。
「その様子じゃ、本当みたいだな」
「ありさは、どうしてる?」
「参加してる奴がお前らのことを見たって話をしたとたん、スマホを見つめたままずっと黙ったまんまだ」
ありさのだんまりは、相当怒ってる証拠だ。短い付き合いで真っ先に学んだことだった。
「とりあえずフォローの電話を入れて、飛んで来てくれよ。でないと、せっかくの打ち合わせが白けたまま終わりそうだ」
田村の言葉から、僅かに非難めいた空気を感じた。今日の参加者には、田村が狙っている女の子がいる。とにかく盛り上げて仲良くなりたいという田村の本音が伝わってきた。
――どうする?
考えるまでもなかった。今一番大事なのは、由紀の容態だ。早く見つけ出して病院に連れて行かないと、手遅れになりそうな気がしてならなかった。
でも、なかなか僕はそれを口にすることができなかった。優柔不断とありさへの罪悪感が、否応なしに足を引っ張ってくる。荒い息を肩でしながら、結局何も言えずに黙るしかなかった。
「わけありか?」
しばらくして、喧騒が消えると同時に田村の柔らかい声が聞こえてきた。僕の異変を察知して、場所を変えてくれたみたいだ。
「ったく、何があったか知らないけど、ここは何とかするから早くすませろ」
「え?」
「だから、ありさは何とかするって。急いでんだろ? 息が荒れてるぜ」
田村の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。僕の様子を感じとった田村は、僕の言葉を待たずに気を使ってくれた。
「ごめん。でも、ありがとう」
そう言うだけで精一杯だった。気がつくと、目の前にはキャッスルがそびえ立っていた。体は正直に、キャッスルへと向かっていたみたいだ。
「いいって。適当に嘘ついておくから。その代わり、事情話せるなら後で聞かせてくれよ。お前のこと、親友だって思ってるし、力になれるならなりたいからさ」
それだけ言うと、田村は照れたように電話を切った。
――田村、本当にありがとう
田村の優しさに涙が出そうになったけど、何とか堪えて目の前のキャッスルを見上げた。
一つ深呼吸をして、中に入る。夕闇の中、徐々に蒼白く輝き始めた建物内は、以前来た時と変わっていなかった。
ただ、以前と違って、すぐに由紀の姿が目に飛び込んできた。中央でうつ伏せに倒れている人影は、間違いなく由紀だった。
――由紀!
名前を叫ぼうとした時だった。
強烈な耳鳴りが急に襲ってきて、たまらず耳に手を当てたまま膝をついた。続けて、まるで重力が逆転したかのように、視界が歪んでいくのを感じた。
体が宙に浮いているような錯覚の中、溺れて水面へと手を伸ばすように由紀へと手を伸ばした瞬間、唐突に僕の意識は暗闇の中に落ちていった。
由紀がいなくなったことは、町中でちょっとした騒ぎになっていた。白金家の長女が突然いなくなったのだから、誘拐の可能性も警察は考えてたらしいけど、今ではその線は薄くなり、情報公開されると同時に町を上げての捜索が始まっているみたいだった。
「待たせたな」
スーツの上着を脱いだ兄に促されてソファーに座る。僕とは十歳離れていて、小さい頃から可愛がってもらっていた。僕と違ってエリートコースを歩み、両親の期待に応えた兄自慢の兄だ。
「由紀ちゃんがいなくなった件だが、お前に頼まれて相談にのった内容がどうも関係していると思ってな」
先月、僕は由紀に頼まれて兄を紹介したことを思い出した。内容は教えてもらえなかったけど、切羽詰まってたみたいだったから、兄に拝み倒して相談に応じてもらっていた。
「本来なら守秘義務があるから言えないが、そうは言ってられないからな。実は、相談内容は相続に関することだった」
そう切り出した兄は、簡単に内容を教えてくれた。由紀とお父さんが親子関係になかったという内容に、僕は返事すらできずに兄を見つめるしかなかった。
「問題はそこじゃないんだ。本当の相談はその後になる」
事務員のお姉さんがコーヒーを持ってきた。兄は受けとるとすぐに口をつけた。
「由紀ちゃんの相談内容は、遺言書の書き方だった」
「遺言書の書き方?」
何だか悪い雰囲気が漂う言葉に、僕の胸を心臓が一段高く押し上げた。
「私でも遺言書が作れますかというのが、由紀ちゃんの相談だった」
「え? どういう意味?」
自分でも、声が掠れたのがわかった。遺言書を作るということからして、決して明るい内容は想像できなかった。
「お前、由紀ちゃんの姿、どう思う?」
「姿って?」
「急に金髪にして、化粧までして、制服は着なくてジャージ姿の意味だよ」
兄に問われて、僕はその意味を考えてみた。クラスのみんなは、お父さんが亡くなったから性格が荒れたと思っている。学校もサボるし、来ても大半が寝ているだけだからだ。
「あの姿は、カモフラージュだ」
不意に兄の言葉が、僕の思考を遮った。
「由紀ちゃんは、癌を患っている。しかも、かなり進行していて手の施しようがないらしい。化粧は顔色を隠すためで、長袖のジャージは、おびただしい注射の跡を隠す為だと言ってた」
兄の言葉が、ゆっくりと頭の中に広がっていくのはわかった。でも、ちゃんと意味を理解して聞くことはできなかった。
「嘘、だよね?」
言っても無駄だと思ったけど、自然と言葉がもれた。理解が遅れてやってきて、ようやく事態が飲み込めてきた。
