夏本番前の期末試験がようやく終わろうとしていた。これが終われば中学最後の夏休みが待っているわけだから、クラスのみんなはどことなく浮わついた雰囲気を隠しきれていなかった。
そんな雰囲気の中、教室の中央で必死に鉛筆を転がしている田村一希を見て、我慢できずに小さく吹いてしまった。少し茶色に染めた髪にだらしなく着こなした制服。長身で体躯に恵まれてる点は僕とは正反対だ。
その後ろの席では、長い黒髪の毛先をいじっている篠田ありさが、眠そうな目で僕を見ていた。目が合うと、ありさが笑顔で手を振ってきた。ちょっと大人びて顔立ちも抜群にいいありさは、学年で一番を争う人気の女子だ。ただ、ありさに欠点があるとしたら、彼氏が僕だということだ。
終了のチャイムが鳴ると同時に、試験から解放された空気が一気に広がっていく。視線を一番前の席に向けると、試験開始から爆睡していた白金由紀が、猫のように起き上がってノビをしていた。
「賢ちゃん、おつかれ。できはどう?」
終了と同時に僕のもとに来るありさを、刺すような周りの視線を感じながら受け止める。遅れて田村が加わってきたことで、これでいつものあべこべコンビが完成した。
いつものように密着してくるありさに動揺しながらも、視界の隅で由紀の姿を探してみる。由紀はさっきまで友達と談笑していたけど、迎えにきた彼氏に手を引かれて教室を出ていくところだった。
その背中を見送ると、僕は息もできないほどの嫉妬心に襲われた。ありさという彼女がいるのに、未だに心の中では由紀の姿を追い続けている自分がいた。
「ねえ、聞いてる?」
不意に響いたありさの声で、霞がかっていた景色に色がじわりと戻った。ありさが眉間に皺をよせていたので、慌てて作り笑いで誤魔化した。
「もう、その様子だと、キャッスルに行く計画も忘れてたでしょ?」
少しむくれた顔でぼやくと、ありさはさらに僕の腕に絡みついてきた。はっきり言って女子に免疫のない僕は、ありさの大胆さには振り回されっぱなしだった。
ありさの言う『キャッスル』とは、この町に昔からある古い塔のことで、特殊な存在であることからこの町のちょっとした名物にもなっていた。
これまで幾多の調査チームがキャッスルの解明に乗り出したけど、未だにキャッスルが何の素材でできているのかさえわかっていない。地上五メートルほどの煙突形で、中は空洞になっている。わかっているのはそれだけで、いつ頃、どんな目的で建てられたのかも依然として不明なままになっている。
そのキャッスルに、ありさが入る計画を立てた。中学最後の夏の思い出作りとして、入ってみたいというのがありさの希望だった。
「そうと決まれば、打ち上げついでにいつもの所で計画を練るとしようぜ」
ありさの話に乗り気だった田村が、誘いの提案をしてきた。いつもの所とは、この町の中高生がたまり場にしているファーストフード店のことで、そこに行くということは、必然的に帰りが遅くなることになる。
「あ、いや、今日は――」
用事があると言いかけた僕を、ありさが更に腕に絡みついてきて阻止してきた。鋭い瞳が理由を尋ねていたけど、理由を言うわけにはいかなかった。
なぜなら、今日は由紀の誕生日だからだ。小学四年生の時に出会ってから、互いの誕生日は欠かさず決まった場所を訪れていた。僕も由紀も恋人がいるけど、できればこの習慣だけは続けていたかった。
でも、結局押しきられて、ありさたちに付き合うことになった。本当は、互いに恋人ができてからの初めての誕生日だったから、余計に由紀が来てくれるのかどうか知りたかった。
なのに、僕は結局一言も言えずに流されるまま、田村とありさについていくことしかできなかった。
ありさたちと別れた時には、午後七時を過ぎていた。
全速力で自転車を漕ぎ、この町を見下ろせる小高い丘の上にある公園を目指す。由紀と出会ってから毎年行っている恒例の儀式だけど、今回はかつてないほどの緊張に包まれていた。
公園の薄暗い街灯が見え、駐車場を抜けると、そこそこの広さの公園がある。それなりの遊具は揃っていて、ブランコが風に揺れて寂しげな音を奏でていた。
息を整えながら辺りの様子を伺ってみたけど、人の気配は感じなかった。やっぱり駄目だったのかなと激しく肩を落としたところで、落とした肩を優しく叩かれた。
「賢くん、来てくれたんだ」
ふり返ると、由紀がいつもの小豆色のジャージ姿で困ったように笑っていた。その姿を見た瞬間、跳ね上がった心臓で喉が塞がれ、呼吸も声を出すこともできなかった。
「誕生日、おめでとう」
何とか声を絞り出して伝えると、由紀の外灯に照らされた頬が少しだけ赤くなった。
「今日言われた中で、一番嬉しいよ」
少し照れながらもはっきりと由紀が口にした言葉。その思いがけない言葉に、恥ずかしい気持と嬉しい気持ちで顔が熱くなるのを感じた。
久しぶりの二人だけの世界。何となく居心地が悪い雰囲気だったけど、どちらからというわけでもなく歩きだした時には、僕らはかつての僕らに戻っていた。
一緒に色んな時間と経験を共有した相手。
いいことばかりじゃない。時には、口をきかなくなるほどの喧嘩も一杯した。
けど、それでも僕らは、互いが磁石みたいに気がつくと二人で過ごしてきた。
――そう、あの日までは
去年の夏祭りの帰り道だった。薄闇の中、僕らは互いの想いを確かめ合うように顔を近づけた。でも、後僅かな距離まで近づいた時に、僕らは互いを拒絶してしまった。
理由はわからない。まるで磁石の同極が反発するように、僕らはお互いを突き放してしまったのだ。
由紀は、そのことをどう思っているんだろう。あの日以来、なんとなく距離ができてしまった感は否めなかった。
そんなことを、見慣れた横顔に問いかけてみる。はっきりとした答えはないけど、お互いに恋人がいるという現実だけはあった。
――それでも
今日、久しぶりにあの頃に戻ったような感覚を実感して改めて思う。
やっぱり僕は、由紀が大好きだってことを。
「うわ、綺麗だね」
ブランコに揺られながら他愛のない話をしていたところに、由紀が公園を囲むフェンス越しにキャッスルを指さして声を上げた。
ブランコからおり、少しよろけながらフェンスにしがみついた由紀が、宝物を見るような目でキャッスルを眺め始めた。そんな由紀にならい、僕も由紀の隣に並んだ。
視界の先には、夜を彩る街の明かりが天の川のように煌めいていた。その先、この丘と同じ高さから下界を見下ろすキャッスルが蒼白く輝いていた。
「由紀は、キャッスルに行ったことある?」
さりげなく問いかけた僕を、由紀は不思議そうに見つめてきた。
「ないよ。賢くんは?」
一瞬考えて、僕は「ない」と返答した。実は一度だけ、由紀との間に生じた拒絶の正体を知りたくて、過去にキャッスルに行ったことがある。キャッスルには、忘れた記憶を取り戻すだとか、知りたいことに答えてくれるといった言い伝えがあったからだ。
そんな迷言を信じて忍び込んだけど、結局薄暗い場所で意味もなく朝を迎えるはめになっただけだった。
「忘れてしまった記憶を思い出すって話、本当かな?」
「どうだろう。 知りたいことに答えてくれるって話もあるけど、迷信だと思うよ」
「でも、去年だったかな、調査に来た大学の先生がそんな経験をしたって話をしてたよ」
由紀によれば、去年の調査中に大学の教授が不思議な体験をしたとして話題になったらしい。キャッスルの中で苦い過去の記憶を思い出し、まるでバーチャルリアリティのような世界で再度苦い体験と向き合ったって話だ。
当時は話題になったらしいけど、あまり信用できない性質の人だったらしく、一部のマスコミが取り上げただけで、信用できる話かどうかは微妙なところらしい。
「私、行ってみたいな」
穏やかに吹いた風にさえも消されそうか弱い声が聞こえてきた。由紀の横顔を見ると、由紀はまばたきを忘れたみたいに、キャッスルを見つめていた。
――由紀には思い出したい何かがあるの?
