紗々が来てからすぐ始まった中間試験が終わったくらいから、たまに紗々が、いくつかの授業に出ない時があった。紗々は一年遅れで同級生だからっていうのもあるとは思うけど、もともとすごく勉強ができるみたいで、成績が良いから、授業に出てないこと自体はあんまり問題はないんだと思う。

でも、あんまりサボっていると多分、先生の印象が良くないだろう。まだ転校してきて1か月しか経ってないし。

最初は、具合が悪いって言って、保健室で休むといって抜け出していたんだけど、心配して見に行ったら保健室にはいないことが多かった。紗々がどこにいるかわからないので、先生にごまかすために私が具合悪いことにして、何回か保健室のベッドで昼寝をさせられた。

続けて顔を出していたら「あらあらあら、あなたまた?」って言われて、なぜか私が虚弱体質ってことになってしまい、これ以上、保健室の先生をごまかすのが難しくなってしまった。

あるとき、気が付いたらまた紗々がいないので、もしかしたらと思って見に行ったら、案の定、紗々はボート資材置き場のボートでごろ寝をしていた。

「紗々」
私がボートの端に手を掛けたら、ボートがゆりかごのように揺れたので、紗々が薄目をあけて、こっちを見た。

「あれ、麻衣。よくわかったね」
「保健室の先生に嘘ついてんのばれそうで焦ったよ。言っておいてよ」

「ごめんごめん。保健室に行ってもよかったんだけど、あれこれ説明するのが面倒で」
「具合悪いの?」

「んー。体調はいいんだけどね」
「なんか、いやなことあったの?」

「んー、うん。でもまあ、何もないな」
「なんかあったら言ってよ?」

「うん。今は大丈夫だから。ちょっと、たまに、こういう気分になることがあるんだ」
「そっか、なら、ホッとした」

紗々が何となく、いやになっている事柄には大体想像がついた。紗々はこの見た目なので、とにかく愛の告白が絶えない。なにかっていうとどっかに呼び出されては、付き合ってくださいってされて、それを断ると、なぜか、その男子を好きだった女生徒に悪口を言われる。

通りすがりにすごいことを吐き捨てるように言われたり、大きな声の陰口を聞かされたり、見当違いな悪口が書かれた紙が靴箱に突っ込まれていることもあった。お坊ちゃんお嬢ちゃん学校なので、腕力による暴力なんかは無いんだけど、充分、言葉の暴力ではあった。

うちの学校では、スマホは持ってきてもいいんだけど、構内ではスマホを使ってはいけないの。だから、LINEなんかで紗々を誘うとか、悪口なんかをグループLINEで回すとかができないのね。

そのため、直接言うか、または古典的だけど、手紙やメモなんかでやるしかない。

紗々は紙類なんかは悪口もラブレター、伝言メモでもなんでも、無表情のまま、開けもしないでゴミ箱に直行させている。でも、言葉を投げつけられるやつは、そばで聞いている無関係の私が、心臓をグワッと掴まれたような感じになることがあるくらいなんだから、本人なら相当ダメージが来ると思う。

紗々は全然悪くない。

ああいいう見当違いなことをしている人たちに私が言いたいのは、一回でいいから紗々のママを見てみろ。そしてお前の母ちゃんと比べろ、そして恨むならば遺伝子を恨めって思う。

私は、長いこと、自分のママのこと美人だって思ってたし、ママだって自分がCAだったことや、ミス世田谷だったことが未だに自慢なくらいなんだから、ちょっとでもモテた経験のある人なら「きれいな子」をライバル視してしまうのも、仕方がないことなのだとは思う。

でも、やめとけ。

って思う。世の中には、戦ってはいけない相手ってのがいるのだよ。素人とプロの美人の違いっていうのを知れば、そういうことは思わなくなるものなのだ。あれ以来、私は、自分のママのことは一般的な美人のファイルに整理しなおした。

紗々は、一般的ではないの。素のままで商品価値がある美人なの。

だから見当違いなライバル意識燃やすくらいなら、まずは己を知れ!………とか全校集会でマイク持って言ってやろうかと思ってるんだけど、まだ口に出したことはない。もちろん、どんな目にあわされるかわからなくて、怖いから。

まあ、とりあえず、紗々がSNSとかをやらないのは、こういうのからの友達申請、書き込み、DMなどが煩わしいからっていうのが大きいと思う。

実際、紗々はスマホは持っているけど、私たちとやってるLINEは偽名だし、アプリも見つからないほど奥深くファイルしてある。あるって知られると、面倒だからだと思う。(ケイと私で、紗々のスマホのどこにLINEが置かれてるかを探すゲームが出来たくらい)

