「はぁ……この夢を見るのは、今日でいったい何日目だ……?」

 目覚めてからの本日第一の感想は、最低最悪。また、あの悪夢によって現実に放り出された。

 カーテンの隙間からは一筋の朝日が、僕の瞼に降り注いできた。

あまりに眩しくて、影を作ろうと右手で遮る。ふと、目の前に出された右腕が、うっすらと汗ばんでいることに気付く。部屋が、暑い。ぐっしょりと湿り気を帯びた全身の皮膚が、ぺったりとシャツにくっついているあの独特の気持ち悪さが、途端に強く不快感を主張をし始めた。

近頃はまだ四月に入ったばかりなのに、気温はぐんぐんと上がっていく一方だった。

 あの得体のしれない奇妙な夢と、この季節外れな暑さのせいで、最近は熟睡するのがどうも難しい。微かに開いた目で、隣に置いてあったデジタル時計を見ると、時刻は六時半と表示されている。これ以上横になっていたら、確実に重役出勤は免れないだろう。

寝不足の身体に鞭を打ち、鉛のように重たい体を老人のようにゆっくりと起こす。不快感の原因である汗を流すために、僕はふらついた足取りで風呂場へと歩を進めた。

寝間着を脱ぎ去っているさなか、ふと洗面台の正面に立ち、鏡を見てみる。鏡の中には目の下に巨大な隈を作っている、なんとも醜い姿をした僕がいた。この真っ黒な隈も、このまま時が立てば全身を包んで、いずれは烏にでもなってしまうのではないだろうか。流石に冗談じゃない。来世でさえ、僕は人間の姿で生まれてくることを願っているのだ。

 そんな悪い想像は、首をブンブンと左右に振って吹き飛ばす。風呂場に入って、ゆっくりと蛇口をひねるとひんやりと冷たい水が出てきた。湯気が湧きだすまで少し待ってから、丁度いい温度になるまで調節していく。完璧に計られた温かなシャワーを頭から浴びると、靄がかかった思考が幾分かクリアになるのを感じた。そのまま目の下以外に黒いところができていないか、注意深く観察しながら全身をくまなく洗っていく。

 不快感が跡形もなくサッパリと消え去った後は、ドライヤーで髪を乾かして、机に並べられた食事を胃に詰め込んでいく。細い体をしているせいでよく勘違いされるが、僕は結構食べる方だ。どれだけ食べても太らないこの体質を羨ましがられることは、少なくはない。

満たされたお腹で支度を済ませて、いざ外界へと繋がる扉を開くと、太陽が熱烈なご挨拶をしてくれた。全身の毛穴から汗が滲み出てくるのが分かる。僕は水色のタオルを左手に一枚携え、外部へと一歩右足を踏み入れた。

 僕が通っている高校は、家から十分ほど歩いたところにある。たかが十分、されど十分。この気温だと近場とはいえ、学校に着くまでに、暑さで天に連れていかれるのではないかと不安になる。だから意識を保つため、僕はある悩みについて考えることにした。

 脳裏に浮んだのは、あの悪夢のことである。

 最近では二日に一回はうなされていて、悲惨な光景に変わると同時に目が覚めるというぐらい、習慣にまでなっている。お蔭様で、憂鬱な朝の支度の一覧に水浴びが追加された。
 
 すでに原因は分かっている。それは、今から約二ヶ月前。
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 その日の放課後、外部の芸術公募展に作品を応募していた僕は、美術室で講評の通達を待っていた。受賞者は、十七時にメールで通知される予定で、今はその三分前。今回の製作期間は約三ヶ月ほどだったのだが、締め切りの時間ギリギリまで描き続けた。この三か月間は、それはもう血反吐が出るくらいに創作に没頭したのを覚えている。

 作品を創るということは、度重なる我慢の繰り返しと、迫りくる締め切りとの譲歩だと、僕は思っている。その中でも、今作は最大限時間を費やした上で、過去一番に自分の中で納得がいく作品だった。それほどに、今回の作品は確固たる自信があったのだ。
 
 重度の緊張で、喉はカラカラに乾き、絶え間なく貧乏ゆすりをしてしまう。額の前で、祈るように両手の指を交互に絡ませた。吉報を、今か今かと待ちわびていると、左手につけた銀色の腕時計が十七時を指した。

