二章 天使と居候

 バウンティハンターのたまり場は賑わっている蚤の市の奥にあった。大通りの端にいくつも露天が並んでおり、外国からの輸入品や手作りの料理の匂いで溢れかえっている。
 道行く人々に声を掛けてここまで辿り着いたハジメだったが、鼻腔をくすぐる香りに耐えながら「Bounty Central」と書かれた看板の建物に入った。
 中には身体中に生傷を負った半裸の男たちや、派手な刺青を入れた女が昼間から酒を浴びるように飲んでいた。他にも甲冑を着た剣士や目深にハットをかぶった魔法使いがいる。彼らは酒ではなく、大きなボードに張られた掲示板を見ていた。
 ハジメは人込みを掻き分け、掲示板の隣の窓口にいるスキンヘッドの男の元へと歩いて行った。サングラスのような黒い色眼鏡を掛けており、カタギの人間には見えない。
「君がこの施設の管理人か?」
 管理人は片眉を上げてハジメを見ると、一枚の羊皮紙を差し出した。
「そこに名前を書いて出せ」
 そう短く命令する。
 その紙には契約書と書かれている。記入欄には名前と住所の枠しかない。
「この住所だが、僕はいま宿なしだから書かなくてもいいか?」
「……なら契約は無理だ」
 管理人は差し出した羊皮紙を取り上げた。
「ちょっと待ってくれ、いずれ金を得たらどこかに宿を取る。その金を得るために住所が必要なんだよ」
 管理人はサングラスの奥から睨み付けるようにハジメを見た。
「お前、密入国者か?」
 突然の質問にハジメは言葉を失う。
「……まあいい。どちらにせよ、住所不定者に登録はさせられねえ」
 サングラスを人差し指で押し上げると、椅子の背もたれにもたれかかった。
「どうしても職を得たいなら、あの集団に聞け」
 そして昼間から酒を飲んでいるガラの悪そうな連中を指さした。よく見ると周りの剣士たちも彼らのことは遠巻きに煙たそうに見ている。
「彼らは何なんだ。あまり好かれてはなさそうだが」
「ブレイクダークというクランパーティーだ」
 パーティーの名前にハジメは
(ネーミングセンスがイマイチだな) 
 と呆れかえる。
 全員が真っ黒な服を着てチームカラーを統一しているようだが、ドクロの指輪やネックレスと言った奇抜な装飾品のせいでダサさが隠しきれていない。しかし、それでもかなり多くのメンバーを抱えているようだ。
「あの集団に聞けというのはどういうことだ? 彼らもここでバウンティハンターをしているんだろ」
「あいつらはゴロツキだよ。だが手下になることを条件に、宿を貸してくれる」
 口数は少ないが、管理人の説明でハジメはおおよその見当がついた。ブレイクダークは密入国者や孤児を集め、宿を提供する代わりに仲間を増やしていったのだ。そして数の暴力でこの施設自体を牛耳っているのだろう。
 管理人の口ぶりからしても、周りからは好かれていないことが伺える。
(毒を以て毒を制すか……。世界が違ってもああいう輩はいるものだな)
 ハジメは諦めて首を横に振った。
「なら宿を見つけてまた来ることにするよ。彼らの手は借りないから安心しな」
 管理人は何も言わなかったが、フンと鼻を鳴らしてハジメを見送った。
 ハジメはバウンティセントラルを出て蚤の市を通る。濃度の高い食事の香りがハジメの腹の虫を騒がせるが、あいにくハジメにはこの世界で使える金も物々交換できる代物もない。
 宿を見つけるとは言ったものの、今のハジメには宿を見つけるほどの当てがない。ストレインに助けを求めることも考えたが、別の衛兵がハジメに戸籍がないことに気付かれても困る。
(衛兵に手を借りるのはリスキーだな……)
 ハジメは取り敢えず街中を歩き回ることにした。
 この世界に四季があるかどうかも分からないが、夜になるとハジメの着ている薄手のシャツだけでやり過ごせないことくらいは想像がつく。宿はともかく、寒さをしのげるような場所を見つける必要があった。
 表通りから裏通りまでくまなく散策し、地形を覚えながら寒さをしのげる場所を探す。
  そして、ハジメの視界に看板の外れた怪しげな店が飛び込んできた。看板には「Crystal Magic」と掠れた文字で書かれている。際立って気を引くようなものはないのだが、二階の堅く締め切った窓を見てハジメは店の中に入ることを決めた。
 カランコロンと扉に備え付けられた鈴の音を鳴らし、ハジメは店内に入る。
「…………………………え?」
 長い沈黙ののち、店の奥にいた黒縁メガネの女性は「いらっしゃいませ」とも言わずにただ驚きの表情をハジメに向けていた。
「え、うそ、お客さん……? 半年以上誰も来てなかったのに……しかも男の人……」
 白衣のような上着の袖で顔を隠したりと女性の狼狽する姿をハジメはただじっと観察していた。
(化粧無し、髪の手入れ無し、実家暮らしでそこそこ裕福な家庭のようだな)
 わちゃわちゃと慌てふためいたのち、女性は店の奥へと逃げ込んだ。ハジメがどうしようかと悩む間もなく、女性はすぐに奥から戻って来る。その手には手作りと思わしき人形が握られていた。
 女性はハジメと目も合わせずにカウンターの下に潜り込み、人形だけをカウンターの上に出す。
「こんにちわ! 私はクリスタっていうのよ!」
 人形の口をパクパクと動かしながらカウンターの下からそう名乗った。どうやらただの人形ではなく、パペット人形のようだ。
「……」
 ハジメは黙ってクリスタの奇行を見つめる。
「こんにちわ! 何か御用かしら!」
 先ほどまでの臆病な雰囲気とは違い、人が変わったように快活でハキハキと喋っている。
 ハジメはカウンターに近づき、カウンターの縁にいる人形を鷲掴みにした。人形の中のクリスタの細い手がジタバタと暴れる。
「や、やめてください……。お願いです私はこの人形を通さないと人と話せないんです人見知りなんですコミュ障なんです許してください!」
 あまりに必死な様子にハジメは呆れた。ゆっくりと手を離すと警戒されないように後ろに下がる。
「悪かったよ。おちょくられているだけかと疑っただけだ」
 クリスタは皺だらけになった人形をヨシヨシと撫でた後、再び人形をカウンターの上に出す。
「まったく失礼しちゃうわ! レディの身体を勝手に触るなんてどんな教育を受けてきたのかしら!」
「あいにく僕はまともに教育を受けたことがないんだよ」
 ハジメは適当に答えながら棚に並べられたフラスコや小瓶に詰められた薬品を見る。カウンターの上に目を移すと、そこにもビーカーに入れられた何かの薬液が入っていた。
「ここは薬屋か?」
 尋ねると、クリスタ人形が呆れたように肩をすくめて首を横に振った。何とも生意気な態度だが、ハジメは人形をむしり取る衝動を抑える。
「そんなことも知らずに入ってきたの? ここは単なる薬屋じゃなくて、研究施設よ。今は廃れた科学技術を取り戻すためのラボラトリ―! まあ、他所からはオカルト施設だって嫌われてるけどね……」
「科学? この世界では科学が無くなったのか?」
「何言ってるのよ。科学が世界を席巻していたのは15世紀よりも昔の話しよ。私はその科学を復興させるためにこうして実験を行っているの」
 ハジメは眉を顰め、カウンターに歩み寄る。
 近づいてくる足音にクリスタはカウンターの下で縮こまるが、足音はすぐに遠ざかっていった。おそるおそるクリスタが顔を出すと、ハジメはカウンターの上にあった薬品の入った容器を手に持っていた。
「何して…………」
 クリスタはハッと何かに気付き、慌ててカウンターの下に戻ると再び人形に代弁を任せる。
「ちょっと、何してるのよ!」
 クリスタの声など聞こえていないように、手で仰ぐようにして薬品の匂いを嗅ぐ。
「……やはり、アンモニア水か」
 鼻を突くような独特の刺激臭を間違えるはずもない。
「違うわよ! それは『エトーザ』の原液! アンモニアとかいう変な名前の液体じゃないわ」
「『エトーザ』?」
「そうよ。その煙を吸い込んだ人間は息ができなくなってしまうとても危険な代物なの。いいから早くその原液をカウンターに戻しなさい!」
 ハジメは言われたとおり容器をそっとカウンターに置く。
「っていうかあなた、この店にそんないちゃもんを付けに来たの?」
「ああ、そうだったな。僕はそんなことを言いに来たんじゃなかったよ」
 ハジメは店を見渡し、二階へと続く階段を見つけて指さす。
「この店は二階もあるんだろ? さっき外から窓を見たが、随分と開いていないようだったんだ」
「ほとんど物置として使ってるからね。使わなくなったいろんなものが置いてあるの」
「君はここに住んでいないのか?」
「私はちょっと離れた場所で両親と暮らしているわ。ちょっと……この会話何か関係あるの?」
「もちろんだ」 
 ハジメはクリスタに一歩近づく。
「ちょうど僕は宿を探していてね。どうだろう、家賃は払うから僕をこの店の二階に住まわせてくれないか」
「ええ……」
 そういったのはクリスタ人形ではなく、クリスタ本人だった。突拍子もない提案に思わず素が出てしまっている。
「君が望むならこの店の手伝いだってする。給料はなしでいい。夜は君が実家に帰ってしまうなら、戸締りだって不安だろう。それも僕がいれば安心だ」
 クリスタは見るからに押しに弱い女性だ。その性格を利用することに後ろめたさはあるが、この世界で生きるために必要なことだからと割り切っていた。
「じゃ、じゃあ……」
 クリスタはカウンターから目から上だけを覗かせる。
「あなたがこの店で働けるかを、テストします……。この紙に書いてるものを持ってきてください。そうすれば、あなたがここに住むことを許します」
 再びカウンターの下に隠れ、手元の紙にペンを走らせる。そしてクリスタ人形に持たせた羊皮紙をハジメに手渡した。
「……そうきたか」
 受け取った紙に書かれた名前はハジメが知るはずもないものだった。先ほどの『イゾート』のくだりでクリスタはハジメが魔法に詳しくないことを察していたのだろう。
(思ったよりも聡明だな。このテストで落として体良く断ろうという算段か)
 ハジメは紙を握って頷いた。
「分かった。いつまでに持ってくればいい?」
 ハジメの問いにクリスタ本人ではなく、クリスタ人形が答える。
「今日私がこの店を閉めるまでよ! いいこと、一秒でも送れたらテストは不合格だからね!」
 クリスタ人形の丸い手がハジメをビシッと指さす。
 人形でそれほど横柄な態度がとれるのならハッキリと断れるだろう、と思うハジメだったが、それをしないのはクリスタが心のどこかでこのテストに意味を持たせているのだ。
(このテストも絶対に解けないというわけでもなさそうだ)
時間内に全く知らないものを持ってくることは不可能に近いテストだが、ハジメには可能にするための手がかりがあった。
「分かったよ。店を閉まるのは何時頃だ?」
「日が沈むと同時にこの店を閉める予定だから、あと1時間と30分くらいね」
「90分か。なら君も、絶対に予定より早く店を閉めるんじゃないぞ」
「当たり前でしょ! 私はそんな不正はしません!」
 再びカランコロンと鈴の音を鳴らしながらハジメは店の外へと出た。
 奇妙なことにこの街には時計のようなものはまったくなく、90分も体感で計るしかない。そのため90分ギリギリよりも余裕を持って行動すべきだ。
 そう判断したハジメは店を出ると、すぐに路地裏の中でも特に狭い通路へと入っていった。
 数十秒後、ハジメを追うようにフードを深くかぶった小さな子どもが狭い通路へとやってきた。コソコソと足音を立て、物陰から路地裏をのぞき込む。
「あれ?」
 子どもはキョトンとした顔で路地裏を見渡した。通路の奥には建物が立っており、完全に行き止まりになっている。しかし先ほど入ったはずのハジメの姿がなかったのだ。子供は路地裏の中に入り、抜け道がないか確かめる。
「僕に用でもあるのか?」
 声がして振り返ると、そこにはいつのまにかハジメが後ろで仁王立ちをしていた。
「えっと……何のことでしょうか」
 子どもは目をそらして誤魔化そうとするが、ハジメにはすべてお見通しだった。
「君はずっと僕を尾行していただろう。しかも、僕が留置所から出てきたときからずっとだ。だから僕はこうして路地裏に入り、壁を登ってまでして君を追い詰めたんだよ」
 ハジメは子供に詰め寄る。
「こんな無一文の男を小さな子供が追いかけるなんて相当深い理由がないとありえない。だが考えるまでもないだろ。この世界に来たばかりの僕を追いかける理由など、僕がこの世界に来たことしかない」
 子どもは踵を返して一気に駆けだした。行き止まりの方へ向かって走り出したが、ハジメは万全を期してフードを掴む。しかし子供は上着を脱ぎ捨てた。
 金髪の長い髪が翻り、白色の瞳がハジメを見据えた。おそらく女の子だろう。見た目は10歳過ぎくらいだが、体のラインや肉の付き方がやや女性的だ。しかし、男か女かを気にするよりも注視すべき点があった。
 背中から生えた純白の羽根。
 あまりに美しい黄金比を作った羽根にハジメは思わず見入ってしまった。そのため、少女は手のひらをハジメの顔に向けたことに反応が遅れてしまう。
「『エタエルク』……!」
 呪文と共に手のひらに電撃が溜まる。
 ハジメは少女の手のひら越しに鋭い眼光と目が合う。その瞳には覚悟が宿っていた。ハジメは直感で電撃が放たれること、そしてそれを避けられないことを感じ取っていた。
 次の瞬間、少女の瞳が大きく見開かれ、同時にマナを溜めていた右手を閉じた。
「……バレたら仕方ないわね」
 観念したのか、ハジメにはもう敵意を向けていないようだった。
 右手で髪の毛を払いのけると、左手は腰に当ててキリッとした表情を作る。いわゆるドヤ顔というやつだ。
「人間ごときが私の正体に気付くなんて大したものよ、褒めてあげる」
「君の正体に気付いたわけではない。労いの言葉をくれるくらいなら君の名前を教えたらどうだ?」
 少女は苦虫を嚙み潰したような表情でそっぽを向く。
「……分かったわよ」
 渋々といった様子で、少女は自分の胸に手を当てた。
「私の名前はフェレス。大地の創造主にして人類の母であるハサルシャム様に使いし天使よ」
 名乗ったのはいいが、ハジメには頭をひねるような自己紹介だった。
「創造主に天使? この世界では魔法以外に神性なものまで存在しているのか」
「そんなわけないでしょ。この世界でも神様は多くの人から宗教の偶像として認識されているわ。私がそこら辺の人間に天使だと名乗っても誰一人信じる人はいないでしょうね」
「だが実際に君がここにいるということは、神とやらは存在しているということでいいんだな?」
「そうね。私が言いたいのはあくまで人間の考えと世界の真理に乖離があるということ。この世界で魔法が常識になっているように、どの世界でも常識が真実とは限らないのよ」
 ハジメはフェレスのつま先から頭までを舐めまわすように見渡す。翼のために大きく背中の開いたワンピースのような服を着ており、ノースリーブで肩も露出している。
「質問だが、君はいくつだ?」
「年齢のこと? そもそも人間世界での時の経ち方とは違うのよね……。私が生まれたのが大体グリム童話と同じくらいって言ったらわかるかしら」
「……大体300歳か」
 そのとき、ハジメはふと疑問を感じた。だがその疑問を口にするより先にフェレスが言葉を紡ぐ。
「アンタが聞きたいのってそんなこと? もっと聞きたいことあるでしょ」
「答えてくれるのか?」
「当り前よ。私は天使なんだから、人間の疑問に答えるくらい当然の義務よ」
「なら魔法を使うプロセスを教えてくれ」
「無理ね」
 当然の義務はどこに行ったのやら、フェレスは即答した。
「魔法はそんな簡単に説明できるものじゃないのよ。……っていうかなんで魔法についてなのよ。アンタがここに来た理由とかここの世界観とかもっと聞きたいことあるでしょ!」
「世界観はともかく、どうせ理由は君も知らないんだろ」
 ハジメの発言にフェレスは言葉が詰まる。
「……鎌を掛けたつもりだったんだが、まさか本当に知らないのか」
「え、気づいてなかったの?」
 フェレスは悲壮感に溢れた表情をする。
「君はハサルシャムという神の使いだと言った。神が天使よりも上位の存在なら、僕がこの世界に来たのは君の独断ではなくハサルシャムの意も介しているだろ。だが君の様子を見る限り、君はただの下請けみたいに見えたから鎌を掛けてみたんだよ」
「その通りだけど、アンタに言われると癪ね……。ええ、私は天使の中でも立場は下の方よ」
「なら、僕がここにいる理由を知るには君ではなくハサルシャムに直接聞くとするよ」
 開きなおったフェレスだったが、このエースの発言には牙をむいて反論する。
「アンタがハサルシャム様に謁見するような機会は一生訪れないわ! そもそもこの世界に連れてこられたことだってただの気まぐれのようなものよ。深い理由はないでしょうしね」
「ということは、やはり君にはまったく話を聞かされていないのか。信頼されていないんだな」
 今度は頭に青筋を立てながらフェレスはハジメを睨みつけた。
「信頼されてるにきまってるでしょ! 今だってわざわざ私を人間界に堕天させてまでアンタの監視を任されているのよ!」
「……」
 数秒の間を空け、フェレスは自分の失態に気付いたようだ。
「いや、堕天っていうのは違くて……監視っていうのもホラ、言葉の綾というかね……?」
「……捨てられたならそう言ってくれよ」
「捨てられてない! 私はハサルシャム様に厄介払いなんてされてない!」
 思い当たる節があるのか、フェレスは涙目になりながら首を横に振った。
 怒ったり泣いたり感情は人間と同じように、何なら平均よりも豊かな感情表現をするようだ。
 フェレスも別に捨てられたわけではなく、堕天しなければそもそも人間界に降りてくることができなかったのだ。
「ところで、君は人間界で泊まるような場所はあるのか?」
「う……」
 分かりやすく目をそらして言葉に詰まる。
「この地域は治安が悪い。かといって森の方へ行けば魔獣の群れがいるらしい。いくら天使でも一人で生きていくのは厳しいだろうな?」
「うう……」
 魔獣の件は今適当に作った嘘だが、フェレスは信じているようだった。
 さらにハジメは追い打ちをかける。
「監視対象にも気づかれて、使命を全うできないような天使は使い捨てられるだけだな……」
「ううう……」
 小刻みに身体を震えさせて涙を必死にこらえている。この姿だけ見れば、外見に応じた幼い少女のようだ。
「……分かったわよ。アンタに手を貸して上げる」
「……じゃあ、まずは君の魔法とこの世界について聞かせてもらおうか」

 フェレスも落ち着き、二人は改めて会話を始める。その頃には既に陽がオレンジ色に染まっており、クリスタとの約束の時間までもう少しだ。
「私の能力は『創造』。一見飛べそうに見えるこの羽根は人間界ではただの飾り。飛ぶことはできないわ。普段はこの羽根は隠すことができるけど、『創造』を使うときは羽根を広げる必要があるから誰にも見られないように注意しなくちゃいけないの。天使の存在に気付かれると色々厄介だからね」
「ちなみに、その『創造』っていうのはどんな魔法なんだ?」
「正しく言うと魔法じゃないわ」
 フェレスは地面の小石を拾い上げた。
「『フィルク』」
 呪文と共にフェレスの手の中にある小石は徐々に大きくなった。
「これは魔法。マナを用いて石を巨大化させているの。いわゆる1を5にする行為。マナの扱いに長ければ1を100にでも1000にでも、100を1にすることだってできるわ」
 石を地面に投げ捨てると、元の小石に戻っていた。
 続いてフェレスは手の平を上に向ける。
「『エタエルク』」
 手の平にマナが集まり、何もなかった空間から光り輝く金の延べ棒へと変わった。
「こうして何もない場所から物質を創り出すのが『創造』よ。0から生み出すことができるのは天界人にしかできない力なの」
「これは本物なのか?」
「ええ、もちろん」
 ハジメはフェレスから金の延べ棒を受け取る。重量や表面を確認して、純金であることを確認した。
「それは確かにこの世界に実在する金よ。魔法で作られた物質とは違い、創り出した私が近くにいなくてもその金は存在し続けることができるの。ただ、――」
 フェレスは金の延べ棒をハジメから返してもらい、「エテレド」とそう呟いた。
 すると金の延べ棒は粒子となって消えていく。
「私ならこのように100あるものを0にすることだってできる。これは私が『創造』で創り出したものに限らず、すでにあるものでも消滅させることができるわ」
「……どんな物質でも消すことができるのか」
「全部じゃないわ。私でも創ることができるのは生命の宿っていないものだけ。それもどういう構成で作られているかを把握していないと創造はできないわ」
 生命というものがどの範囲までの存在を示しているのかは分からないが、人間や動物のことを示唆していることは間違いない。
「生物を創れないのは何か理由があるのか?」
「単純に構成物が複雑っていうこともあるけど、この世界に理に反することだからね。生命を作るっていうのは正規の繁殖で増やすか、神様しかできない奇跡のようなものよ。私みたいな天使には生命を作る権利がないの」
「神様か……」
 ハジメは顎に手を当ててフェレスから目線を外す。
(気になることはあるが、今は目の前の課題を優先するべきか)
 ポケットから紙切れを取り出す。クリスタに提示されたテストの内容だ。それをフェレスに見せた。
「ここに書かれているものはなんだ? 文字は読めるが、意味までは分からないんだ」
「ちょっと借りるわね」
 フェレスは中身を読む。そして頬を引きつらせて面倒くさそうな表情を浮かべる。
「サジ・エディゾイド・ノブラック。それとディウキル・ニレシルゴルティンね」
 そして深いため息をつく。
「さっきは外から様子を伺っていたけど、あの店主もとんでもないものを要求するわね。ニレシルゴルティンを扱っている魔法使いなんて歴史上から見ても数人程度よ」
「希少なのか?」
「希少も希少。どんなものなのかも全く分かっていないわ」
 ハジメは紙を返してもらい、その中身をじっと見つめる。目は紙を見ているが、その思考は遥か遠くまで及んでいる。
 店の中にあった瓶に張られていた文字やクリスタ、フェレスとの会話が何度も頭の中で反芻されている。
「……なんか、アンタがこの世界に連れてこられた意味がなんとなく分かったわ」
 フェレスの言葉でハジメは我に返った。しかし、フェレスの言葉の意図は分からない。
 ハジメが首をかしげているのを見て、フェレスは深いため息をつく。
「アンタの世界のことは少しだけ知っているけど、正直言って私は良い世界だとは思わないわ。科学は一人の天才によって皆に恩恵が与えられるけど、魔法は自分とその家族にしか恩恵が与えられないのよ。確かに閉鎖的だとは思うけど、要するに魔法は個人の幸せを得るために努力するのよ。でも、科学は皆の幸せを追求するでしょ」
「一概に肯定はできないが、まあ君の言うとおりではある。僕たちの世界で優先されるのは個人よりも社会全体の幸せだ」
「……ハサルシャム様に聞いたわ。前の世界では周りの人や家族にも嫌われていたんでしょ。でもそれじゃあ仕方が無いわよ。アンタみたいに才能を無駄遣いして自分のためだけに生きる人間なんて、周りから忌み嫌われて当然だもの」
 ハジメは少し黙った後、首を小さく振った。
「それは違う。僕は何も自分のためだけに才能を使っているわけじゃない。まあ8割くらいは自分のためだ。……だが、自分のために使うなら僕は探偵なんて目指していないよ」
 ハジメは続ける。
「僕は謎を解くことで誰かが救われると信じている。それに君が科学の世界を良い世界ではないというのは間違っているよ。少なくとも皆のために才能を遺憾なく使った人は正しいことをしたんだ」
「……意外と正論を叩きつけるわね」
 フェレスは壁にもたれかかり、三角座りをした。
「要するにアンタはノドルの時計塔ってことね」
「ノドルの時計塔?」
「多分もう少しで鳴るわよ」
 フェレスは指を立て、沈黙が流れる。
 その沈黙を破るように街中全体に大きな鐘の音が鳴り響いた。
「これ、鐘の音だったのか」
 ハジメは何度かこの音を聞いたが、これが鐘の音だとは気づいてなかった。
「城内の中央に巨大な時計塔があるのよ。時計は1時間ごとに鐘が鳴るようになっていて、時計がないこの世界ではあの時計塔は人々に時間を教える重要なものなのよ」
「どおりでこの世界に来てから時計がないわけだ」
「あの時計を作ったのは一人の天才だったのよ。とある魔法使いがすべてのマナを使って向こう1000年動くだけの大時計を作ったの。それ以来ノドルの時計塔は四季によって日照時間が変わっても正確に時間を教えてくれる国民たちの支えになったのよ」
「……この世界でも他人のために才能を使った人間がいたってことか」
 フェレスは砂を払いながら立ち上がった。
「私はハサルシャム様がアンタを適した世界に連れてきたのかと思ったけど、アンタはそれでも変わらない生き方をするのね」
「そうだな……。他人からの嫌悪は僕の行動を変える要因にはならない。どこであっても僕のすることは変わらないよ」
 ハジメは大きく息を吸った。
「だが、確かにこの世界で別の生き方をしてみるのは悪くない。苗字持ちは目立つからいっそのこと改名でもしてみるか」
 フェレスは呆れて肩をすくめた。しかし、その口元はかすかに笑っている。
「分かったわよ。私も監視を命令されているし、出来る限りのサポートはしてあげる。ホラ、もう一度紙を見せなさい。私がその言葉の意味を詳しく教えてあげるから」
「その必要はない」
 ハジメはきっぱりと断った。
「必要ないって……それじゃあ何をもっていけばいいか分からないじゃない」
「雑談で時間を使ってしまったからな。早くあの店に戻ろう。道すがら君に頼みたいこともある」
「でも……」
「それと、――」
 ハジメは手に持っていたフェレスの上着を投げ返した。
「僕が店で嗅いでいた液体『エトーザ』の正式名称はディウキル・エイノマ、だろ?」
「どうして分かったの……?」
 フェレスの問いかけにハジメは口角を上げて笑った。

 扉の鈴の音が鳴ると、人の姿を確認せずにクリスタはカウンターの下に逃げ込んだ。のぞき込むようにカウンターの下から恐る恐る顔を出した。
 扉の前にはハジメと見覚えのない少女が並んで立っていた。
「その子は……?」
「フェレスだ。まあ、僕の妹のようなものだと思ってくれ」
 足元のフェレスは妹扱いされたことに不服でハジメを睨みつけるが、ハジメはその反抗に全く取り合わない。
「言われた通りの物を持ってきたぞ」
 クリスタはゆっくりとカウンターの下に潜ると、代わりにクリスタ人形をカウンターの上に出した。
「本当かしら? 言っておくけど、私を騙そうなんてノドル国を攻め落とすほど不可能よ!」
 ハジメはノドル国の国防力など知らないが、クリスタが人形を介して話を始めることは予想済みだ。
 フェレスにアイコンタクトを送ると、フェレスは店の棚に忍び足で近づく。液体の入ったラベルを一つ一つ確認し、その中の一つに手を伸ばした。
 クリスタにバレないようにハジメは話を始める。
「ところで、クリスタ。君はどうしてこんなまどろっこしいテストを出したんだ」
「何のこと?」
「君は僕が魔法薬に詳しくないことに気付き、陽が沈むまでという制限を掛けてまで無理難題なテストを出した。だが僕がここに住むことを本当に拒みたいのなら、初めから君は断っても良かったじゃないか」
「……別にただの気まぐれよ」
 クリスタ人形は手をバタバタと動かして反論する。
「私ははっきりと断るのが嫌だから遠回しに拒否しただけ。変な深読みは止めてくれないかしら」
 その言葉に対し、ハジメは「違うだろ」と反論した。そして手に持っていた羊皮紙をカウンターに置く。
「確かにこの二つは入手が困難な代物だが、絶対に手に入らないというようなものではない。僕が魔法液に詳しくないと分かっていたなら架空の名前を書いてもバレなかったんじゃないのか。蓬莱の珠の枝や火鼠の皮衣とか燕の子安貝とか色々あっただろう」
「ホウライ……ヒネズミ……コヤス? 一体何の話をしているのよ」
 クリスタはハジメのたとえにピンと来ていないようだが、ハジメはそのまま会話を続ける。
「もしこのテストを通ったら君はさらに難易度の高い要求をしてまで僕を拒否してくるかとも考えたが、君はそうはしないはずだ。なぜなら、君は心のどこかで孤独を埋めてくれる存在を探していたから」
 クリスタ人形を操る右手が力なく下がり、クリスタ人形は命がなくなったように俯く。
「君は、寂しかったんだろ。人形じゃない誰かと話がしたかったんじゃないのか」
 クリスタは右手を下げ、クリスタ人形を胸に抱いた。人形に縫い付けられた青いボタンの瞳はクリスタの目をじっと見つめている。
「……違う」
 再びカウンターの上にクリスタ人形が現れ、丸い腕を突き出しながら大きく口を開いた。
「そんなわけない……! 寂しくなかったことはないけど、この子以外の誰かと話したくなったことなんて一度もない……! それに今、あなたの狙いが分かったわ!」
 クリスタはカウンターの下で、さらにハジメとは逆方向を見ながらハッキリという。
「あなたは私の心を惑わせてこのテストをクリアしようとしている……。私を友達のいない可哀想な女だってバカにして、『だったら俺が友達になってやるよ』とか壁ドン顎クイしながら白馬の王子様のフリで私に取り入ろうとしているんでしょ!」
「いや、別にそこまでは……」
「残念ね、この詐欺師! このテストを通ってもあなたに追加のテストを出す必要なんて無いわ。あなたは知らないだろうけどその二つのうち一つは伝説級の魔法薬。私ですら持っていない超貴重品だもの!」
 その言葉を聞き、ハジメは破顔した。
「……言質はとったぞ。君はいま、追加のテストは出さないとはっきり口にしたな」
「え?」
 予想外のハジメの反応にクリスタは困惑する。そしてクリスタの足元に白い煙のようなひんやりとしたものが漂いはじめ、困惑はさらに増えた。
「不安点はこれだけだった。もし君が提示したテストを通過しても、さらに難易度を上げたテストを出される可能性があったからな。だから言質を取るために色々と君を不快にさせてしまったことは謝るよ」
 クリスタは恐る恐る立ち上がる。店の真ん中に立つハジメを見ると、その姿は真っ白な煙に覆われていた。
「君が提示した一つ目、サジ・エディゾイド・ノブラック。噛みそうになるから僕の国の言葉に置き直させてもらうと、二酸化炭素だ。もっとも、これはドライアイスだけどな」
 ハジメは扉を開け、カランコロンと鈴の音を鳴らしながらドライアイスの煙を外に逃がした。
「ウソ……。あなた、魔法薬に詳しくないんじゃなかったの……?」
「確かに、”魔法薬”は詳しくないな。この世界の自然節理が僕の知っているものと
違っていれば、解くことはできなかったはずだ」
 ハジメの両手には小瓶と小さな綿が握られている。
「そしてこれが伝説級と名高いディウキル・ニレシルゴルティン。僕たちの世界ではニトログリセリンと呼んでいる」
 綿を机に置き、そこに小瓶の中の液体を一滴たらした。綿は一瞬にして激しい炎を作り出す。
「『エタエルク』!」
 ハジメの後ろに隠れていたフェレスが手をかざすと、マナが水となって鎮火させた。
「……以上だ。君が指定したサジ・エディゾイド・ノブラックとディウキル・ニレシルゴルティン。これでテストは合格かな?」
 クリスタは唖然としてしばらく呆けていたが、我に返ると
「分かったわ……」
 と言い店の奥へと入っていった。
戻ってくると手には何もついていない鍵を持っている。
「約束だから……」
「ああ。ありがとう」
 ハジメは鍵を受け取った。
「うぅ……」
 鍵を渡したクリスタの手は震えており、目にはうっすらと涙が溢れている。
「この……」
 クリスタは人形を手に付けると、ハジメに向かって突き出した。
「宿無し嘘つきやろう!」
 捨て台詞を吐くと、クリスタはすぐに店から逃げるように出て行った。
「……あれじゃあ子供じゃない」
 フェレスは呆れながらクリスタの後ろ姿を見つめた。
「フェレスが言えた義理じゃないけどな」
 ハジメはフェレスの頭を軽く撫でると、店の鍵を閉めた。フェレスは撫でられた箇所を抑えながらハジメを睨み付ける。
「ひとまず、宿は確保したな」
 フェレスが不満げに見上げているが、そんなことは気にせずに二階への階段を上っていく。
 