それは僕と同じ想いだろうか。僕らが互いに拒絶しあった原因を、由紀は探そうとしているんだろうか。
だとしたら、それは素直に嬉しく思う。と同時に、それはないなとも思えてくる。由紀と出会ってからの記憶で、僕が忘れてしまっているものは一つもないはずだから。
――でも、忘れていることさえ忘れていることがあったら?
ふと、そんなことを考えていると、由紀がふらふらと動く気配がした。どうしたんだろうと思った瞬間、由紀が僕の胸に顔を埋めてきた。
「しばらく、このままにさせて」
胸の中から聞こえてきた声は、泣き声だった。由紀は、僕に体を預けると小さな肩を震わせ続けた。
「少しだけ、抱きしめて欲しい」
「え?」
急なことに驚いたけど、僕は由紀に言われるまま、小さな肩を抱き寄せた。
由紀の肩は思った以上に細かった。柔らかくて暖かい温もりが伝わってくるけど、力を込めれば簡単に壊れそうなくらい小さな肩を、静かに震わせ続けていた。
まるで、由紀は小さな体では抱えきれない何かを背負っているように感じた。
それが何かはわからない。だから、少しだけでもいいから教えて欲しいと思った。そうすれば、今までみたいに二人で分かち合えるような気がした。
でも、その願いが叶うことは最後までなかった。
結局、その後も由紀は、僕の心にしがみつくかのようにずっと泣き続けるだけで、理由を最後まで語ることはなかった。
翌日、ありさの顔を見ると同時にひどい罪悪感に陥った。そのことがありさに伝わったのかは知らないけど、ありさはいつも以上に僕に絡んできた。
ありさは、僕が言うのも変だけどすごく美人でスタイルもいい。狙ってた連中の数も一人や二人じゃないし、今でもありさに声をかける男子も普通にいるくらいだ。
ありさの見た目がそうだからか、言い寄ってくる男はみんな田村みたいなイケメンばかりだ。学力しか取り柄のない僕を見て、みんなお構いなしにアタックを仕掛け続けていた。
でも、ありさはどんな誘いにも決して応じることはなかった。付き合いはあったとしても、その心はまっすぐ僕に向かっているのは嫌でもわかっていた。
それが時々怖いと思う時がある。僕が由紀だけしか見て来なかったから、一途な視線というのはなんとなくわかってしまう。だから、こうして未だに由紀へ想いを寄せていることを、いつかありさに見破られてしまうんじゃないかと不安になってしまう。
だったらなぜ付き合い始めたのかと言われると、答えに困ってしまう。断り切れなかったというのもあるけど、一番の理由は、彼氏ができた由紀への当て付けだった。
由紀が彼氏を作ったから、僕も彼女を作ったということを、暗に由紀に伝えたかったのかもしれない。
そんな馬鹿げた理由で付き合っているようなものだから、ありさに対してはいつも後ろめたさを感じてしまい、今みたいに腕に絡んできても抵抗することはできなかった。
昼休みが終わっても、由紀の姿は見えなかった。由紀は、お父さんが亡くなってから急におかしくなっていった。髪は金髪になり、学校の中でも化粧をするようになった。学校も休みがちになり、昼から登校したり、勝手に下校することもあった。
お父さんが亡くなったショックのせいというのがみんなの意見だけど、僕にはそれだけとは思えなかった。
そんな僕の不安が的中するかのように、ホームルームで担任の先生が険しい顔で由紀が行方不明になっていると告げてきた。
事情を知っている者がいたら、先生に教えて欲しいと事務的に言った言葉を、僕以外は誰もまともに聞いていなかった。どうせ家出だろと誰かが呟いたところで、ホームルームは白けるように終わった。
「さあて、今から二度目の打ち合わせに行こうぜ」
半分放心していた僕のもとに、田村とありさが寄ってくる。キャッスルに潜入する計画には、僕ら以外にも参加者が増え、なかでも田村が狙っている女の子が参加してきたから、田村はいつも以上に張り切っていた。
「あの」
参加者たちが集まりだしたところで、今日は辞退しようと切り出そうとした。でも、それを遮るように、ありさが力強く腕に絡んできた。
頭の中では、早く詳しい情報を集めて回りたい気持ちで一杯だった。でも、それを口にする勇気がなかった。自分の気持ちをはっきり言えない弱い心が、自分でも情けないほど悔しかった。
流されるまま教室を出たところで、携帯が震えた。見ると、弁護士をしている兄からだった。
『賢一、ちょっと事務所に来れないか?』
兄から連絡があることは珍しくなかったけど、事務所に呼ばれることは初めてだった。
『由紀ちゃんのことで、気になることがあるんだ』
それどころじゃないという言葉を飲みこみ、どうしたのと尋ねた僕に、兄は小声で返してきた。
わかったとだけ伝えて電話を切ると、みんなが心配そうに僕を見てた。
「悪いんだけど、先に行ってて。後で合流するから」
電話の内容を知りたそうな顔をしているありさに、僕は理由を伏せたままやんわりと告げた。
「わかった。待ってるから」
暫く無言で見つめていたありさだったけど、何度も念を押して、ようやく腕からはなれてくれた。
日が落ち始めたところで、兄が働いている法律事務所にたどり着いた。
由紀がいなくなったことは、町中でちょっとした騒ぎになっていた。白金家の長女が突然いなくなったのだから、誘拐の可能性も警察は考えてたらしいけど、今ではその線は薄くなり、情報公開されると同時に町を上げての捜索が始まっているみたいだった。
「待たせたな」
スーツの上着を脱いだ兄に促されてソファーに座る。僕とは十歳離れていて、小さい頃から可愛がってもらっていた。僕と違ってエリートコースを歩み、両親の期待に応えた兄自慢の兄だ。
「由紀ちゃんがいなくなった件だが、お前に頼まれて相談にのった内容がどうも関係していると思ってな」
先月、僕は由紀に頼まれて兄を紹介したことを思い出した。内容は教えてもらえなかったけど、切羽詰まってたみたいだったから、兄に拝み倒して相談に応じてもらっていた。
「本来なら守秘義務があるから言えないが、そうは言ってられないからな。実は、相談内容は相続に関することだった」
そう切り出した兄は、簡単に内容を教えてくれた。由紀とお父さんが親子関係になかったという内容に、僕は返事すらできずに兄を見つめるしかなかった。
「問題はそこじゃないんだ。本当の相談はその後になる」