 光の速さでスマホのメール受信ボックスを開いてみると、まだ何も来ていなかった。二、三分待ってみても、何かが送られてくるような気配はなかった。何かがおかしい。急いで応募した公募展のホームページを検索してみると、受賞者一覧というURLが載っていた。まさか…… 最悪の事態が頭をよぎる。息を呑んで、それをタップした。

 画面の端から端まで、舐めまわすようにしっかりと確認していく、しかし、僕の名前はどこにも載っていない。今回の公募展は比較的大きい方で、全部で二十数個の賞が設けられているはずだったのだが、渾身の作品はどの賞にも掠ってはいなかった。僕は現状、自分の持ち合わせる全てを、あの作品には注いだ。あそこまで、努力した。絶対に、何かの間違いだ。絶対に、見間違いに決まっている。目を擦って、もう一度スマホホを見る。見落としが無いよう、入念に見返していく。だが、いくら探しても自分の名前が現れることはなかった。

 目の前の現実を受け入れられなかった。いや、受け入れたくなかったと言った方が正しいだろう。絶望に耐え切れず、叫び出したくなる喉元を無理やり押さえつけて、あるままの事実を少しずつゆっくりと噛み砕く。飲み込むまでには、幾分か時間を要した。
 
 グラついた頭で理解できたのは、『所詮、自分の掌にはなにも握られてはいなかった』ということだけだった。急にあたり一面、どこを見渡してもどす黒い闇のように感じた。希望という一筋の糸、そんな甘味なものはどこにも存在しなかった。
 
 これまでの十六年間を、全て否定された気がした。お前は空っぽだと、言われた気がした。頭は鈍器で殴られたように、ガンガンと痛みを訴えてはいたが、涙は出なかった。代わりに出てきたものといえば、乾いた笑い。不思議なもので、本当に絶望したときには泣くことすら忘れてしまうことを知った。

 その後の一週間は何を食べようとしても口が受け付けず、最低限のゼリー飲料を摂取して、あとはひたすら泥のように眠った。両親には適当に体調が優れない、とだけ伝えて学校は行かなかった。

 この時から、僕の身体に二つの異変が起きた。

一つ目は、筆を持つと猛烈な吐き気が襲ってくるようになったこと。
二つ目は、悪夢を見始めたこと。

 最初は、時間がこの傷を癒してくれるのだと信じていた。時間がたてば振り切れてまた筆が持てるようになる、絵が描けるようになるのだと。
 
 しかし、事件から一ヶ月ほど経っても一向に筆を持てるようにはならなかった。この時は焦燥感に駆られ、展覧会でほかの人の作品を見たり、モデルにする景色を探すために遠くの街にも出かけたりした。

 それでも描く気にはなれなかった。筆を持つのが怖いのである。不安の海に投げ出されたかのようだった。
惰性でも辞めるよりはマシ。気持ちが乗らずとも、無理やりにでも描き続けよう。正直、そんなことを考えた時期もあった。そんな甘えた考えを持つ自分に反して、やはりそれを由としない自分もいた。情熱が無ければ、仮に完成できたとしてもたかが程度のしれているもの。作った作品に対する侮辱である。最終的には、後者の気持ちが勝ってしまった。中途半端が一番良くない、仕方のないことだ。何度も何度も、自分にはそう言い聞かせた。

 作品は殆ど自宅での作業で美術部には形だけの入部だったが、自分の中でケジメをつけるため、最後には退部することを顧問の先生に伝えた。先生からはその場でしつこく説得されそうになったが、逃げるように職員室を出て行ったのを覚えている。

 そこからの一ヶ月間は、抜け殻のような生活だった。

 何をしてもつまらないのである。胸にポッカリと巨大な穴が開いたと錯覚するほどに、心はちっとも満たされなかった。世界が色を失って、目に映るもの全てが灰色に見えた。

 それもそうだ。今までキャンバスに自分を表現することだけが、僕にとってのこの世に生きているという存在証明、たった一つの居場所だったのだから。この時、初めて大きなものを無くしたことに気づいた。
 