 二階は埃まみれだが、かなり人が住むには十分すぎるほどの広さだった。
 フェレスは長年開いていなかった窓を力尽くで開けると、壁を背にして両手を突き出す。
「『エタエルク』」
 風を創造し、小さなつむじ風となって部屋中の埃をかき集めて窓の外へと放り捨てた。
「それにしても、アンタどうして魔法薬が分かったの?」
 ベッドやらクローゼットやら部屋のレイアウトを変えているハジメに問いかける。
「何のことだ?」
「アンタの世界とこっちの世界では名前が違うのに、どうしてエディゾイド・ノブラックとニレシルゴルティンをアンタの世界の名前で答えられたのよって聞いてるの!」
「それだよ」
 ハジメはフェレスの顔を指さした。
「君は今も、路地裏でも『ディウキル・ニレシルゴルティン』ではなく『ニレシルゴルティン』とだけ言った。これは前者が正式名称で、後者が通称ということだ」
「だったら何になるの?」
「サジとディウキルの部分はあくまで付属。重要なのはそれ以外の言葉ということになる。そして、気になったのは『Bounty Central』に『Crystal Magic』、それとスキンヘッドの管理人に渡された署名書だ。この世界では僕が読める英語が共通言語として使用されている。だが、『ニレシルゴルティン』のように固有名詞は僕も知らないものだ」
 ハジメは自虐的に乾いた笑みを浮かべる。
「『ニレシルゴルティン』。口に出すだけでは分からないが、クリスタが紙に書いて渡してくれたおかげで分かりやすくなったよ」
 ハジメはフェレスに羊皮紙を渡す。羊皮紙には『DIUQIL・NIRECYLGORTIN』と書かれている。
「実に単純だよ。これを逆から読めば、ニトログリセリン・液体となる。同じ要領でもう一つも二酸化炭素・気体だ」
 フェレスは頷いた。
「だから『ディウキル・エイノマ』という単語にも気づけたのね」
「そうだ。窒素・液体となっているが、窒素の液体はアンモニアだからな。ちなみに魔法もすべて逆から読んだ呪文になっている」
 初めて出会った少女の氷魔法や、カバリが使っていた体を縮める魔法。口頭ではあったが、そのすべてが逆から読めば「frozen」「shrink」となる。
「なるほどね……だから店の中に並んだ薬品の名前もすべて分かったんだ」
「まあな」
 ハジメは椅子に深く座った。
「もう夜だ。君はもう寝るといい」
 フェレスは一つしかないベッドを見る。
「……何、レディーファーストでも気取っているつもりなの?」
「悪いが僕は男女平等主義だ。そうじゃなくて、僕は体質的にちゃんと眠らなくてもいいんだよ」
「体質? まあ、そういうことならお言葉に甘えさせてもらうわ」
 フェレスはベッドに寝転がり、毛布を被る。
 天使とはいえ、堕天しているフェレスは身体の仕組みも人間に近くなっている。それにマナを大量に消費したため、疲労はかなり溜まっていた。
「……言っておくけど、寝ている私にちょっとでも触ったらすぐにロリコン認定で街に悪評を流すわよ」
「天使に似合わないリアルな報復だな。安心しろよ、僕は君の体なんかで欲情するほど飢えていない」
「それならいいんだけど……」
 フェレスはそう言うと、ハジメに背を向けて目を閉じる。警戒していた割にはかなり早い段階ですやすやと寝息を立てて寝静まっていた。その姿は天使というよりも普通の人間の女の子だ。
 しかし紛れもなく、フェレスの天使である奇跡の力をハジメは利用した。
 ドライアイスもニトログリセリンもフェレスは触れたことがないため『創造』で創り出すことはできなかった。そこでハジメはクリスタの部屋にある薬品の中から元素を探し出し、それをフェレスに触れさせることで『創造』で作れるように指示した。
 しかも元素を創り出せるだけではドライアイスは用意できない。
 そのため、フェレスにはもう一つの指示をした。圧縮から冷却、脱水まですべてを『創造』でやってのけ、その場でドライアイスとニトログリセリンを化合したのだ。
 一方ハジメがしていたのはクリスタの注意を引くこととクリスタを騙して言質を取ること。フェレスはローブの下で天使の羽根を生やしながらずっとマナを消費していたのだ。
 ハジメは手を横にかざす。
「エタエルク」「エゾルフ」「トセラ」
 この一日で聞いた魔法を片っ端から唱えていくが、その手からは何も出ることがなかった。
「……誰でも使えるんじゃないのかよ」
 ストレインに文句を垂れながらも、ハジメは心のどこかで自分が魔法を使えないことを察していた。
(そもそも僕はマナすら感じ取ることができない)
 ハジメはゆっくりと目を閉じる。眠ることはできないが、こうして目を閉じることで心と頭を落ち着けることができた。
 静寂の中、ハジメはこの一日の出来事を振り返る。
訳の分からない世界に来て、その世界には魔法があり、ハジメをこの世界に送ったのは神様と天使だという。ひょんなことから衛兵の力になり、この世界でも探偵として生きていくことになった。
「あの狭い部屋でダラダラと過ごしていた日々とは、まったく違うな」
 いつもは退屈だった眠らない夜も今では一日を振り返るためのいい時間だ。
 ハジメはこの世界に居心地の良さを感じていた。
 
 次の日、日の出と共に『Crystal Magic』の扉がゆっくりと開かれ、クリスタが恐る恐る店の中に入った。
「随分と早起きなんだな」
「ひゃあ!」
 いきなり現れた半裸のハジメにクリスタは飛び上がるように驚き、すぐにカウンターに逃げ込んだ。
「そんなに驚かなくても良いだろ。シャワーを少し借りたんだよ」
 ハジメは階段の隣に備え付けられているバスルームを指さした。
 クリスタはカウンターから顔を覗かせ、水の滴るハジメの顔と鍛えられた上半身の筋肉を見てすぐにカウンターの下に戻った。
 そして代わりのクリスタ人形が登場する。
「別に驚いたわけじゃないわよ! いいから服を着なさい! そんなカッコ……みすぼらしい姿で店をうろつかれたら私だって困るのよ!」
「それは悪かった」
 ハジメは薄着のシャツを着る。
「ところで勝手にシャワーを借りてしまったが、大丈夫だったか?」
「……勝手にこの家に居候している時点でシャワーくらいどうってことないでしょ」
「勝手に居候って……僕はちゃんとテストには通ったぞ」
「それは……」
 正論にクリスタは言葉を詰まらせる。やがて開き直ったのか、クリスタ人形はやれやれという風に肩をすくめた。
「もう、分かったわよ……。その代わり、しっかり店の手伝いはして貰うわよ。それと、絶対に問題ごとは起こさないように!」
「百も承知だ」
「あと……」
 クリスタの声が少しだけ小さくなる。
「あなたの名前、聞いていなかったわね」
「……そうだったな。僕の名前は――」

クリスタと話した後、ハジメはバウンティセントラルに朝一番で足を運んだ。
 店の中はブレイクダークのメンバーたちが飲んだくれて寝ており、窓口にはスキンヘッドの管理人が手作りと思われるサンドイッチの朝食を食べていた。
 管理人はハジメに気付くと、契約書を取り出す。
「来たか」
 ハジメは男から契約書を受け取ると、スラスラと空欄を埋めていった。
「これでいいだろ」
 男に渡す。
「……この一晩で、本当に宿を見つけてくるとはな」
「まあな。だが彼らの力は借りていない」
 ハジメは大きなイビキを立てているブレイクダークの男たちに目を向ける。
「……そうか」
 管理人は笑いこそしなかったが、満足げな表情を浮かべた。
「お前の名前は登録しておく。名前、『エース』でよかったか?」
「ああ。僕の名前はエースだ」
 この日よりハジメ改めエースはこの謎多き世界で正式に探偵として働き始めることになった。
三章 勇者連続殺人事件

 ストレインはバウンティセントラルにて受け取った地図を片手にスカル街を練り歩いていた。スカル支部に赴任してから10年以上とはいえ、ストレインも知らない地域はまだたくさんあった。
後ろに付いてくるトルバは赴任してから一週間と数日経つが、早くもこの街の独特な雰囲気には慣れつつあった。
「……それより、本当にあんな男の力を借りるんですか?」
 トルバは胸にたまった鬱憤を晴らすかのようにストレインに不満を漏らす。
「当り前だ。お前もアイツの実力は目にしただろう。この事件を解決するにはハジ……エースの力を借りなくてはいけない」
「でも衛兵が一般人の力を借りるなんて……」
「なら考え方を変えるんだな。俺たちの目的は事件を解決するためではなく、市民の安全を守ることだ。事件解決なんて面倒なことは専門家に委託すればいいんだよ」
 トルバは返す言葉もなく黙るが、その胸中に不服が晴れていないことは顔を見れば分かった。ストレインもトルバの気持ちは分かっていながら、咎めることはしない。
 トルバのような若い衛兵が葛藤を抱くことは仕方がない。情熱があるとから回った分、不満は蓄積されていく。それはストレインもかつて経験したものだった。
(トルバのため、ここは見守ってやろう)
 そして探し回ること数分、ようやく『Crystal Magic』と書かれた店の前までやってきた。
 外の暑さに耐えきれず、二人はすぐに扉を開ける。扉の前にはCLOSEDという札が掛けられてあったのだが、そんなものには全く気付いていなかった。
 カランコロンという鈴の音が鳴ると、カウンターの横にいたクリスタは髭面の男と血気盛んな若者と目が合う。
「え……」
 ただ二人は目を合わせているだけなのだが、クリスタにはまるで獲物を狙う獅子のような眼光に感じ取った。
「ごめんなさい!」
 すぐさまカウンターの下に潜りこむ。代わりにクリスタ人形が顔を出し、両手をばたばたさせる。
「ちょっと、まだ開店前なんですけど!」
 クリスタの奇行に付いていけない二人だったが、ストレインが宥めるように声のトーンを落として話しかける。
「すまない。俺たちは衛兵で、エースに用があってきたんだ」
 ストレインはクリスタに地図を渡して信頼を得る。
「エースが居候しているのはここであっているよな?」 
「エースのお客さんなのね。エースは階段を上がったらいるわよ」
 クリスタ人形が角にある階段を指さす。
「そうか。ありがとう」
 ストレインは早足で階段を上った。
「……ちょっと、いまのなんですか?」
トルバも小声でストレインに尋ねるが、ストレインは首を横に振る。
二人は何も見なかったことにして二階に上がった。
 
「よく来たな。フェレス、客人に椅子を用意してやれ」 
「はいはい」
 口をへの字にしてフェレスが椅子を二つ並べた。二人が来た時点でエースは階段の方を向いて肘掛け椅子に深く腰を下ろしていた。
「……まるで俺たちが来ることを待っていたようだな」
 ストレインは予約をしてここに来たわけでもなく、昨日の夜に思い立って今日の早朝にエースの住所を聞いてやって来たのだ。
「いやなに、巷で怪死事件が話題になっているからな。君なら僕に頼りに来ると分かっていたのさ」
 エースは綽綽と朝のコーヒーを傾ける。その態度が気に入らない若者が一人。
「……まるで自分が俺らより優れているって言いたげだな」
 トルバはフェレスが用意していくれた椅子に座ることもなく、エースを睨みつけていた。
「そうだな。僕は優劣で物事を考えるのは嫌いだが、君が僕に勝てるのは声の大きさくらいだろう」
「何だと……!」
 今にもエースの胸倉に掴みかかりそうになるトルバをストレインが抑える。
「落ち着け。俺たちはここに喧嘩をしに来たわけじゃないだろ」
「ストレインさん! やっぱり俺はこんな奴に協力を求めるのは嫌です!」
「そうだぞ、ストレイン。彼はこの事件にかける情熱が強すぎて寝不足なんだ。城内にいる恋人とも疎遠になり、ストレスのはけ口を僕に求めても文句は言えないさ」
 トルバは呆気にとられてエースを見つめる。
「どうして、それを……」
「目は充血していて、肌色もよくない。袖口にはインクが付いているからワークデスクをずっとしていて、着替える間もなかったんだろう。左側の髪の毛の癖から机で寝オチしてしまったことも窺える」
 続いてエースはトルバの服装を指さす。
「君はスカル街支部に来る前は城内で衛兵をしていたはずだ。その新品の制服が何よりの証拠になる。僕に突っかかってくるような熱血漢なら、左遷ではなく自主的に異動したのだろう」
 さらにエースは続ける。
「しかし城内の彼女との仲はうまくいかなかったようだね。以前君が僕を野次馬だと思って止めたときは首からロケットを下げていた。今はそれを外し、右ポケットの中に入れている」
 エースの指先が制服の右ポケットを指さした。いわれてみれば確かに、ポケットに何か小物が入っているような膨らみがあった。
 トルバがポケットからゆっくりと銀色のロケットを取り出す。
「首から外したのにポケットに入れているのは君にはまだ未練があるから。おそらく一方的に手紙で別れを告げられたんだろう。ロケットの留め具が壊れているあたり、怒りのあまり力づくで外したんじゃないか?」
「だが、――」
 口をはさんだのはストレインだった。
「ロケットだけなら恋人でなくても家族という可能性だってあるだろ」
「いいや、そのロケットは安物でまだ使い古されていない。家族の物ならもっと高価で年季が入っているはずだ。それに、彼には家族がいないからな。もしいるなら、こんな偏狭の地に自分から異動することなんてありえない」
 トルバはロケットを持つ手を強く握りしめる。
「確かに……お前には特別な才能があるようだな」
「それはどうも」
 エースは胸に手を当て、皮肉にも取れる感謝をする。
「……ストレインさん。俺、外で頭冷やしてきます」
トルバは見るからに不機嫌そうに階段を下りていった。
「床を踏み抜かないでくれよ」
 エースの声など全く意に介さずにドスドスと足音を立てている。ストレインはトルバは店から出て行ったのを確認し、エースに向き直った。
「……すまない。だがトルバもこの街のことを思ってくれているんだ」
「いいのよ。悪いのは人の気持ちを考えないこのバカなんだから」
 深々と頭を下げるストレインを慰めるようにフェレスはエースの肩をたたく。
「そんなことより」
 エースはフェレスの小さな手を払いのける。
「今は事件の話をしよう」
「そうだったな」
ストレインは気持ちを切り替えて手のひらサイズのノートを取り出した。
「事件が発生したのは2日前、検問所近くの広場で一人の男が遺体となって発見された」
「その話は知っている。だがそれはよくある殺人事件だろ。どうして噂になるほどこの事件が広まっているんだ?」
「その殺された男が勇者だと言ったら、意味が分かるだろう」
「ああ、なるほどね」
 納得したフェレスにエースは眉を顰めた。ストレインに聞えないようにフェレスに耳打ちをする。
「勇者っていうのはなんだ?」
「勇者は王から授けられる称号よ。大きな手柄や力が認められると王に謁見する権利が与えられて、勇者という名称で呼ばれるようになるの。だからこうして殺されるのが意外なのよ」
 エースは説明されても納得することはなかった。
「だが勇者とはいえ死なないわけがないだろう。どうして殺されただけでそこまで大騒ぎしている」
「勇者は鋭利な刃物で心臓を一突きされていた。他に争った様子もなく、ただの一突きで絶命だ。勇者を簡単に殺せるような危険な犯人を野放しにしておくわけにはいかないんだよ」
「要するに」
 ストレインの言葉に被せるようにフェレスが口をはさんだ。
「勇者が死んだ場合はスカル支部だけでなく本部にも伝わるのよ。城内の人間からしたら闇討ちで殺されるような人間を勇者に選んだことがバレると沽券にかかわるし、勇者を殺せるような手練れを生かしておくわけにはいかないのよ」
「……その通りだ。小さいのに城内のことに詳しいんだな」
「まあね」
 フェレスは褒められて少し上機嫌になった。
「なるほど。だから君は僕の手を借りてでも事件を早急に解決したいのか。君たちだけでは事件が解決しそうにないから」
 ストレインはバツが悪そうに苦笑いをする。
「手厳しい言われようだが、事実だからやむを得ないよ」
「なに、気にするな。そもそも君に協力する約束だからな。事情はどうあれ、僕の興味を引くような事件なら大歓迎だ」
 エースは飲み終わったコーヒーを置くと、ローブを羽織った。
「ちょ、今すぐ行くの!?」
 フェレスの手元にはクッキーとミルクが残ったままだ。エースはしっかりとその状態を見たうえで、
「来ないなら置いてくぞ」
 とだけ言った。
 フェレスは涙目になりながらクッキーを一気に頬張り、それをミルクで流しこむ。
 三人が階段を降りると同時にクリスタがカウンターの下に潜りこんでいた。
「少し出かけてくる。もし依頼人が来たら要件と連絡先だけ聞いておいてくれ」
 エースの問いにクリスタは何も言わない。
「じゃあクリスタ、行ってくるわね」
 フェレスがそう言うと、カウンターの下からクリスタ人形が現れ、フェレスにだけ手を振った。 
(……どうせエースは無神経な発言で嫌われたんだろう)
 ストレインは1人納得して、店の外に出た。
 外にはトルバが壁にもたれ掛かって座っていた。カランコロンという鈴の音で顔を上げると、渋い顔をした上司と目が合う。
「トルバ、こんな暑さじゃ頭を冷やすどころじゃなかっただろ」
「……いえ、十分冷えましたよ」
 トルバはストレインの後ろにいるエースを見る。
「お前の態度は気に入らないが、事件解決に手を貸してくれることには感謝する」
 エースが何か答えるよりも早く、トルバは踵を返して歩き出した。
「……エース、もう意地悪しちゃダメよ」
 フェレスはエースの裾を引っ張ってそう告げる。 
「分かってるよ。神経を逆撫でするような真似はしない」
「本当に分かってるの……?」
 呆れはしたものの、エースとフェレスは先導する二人についていった。

 一行が着いたのはエースがこの世界に来て初日に収容された留置所だった。
「ここがスカル支部衛兵署だ」
「……署だったのか」
 小さな二階建ての建物のため、エースもまさか衛兵署だとは思わなかった。
「……小さいわね」
 フェレスが歯に衣着せぬ発言をする。ストレインも10歳の少女に言われると苦笑いしかできなかった。
「一応地下もあるからもうちょっとだけ広いぞ」
 エースはこの世界に連れてこられてきてすぐに収容された牢獄を思い出す。
「あの地下は狭いだろ。しかも牢獄をスペースにカウントするな」
 ストレインが何かを言う前にエースは衛兵署の中に入った。それにフェレスもついていく。
 
 四人は衛兵署の二階、六畳程度の小さな会議部屋に集まった。
「すまない。出払っているとはいえ、他の衛兵たちに見られると色々と厄介なのでな」
 そう言ってストレインは両腕に抱えた資料を机の上に置いた。
 資料には『不屈のパレス』と書かれている。
「こんなにあるのか?」
 エースは資料の一部を取って尋ねる。その資料には殺された勇者の情報が書いてある。
「仕方ない。ここにあるほとんどは殺された勇者パレスが達成した功績だ。この中から恨みを買った人物がいるかもしれないと思うと、無下にもできないだろう」
 紙の資料以外にも箱に入った雑貨のようなものがある。
「これは?」
「殺されたときにパレスが持っていたものさ。大したものは入っていなかったよ」
 そう言われてもエースは中身を確認する。年季の入った指輪や、札束がぎっしりと入った財布などがある。さらにハンマーを模したエンブレムのアクセサリーもあった。
 アクセサリーをじっと見つめるエースを横に、ストレインは資料を四つに分けて全員に配る。
「途方もないとはいえ、やはり犯人を捕まえるには動機からだ。まずは討伐依頼を中心に彼を恨んでいるような人物を探ろう」
「待て」
 エースは手元に置かれた資料を持ち上げる。
「まさか君は僕たちにこの資料を調べる手伝いをさせるために呼んだのか?」
「まずは人海戦術だよ。その後でお前の推理を聞いていくつもりさ」
 エースはわざとらしく肩をすくめて呆れてみせた。
「バカも甚だしい。僕は勇者のパーティーメンバーに話を聞いてくるよ」
「待て、もう俺とストレインさんで聞いてある。行っても無駄になるだけだ」
「無駄かどうかは僕が決める。話を聞いたらまた戻ってくるよ」
 エースは振り返ることもなく、颯爽と会議室の扉から出て行った。
「あ、待って。私も!」
 フェレスも会議室から逃げるように後を続いた。廊下に出ると、早足で歩くエースの元へと駆けよった。
「ちょっと、私をあんな場所に置いていかないでよ」
「あんな? それは暑苦しいという意味か、それとも無能な奴らの集団という意味か」
 その言葉にフェレスはむっとしてエースの前に立ち塞がった。
「ちょっと、この国民は私が仕えるハサルシャム様が創り出した人間なのよ。いくらアンタでもその口の利き方は納得いかないわ」
「……確かに、無能は言い過ぎたな。彼らがしているのは無能の行為ではなく無駄な行為だ」
 エースはフェレスを押しのけ、衛兵署から出た。
「どうして無駄だって言えるのよ」
 フェレスも続いて衛兵署から出る。
「そもそも殺人の動機なんて無限に考えられる。嫉妬、衝動、快楽、金銭、復讐。さらに復讐の中でも殺人感情を抱くきっかけは人によって異なる。快楽に関してはまともな感性をした人間には理解できない」
「動機から犯人を特定するのは無理だってこと?」
「一つのケースから探すなら効率的かもしれないが、あんな大量の資料から見つけるのは不可能だよ」
「……」
 フェレスは少しの間だけ黙る。拗ねているようにも見えるが、何か思考を巡らせているようでもある。
「ところで、殺された勇者の名前は『パレス』というようだ。『不屈のパレス』と書いてあるが、これはなんだ?」
 エースに呼ばれてフェレスは反応をする。
「え? ああ、これは二つ名よ。この世界では苗字が付けられない分、同名の人が多くなるでしょ。だから剣士のように成り上がりの人間には区別するために二つ名を名乗ることが許されるのよ」
「なるほどな」
「それより今からどこに行くの?」
 エースはローブの中から一枚の資料を取りだした。その資料にはパレスのパーティーメンバーについての情報が載ってある。
「彼らはバウンティセントラルに加盟している。ストレインが僕たちの家に来たように、管理人に聞けば彼らと話くらいはさせて貰えるかもしれない」
「そんな簡単に話をさせてくれないと思うけど……」
 ゆっくりと歩くフェレスを置いてエースは早足で歩き続ける。
「ちょっと、バウンティセントラルはそっちじゃないわよ」
「その前に一度家に戻る。必要な物があるからな」
 その態度にフェレスはむっとする。
「そうやって自分勝手に進の止めてくれないかしら。ちょっとくらい私に予め話してくれても良いんじゃない?」
 そう言われてエースは急に足を止める。
「それもそうだな。ならフェレス。僕が話す内容に対して、君は絶対に乗っかるんだ」
「乗っかる……? 何の話をしているのよ」
 エースは意地の悪い笑みでフェレスに説明をした。
 二人はバウンティセントラルに付くと、管理人に頼み込んでパレスのパーティーメンバーに合わせてもらうことに成功した。
 それまではよかったが、フェレスは今起こっている事柄についていけず冷や汗を流していた。
「たった数年の付き合いでしたが、パレスさんは僕の師匠であり兄のような人でした。今頃はきっと天国の姉さんとお義兄さんと一緒に仲良く盃を交わしているでしょう……」
 エースは涙ながらにそう言った。黒縁メガネを掛けて前髪も七三分けにした見た目も感情豊かな表情もまるで別人のようである。
「そう……パレスは昔のことを話したがらなかったけど、そんな過去があったのね」
「昔とはいえ、君も俺たちと同じ仲間のようなものだ。パレスほど強くはないが、何かあったら僕に頼ってくれ」
 パレスのパーティーメンバーであるリーアとウルクがエースの肩を優しくたたく。
 なぜこのような状況になったのかというと、すべてエースの悪だくみだった。
 資料でパレスのパーティーが10年前に結成されていたこと、それ以前にお互い面識がなかったことを確認するとエースはパレスと元パーティーを組んでいたと嘘をついたのだ。
 最初はパレス、エース、エースの姉、そして別の男の剣士4人でパーティーを組んでいた。やがてエースの姉とパーティーメンバーの一人と結婚することになりパーティーは解散。その後エースの姉と義理の兄が不慮の事故で無くなってしまい、その期間はパレスにとても世話になった。そしてフェレスは姉の子供、エースの姪っ子という立場にさせられている。
 すべてウソだが、エースの作り込まれた設定と演技力でリーアもウルクも完全に信じ切っていた。
ちなみにメガネは一度クリスタルにまで戻ってクリスタから奪ってきたものだ。お陰でエースは度のきついメガネによって視界は悪い。
(妹にされたり姪にされたり……ハサルシャム様に頼んでもう少し身体を大きくしてもらおうかしら)
 ふくれっ面のフェレスの隣でエースはリーアとウルクに話をうまく引き出そうと会話の話題を誘導する。
「じゃあ、パレスさんの武勇伝を聞いてもいいですか? 噂は聞いていたのですが、詳しくは知らなくて……」
「そうね。じゃあやっぱり、勇者の称号を貰った天海龍を討伐した時の話しかしら」
「あの時は凄かったな。三人で天海龍が現れるという山の頂上に上ったんだが、天海龍の暴風でまともに立ち向かえることはできなかった。そこで俺とリーアの魔法で山頂に大きな闘技場を作ったんだ。そこでパレスと天海龍は一騎打ちさ」
「天海龍の落雷がパレスに直撃しても、パレスは微動だにしなかったの。何度攻撃されてもその間パレスはずっと大剣にマナを溜め続けていたわ。そして業を煮やした天海龍が直接パレスを食べようと大口を開けた瞬間、大剣が振り下ろされて天海龍は真っ二つよ」
 天海龍という全く知らない登場人物が出てきたが、エースは無知を表に出さずに首を縦に振った。
「すごい……! さすが不屈のパレスですね。でも、ちょっと意外です。僕の知っているパレスさんはどこか俗っぽい人だったので、お二人と出会ってから変わったんでしょうか」
「そんなことないわよ。勇者の称号なんてもらったけど、酒を飲んでは問題を起こすようなことはよくあったわ」
「そうそう。一度酔った勢いでチンピラと喧嘩になった時はお互いボロボロになるまで殴り合っていたよ。結局二人とも気絶してしまったがな」
「チンピラ……?」
「確かこのバウンティセントラルにいた無法者だよ。名前までは憶えていないな」
 エースは顎に手を当てて考え込む。こういった情報は衛兵の報告書には載っていなかったものだ。まだ有益な情報を引き出せないかとエースは演技を続ける。
「さっきも言った通り、僕はパレスさんを師匠として信頼していました。いつかパレスさんのように強くなりたい……。そう思って、パーティーを解散した後も訓練を怠った日はありません。だからお願いします!」
 エースは頭を下げる。
「どうか、パレスさんの魔法を僕に教えてくれませんか!」
 プライドを捨ててまで頭を下げたエースだったが、リーアもウルクも何も言わないことに違和感を覚え、顔を上げた。二人は顔を見合わせ困ったような表情をしている。
「悪いんだけど……」
 リーアはエースの方を見る。
「10年間一緒にいるとはいえ、私たちもパレスの魔法の能力はよく知らないのよ」
「攻撃するときも一撃で終わらすことが多かったし、何よりもパレス自身が頑なに喋ろうとはしなかった。まあ賞金首なんてものを生業にする以上、用心するに越したことはないからね」
 確かに手の内を知られるのは弱点を知られるような者だ。エースは納得した。
「ねえ、それよりあなたの知るパレスについて教えてよ。やっぱり昔から強かったの?」
「そうですね……。あ、フェレス。お前今日の約束は何時からだった?」
 いきなり名前を呼ばれてフェレスは目を丸くするが、すぐにこれが『話を合わせろ』ということだと気づいた。
「あぁ! そうだったぁ! もう帰らきゃ!」
 あまりの棒読みにエースは頭を抱えそうになるが、何とかエースの演技でフォローする。
「しっかりしてくれよ。すみません、リーアさん、ウルクさん。僕たち用事があるので、続きはまたどこかでしましょう!」
「あ、ちょっと!」
 エースは立ち上がり、深く礼をする。そして顔を上げると同時にメガネを外した。
 顔を上げながらエースは初めて二人を観察した。衣服、髪型、顔立ち。そして二人がハンマーを模したエンブレムのアクセサリーを付けていることを確認した。
 フェレスの腕を掴み、リーアの制止も聞かないで二人はバウンティセントラルから逃げるように出て行った。
 露天の通りを抜け、エースはようやく一息つく。
「何とかうまくいったな」
「うまくいっている分けないでしょ!」
 フェレスはエースの手を振りほどき、キーキーと喚き散らす。
「あんな変な芝居までさせて! 私がどんな思いで聞いていたか想像もつかないでしょ!」
 人目もはばからずフェレスはエースに詰め寄った。
「だから前もって言っておいただろ」
「ならどういう演技をするかくらいは教えなさいよ!」
 一歩退いたエースに後ろを歩いていた通行人とぶつかってしまう。
「あ」
 反動でエースは手に持っていたクリスタのメガネが地面に落ちる。それに気づかず、フェレスはメガネを踏んでしまった。
 バキと不穏な音がして、二人は地面を見る。
 クリスタがゆっくりと足を上げると、そこにはフレームもレンズもバキバキに折られた残骸が残っていた。