「遺言書は、未成年者でも作れるんだ。十五歳になればな」
兄の意味深な言葉に、加速していく心音がさらに唸りを上げた。
「由紀は、昨日誕生日で、十五歳になって、え? ってことは、え?」
「おいおい、しっかりしろよ。確かに由紀ちゃんは、十五歳になったから遺言書は作ることができる。それを聞いた由紀ちゃんは、遺言書を作ると言ってた。ただ、気になったのが、やり残したことがあると言っていたことなんだ」
「やり残したこと?」
「ああ、その為に、行ってみたい所があるって言っていた」
その言葉で、僕は昨夜のことを思い出した。確か由紀は、キャッスルに行きたいと言ってた。
不意に、胸の中に由紀の感触が蘇ってきた。あの時、僕の腕に抱かれていた由紀は、自分が背負った運命に耐えきれなくなって泣いていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、僕はいてもたってもいられなくなった。今頃、由紀はキャッスルの中にいる気がした。今は調査が中断してて、あそこには誰もいないし近づく人もいない。もし、キャッスルの中で倒れていて、それこそひどい容態のまま放置されてたとしたら――。
「兄ちゃん、ありがとう。ちょっと心当たりを探してみる」
弾けたように立ち上がると、兄に礼を伝えて急いで外へと駆け出した。家に帰って自転車を取ってくるよりも、このまま走ったほうが早く行けそうだった。
由紀の容態はどうなんだろう。遺言書を作るくらいだから、死を覚悟しているかもしれない。問題は、それがいつ訪れるかだった。
嫌な想像が、吹き出す汗と一緒に全身を支配していく。由紀に残された時間はわからない。そして、由紀が残された時間を使って何をしようとしているかもわからなかった。
でも、答えはキャッスルにあると思った。由紀は、忘れた記憶を取り戻したいと言ってた。それがやり残したことどう関係があるかはわからないけど、死を覚悟した由紀が最後に望んでいることなら、僕もその手伝いをしてやりたかった。
無我夢中で走った先に、キャッスルの姿が見えてきた。今は誰もいないから、一直線に登ってたどり着けるはず。
そう思った矢先、スマホが鳴り響いた。現実に戻されたみたいで、震える手で携帯を握りしめた。
「まだかかりそうか?」
田村の低い声が耳をついた。電話口から、いつもの溜まり場の喧騒が聞こえてきた。
「ありさの奴、かなりヤバイんだけど。お前、昨日の夜に白金と会ってたのか?」
田村の予想外な言葉に、合流できない言い訳を考えていた思考が停止した。
「その様子じゃ、本当みたいだな」
「ありさは、どうしてる?」
「参加してる奴がお前らのことを見たって話をしたとたん、スマホを見つめたままずっと黙ったまんまだ」
ありさのだんまりは、相当怒ってる証拠だ。短い付き合いで真っ先に学んだことだった。
「とりあえずフォローの電話を入れて、飛んで来てくれよ。でないと、せっかくの打ち合わせが白けたまま終わりそうだ」
田村の言葉から、僅かに非難めいた空気を感じた。今日の参加者には、田村が狙っている女の子がいる。とにかく盛り上げて仲良くなりたいという田村の本音が伝わってきた。
――どうする?
考えるまでもなかった。今一番大事なのは、由紀の容態だ。早く見つけ出して病院に連れて行かないと、手遅れになりそうな気がしてならなかった。
でも、なかなか僕はそれを口にすることができなかった。優柔不断とありさへの罪悪感が、否応なしに足を引っ張ってくる。荒い息を肩でしながら、結局何も言えずに黙るしかなかった。
「わけありか?」
しばらくして、喧騒が消えると同時に田村の柔らかい声が聞こえてきた。僕の異変を察知して、場所を変えてくれたみたいだ。
「ったく、何があったか知らないけど、ここは何とかするから早くすませろ」
「え?」
「だから、ありさは何とかするって。急いでんだろ? 息が荒れてるぜ」
田村の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。僕の様子を感じとった田村は、僕の言葉を待たずに気を使ってくれた。
「ごめん。でも、ありがとう」
そう言うだけで精一杯だった。気がつくと、目の前にはキャッスルがそびえ立っていた。体は正直に、キャッスルへと向かっていたみたいだ。
「いいって。適当に嘘ついておくから。その代わり、事情話せるなら後で聞かせてくれよ。お前のこと、親友だって思ってるし、力になれるならなりたいからさ」
それだけ言うと、田村は照れたように電話を切った。
――田村、本当にありがとう
田村の優しさに涙が出そうになったけど、何とか堪えて目の前のキャッスルを見上げた。
一つ深呼吸をして、中に入る。夕闇の中、徐々に蒼白く輝き始めた建物内は、以前来た時と変わっていなかった。
ただ、以前と違って、すぐに由紀の姿が目に飛び込んできた。中央でうつ伏せに倒れている人影は、間違いなく由紀だった。
――由紀!
名前を叫ぼうとした時だった。
強烈な耳鳴りが急に襲ってきて、たまらず耳に手を当てたまま膝をついた。続けて、まるで重力が逆転したかのように、視界が歪んでいくのを感じた。
体が宙に浮いているような錯覚の中、溺れて水面へと手を伸ばすように由紀へと手を伸ばした瞬間、唐突に僕の意識は暗闇の中に落ちていった。