 しかし、今となってはあの日のことを思い出しても、飄々と生きていられるくらいには風化していた。恐らく、心の片隅ではすでに踏ん切りがついていて、無意識にどこかで立ち直ることを諦めてしまったのだろう。持ち合わせていないことに嘆くよりは、全て投げ出して目を背けている方が楽である。
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 そんな自分がこれから、絵を描くことに以上に満たしてくれる何かを見つけられるだろうか、なんて希薄な期待を思い浮かべていると、いつの間にか校門まで着いていた。考え事をしていたら、十分やそこらなんて一瞬である。

昇降口で白色のスニーカーを下駄箱に入れてから、上履きに履き替える。そこから階段で、自分の教室がある三階へと向かっていると、背中の方から聞き覚えのある声に呼び止められた。

「おはよう、涼川。まだ春なのに今日も暑いな。んでもって、実は用があるのだが」

 苦虫を潰したような表情に変わっていくのが、自分でも分かった。闇金の取り立てでもないのだから、顔を合わせるたびに勧誘してくるのはやめてほしい。もう絵は描かないと決めたのだ。朝から双方気分を害す前に適当にあしらって、早々に立ち去ってしまおう。

「おはようございます、一迅先生。再入部の件でしたら、何度も申し上げた通りです。それでは失礼します」

「おいおい待てって。そんな顔するなよ。今日は別の件で声をかけたんだ。おっと。ホームルームまでもう時間がないしまた放課後、職員室に来てくれ。それじゃあ、また後でな」

 それだけを言い置いて、先生は直ぐに何処かへと行ってしまった。あの先生の印象といえば、常に情熱に満ち満ちている人で、いつも風のように現れては去って行く。本当は嵐の申し子なのではないかと、疑ってしまう。

 それはそうと、急だが一つ予定ができてしまった。それも、何か妙に胸騒ぎがする。悪夢から一日が始まり、放課後には気乗りしない予定のダブルパンチなんて、本当に勘弁してほしい。自然と、大きな溜息が零れてしまった。さっきまでは気にならなかったが、何か重たい荷物でも背負っているかのように感じる。怠い身体に喝を入れて、僕はホームルームが始まろうとしている教室へと赴いた。

 やけに賑わっている教室に入ると、殆どの人は教材など授業の準備を済ませ、各々まだ目新しい隣人と談笑を楽しんでいるようだった。二年に進級してまだ一ヵ月も経っていないのに、人間の適応力はよくできたものである。教室の前方に掛けられた丸時計を見ると、ホームルームの五分前を指していた。チャイムが鳴ると先生が入ってきて、今日一日の予定の確認や、今日のニュースの話題など、多少の世間話を始めた。

「それでは今日も頑張って行きましょう!」

 規則的な儀式が終わったかと思うのも束の間、気づけば六校時も終盤へと差し掛かっていた。ただ座ってさえいれば、時間はひとりでに過ぎ去ってくれるし、学生というのは気楽なものだと思う。一日の半分は規則正しく時間割りされていて、何も考えずそれに沿って行動すれば良い。実際、今日自分が何をしたかなんてあまり思い出そうとも思わない。工場で使われる機械とか、お店の前においてある客寄せ人型ロボットは、きっとこのような生活を過ごしているのだろう。

 そんなくだらないことを考えていたら、チャイムが解放の時を知らせてくれた。

 いつもは早々とここから帰宅して家でまったりゴロゴロするのだが、今日は今朝の呼び出しがある。約束を放り出して帰ってしまおうとも考えたが、その後が面倒くさくなるのは、火を見るよりも明らかだった。だって、相手にするのは、あの嵐の化身である一迅先生なのだ。後日、説教ついでにまたしつこく勧誘でもされたらと思うと、諦めの気持ちが先についた。

 喉を鳴らし、覚悟を決めて職員室の扉を叩く。

「失礼します。二年の涼川です。一迅先生に用があってきました」

 いつも通りの定型文を発し、目的地である先生の机まで進む。道中、珈琲の芳しい香りが、鼻腔をくすぐってきた。
 
 無事、目的地までついたのはいいが、どうやら先生はまだいないらしい。その代わり、一人の女子生徒が、ポツリとそこには佇んでいた。彼女も先生に用があるようだ。ネクタイや上履きの色を見る限り、恐らくこの春に入学した新入生だろう。
 