 衛兵署二階の会議室ではトルバとストレインが雑多な資料を前にずっと食い入るように一枚一枚手繰っていた。戻ってきたエースは扉をノックし、返事が返ってくる前に中に入る。
「どうだった?」
 エースがそんな鬼気迫るような二人に声を掛ける。二人はエースが声を掛けるまで会議室の扉が開かれたことにすら気づいていなかったようで、ゆっくりと顔を上げてエースの顔をまじまじと見つめる。
「おお、帰ったか」
 ストレインは大きく伸びをすると、手に持っていた資料を机の上に置いた。
「こっちはダメだな。パレスはほとんど魔獣を中心にした討伐依頼しか受けていない。これじゃあ恨みを買うような機会がないよ」
「そうか」
「それで、何か新しい情報は得られたのか?」
「収穫はあったよ」
 フェレスからすればまったく得られた情報はないわけだが、あながちエースが嘘をついているようにも思えなかった。
「ところで、」
 エースが切り出す。
「パレスの死体の状況が見たいんだが、どこにあるか分かるか?」
「それなら……」
 ストレインは窓の外から太陽を見上げた。
「あと少しで城内に運ばれる予定だったが、今なら見せてやれるかもしれん。ただ……」
 ストレインの目はフェレスに向けられる。
「ああ、なるほど」
 たとえ天使であろうとも見た目は十歳の少女なのだ。そんな子供に大人の死体を見せることには抵抗があっても不思議じゃない。
「フェレス、君は家に変えるんだ。ついでにこれも返しておいてくれ」
 エースは粉砕されたメガネをフェレスに渡す。
「……責任転嫁しようって訳ね」
フェレスは頬を膨らませてエースを睨み上げる。
「転嫁も何も悪いのは君だろ。もし一人で帰れないというなら、トルバに送迎を任せる」
 引きつった顔でトルバを見た後、フェレスはしぶしぶ頷いた。
「分かったわよ。その代わり、勝手な真似はしないでよね」
「もちろんだ」
 そう言うとフェレスはメガネを受け取り、部屋から出て行った。
「……おい、今のは何気に傷ついたぞ」
 トルバがエースの睨み付ける、
「大人に反抗したい年頃なんだよ。察してやれ」
 窓からフェレスが帰路についたのを確認すると、エースはストレインに
「じゃあパレスの死体まで連れて行ってくれ」
 と言った。
「城内の関所に留置されているから少し歩くぞ」
「構わないさ」
 ストレインはトルバの方を見る。
「トルバ、お前はどうする?」
「……自分はもう少しこの資料を調べてみます」
 懲りずにパレスの受注依頼を必死に確認している姿にエースはため息をついた。
「残念だがその資料を調べても特に何もないぞ」
「そんなのやってみないと分からないだろ」
 トルバはエースの態度に腹が立っているようで、目も合わせずにずっと資料を見ている。
 エースの頭脳をもってすればトルバの行動がいかに無駄なのかを27個の根拠をもとに証明することができるが、フェレストの約束通りこれ以上厄介ごとを作らないように何も言わなかった。
「なら好きにするといい」
 ストレインも何も言わず、トルバを残して二人は関所へと向かった。

 家に帰ったフェレスは鈴の音と共に店に入る。その音に反応してクリスタがカウンターの下に潜りこもうとするが、壁やカウンターに顔面をぶつけていた。
「あぅ……」
 情けなく床にしゃがみ込んでいるクリスタにフェレスは歩み寄る。
「クリスタ、大丈夫?」
「あ、フェレスさん」
 クリスタは顔を上げてフェレスの名を呼んだ。しかしその目線は明後日の方向を向いている。
「その、ごめん……」
「? 何を謝っているんですか?」
 フェレス原形をとどめていないメガネをクリスタの手に握らせた。
「私のせいで、壊しちゃったみたい……」
「……」
クリスタは哀しげに手の感触だけでメガネの現状を感じ取っていた。
「あ、でも安心して!」
 フェレスはローブの中から新しいメガネを取り出した。
「私の能力で新しいものを作ったの。レンズの度合いも変えたから使えるはずよ」
「あ、ありがとう……」
 クリスタはメガネを掛けると、目をぱちぱちして周りを見た。
「フェレスさん、だけですか……? エースさんは?」
「アイツはまだ事件の調査中よ。私だけ子供だからって帰されたのよ」
「そうですか……」
 クリスタはまだ壊れたメガネを触っている。
「……ひょっとして、それ大事なものだった?」
「え? あ、いえ……そう、ですね……。これ、私の祖父のものなんです」
「お祖父さんの?」
「はい。私はもともと目が悪い方じゃなかったんですけど、祖父の形見のメガネをずっと掛けていたからそのせいで目が悪くなっちゃったんです」
 クリスタの眉は下がり、声は震えている。その様子は涙を堪えているようだった。
「バカですよね。コレを掛けたら祖父が側に居る感じがして、そのせいで目が悪くなって……」
 もうこれ以上壊れないように、クリスタはメガネを優しく握って胸元で抱えた。
「……ちょっと、かして」
 フェレスはクリスタから壊れたメガネを受け取る。
「いつも壊れたものは消してから新しく創ってたから、直すのは苦手なのよね」
 『エタエルク』と唱え、メガネのパーツをつなぎ合わせていく。ローブの下で羽根を隠しているとは言え、至近距離にクリスタがいる状態で『創造』を使うのはリスクを伴っている。しかしそんなことフェレスはまったく気にしていなかった。
「大丈夫よ」
 不安げに見つめるクリスタにフェレスは優しく言葉を投げかける。
「私が絶対直してみせるから」
 クリスタはフェレスの横顔に自然と信頼を持っていた。
  


 エースとストレインは城内とスカル街を繋ぐ関所にやってきた。剣を持った衛兵が厳重に警備をしており、二人が関所に近づくだけで衛兵たちが鋭い目つきを向ける。
「スカル街支部のストレインです」
 ストレインが胸に付けたバッジを見せながら門番の一人に話しかけた。
 門番はストレインの人差し指を伸ばしてバッジに触れる。バッジは金色に光り、プロジェクトマッピングのようにストレインの姿が空中に映し出された。
「何の用だ」
 確認が終わったのか、門番は低い声でストレインに尋ねる。
「勇者パレスの遺体確認に参りました」
 ストレインは右手で敬礼をしながら答える。
「パレスの遺体はもう城内の葬儀場に連れていく。諦めろ」
「確認だけですのでお手間は掛けません。事件解決のため、よろしくお願いいたします!」
 門番は面倒くさそうに頭を掻きながら流し目でエースを見る。
「……コイツは誰だ?」
「っ! 彼は……」
 ストレインはエースの立場をすっかり忘れていた。国籍を持たないエースは正体が別の衛兵にバレれば即国外追放だ。
 狼狽するストレインの代わりに、エースは自ら助け舟を出す。
「はじめまして、僕はパレスのパーティーメンバーのウルクです」
「ウルク?」
 門番はエースの身体を頭の先からつま先までじっくりと見る。
「……まあいい。五分で済ませろ」
 門番は後ろの扉を開けた。
 エースとストレインは扉の隙間を縫うように関所の中へと入る。
 関所の中は宮殿のように大きなものだった。床の大理石は鏡のように反射しており、壁一面には天使や女神を描いた巨大な肖像画が飾ってある。その空間でさも当たり前のように衛兵たちが歩き回っている。
「おい、こっちだ」
 観察している間もなく、ストレインがエースの腕を引っ張る。無駄話をせずに、二人が向かったのは地下室の一室だった。
 薄暗いが、部屋の中央に寝かされた水晶が部屋を青白く照らしている。そしてその水晶の中には大柄の男が目を閉じて眠っていた。
「彼がパレスだ」
 ストレインは壁に備え付けられた燭台に火をつける。
「これから水晶の結界を解く。遺体を調べるならすぐに済ませてくれ」
「了解だ」
 水晶が寝ている台座に手を伸ばすと、あっという間に水晶が溶けてなくなってしまう。そしてストレインは気味が悪そうに顔をしかめてエースに背を向ける。
 一方エースは全く気にせずに遺体を確認する。
「それにしても、本当に無茶してくれるよ。まさかウルクの名前を使うなんて……バレたらどうするつもりだったんだ?」
 後ろを向いたままストレインはエースに尋ねる。
「いくら勇者のパーティーメンバーでもスカル街に住むような人間の顔はいちいち覚えていないだろうと踏んだのさ。この世界には人相書きだけで写真のようなものは存在しないからな」
「シャシン?」
「よし、もういいぞ」
 エースは口早に終了を告げる。そしてストレインに促され、部屋の隅にある水道で手を洗う。
 その間にストレインは再びパレスの遺体を水晶の中に入れた。
「それにしても早い確認だったな。ひょっとして門番が早く済ませろって言っていたのを気にしてるのか?」
「いいや。きれいな死体で調べやすかっただけだ。死因も報告書で書いていた通りだったからな」
「どういうことだ……?」
 疑問符を浮かべるストレインをエースが片手で制した。誰かが談笑をしながら地下室に降りてきているようだ。
「ここじゃ人目がある。話の続きはこの関所を出てからにしよう」

 二人は関所を出るまで、お互い口を真一文字に閉じていた。門番に軽く敬礼だけすると、振り返ることなくスカル街へと戻っていく。
 やがて関所が見えなくなってようやくストレインがエースに向き直った。
「さて、どういうことか教えてくれるか?」
 エースはまっすぐ前を向いたまま、歩みを止めることなく話す。
「報告書には心臓を一突きされて死んでいたと書いてあった。ひとえに心臓と言っても殺され方は様々だ。正面、背面、脇腹、貫通かそうでないか。今度から遺体の報告書を書くならもっと細かくした方がいい。そうすれば僕がわざわざ遺体まで出向くことはなかったんだ」
「ご指摘どうも。それで、分かったことは教えてくれないのか?」
 ストレインの全く皮肉を気にしていない態度に自然と歩幅が小さくなってしまう。
「……死因は右の脇腹、腰辺りから心臓を突き刺し、そのまま左鎖骨下あたりまで貫通していた刃渡りは60センチ以上の剣だ。遺体に争った形跡はなく、パレスが背中を向けているときに右利きの犯人が剣を突き上げるように殺されたんだろう」
「右利き?」
「刺し傷から犯人は右利きだよ。まさか人を殺すときに不慣れな非利き腕を使うとは考えられないからな」
「なら犯人はかなりの手練れの可能性が高いんじゃないか。パレスの肉体を貫けることができるとすれば、他のパーティーの騎士である可能性が高い」
「……それはどうだろうな」
 エースの言葉にストレインは眉を顰める。
「何かほかに気になっていることでもあるのか?」
「ある……が、今は僕自身分からないことが多すぎる。ここで軽率な推理をすることは控えさせてもらうよ」
 まるで協調性のかけらも感じさせない言動だが、ストレインはそれでもエースを信頼していた。
「分かった……。そういうなら俺も無理には聞かない」
 エースは無言で頷く。
「それで、明日のことだが——」
「明日は衛兵署で調べたいことがある。一日中部屋を貸してくれ」
「そのことだが、悪いが俺は明日本部に行く必要があるんだ」
 エースは歩みを止めてストレインに振り返る。
「本部? 城内に行くのか?」
「ああ。半年に一度の定期検診のようなものだ。これを断ると俺は問答無用で職を失うことになるから、明日はどうしても事件の捜査ができない。だが、代わりにトルバを使ってくれ。いろいろと問題は起きるだろうが、アイツもアイツなりにこの街をよくしようと頑張ってくれている」
「……了解した。僕もこっちから刺激するようなことは言わないよ」
 約束をしたものの、エースはそれを守れるとは思っていない。おそらくフェレスが止めてくれるだろうという安心のもと約束を告げた。
 
 ストレインと別れたエースはまっすぐ家に直帰した。
 店に入るとクリスタはカウンターに突っ伏して寝ており、鈴の音で店の奥の部屋にいたフェレスが顔を出した。
「あら、帰ってきたのね」
「フェレス。いくら何でも勝手に人の部屋に入るのは問題だろ」
「いいのよ。私はクリスタから直接許可をもらっているもの」
 その言葉に目を丸くする。
「いつの間に仲良くなったんだ?」
「別に……仲良くなったわけじゃないわよ」
 フェレスは頬を染めて顔をそらす。
「まあ、それはクリスタが起きてる前で言うんじゃないぞ」
 エースの視線は自然とカウンターの上にあるツギハギだらけのメガネに注がれた。
「……直そうとしたのか」
「まあ、ダメだったんだけどね」
 そう言うフェレスの声は落ち込んでいるようだった。
 メガネはかろうじて原形をとどめているようだが、レンズは殆どひび割れ状態でとても使えるようなものではない。
「それで? 何か収穫はあったの?」
 切り替えるようにフェレスは声を張り上げて尋ねる。
「まずまずだ。それと、明日はまた朝から衛兵署に行く」
「あ、そう……分かったわ」
 歯切悪く答えると、フェレスは寝ているクリスタの方を見た。
「……他に予定があるならそっちを優先してくれても構わない。代わりにトルバをアシに使うさ」
「そう……? じゃあ私は遠慮させて貰うわ」
「そうするといい」
 エースはコートを脱ぎながら階段へと向かった。
 一緒に過ごして二週間弱になるが、フェレスに対する印象を変えるべきだとエースは思った。人間を見下すような態度を取っていると思えば、一方で人間を守ろうともしている。そして今は人間に心を寄せている。
(天使にも感情はあるんだな……)
 エースは二階の窓から夕日を眺め、徒然とこの世界に考えを馳せた。
 そして夕日が沈むころ、一階からクリスタが店を出たのであろう鈴の音が響いてくる。そしてパタパタと足音を立ててクリスタが階段を上ってきた。
「お待たせ。夕ご飯を持ってきたわ」
 その手には大きな鍋が握られていた。匂いからしてシチューだろう。エースは机に鍋敷きを引き、その上にフェレスが鍋を置いた。
「本当によくできた子よね、クリスタって」
 カップにシチューを注ぎながらフェレスはクリスタのことを話題に出す。
「私たちのために料理を作っておいてくれるし、魔法薬についての知識もすごく高い。何よりも毎週日曜日にはハサルシャム様のために教会に行ってるそうよ。アンタもちょっとはクリスタの爪の垢を煎じて飲みなさい!」
「……取り敢えず僕が飲むのはシチューだけで十分だよ。何だったら君の方がクリスタに倣ってもっと丁寧な言葉遣いを覚えたらどうだ?」
「余計なお世話ね」
 しかめっ面をしながらもフェレスはエースにシチューを手渡す。
「ところで……」
 シチューを一口食べてからエースは会話を切り出す。
「魔法で出来ることについて聞いてもいいか?」
「唐突ね。まあ、アンタがどうしても聞きたいっていうなら答えてあげてもいいわよ。天使である私に分からないことなんてないもの」
 いつもの調子のフェレスに何も言わず話を続ける。
「例えば、どんなものでも絶対に貫く剣というのは魔法で作ることができるのか?」
「無理ね」
 即答した。
「もっとも固い鉱石であるダイヤモンドを使って剣を作ったとしても、どんなものでも、っていうのは不可能よ」
「なら、どんな攻撃も必ず防げる盾も作ることはできないのか?」
「いいえ、それは可能ね」
 その回答はエースにとって予想外だった。
「耐久値の問題もあるけど、事実上は作ることができるわ。まああくまで事実上だけどね。マナの問題もあって絶対防御の盾を作れる人間なんてそうはいないわ」
(まさか矛盾というパラドクスに決着がついてしまうとは……)
 驚きながらも次の質問をする。
「どうして最強の剣を作れないのに最強の盾は作れるんだ?」
「剣の強さは強度によって決まるからよ。剣は材質や形、それと持ち主の技量によって力が変動する。でも盾は誰が持とうとも違いは出ないし、材質も大きく強さには影響しない。盾の強さは相性によって決まるのよ」
「相性?」
「そう防ぐものと盾に掛けられた魔法の種類の愛称よ。例えば相手が剣なら、盾が衝撃に強い防刃の魔法を掛ければいい。相手が炎を使うなら防火を、雷なら防電を使えばいいのよ」
「なるほど……。だからさっき、事実上は可能だって言ったのか。ありとあらゆる攻撃に対する魔法を盾に掛ければそれだけで最強の盾になる」
「ええ。でもそれだとマナが絶対に足りないから、事実上は可能ってことになってるのよ」
 フェレスはシチューをあっという間に食べ終わっており、自分でおかわりをつぐ。
「だが、こっちの世界の人間は盾を見てそれがどの魔法を掛けられているのか分かるのか?」
「マナの動きを見るなんてふつうは無理よ。生まれつきの特殊能力や何十年も訓練したら辛うじて見える人も出てくるけどね」
「そうか……」
 エースは残念そうにため息をついた。それもそのはずで、別の世界から来たエースには魔法適性がなく、マナを見ることなどできっこない。
「……もう、面倒くさいわね!」
 フェレスは立ち上がり、なにやらポケットから虫眼鏡のようなものを取り出した。
「私が持っていてもしょうがないから、あなたに譲るわ」
「なんだこれ?」
 エースは虫眼鏡を受け取り、まじまじと見る。
「『マナグラスコープ』。それを通して私を見ていないさい」
 言われた通り虫眼鏡を右目の前にかざしてフェレスを見た。少しだけ拡大してフェレスの姿が映る。そのフェレスの周りには白い胞子のようなものが纏っていた。
「『エタエルク』」
 するとフェレスの手に赤い粒のようなものが集まり、手のひらサイズの炎に変わった。
「どう?」
「何か粒みたいなものが見えたが、あれがマナか?」
「そうよ。マナは色によって特性が別れるの。赤は火、緑は風、黒は特殊で白は無属性ってね。その虫眼鏡を通してみればマナの色や流れがはっきりとみえるはずよ。
……感謝しなさいよね。それはハサルシャム様が創った七神器のうちの一つなんだから」
「七神器?」
「物凄い特殊能力をもった道具よ。人間が持つことなんて滅多にあり得ないんだからね」
「そんなものを貰ってもいいのか」
 エースのしつこい態度にフェレスは肩をプルプルと震わせる。
「文句あるなら返しなさいよ! ハサルシャム様からもらった大切なものなのよ!」
「分かった分かった。感謝するよ、フェレス」
 「フン」と鼻を鳴らしてフェレスはそっぽを向く。その頬は少し赤らんでいた。

 

 次の日、エースは朝日が昇る前に家を出た。とうぜんフェレスはまだ起きて折らず、クリスタも店には来ていない。
 スカル街には人力車や馬車のようなものが大通りを走ってはいるものの、それをタクシーとして使うのは安定した収入を得ているものたちだけだ。まだ駆け出しの探偵であるエースには移動手段に金を使っている余裕などなかった。
 エースは朝早くから開いている露店に行ってパンとジャムを買うと、朝食として食べながら衛兵署まで向かった。
 そのため衛兵署につく頃にはすっかり日が昇っており、街もにわかに活気づいていた。
 相変わらず小さな衛兵署の前に来ると、二階の窓からトルバが顔を出した。昨日連れ込まれた小さな会議所の窓だ。
「上がってこい。表の扉は開けてある」
 エースは片手だけ挙げて衛兵署へと入る。別の衛兵に会えば厄介なことになると思ったが、1人も衛兵とすれ違うことはなかった。二階へと上がり、奥の会議室に入る。
「来たか」
 トルバは目の下に隈を作りながら机に積まれた資料を見ていた。資料の数は昨日の三倍近くある。
「まさか寝てないのか?」
「何……一晩や二晩、徹夜するのは余裕さ」
「肌色や呂律から察するに余裕には見えない。取り敢えず徹夜はやめた方がいい。僕のような特殊体質ならともかく、睡眠時間を削ることは脳の活動を著しく低下させるからな」
 トルバは資料の上に手を置いた。
「だが昨日お前がストレインさんにいったんだろ。この中に事件解決のヒントがあるってな。これまでにこのスカル街で起きた未解決事件。癪だがストレインさんに頼まれているんだ。お前の調査に手を貸してやれってな」
 確かに昨日、エースは去り際に未解決事件の資料を集めるようストレインに頼んでおいた。だがそれは寝ずに調べろという意味ではない。
「全部君一人でやったのか?」
「昨日みたいにお前はやらないかもしれないだろ。天才様はデスクワークがお嫌いみたいだからな」
 トルバの皮肉をエースは笑った。嘲りではなく、エースは本当に可笑しいと思ったのだ。
「そんなことはない。事件の解決に繋がるなら、僕だってデスクワークは喜んでするさ」
 エースも椅子に座り、資料を手に取った。
「今日調べるのは過去に似たような事件がないかだ。判別基準は刺殺と、殺された人間が戦闘に優れているかどうか。それ以外はすべて無視しろ」
 トルバは強く頷いた。 
 そして二人は黙々と作業を始めた。食事をとることも忘れ、無心で一枚一枚確認をしていく。
「……違う。これじゃない」
 トルバは時々不満を漏らして背もたれに大きくもたれ掛かるが、何も言わずに資料を見続けるエースを見て、再び作業に戻っていた。
 続けること数時間、早朝に始めた確認作業が終わるころには時計塔が7回目の鐘を鳴らしていた。
「疲れた……!」
 トルバは背中にもたれ掛かる。ボキボキと肩を鳴らして大きなあくびをした。この時点で小休憩をはさみながらもほとんど48時間起きていることになるのだ。
「しかし……思ったよりも絞れなかったな」
 結局机の上に残ったのは50ほどの報告書だった。最初はこの数百倍あったため、これでもかなり絞られた方だ。
(もう少し詳細なレポートならもっと絞れたのだが、それは仕方がないか……)
 エースは残った報告書を見ながら他に手がかりになるものを探した。再び確認することによってエースは疑問点を見つけた。
「トルバ、どうしてこの報告書には一貫してバウンティセントラルに所属している騎士や魔法師の名前がないんだ?」
「ん? それはここにいる被害者に身寄りがいないからさ。ストレインさんに聞いたが、ここでは殺人犯が被害者の身内に報復されたらその被害者の事件は解決済みになるらしい」
「復讐を許しているのか?」
「自警団は許さないけど復讐くらいは許すさ。悪いのは先に殺した方なんだからな」
 エースはこの街の内情をある程度は理解したつもりでいたが、思った以上に無法地帯であることに呆れかえった。
「まあ今気にするのはそこじゃない。それよりも大事なのは、この資料の被害者たちは身寄りがいないってことだな?」
「だが共通点にはならないだろ。今回のパレスはバウンティセントラルに加盟していて、パーティーメンバーもいる」
「……なら逆転の発想だよ。この資料の被害者たちに身寄りがいるなら、それが共通点が現れる」
 エースは資料を持ったまま、椅子に掛けたコートを手に取った。
「おい、どこに行くんだよ」
「バウンティセントラルに用事ができた。お前は寝不足なら無理に来る必要はない」
「……それって要するに来いってことだろ」
 エースの気遣いを長髪と受け取ったトルバは眠い体に鞭を打ち、エースに付いていった。
「トルバ、この事件に経費はあるか?」
「え? まあ、勇者が殺されただけあって臨時で経費は支払われたが……」
「なら良かった」
 エースは大通りに出ると馬車を止めた。
「おいおい、ウソだろ」
「君も寝不足なら、これくらいの楽はしても良いんじゃないのか?」
 トルバは悪魔の囁きに乗せられたように、半分やけくそで馬車に乗り込んだ。
 ストレインは城内の衛兵本部の地下に建てられた巨大な聖堂で膝をついていた。
 目隠しをした至高裁判官と呼ばれる女性がストレインの前に立ち、天秤を差し出す。
「汝、これより汝が述べる言葉はすべて真実であるとこの天秤に誓えるか?」
 至高裁判官はストレインに尋ねる。
「はい、誓います」
 ストレインは慎重に答える。
「では汝の名を告げよ」
「スカル支部のストレインでございます」
「汝は仕える主の名を告げよ」
「ノドル国、国王とその一族でございます」
 その後もストレインは質問をされるが、つつがなく返答をしていく。その間、差し出された天秤は一切揺れることはなかった。
「最後に、汝は真の衛兵であると言い切れるか?」
 その瞬間ストレインの頭には酒に飲んだくれた日々やエースとの出会いがよぎる。
「……はい。私はノドル国の誇る真の衛兵です」
 やはり天秤が動くことはなかった。
「よろしい」
 ストレインは膝をついてままさらに頭を深く下げ、聖堂の扉へと向かった。音を立てずに聖堂を出ると、目の前には車椅子に座った老人が笑いながら待っていた。
「此度もご足労だな、ストレイン」
「し、至高司令官殿!」
 ストレインはすぐさま敬礼をする。
「ハッハッハ。そう畏まるな。最近じゃ国王までもワシに敬語でなんとも生きづらい時代になったものよ」
「有り難いお言葉ですが、本官は至高司令官殿に敬意を示して敬語を使わせていただきます」
「そうかそうか」
 至高司令官は満足そうに嗤う。そして車椅子を動かし、ストレインに近づく。
「さて、ストレイン。ワシは今日、オヌシに聞きたいことがあって来たのだよ」
 深く濁ったような瞳がストレインを見上げる。
「先日、オヌシがワシに送った密入国者の情報。黒髪に灰色の瞳をした若者のことだ。その方、対処はしたのか?」
 ストレインは至高司令官がなぜエースのことを気にしているのか気になったが、まっすぐ前を向いたまま毅然として答えた。
「はい。彼は既に流刑に罰しました」
「……そうか」
 至高司令官は車椅子を引き、ストレインは圧から解放された。
「時にストレイン、オヌシは魂というものを信じるか?」
「魂、ですか?」
 なおも続く会話だが、至高司令官が突拍子もなく言った言葉にはすぐに理解が及ばなかった。
「いえ、本官はそのようなオカルト話は信じません」
「……なるほど。確かに魂というのは、今は無き科学の領域の話になる。信じろという方が無理な話だ」
 至高司令官は独り言のように呟く。
「だがこの世界には確かに魂が存在している。身体をなくした魂は怨念として現世にとどまり続け、常に依り代を探しているのだよ。現世で好きに動くための自由な身体を……」
 ストレインは譫言のように語る至高司令官に恐怖すら覚えたが、次の瞬間、また「ハッハッハ」と笑い声を上げた。
「まあ年寄りが取るに足らない奇譚を蒐集しているようなものだと思ってくれ。すまないな。オヌシには無駄な時間を取らせたよ」
「いえ、至高司令官殿が時間を割いてまで話していただき、身に余る光栄でございます!」
「なら良かったよ」
 至高司令官はそのまま椅子を転がして聖堂の中へと入っていった。
 ストレインは息が詰まるような間隔からようやく解放され、早くスカル街の空気が吸いたくなった。