事務員のお姉さんがコーヒーを持ってきた。兄は受けとるとすぐに口をつけた。
「由紀ちゃんの相談内容は、遺言書の書き方だった」
「遺言書の書き方?」
何だか悪い雰囲気が漂う言葉に、僕の胸を心臓が一段高く押し上げた。
「私でも遺言書が作れますかというのが、由紀ちゃんの相談だった」
「え? どういう意味?」
自分でも、声が掠れたのがわかった。遺言書を作るということからして、決して明るい内容は想像できなかった。
「お前、由紀ちゃんの姿、どう思う?」
「姿って?」
「急に金髪にして、化粧までして、制服は着なくてジャージ姿の意味だよ」
兄に問われて、僕はその意味を考えてみた。クラスのみんなは、お父さんが亡くなったから性格が荒れたと思っている。学校もサボるし、来ても大半が寝ているだけだからだ。
「あの姿は、カモフラージュだ」
不意に兄の言葉が、僕の思考を遮った。
「由紀ちゃんは、癌を患っている。しかも、かなり進行していて手の施しようがないらしい。化粧は顔色を隠すためで、長袖のジャージは、おびただしい注射の跡を隠す為だと言ってた」
兄の言葉が、ゆっくりと頭の中に広がっていくのはわかった。でも、ちゃんと意味を理解して聞くことはできなかった。
「嘘、だよね?」
言っても無駄だと思ったけど、自然と言葉がもれた。理解が遅れてやってきて、ようやく事態が飲み込めてきた。
「遺言書は、未成年者でも作れるんだ。十五歳になればな」
兄の意味深な言葉に、加速していく心音がさらに唸りを上げた。
「由紀は、昨日誕生日で、十五歳になって、え? ってことは、え?」
「おいおい、しっかりしろよ。確かに由紀ちゃんは、十五歳になったから遺言書は作ることができる。それを聞いた由紀ちゃんは、遺言書を作ると言ってた。ただ、気になったのが、やり残したことがあると言っていたことなんだ」
「やり残したこと?」
「ああ、その為に、行ってみたい所があるって言っていた」
その言葉で、僕は昨夜のことを思い出した。確か由紀は、キャッスルに行きたいと言ってた。
不意に、胸の中に由紀の感触が蘇ってきた。あの時、僕の腕に抱かれていた由紀は、自分が背負った運命に耐えきれなくなって泣いていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、僕はいてもたってもいられなくなった。今頃、由紀はキャッスルの中にいる気がした。今は調査が中断してて、あそこには誰もいないし近づく人もいない。もし、キャッスルの中で倒れていて、それこそひどい容態のまま放置されてたとしたら――。
「兄ちゃん、ありがとう。ちょっと心当たりを探してみる」
弾けたように立ち上がると、兄に礼を伝えて急いで外へと駆け出した。家に帰って自転車を取ってくるよりも、このまま走ったほうが早く行けそうだった。
由紀の容態はどうなんだろう。遺言書を作るくらいだから、死を覚悟しているかもしれない。問題は、それがいつ訪れるかだった。
嫌な想像が、吹き出す汗と一緒に全身を支配していく。由紀に残された時間はわからない。そして、由紀が残された時間を使って何をしようとしているかもわからなかった。
でも、答えはキャッスルにあると思った。由紀は、忘れた記憶を取り戻したいと言ってた。それがやり残したことどう関係があるかはわからないけど、死を覚悟した由紀が最後に望んでいることなら、僕もその手伝いをしてやりたかった。
無我夢中で走った先に、キャッスルの姿が見えてきた。今は誰もいないから、一直線に登ってたどり着けるはず。
そう思った矢先、スマホが鳴り響いた。現実に戻されたみたいで、震える手で携帯を握りしめた。
「まだかかりそうか?」
田村の低い声が耳をついた。電話口から、いつもの溜まり場の喧騒が聞こえてきた。
「ありさの奴、かなりヤバイんだけど。お前、昨日の夜に白金と会ってたのか?」
田村の予想外な言葉に、合流できない言い訳を考えていた思考が停止した。
「その様子じゃ、本当みたいだな」
「ありさは、どうしてる?」
「参加してる奴がお前らのことを見たって話をしたとたん、スマホを見つめたままずっと黙ったまんまだ」
ありさのだんまりは、相当怒ってる証拠だ。短い付き合いで真っ先に学んだことだった。
「とりあえずフォローの電話を入れて、飛んで来てくれよ。でないと、せっかくの打ち合わせが白けたまま終わりそうだ」
田村の言葉から、僅かに非難めいた空気を感じた。今日の参加者には、田村が狙っている女の子がいる。とにかく盛り上げて仲良くなりたいという田村の本音が伝わってきた。
――どうする?
考えるまでもなかった。今一番大事なのは、由紀の容態だ。早く見つけ出して病院に連れて行かないと、手遅れになりそうな気がしてならなかった。
でも、なかなか僕はそれを口にすることができなかった。優柔不断とありさへの罪悪感が、否応なしに足を引っ張ってくる。荒い息を肩でしながら、結局何も言えずに黙るしかなかった。
「わけありか?」
しばらくして、喧騒が消えると同時に田村の柔らかい声が聞こえてきた。僕の異変を察知して、場所を変えてくれたみたいだ。
「ったく、何があったか知らないけど、ここは何とかするから早くすませろ」
「え?」
「だから、ありさは何とかするって。急いでんだろ? 息が荒れてるぜ」
田村の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。僕の様子を感じとった田村は、僕の言葉を待たずに気を使ってくれた。
「ごめん。でも、ありがとう」
そう言うだけで精一杯だった。気がつくと、目の前にはキャッスルがそびえ立っていた。体は正直に、キャッスルへと向かっていたみたいだ。
「いいって。適当に嘘ついておくから。その代わり、事情話せるなら後で聞かせてくれよ。お前のこと、親友だって思ってるし、力になれるならなりたいからさ」
それだけ言うと、田村は照れたように電話を切った。
――田村、本当にありがとう
田村の優しさに涙が出そうになったけど、何とか堪えて目の前のキャッスルを見上げた。
一つ深呼吸をして、中に入る。夕闇の中、徐々に蒼白く輝き始めた建物内は、以前来た時と変わっていなかった。
ただ、以前と違って、すぐに由紀の姿が目に飛び込んできた。中央でうつ伏せに倒れている人影は、間違いなく由紀だった。
――由紀!