東京にいたときのことはあまり話してくれないけど、たまに触れる東京時代の話をするときには、紗々の表情がサッと曇るので、あまり良い思い出がないんだと思う。

きっと、都内の名門私立の男の子なんて、うちの学校の男子よりもずっとファッショナブルでカッコいいだろうし、女の子慣れもしているだろうから、すごくいろんな面倒くさいことがあったのかもしれないなって、私なりに紗々を解釈しているわけです。

というのも、私は生まれてから一度もモテた記憶もないし、いまだに恋という感情がどういうものかがわからないんだ。ゆえに、告白したことも告白されたこともない非モテで、ドキドキすらわからないの。つまり、そういうことが本当にサッパリわからないんだよね。

なのでモテる女の悩みはわからないけど、紗々のせいじゃないことで余計なことを言われたりすれば、やっぱり精神的には来ると思うので、何か楽しいことをしてあげたいって思った。それに、もうすぐ夏休みだし。


そうだ、毎年やってるパパの会社のBBQ大会には、紗々も呼ぼうかな。ケイも来るし、お兄ちゃんたちもくるから、知らない大人が多くても大丈夫だよね。

そんなことを、だるそうに紗々が寝そべるボートの横で、ソファ替わりに使っている古い体操マットを丸めたものの上で胡坐をかきながら、思いめぐらせていた。

夏が近づいてきて、この部屋も少し、じっと座っていると暑く感じるようになってきた。湿気が増えてくると、倉庫にあるボートの木のにおいや、体操マットのカビっぽいにおいがこもってくる。

今までの私には、それが、この部屋に一人でいることをわからせてくれるものだったけど。

今年は紗々が、いいにおいをさせながら、軽い寝息を立てているから、私は一人ではないんだなっていうことがわかって嬉しかった。夏休みは紗々とケイと一緒に、いろんなことして遊びたいな、と思う。

でも、夏休みがもうそろそろ始まるって時に、学校でちょっとした事件が起こった。

朝、いつものように3丁目の角で待ってたんだけど、紗々もケイも来なかった。

3人で遊ぶようになってから、朝も早くから学校に行くことが増えたから、あんまり朝の廊下を朝礼に間に合うように走り抜けるっていうのはなくなってたんだけど、今日は久しぶりに走った。

教室に入って、窓側の後ろから二番目にある自分の席に着いて、すぐに廊下側に並ぶ教室ロッカーのすぐ横あたりの紗々の席を見たけど、紗々はいなかった。休みなのかな、と思いながらカバンからお弁当が寄らないように出して、机の中に入れ替えた。

なんとなく、教室がいつもよりザワザワしてて落ち着かない感じがする。何組かのグループが固まって話をしては紗々の席のあたりをチラチラみていた。

私は、またあの中の誰かの彼氏か、片思いしている男子が紗々のこと好きになっちゃって、キイキイ言ってんのかなと思って気にしないようにした。

担任の首振り扇風機・高田が怖い顔して教室に入って来た。普通に朝礼をして普通の連絡があった後、首振り扇風機が努めて冷静を装った声でこんな話をした。

「あのー。昨晩、うちの学校の生徒が園町にかなり遅い時間にいたということが、父兄から学校に連絡が入ってわかり、職員室で議題になりました。

夏休み前だし、気が緩んでしまうタイミングでもあります。風紀の乱れには充分注意して、わが校の生徒として、自重した行動をとるようにしてください。

父兄あてにも、夏休み中の注意を出しておきますが、みなさんも、特にわが校の制服を着ているときには、自分が学園の代表だと思う気持ちで行動してください」

園町っていうのは、この辺では一番大きな都心部のことで、たくさんの電車とバスが乗り入れをしている。

そこにはいくつものデパートやモールなんかが集まってるから、お買い物には便利だし、遊ぶところもたくさんあるから、この辺の人たちは、新宿や渋谷に行くよりも、園町で全ての用事を済ますのが普通。

最近では特急以外にも、新幹線の「こだま」ならば停車するようになったみたいで、どんどん発展している場所なの。隣の市に住んでいたときも、やっぱり、ちょっとした買い物をするときには園町に来るのが普通だった。

それで、その園町で、うちの学校の生徒がなんか問題起こしたって話みたいだけど、首振扇風機の話が全体的によくわからないので、みんながキョトンとした顔をしていた。学級委員の楠木貴子が、手を挙げて立ち上がって質問をした。