 エースとトルバは経費を使ってバウンティセントラルまで馬車で移動し、その時間は十数分程度だった。
 バウンティセントラルではトルバの衛兵の制服は嫌というほど人目を惹き、同時に警戒をされているようだ。
「おい、いったいここで何をするんだよ?」
「まあ見ていろ」
 警戒して動きが硬くなっているトルバをわき目にエースはブレイクダークのメンバーがたまっている酒屋の一角へと向かった。
「おい」
 エースの一言でそれまで談笑していた屈強な男たちは酒を飲む手を止め、エースを鋭い目つきで睨みつけた。
「なんだよ。何か用か?」
「単刀直入に言う。お前たちのボスに合わせろ」
 その言葉は酒の回った男たちの導線に一瞬で火を付けた。全員が立ち上がり、ゾロゾロとエースとトルバの周りを取り囲む。トルバでさえ身長は180センチほどあるのだが、男たちの身長はそれを大きく上回っていた。
「お前みたいなひよっ子がボスを気軽に呼ぶんじゃねえよ。それとも今ここで消されてえのか?」
 衛兵がいるにもかかわらず、ブレイクダークのメンバーたちはかなり好戦的だ。
「失礼」
 エースは男たちの目の前で堂々とポケットを漁り、マナグラスコープを取り出した。そして後ろのトルバから周りの男たちを順に観察していく。
 トルバの周りには黒いマナが全身を覆っており、男たちはそれぞれ赤や緑といった様々な色をしている。だが男たちのマナの総量はトルバの3分の1程度しかない。
「やはり、全員が拳で語るタイプか」
 エースはマナグラスコープをポケットに戻し、新ためて目のまえの男と向き直る。
「僕を殴るのは構わない。だが衛兵の彼だけは許してやってくれないか? 彼は僕に付いてい来ただけだし、何より寝不足なんだよ」
「は? おい、バカ! 何言ってんだよ!」
 トルバはエースの腕を掴もうと手を伸ばすが、その腕は男たちの筋肉によって阻まれてしまう。一瞬にして男たちはエース一人を囲んでしまった。
「おい、やめろ! 乱闘は犯罪だぞ!」
 しかしその声を男たちもエースも完全に無視している。
(くそっ! そいつらはお前が敵う相手じゃないだろ!)
 周りを見渡しても、他のパーティーの人たちは持て囃すだけで仲介に入ろうとする人は1人もいない。
「じゃあ、まずはオレからだ」
 一番エースに突っかかっていた男が名乗りを上げ、拳を高く持ち上げる。
 トルバは腰の剣を抜こうと掴むが、すでに男たちの拳はエースめがけて振り下ろされていた。激しい打撃音とともに思わずトルバは目を強く瞑る。
 恐る恐る目を開けると、そこには地面にうつぶせで倒れている男とその上に立っているエースがいた。取り囲んでいた他の男たちは何が起こったのか理解できずに唖然としている。
「ほら、この男は自分から先鋒を名乗り上げたんだぞ? 君たちが次に続かないとこの男の一番槍が無駄になるじゃないか」
「う、」
 男たちが拳を強く握る。
「うおおおおおお」という雄たけびと共に多方面からエースに殴打が繰り出される。
 しかし彼らの拳の先にはもうエースの姿はなく、お互いの拳同士がぶつかり合った。
 突き指や肩の関節が外れる音でその場は騒然となった。周りを見ているギャラリーも、この光景には目を疑うほかない。
 エースは拳の隙間を縫うように躱し、取り囲まれた状況から逃げ出した。
「くそっ!」
 まだ身体が動く男たちはそれでもエースに立ち向かう。
(右ストレート、重心がやや左に傾いている。機を狙って羽交い絞め、重心は後ろ)
 1人1人の身体の動きを観察して次に繰り出す戦法や弱点を一瞬にして割り出す。
 1人目は右側にかわし、右腕を掴んで関節を極める。そしてバランスを崩したところで金的を蹴り上げた。
(これでしばらくは悶えて動けないはずだ) 
 2人目は油断している隙に懐に潜り込み、服の襟をつかんで大外刈りを決める。頭を椅子にぶつけさせることで受け身を取らすことも許さない。
(脳震盪……と)
 すると一番最初にうつぶせにさせた男が立ち上がった。鼻血が出ているが、そのせいかアドレナリンが出ているようだ。
 さらに奥には突き指をした男と肩が外れた男が立ち直りかけている。
「小僧!」
 鼻血の男がズシズシと両手を下げたまま立ち向かってくる。
(こちらの攻撃を待っているか……)
 男とエースの距離がお互いの拳の射程範囲に入る。その瞬間、エースは傍らの椅子を掴みんで男の顔に叩きつけた。衝撃で椅子は壊れるが、男は膝が揺らいだだけで倒れることはなかった。
「タフだね」
 エースは男の背中に回る。
 その声で男は振り向き、怒り狂った右のストレートを放った。だが、すっかり頭に血が上った男には、敢えて声を出して場所を教えたのもエースの作戦であることなど気づくはずもなかった。
 エースは左手で男の手首をつかみ、身体を半回転させる。男の身体は宙を舞い、立ち上がろうとしていた他の男たちに投げつけられた。エースの背負い投げが綺麗に決まったのだ。
「一本」
 床には五人の屈強な男が戦闘不能で、1人の細身な若者が無傷で立っている。その異様な光景は見るものすべてを唖然とさせた。
 トルバでさえも圧倒的勝利をもぎ取ったエースからは近寄りがたい雰囲気を感じ取っていた。
「……まったく。椅子を壊しやがって」
 しかし、一人だけがエースの前に歩み寄った。スキンヘッドにサングラスをかけた男、バウンティセントラルの管理人だった。
 管理人は壊れた椅子と床に伸びているブレイクダークの男たちに目を向ける。
「……まあ、今回だけは許してやるよ」
 僅かに口角を上げ管理人はエースの肩をたたいた。
 それは暗にエースに感謝している証だった。
「待て」
 そのとき、施設内に威圧的な声が響き渡る。
 突き抜けの二階の手すりに剣を持った赤髪で細身の男がエースを見下ろしていた。エースと目が合うと、男は手すりから一歩踏み出した。
 勢いよく空中を落下したかと思うと、地面につく寸前にまるで地面から押し返されるように重力加速は打ち消された。
 男は音もなく着地すると、その剣をエースに向けた。
「俺はブレイクダークの会員ナンバー001。公衆の面前で随分と派手にやってくれたな」
「こうやって目立たないと出てこないと思ったからな。素直にボスを呼べって言ったときに出てきてくれれば、こんなことにはならなかったんだ」
「なるほど。貴様の狙いは俺たちのボスに会うことか。……だが残念だな。俺はブレイクダークのボスではない」
 男は腰を低く落として剣を構える。
「お前は俺たちのパーティーに喧嘩を売った。そのケジメはしっかりと取ってもらうぞ」
(まずいな……)
 表情は余裕を保っていたが、エースは内心焦っていた。さっきの戦いは武器も魔法も使わない、ただの拳の殴り合いだ。しかし今目の前にいる男はおそらく剣にも魔法にも長けている。
「ということはボスのナンバーは000か? まったくややこしい数字にするから勘違いしてしまったよ」
 エースは大仰に肩をすくめてみせる。
「しかし、それで納得した。君程度の実力でボスだなんて、ブレイクダークは意外とたいしたことないと思っていたところだよ」
「この俺が弱いとでもいいたいのか?」
「僕はそこまでは言っていない。……あれ、ひょっとして弱いって自覚があったのか?」
 エースの煽りにトルバも管理人も息をのんだ。二人だけではない。バウンティセントラルにいる全員がエースの死を直感した。
 それほど001は禍々しい猛者のオーラを放っていたのだ。
「……いいだろう。ならお前に俺の全力を見せつけてやるよ。そして死よりも深い恐怖に飲み込まれるがいい」 
 口を開き、呪文を唱える。
「『ラス――」
「そこまで!」
 激しい怒号とともに、001の行動は止まった。
 001は反射的に二階の手すりを見上げる。そこには深いハットをかぶった大柄な女性がパイプをふきながら立っていた。
「もういいだろう、ドラグマ。あんたがその技を使おうと思った時点であたしらの負けさ」
「しかし――」
「しかしもかかしもないよ!」
 重い声でそう言い渡され、ドラグマの身体は小さく縮こまる。ハットの女性は穏やかな口調に戻る。
「さて……そこの紳士方。ウチのバカが失礼したね。管理人、悪いけど個室をもう少し使わせてもらうよ」
「好きにしな……」
 管理人が答える。
 女性はエースとトルバを手招きすると、二階の奥へと消えて行ってしまった。
「……付いてこい」
 ドラグマは剣をおさめ、エースとは目も合わせずに二階へと続く階段へと歩いていく。
「おい……本当に行くのかよ?」
 トルバは不安そうにエースに尋ねるが、エースはそれには答えずにまっすぐドラグマについていった。
「くそっ!」
 トルバもエースの後についていく。
 連れてこられた部屋は衛兵署の会議室よりも三倍ほど広かった。真ん中に椅子があり、その周りにクッション性のソファが並んでいる。
 部屋の奥には先ほどのハットをかぶった女性がパイプをくわえて待っていた。
「座りなさい」
 女性はパイプを咥えたまま二人に指示をする、ドラグマにも背中を押され、二人はソファに腰を下ろした。
「……申し遅れたわね。私がブレイクダークのリーダー、カーレインよ」
 カーレインがふうと息を吐きながら名乗ると、部屋全体を甘い香りが包む。その香りの濃さにトルバが思わず咳き込んだ。
「あら、ごめんなさい。禁煙するためにお香を改良したパイプを使いだしたんだけどね。どうもこれが癖になっちゃって」
 ホホホと笑いながら、カーレインは二人に近づく。その身長は190センチほどで、身体全体的にグラマラスだ。威圧も相まって体感では巨人のようにも感じられる。
「さて、あなたたちの名前も聞かせてもらおうかしら」
 カーレインがソファに座ると、体重の違いなのか深くスプリングが軋んだ。
「あ……俺はトルバといいます。スカル支部の衛兵です」
「僕はエース。バウンティセントラルに名を連ねる探偵だ」
 カーレインは緊張しているトルバと余裕の表情のエースの二人を交互に見る。
「そう。じゃあ話していいわよ。私に何か聞きたいことでもあったんでしょ?」
「え?」
 トルバは思わず素っ頓狂に声を上げてしまうが、慌ててその口を抑える。
「なに? どうかした?」
 まるで赤子を撫でるようにカーレインは尋ねる。
「いや……さっき、エースがあなたの手下を倒したことについては何も言わないのかと……」
「だって必要ないもの」
 カーレインはふうと口から煙を吐く。
「心のこもっていない謝罪を受け取ってもそれはお菓子の入っていない菓子折りのようなものよ。それよりももっと建設的な会話をすべきだと思わない? そうでしょ、探偵さん」
「ああ。まったく悪いと思っていない」
 エースの飄々とした態度に扉の前に控えていたドラグマが剣に手を掛けるが、カーレインが片手をあげて制した。
「やめなさい。この個室だって管理人に無理を言っているんだから、もめ事は厳禁よ」
「……申し訳ありません」
 ドラグマが下がったところでエースは前のめりになって手短に用件を話す。
「先日、勇者パレスが何者かによって殺された。死因は心臓を背後から刺されていたことによる出血死」
「ええ。有名な事件だもの、知っているわ」
「犯人の殺し方はかなり手慣れている。そこで僕たちは過去にも似たような事件がないか未解決の事件を調べ、50件ほどの事件が候補に挙がったんだ」
 エースは懐から報告書の束を机の上に置いた。
「だがここにいる事件の被害者はすべてバウンティセントラルにも加盟しておらず、身寄りのいない人たちばかりだった」
「……それが、私にどう関係しているんだい?」
「犯人は勇者を殺すような人間だ。だから過去に殺された人がいるならその人たちも剣士のように戦闘に秀でている可能性が高い。だから僕は、この候補の中に非合法で剣士だった人間がいるのではないかと考えている」
 トルバが驚いた表情でエースを見る。そんなことお構いなしにエースはカーレインに向かって話し続ける。
「管理人からブレイクダークの手法は聞いている。聞いたうえで、僕は君たちがバウンティセントラルに仲介手数料を取られることをよしとしない組織だとは思えないんだよ。
 あるんだろ? 直接依頼者から受注して金をもらう裏の部隊が」
 カーレインは机の上にパイプを置いた。
「まいったね。昔の話を掘り起こさせられちまうなんてさ」
 そういうと、ネイルの入った指で報告書をつまみ上げた。そしてそれをドラグマのほうへと差し出す。
「教えてやりな。あんたなら死んだ人間のこともちゃんと覚えているでしょ」
「……はい」
 ドラグマは束を受け取ると、カーレインと入れ替わりでソファに腰を下ろす。そして一枚一枚報告書を捲り、最終的に5枚の報告書が残った。
 中には名前不明と表記された者もおり、それを見てドラグマは険しい顔をした。
「こいつらがお前の言うブレイクダークの裏部隊だったメンバーだ。ほかにも数人はメンバーがいたが、最後のリーダーが殺されてから直接依頼を受けるような真似はしていないよ」
「彼らの役職は?」
「剣士、もしくは闘士だ。お前の言うとおり、全員が戦いは得意だったよ」
 エースは改めて報告書を確認する。
「ドラグマ、君はこの死体を確認したのか?」
「ブレイクダークのメンバーだと知られるわけにはいかないからな。遠目にしか見ていない」
「そうか……」
「だが死体を確認した諜報員の話では、全員が争った形跡もなく背後から一刺しされていたらしい」
 トルバはエースの顔を見る。
「ってことは……」
「ああ、待ちかいない。同じ犯人だ」
 エースは報告書の日付を確認する。どれも数か月おきに一回起きており、最後の事件から数えてパレスの死はほぼ一年のブランクが開いていた。
「ドラグマ、他にバウンティセントラルに加盟せず直接受注しているような組織はあるか?」
「ないな。そもそも組織がデカくないと依頼はこないし、そもそもこの街には俺たち以外の組織は存在しない」
「そうなると考えられるのはバウンティセントラルの人間以外に手を出したか、遺体を隠したか……いや、それだと連続性がないな」
「……それより、話はこれで終わりか?」
「そうだ。手間を取らせたな」
 エースはソファから立ち上がる。
「トルバ、もう帰るぞ」
 トルバは報告書をずっと見たままで、動く気配がなかった。まるで銅像のようにじっと報告書を眺めている。
「おい、トルバ?」
 強めに肩を揺らすことでようやくトルバは反応した。
「……あぁ、すまない。先に出るよ」
 首を振って手元の資料をまとめると、素っ気なくトルバは部屋から出て行った。
「ちょっと香の香りがキツかったかねえ」
カーレインは申し訳なさそうに言った。だがエースはトルバが二人に挨拶もなしに去っていくことが意外だった。
「おい、エース」
 ドラグマがエースを呼び止める。
「本当にパレスを殺したのは俺たちの仲間を殺した犯人と同一犯なのか?」
「手口と動機が似ているからな。可能性は高い」
「動機? 何の動機だ?」
「パレスの死体には金目のものが残っていて、他に争った形跡もなかったから金目的や恨みという可能性は少ない。的確に心臓を貫き、相手の命だけを奪っていった。暗殺という可能性も考えたが、それなら自殺や事故に見せかけるはずだ」
「だから動機って何なんだよ。もったいぶらずに教えろ」
 ドラグマがエースに詰め寄る。
「……考えられるのは、ただの殺人衝動だよ。それも強者のみを狙った殺人だ。僕も過去に似たような快楽殺人者を追い詰めたことがあるが、彼の望みは結局分かることはなかった。だが、彼は強者を見抜く力だけに長けており、その人間を殺すことだけを生きがいとしていた」
「じゃあアイツらは……ワケの分からねえ奴の快楽のために殺されたのかよ」
 ドラグマは気分が悪くなったように頭を抑え、壁にもたれかかった。
「……僕も理不尽だと思うよ」
 それは慰めの言葉か、ありのままの事実を言ったのか。
 エースはカーレインにお辞儀をすると、トルバを追いかけて部屋から出て行った。
 部屋に残ったドラグマの脳裏にはかつての旧友との会話が思いだされていた。
『目的は血だ。俺も同類だからよくわかる。弱者が死ぬのは自然の理だ。……だが、こいつの手口だけはどうも許容できない。闇討ちで、しかも一方的な攻撃だ』
『だとしても犯人を追うのは禁止だ。世間にばれるような行為ブレイクダークの規則に反する』
 ドラグマは友人の肩に手をのせるが、友人はそれを払いのけた。
『なら俺はこの組織を抜けてでも犯人を見つけ出して、この手で殺してやる』
 そう言って友人はドラグマの前から姿を消した。
 次にその友人の姿を見たときは、野ざらしで雨に打たれながら衛兵に連れていかれていた。
遠目から見ても友人はあっさりと殺されていて、ドラグマはその亡骸に駆け寄ることも葬ることも出来なかった。
「なに、考えているんだい」
 カーレインの声によってドラグマは回想から現実に引き戻される。
「いえ、俺は……」
 カーレインはドラグマの抱えている葛藤に気づいていた。しかし、その葛藤の原因となっているのが自分自身だと言うことにも気づいていた。
(まったく……不器用な男だよ)
カーレインは芳醇な香りを吐くと共に、ドラグマに語りかける。
「ドラグマ――」
 

 部屋を出たエースは階段下で座り込んでいるトルバのもとへと向かった。
「おい、大丈夫か?」
 今度は最初から肩を揺らして尋ねる。しかしそれでもトルバの反応は薄かった。
「……大丈夫だ。気にするな」
 力なくつぶやくと遙か遠くを見るような目になる。心ここにあらずといった様子だ。
 さっきまでの騒動もあり、二人はバウンティセントラルにいる人たちから多くの視線が注がれている。下手に目立つわけにもいかず、エースはトルバの腕をつかんだ。
「ひとまず戻るぞ。情報は手に入れたからここにいる必要もない」
 トルバもゆっくりと立ち上がり、出口へと向かうエースに付いていく。
 そんな二人の前にフードをかぶった褐色の男がいきなり立ちはだかった。フードの奥から黄色の双眸がエースを見据える。。
「お前たちはパレスの犯人を捜しているんだろ」
 男は低い声でそう尋ねた。
「そうだが……。君は?」
 エースの問いに男はフードを外した。
オールバックにした黒髪に褐色の肌。そして額から頬まで続く白い刺青。それを見て、周囲のギャラリーが沸き立つ。
「おい、あれって……」「嘘だろ……」「本物?」
 男は周囲の声には一切反応を見せず、エースから目を離さない。
「私はフィールド。流浪の剣士で、勇者の称号を持っている」
 そう告げたフィールドにエースは観察の眼差しを向けた。
「勇者……か」
 周りの反応を見ればフィールドが真実を言っていることがわかる。
「勇者が僕たちに何のようだ?」
「……実は、さっき個室での話し合いを盗み聞きさせてもらった。そのうえで提案をさせてくれ。この私が犯人を捕まえるための囮になろう」
 エースは片眉を上げる。
「そこまでするってことは、お前はパレスと仲が良かったのか?」
「まさか。アイツとは仲間ではなく、ライバルだ。
だが、何よりも勇者の立場である人間があっけなくやられたことに私は憤っている」
「囮といっても、犯人がお前を襲う保証はない。僕は何か月も君の正義感に付き合うことはできないぞ」
「君が言っていた犯人像が正しければ、今晩か明日の晩にもやって来るよ」
 エースは部屋を出る最後にドラグマに説明したことを思い出す。エースは勘が鋭い方だが、盗み聞きされているとはまったく気づいていなかった。いや、エースだけでなくあの場にいたドラグマとカーレインさえ分かっていなかっただろう。
「犯人の目的は強いものを殺すことなんだろ? これまで殺された人間が勇者レベルに相当するなら、犯人は間違いなく私の命も狙うはずだ。それに――」
 フィールドは周りを見る。
「普段から旅をしている私がこうして顔を出すだけで、この街全体に私のうわさは飛び交うだろう。二、三日後にはこの街を発つといえば犯人はこの機に私を殺しに来るしかない」
「……君を信頼する保証は?」
「こうして直接お前たちに話していること自体が保証だ。私は別に、独りで犯人を殺しても良いのだからな」
 悠然とするフィールドはまさに勇者の風格だった。
 ひとまずフィールドへの返事は保留し、エースとトルバは施設の端で話し合った。
「どうする? フィールドの言い分は確かに、犯人を捕まえるには効果的だといえる。だが、そもそも彼は信用できるのか?」
「……フィールドの評判は城内にも伝わっていたよ。少し過剰な思想の持ち主ではあるが、その正義感は本物だそうだ」
「正義感、ね……」
 ありきたりでその場しのぎの方便をエースは嘲笑した。
「まあいい。そういうことなら彼の手を借りても問題はないだろう」
 そしてちょうど四時を告げる鐘の音が響き渡る。
「もうこんな時間か……。僕はこのままフィールドと一緒に夜まで待ってみるよ。君はどうする?」
「俺は……」
 トルバは目頭を押さえ、首を横に振った。
「さすがに少し疲れているみたいだから一度衛兵署に戻って仮眠をとるよ」
「そうか」
 顔色も悪く、トルバはもう限界が近いのだろう。エースは足元がおぼつかないトルバを馬車に乗るまで付き添った。
 馬車を見送った後、エースはフィールドのもとへと戻った。フィールドはバウンティセントラルの中央で堂々と短剣を研いでいる。
「話はついた。フィールド、君にはパレスを殺した犯人を捕まえる手助けをしてもらう」
 フィールドは短剣を研ぐ手を止める。
「そうか。お前が話の分かる相手でよかったよ」
「管理人に頼んでバウンティセントラル周辺に人を寄り付かないようにさせてもらう。僕が近くにいると犯人が来ない可能性もあるから、離れたところで監視するつもりだ」
「別にそんなことはしなくていい。私はこの街中の人通りが少ない場所をひたすら練り歩く。そうすれば相手はいずれ私を見つけて襲ってくるはずだ」
 フィールドは短剣を鞘に納めた。
「待ち伏せでは相手も警戒するかもしれない。それに、他の人を巻き添えにはできないからな」
 言い分はもっともだった。しかしそれではエースは納得しない。
「だが、それでは君の噂をたてた意味がなくなる。勇者フィールドがバウンティセントラルにいるということを伝えなくてはいけないだろ」
「だったらこの施設付近の裏通りで待ち構える。君はこの施設で待ち、戦闘が始まったら応援に駆け付けるんだ」
「戦闘が始まったら? どうやってわかるんだ」
「私の魔法は大規模だからすぐに気づくはずだよ」
 フィールドは立ち上がる。
「さて、こんなに君と話していては犯人に勘繰られるかもしれない。私は夜までに身体を温めておくよ。次に会うときは犯人を捕まえるときにしよう」
 ずっと一方的にフィールドが提案しているが、エースの専門は謎解きで犯人を捕まえることではない。フィールドのやり方に同意してエースも夜まで待つことにした。
 

 待ち続けること6時間。日はとっくに沈んでしまい、バウンティセントラルは管理人に頼んで閉店にしてもらっている。一時間前から雨が降り始めて夏とはいえ施設の中は少し肌寒くなっていた。
 シャンデリアの光はすでに消されており、エースは机の上に置いた小さなロウソクを光源を頼りにじっとそのときを待っていた。。
「……!」
 それまでゆらゆら揺れていた小さな灯だったが、急にその灯が大きく揺らぐ。
 しかし揺れたのはロウソクではなく、エースの視界だった。ロウソクの線が二重にも三重にも増え、後ろの風景はグニャグニャに乱れる。
「こんな時に……」
 エースは頭を押さえて歯を食いしばる。
「……ホラよ」
 そのとき、目の前にホットケーキとコーヒーが差し出された。横を見ると管理人が無愛想に腕を組んで立っていた。
「モーニングしか出せねえが、ないよりマシだろ」
「……」
 エースは差し出された食事を見たまま動かない。
「どうした? 食わないのか」
「いや……頂くよ。ありがとう」
 管理人はフンと鼻を鳴らしてその場から立ち去って行った。
 エースは差し出されたホットケーキと口に運ぶ。しっかりと咀嚼し、飲み込んだ後でコーヒーにも手を伸ばした。温かいコーヒーは肌寒さで固まっていたエースの身体をほぐしてくれた。

 雨が降り続けてかなり時間がたったが、フィールドは傘もささずに路地裏の壁にもたれかかっていた。人間にとって雨は体温を奪うものだが、フィールドにとってはそれが戦いに大きく影響することはない。
 何より、雨はフィールドにとって好条件だ。
 周囲には使い魔を放ち、警戒は全く怠らない。使い魔は何度か人間を感知したが、殺人鬼の気配は全くなかった。
「……まさか私では力不足だとは言うまい。それとも、恐れをなしたのか?」
 まだ見ぬ相手、そこにいない相手にフィールドは語りかけた。当然返事は帰ってこない。フィールドはそれでも一人で笑みを浮かべる。
 その瞬間、背中に走る悪寒にフィールドは振り返った。一人で浮かべた笑みはより大きく、高揚感からあふれ出る破顔に変わった。
「お前だな……!」
 フィールドは短剣を抜く。

 同時刻、エースは巨大な破壊音とともにバウンティセントラルを飛び出していた。外に出ると、数百メートル離れた場所から黒煙と火の手が見える。地面は雨でぬかるんでいてちゃんと走れないが、エースは急いで火の手が上がる場所まで走り出す。
(フィールド……! やはりこれが狙いか!)
 その魔法の規模は人間一人を容易く殺してしまうほどだった。
(僕に手を貸すと言ったのも公に犯人を殺す目的だった……! だから僕を現場から遠ざけたんだ!)
 復讐が暗黙で許されているとはいえ、殺人は殺人だ。勇者の立場にいるフィールドならなおさら心証が悪くなる。その点、衛兵の手助けという体であれば代わりに犯人を裁いたということにもできる。
(勝手に殺させてたまるか……!)
 しかし、エースは犯人の死によって事件が解決することなど望んでいなかった。
 いくつも建物の角を曲がり、ようやく現場までたどり着いた。だがそこは既に火の海状態に変わっていた。
「フィールド!」
 協力者の名前を呼びながら火の手をかいくぐる。すると、何か妙なものに足が躓いた。こける前にバランスを保ったが、足下に転がるそれを見て思わず絶句した。
「嘘だろ……」
 そこには白銀の短剣を握った焼死体が転がっていた。真っ黒で誰かは分からないが、衣服や短剣には見覚えがある。
「フィールドか?」
 焦げた服からはゴムの焦げた匂いがしている。
 もっと詳しく見ようとかがみ込んだエースの視界に、建物の陰へと入る人影が写った。確信はなかったが、エースは反射的にその人影を追いかける。
「待て!」
 やはり足元はぬかるんでいるが、それは相手も同じ。エースは力の限り全力で走った。既に現場まで走ってきた分、エースは雨の中の走り方に慣れており身体も温まっていた。
二人の距離は徐々に縮まり、エースは人影に向かって手を伸ばした。
 その瞬間、先ほどよりも大きくエースの視界が揺らいだ。視界のすべてが暗転し、全身の力が一気に抜ける。
 睡眠障害。
 エースはこちらの世界に来てから二週間になるが、その間一度も寝ていなかった。336時間の脳の連続稼働に耐え切れず、エースの脳は電池切れを起こしたのだ。
(こんな時に……!)
 逃げ去っていく犯人に手を伸ばしながら、エースは地面に倒れこんで長い眠りについた。
 ピッピッピッピッピッ。
 一定のリズムを刻みながら無機質な電子音が響き渡る。
『いけません! まだ意識が戻っていないんです!』
『そんなもの知るか!』
 怒号を放っているのだろうが、その声もはっきりと聞き取れないほど耳と脳が機能を果たしていない。
『おい! 起きろ!』
 目の前にスーツ姿の男が現れ、激しい剣幕で詰め寄る。
『起きろ! コムロハジメ!』