名前を叫ぼうとした時だった。
強烈な耳鳴りが急に襲ってきて、たまらず耳に手を当てたまま膝をついた。続けて、まるで重力が逆転したかのように、視界が歪んでいくのを感じた。
体が宙に浮いているような錯覚の中、溺れて水面へと手を伸ばすように由紀へと手を伸ばした瞬間、唐突に僕の意識は暗闇の中に落ちていった。
気がつくと、僕は駅の構内にいた。夕方にしては西日が弱く、夜の戸張が落ちはじめていた。どうやら季節は冬みたいで、構内にはコート姿の人たちがたくさんいることから、帰宅ラッシュの最中だとわかった。
頭がぼんやりする中、とりあえず状況を確認してみる。すぐに、いくつか異変に気づいた。その中でも一番の異変は、僕の体が見えないことだった。
試しに腕を動かしてみたけど、手を上げる感覚しかなかった。まるで意識だけが存在しているみたいで、脳みそだけが宙に浮いているような感じだった。
違和感は他にもあったけど、とりあえず今は状況確認を優先することにした。駅の構内にいることはわかったけど、どこの駅かまではすぐにわからなかった。
でも、答えは目の前にあった。駅名が書かれた看板を見つけて、ここは僕が住む町にある駅だとわかった。
ただ、わかったとしても実感がなかった。僕の町にある駅は、そこから東西南北に乗り換えがある大きめの駅なんだけど、ここは記憶にある駅とは違っているように見えた。
改札口から流れてくる人たちを無意識に避けながら、探索を続けていく。本当ならあるはずの店や売店がなく、代わりに覚えのない店が並んでいた。
「けんくん」
不意に呼ばれてふり返ると、そこには赤い半袖シャツにベージュの半ズボンをはいた保育園児くらいの女の子が立っていた。
――ひょっとして、由紀?
最初気づかなかったけど、よく見るとその顔には由紀の面影が見え、うっすらと赤みを帯びた白い肌が、どこか懐かしく感じられた。
「あそぼ」
由紀は僕の姿が見えているみたいで、見えない僕の手を掴むと、構内を引っ張り回した。その感覚がやっぱり懐かしくて、そこでやっと、僕はここで由紀と出会っていたことを思い出した。
――なんで、忘れてたんだろう
一度思い出したら、後は芋づる式に記憶が蘇ってきた。子供の頃、母親に連れられて父親の迎えに行っていた。その時、僕は確かに由紀と出会っていた。
大きな駅はまるで迷路みたいで、僕らはお互いの手をしっかり握りながら、今みたいに大人たちの群れの中を駆け回って遊んでいた。
やがて探索に飽きると、僕らは決まってパン屋さんを覗き込んだ。甘くていい香りがする中、僕はいつもチョコレートパンを買っていたことを思い出した。
僕の見えない手から離れた由紀は、半ズボンのポケットから、百円玉を二枚取り出し、手のひらに並べてうんうんうなり始めた。
――ちょっと待って。何で半袖に半ズボンなんだ?
腕をさすりながら考え込んでいる由紀を見て、今更ながらおかしなことに気づいた。僕は寒さを感じないけど、辺りの様子から、今が冬だということは間違いない。けど、由紀の格好は間違いなく夏の格好だ。
理由を思い出そうとしている僕のそばで、由紀が大きく頷いた。
「おまもりだから」
由紀はそう呟くと、百円玉を握りしめてポケットに戻した。
そうだった。いつも由紀は買い物するか迷って、でも結局は買わずに我慢していた。だから僕は、百円で買えるチョコレートパンを一つ買って、由紀と半分ずつ食べていたことを思い出した。
蘇った記憶の通りにパンを買って、半分を由紀に渡した。由紀は、いつもの困ったように笑う笑顔じゃなくて、快晴の空に輝く太陽のような笑顔を見せてくれた。
――由紀、普通に笑えるんだ
いつもの笑顔じゃない、純粋な笑顔がひどく懐かしくて、なんだかくすぐったいような嬉しさが込み上げてきた。
二人並んで座っていると、パン屋さんのおじさんが写真を撮ってくれた。写真屋さんで現像するものじゃなく、すぐに写真が出てくるもので、パン屋さんの店内にはお客さんの写真がたくさん飾られていた。
一枚目を由紀が受け取り、二枚目を僕が受け取ろうとした時だった。
「由紀!」
近くで男の人の怒声が響き渡った。由紀は小さな肩を大きく跳ね上げると、時間が止まったように体も表情も硬直させていた。
もう一度怒声が響いたところで、声の主が由紀のお父さんだとわかった。スーツ姿は見慣れてたけど、いつも見ている姿よりか若い感じがした。
少し強面のお父さんは、由紀の姿を見つけると眉間に皺を寄せて近づいてきた。そして、由紀の前に立つと同時に、由紀へ平手打ちをした。
「ちょっと、おじさん!」
乾いた音に呆気にとられたけど、すぐに立ち上がって二度目の平手打ちを制しようとした。
でも、それは無駄に終わった。僕の姿がお父さんには見えないらしく、さらには、お父さんの腕が僕の体をすり抜けていくせいで、結局、由紀は無抵抗のまま両頬を打たれ続けて肩を震わせていた。
胃の底がひっくり返るような怒りが湧いてきた。乱暴に由紀の手を掴んだお父さんは、まるで荷物を引っ張るかのように由紀を連れていった。
ぶつけようのない怒りを抱えたまま、僕は茫然と立ちつくしていた。
――そうだった。今さらだけど、やっと思い出した
由紀は、お父さんにいつも怒られて、叩かれていた。僕はその様子を、いつも脅えながら見ているだけだった。助けることもできなくて、こうして見送るだけしかできなかったということを、悔しさと悲しさと共に思い出した。
一度だけふり返った由紀が、小さく手を振った。
懐かしさは完全に消え、代わりに息苦しいほどの虚しさに包まれていった。
視界が一瞬暗転して、再び視野が戻ってくる。場所は変わってなかったけど、今度は天気が晴れから雪に変わっていた。そのことから、さっきの光景から何日か時間が過ぎているみたいだった。
コートについた雪を払いながら、濡れた靴をどこか楽しげな雰囲気でじゃれあう人たちの波をぬって、由紀はさっきと同じ服装でかけ寄ってきた。
つい嬉しくなって見えない手を上げる。でも、すぐに違和感を感じた。曇りのない笑顔がなくて、代わりに両頬が赤く腫れていた。
「由紀、また叩かれたの?」
僕の問いに、由紀は答えることなく見えない手を掴んできた。かじかんだ小さな手から、冷たさが雰囲気で伝わってきた。
「由紀!」
またしても、由紀のお父さんの怒声が聞こえてきた。一瞬にして硬直した由紀だったけど、つぶらな瞳に小さな光が宿るのを感じた。
と同時に、いきなり由紀は僕の手を引いて走り出した。雪のせいでダイヤが乱れた構内は、帰宅ラッシュと重なって人で溢れていた。その合間を、僕らはお父さんに見つからないように走り抜けていった。
