一章 異世界とハジメ

 イギリス・ロンドン。
 ハジメは多くの学生が住むアパートの一室でベッドに横たわっていた。平日の昼間だというのに寝間着姿でぐったりとしている。
 窓の外ではバスや自動車が行き交い、何の変哲も無いいつもの日常が流れていた。
(……息苦しい)
 枕に顔を埋めながらハジメは心の中で呟いた。壁一面の本棚に敷き詰められた分厚い本の背表紙を目で追っていくが、どのタイトルもハジメの興味をそそるものは無かった。
大きなため息をつき、仰向けになる。そのとき、階下から寮母さんの謝る声が何度も聞こえてきた。
寮母さんの怯えた声をかき消すように、ドスの利いた声が響き渡った。そしてドカドカと床を踏み抜きそうなほどの足音で階段を上ってくると、ノックも無しにハジメの部屋へと入ってきた。
「小室ハジメ。お前を逮捕する」
 警察手帳と共に屈強な男たちがぞろぞろと入ってきた。
 スーツを着た刑事と制服を着た警官二人が並んでハジメの周りを取り囲んだ。ハジメは気怠そうに身体を起こして刑事の顔を見る。
「ふああぁ」
 そして大きなあくびを一つ。
 あまりに舐められた態度に刑事は当然、眉間に皺を寄せ青筋を立てながらハジメを睨みつける。
「聞こえなかったのか……? タイホと俺は言ったんだ」
 威圧感ある警察の言葉にもハジメは表情を崩すことなく、鼻であしらった。
「逮捕状もないのに逮捕はないだろ。それよりここは僕の部屋だ。君たちは住居侵入罪でケーサツを呼ばれたいのか?」
 刑事は歯を食いしばって殴る衝動を抑え込んだ。逮捕状を持っていないことは真実であり、ここで手を出してしまえば刑事自身が懲戒免職になってしまうだろう。それでも19歳のガキにしてやられることに怒りを抑えることはできなかった。
「ふざけるな! お前の方こそ勝手に他人の家に忍び込んだことは分かってるんだよ! あとお前が薬物を使用してるってこともな!」
「薬物? ああ」
 そういうとハジメは枕元に置いてあった小瓶を投げつけた。中には錠剤がいくつか入っている。
「薬は使っているけど違法な物は何も入ってない。僕は少し特殊な体質でね。二週間ほど寝ずに起きていることができるけど、その代わり丸二日は深い眠りについてしまう。それを防ぐためのあくまで処方箋だ。そんな啖呵を切るくらいならちゃんと調べなよ?」
 ハジメの言う通り、刑事は見切り発車でハジメの逮捕に乗り出しただけだ。逮捕状はおろか逮捕の証拠になりえるものすら把握できていない。
 歯ぎしりをする刑事を横目に、ハジメは後ろの警官に話しかける。
「君たちにいいことを教えてあげるよ。僕を捕まえられなかった代わりに、僕以上の犯罪者の情報を挙げよう」
 と言い、ハジメは目の前の刑事を指さした。
「この刑事は汚職をしている」
「なっ! おい、待て貴様!」
 刑事は慌ててハジメに掴みかかるが、余裕綽々としたハジメの目を見て我に返った。部下の目の前、市民への暴行。ここで手を出そうものならそれこそハジメの思うつぼだ。
 葛藤する刑事を無視したままハジメは警官に向かって会話を続けた。
「刑事と言っても君の役職は巡査部長。にも関わらず君の腕にはブランド物の腕時計だ。刑事の安月給で買えるようなものじゃない。実家が金持ち? いや、だったらネクタイピンやカフスボタンにも気を払うはずだ。何よりも言葉遣いが汚い」
 灰色の瞳に睥睨され、刑事は慌てて取り繕う。
「違うっ! これは株でもうけた金で買ったものだ」 
 刑事はハジメではなく、後ろの部下たちに向かって言い訳をする。
「ならどこで買ったかを教えてくれよ」
「それは……」
「言えるわけがないよな。それは貰い物だ。時計だけが高価なものでスーツや靴は安物……。見栄を張って買ったとも考えられるが、新品の割に時計盤の表面は傷でボロボロ。おおかた鍵と一緒に収納するから傷がついたんだろう。見栄を張ってロレックスの時計を買うような人間が、時計をそんな粗末には扱わない」
「違う、この時計は俺が自分で買ったんだ! そう、思い出した! 俺は自分でロレックスの本舗に行って――」
「あれ?」
 ハジメは小首をかしげる。
「その時計よく見たらロレックスじゃなくてブライトリングだ。へえ、じゃあ刑事さんはロレックスでブライトリングの時計を買ったんだ」
 誘導に乗せられた刑事は絶句する。
「ダメだよ、刑事がそんなベルトまで金の装飾美を追求した時計なんてつけちゃ。まあ、口止め料として渡されたものなら愛着もないのは当然か」
 困惑する警官に話を続ける。
「現金での取引はどうしても目立ってしまうからマフィアや犯罪者たちは金品に変えて渡すケースはよくある。君は非番の時にでもそれを目撃したんだ。その時に口止め料として時計を渡された。