 夢から急に覚めるようにエースは目を開けた。煤だらけの天井で見覚えはない。
 重い身体で身体を起こすと、そこが『Crystal Magic』の二階だと分かる。こうして一度もベッドで寝たことがなかったからこれほど天井が汚れているとは知らなかった。
 窓から差し込む太陽の光で朝だと言うことは分かる。
「ようやく起きたのね」
 一階から毛布をもって上がってきたフェレスが上体を起こしていたエースに気づいた。
「フェレス……」
「まったく……。二日もずっと眠ったままで心配掛けないでよ。トルバとクリスタに感謝することね」
 フェレスは呆れたように言った。
「……どうしてその二人の名前が出るんだ?」
「トルバが道路で眠る貴方を見つけて運んできたのよ。それで、この二日間ずっとクリスタがあなたを看病してくれていたわ」
 フェレスはベッドの横で眠るクリスタを指さした。クリスタの両手は赤切れを起こしており、足元には水の入った桶にタオルがかけられている。
フェレスはクリスタに毛布をそっと掛ける。
「クリスタもアンタもずっとお互い避けるように過ごしているけど、クリスタはこうしてアンタのピンチに寄り添ってくれたのよ。アンタもちゃんと見合った行動を取りなさい」
「ああ。悪かったよ」
「悪かったって思ってるなら、まずはクリスタが起きるまで待つこと。事件が気になるのは分かるけど、私がことの顛末を教えてあげる」
「教えてあげるって……知っているのか?」
「ストレインやトルバに大まかなことを聞いてきたわ。詳しいことは明日にでも直接聞きなさい」
 クリスタは椅子に座り、足を組む。
「まずはフィールドのことだけど、バウンティセントラルの路地裏で黒焦げになって殺されていたわ」
「それは知っている。僕はフィールドを見つけて、現場を立ち去ろうとしていた犯人を追いかけたんだ」
「なんだ。じゃあやっぱりアンタとフィールドは組んでいたのね」
「フィールドの合図で僕も現場に向かう予定だった。轟音とともに火事が起こっていたから見つけやすかったよ」
「火事? 路地裏にあったごみが燃えていたそうだからそれのことね。轟音は一つだけ?」
「そうだ」
「じゃあ犯人の魔法でしょうね。火属性か、雷属性だってあり得るわ」
 エースは顎に手を当てて考える。
「あの轟音が落雷だとしたら雷を操る犯人の可能性が高い。それよりも気になるのはどうしてフィールドが何もできずに死んでしまったかということだ。ストレインはフィールドについて何か言っていなかったか?」
「フィールドはソロでの活動が多かったみたいだから魔法とか経歴については不明なのよ。また資料を集めるとは言っていたわ」
 エースは頭を抱える。
「失敗したな。こんなことならフィールドを虫眼鏡で見ておけばよかった」
 そのとき、「ううん……」という声とともにクリスタが起き上がった。
「あれ……毛布……」
 寝ぼけながらもクリスタは毛布を取ると、目をこすりながらエースを見上げた。
「起きたか」
「え……」
 クリスタは毛布を持ったま立ち上がり、後ずさりをする。そして毛布の裾を足で踏んでしまい、バランスを崩して後ろから倒れ込む。
「ちょっと、クリスタ大丈夫?!」
 フェレスはクリスタに近寄る。
「え、え、エースさん……起きたんですか……?」
 しかしクリスタはエースが目覚めたことに驚いていた。
「さっきな」
 そういうと、エースはベッドから起き上がった。
「フェレス。僕の服はどこにある?」
「クローゼットに閉まったけど……。っていうかもう出かけるつもりなの?」
 エースはクローゼットから服をつかむと、階段へと向かった。
「ちょっとエース!」
「クリスタが起きるまでは待つと約束したが、これ以上待つわけにはいかない。この数日で勇者が二人も殺されているんだぞ。事態は一刻を争う」
 そしてエースは階段を降り、あっという間に二人の視界から消えていった。
「……やっぱり、私って嫌われているんですね」
 クリスタは哀しげに呟いた。
「そんなことないわよ。アイツはただ誰に対してもああいう感じなのよ」
「そうなんですかね……」
 フェレスの慰めに苦笑いで答える。
「……でも私、後悔はしていないんです」
「後悔?」
「エースさんにこうして宿を貸していることです。最初は強引に居候をしようとしたエースさんのことが大嫌いだったんですけど……」
「大嫌いだったんだ……」
 しかしエースの態度を考えれば嫌われるのも仕方が無い。
「宿を貸したのもエースさんがテストに合格したからです。でもそのお陰でフェレスさんとこうしてお喋りできるようになって、私はとても嬉しいんです」
 クリスタは満面の笑みをフェレスに向けた。
「そ、それは私だって……」
 ゴニョゴニョと言葉を逃がすが、朱く染まった頬は嬉しさを隠し切れていなかった。
「それに、エースさんが寝ている間に気づいたんです。私はエースさんが鳴らすあの鈴の音が好きなんですよ」
「鈴の音?」
「扉に備え付けた鈴です。この二日間あの鈴が鳴らないだけで、なんだかとても不安になりました」
 フェレスはそこで階段の方を一瞬チラリと見た。
「……でも不思議ね。エースの鳴らす鈴の音が好きなんだ」
「はい。なんて言うんですかね。やっぱり……エースさんと祖父が似ているからかもしれません」
「あのメガネのお祖父さん?」
 クリスタは頷いた。
「無愛想で自分勝手なところとか……それでもやっぱり尊敬しちゃうところも」
 クリスタの上体は揺れはじめ、瞼も重そうになっている。
「大丈夫?」
「はい……それより今の話、エースさんには内緒ですよ……?」
「ええ、約束するわ」
 フェレスは大きな欠伸をしたクリスタに肩を貸し、さっきまでエースが寝ていたベッドで横に寝させた。
 心なしか、フェレスの顔は満足げに笑っていた。
「さて……」
 フェレスはゆっくりと階段へと向かって歩き出す。
「事態は一刻を争うんじゃなかったんですか、探偵さん」
 そう階段に座っているエースに尋ねた。
「……いつから気づいていたんだ?」
「鈴の音の話になった時よ。そういえば階段を降りていったのに鈴の音は聞えなかったからね」
「中々やるじゃないか」
 エースは立ち上がり、今度こそ鈴の音を鳴らしながら店から出た。そのあとをフェレスが続く。
「それより身体は大丈夫なの?」
「大丈夫だ。一度倒れたなら次に僕が倒れるのはおよそ2週間後だ」
 意味が分からないようで、フェレスは首をかしげる。
「どうしてそんなことがわかるのよ」
「僕の脳は最大で300時間ほど連続で起きていられることができるんだ。というか、逆に自発的に寝ることができない。その反動で僕はさっきみたいに二日ほど寝たきりになるんだよ」
「じゃあここ最近ずっとソファで寝ていたのは……」
「あれは寝ていない。そんなことも知らずに君は僕を監視していたのか?」
 核心を突かれてフェレスは苦虫を嚙み潰したような顔になる。ハサルシャムに命令されてエースの監視をしているにもかかわらず、監視も忘れてクリスタの店の手伝いをしてあまつさえその時間でエースは倒れてしまった。そもそもこの二週間ほどでクリスタはハサルシャムに伝えられるほどの情報を得ていないのだ。
「悪かったわね、職務怠慢で。とりあえずアンタの行動は危なっかしいから今度から外を歩くときは絶対私も一緒について行くわ。魔法も使えないアンタを一人にするのは危険だもの」
「君は僕の保護者なのか」
「ただの監視対象よ」
 そんないつもの会話をしていると、大通りの方からストレインの声が届いた。
「あれ? 今の声って……」
 フェレスも気づいたようで、二人は衛兵署へと向かう道から外れて大通りの方へと向かった。
「おい! この金はなんだ!」
「さっき賭博で稼いだ金だよ! 嘘じゃない!」
 ちょうど若者にストレインが調査しているところだった。若者は壁に両手をつき、ストレインが後ろからポケットや持ち物など身体検査をしている。
 いつもと違う威圧感のある雰囲気にエースもフェレスも喋りかけられずにいると、ストレインのほうから二人に気づいた。手に持っていたお金を若者に返すと、穏やかな表情でエースのもとへと寄ってきた。
「やっとお目覚めか、名探偵」
 肩をバンバンと叩いて再会を喜ぶ。
「迷惑かけてすまなかったな。それより今のは新手のカツアゲか?」
 エースの冗談をストレインは豪快に笑い飛ばした。
「それはいいな。給料日前の小遣い稼ぎにはうってつけかもしれん……なんてな。なに、今のはただの職務質問のようなものさ。今の男はどうもソワソワした挙動をしていたから怪しいと思ったんだ」
「ただ大金をもって落ち着かなかっただけなのに強面の衛兵に絡まれるなんて、さっきの人も可哀そうね」
「お嬢ちゃんも相変わらずだな」
 ストレインは大きな手でフェレスの頭をぐしゃぐしゃに撫でまわす。フェレスは嫌そうに暴れるが、ストレインは笑ったまままったく取り合わない。
「随分とご機嫌だな、ストレイン」
「そうなんだよ、トルバがようやく犯人逮捕までこぎつけてな。もう事件は解決したも同然だ。これもお前が協力してくれたおかげだよ」
 エースとフェレスはお互いの顔を見合わせた。
「おい、待て……事件って何の事件だ?」
「何って……勇者連続殺人事件に決まっているだろ。パレスとフィールドを殺した犯人をトルバが見つけたんだ」
 エースが自分が寝ている間にまた別の世界に来たのかと思うほど脈絡のない展開だった。
「それで、その犯人っていうのは誰なんだ?」
「元バウンティセントラルで加入していたスピンという男だ。トルバはこれまでバウンティセントラルで受注された依頼をすべて調べて火属性の魔法を得意とする剣士を見つけたんだよ。スピンは勇者の称号は持っていないものの、実力は勇者に匹敵するらしい」
「火属性? なんで火属性なんだ?」
「なんでって……フィールドは身体を丸焦げにされて死んでいたんだ。周りの物も燃えていたらしいから火属性の魔法を使ったんだろ」
「違うわ!」
 そこにフェレスが割って入る。
「エースは落雷の轟音を聞いたのよ! 犯人は火属性じゃなくて雷属性よ!」
 ストレインは狼狽してエースを見る。
「本当なのか?」
 エースは頷いた。
「まずいな……トルバはもうスピンを捕まえに行ったぞ」
「場所は?」
「スピンの自宅だ。ここからだとかなり遠いぞ」
 言うが早いかエースは側を通った馬車を捕まえた。そのあとにストレインとフェレスが続く。
「料金は経費で頼んだ」
「……まったく。経費だって限りがあるんだぞ」
 ストレインはお札を馬車の運転手に渡し、行き先を告げる。三人が乗った馬車はスピンの自宅に向かって走り出す。
「トルバはこの事件に人一倍熱意をかけている……。行き急いでるとは思ったが、やっぱり止めるべきだったか」 
 現場へ向かう車中でストレインは悔しそうに膝を打った。
「そういえばトルバは最近スカル支部に来たそうだけど、左遷されたわけじゃないの?」
 フェレスが尋ねる。
「ここに来る衛兵はほとんどが左遷だが、トルバは自分から志願して移ったんだ。
アイツの母親がもともとこのスカル街に住んでいたんだが、とある貴族に見初められて妾になってな。そして生まれたのがトルバだ。母親はずっと前に病で命を落としてしまったが、トルバは母親が生まれ育ったこの街をより良く作り変えようとしている。だから城内にいる恋人と別れてまでこっちに異動したんだよ」
「……そうだったんだ」
「人一倍事件解決に挑んでいたのもそういうことか」
「そうだな。アイツはこっちに異動する前から何度かこの街には訪れていた。いわばアイツにとっては故郷も同然だ。そんなトルバにとって、こんな殺人が起こることは見逃せないんだろう」
 ストレインは歯ぎしりをする。
「分かっていたなら、俺はあいつの暴走をもっとはやく止めておくべきだった」
 後悔するストレインをよそに、エースは腕を組んで遠くを眺めた。城内からは時計塔の音が鳴り響く。
(……いや、まさかな)
 頭の中に嫌な予感がよぎるが、エースは頭を振ってくだらない考えを振り払う。
(今はただ、トルバの暴走を止めるだけだ)
 エースは激しく揺れる車体の中でガラにもなくトルバがスピンに対して早まった行動をしていないことを願っていた。

 スピンの家は大通りに面した比較的大きな一軒家だった。ポストには大量の郵便物が入ったままになっており、家全体も汚れが目立っているなど手入れはされていないようだ。
「スピンは賞金首をやめてからずっとこの家に引きこもるようになったらしい」
 ストレインが説明をしながら扉にノックをしようと拳を作る。その手をエースがつかんだ。
「待て」
 エースはストレインの手を掴んだまま目の前の扉を指さした。正確にはわずかに開いた扉の隙間だ。
 ストレインはエースの意図を察して静かに扉の隙間に手をかけた。家の奥からは誰かの話し声が聞こえるが、遠すぎて何を言っているのかが分からない。
「……トルバか?」
 ちゃんと声を聴くためにストレインは玄関の扉を開いた。本人はゆっくりと開けたつもりだったが、建付けが悪かったのか扉は酷い金属音を鳴らした。
「誰だ!」
 家の奥から大声で叫ぶ。その声は間違いなくトルバのものだ。
「俺だ、トルバ!」
 ストレインが声のする方へと歩きながら答える。そのあとにエースとフェレスも続いた。廊下をまっすぐ進んだ両開きの扉の奥にトルバはいた。
「ストレインさん……! それにエースとフェレスも……」
 三人を見て驚くトルバの右手には剣が握られていた。
「ひぃっ!」
 怯えきった情けない声で三人は第三者の存在に気づいた。
 その男はボサボサの髪の毛で服も薄汚れている。年は三十代ほどに見えるが、両目には涙を浮かべておりどうも頼りがいがない。
 男を観察したのもつかの間、男はトルバが気を取られている隙にいきなり右の手のひらを突き出し、『エコムス』と唱えた。
手のひらから黒煙を魔法で作り出す。その場にいる全員が咳き込みながら口を覆った。視界も悪く、何が起きているのかもわからない。
 真っ暗な中で建付けの悪い窓の開閉音とドタバタという慌ただしい足音だけが響き渡る。煙は窓が開くと同時に外へと排気されていった。
 黒煙が消え視界が良好になると、さっきまでいたはずの男の姿はそこにはなかった。
「スピン!」
 トルバは窓枠から身を乗り出して男の名を呼ぶが、返事は当然ない。
「俺、追います!」
 ストレインにそう告げると、トルバも窓から外へと出た。
「待て、トルバ!」
 ストレインの制止には耳も傾けていない。
「俺がトルバを止める‼ お前たちはここにいるんだ!」
 エースとフェレスに指示をすると、ストレインも窓から出て行った。残された二人は呆然と立ち尽くしていた。
「……私たちは追わなくても良いの?」
 フェレスは隣のエースを見上げる。
「ここはストレインに任せて大丈夫だろう。それよりもこの家を調べるべきだ」
 そう言ってエースは虫眼鏡を取り出した。窓際に残った煙をのぞき込むと赤色のマナが残滓として残っている。
「火属性か。やはりさっきの男がフィールド殺しの疑いをかけられているスピンだな」
「フィールドだけじゃなくてパレスもでしょ」
「これは僕の疑いだ。落雷の轟音を聞いたといったが、可燃性の気体を圧縮してガス爆発を起こした音だったかもしれない。だが、少なくともスピンはパレスを殺した犯人ではない」
 フェレスは眉を八の字にして疑問符を浮かべる。
「どうしてそんなことが分かるのよ」
「スピンが魔法を使った時の右の手のひらを見たか? 皮膚は薄く、タコも出来ていない。あれは剣を握っている手じゃないよ」
「でも、もう片方の手は見てないんでしょ?」
「パレスを殺した犯人は右手に剣を握っていた。遺体の状況がそれを物語っていたんだ」
 あっけらかんと言うエースにフェレスは頬を膨らませて睨みつける。
「そのこと、私聞いていないんだけど……」
「言ってないからな」
 フェレスのことなどまったく気にせずエースは部屋の中を歩き回る。フェレスは不満げに後をついていく。
「そりゃあ私はアンタの監視を任されているけど、私だってこの事件を解決したいと思っているの。情報を共有するくらいしなさいよ」
 エースは足を止め、グルりと180度回転してフェレスを見る。
「なら早速、君には頼みたいことがある」
 フェレスはエースにとって都合の良い助手にされていることに気づかないまま頷いた。

 闇雲に走り回ったストレインは手あたり次第市民に聞き込みをしているトルバを見つけた。ストレインは息切れを起こしながらトルバのもとへと駆け寄る。
「おい……トルバ!」
 トルバはストレインに気づき、話を聞いていた老人にお礼だけを言った。
「ストレインさん、スピンはセマト川方面に行ったようです」
「ちょっと……はぁ、落ち着けよ……」
「俺は上流を見るのでストレインさんは下流をお願いします」
「だから……トルバ……」
「このままスピンを野放しにしたらまた犠牲者が出てしまいます。ここで絶対に奴を捕まえましょう!」
「落ち着け……! トルバ!」
 早口でまくし立てるトルバの腕をストレインが掴んだ。そしてようやくトルバもストレインの様子がおかしいことに気づいた。
「どうしたんですか、ストレインさん」
 ストレインは背筋をただし、まずは深呼吸をした。30代には厳しい動悸・息切れをひとまず落ち着ける。
「いいか、トルバ。冷静になって聞いてくれ。スピンのことだが、アイツは連続殺人犯ではないかもしれない」
 トルバはストレインの正気を疑うような目線を向ける。
「どうしてですか? だってさっきまでは俺の考えが正しいって……」
 そこまで言い、トルバは何かに気づいたように目を見開いた。
「まさか、エースが言ったんですか……?」
「……そうだ。エースはフィールドを殺したのは雷属性の魔法を使う人間だと言った。落雷の轟音を聞いたとも言っていたよ」
「そんなの、あいつの聞き間違いかもしれないじゃないですか! ストレインさんはエースに肩入れしすぎです。エースの言うことを全部信じるんですか? あいつだって神様じゃないんですよ」
 トルバに詰められてストレインは思わず口ごもる。ストレインがエースに肩入れしていることは明らかで、それはストレイン自身も自覚していた。
 エースは戸籍を偽っており、ストレインはそれを知っていながら黙認している。二人は一種の共犯関係があるといってもいい。しかしストレインはそのことをエースに言うわけにはいかなかった。
「……確たる証拠がなければ捕まえることはできない。これは衛兵としての規則だ。俺はエースに言いくるめられたわけではない」
 ストレインはトルバの腕を掴んだまま歩き出した。
「どこに行くつもりですか」
「スピンの家だ。そこでエースも待っている」
 トルバは抵抗する素振りも見せたが、ストレインの握力はそれを絶対に許さなかった。
 二人は歩き続け、ようやくスピンの家に戻ってきた。道中でストレインはトルバに衛兵が何たるかを語り続け、スピンの家の扉を開けるまで止めることはなかった。そのため、すっかり空っぽになった郵便受けには気づくこともなくスピンの家に入る。
 ストレインは家に入るとまっすぐさっき通った廊下を進む。両開き扉を開くと、椅子にもたれかかり悠々と本を読んでいるエースがいた。
 さすがのストレインもこれには呆れかえる。
「おいエース。お前いったい何しているんだ」
 ストレインはエースの読んでいる本をひったくる。さっきまでの口論を意識してエースにも厳しく当たっていたのだが、エースは全く気にしていないようだった。
「そこの本棚にあったから読んでいただけだ。それより、トルバは戻ってきたようだな」
 トルバはそっぽを向いてエースと目を合わせようとしない。まるで出会ったばかりの頃のように二人には溝ができてしまったようだ。
「それよりもフェレスはどこに行ったんだ?」
 ストレインは質問をしながらひったくった本を部屋の角にある本棚に戻した。本の背表紙には『グリム童話』と書かれている。
「おつかいを頼んだ。もう少しで帰ってくるだろう」
 エースは背中越しにそう答え、目の前にいるトルバを見つめる。
「まずは感謝をさせてくれ。君が道路で倒れている僕を助けてくれたんだろ?」
「……ああ。今になってお前を助けたことを後悔しているよ」
 棘のある言葉にもエースは笑って答える。
「助けなかったら助けなかったで君は後悔しただろうな。過去のしがらみに縛られるような君の幼い正義感では、自分の行動に正当性を持つことはできないさ」
「幼い……? この俺が?」
「未熟だよ。これ以上その未熟さで事件を引っかき回すなら、早く捜査から降りてくれないか」
 トルバは一歩踏み出してエースの胸倉につかみかかる。
「事件の解決をお前に任せろって言いたいのか? 犯人を見つけておきながら捕まえられなかったお前が……?」
「僕の仕事は犯人を特定することだ。捕まえるのは衛兵の仕事だろ」
 トルバの怒りをエースが煽り、場の雰囲気は一触即発になる。慌ててストレインがトルバをエースから引きはがす。
「やめるんだトルバ!」
 ストレインの制止を受けながらもトルバは大声を張り上げる。
「お前の力は借りなくても犯人は特定した! あとはスピンを捕まえるだけで事件は解決する!」
「ならどうやって捕まえるかだけでも教えてくれよ。そのあとでスピンが犯人でないことを教えてやる」
 エースはバカにしようとしている。そう思ったトルバはムキになる。
「スピンは何も持たずにこの家を出た。いずれ金や食料が必要になって戻ってくるはずだ。俺たちは帰ったフリをしてのこのこ帰ってきたスピンを捕らえるだけだ」
「あー、それはダメだな」
 エースはバカにしたようにあざ笑った。
 エースは立ち上がって机の上に置いてある手紙の山から一枚の手紙を取り上げる。
「これはこの家の郵便受けに入っていた。中身はスピンの元・仲間や助けた人々からスピンを心配している内容だ」
 手紙をストレインに手渡し、中身を確認させる。
「スピンはまだ指名手配がされていない。変な借金取りに追われているとでもいえば匿ってくれる友人も多くいるはずだ」
「……なら、片っ端からそいつらの家に行けばいい」
「だがこの手紙は直接投函したようだから相手の住所までは書いていない。一から全員の住所を調べるとなると、一週間以上かかるはずだ」
「一週間……」
 トルバは顔を曇らせた。エースは追い打ちをかけるように話し続ける。
「君の杜撰なスピンの捕まえ方は聞いた。次は約束通り、スピンの無実を証明しよう」
 再び手紙の山を指さす。
「この手紙によると、スピンは大火力の火炎魔法によってパーティーメンバーを巻き添えにしてしまったらしい。それでロクに魔法を使うことができなくなり、バウンティセントラルを去った。そんなスピンがフィールドを丸焦げにするほどの魔法を打てるとは思えない」
「だがさっきあいつは黒煙の魔法を使っていたぞ」
「簡単な魔法なら使えるみたいだ。さっきキッチンを見たが、マッチ棒といった火をおこす類のものは一切なかった。スピンは自身の魔法で火を起こしていたんだろう」
 さらにエースは早口で続ける。
「キッチンといえばさっき食器を確認したが、どれも一人分の食器しかない。そのほかの日用消耗品もすべて一人分だ。彼はずっと一人で過ごしていて、暇なときはそこにある本をずっと読んで過ごしていたんだろう。ほとんどの本の最後に栞が挟んであったよ」
「……それがどうスピンの無実につながるんだよ」
「確実な証拠はもう少しで来るはずだ」
 その言葉とともに、ちょうど玄関の扉が軋む音がした。軽快な足音とともにリビングの扉が開き、フェレスが顔を出した。
「あれ、戻ってきてたんだ」
 ストレインとトルバを見て反応する。
「それより聞き込みはどうだった?」
 エースの催促にフェレスは腰に手を当てて答える。
「アンタの予想通りよ。どうやらスピンは近くの小売店に食料や日用品を定期的にこの家に運ぶよう頼んでいたわ。料金は前払いで、運んできた商品は玄関の前に置くことになっているとも言っていたわ」
「やはりか。外履きの靴は棚の中で埃をかぶっていたし、外に来ていくような服もタンスの奥で眠っている。スピンはバウンティハンターをやめてから全く外に出ていない。そんな奴がいきなり外に出て連日人を殺すなんてどういう心変わりなんだ」
 エースはトルバに訴えかける。
「だが、スピンは逃げたんだぞ。誰も殺していないのに衛兵から逃げるのはおかしいだろ」 
「一年以上人と会っていない奴だぞ。怖くなって逃げだした可能性だってある」
 トルバは歯を食いしばってエースを睨みつける。
「……どうしても、俺の推理を否定するのか」
「君が間違っているなら否定はするさ」
 エースの瞳は揺るぎのない確固たる意志を見せつける。トルバはストレインを押しのけると、フェレスが開けた扉へと向かった。
「俺はスピンが犯人だと確信している。その証拠を見つければ、お前も納得しろよ」
 振り返ることなくトルバはまっすぐ玄関へと進む。
「おい、待てよトルバ!」
 ストレインが追いかける。トルバは振り返ることも無くストレインを拒絶する。
「……ストレインさんはエースと一緒に捜査したらいいじゃないですか。こっちは俺だけで大丈夫です」
 そしてトルバは建付けの悪い扉とともに家から出て行った。
「くそっ……あのバカ」
 ストレインは悔しそうに壁を叩いた。トルバが単独行動を取っていることに対して責任を感じているのだろう。
「そんなに気を張ることじゃないでしょ。トルバだってトルバなりに考えて行動しているんだから、上司であるアンタはどっしり構えて見守りなさい」
 慰めるようにフェレスが言った。
「そうだな……。まさか小さな女の子に諭されるなんて、俺もまだまだだよ」
(本当は300歳の年増だけどな)
 エースの毒づいた心の声を読んだかのようにフェレスが睨みつけた。その圧は無関係のストレインにも伝わるほどだが、肝心のエースは我関せずといった様子だ。
 エースはストレインに尋ねる。
「僕が眠っている間、トルバはずっとあんな感じなのか?」
「いや、フィールドが殺された直後は休んでいたぞ。そのあとからはあんな感じでずっと捜査している。家にも帰らずにずっとだ」
「家に帰らずにって……衛兵署に泊まってるってこと?」
「そうだ。まあそもそもトルバは寮に泊まっているから衛兵署でも変わらないんだがな」
「……じゃあ、トルバはこれから一週間も家に帰らずに調査するつもりなのか」
 ストレインは少し考えたのち、首を横に振った。
「それはないだろう。四日後にアイツは定期審判があるから城内に行く必要があるからな」
「定期審判? なんだそれは」
「俺がこの前休んだ時にがあっただろ? それと同じだ。俺たち衛兵は王家直轄の組織だからな。スパイが紛れ込んでいないか、謀反を企んでいないかを確かめるために半年に一回調査するために集められるんだ」
「その調査っていうのは?」
「神器を使う」
 エースはストレインの顔を見て話を聞いているが、『神器』という単語にフェレスの肩が動いたのを見逃さなかった。
「『リブラストレア』という天秤があって、その天秤の力で真実を見極めることができるんだ。至高裁判官が俺たちに天秤をかざし、質問をする。その質問に嘘をつけば天秤は揺れる。……まあ実際に揺れたのを見たことはないからどうも言えないがな」
「嘘発見器ってことか……? それで、その正答率は?」
「100%だ。どんな訓練を積んだ人間であっても嘘をついていれば確実に天秤は揺らぐらしい」
 エースは苦笑いをした。
「そんなのほとんど推理いらずじゃないか。容疑者を端から端まで質問すれば嘘を見抜けるんだろ?」
「確かにそうだが、スカル街で起きた犯罪を裁くために用いられることは滅多にない。強力な神器だけに何度も使えるわけじゃないからな。上層部の人間にとっては外で起きた犯罪なんてどうでもいいんだ。それよりも水面下で動いている不都合なことを防ぎたいんだよ」
 ストレインは自虐気味に言った。ストレインはストレインなりに個人の理想と組織の目的との葛藤で苦しんでいるのだろう。
「だが滅多にないとはいえ、前例はあるんだろ?」
「それでも二十年くらい前の子ことだ。市民が興味を持っていて、尚且つ容疑者に決定的証拠がない場合にのみ天秤が使われるらしい。しかしこの事件が未解決のまま終わるようなら、容疑者を天秤を使う可能性はある」
「……この場合、その容疑者はスピンになるということか」
 エースは黙ったまま思考を重ねる。
「どうしたの……?」
 フェレスがエースの顔をのぞき込んだ。
「いや、何でもない」
「それより、お前たちはこれからどうするつもりだ?」
 ストレインが尋ねた。
「フィールドの情報を調べるつもりだ。彼の経歴や魔法について知りたい」
「ならバウンティセントラルに行くといい。既に管理人にフィールドの資料を集めるよう要請しておいたから、お前が預かってくれ」
 その口ぶりにエースは片眉を上げた。
「ストレインは来ないのか?」
「俺はこの手紙の主の家をすべて回るつもりだ。時間は掛かるかもしれないが、現状スピンが重要参考人であることに変わりは無いからな」
 そう言うと、ストレインは財布からお札を取り出してエースに渡した。
「馬車を使っていくといい。スカル支部衛兵署で領収書を貰っておいてくれ」
「いいのか?」
「ああ。その代わり、有益な情報を頼むぞ」
 エースは力強く頷き、フェレスト共に馬車へと乗り込んだ。
 相変わらず揺れのひどい車内でエースとフェレスは並んで座った。
 エースは運転する御者に聞えないようフェレスに話しかける。
「さっきの天秤の話、確か『リブラ――……」
「『リブラストレア』ね。確かに『リブラストレア』は神器のうちの一つよ。……ただ、城内にある天秤はおそらく模造品ね。それにしても、いつの間に作ったのかしら……」
 フェレスはエースに質問されることを分かっていたようで、スラスラと話し出した。
「どうして模造品だと言い切れる?」
「そもそも神器はすべてハサルシャム様が所持しているからよ。アンタに渡した虫眼鏡『マナグラスコープ』は私がハサルシャム様から直接預かった本物だけど、この世界にある神器と呼ばれるものは偽物なのよ」
「……僕はこの世界についてよく知らないが、そんな簡単に模造品なんて作れるのか?」
「簡単には無理よ。文献に残った情報をもとに再現したり、ハサルシャム様自身が人類のためにヒントを与えたりすることもあるわ。ただそれでも所詮は人間が造ったもの。本物の神器よりは格は下がるわ。
 前にノドルの時計塔についても話したでしょ。あれも神器の伝説を元に再現した模造品になるわ」
「じゃあ天秤も本来の神器の力とは違うってことか」
「違うでしょうね。本物の『リブラストレア』が持つ力は世界の事象をすべて把握したうえで対象の相手の言葉の真偽を図る。でも模造品のほうはおそらく、質問に対する相手の認知によって真偽を図っているんじゃないかしら。ちょっと複雑なんだけど、アンタならこの説明で分かるでしょ」
 フェレスの話は抽象的だが、おおよその予想がついていたエースにはフェレスの予想通り理解をしていた。
「要するに偽物なら勘違いや深い洗脳をされている場合は嘘をついていても天秤は動かないってことだろ」
「そうゆうこと」
 二人は会話がひと段落着いたところで馬車はバウンティセントラルに到着した。エースは御者に領収書を貰うと馬車から降りる。
「ちなみにもしも僕が最高裁判官とやらに『どうやってこの国に密入国した』と聞かれた場合、僕は『密入国はしていない』と答えるしかないよな」
 エースは続けてフェレスに質問をする。
「まあ、アンタはハサルシャム様の力によってここに来たのだから入国の方法は答えられるわけないわね」
「そうだ。だがその場合、天秤はどう動くんだ?」
「偽物なら動くことはないでしょうね。なんだったら『どうやってこの国に来た』という質問にも動かないはずよ。アンタは連れてこられたのだから、知らないことは答えられないもの」
「じゃあ本物ならどうなるんだ?」
「そうね……。多分動くんじゃないかしら。経緯はどうあれ、アンタがこの国にいるということはどこかから来たことは確かだもの」
「だがそれだと僕も真実を教えられないし相手も真実を知ることができないだろ」
 フェレスは首を横に振る。
「そもそも本物は人を裁くために使われていないのよ。世界の真理を知るためのあくまで指針なんだから」
「なるほど……」
 こんな会話をしている間に二人はバウンティセントラルの窓口までたどり着いた。いつも通りサングラスをかけたスキンヘッドの管理人が小さな四方形の窓から顔をのぞかせている。
「管理人、今日は頼みたいことがあって来た」
 すると管理人は無言で大きなファイルをカウンターの上に置いた。困惑する二人に対し、管理人はファイルを顎でしゃくった。
 フェレスが手を伸ばしてファイルを開くと、中身はフィールドのこれまでの経歴や受注した依頼内容がまとめてあった。
「……お前さんが無事でよかったよ」
 管理人はエースに向かってそう告げると、コーヒーを片手にそっぽを向いた。
「協力感謝する」
 エースはファイルを受け取り、近くの座席へと歩き出す。後に続くフェレスはエースに疑問を投げかけた。
「ちょっと、あの男いったい何者?」
「ただの管理人だよ。こういう粋な計らいが好きな」
 椅子に座るとエースはページを一枚ずつ捲っていく。フェレスは隣からそれをのぞき込むが、背中に刺さる視線に気づいて振り向いた。
 そこにはバウンティセントラルに加盟している多くの人たちが噂話をしながら二人を見ていた。
(いや、私じゃない……。エースだ)
 フェレスは天使であることが周りにばれたら厄介なことになるため、外に出るときは周りの視線に常に気を払っている。そのため周囲の視線がフェレスではなくエースにのみ注がれていることにすぐに気づけた。
(でもどうして……)
 フェレスはエースがブレイクダークのメンバー相手に大立ち回りをしたことは知らないため、エースが噂話される理由が分からなかった。エースに直接聞こうにも、本人は視線には全く気にせず一心にページを捲っていた。
 まるで流し読みでもしているかのようにパラパラとページをめくり、目線は高速で文字を追っている。資料は200ページ以上あったが、エースはそれを10分足らずですべて読み終わった。
「大体は理解した」 
 そういうと資料を一度閉じる。フェレスは周りの視線も気になったが、それよりも事件のことを優先して尋ねる。
「じゃあフィールドの魔法についても書いていたの?」
「いや、やはりフィールドの魔法に関する情報はほとんど隠されていた。そもそも彼はソロで活動することが多かったようだから情報源が少ない」
 フェレスはため息をついた。
「収穫はなしってことね」
「そういうわけでもない」
 エースはファイルを開き、フィールドが過去に受けたとある依頼内容のページを開いた。
「見ろ。この依頼でフィールドは山賊のアジトを壊滅させている。アジトは山奥の小さな村だが、後に応援に来た衛兵はこう語っている。『現場にたどり着いた時には村全体に火の手が回っていました。その中心に勇者フィールドがたっていたのですが、火は彼を避けるように彼の周りだけ燃えていなかったのです。我々は彼を助けるために火を消そうとしました。しかし驚いたことに、勇者フィールドは平然と火の海を歩いて戻ってきたのです。彼の身体は全く燃えていませんでした。彼の服も、まったく燃えていません』」
 フェレスは唖然として言葉も出なかった。エースはさらに別のページを開いた。
「このページには南極探検隊を苦しめてきた海洋の巨獣を討伐した依頼だ。その巨獣は船を凍らせるほどの冷気を放つようだが、フィールドはいとも簡単にその巨獣を仕留めたらしい。同行した乗組員によると、巨獣の口から放たれた圧縮された冷気が船の機能を完全に凍らせたようだが、その中でもフィールドは平然としていたそうだ」
「要するに……最強の盾?」
 フェレスは以前にエースと話した魔法で作る最強の剣と盾の話を思い出した。
「でもそんなのあり得ない……!」
 そこまで言い切るが、フェレスの顔はすぐに曇る。
「いや……条件や決定的な弱点を用意すれば可能かしら? もしもマナが完全制御型なら統制の取れたシステムモデルを作れるはずだけど……だとしたら考えられるのは、やはりドット環タイプかランドルト環タイプね」
 ブツブツと専門用語らしきものを使うフェレスにエースは声をかけた。フェレスは我に返る。
「せめて分かる言葉で話してくれ」
「あ、ごめん。そうね……フィールドが疑似的とはいえ最強の盾を持っていたことはあり得る話よ。ソロでこれだけの依頼をこなすなんて、攻撃力よりも防御力のほうが必要になるもの」
「それと面白いうわさ話も乗ってあった。フィールドは討伐・賞金首の依頼はすべて受諾しているそうだが、一つだけ断った依頼があるそうだ。それがパレスを勇者まで上がらせた天界龍の討伐らしい」
「天界龍? たしかパレスが勇者になったのって、フィールドよりも前の話よね」
「そうだな」
 フェレスは険しい顔を作る。
「ねえ……本当にフィールドって死んでいるのかしら」
「死体は僕が確認した」
「でも黒焦げだったんでしょ。ちょっと前に解決した事件覚えてる? あの借金取りから逃げるために自分の――」
 