券売機の前に来ると、由紀は赤く腫れた手をポケットに入れて、いつも隠すように持っていた二百円を取り出した。
「パパがいる所だよ」
由紀は行き先ボタンを一つずつ数え、3つ目のボタンを確認すると、慣れない手つきで切符を購入した。
――そうだった。由紀には、他に本当のお父さんがいたんだ。由紀が握りしめていた百円玉は、本当のお父さんに会うための切符を買うためだったんだ
嬉しそうに切符を見せてくる由紀の笑顔を見て、記憶が一気に蘇ってきた。
由紀には、今のお父さん以外に本当のお父さんがいた。そして、本当のお父さんから、何かあった時には会いに来るようにって、お守り代わりに渡されたのが二百円だった。
由紀はその教えを守り、今日まで心の拠り所にしていた。こんな雪の日でも半袖を着させるのだから、今のお父さんからひどい仕打ちを受けているのは一目瞭然だ。
でも、由紀はずっと頑張って耐えていた。いつか、本当のお父さんと再会する日を夢みて。
けど、その頑張りも限界だったみたいで、由紀は本当のお父さんに会いに行こうとしていた。救いを求めるには一番の相手だと、僕は昔と同じ思いを抱いた。
――よっぽど辛かったんだね
あの時と同じようにはねた頭を撫でてあげると、由紀は不思議そうな、でも、嬉しそうな顔で笑ってくれた。
僕はエスコートするみたいに、由紀の手を引いて改札を抜けた。あの時と同じなら、遅れて待機していた電車がちょうど出発するところのはず。
背中に、由紀のお父さんの怒声がまた響いた。でも、追いつかれることはない。あの時、由紀と手をつないで駆け抜けた迷路のようなホームには、ゴールという名の電車が待ち受けてくれているから。
あの時と同じように閉まりかけた電車に飛び乗ると、由紀は両肩で息を繰り返していた。
「よかったね、由紀」
間に合った嬉しさに笑みをこぼす由紀を見て、僕は包み込むように声をかけた。この後のことはまだ思い出せないけど、きっかけがあればまた思い出すかもしれない。
そう考えた時だった。
強烈な頭痛に襲われて、僕は立っていられなくなり、見えない膝を床につけた。
心臓が、経験したことない荒さで乱れ打っていた。胃が、喉を突き破りそうなほどせりあがり、抑えきれない吐き気でまともな呼吸ができない感覚に陥ってしまった。
血流が滝のように頭から下がっているみたいだった。寒くはないのに、全身が痙攣したように震えている感じがした。
「大丈夫?」
心配そうに覗き込む由紀に、何も答えてあげられなかった。
頭の中に、最大級の警報が過去の僕から発せられていた。
記憶の中の僕が、狂ったように叫んでいた。
この先は、行っては駄目だと――。
ゆっくりと雪の中を動き出した電車の中で、由紀は背伸びした窓から見える景色に、息つく暇もなく歓声を上げていた。
僕はその間、ずっと頭の奥に沈んだ記憶をもがきながら探し続けていた。
でも、発作のように鳴り響く警報は収まらないし、記憶の映像もずっと黒塗りのままだった。
いつもなら十分で着く無人駅に、三十分かけて電車はとまった。一面は希に見る銀世界で、足跡とタイヤの跡が、淡く照らす街灯に消えていっていた。
おぼろ気だけど、記憶が微かに蘇ってきた。確かこの辺りは、一面が田園風景だったはず。今は白いベールに包まれて、巨大なキャンパスになっていた。そのキャンパスに描かれた車の轍を、時々滑りながら、まるで遠足みたいに市街地目指して歩き続けた。
――そう、まるで遠足みたいだった
初めての経験だった。由紀と二人、寄り添いながら、しっかりと手をつないで歩いていたことを思い出した。
時折通る車の明かりに驚きながら、どこか心細くて、でも、それでも由紀と一緒なら楽しかった。どこまでも、二人なら歩いて行けるんじゃないかって思ってた。
ゆっくりと舞い落ちる雪に包まれた静寂を、突然、虎の咆哮みたいなサイレンが切り裂いていった。
驚いてふり返ると、赤色灯を回したパトカーが、唸りを上げて通り過ぎていった。一台、二台と続いた後に、救急車が遅れまいといった感じで、パトカーを追いかけていった。
「びっくりしたね」
由紀が胸に手を当てて、白く長い息を吐いた。
僕も驚いて更に心音が跳ね上がったけど、でも、この胸を締め付けるような乱れは驚きだけではない気がした。
市街地の灯りが見え、大きな交差点が見えてきた。さっき走っていったパトカーと救急車が見え、交差点には人だかりができていた。
その人だかりを見て、また強烈な頭痛に襲われた。警報音が更に高くなって、咄嗟に僕は由紀の手を掴んだ。
「この先は行っちゃ駄目だ!」
不意に言葉が漏れた。自分でもびっくりするような大きな声を出していた。
由紀の肩が大きく跳ね、不安そうな顔で僕を見ていた。
「あそこには、行ってはいけない気がするんだ」
嫌な予感を抑えきれなかった。あの交差点がひどく怖いと思えた。あそこには、見てはいけないなにかがある気がして落ち着かなくなった。
「由紀、待って!」
視線を由紀から交差点に向けた時だった。
由紀は僕の手から飛び出すように、交差点めがけて走り出した。
「由紀、行っちゃ駄目だ!」
叫ぶと同時に追いかけたけど、鉛のように重く感じる足が上手く回らなかった。
追いつかない背中を目指して交差点に入った時、目に飛び込んできたのは凄惨な事故現場だった。
路上に男性が血を流して倒れていた。そばには大破したバイクと車が横たわっていた。
救急隊員の人が、ヘルメットを脱がそうとしていた。その様子を野次馬たちが固唾を飲んで見守っている。その光景を、由紀は驚いたような落ち着かないような表情で見ていた。
男性の頭からヘルメットが脱げた瞬間、由紀は「パパー!」と叫んで交差点内へ駆け出した。
世界がスローモーションになった。
走り出した由紀を追いかけて、僕も交差点へ入った。驚いた警察官の横をすり抜け、そして――。
救急隊員の横をすり抜け、交差点を渡りきった由紀は、人混みの中で小さな女の子を抱いた大柄な男の前で立ち止まった。
「パパー!」
由紀は甘えた声を出しながら、丸太のような足にしがみつこうとした。
けど、男は由紀を避けて、明らかに困惑した表情をした。
「パパ?」
きょとんとした顔で、由紀は男を見上げる。そばにいた女性が「誰?」と男に尋ねると、男は動揺した様子で「知らない子」と答えていた。
「由紀だよ!」
男の声に反応するみたいに、由紀が声を張り上げた。
「パパ、わたしだよ。由紀だよ。ねぇ、パパ、わたし、会いに来たんだよ」
由紀はつぶらな瞳に涙を溜めていた。でも、それを絶対に溢したくないといった感じで、震えながらも笑顔を浮かべていた。
