だから、病気だったんじゃなくて、その後、学校行かない1年があったってことなの………と紗々が、少し間をおいてからそう言った。

「もう全然、行かなかったの?」
「うん、そう。別にいやなことされるわけじゃないから、行ってもよかったんだけど。行くほどの理由が見つからないから。特に会いたい友達とかいないから、モチベーションがわかないよね」
「うん、それはわかる」

「かといって、学校変えたって、全員が初対面の入学式レベルで入るんじゃないと、どこ行っても、あまり状況は変わらないでしょ?うちの両親も、別に行きたくないなら行かないでもいいって考え方だったし、学校も、成績良ければ問題ないってスタンスだったから」
「勉強はどうしてたの?」

「家庭教師と通信で、試験の時だけ登校してた」
「そっかあ」

私は、東京での紗々の学校生活が自分が想像していた事をはるかに超えてきたので、紗々に起きたことは、そのまま、私も、ありのままを受け入れる以外はできないのだとわかった。

もしかして、どんなことでも、本当はそうなのかも。

こういうのを、ええと、翻弄。人生に翻弄されるっていうのかもしれないけど、生きてると子供でもこういうことはあるんだな。もしそうなったら、その波の中で泳いでいくしかないっていうことか。

紗々は、その波の中で、自分なりに出した答えに沿ってやってきたんだなって、思って、私は紗々の出した答えを、どんなことがあっても支持しようと思った。

ふと、気になったことがあったので聞いてみた。

「もしかして、あの本遊びって、その作文の先生が教えてくれたの?」
「あ、うん。そう。よくわかったね」

「いや、あれ、私、面白かったっていうか。あの本の遊びで、私、少しはものを考えるようになったと思う。それまでって、本当に、何ていうか、全てにおいて、自分が思っていた以上に受け身で、自分のことも他のこともよく見ないで生きていたことを思い知らされたっていうか」

「あの本の遊びは、私と先生は『Harvest』って呼んでたの、収穫って意味ね。図書館や本屋で本をバアーッと選んで、その中から一冊を見つけるのが、なんか収穫するって感じに似てたから」

ああ、わかる。感動できるものに出会えた時の、あの達成感って、収穫の喜びだったのかって思いながら聞いていた。

「あれは、先生が、私が1人の時間を価値あるものにできるように、1人の時間が長くても、退屈で心が死んでしまわないようにって教えてくれたの。人ってね、退屈すると内側から滅びていくんだって」

それを聞きながら、私は、つい数か月前までの自分の、白黒で、退屈で、人生のリストが何も出てこなかった自分のことを思い出して、ドキっとした。

「先生と一緒に図書館で選んだ本で、先生と2人であれやって遊んでた。今思うと、もしかしたら、先生にもそんな、内側から腐ってしまいそうな退屈な時期があったのかもね」

「どうしてそう思った、紗々」
ケイが、顔を上げて紗々を見て、聞いた。

「先生がさ、人は、人生で1人ぼっちになってしまう時期が必ずあるって言ってた。自分の人生にはそういうのがないって言い張る人もいるけど、それが真実かどうかはわからない。なんでかっていうと、そういう人はもしかしたら、先回りしてそういう時間をうまいこと避けて歩いているだけかもしれないって。

そうやって、うまいことやって、上手に切り抜けたつもりでいても、それだと生涯、自分にも巡り合えないから、結局、誰にも巡り合えないままだって、さ」

「なんか、難しいけど、それは、なんか、うん。わかる気がする」
私が答えて、紗々が続ける。ゆっくりと赤と黒を繰り返すチャコールを見つめながら、ケイは黙って腕組をして聞いていた。

「この世に生まれてきて、人間が本当に1人になれる時間っていうのは、実は、普通に生きていたらすごく難しくて、本来ならば1人でいられる時間っていうのは人生とか、宇宙からの贈り物みたいな、本当に素晴らしく貴重なものなんだけど………」

紗々はここで、少し、間をおいて、先生の言葉を一つ一つ、正確に思い出していたんだと思う。それから、少し震える声で、

「それが人生のとても早い段階で来てしまうと、贈り物の意味がわからなくて、混乱してしまうことがあるんだって。でも、そういう子は、早くから人生の意味を理解するから、結局は、贈り物の大きさに等しい成長をする。だから、本来、1人の時間とは、恐れの対象になるべきものではないって、そう言っていた」

「なんか、良く理解しきれないけど、でもなんか、紗々、私、今、泣きそうなんだけど」
「俺も、わからないけど、わかる」

「うん、私も、そうだった。すっごいパワーがあった。私も、全部がわからないけど、本当にそうなんだっていうのだけは伝わってきた。だから、家に1人でいるときも、これはその贈り物の時間なんだと思って、本のあそびをひとりでもやってた。それで、延々と1人でやってたから、わかったこともある」

「何がわかったの?紗々」
「たくさん本を読んでいくと、伝えたいことが生まれる本と、そうではない本っていうのがあるじゃない?」

「確かに」
ケイが胡坐をかいて、自分の足の裏のあたりを見つめたまま、深くうなずいてそう答えた。

「でもたぶん、私が面白くないって思った本も、他の人には伝えたいことが出てくる本なのかもしれないのね」
「確かに。それに、実際、そうだったよね」
うんうん、と私がうなづく。

「だから、自分にとって価値がないことでも、それをバカにしたり、反対に、価値を感じたことをやけに持ち上げたりすることって、そのこと自体にはあまり意味がないっていうか。本当に大切なのって、それに触れて自分から出てきたことだけが本当のことっていうか」

「ほお………」
ケイがすごく真剣な表情で聞いていた。

「何かに触れて、生まれ出てきてしまった感情や感覚の中にだけ、本当の自分がいるのよ。でもそれは、自分が変わるとスグに消えていくの。だから、いいと思ったものだけをやたらと集めて並べても、それって砂で何かを積み上げてるだけっていうか」

「すごい紗々。でも、それって、そうかも」

「なるほどね。すぐ消えるものをどれだけかき集めても、それは一生、自分にはならないってことだな」


「そう。でも、これをわかるためには、自分の中から出てくるものをちゃんと見る力が必要なの。でもそれって、人の間で忙しくもみくちゃにされているときには育たない力なのかも。人の感情と意見と情報の中で溺れながら生きているときにはわかりようもないの。だから、本当の本当に、1人の時間は貴重な贈り物なんだよ」

私たち3人は、しばらく黙った。2匹の犬が、耳をピクって動かして、茂みの中をクンクン嗅いで、また丸くなって眠るのを、私たちは眺めていた。


「紗々、先生に、本のあそびを書いて送ればよかったのに」
「ううん。先生、私に何かあるといけないからって、返送先住所書いてきてなかったから。だから、先生から一方的に手紙が来てるだけ。たまに、先生のが書かれていることがあるから、そしたら、私も、その本を読んでみたりはしたけどね」

「少なくとも、俺が今わかるのは、その先生は、紗々を死ぬほど大切にしてたってことだ」
「うん、私もそれはわかる。紗々のこと、心から大好きっていうか………」
きっと、愛しているというのが正しい言葉なんだろうけど、私には、よくわからないので、口にするのをためらった。ケイは、どう思ったのか気になって、ケイを盗み見したけど、表情がよくわからなかった。

「うん。私もそう思う」
少し間をおいて、ぽつり、と紗々が答えた。

「ねえ、とろこで、その先生って、今、どこにいるの?」
転校もしたんだし、紗々って、もう先生と一緒に会ったりしても問題ないって思ったんだけど。紗々と、ケイが顔を見合わせて、ちょっと困った顔をした。