 コツリ。
 騒がしい人ごみの中で石畳を歩く革靴の音が鳴り響く。コツリ、コツリと一歩ずつ軽快な音で重々しく、真っ黒な毛皮のコートを着て目標へとまっすぐ突き進んでいた。
 睨みつけるだけで人を傷つけそうな鋭い視線は、バウンティセントラルの真ん中で胡乱げな表情で金髪の少女と話しているエースを見据える。
(間合い……!)
 瞬間、コートを翻して左足で大きく飛躍した。右足、左足と三段跳びをきめると弧を描くような蹴りがエースの顔面に向けられる。
 瞬時、背中に殺気を感じてエースは振り返った。既にその長い足はエースを仕留める射程距離内に入っている。
(まずい!)
 避けようとすればフェレスに蹴りが当たってしまう。エースは蹴りを左手の甲で防ぎ、右腕で支えながら衝撃を抑える。
「ぐっ!」
 歯を食いしばって蹴りに耐える。相手は右足を引いて空中を華麗に一回転してみせると、鋭い目つきでエースを睨みつけた。
 その相手の顔に、エースは見覚えがある。
「ドラグマ……」
 名前を呼ばれても、ドラグマは平然としている。まるで初対面で、敵と相対している顔だ。
「ちょっと、コイツなんなの!」
 驚きと焦りを隠せないフェレスにエースは右手を突き出した。
「君は下がって――」
「俺の名は……」
 エースの言葉をさえぎってドラグマが一歩前に踏み出した。
「俺の名は、ブレイクダークのドラグマ! エース、お前に決闘を申し込む」
「決闘? 急に何を言いだす?」
 ドラグマは無言で大きく飛躍した。今度は一度でエースの頭上まで移動する。既に右足を高く上げ、踵落としの構えを取っていた。
(骨は折れていないが、左手は痺れが止まらない……)
 エースは横に飛びのき、踵落としを回避する。一方ドラグマは踵落としを外したにもかかわらず華麗に着地をしていた。そして依然としてエースを睨む。
「その左手、さっきの蹴りで負傷しているのか」
 その問いに答えることはなく、エースは左手を身体で隠した。
「……さっきのは半ば不意打ちのようなものだ。お前とは対等に戦うつもりだからな」 
 フェレスは左手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「左手は使わない。そうでなくては決闘の意味がないだろ」
(舐められている……わけじゃないようだな)
 エースは左手をだらりと下げたまま右手を前に構える。それはドラグマとの決闘を受け入れた証だった。
 ドラグマは初めて歯を見せて笑うと、すぐさま行動に移した。
(まずは……!)
 下段蹴り。左足を軸に地面を這うようにして右足を振り払う。それに対してエースは後方に飛びのいて躱す。だがそれはドラグマの予想の範囲内。ドラグマはすぐさま右足を軸に変え、左足で回し蹴りを放った。
 エースは上体をそらし、ドラグマの左足はエースの服を掠るだけにとどまった。
「踏み込みが甘かったか……」
 ドラグマは右足で石畳をトントンと叩きながら呟いた。
「……恐るべき身体裁きだな」
 対峙しても相手の重心が見当たらないなどエースにとって初めての体験だった。ドラグマは常に身体の重心を移動させ、エースの飛びぬけた観察眼をもってしても捉えることができない。
(これだと柔道も合気も通用しそうにないか)
 一息入れ、ドラグマは再び一歩を踏み出す。それと同時にエースも正面切って走り出した。
 突然のエースの攻撃態勢に不意を突かれ、ドラグマは迎え撃つための突きの蹴りを放つ。長い右足がエースの顔面に向かって伸びる。
 エースはその右足を横から右手で押し出し、軌道をずらした。エースの右手はドラグマの右足に引っ張られて肘が曲がる。
(コイツ……俺の蹴りを利用して!)
 そのまま全体重を乗せ、右の肘鉄がドラグマの顎に直撃した。
ドラグマは身体をのけぞり、思わず後ずさる。口内を歯で切ったのか口元からは血が出ていた。
 エースの反撃にいつの間にか周りを囲んでいたギャラリーが沸き立つ。
「……どうもここにいる人たちは血気が盛んだな」
「……そのほうが好都合だ」
 ドラグマは血を拭いながら答える。
「それにしても、あの体勢から肘鉄を食らっても倒れないか。君は僕が出会ってきた中で一番体術がうまいよ」
「体術など俺の実力の氷山の一角にすぎない……」
 ドラグマは赤い髪を掻き上げ、エースを睥睨する。
「もう少し白兵戦を楽しみたかったが、悪いが長引くといろいろと面倒だからな。とっととお前を叩きのめして終わらせる」
 その言葉とともにドラグマは腰を深く下げる。右手だけを地面につけ、クラウチングスタートのように膝を曲げた。そして目は、やはりエースを見据える。
「いくぞ」
 合図とともにドラグマは駆け出す。
 だがエースには駆け出してからの軌道を見ることはできなかった。風がなびく音と背後で地面を擦る、足のブレーキ音だけが鳴っていた。
 振り返ると、ドラグマが再びクラウチングスタートの構えを取っている。
「……早すぎたか」
 ドラグマは悔しそうに呟く。
(一瞬にして……!)
 エースの驚きが終わる前に、ドラグマはまたしても超スピードで視界から消える。エースは反射的に再び後ろを振り返るが、そこには誰もいなかった。
「こっちだ」
 声がしたのは真上からだった。
 見上げるとドラグマが蝙蝠のように天井に両足だけで張り付いている。しかし服も髪の毛も逆立ってはいない。
 ドラグマはその天井から飛び降りると、隙だらけのエースの顔に膝蹴りを入れた。
「ッ!」
 ドラグマの足を掴んで反撃しようとするも、ドラグマはエースを踏み台にして再び天井へと戻った。そして今度は天井から壁に飛び移り、そこでも両足だけで壁に張り付いていた。
(どうなっている……!)
 ドラグマはエースに蹴りを入れ、再び壁や天井に戻る。エースはドラグマが壁に貼り付ける理由を考えようとしても、とめどなく繰り出されるドラグマの攻撃に冷静さを欠いていた。
 執拗なまでのヒットエンドランはエースの精神と身体をボロボロにしていった。何度も脳を揺らされ、今にも膝から崩れ落ちそうになる。
「そろそろ音を上げたらどうだ!」
 エースの真上からドラグマの踵落としが降ってくる。
「『レイラヴ』!」
 突如現れた空気の層がエースの周りを囲い、ドラグマの攻撃から守った。
 呪文を唱えたフェレスはエースの元へと駆け寄った。
「もういいでしょ! 勝負は十分についたはずよ!」
 フェレスはドラグマを強く睨みつける。ドラグマはフェレスを見ると、鼻で笑った。
「……こんな小さなガキに救われるとは、お前もたいしたことないな。このブレイクダークのドラグマには、手も足も出なかったというわけか」
 そう言い捨てるとエースの横を抜けてバウンティセントラルから出て行った。
 周りを囲んでいたギャラリーも話をしながらエースには興味もなさそうに散っていった。
「ちょっと、大丈夫?」
 フェレスはエースの顔を両手で抑えて傷を確かめる。
「目立った傷はなさそうね。ホラ、口を開けてみなさい」
 意識を半分失いかけているエースは正直に口を大きく開ける。
「歯は……大丈夫みたいね。口の中がいくつか切れているみたいだから、あとで治癒魔法をかけてあげるわ」
「……助かる」
 かろうじて口はきけるようだが、足下はおぼつかない。
 フェレスは小さな体でエースを支えて近くの椅子に座らせた。
「『エタエルク』……はダメね。ちょっと待ってなさい。今すぐ冷やすもの持ってきてあげるから」
 今は誰もエースを見ていないとはいえ、大衆の面前で想像を使うわけにはいかない。フェレスは席を立つ。
「……ほらよ」
 フェレスの目の前にいつの間にか立っていたサングラスの管理人がおしぼりを手渡した。そして大きな背中を見せたまま去って行く。
「あ、ありがとう」
 よく冷やされているおしぼりでエースの傷口を拭った。
「……アンタって意外と人望あるじゃない」
 エースが正気を取り戻し、家に帰れるようになった頃には日が沈みかけていた。フェレスは人がいなくなった瞬間を見計らってエースに治癒魔法を掛け、エースの顔に目立つような傷跡はなくなった。
フェレスはエースを支えながら夜道を歩く。
「これじゃあクリスタも帰ってるでしょうね」
 クリスタはどこか寂しそうに言った。
「……クリスタが料理を作っているか分からないし、露店で何か買っていくか」
「そうね」
 二人は近くの露店でサラダとパスタを買う。店主はフェレスにだけフライドポテトをおまけで渡し、フェレスは無邪気に喜ぶ演技で見事10歳児を最後まで貫き通した。
 リーアとウルクの時の演技を考えると、あながち本当に無邪気に喜んでいたのかもしれない。
 エースはフェレスの支えなしで歩き、フェレスは貰ったポテトを食べながら帰路につく。大通りから外れ、人が少なくなってようやくフェレスは質問をすることにした。
「それで、あの男はいったい誰なの?」
「名乗っていただろ。ブレイクダークのドラグマだよ。彼とは事件解決に協力してもらった」
「だったらどうしてアンタにいきなりケンカを売ってくるのよ」
「彼は彼なりに考えていることがあるんじゃないか?」
 エースの返答にフェレスははぐらかされていると直感で感じ取った。相変わらず素っ気ない態度にフェレスは頬を膨らませる。
「そう膨れるなよ。僕だって思うところはあるが、まだ仮説の状態なのに我が物顔で語るのは気が引けるんだ」
「……なら我が物顔で言わなけりゃいいじゃない」
 フェレスのボヤキはエースには届いておらず、そのままクリスタの店に着いた。店内は明かりがついておらず、やはりクリスタは帰ったようだった。
「僕は先にシャワーを浴びさせてもらうよ」
 コートを脱ぐと、夕食のサラダとパスタをフェレスに渡す。
「腹が減っているようなら先に食べても構わない」
「ええ、そうするわ」
 エースは脱衣所に入ると血と埃で汚れた服を脱いで冷たい水を頭からかぶった。
 何日かぶりのシャワーだが、どうも長く浴びる気にはならない。体表の毛穴が水でぬれて息苦しささえ感じていた。こうして鏡に映る自分の姿を見ると、エースは違和感のようなものすらも感じる。
 しかしそれは今に始まったことではない。この世界に来てからずっと感じていた不調和だ。
(それに、あの夢……)
 エースは目覚める直前まで見ていた夢のことを思い出す。
(やっぱり、病院だったよな……)
 しっかりとは覚えていないが、点滴や心電図のようなものが視界に写った気がしていた。
 エースは顔についた傷跡を確認したのち、汗だけを流すと浴室から出た。
(早く出てしまったが、することもあるからちょうどいい)
 バスローブを着て重い足取りで階段を上る。半分ほど登ったところで二階から誰かの話し声が聞こえてきた。片方はフェレスだと分かるが、もう一人は聞き覚えがなかった。
 反射的に足音を消し、ゆっくりと階段を上る。そして顔を少しだけ階段からのぞかせた。
『……なぜ報告が遅れたのかしら』
 その声はエースにとって初めて聞く声だったが、何故か自然と声を聞くだけで背筋が凍る感覚に陥る。
 その威厳のある女性の声はしているのだが、二階にはフェレスの姿しかない。そのフェレスは机の上に置いた箱のようなものと向かい合っていた。
「も、申し訳ありませんハサルシャム様。エースはまったく夜に全く寝ないし、かと思えば倒れたりして開放とかいろいろと忙しく……」
 フェレスは慌ただしく箱に向かって話し続ける。どうやら箱は通信機のようなもののようだ。
エースはハサルシャムと自分の名前が呼ばれたことに警戒を強め、階段で息を潜めて話を盗み聞きする、。
『エース? 誰の話をしているの?』
「あ、そうでした……。エースではなくコムロ・ハジメです。こちらの世界ではエースという名で生活していくと本人が言っていたので……」
『そう、エース……エースね。いいんじゃない。こちらの世界に順応しようとしているのは素晴らしいことだわ』
 フェレスはなおもたどたどしく話を続ける。
「エースはこちらの世界でも探偵を続けることを選択しました。現在もスカル街で起きた事件を調査中です」
『随分と適応能力が高いわね。それで、貴女の目から見て気になるようなことはあったかしら?』
「いいえ、特には……? ただ、普段は全く寝ないのに急に寝てしまう病気のようなものがあるようです」
『ああ、それは彼のもともとの体質よ。その特質が彼の頭脳を特別にしているのだなものろうし、むしろある方が正常に機能しているということよ』
「正常に機能?」
『貴女は気にしなくていいのよ、フェレス。貴女はただ観察するだけでいいの。もしそれもできないようなら、私は本当に貴女の羽根を捥ぐことになるわ』
 媒体越しでも伝わってくる威圧感にフェレスは息をのむ。
「は、ハイ……心得ています」
『頼んだわよ。前の人間は失敗して行方が分からなくなってしまったもの。彼もコムロハジメと同じで特殊体質、特別な才能にあふれていたのだけどね。残念なことに理性が崩壊していたわ。そんなことが二度と起こらないように、貴女にはしっかりと監視をしてもらう必要があるのよ』
「はい、もう二度と目を外すような真似はしません!」
『二度と? ひょっとして一度は監視を解くようなことをしたのかしら?』
「……いえ、そんなことは、していません。言葉の、綾です」
『そうよね。貴女は天使だもの。人間の女の子と仲良くなったり、人間の食事で喜ぶような俗物じゃないものね』
「……!」
 フェレスは思わず言葉を失った。
「も、申し訳ありません……」
『……貴女を監視役に任命したこと、後悔させないでね』
「はい……」
 会話は途切れ、フェレスは深いため息が部屋に響いた。
 エースはゆっくりと階段を降り、次は足音を立てて二階へと上がる。
「上がったぞ」
 フェレスはベッドに腰を下ろしていて、机の上には当然箱のようなものは置いていなかった。代わりに二人分の夕食が手つかずのまま並べられていた。
「なんだ、先に食べなかったのか」
「ええ。さっきポテトを食べたからあまりお腹は空いていないの」
「そうか」
(食べる時間がなかったとはさすがに言わないか)
 さっきのハサルシャムとの会話のようにうっかり口を滑らすか期待したが、さすがにそこまで間抜けではないようだ。
「……なら、少しだけ君の力を借りてもいいか?」
「私の?」
「そう。君の創造能力だ」
 エースはフェレスを連れて一階のクリスタの店に降りた。
 首を傾げるフェレスを横目にエースは必要な素材を陳列棚から運び出す。
「重合体を作るのは素材が多くて大変だが、この店には何でもあるな」
 フェレスにとっては全く聞いたこともないような液体、個体がそろっている。エースは細かく作り方の手順を教える。
「……ねえ、それってどうしても今する必要があるの?」
 不服そうにフェレスはエースを見上げる。
「難しそうなら君は休んでいても構わない。僕は一人で外へ行って素材を売っている店を探してくるよ」
 あえて一人という言葉を強調するとフェレスは顔を青ざめる。
「分かったわ。私が作ってあげるからアンタはここにいなさい」
 ハサルシャムに言われたことを思い出してエースの単独行動だけは絶対に防ぐ必要があった。エースに聞かれていたとは思ってもいないため、利用されていることには気づくはずもない。
「なら頼んだよ」
 承諾はしたもののフェレスは面倒くさそうに、エースの手順を聞きながら『エタエルク』と唱え続けた。
 およそ一時間がたち、ようやくそれは完成した。エースは完成品を手のひらサイズの小箱に入れる。隣では満身創痍のフェレスが「あーーー」と大きく伸びをしながら奇声のようなものを発していた。
「よくやった。これで君の友人のクリスタも喜ぶはずだ」
「だから、友人じゃないって……」
 その声はどこか落ち込んでいる。
「そういえば、君はクリスタのメガネを直せたのか?」
「……無理だったわ」
 フェレスは店の奥に入り、戸棚の中からボロボロのメガネを持ってきた。
「私の力だとコレが限界。本当にバカみたいよね。何でも創り出すことができる能力を持っているのに、モノを直すことはできないなんて……」
 エースは意気消沈しているフェレスを見て、笑い飛ばした。
「ようやく分かったか。君たち天使は結局のところ大した存在じゃないってことに」
 フェレスは自虐こそしたが、こうして面と向かってバカにされるのは我慢ならなかった。
「ちょっと! その言い方は悪意あるんじゃない?!」
「だが事実だろ。天使であろうと君にだってできないことはある。夜になると寝るし、お腹がすけば食事を取る。美味しい食事なら喜ぶし、自分を慕ってくれる人を好きにだってなるさ」
 エースは優しげな表情を向ける。
「人間とか天使とか関係ないだろ。どっちも豊かな感情を持っていることにかわりないんだからな」
 フェレスは壊れたメガネに手を伸ばす。小さな指先でひび割れをなぞった。
「……そんなこと、アンタに言われなくても分かってるわよ。まったく……どうでもいい講釈に耳を貸しちゃったじゃない」
 さっきまでの消沈ぶりはどこにいったのやら、フェレスは腰に手を当て胸を張ってそう言った。
「そうか……」
 エースは優しげな表情から一変し、悪意を持ったビジネススマイルになる。
「ちなみに、もう一つだけ創ってほしいものがあるんだが」
「えぇ!?」
 フェレスは信じられないものを見たようにエースを見つめる。しかしエースに諭された手前、断るわけにも行かなかった。
「分かったわよ……。それで? 今度は何を作るの? またさっきみたいに誰かへの贈り物かしら?」
「いや、今度のは贈り物というより、送るためのものかな」
 
 エースに言われるがまま創造を何度も使ったフェレスは糸が切れたように眠ってしまった。力を使いすぎたこともあるのだろうが、いつもよりも夜更かししたこともあるだろう。
 エースは眠ったフェレスを抱え、二階のベッドに横たわらせた。スヤスヤと寝息を立てているフェレスの頬を指で突くが起きる気配は全くない。
「おい、フェレス」
「……ん」
 名前を呼び掛けても寝苦しそうに体をよじるだけでやはり起きる気配はない。エースは颯爽とタンスやベッドの下を探り出す。フェレスが普段来ているローブをひっくり返してまで調べる。
(見当たらないな……)
 エースが探しているのはフェレスがハサルシャムと喋っていた箱のようなもの。神器に近いものなのだろうが、そう簡単に隠せるものではない。フェレスの着ている服もポケットなどなく、露出度の多いほとんど肌着のような服だ。隠せるようなスペースはない。
「……そうなると、やはり創造か」
 フェレスの創造なら物質をゼロから作るだけでなく、ゼロへと消すことだってできる。必要な時だけ通信機を作って話していたのだろう。
 エースは跪き、再びフェレスの寝顔を見る。目を閉じていても長く整った睫毛に薄い唇。全身の肌もきめ細かく真っ白だ。普通の子供でもここまで綺麗な肌はしていないだろう。
 ゆっくりと、フェレスの肌に手を伸ばした。タンクトップの肩から這うように手をなぞる。産毛といった体毛は一切なく、シミもホクロもない。程よい質感で少し力を入れれば吸い付くように柔らかい。
 エースはそのまま腕を撫で、手首まで手を伸ばした。そして二本指で脈を測る。トクントクンと正常に脈は動いていた。
(食事は摂り、トイレにも行き、睡眠もする。この身体も人間そのものだ)
 しかしフェレスは普通の人間には使えない『創造』という能力を使うことができ、そのときだけ背中から翼が生えてくる。フェレスが天使だということは疑いの用のない事実だ。
(完璧な……いや完璧すぎる身体)
 まだ十歳ほどの身体だが、すでに大人の女性に近づいている。あと数年もすればすれ違う誰もが振り返るような美女に変わることだろう。だがそれは、あまりにも均整がとれた完璧なものだ。
「フェレス……」
 エースは寝ている少女に呼びかける。
「僕は君が何者で、何が目的であっても構わない。君が僕の相棒になりたいというのなら、僕はそれを歓迎する」
 心なしか、フェレスは寝ながら笑みを浮かべた。それを見てエースは立ち上がり階段へと向かう。
「たとえ君が敵であっても、君はすでに僕のカードだからな」
 朝が来てもフェレスはまだ眠ったままだった。エースはずっと椅子に座ったまま虚空を眺めている。
 二階に顔を出してはいないものの、数十分前にクリスタはもう店を開けている。大方エースの気配を察して二階には上がってこないのだろう。
(そろそろ終局か)
 エースはゆっくりと目を閉じ、沈黙という音を一人で愉しむ。嵐の前の静けさというべきか、環境音もエースの脳内も落ち着いていた。
 その静寂を破ったのは一階から鳴り響く鈴の音だった。「きゃっ」というクリスタの怯えた声がしたと思えば、ドタドタと階段を踏み抜きそうな勢いで誰かが駆け上がってきた。エースにとっては目をつぶっても予想がつく相手だ。
「おい、エース!」
「どうしたんだストレイン」
 目も開けずに尋ねる。
「どうしたんだじゃない。聞いたぞ、お前昨日俺と別れた後で乱闘騒ぎになったんだろ」
「乱闘じゃない。決闘だ」
「そんなことはどうでもいい。大事なのは相手があのドラグマだってことだ」
 そこでようやくエースは目を開いた。
「ドラグマを知っているのか?」
「カーレインの右腕だろ。裏の人間ではあるが、衛兵をやっていて知らない人間はいない。そのドラグマにお前がボコボコにやられたって聞いて慌ててここまで来たんだよ」
「ボコボコというわけではないが……それにしても君の耳にも入るとは、思ったよりも噂の流布は病よりも早いみたいだな」
 エースは冷静に話すが、ストレインの方はまだエースに詰め寄る。
「まさか、ドラグマが連続殺人事件の犯人だったのか?」
「それはない。ドラグマは手加減をして僕と戦ってくれていたからな。本気を出されていたら僕はいまごろ人の形を保っていなかったよ」
「手加減? どうして手加減してまで決闘をするんだ」
「僕を殺さないためだろうな。お互い左手を使わない勝負になったんだが、結局彼は左手どころか右手も使うことはなかったよ」
 エースは自虐気味にそう言った。実際にエースにダメージを与えたのは足技のみで右手はクラウチングスタートのときに使ったくらいだ。
そもそもドラグマは初対面の時に持っていた剣すら持たずにエースに決闘を申し込んできたのだ。最初から全力でエースを倒そうとは思っていなかったのだろう。
「そもそも彼は演出をしたかっただけなんだよ。僕と対等に戦い、僕よりも強いってことを見せつけるためにね」
「見せつける……? いったい誰に見せつけるためだ?」
「世間と、犯人だよ」
 そう言ってエースは立ち上がり、椅子に掛けていたコートを手に取った。
「さて、それじゃあ僕はフェレスが目覚め次第出かけることにするよ。ストレイン、君はこれから何か予定はあるか?」
「いや、いつも通り巡回をするくらいだが……」
「ならちょうどよかった。今から僕が言うことを調べてほしいんだ 
「構わないが……いったい何を調べるんだ?」
 エースは笑みを浮かべ、ストレインに返答した。