由紀の声に、野次馬の注目が集まってくる。場の雰囲気に耐えられなくなったみたいに、男は迷惑そうな顔で由紀を見つめ返していた。
「人違いだ。私は君のパパじゃないんだ」
男はそう吐き捨てると、体の向きを変えて足早に人混みの中に消えていった。
「パパ?」
由紀の声が、吹雪の音に消えていった。目を凝らしていないと見失いそうなほどの小さな体が、大きく揺れ始めた。
警報が消えていくと同時に、鮮明に記憶が蘇ってきた。
―― そうだった。僕は、はっきりと見ていたんだ
由紀が、本当のお父さんに拒絶される瞬間を。
何もしてやれずに、ただ黙って俯いた由紀の背中を見ているしかなかったことを。
そして、僕は大切な事を思い出し始めた。
しばらくして、由紀は乱暴に両目を擦ると、ゆっくりと僕の方へふり返った。
心臓が一拍だけ、強く胸を押し上げる感じがした。
由紀は笑っていた。でも、そこには今までの笑顔はなく、少し困ったようないつもの笑顔ができあがっていた。
「けんくん、あそぼ」
由紀は、困ったような笑顔を浮かべたまま僕のそばに歩み寄ってきた。
その瞬間、僕は全てを思い出し、そして、全てを理解した。
僕らが互いに拒絶し合った理由。
それは、由紀が本当のお父さんに拒絶されたという事実を、互いに共有してしまったからだ。
そして、由紀はその事実を記憶の底に沈めた。目の前にいる由紀からは、もうさっきの出来事は覚えていないという雰囲気しか感じられなかった。
だから、僕も忘れることにした。いや、忘れる以外に選択肢がなかった。幸か不幸かはわからないけど、この日から、小学校で再会するまで僕らは出会うことはなかった。
それが心理的にも影響してたのかもしれないけど、僕らは互いに出会ったことさえも記憶から消していた。
だから、お互い再会しても気づくことはなかった。
でも、気づかないだけで、思い出さないとは限らない。いつも一緒にいたら、何かのきっかけで思い出すかもしれない。
本能がそれを恐れたんだと思う。だから僕らは、お互いに惹かれながらも、深い仲になることを拒絶してしまった。今見た光景を思い出さないようにするために。
謎が解けた気がした。でも、少しも嬉しくなかった。
僕らの間を遮るもの。
それは、由紀が本当のお父さんに見捨てられたという、僕と由紀が共有し、互いに封印していた記憶だった。
視界が再び暗転した。もやのような空気に包まれた後、晴れていった視界には、駅前の白いキャンパスが広がっていた。と同時に、僕も学生服姿のいつもの姿に戻っていた。
「由紀!」
さっき歩いてきた道の上に、由紀が横たわっているのを見つけ、降り積もった雪の中を駆け出した。
「由紀、大丈夫?」
路上に倒れていた由紀は、いつもの小豆色のジャージ姿だった。金髪の髪に綺麗な化粧は相変わらずで、だから、その顔からは由紀が大病を患ってるなんて想像もできなかった。
痩せ細った体を抱き抱えると、由紀の右手から何かが落ちた。何が落ちたのか確認すると、雪の上に落ちていたのは注射器だった。
背中に、嫌な気配が滑り落ちていった。恐る恐る由紀の腕を捲ってみると、兄が言ってた通り、おびただしい数の注射痕があった。
思考が停止しかけたまま、僕は雪の積もった由紀の頭を撫でた瞬間、思考が完全に停止した。
軽い抵抗の後、由紀の頭から髪の毛が抜け落ちた。いや、抜けたというよりもずれたといった感じで、由紀の髪の毛がかつらだと気づくと同時に、由紀の頭部には髪の毛が一つもないことがわかった。
その姿を見て、僕ははっきりと由紀の身に起きていることを自覚した。兄から話を聞いた時には、どこか夢物語のようにしか半分思っていなかった。
でも、夢物語じゃなかった。震える手で積もった雪を払いのけながら、変わり果ててしまった由紀の姿を見て、ひどく怖いとさえ思えてきた。
「由紀、しっかりして」
由紀は苦しそうな顔で、何かを呟いていた。そして、ぎこちない動きで、僕に左手を向けてきた。
由紀の左手には、写真が握られていた。手に取って確認してみると、そこには、桜吹雪を背にして満面の笑みを浮かべる大柄な男と、肩車された笑顔の由紀が写っていた。
「うぅ、お父さん――」
由紀の口から、微かに苦しみながらも父親を呼ぶ声が漏れ聞こえてきた。何かを必死で呟いているみたいで、聞き取ろうと耳を近づけた時、熱い吐息と一緒に由紀の想いが聞こえてきた。
「っ、っ、会いたいよ、お父さん」
痛みと闘っているのか、眉間に深いしわが刻まれていた。身をよじり、時折大きなうめき声を上げなら、何度も何度も「お父さん」と繰り返していた。
「由紀、しっかりして」
動揺する気持ちを抑え、抱き抱えた由紀の体をそっと揺さぶってみた。由紀は苦しそうに呻いた後、うっすらと瞼を開けた。
「賢くん?」
視線が合うと同時に、由紀は驚いたみたいに体を震わせた。
「由紀、帰ろう。病院に行かないと」
「待って」
由紀は僕の言葉を遮ると、僕の手にある写真を指差した。
「見つけた、の。お父さん、の、手掛かり。写真だけだけど」
由紀は荒い息を繰り返しながら、キャッスルに来た理由を教えてくれた。
今のお父さんが亡くなったことで、自分には他に本当のお父さんがいることを知り、会いたいと思った。ずっと心の奥にもやのように何かがあって、そのせいで上手く笑えないと由紀は考えていた。
きっと、本当のお父さんに会えば上手く笑えるようになるはず。だから、記憶を思い出す為にキャッスルに来た。そこで、やっと手掛かりとなる写真を見つけたらしい。
「私、ちゃんと笑えてるよね? だから、この写真みたいになりたいの」
由紀はゆっくりと起き上がったけど、よろけて僕の胸に倒れてきた。
「賢くん、お願い。あそこまで、連れていって」
由紀の指差した方を見ると、いつの間にか先ほどの交差点と野次馬たちが、目の前に広かっていた。
よく見ると、まだ事故が起きた直後みたいで、僕が見た光景がこれから再現されるところみたいだった。
「あそこに、お父さんがいる気がする」
由紀の瞳が大きく開いた。懇願する声が、胸を激しく突き抜けていった。
「由紀、帰ろうよ」
僕は頭をふりながら、きつく由紀を抱き止めた。今の状態で、あの光景を見せるわけにはいかなかった。あの光景には、由紀が望むものは一つもない。それに、見てしまったら由紀の身体がもたない気がした。
今の由紀は、お父さんに会うためだけに生きてる感じがした。本当は、もう動けないんじゃないかって思えるくらい細い身体を引きずってでも前に進んでいたのは、写真に写る本当のお父さんの笑顔を見たからだろう。
「いや、離してよ」
由紀が身をよじって抵抗してきた。余力を振り絞るような激しい動きに、由紀の強固な意思を感じた。