「先生、具体的には園町で何があったんでしょうか。今の説明では、私たち、かえって混乱してしまいますわ!」
と、机をバン!と叩きながら芝居がかった口調で訴えた。

楠本って、初めて見たときからこんな感じなんだけど、いつもどうでもいいような小さな物事をつっつき回しては、それをスピーカーのように大声で話すというウザイ存在なので、悪い人ではないんだけど、周りからはなんとなく距離を置かれている。

前に、セクシー後藤が言ってたけど、小学校時代からあんな感じなんだけど、成績だけは良いので、教員からみると問題があるという生徒ではない、と。生徒間ではうまくはできていないようだけど、本人がそのことを気にしていない様子なので、先生方も面倒くさいから何も注意しなかったら、あんな風に成長してしまったのだそうだ。

「うーん。大したことではないんだよ。保護者と一緒だったことも確認が取れているんだ。ただ、通常よりもかなり遅い時間に制服でいたというだけです。今朝の職員会議では、実際には何も悪いことをしてない生徒を処分する必要はないので、一応、注意だけはしました。

ただし、周りの大人に面白おかしく噂を立てられると、うちの学校イメージとして良くないから、みんなも夜遅い時間に外にいるのはなるべく自粛して欲しい。もし、大人に何か聞かれたら、学校に聞いてくださいと言いなさい。いいね?」

首振り扇風機にしてはかなり強めの口調で楠木に釘を刺した。

「なんだよ、結局、学校のブランドイメージかよ」
「なんで学校に連絡とかすんの?その父兄、頭おかしくない?」
「寄付金出してっからじゃね?」
「夜遅くって何時くらいのことなの?」

なんてことをみんながザワザワ言い出した。首振扇風機の説明では納得がいかなかったらしく楠木が「でも!それでは……」と反論しかけたときに、副委員長の鈴木真理雄が絶妙なタイミングで「朝礼終わりまーす。起立!」と掛け声をかけたので、

全員立って「ありがとうございました」と礼をして、首振り扇風機がとっとと出て行ったので、楠木の1人芝居はここでぶった切られた。楠木は1人、クッという感じで握りこぶしを作り、唇をかみしめて席に座った。この人は、なんか、アングラ劇団かなんかに所属してるんだろうか。

ただ、確かに、何がどうなってるのかわからないのに、うちの生徒がなんかしたって言われると、どうしても誰?誰?ってなってくる。また、タイミング悪いことに紗々が今いない。

仮に、紗々になんかあったんだとしても、生徒は悪くないって先生も言ってるから問題なしってことなんだろうけども、紗々にほのかに嫉妬と恨みを抱いている女子が多いから、なんとなく面白おかしくイジりたいのが見え見えだった。

私は紗々が気になって、今日は休みなのかな、あとで連絡してみようかなって思ってた。校内ではスマホ禁止なので電話もLINEもできないし、見つかったら没収で、その学年が終わるまでスマホ禁止っていうルールがあるので、うかつに学校内ではスマホ使えないし。

この時間にボートの部屋いくのは、あまりにも目立ちすぎる。どうしようって思った。そういえば、ケイも今朝来なかったけど、教室に行けばケイもいるかな、ケイの教室ではなんて説明されたんだろうって思って、覗きにいったら、ケイは教室にはいなかった。

仕方がないから自分の教室に戻ってきたら、ちょうど廊下の一番奥にある階段を紗々がノロノロ上がって来るのが見えた。

「紗々!」
「あ、麻衣。おはよう。今朝ごめんね、ちょっと急に用事ができて」

「全然いいいよ。今日、お休みかと思って心配してたの」
「ううん、元気なんだけどさ………」
何か話したそうな顔をしたんだけど、1時間目の数学の野崎先生っていうお爺ちゃん先生が紗々の後ろでニコニコしながら私を見ていたので、「教室入ろ!」と声をかけて、私たちは席に着いた。

ちょっと遅れて来た紗々と朝礼の話で、女子の一部の間で、猛烈に手紙が回覧されてる。ホント、どこにでもいるな、こういう人たちって。

もちろん、私だって、そのグループにいたら同じようにキャッキャ楽しんでたかもしれないから、一方的には言えないのはわかってるけど。

チラチラと紗々を見ながら、私は周りの余計な雑音が聞こえないように、授業に集中した。予習も復習もロクにしていないので、先生の言っていることの大半はわからなかったけど、必死にノートを取って、教科書を写したりしていると、手紙をカサカサ開く音や、いじわるな響きのあるクスクス声なんかが気にならなくなので、精神的には良かった。