 
 街中を人力車が駆ける。荷台には二人分の大人を運んでいるが、車夫には物理的ではなく心理的な重圧がかかっていた。客の一人は帽子を目深にかぶり、毛布で体全体を隠されている。そしてもう一人は毛皮のコートを着て悠然と足を組んだドラグマだった。。
「そこを左だ」
「はい……!」
 胸が締め付けられながらもなんとか返事をする。
 車夫はブレイクダークの一員だった。人力車は副業としてやっているだけであり、賞金首としての仕事はほとんどない。そんな中ドラグマに任された任務は彼にとって重すぎた。
 なるべく目立たず、目的の場所までたどり着く。安全第一でドラグマの隣で眠っている男を起こさないように静かに走る。緊張で足が思うように動かなくなりそうでも車夫は30分走り続けた。
「よし、そこでいい。車体で入り口を防ぐんだ」
 ドラグマの命令で到着したのはスピンの家だった。
 ドラグマは荷台にいるもう一人の男を担ぎ、玄関へと向かう。そして鍵のかかった扉を蹴破った。車の陰になって道行く人は全く気にしていないようだ。
「よくやった。お前はもう帰ってもいいぞ」
 車夫はドラグマから金をもらうと、礼をして去っていった。
「……さて」
 玄関を少しだけ開けると、ドラグマは男を担いだままリビングの奥へと入っていった。男を椅子に座らせると、帽子を取って相手の名前を呼ぶ。
「起きろ、スピン」
 疲れ切った顔をしてスピンは眠っていた。
「やはり薬が効きすぎたか」
 ドラグマは平手打ちでスピンをたたき起こす。いきなり強い衝撃が走ったスピンは重い瞼を開けた。
「え……ここは……?」
「お前の家だよ」
 ドラグマは剣を抜き、肘掛椅子にずっしりと腰を下ろした。スピンは立ち上がろうとするが、両手と両足が縛られてうまく立ち上がることができない。
「無駄だ。現役を引退したお前ではその耐火魔法をつけた縄を解くことはできない」
「……なんでこんなことになってるんだ。まずお前は誰だよ……!」
「ブレイクダークのドラグマ。名前くらいは、知っているんじゃないか?」
「ドラグマ……お前があのドラグマなのか?」
 ブレイクダークの幹部であるドラグマの名前は上位の賞金首なら知っているものも多い。そのどれもが悪名高い噂程度のものだったが、スピンはドラグマの名前を聞いて顔を青ざめるほどだった。
「俺を、どうするつもりなんだよ……」
 声も震えてスピンは怯えているようだ。
「安心しろ。お前を殺す気はない。ただお前には餌になってもらう」
「餌?」
「犯人を捕まえるための餌だ。お前はただここにいるだけでいい。犯人をここに呼び寄せるための情報はすべて噂として流したからな」
「何の話だよ……?」
「そうだな……。餌とはいえ少なからずお前は僕の協力者だ。順を追って説明してやろう」
 ドラグマは剣を構えたまま、時間つぶし程度の感覚で語りだした。
「お前も知っているだろうが、ここ数日で二人もの勇者が殺されている。ブレイクダークからすればライバルが減って嬉しいことだ。
しかしその二人を殺した犯人、どうやら過去に俺たちの仲間を殺した奴と同一犯だったらしい。
 ただ死んだ仲間たちは裏の人間だったから表立って復讐することはできなかった。犯人も分からなかったから、俺はアイツらに何もしてやれることはなかったんだよ」
 だがエースが訪れたあの日、カーレインはドラグマに告げた。
『ドラグマ――』
 カーレインはパイプでお香を吐きながら言った。
『死んだ仲間も救われず、生きている仲間も納得できない。そんな規則意味あるのかね』
『……大事なのはボスと、この組織自体です。そのためなら我々は救済も満足も必要ありません』
『組織ねぇ……』
 カーレインはお香の煙で輪っかを作りだした。
『ならドラグマ、貴方はワタシと組織。どっちが大事なのかしら?』
『それは……』
 思わず言葉に詰まるが、ドラグマは意を決して本心から答える。
『もちろんボスです。組織がなくなっても、俺は一生ボスの隣で忠誠を誓うと決めています!』
 ドラグマの必死な様子を見てカーレインは高笑いをした。
『言うじゃないか。なら、組織よりもワタシの望みを叶えてくれないか?』
『望み、ですか?』
『ノドル大聖堂の隣にある共同墓地。……もう誰の名前も書いていない墓に花を添えるようなことはしたくないんだよ』
 カーレインの悲しそうな横顔を見て、ドラグマは拳を握った。
 そして同じように、剣を強く握ってスピンに話を続ける。
「せめてアイツらが生きた証だけは、たった一つしかない名前だけは刻んでやりたい。だから俺は一年越しで復讐を誓った」
「……お前が犯人を恨んでいることは分かったよ。でもどうして俺を拘束することになるんだ」
「犯人の目的は強いやつを倒すことだからだ。だから俺はここ数日で名だたる剣士や闘士を叩きのめした。昨日は世間でダークホースと噂されていた探偵気取りのガキも殴ってやったよ。おかげで俺の噂は街中に流れることになった。そして最後の仕上げがお前だ、スピン」
「だからなんで俺なんだよ…?」
「お前は現役を引退したが、犯人に疑われるほどの実力の持ち主だ。すでにブレイクダークの仲間たちに命令して俺とお前が戦い、俺が勝ったという情報を流してある。これで戦闘狂の犯人は次に俺を狙うはずだ。犯人がここに来るかどうかまでは分からないが、まあ分の良い賭けのようなものさ。
 その間、お前にはここにいてもらう。お前がのうのうと街中を歩いていたら噂を流した意味が無くなるからな」
 スピンは縄から抵抗することを止めた。
「お前は、俺が犯人だってことは疑わないんだな」
「ああ。なぜならお前は弱いからな」
 その言葉でスピンは歯を食いしばって肩を震わせるが、すぐにまた脱力して落ち込む。ドラグマの言葉が真実であることはスピン自身がよく分かっている。
「……分かっていたさ。フィールド殺しの容疑が掛けられたとき、心のどこかで喜ぶ自分がいたんだ。もしかしたら本当に自分が殺したんじゃないかってさ。……もしかしたら、俺はまだ強いんじゃないかって」
 ドラグマは目を細め、黙ってスピンの話を聞く。
「仲間を巻き添えで殺してしまったあの日から、俺は思うように魔法を使えないようになった。俺だってアイツのために戦い続けようとしたんだ。
でもどうしても……炎の中で苦しみながら俺に手を伸ばしたアイツの姿が目に焼き付いて、焼き付いて焼き付いて焼き付いて…………」
こうしているだけでも断末魔が頭の中で木霊する。その叫び声が恨みだったのか、気にするなと言いたかったのか、いずれにせよ生きたいと願っていたことは間違いなかった。
 気がつけばスピンは瞳から大粒の涙を流していた。。リビングには嗚咽の声が響き、ドラグマは唇を真一文字に結んでいる。
「最低だよな……。俺は人を殺して後悔したのに、今度は人を殺したことを期待するなんて……」
「……全くだよ」
 ドラグマがスピンにかける慰めの言葉はなかった。だが非情というわけではない。ただスピンが背負った業は見ず知らずのドラグマが簡単に軽くするべきではないと、そう判断したのだ。
「……でも良かったよ。犯人でないとハッキリ言ってくれたおかげで、在りもしない自白をする必要がないと分かったからな」
「自白? いったい何の話だ?」
 ドラグマの質問にスピンが答えようとした瞬間、キイィィと甲高い金属音がした。建付けの悪い玄関の扉の音だ。
 瞬時にドラグマは剣を構え、人差し指を口に当ててスピンに黙るよう指示する。スピンも事情を察し、無言で頷く。
 ギシギシと足音は近づき、緊迫感とともにドラグマの剣を握る手にも力が入る。
 そして、ゆっくりとリビングの両開きの扉が開かれた。そこに立つ人物を見て、ドラグマはため息をついた。
「なんだ、お前かよ」
 現れたのは制服姿のトルバだった。一度だけ会っただけではあるが、ドラグマは安心して構えた剣を下げた。
 トルバはまっすぐドラグマを見て、その手前で縛られているスピンへと目線を移す。スピンは体をねじってトルバを見ると、みるみる顔色が青ざめていく。
「あ、あ……」
 怯えるスピンにトルバは何も言わず一歩ずつ近づいていく。
「おいおい、待てよ」
 ドラグマが間に割って入る。
「こいつはいま俺の罠の大事な餌なんだ。お前たち衛兵がこいつを犯人だって疑っているのは分かっているが、あと少しだけ待ってくれれば俺が真犯人を捕まえてやる」
 トルバは黙ってスピンを睨みつける。ドラグマは面倒くさそうに振り返り、スピンにも言い聞かせる。
「お前もそんな怯えていたら犯人に間違えられるだろ」
「……だって、ソイツは俺に……」
「下がっていろ」
 ドラグマを押しのけ、トルバはスピンの襟首をつかんだ。
「おい、人の話を聞けよ」
 ドラグマはそのトルバの腕をつかむ。下手をすれば骨を折るような力強い握力だ。
「……お前は、」
 トルバは自身の腕を掴むドラグマの手と服装を見た。そして口角を上げて笑う。
「そうか……ちょうどいいな」
 トルバはスピンの襟首から手を離すと、その手を返して逆にドラグマの腕を掴み取った。そして反対の手でドラグマの顔に拳を放つ。
 ドラグマは間一髪で避け、トルバの腕めがけて足を蹴り上げる。トルバはドラグマの腕から手を離し、蹴りを躱した。
 二人はちょうどお互いの間合いに入らないように後方に飛びのく。
「……どうしてもスピンを連れて行くというなら、悪いがお前には骨の一本や二本失ってもらう覚悟になるぞ」
「別に俺は構わないさ」
 トルバに脅しが効かないことは最初に腕を掴んだ時点で察しがついていた。ドラグマは剣を構え、エースの時とは違って最初から全力を出す。
「……悪いな」
 剣を前に構え、マナを集中させる。
「『エクロフ・アレット』!」
 全く同時にトルバも呪文を唱える。
「『エディシウス』」
 二つの魔法が交錯する。そして次の瞬間、ドラクマが膝をついていた。地面についた両手は必死に力を入れている。
「これは……!」
 もはや言葉すら出る状況ではない。ドラクマの身体は重力の負荷が加算され、今にも押しつぶされそうになっていた。耐えれば耐えようとするほど肉体、特に骨へのダメージは大きくなる。
 ビキ、とドラグマは右腕の骨にヒビが入る音を聞いた。
 全く身動きの取れないドラクマにトルバがゆっくりと近づく。その手には衛兵専用の剣が握られている。剣は高く振り上げられ、鋭い剣先がまっすぐドラクマの背中めがけて振り下ろされた。
(まずい……!)
 重ねて呪文を唱えようにも声がうまく発声できない。ドラクマは思わず目を瞑った。
「トルバ!」
 そのとき、トルバを呼ぶ声が響く。
 トルバは声のする方を振り向き、ドラグマも目を開けて見る。
そこには両手をポケットに入れて堂々と仁王立ちをするエースがいた。
 「なぜ」。トルバがその言葉を言うよりも早く、エースが叫ぶ。
「エタノテッド!」
 エースは拳を前に突き出しながら手のひらを開いた。反射的にトルバは呪文を唱えた。
「『エディシウス』!」 
 しかし、エースの開いた手のひらからは魔法ではなく小さな小瓶が投げられた。小瓶はトルバの足元に当たると、激しい爆発を起こした。
 小さな爆発だが、目の前で爆発されてはひとたまりもない。
 トルバは爆風で壁に叩きつけられた。火傷はしていないが、制服は無残に焼け焦げている。
「やはり、君の魔法は”魔法にだけ効く魔法”か」
 煙幕の向こう側でエースはそう告げた。
「残念だったな。今僕が使ったのは魔法ではなく、ディウキル・ニレシルゴルティン、またの名をニトログリセリンだ」
 煙が晴れると、そこにはエースのほかにフェレスとストレインがいた。ストレインはトルバを睨みつけている。その目がもはや部下を見る上司の目でないことはトルバも気づく。
「トルバ!」
 ストレインが怒号を上げた。
「お前を勇者連続殺人犯の犯人として……逮捕する」




 壁にもたれかかるトルバはストレインとエースを睨みつける。その目は黒く淀んでいた。ストレインはその目に思わず顔を歪ませる。
 トルバの目線がリビングの奥へと向けられる。そこには先日スピンが逃げ出した窓があった。
 トルバは立ち上がり、窓に向かって走り出す。
「フェレス!」
 エースに呼ばれるよりも早くフェレスが右手をトルバに向かって差し出した。
「『エゾルフ』!」
 トルバは窓を開け体を乗り出したが、窓の外から押し出すように現れた氷によって阻まれた。トルバは両手を下げ、振り向いた。
 ドラグマはすでに魔法が切れて立ち上がっており、スピンは拘束が解かれている。五人の人間がトルバを追い詰める。
「……俺は犯人じゃない」
「まあ落ち着けよ」
 エースは一歩前に出た。
「ストレインにも詳しくは説明していないし、ドラグマもスピンも何が起こっているのか分からないだろう。だから順を追って話すよ」
 皆がエースに注目する。
「まずはつい先日起きた事件、フィールドの殺人方法についてだ。中にはあのフィールドの遺体が偽物だと思っていたやつもいたみたいだが……」
 エースは隣のフェレスを見る。フェレスは恥ずかしそうにそっぽを向く。
「あれは間違いなく本物だ。確かにフィールドは無敵にも近い防御力を持っていたが、厳密には無敵ではない。フェレス、条件を分かりやすく教えてやれ」
 フェレスは切り替えて話を始める。
「限りなく無敵になるには、二つだけ方法があるわ。一つは敢えて弱点を作る方法。マナは外からの攻撃に対して反射的に防ぐようになっていて、要するに全属性耐久が50の状態よ。でも一属性に対する防御力が0やマイナスになるようにすることで、他の属性の耐久を100にすることができるわ」
「待ってくれ、フェレス。マナを意図的に操作するなんてことができるのか?」
 ストレインが質問をする。
「ええ。ただこれはほとんど天性の才能よ。完全制御型といって三百万人に一人の確立ね」
 フェレスの知識にドラグマやスピンは舌を巻く。
「もう一つの方法が条件を満たした場合のみに全属性に対する耐性が発動する方法。例えば太陽が昇っている時だけ、例えば目が覚めてから一時間の間だけ、例えば他人が放った魔法に対してだけ。こういった条件を設けることで全属性の耐性がつくけど、条件以外では防御力がすべて0に近くなってしまう方法よ」
 エースが続く。
「フィールドは雷属性を得意とする勇者だが、このどちらかを使ったのかは分からない。フィールドは雷を操る天界龍の討伐依頼だけを断っていたから前者ということも考えられるが、焼け焦げた死体はゴムのような絶縁体が組み込まれていた。自分の魔法に対する耐性がなかったから、後者の可能性だってある。
 だがどちらにせよ、スピンが犯人でないことは確かだ。フィールドは過去の依頼で炎の中を平然と歩いていたそうだから、火に対する耐性は間違いなく持っていた。それに、前者であろうと後者であろうとそんなこと君には関係ないだろ」
 エースの相貌がトルバを見据えた。
「君の魔法は相手の魔法を跳ね返す力。さっきのドラグマの魔法を跳ね返したみたいにな。そうだろ、ドラグマ」
「あ、ああ……たしかに俺がさっきかけられた魔法は俺がトルバにかけようとした『エクロフ・アレット』。対象にかかる重さを加算する魔法だ」
「ドラグマにやったように君はフィールドの魔法を跳ね返した。だからフィールドの防御がどっちでも構わないんだよ。雷属性を弱点にしていても、他人からの魔法に対して耐性をつけていようとも自分の魔法なんだから結局は無敵の盾は破られる羽目になる」
 トルバは黙ったまま何も言わない。ストレインは誰にも聞こえないように、「何とか言ってくれよ」とつぶやいた。
「さて、ここまでで何か質問はあるか?」
 エースからトルバに質問をする。
「そうだな……じゃあ、どうしてお前は僕の魔法を見破ったんだ?」
「決め手はさっきストレインから直接教えてもらったが、最初におかしいと思ったのは君のマナを見た時だよ。僕は生まれつき他人のマナを色付きで見ることができるんだが、君のマナは黒色だった。黒はどの属性にも属さない特殊なマナだったからな」
 エースは虫眼鏡で見たことを自分の特殊体質ということで騙し通す。しかし、完全制御型の天才にすべての魔法を跳ね返す魔法。このラインナップではマナを色別で見れる体質という嘘も霞んで誰も疑うことはしなかった。
「色付きで見れる目か……本当にお前は厄介な男だよ」
 トルバの態度にストレインは拳を強く握る。今にも掴みかかりそうになる衝動を抑えながら、ストレインはエースに尋ねた。
「なら……他の殺人事件はどうなんだ」
「そうだったな。フィールドの事件とは違って他の殺人事件は背後から鋭利な刃物によって殺されたものだった。パレスもブレイクダークの裏メンバーたちも右腰辺りから心臓を貫かれたのだろう
 だがここで疑問がある。どうやって勇者に匹敵する彼らの背後を取り、一撃で命を奪ったのか。特にブレイクダークの一人は仲間の敵を討とうと常に臨戦態勢に入っていた、だろ?」
「……ああ。アイツが闇討ちなんかにやられるわけがない」
 ドラグマは強く答えた。
「だがそれを可能にできる職種が一つだけ存在する。それが衛兵だ。
 衛兵には特権であるんだろ。街中を歩く人を無造作に捕まえ、壁に手を付けさせる職務質問が。殺されたブレイクダークのメンバーは全員、表立って行動はできない裏の人間たちだ。衛兵に呼び止められてはどれほど殺気立っていようとも目立つわけにはいかない。
 彼らは夜中に呼び止められ、無抵抗で壁に手をついた。そしてその衛兵全員に支給されている剣を抜き、無防備な背中から心臓へと貫いたんだろ」
 エースはストレインが若者に壁に手を付けさせ、職務質問をしている時にこの可能性に気づいていた。
 トルバはエースを睨みつけて答える。
「俺はブレイクダークの奴らが殺されたときはまだ城内に務めていたんだぞ」
「それならストレインが調べてくれたよ」
 エースはストレインに向き直り、手を差し伸べた。ストレインはその手から目を背ける。
「……現実から逃げるな、ストレイン」
 低い声でエースに諭される。そして覚悟を決め、エースに封筒を渡した。
 エースは中から二つの束になった資料を取り出した。
「片方がブレイクダークのメンバーが殺された報告書。そしてもう一つが、お前が休暇を使って城内とスカル街の関所を通った履歴だ」
 エースはそれを机の上に置く。
「ドラグマ、見てみろ」
 言われてドラグマは報告書と履歴を見比べる。
「日にちが同じだ。アイツらが殺された日、お前もこのスカル街にいたのか……?」
 その問いにトルバは答えない。
「おい、答えろよ!」
 ドラグマは折れた右腕で殴ろうと振りかぶる。ストレインが慌てて肩を掴み、押さえ込んだ。
「離せ! コイツだけは……コイツだけは許しちゃおけねえ!」
「まだ早いぞ、ドラグマ」
 激高するドラグマに対し、エースは冷静に対応する。
「まだ僕たちはトルバから自白を聞いていない。すべての証拠を示してやるから、もう少し待つんだ」
 エースはトルバをまっすぐ見つめる。
「続けてもいいか?」
「……」
 トルバは何も言わなかった。沈黙は肯定ととらえ、エースは話を続ける。
「そもそもこの事件が大事になったのは勇者パレスが殺されたことが始まりだ。パレスほどの実力者を殺せる犯人がこのスカル街にいるとされたが、実際はパレスの実力はそれほど大したものじゃなかった。
 フィールドが断った天界龍を倒したことでパレスは有名になった。しかし、彼のパーティーメンバーが言っていたよ。パレスは天界龍の攻撃をもろともしなかったが、酔っぱらった勢いで名前も知らないような客と殴り合いになり、血まみれになったとね。
 不屈のパレスとはよく呼ばれたものだよ。実際パレスは直接肉体に加えられる物理攻撃に関しては何の耐性も持っていなかったんだ」
「さっきのフィールドの話しと似たような話ね。つまりパレスは電気に対する耐性は持っていたけど、物理攻撃に対する耐性は全く持っていなかった」
「そういうことだ。彼の筋骨隆々な身体から腕っ節も強いと思われたんだろうが、天界龍を仕留めた時も物理攻撃を食らう前に一撃で仕留めていたから誰も気づかなかったんだ。
 それに彼は魔獣の討伐依頼ばかりを受注していた。パーティーメンバーでさえ気づかないはずだよ。
 ……ここからは推測だが、この秘密にフィールドだけは気づいていたはずだ。だから犯人が物理攻撃の強い相手だと思い、僕に協力を申し込んだんだ。最初から全力の一撃を与えれば倒せるという勝機があったからな」
「……だけど、実際パレスを殺したのは衛兵の特権を使った不意打ちで、本当の能力は相手の魔法をそのまま跳ね返す技だったってことね」
「そういうことだ」
 エースとフェレスが掛け合いがトルバを追い詰める。
「つまり君が勇者レベルの相手を殺せたのは衛兵の立場を利用したことも関係しているが、相性と運が良かっただけにすぎない」
 エースは続ける。
「そしてフィールドを殺した後に君が取った行動は偽の犯人をでっちあげることだ。その候補になったのがここにいるスピンだ。
スピン、先日僕たちがこの家に来た時に君はひどく怯えていたが、トルバに何か言われたんじゃないか?」
 スピンはトルバを一瞥すると、エースに向かって首を縦に振った。
「ああ。剣を向けられて、罪を自白する遺書を書けと言われた……」
 エースは苦渋の表情をするストレインを尻目に見た。
「だと思ったよ。トルバは僕に決定的証拠を持ってくると言っていたが、本人の自白ほど決定的なものはないからな。さらに筆跡も本人のものだと認められれば城内でリベラストアとかいう天秤に掛けられて嘘かどうかを見破られることもない。……いや、もしかしたら自白だけとらせてスピンを殺すつもりだったんじゃないか?」
 トルバは黙ったまま、何も答えない。
エースは一歩近づいた。
「どうだ。僕は決定的証拠を見つけたぞ。何か言うことはないのか?」
 ゆっくりと、トルバは顔を上げた。この数分で顔はひどくやつれているように見える。
「……俺はやっていない。俺は誰も殺してなんていない」
 その声はひどく掠れていた。
「俺じゃない、俺じゃないんだ。殺せって頭の中で声がしたんだよ……」
 その言葉にドラグマが拳を握る。ストレインの制止も振り払い、血走った目でトルバへの恨みをむき出しにする。
「もういい……。罪を認めないっていうならこの俺が直々に殺してやる」
 エースを押しのけ、ドラグマが拳を振りかぶった。
「おい、待つんだドラグマ!」
「そんなことをしても仲間は帰ってこないぞ!」
 ストレインやエースが呼び止めようとしてもドラグマは聞く耳を持たなかった。二人は慌てて間に割り込む。
「どけ、俺は往生際が悪い奴が大嫌いなんだよ」
全員の注意がトルバからドラグマへと写る。そのため、誰もトルバの前髪の奥にある眼が怪しく光ったことに気づかなかった。白い歯を覗かせて不気味に笑う。
「望むところだ」
 トルバはいきなり立ち上がり、ドラグマの喉元に掴みかかった。さっきまでの消沈した様子とは違い、身体中の血を沸き立たせているような狂気に満ちていた。
「ぐ……あっ……!」
 突然のトルバの変容にドラグマは意表を突かれる。周りも目の前の光景に頭がついていけていない。
「止めろトルバ!」
 ストレインが手を伸ばすが、トルバが鋭い形相で睨み付ける。
「近づくな! 近づけばコイツの首を一瞬にしてへし折るぞ!」
 狂気に近い変貌にフェレスも魔法を使うことを忘れてしまっていた。
 トルバは瞳孔を開き、必死にトルバの腕を抑えて苦悶の表情を浮かべるドラグマを舐るように見る。
「……この表情だよ。俺が見たかったのはこの表情だ」
 ドラグマはトルバの瞳に深い闇を見た。
(……違う!)
 ここでドラグマは自分の間違いに気づいた。
(コイツは戦闘狂なんてものじゃない……! ただ自分よりも強い人間が許されない、絶対的捕食者!)
「力を信じ生きてきたやつらが力によって屈するこの瞬間! 背中を刺された奴等も最後まで惨めだったよ! 這いつくばってでも逃げる奴、助けを乞う奴、仇を取るために剣を抜いた奴、全部大バカ野郎だよなあ! だから言ってやったよ! 俺に殺されるために生まれてきてくれてありがとうってな!」
 ヒャハハハハハハハハハハハハ。
 トルバの高笑いが部屋全体に響き渡る。しかし、その笑い声は最後まで続くことなく突如途切れた。
 エースの右腕がトルバの首元に伸びている。その手にはペンのような細い筒状のものが握られていた。
トルバは、ゆっくりとエースの方を向く。
「もう終わりだ」
 エースは小さくつぶやいた。
「この世界にお前の居場所はない」
 そう言って右腕をトルバの首元から話した。細い筒状の先端には注射針が付いており、微量だが液体が垂れている。
 トルバは白目をむき、膝から崩れ落ちた。ドラグマも首絞めから解放され、咳き込みながらも呼吸をしていた。
「ストレイン、聞いただろ」
 エースは部屋の隅でおとなしくしているストレインを冷ややか口調で呼ぶ。
「トルバはさっき背中を刺して殺したと認めた。今は薬で気絶しているが、すぐにでも彼は気を取り戻すぞ」
 ストレインは黙ったまま何も言わない。
「……ストレイン。覚悟を決めろ」
 そこにドラグマが割って入った。
「おい。俺はコイツに殺されかけ、大切な仲間は殺されたんだ。お前が捕まえないっていうなら、それは暗に私刑に処してもいいってことか?」
 苦しそうにしながらもドラグマの目にはまだ殺意が宿っていた。
「……ダメだ」
 ストレインは一歩踏み出し、腰から鞭を取り出した。そして『トセラ』と呪文を唱える。鞭は伸び、トルバの両腕を縛り付ける。
 そして優しく、トルバを抱え上げた。
「……通してくれ」
 フェレスやドラグマが道を開け、ストレインはトルバを抱えたままゆっくりとその間を縫って歩いていく。ゆっくりと、エースの前を横切った。
「協力、感謝する」
 誰とも目を合わせず、ストレインは家から出て行った。
 リビングには憂鬱とした空気が流れる。しかし外から聞こえてくる喧騒は騒がしく、城内からは11時を示す鐘が鳴り響いた。
 こうして時間は進んでいるというのに、幕切れは怒らない。犯人を恨んでいたドラグマも、脅されていたスピンも気づいていたのだ。どうも煮え切れないことを。そこには何も救いがないことを。
 そしてその無常を認められないでいた。しかし、たった一人だけ、その言葉を告げて最後を創る。
「事件、解決ね」
 フェレスの言葉で勇者連続殺人事件は幕を閉じた。
最終章 ハサルシャムと真実
 
 翌日、フェレスとエースはバウンティセントラルにやってきていた。いつも露店が並んでいるバウンティセントラルの正面入り口には露店の代わりに多くの人だかりができている。
 二人は人だかりから少し離れた場所で待っていた。
 やがてバウンティセントラルから四頭の馬が大きな台車を引いて現れた。台車は神輿のように金や銀で装飾され、中心には結晶漬けにされたパレスが眠っていた。
「それにしても、よく城内の衛兵本部がこんな催し事を率先して行ってくれたわね」
「これもスカル街の住民たちを鎮めるためのパフォーマンスだと思えば納得だろ。結局パレスは本調子でないにも関わらず悪党と最後まで戦ったという誉を与えられたんだからな」
「事実とは違うけど、それで住民たちが納得するなら私たちが口出しすることではないわね」
 パレスを見送る市民たちは皆拍手で送っているが、中には涙を流しながらも必死に笑顔を作ろうとする人もいる。この街における勇者がいかに偉大な存在だったのかをエースは再認識した。
「ただフィールドの遺体が生前の姿を保っていないのは残念ね。フィールドだってこうして盛大なお葬式で見送られるべきだもの」
「それならおそらく大丈夫だろう」
 エースはフェレスト目を合わせるために首を少しだけかしげる。
「以前俺たちが捕まえたクワトロって男を覚えているだろ。自分の死体を偽造した男だ。彼にフィールドの遺体を偽造させることで形上の式をするつもりらしい」
「それホント?」
「噂だけどな」
「……またドラグマが嘘を流してるんじゃないの?」
 エースは鼻で笑った。
「あ、いたいた!」
 人ごみを抜け、エースの元へと二人の男女が駆け寄る。パレスのパーティーメンバーのリーアとウルクだ。
 エースとフェレスは思わず顔を背ける。以前会った時は二人とも変装をしており、パレスの元仲間として情報を聞き出していた。
「ちょっと、どうするの!」
 フェレスは小声でエースに訴える。こればかりはエースも予想していない展開だった。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。貴方たちが探偵だっていうことはもう知っていますから」
 ウルクは優しく二人に言葉をかけた。
「え?」
「ホラ、貴方たちブレイクダークの人たちをあっという間に倒したり、幹部の人と凄い喧嘩をしていたでしょ? 私たち、あの場所にいたのよ。気づかなかった?」
 ブレイクダークの手下たちを倒したときフェレスはいなかったが、どちらも観衆の一人一人に気を配る暇などなかった。
「……騙していたことは謝る。だが、ああでもしなければ実のある情報を得られなかったからだと理解してほしい」
「ホントそうよ。私たちパレスの元メンバーって聞いてすごく喜んでたんだからね!」
 そう言ったリーアは笑っていた。
「そうですね。騙されたことはちょっと怒っています」
(ちょっとなんだ……)
 フェレスはウルクの寛容さに驚き半分呆れていた。
「でも今回はお礼を言いに来たんですよ」
 ウルクは自分たちが首に掛けているペンダントと、水晶の中でパレスが首元からかけているペンダントを指さした。
「あれは僕たちのパーティーがつけていたエンブレムなんです。パレスの所持品として衛兵に押収されてしまったと思っていたんですが、貴方がパレスにかけてくれたんですよね」
「さっき衛兵の人に聞いたら最初からつけていたって言ったのよ。おかしいでしょ? パレスが水晶漬けにされた後でペンダントを渡したのに、これって誰かがわざわざ安置所にまで行ってペンダントを掛けてくれたのよ」
「正直衛兵がそんな気の利くようなことをしたとは思えないので、僕たちはおそらく、貴方じゃないかって考えたんです」
 エースは水晶を見ながら笑い声を漏らした。
「面白い発想力だ。君たちは賞金首より物書きを目指した方がいいんじゃないか?」
 フェレスはエースを呆れるように見上げた。リーアとウルクは顔を見合わせ、笑みを浮かべる。
「そうですね。じゃあパレスの英雄譚でも書きますよ」
 清々しく、爽やかにウルクは笑った。
 パレスを乗せた荷台はゆっくりと大通りの角へと差し掛かる。もう四人の位置からでは見ることはできない。
「じゃあ、僕たちはこれで」
「ありがとうございました」
 二人は深々とお辞儀をして、パレスを追うように走って行った。
 フェレスはエースの裾を引っ張る。
「それで? 本当のところはどうなの?」
「……少し考えたんだよ。押収されてもペンダントはいずれあの二人の元に戻る。そのとき彼らは再びパレスの死を実感するだろうし、一つだけペンダントが誰の首にも掛けられないのはいかがなものかと思っただけだ。三人が同じエンパレスのブレムのペンダントをつけていたのはあの二人と出会ったときに気づいたからな」
 エースはリーアとウルクに会った後、衛兵署からパレスのペンダントをこっそり盗みだし、遺体を確認したついでに首から掛けておいたのだ。
「へえ~。アンタなりに結構考えてるじゃない」
「ただ衛兵には証拠品の扱いがお粗末だって言う必要があるな」
 そう言ってエースは踵を返し、バウンティセントラルを後にした。