でも、僕は絶対に離すつもりはなかった。あそこには、辛すぎる現実しかない。たとえ由紀が最後の時間に選んだ相手がお父さんだったとしても、それだけはさせたくはなかった。
――そう、由紀が残された時間を使う相手に選んだのは、結局僕じゃなかったんだ
言い様のない虚しさと悔しさが、胸の内を占めていく。考えてみればわかることだけど、最初から勝てる相手じゃなかった。
写真に写る満面の笑顔。それを作り出したのはお父さんであって、僕にはそれができなかった。いつも一緒に過ごしてきたけど、一度も僕は、由紀をこの写真のように笑わせることができなかった。
絶望のような敗北感を感じながら、でも、やっぱり会わせるわけにはいかないと、ひたすら歯を食いしばって耐え続けた。
今の由紀のお父さんは、写真のような笑顔を見せることも、由紀を笑わせることもできないし、やろうともしないだろう。
どのくらいそうしていたのかはわからない。ただ、嫌がる由紀をずっと抱き締めていた。この腕を離したら、由紀がもう戻ってこない気がして、それがとても現実感がありすぎて怖くなっていた。
やがて、由紀は急に抵抗をやめた。代わりに、僕の頬をぎこちない動きで撫で始めた。
「泣いて、いるの?」
由紀の掠れた声に、自分の頬を触ってみた。熱く火照った頬に冷たい筋ができていた。
いつの間にか僕は泣いてたみたいだ。涙の理由は自分でもわからなかった。多分、色んな感情が混ざりあって、でも、最後には由紀を失いたくないという気持ちが形になったのかもしれなかった。
「ごめん。でも、やっぱり今は帰ったほうがいいと思う」
誤魔化す理由を考えながら、たどたどしく由紀を説得する。とにかくあの光景のことだけは、由紀に見せるわけにはいかなかった。
でも、それだと由紀は納得しそうにない。かといって、僕が見た光景を教えてやるのも、結局は由紀を苦しめるだけだった。
時間だけが、降り積もる雪と共に流れていく。早く病院に連れていきたい僕と、諦めきれない由紀との狭間で、僕はどうしたらいいのかわからなくなっていた。
――そうだ! 僕にできることは、これしかない
絶望の淵にわいた一つのアイデア。それは、由紀の願いを叶えることだった。
由紀の願いはただ一つ。お父さんに会うことだ。それなら会わせてあげればいい。このキャッスルにいるお父さんじゃなくて、現実のお父さんに。
それができるかどうかはわからない。でも、由紀のお母さんに聞けばわかるかもしれない。それに、兄に頼めば、悪いことかもしれないけど個人情報を得ることができるかもしれない。
そして、事情を話して会いに来てもらえばいい。その時、この写真の頃みたいに演技してもらえば、きっと由紀は満足してくれるはず。
できそうな気がした。いや、必ず見つけて実現させてやると自分を奮い立たせた。由紀を説得するには、もうこの方法しかなかった。
そう固く決意して、由紀に思いをぶつけた。
「相変わらず、だね。賢くんは」
由紀は困ったように笑うと、ぎこちない動きで僕の涙の跡を拭った。
「私の為なら、いつも一生懸命だね」
「今さら言われても困るんだけど」
由紀の雰囲気が柔らかくなったところで、僕は精一杯おどけてみせた。
「帰ろっか」
吹雪に消えそうな声が、微かに聞こえた。
「賢くん、一緒に、帰ろ」
由紀は微かに微笑むと、僕の胸に顔を預けてきた。その声は、小学校で再会した時に、初めて由紀が一緒に家に帰ろうと誘ってきた時と同じだった。
「そうだね。一緒に帰ろ」
由紀の体を受け止めながら、僕もあの日に帰ったような気持ちで返事をした。
由紀を抱えて立ち上がろうとした時、急に視界がぼやけていった。
それが終わりを告げる合図かはわからなかったけど、僕らは一瞬にして何もない闇の中に落ちていった。
気がつくと僕は、病院のベッドで眠っていた。ぼんやりとする頭のまま、意外と心配してくれた両親に怒られながら、とりあえずの状況は教えてもらえた。
僕と由紀は、キャッスルの中で倒れているところを係員に発見してもらえたらしい。
その後は病院で眠ってたらしく、でも、体に異常はないからと、迎えに来た両親と一緒に帰ることができた。
由紀の容態については、心配して来てくれた由紀のお母さんが教えてくれた。
今の由紀は、生きているのが不思議な状態らしい。疲れた顔をした由紀のお母さんには気の毒だけど、由紀との約束を守る為に由紀のお父さんがどこにいるのかを聞いてみた。
けど、由紀のお母さんは驚いた顔をした後、既に連絡を取らなくなって随分経つから行方はわからないと首を弱くふった。
それならばと、見舞いに来た兄に手がかりを得られないかと相談してみる。難しい顔をした兄からは、期待はするなと冷たく返されるだけだった。
週が開けた月曜日、僕は自分の考えの甘さとこれから起きることへのため息をつきながら、恐る恐る教室へ入った。いくつもの刺すような視線の中、席につくと田村が心配そうに声をかけてきた。
「言いにくいんだけどさ、あっちの方は最悪かも」
田村が視線をありさに向ける。僕も視界の隅でありさの様子を伺った。
ありさは普段通り、友達と談笑していた。ただ、いつもならすぐに僕の所へ来るんだけど、さすがに今日は視線も合わせてはくれなかった。
――無理もないか。約束破ったあげく、由紀と一緒に見つかったわけだし
周りの視線も同じ思いみたいで、僕に気を使ってくれるのは田村だけだった。
午前中の授業が終わると同時に、ありさから手紙が回ってきた。『放課後に屋上。断れないよね?』と走り書きされた薄い文字からも、ありさの怒りが伝わってきた。
放課後、不運が重なるかのように、タイミングよく兄から相談に対する答えが返ってきた。どうやら調査に相当な費用と時間がかかるらしく、由紀の残された時間内に見つけることは絶望的とのことだった。
兄に力なく礼を伝え、重い足を引きずりながら屋上を目指す。ありさとの話の内容は予測できるけど、この状況でどんな話をしたらいいかわからなかった。
普通に考えたら、気持ちがないのに付き合い続けるのはありさを傷つけるだけだと思う。でもそれは、僕の身勝手な逃げ口上にしか思えなかった。別れようと思えばいつでも別れられた。でも、それをしなかったのは、優柔不断な僕の弱さのせいだった。
どんな結果になるとしても、ありさに会って話をしなければいけない。
そう覚悟して屋上への階段を上り始めた時、再び僕の携帯が震え始めた。
画面を見ると、由紀のお母さんからだった。
嫌な予感が走った。電話に出ようとしたけど、一歩のところで着信が切れた。
――由紀に何かあったんじゃないよね?