しかし君は時計には興味がないから、時計と一緒に現金でもいくらか渡されたんだろう。加えて君の衝動的な性格を考えると、罪悪感を紛らわせるためにその金で羽振り良く部下に飯を奢ったんじゃないのか?」
 警官たちはハッとしてお互い顔を見合わせた。
「ああ、心当たりがあるようだ。悪い人だね。自分の罪悪感を消すために部下を利用するとは」
 刑事は拳を握りしめたまま俯いた。堅く握られた拳は怒りお押さえこむように震えている。
「他にも衣服の汚れや皺の形を見て君が家庭でどのような立場にいるのかも、後ろの部下たちの様子から職場での立場も予想がつく。かなりストレスを抱え込む環境のようだが、それでも犯罪に手を染めることは間違いだったな」
 ハジメが言った言葉はすべて真実だった。刑事はストレスで犯罪の取引を見過ごしてしまい、その金で部下たちにメシも奢っている。
「……出口はそっちだよ」
 ハジメは刑事たちが入ってきた扉を指さす。刑事は拳を握ったまま部屋を飛び出していった。
 「くそっ! 時代遅れの探偵が……!」
 最後に捨て台詞を吐き、床を踏み抜くことなど不可能なほど小さな足音で部屋から出て行った。
 警官たちは戸惑いながらも、刑事の後へと付いていった。これから二人の部下がどういう対応を取るのかはハジメの知るところではない。
 ハジメは錠剤の入った小瓶を握ったまま、再びベッドで横になる。
 頭の中には刑事が去り際にはなった捨て台詞が残っていた。
(時代遅れの探偵、ね……)
 最初にハジメをそう呼んだのは大衆向け雑誌だった。
 生まれは日本だが、小学生にしてIQが190を超える天才だった小室ハジメは1人でイギリスに留学することになった。しかしイギリスの学校もハジメが馴染むには規模が小さすぎ、ハジメの興味は社会で起こる犯罪へと向けられた。
 一生しかない人間がその人生を賭けて作り上げる犯罪。その心理や手法の解明に心を惹かれたのだ、
 強盗、詐欺、殺人。ありとあらゆる事件現場に赴き、自らの手で事件の真相を導き出す。しかし子供の言うことなど警察は聞く耳を持たず、ハジメはネットや地方紙を通して事件の真相を世間に知らしめた。
 ここまではよかったが、問題はハジメの力など借りなくても警察がいずれ事件を解決させるということだった。ハジメほどの優れた頭脳と洞察力がなくとも、警察は人海戦術と技術力で犯人を割り出す。
 ハジメなら警察よりも早く犯人を見つける分、警察よりも有能だと一部の人間たちはハジメを『名探偵』だと持ち上げた。それを警察は「ハジメが現場を荒らしたせいで事件解決が遅れた」と難癖を付け、今もこうしてハジメと警察は対立が続いてる。
 そして警察寄りの出版社がハジメを警察が解決できる事件を出しゃばって解決しようとする「時代遅れの探偵」だと批判したのだ。
 ハジメは深いため息をついた。
「……ハジメ、大丈夫?」
 部屋に寮母が顔を覗かせて心配していた。
「別に、気にするようなことじゃないよ」
「そう……ならいいんだけど。あ、それと貴方にこれを私に来たのよ」
 寮母は扉の隙間から手紙をハジメに手渡した。
 ハジメは手紙を数枚受け取ると、ベッドから起き上がって部屋の端に寄せた机に座って手紙を確認した。
 病院からの手紙や大学からの手紙の中に、国際便の手紙が混じっていた。差出人は見るまでもなく、日本にいるハジメの両親からの手紙だ。
 ハジメ両親はハジメがイギリスに行くことになった時、止めることも一緒についていくこともしなかった。それどころか、ハジメには両親がまるで厄介払いをできたように安堵の表情で見送られた記憶があった。
「……トンビがタカを生むとは言うが、いざタカが生まれてしまったら親のトンビはさぞ気味が悪いんだろうな」
 そう言い切ると、手紙をビリビリに破り捨てた。
 そこには悲しみも虚しさもこもっていない。そんな俗な感傷はとうの昔に達観したのだ。
 ハジメは椅子にもたれ掛かって深いため息をついた。
 本棚には無数の本がジャンル無視で乱雑に並んでいる。哲学からスポーツ医学や量子力学までありとあらゆる学問の書にオカルトのようなトンデモ本までも買いそろえた。しかし、どの本もハジメに知識を与えるのみで興味は何も感じなかった。
「退屈だ……」
小さなつぶやきも空虚な部屋にはよく響く。椅子がきしむ音や窓から聞こえる町の喧騒。そして心臓の鼓動が頭全体を包む。
(マズい……!)
 この前兆をハジメは何度も経験していた。
 重くなった身体を無理して動かそうとするが、そもそも司令塔である脳自体が機能していなかった。
 手を伸ばして机の上にある小瓶を掴もうとするが、一瞬にして視界がブラックアウトした。
(こうなるからベッドで寝てたのに……)
 ハジメは意識を底なしの闇に飲まれながらも、後悔しながら眠りについた。