 顔を一瞥すると、非常に整っている様子が伺えた。彼女の顔を見ていると、なんだか急に恥ずかしくなってきた。自分の顔が真っ赤に変わる前に、僕は彼女とは全く逆の方向を向いて先生を待つことにした。

 数分待った後、荒い息遣いが僕の背中から近づいてきた。振り返ると、汗で額が少し反射している先生が立っていた。息切れを起こして辛そうだった先生は一つ、大きな深呼吸をしたあと、突然先ほどとは打って変わって、嵐のように忙しなく口を動かし始めた。

「二人とも待たせてすまん。涼川。今朝、お前を呼び止めた理由なんだが、単刀直入に言うと、この子に絵の描き方についてアドバイスしてほしい。実はこの子に、二ヶ月前から絵を描き始めたのだが上手くなりたい、どうすればいいか? と相談されていたんだ。そこで最初に思い付いたのが涼川、お前だったという訳だ」

 一瞬、先生の言っている言葉の意味が分からず、唖然としてしまう。どうして僕が? そもそも彼女とは、ここで今初めて会ったわけだしそんな義理もないだろう、色々な考えが頭の中で渦巻いて行く。多分、ここで強気に言い返さないと、このままなし崩しに話を進められてしまう。それだけは確実に避けなければならない。僕は、きっぱりと抵抗の意を示すことにした。

「なんで僕なんですか? だいたい、もう絵は描きませんし、他の人の方が適任だと思いますよ? それに僕はもう美術部の部員ではないので、この件については関係ないと思います。先生が見てあげることはできないのでしょうか?」

「涼川の言う通り、そうしたいのは山々なんだが、こう見えて先生も忙しいんだよな! 絵は描けなくても、教えたり見てやるくらいはできるだろ? だって、涼川帰宅部だし。この通りだ! 頼む!」

 両の掌を合わせて、ウィンクを激しく飛ばしてくる先生の援護射撃かの如く、目の前の少女も深々と頭を下げてくる。

「お願いします先輩‼ 私には、先輩しか頼れる人がいないんですっ‼」

 ここまできて、僕ははめられてしまったのだと、ようやく理解した。多分職員室に入った瞬間、いやそれよりもっと前。今朝先生に話しかけられた時点で、この勝敗は決まっていたのだ。ここまで頭を下げられて無慈悲に断れる人間なんて、この世に存在するのだろうか。だんだんと、周りの教師陣の視線も集まってきた。この二人、つくづく卑怯だと思う。この件に関しては、僕が死ぬまで根に持ってやる。

「わ……かりました…少しだけなら」
「ほんとですか⁉ ありがとうございますっ‼」

 素性も知らない彼女の顔が、ぱあっと明るくなっていくのが分かった。そこまであからさまに喜ばれても、僕に重圧が圧し掛かるだけなので控えてほしい所ではあるが、そっと心のうちに留めておく。だけど、しっかり伝えることは伝えなくては。

「だけど期待はしないで。人に教えるのなんて初めてだし、月並みぐらいのことしか言えないかもしれないから」

 一応の予防線は張っておいた。これでいくら教え方が悪くても、ある程度は誤魔化せるだろう。

「んじゃこの子のことはお前に任せたぞ。大丈夫。先生、涼川がしっかり者だってこと知ってるから」

 面倒くさい案件を、僕に押し付けることが出来たからだろうか。先生は一仕事してやったかのような、あるいは嵐が過ぎ去ったかのような、清々しい笑みを浮かべていた。さっきまで教室に張り巡らされていた緊迫感が、じんわりと解されていくのを感じた。
 
 周りを見ると、教師陣も上手く事が落ち着いたと分かったようで、すでに各々己の仕事に取り掛かっていた。誰にも気づかれないよう、僕は小さく溜息をついた。今日はいつにもまして憂鬱な日である。

「ところで君、名前は?」
「夏の本、丹の梨って書いて夏本丹梨って言います!これから宜しくお願いします先輩!」

きっかけは突然、まさに霹靂の晴天。これが夏本 丹梨と僕、涼川 才輝の初めての出会いだった。