不安が一気に膨れ上がった。由紀にもしものことがあったら、電話して欲しいと伝えていた。ひょっとしたら今の電話が、そうじゃないんだろうか。
階段の踊り場で立ち尽くしたまま、僕は携帯を片手に動けなくなった。ありさを待たせるわけにもいかないけど、ありさと話をしている時にまた電話がかかってきたらと思うと、次の階段を上ることができなかった。
あれこれ考えていると、携帯の画面に留守電の案内がでてきた。僕は留守電サービスに接続して、擦りつけるように携帯を耳に押しあてた。
『白金です。由紀の容態が急変しました。急いで来てくれませんか?』
涙混じりの声だった。それだけ告げると、電話は無機質な音声案内に切り替わった。
頭を殴られたような衝撃と、走り出したい衝動が全身を突き抜けた。由紀のお母さんの声色が、緊急を告げていることは間違いなかった。
――どうする?
今すぐにでも病院に走って行きたかった。でも、これ以上はありさを傷つけることはできない気がした。
僕は壊れるほど携帯を握りしめて、階段をかけ上がった。やっぱり、これ以上はありさを苦しめるわけにはいかなかった。
どんな結果や形になるとしても、けりをつけるべきだろう。そう覚悟して屋上のドアを開けると、昼下がりの日差しの中、ありさは転落防止用のフェンスに寄りかかって目を閉じていた。
「ありさ」
名前を呼ぶと、ありさは目を開けた。無表情のまま、僕を観察するかのような視線を送ってきた。
心臓が耳の側にあるみたいに、やけに自分の鼓動が高く聞こえた。暑苦しさも手伝って、僕は渇ききった口を半開きにして、なんとか呼吸をつなげた。
「賢ちゃん、ひどい顔をしてるよ」
ありさの柔らかい声が耳に響く。怒ってる感じはなかったけど、別の何かを感じさせる声だった。
「今ね、なんで賢ちゃんのこと好きなんだろうって考えてた」
ありさはフェンスから起き上がると、一歩ずつ僕の方に近づいてきた。
「最初ね、賢ちゃんのこと、勉強しかしない人って思ってたんだ。でも、ある時気づいたの。賢ちゃんの、白金さんを見る目が優しいなって。で、その優しさを私にも向けてくれないかなって思ったのが始まりだった」
ありさはそこで何かを思い出したかのように、小さく笑った。
「私がアプローチしても、賢ちゃん全く興味なしって感じだった。これでも一応、男子には人気があることは自覚してたから、なんとかふりむかせようと努力したんだ。で、それがいつの間にか恋心になったって感じ。だから、告白を受け入れてもらった時は超嬉しかった」
ありさの言葉が重くのしかかってきた。確かにありさは男子に人気がある。そんなありさが選んだのが僕だという事実に、今さらだけど痛いほど実感した。
「だからね、私なりに考えてみたの。賢ちゃんの今回の件、どうしようかなって」
「ごめん。謝ってすむとは思わないけど、でも――」
とにかく謝るべきだと思い、僕はなんとか言葉を吐いた。けど、ありさは鋭い言葉で僕の言葉を遮った。
「ねえ賢ちゃん、戻ってきてよ」
数秒の間、ありさは俯いていた。そして顔を上げると、そこには今まで見たことのない、ありさの泣き顔があった。
「私、なかったことにできるから」
ありさの言葉が耳に届くと同時に、ありさが僕の胸に飛び込んできた。
「賢ちゃんが私のもとに戻ってきたら、私ね、何も聞かなかったことにできるから。何も見なかったし、何もなかったことにできるから。それで、今まで通り、隣で笑ってくれればいいから。だから、ね? お願い、私のもとに戻ってきてくれるだけでいいから」
僕のシャツを掴むありさの手が震えていた。並ぶと同じくらいの身長だと思ってたけど、今のありさはひどく小さく見えた。
ありさの行動は予想外だった。でも、なんとなくありさは不安だったのかなと思った。僕の行動もそうだけど、多分、僕の気持ちがないことも、薄々勘づいていたのかもしれない。
だから、ありさは僕に本心をもう一度ぶつけてきたんだろう。見栄もプライドも捨てた姿に、これで関係が終わるかもしれないことに対するありさなりの覚悟が見えた気がした。
ありさの頬を、涙がゆっくりと流れ落ちてゆく。気丈で、誰からも好かれるありさのいつもの姿はそこにはなくて、代わりに、どうしようもないほどか弱い女の子の姿があった。
それがありさの本当の姿だと思った。美人で、大人びいていて、誰からも愛されている人柄というのは、みんなが作った虚像に過ぎなかった。
本当は、みんなと同じように好きな人がいて、みんなと同じように恋に悩む一人のか弱い女の子だった。
罪悪感と同情が顔を出そうとしてきたけど、無理矢理腹の底に沈めた。中途半端な情けは、今のありさにはかえって刃にしかならない。
だから僕は、ありさの肩を抱かなかった。もしここで抱いてしまったら、由紀の所へ行けなくなる。ありさが僕を好きなように、僕の由紀への想いは、小学校で再会した時からの筋金入りだから。
「やっぱり、そうだよね」
ゆっくりと僕から離れたありさは、乱暴に目を拭いながら弱く呟いた。
「賢ちゃんの優しい目は、白金さんを見る時だけだもんね」
ありさらしい、嫌みのない声だった。やっぱり、ありさは結果を覚悟してたみたいだった。だから、最後に本心を晒して、後腐れないように散ろうとしてくれたのかもしれない。
「白金さんの所に行くの?」
「うん。さっき容態が急変したって連絡があって、あまり良くないみたいなんだ」
「それなのに、私に会いに来てくれたんだ」
ありさはちょっと驚いた顔をした後、目を閉じて、うんうんと何度も頷いていた。
「賢ちゃん、ありがとね。私のことはもういいから、早く行ってあげてよ。白金さん、賢ちゃんのこと待ってると思うよ」
ありさはそう言葉にして、無理矢理な笑顔を見せてくれた。
「ありさ、今までありがとう。こんな僕のせいで迷惑かけて」
「本当、迷惑だよ。いつか絶対、私を捨てたことを後悔させてやるから」
ありさの言葉に、「もう後悔している」と言いかけてやめた。
「賢ちゃん、辛いかもしれないけどさ、白金さんのそばにいてあげて」
ありさの言葉に、僕は黙って頷き、そして、心の中で一度だけさよならを告げた。
背を向ける瞬間、ありさが両手で顔を覆うのが見えた。
けど、僕は何も言わずに前へ向かって走り出した。それが今のありさにできる、僕の最後の役目だった。