 ノドル大聖堂は国王も礼拝に来るほど高名な寺院で、毎年城内の人たちも参加する行事も行っている。しかし神父の意向で寺院自体は城内ではなくスカル街に属していた。国王は何度も城壁を伸ばしてノドル大聖堂を城内に入れることを打診していたが、神父がそれを頑なに断ったのだ。
 理由は城内で豊かな生活を送っている人々よりもスカル街に生きる人々のほうが寺院を求めているとのことだった。
 そしてその神父のおかげでドラグマは今日もこうしてノドル大聖堂の霊園に足を運ぶことができている。
「隠居している身としては、ありがたいねえ。神父のような博愛主義の権力者が増えればこの国も安泰だろうに」
 カーレインもまた、ドラグマと共に霊園に訪れていた。
 元より二人とも普段から黒色をコーデにした服装をしているが、今日はフォーマットな喪に服したデザインの服を着ていた。カーレインは花束を持っており、ドラグマは後ろからカーレインに日傘をさしている。
 二人は霊園の端にある墓まで行った。そこには新しい墓石が置かれており、研磨された輝きを放っている。
「あら……随分とかっこよくなったわね」
 カーレインは膝をつき、花束を添えた。
「それに、名前も入りました」
 墓石には五人の名前が書かれている。
ドラグマは地面に膝をつき、その文字を指でなぞった。
「……安らかに眠ってくれ」
 二人は黙祷をする。街から外れた霊園は静かで、小鳥のさえずりがよく聞こえてくる。
 黙祷を終えたのを見計らい、二人のもとに足音が近づいてきた。
「名前は刻めたのか?」
 ドラグマが振り返ると、エースとフェレスがいた。
「ああ。これでコイツらもようやく弔えたよ」
 エースはドラグマの腕を見る。
「腕はもういいのか?」
「俺たちのパーティーには腕の立つ魔法使いが大勢いるからな。治癒魔法だって一級品だよ」
「よかったら貴方も見てもらいなさい。聞いたわよ、ドラグマに容赦なく殴り倒されたんだって?」
 エースは乾いた笑いで返す。
「それなら大丈夫だ。僕もドラグマの狙いが分かって倒された演技をしていただけだからな」
「言うじゃねえか。何なら今ここで再戦してもいいんだぜ」
 ドラグマは不敵に笑う。
「いいわね。ここなら負けた方はすぐに埋葬してくれるわよ」
 カーレインは冗談を良いながらパイプを咥え、ドラグマから日傘を受け取る。
「ドラグマ、私は神父と話をしてくるから貴方は探偵さんと少し話をしてなさい。それと探偵さん、貴方には心から感謝しているわ」
 エースはカーレインの差し出した手と固い握手を交わした。
「じゃあね、お嬢ちゃん」
 そしてフェレスの頭を軽く撫で、カーレインは教会の方へと向かった。
 フェレスは嫌そうに撫でられた頭を抑える。
「……エース。俺からも礼を言わせてくれ。お前のおかげで俺もボスも仲間にちゃんと別れを告げることができた。本当に、ありがとう」
「僕も君には感謝しているよ。君は殺したいほど恨んでいるはずのトルバを自ら断罪しなかった。ストレインやトルバ自身のことを考えると、君の判断は彼らの救いになったはずだ」
 ドラグマは首を横に振った。
「それは違う。俺は今でもアイツを殺さなかったことを後悔しているし、もし逆の判断をしても俺は後悔をしていただろう。相手のことなんてこれっぽっちも考えていなかったんだ」
「それでも結果は君のおかげだ。君はそれを誇っていい」
 エースの力強い説得にドラグマは鼻をこすって照れ笑いを浮かべる。
「それに聞いたわよ。今度からアンタとスピンがパーティーを組むんでしょ?」
「……知っていたのか。
スピンは今回の事件を契機に賞金首として復帰する覚悟ができたらしくてな。俺も派手に暴れてしまったせいで表舞台に立つ羽目になったから、この際一緒に組もうっていう話になったんだ」
「いいじゃない。スピンもアンタなら気兼ねなく高威力の魔法を使えるようになるでしょ」
 ドラグマは満足気に頷いた。
「そうなることを願っているよ」
「それもまた、君が導いた結果だよ」
 エースはドラグマに右手を差しだした。
「君のパーティーはあまりいい噂を聞かないが、君個人には感謝と敬意を示そう」
 ドラグマは差し伸ばされたエースの手を見て、鼻で笑うとその手を払った。
「俺を懐柔しようとしてもそうはいかない。お前と決着をつけない限り、お前と握手はしないことにするさ」
 そう言って拳を突き出した。エースも笑みを浮かべ、お互い拳をぶつける。
「じゃあ僕はいくよ。まだ寄るところがあるんでね」
 エースは別れを告げ、フェレスとともに踵を返して歩き出した。ドラグマは何も言わぬまま二人が去っていくのを見つめていた。
「……ちなみに、ドラグマとの戦いは本気じゃなかったの?」
「想像に任せるよ」
 フェレスはおかしそうに笑う。

 
「♪~、~」
 机に置いたギターを指で弾きながらストレインは鼻歌を歌っていた。しかし鼻歌にしてはトーンが低く、バラードのように哀しげだ。
「ご機嫌だな」
 振り返るとエースが扉の前に一人で立っていた。
「そう見えるか?」
 ストレインは胸ポケットから小さな酒瓶を取り出して喉に流し込んだ。顔も赤く火照っている。
 部屋の中は綺麗に掃除されており、荷物は木箱の中に纏められていた。その木箱には『トルバ』と書かれている。おそらくストレインが弾いていたギターもトルバの物なのだろう。
「禁酒は止めたのか」
「止めねえよ。酒飲みが休肝日を作るように、禁酒しててもどこかで飲酒日を作らなきゃいけないんだよ」
 そう言って酒瓶をエースに向けた。
「……やめとくよ。僕は未成年だ」
「そうか……。不憫なもんだな。辛いことがあっても気を紛らわせることができないなんてよ」
「若いうちから逃げるを選択肢に入れるようじゃロクな大人にはならないからな」
 ははは、と乾いた笑いでストレインは応えた。
「……俺は昔から逃げ続けたから何も言えねえな。確かに俺はロクな大人じゃない。部下一人止められなかった案山子みてえな男だよ」
 エースはその言葉を否定も肯定もしなかった。ストレインは胸中の吐露を続ける。
「トルバのことは昔から知っている。どこまでも熱く、必死な奴だったよ。誰よりもこの街を愛していた。あいつはこの街の……救世主になるはずだったんだ」
 ストレインの手から酒瓶が落ちる。残りわずかだった酒はマットに小さなシミを作った。
「なのにどうして……どうして人殺しなんてしちまったんだよ! どうして俺は気づけなかったんだよ! どうして俺は……!」
 皴の刻まれた目元から大粒の涙が零れ落ちた。一緒にストレインも崩れ落ち、膝をつく。
「……正直言うと、俺はお前を責めたい。……どうしてトルバが犯人だなんて言ったんだ。スピンを犯人にしておけば、万事うまくいったんじゃないのか?」
「……今のは聞かなかったことにしてやる。今のは酒の勢いで言った世迷言だ」
「違う。俺は素面だよ」
 エースは深いため息をついた。
「あいつは……自分がやったんじゃないって言っていた。頭の中で声がしたんだって。真犯人は別にいるはずなんだ。どこかに精神系の魔法を使える奴が……」
「もうあきらめろ」
 ストレインを見下ろし、はっきりと告げる。
「トルバにも葛藤はあったはずだ。だが彼は自首ではなく、犯人を偽装することを選んだ。その時点で彼は犯罪者だ。君たちが裁くべき悪だろ」
 ストレインは何も言うことはできず、強く歯を食いしばって床に拳をたたき付けた。
「……また事件が起きれば僕の元へ来い。君の頼みならどんな事件だって請け負ってやる」
 エースは踵を返して部屋から出て行った。後ろからは男の悲しげな怒号が響き渡るが、決して振り返ることはできない。
「可哀そうね」
 階段で座ったまま待っていたフェレスが独り言のようにつぶやいた。
「ストレインはアンタやトルバ、そして自分自身も許すことができない。かといって強く責めることもできない。全部仕方がないって諦めるほかないもの」
「……時間に解決してもらうしかないだろ」
「悲しいけどその通りね……。ちなみに名探偵さんからすれば、ストレインの精神系の魔法という見解はどうなの?」
「夢物語だな……。殺人の動機はトルバの内なる衝動だ。精神系の魔法が掛けられた痕跡がないことは虫眼鏡を見れば分かったよ」
 そして二人は帰路についた。
 

 獄中、トルバは地べたに座ったまままったく動かなかった。運ばれた食事にも手を付けず、ただただ裁判の日を待っている。裁判といっても最高裁判官から死刑を言い渡されるだけの国民へのショーのようなものだ。わざわざ天秤を使われるようなこともない。
 空腹で水も飲んでいないトルバの視界はすでに霞んでおり、過去を断片的に思い出していた。

 エースとともにブレイクダークのボスに会いに行き、ドラグマが30件の報告書から5つの事件を取り上げた。トルバは報告書の日付を見た瞬間、頭に嫌な考えがよぎった。
『なんだよ。もう気づいちまったのか』
 そして頭の中で誰かが囁いた。トルバの声ではない、誰かだった。
『まあこっちの世界に来てから二年近くたったからな。いずれバレるのは覚悟していたさ。それよりお前に言っておかなくちゃいけねえな。パレスとかいう勇者を殺したのも、その紙に書かれた五人を殺したのも、全部お前だぜ』

 ひとまずエースと別れ、トルバは衛兵署に戻った。
『だから全部お前が殺したんだよ。正確には俺がお前の身体を借りたわけだが、それでもお前が殺したことにかわりはないだろ?』
「……でも俺の意思じゃない。悪いのはお前だ。いいから俺の頭から出て行けよ……!」
『そうだな……。お前にもバレちまったし、俺の欲望に協力してくれたら出て行ってもいいぜ』
「欲望?」
『分かるだろ、人殺しだよ。相手が強い人間であればあるほどいい』
 トルバはカレンダーを見る。審判の日は一週間もない。
「分かった……。一週間で終わらせる。だからその時は記憶ごとどこかへ行ってくれ」
『ああ。約束だ』

『ハハッ! やるじゃねえか!』
 黒焦げになったフィールドの死体を見て頭の声は歓喜した。
「殺したぞ……もうこれで十分だろ」
『いいやまだだね。もっとふんぞり返った奴らをボコボコに屠り足りねえよ』
「お前……!」
 そこに足音が近づき、トルバは急いで逃げ出した。
「待て!」
 声だけでそれがエースだと気づいた。足音は徐々に近づき、もうすぐ後ろまで近づいてくる。
 しかし、さっきまで勢いよく走っていたエースは急に地面に倒れた。
『なんだコイツ?』
 トルバは足を止めてエースに駆け寄った。息はしているが、意識はないようだ。
『ちょうどいい。おいトルバ、ちょっと身体を借りるぞ。コイツは俺が殺してやる』
「待て! コイツは俺の知り合いだぞ!」
『だからなんだよ。コイツに顔を見られたかもしれないんだぞ?』
「……大丈夫だ。あの暗がりだと俺の顔は見ていない。それにコイツが気を取り戻すまでに偽の犯人をでっち上げるよ」

 トルバは家から逃げたスピンを追って街を散策していた。
『もういいだろトルバ。俺はあんなザコ殺してもどうしようもねえよ。それより最近黒い毛皮のコートを着た男が暴れまわってるそうだぜ。なあ、今度はそいつを殺そうぜ』
「そいつは後だ。とにかく今はスピンに罪を着せるしかない」
 切羽詰まりながらトルバは街中を走りまわる。
『まあどっちでもいいけどよ。どうせ捕まって困るのはお前なんだからな』
 眼には見えない存在にトルバは歯ぎしりをする。
「お前の罪を被ってたまるかよ。遺書を書かせた後スピンを殺し、その毛皮の男を殺す。そうしたら今度こそ俺の頭から出て行ってくれ」
『もちろん。これは約束だ』
 
 罪を問い詰められ、トルバは完全に脱力した。これまで毎日鍛えぬいた身体は重りのように邪魔で自分のものではないようだった。
「俺じゃないんだ。殺せって頭の中で声がしたんだよ……」
 その告白も届くことはなく、その言葉でドラグマが怒りが爆発する。
『無駄だな。頭の中で声がする? 俺が言うのもなんだが、それは悪魔の照明のようなものだ。まあ俺は悪魔というよりも神に近い存在かもしれんがな』
(……)
 冗談めかした声にもトルバはもはや考えることを放棄していた。
『なんだ、つまんねえな』
 声がだんだん近づき、耳元で囁くようにトルバの脳は声によって浸食されていく。
『ちなみに頭から出ていくって話だがな。あれは嘘だ』
 その瞬間、トルバの身体と脳は完全に切り離された。
『俺は誰かの意思によってこの世界に魂だけで連れてこられた。そしてお前にとり憑いたんだ。だからこの身体から出ていく方法なんて俺は知らねえよ』
 絶望に突き落とす真実にも、もうトルバは動揺するだけの心を持っていなかった。
理想と努力を以って邁進した若き青年は既に絶望の深い闇の中に落ちてしまっている。
 トルバの身体は完全に魂だけの存在に奪われた。
「望むところだ」
 不気味に笑い、ドラグマの喉元に掴みかかった。



 エースとフェレスが『Crystal Magic』に戻るころにはもう日が沈んでいた。
 カランコロンと鈴を鳴らしながら店に入る。
「ひっ!」
 エースの姿を見ると、クリスタはすぐにカウンターの下に隠れる。そしてカウンターの下からクリスタ人形がひょっこり現れた。
「あら、帰って来たのね!」
「……相変わらずの名人芸だな」
 エースはカウンターに向かって歩き出す。クリスタは近づいてくる足音に内心ビクビクしながら人形を慌ただしく動かす。
「君には本当に迷惑をかけたし、君にはすごく感謝している」
 エースは人形の両手に小箱を握らせた。
「これは僕からの気持ちだ。受け取ってくれ」
「え?」
 クリスタ人形ごと手元に戻し、小箱の包みを開けた。中には液体に入った薄い丸いレンズが入っている。
「なにこれ?」
 未知のものにクリスタは手を伸ばして距離を取る。
「コンタクトレンズっていうものだ。それを直接目に入れることで眼鏡は必要なくなる」
「目に……直接?」
 クリスタの顔はだんだん青ざめていく。クリスタは小箱を閉じるとそれをクリスタ人形に持たせた。
「嬉しいけど、今回は気持ちだけで……」
 そしてクリスタ人形に小箱を返させる。
「……フェレス。手を貸せ」 
 その一言でフェレスがカウンターの下に回り、クリスタを引きずり出した。
「待って下さい! 人体実験は……! 人体実験だけは勘弁を……!」
 涙目になりながら必死に抵抗するが、フェレスはクリスタの両腕をがっしりと掴んで離さない。
「大丈夫だ。コンタクトレンズの歴史は長いし試作品で僕も試した。安全性は保障されている」
「ひいい……」
 必死に首を振って抵抗するクリスタ。
 エースは左手でクリスタの顎を抑えた。そして頬を撫でるように這い上がらせ、顔をしっかりと固定する。
「じっとしてろ」
 眼鏡をはずし、右手にコンタクトレンズを持った。左手でクリスタの目を開かせる。
 ゆっくりと、クリスタの片目にコンタクトを着けた。
「もう片方も付けるぞ」
 エースは左右の手を変える。
「……はい」
 エースの穏やかな口調と手のひらの体温によってクリスタも落ち着きだしたようだった。抵抗しなくなったクリスタにもう片方のコンタクトが付けられる。
「ほら、もう目を開けていいぞ」 
 クリスタはゆっくり眼を開けた。目の前のエースの顔がハッキリと映る。
「え……」
 クリスタは周りを見渡し、商品棚に並べられた薬品の名前と料金まで見ることができた。
「すごい……。本当に眼鏡なしで見れてる……!」
 幼い少女のようにまぶしい笑顔をエースに向けた。そしてバッチリとエースと目が合った。
 冷静になったのかクリスタの顔はトマトのように赤く染まっていく。
「ほら」
 エースはクリスタの視界を遮るようにクリスタ人形を差し出した。クリスタは人形を手につけ、人形で自分の顔を半分隠す。
「……ありがとう」
 人形と自分の口でエースに感謝を告げた。
「それと、お疲れ様です……」
 恥ずかしそうにしながらも、クリスタはエースの目を見て告げた。
(ああ、なるほど)
 そこでエースは納得した。
(こんな遅くまで店にいたのは、今の言葉を伝えるためか)
 エースは満足気に笑うと、小箱をクリスタに手渡した。
「毎日寝る前にその液体の中に入れるんだ。ずっと目につけていると痛くなるから、眼鏡の時とコンタクトレンズの時はちゃんと分けて使った方がいい」
「ええ」
「それじゃあ僕は部屋に戻るよ。フェレス、君は閉店を手伝ってやれ」
 そう言ってエースは階段を上った。
 フェレスは目をキラキラとさせクリスタに駆け寄った。
「クリスタすっごく可愛い! 前から思ってたけどやっぱりアナタってすごく綺麗な顔立ちよね」
「ちょっと……恥ずかしいです」
「でもこれでもうメガネを掛ける必要もなくなったわね」
「そのことだけど……」
 クリスタはカウンターの上のメガネを持ち上げた。
「やっぱりこのメガネを使っていくことにします。」
「え? どうして?」
「だって、これってフェレスさんが創ってくれたんだもの。私にとってはこれも大切なんです」
 フェレスは頬を染め、頷いた。
「そう……ありがとう」
 照れ隠しも何もなく、フェレスは初めて正直に感謝の言葉を告げた。


 
 フェレスはクリスタを見送ったあと、シャワーを浴びてから二階へ上がった。二階でエースは椅子に座り机に頬杖をついたまま、フェレスには背を向けていた。
「……ずっと考えていたんだ」
 エースはフェレスの足音を聞いて話を切り出した。
「この世界の理、僕をここに連れてきた方法……」
 フェレスは首を傾げる。
「エース? どうしたの急に?」
「だから答え合わせをしよう。ハサルシャム」
 その瞬間、フェレスの背中から翼が生えた。以前見たときよりも翼は大きく、白く輝いていた。
フェレスは目を閉じると、再びゆっくりと開く。
「……私の名前を呼んだか? コムロハジメ」
 その声はフェレスとは違う。聞いているだけで背筋が凍るような威圧感のある声だった。
「まさかフェレスの身体で喋れるとはな」
「フェレスはもとより私をモデルに作り上げた人形のようなものだからさ。貴方はそれを分からずに私の名を呼んだのか?」
「いいや。昨日のフェレスとの会話を聞く限り、君はフェレスの行動を盗み見ることができるようだったからな。それと初めてフェレスとであったとき、僕に攻撃してこようとしたフェレスは何かに気づいて魔法を使うのを止めた。だから君はフェレスの脳内に直接話しかけることができるんじゃないかと思ったまでさ」
「まさか昨日の会話が聞かれていたとは……。フェレスは本当に注意深さが足りない子だわ」
 フェレス改めハサルシャムはスタスタとエースの目の前を通り過ぎ、ベッドに腰を下ろした。
「あの箱は私と恙なく会話するための増幅器でしかない。私も暇なときはフェレスの身体を通してこの世界を見ているから、私と会話するための媒体はフェレスということになる。
そうすると、貴方の判断は正しかったな」
 ハサルシャムは妖艶に嗤った。
「じゃあ話を聞かせてもらえるかしら。貴方が考え抜いたというこの世界の理とやらを」
 ハサルシャムの挑発的な目を受け、エースは咳払いをした。
「まず気になったのはこの世界と僕がいた世界の類似点だ。世界地図を見る限り、人類が到達できていない土地を除いても地理関係は全く同じだった。このノドル国はイギリスで、地図の左にあった大陸はヨーロッパ大陸。他の大陸も似たような位置にあったよ」
「ふむ……それで?」
「そして話している言語も同じ。地理と言語、まったく別々の世界だとすればこの二つが全く同じ構成になることは天文学的数値よりもあり得ない可能性だ。
 そうなると、一つの結論が導き出される。この世界と僕がいた世界は同じものじゃないのか?」
 ハサルシャムは口元に手を当てて可笑しそうに目を細める。
「もちろん。同じとはいえ、僕の世界ではこの世界のように魔法が使えるわけではない。だが初めてフェレスと会った時、彼女は『どの世界も』と言っていた。まるで他にも世界があるかのような言い草だが、こう考えれば納得がいく。
今僕がいる世界はは並行世界の一つなんじゃないのか、とね」
 エースは続ける。
「並行世界、パラレルワールドはいわゆる可能性の世界だ。夕飯をパスタにするかシチューにするか。実際にパスタを選んだが、並行世界ではシチューを選んだ仮定の世界が展開されていく。いわゆる分岐点ごとに並行世界は生まれ、その違いを抱えたまま時間が進行していく。
 だがこの世界では違いがあまりにも大きすぎる。魔法なんて突拍子もない現象が日常的に起こり、神や天使がこうして僕の目の前にいる。
 これでは並行世界ではなくもはや異世界だ。
……しかしよく考えると簡単だよ。この世界の分岐はずっと前に行われた。中世ヨーロッパで行われた科学と魔法の対立だ。そしてこの世界は魔法が常識として定着したんだろ」
 エースは机の上から一冊の本を取り上げた。
「クリスタは科学の復興を目指すとかも言っていたが、極めつけはこのスピンの家から借りてきた本だ。
題名はグリム童話。有名なグリム兄弟がドイツ各地の説話を集めた話だが、シンデレラのストーリーは魔女が機械仕掛けの人形に変わり、カボチャの馬車は空を飛ぶ鋼の車。白雪姫のストーリーは王子様の目覚めのキスから、王子様が白雪姫の毒を治すための素材を探す冒険譚に変わっている。
僕からすれば学園祭で考えられるようなありきたりな現代風オマージュだよ」
「ありきたりだなんて酷い話ね。この世界に生きる人たちはみんなあのストーリーが好きなのよ」
「科学が常識の僕からすれば陳腐に感じてしまうのは致し方ない。だがそれほどこの世界と僕がいた世界は共通意識に大きな乖離が発生している」
「……なるほどね。じゃあ並行世界があるとして、どうやって貴方がこの世界にやって来た方法を教えてくれるかしら?」
 ハサルシャムは挑発するようにエースを上目遣いで見つめる。
「並行世界については理論上での存在が認められていた。しかし存在が観測されない限り並行世界は存在しているとはいえない。観測できない理由は、膨大なエネルギーが必要とされるからだ」
「観測すらできないなら貴方みたいにこちらの世界に来ることはできないんじゃない?」
「とぼけるなよ。君が僕をここに連れてきた張本人のくせに」
 エースは足を組み、頬杖を突く。
「疑問を抱いたのは最初、僕がこの世界に来た時だ。服装はまったく汚れていないし、僕が服用した薬の効果も、僕が食べたものも胃の中には入っていなかった。そしてフェレスが言った、『人間を作れるのは神様だけ』という言葉。さらに僕がこの世界に来てからずっと感じていた違和感だ。
 そう、違和感としか言いようがない。髪の長さや筋肉量、脂肪。勘違いで済ましていいようなものだが、どうもこの身体は違うんだよ」
「……違う?」
「この身体は偽物だ。君が僕の身体を『創造』したんだろ」
 ハサルシャムはただ頬を少しだけ緩めて試すようにエースを見ている。
「精神なのか魂なのか呼称は分からない。だが僕の中身だけを元の世界からこっちの世界だけに連れて来たんだ。もちろん中身だけではどうしようもないから、君は僕の身体を複製した。それがこの身体だ」
 エースは自分の身体を指さす。
「……フェレスには諜報員は向いていないな。昨日の君たちの会話の中で、君はこう言っていた。『前の人間は失敗した』とな。
 前の人間とは、おそらく僕と同じように別の並行世界から連れてきた人間のことだ。失敗というのは僕のように複製した身体に馴染まなかったことだろう。そして、その人間は……トルバの身体にとり憑いた」
 ハサルシャムはそこで初めて表情を変えた。俯き、遠くを見るような瞳になった。
「そう……やっぱり、彼はそう簡単には消えなかったのね」
「……認めるんだな?」
「ええ」
 ハサルシャムはベッドに仰向けに倒れこんだ。そして眩しくないように手で灯りを遮る。
「貴方の言う通り、私は並行世界の人間の身体を複製して魂だけをこの世界に運んできたわ。連れてきたのは並外れたメンタルと特殊な感性を持った人間だけ。貴方は言うまでもなく、もう一人はモラルが欠落して殺人衝動に染まった人間だったのよ。でも彼には確かに敵性があった。
 失敗したのは私の『創造』で完全にコピーができなかったことが原因。身体は魂に耐えきれず灰に変わり、彼の魂はこの街のどこかへ消えて行ってしまったのよ。本当にあのミスは残念だったわ」
「残念……? 君が妙な実験をしたせいでトルバという若者が犠牲になったんだぞ……! 彼だけじゃない。一体その男のせいで何人の人間が死んだと思っている……!」
「あら、意外ね。貴方って案外善人の心を持ち合わせているんだ。てっきり、私と同じだと思ってた」
 身体は子供だというのに、ハサルシャムは妖艶に笑う。
「でもまだ魂が残っていうならそれも好都合だわ。彼の身体をもう一度複製して復活させてあげましょう」
「その必要はない」
 エースがハサルシャムに注射器を投げ渡した。
「僕が以前倒れた時、一瞬僕の魂とやらは元いた世界に帰っていた。向こうの世界の僕は病院のベッドでずっと寝ているようだった。
おそらく眠ることによって魂とこの複製された身体は分離されるんだろう。だから僕は魂だけの男がトルバの身体を乗っ取った瞬間を狙ってその薬を打った。僕が服用していた薬を強力にしたものだ。もうあの男の魂は元いた世界に戻ったさ」
「睡眠……。それは盲点だったわ」
 ハサルシャムは空っぽの注射器を手のひらでクルクルと回す。
「じゃあ、貴方はどうするの?」
「……何の話だ?」
「貴方は元の世界に戻る方法も手段も知っている。そんな偽物の身体の中にいるよりも、元の世界に戻ろうとは思わないのかしら」
 そう言って注射器を再びエースに投げ返した。
エースは受け取った注射器をじっと見つめ、握りつぶした。
「残るに決まっているだろ。この世界でやり残したことはまだたくさんある。……君にやられっぱなしで逃げるわけにもいかないからな。それに――」
「それに、向こうの世界には居場所がないから?」
 気が付けばハサルシャムはベッドから立ち上がり、エースの目の前まで来ていた。
「……可哀そうな話よね。それだけ才能があるのに活かす場所もなく、周りからはのけ者扱い」
 細い腕がエースの組まれた足を解き、そのままハサルシャムはエースの膝の上に対面で座った。
「でもこの世界ではそんなことはない。……私から逃げるわけにはいかない? 元いた世界から逃げているのはどこの誰かしら」
 甘美な香りと生暖かい吐息が五感を包む。エースの身体は完全に硬直していた。
「あら……可愛いところもあるじゃない」
 ハサルシャムの笑い声も耳元を撫でるようだった。
「じゃあ最後の質問。この世界でも魔法が存在できている理由は何?」
「……世界そのものが人間の観測によって構築されているとしたら納得できるはずだ。この世界で起きる出来事は何ものでも言葉に表されたモノに変わってしまう。科学と呼ばれれば科学として存在し、一方で魔法と呼ばれるなら魔法に変わってしまう」
 ハサルシャムはエースの首元に手をまわした。
「ざんねん」
 エースの頭を撫でながらそう言った。
「惜しいところまで行ったけど、それじゃあ正解は上げられないわ。……でも、貴方はやっぱり私の見込んだ相手よ」
 エースは何かを喋ろうと口を開くが、ハサルシャムの人差し指がそれをふさいだ。
「今日はここまで。いつか貴方が私の元まで来て、今度は私自身の身体でこうして触れ合える機会を楽しみしているわね」
 ハサルシャムは最後まで笑みを浮かべたままだった。
「さようなら、エース」
 そしてハサルシャムは力が抜けたようにエースにもたれかかった。
「……え?」
 フェレスが寝起きのような声で目を覚ました。
そしてすぐにエースと密着している状態に気づく。
「ちょっ……! 何してんのよこのロリコン!」
 いわれもない罪でフェレスの右ストレートがエースの頬を殴り倒す。エースは椅子ごと床に倒れ込んだ。
「変態! もう一緒の部屋で寝ないでよね!」
 フェレスはすぐにベッドの上で毛布をかぶった。
(これが狙いかよハサルシャム……)
 エースは頬を抑えながら椅子に座りなおした。
「おいおい。ちょっとは人の話を聞いたらどうだ?」
「誰がアンタの話しなんて!」
 フェレスは頑なにエースと顔を見合わせないつもりだった。
 エースはため息をついてフェレスを説得しようと椅子を近づける。
「少しくらい話を聞いてくれても良いだろ?」
 フェレスは毛布の隙間から顔を覗かせる。
「普段は自分から話そうとしないくせに、こういうときだけ都合の良いことをいうわけ?」
 エースは両手を挙げる。
「分かった。今度からは何かあったら君にも伝えるし、相談もするよ」
「本当に?」
 フェレスは訝しげにエースを見上げた。
「約束するよ。君は僕の相棒だ」

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