紗々は斜めからの背中姿しか見えないけど、何となく落ち込んでる感じで、なんかあったのかなって心配になる。さっきは何か言おうとしていたから、きっと話してくれるだろう。

紗々は購買係でみんなのお昼のパンのオーダーなどをまとめる係なので、4時間目までの休み時間は忙しいから、またケイを見に行ったら、今度は、机にすごく偉そうに座っていた。

足が長いってのもあるんだけど、窓側の一番後ろの席で、椅子を掃除ロッカーに持たせかけ、足の片方を窓の枠に、もう片方を自分の机の上にのせて、両腕を頭の後ろで組んで、椅子の後ろ2本の脚だけで、ギイコギイコと動かしていた。

普段は、誰かしら友達か、女の子がケイのそばにいるんだけど、今日はケイが不機嫌モード全開になっているのがわかるのか、誰もそばに寄ってこない。

気が付かれないように、そろりそろりとケイの机のそばまで行くと、ジロっと横目で睨んで、私かとわかると

「マイマイかよ」
と、少し気の緩んだ顔にはなったけど、どうみてもまだ不機嫌度合いのほうが高い表情のまま、プイっと窓の外を見た。

「なんで怒ってんの?」
「怒ってねえし」

「怒ってるじゃん(笑)」
「うるせえな。マイマイ、教室帰れよ」
イライラっとしているらしく、椅子のギコギコが激しくなった。

「今朝さ」
「んあ?」

「2人ともいなかったから、心配したよ」
「あ、ああ………あー、そっか」
ケイは後ろ頭での組み手をやめて、両手をだらっと下げた。

「もしかして、待ってて遅刻した?」
両足をブーンと音でもしそうな角度で床に下ろし、上半身だけ私のほうに大きくひねって、ひじを膝について下から私の顔を覗き込むようにしながら、ケイがそう聞いてきた。

「ううん。遅刻ギリだったけど、走ったから、間に合ったから大丈夫」
「そっか。悪かったな。ちょっと、朝からいろいろあって」

「紗々も来なかったんだよ。さっき、1時間目のギリギリで間に合ってたけど」
「………そっか。まあ、帰りはみんなで帰ろうぜ」
みんなでって言われたのが嬉しくて、「うん!」ってすごい大きな声が出ちゃった。それを聞いて、ケイはフって大きな鼻息みたいな笑いをして、顔だけ窓の外を向けた。

「とりあえず、お前、教室戻れ。今日は帰りまで、もう来んなよ、俺、忙しいから」
わかったーって言いながら、ウキウキ教室に戻った。帰りは3人で帰れるんだって思ったら、それだけで、何だか無敵な気持ちになった。

その時からお昼までは、私は結構ハッピーな気持ちで過ごせていた。紗々は購買部に出すお昼のパンの注文用紙を集めて、封筒に入ったお金を確認したり、まだ何も入っていないパンの袋に番号札を貼ったりして忙しい。

うちの学校って、敷地内に自分の学校の給食室みたいなのがあって、そこで給食を作ったり、自家製パンを焼いているのね。給食室は、小学校校舎の地下にあるの。

で、給食は小学生までなので、中高はお弁当かパンになる。中高生でお弁当じゃない人は、その日の10時半までに(つまり、2時間目の終わりまで)に、給食購買部にパンのオーダーをしなきゃいけない。

その注文を受けてから、給食室ではサンドイッチを作り、菓子パンを焼いたりするので、時間厳守。

購買係はオーダー表の番号に合わせた札を申込者に渡しておいて、後で、おつりの入った袋とパンの入った袋がホチキスで止められている袋を、札と交換で渡す仕組みになってる。

お昼になったら、購買係がそれぞれの教室のケースを給食室まで取りに行くんだけど、給食室は小学校校舎の地下で、高校の校舎からだとかなり遠いの。

足の遅い人だと、パンの入ったケースを持って歩いたら往復で15分くらいかかるから、なんとなく、購買係の子は、10~15分くらい前から教室抜け出て、パンを取りに行ってもいいことになっているのね。

この購買係って結構忙しいから、全部で8人くらいの係がいて、1週間ごとの持ち回りでやることになってるみたい。紗々は編入で入ってきたので、教室の中で係が空いているのが購買係しかなかったので、はじめっからこの重労働をしているってわけ。

ちなみに、私は清掃係。燃えないゴミを、週に一回木曜日、給食室の外にある空き缶空き瓶などのところまで持っていく係。そもそも、ビンカンなんてほとんどないから、すごく楽。あとは月に一回、構内の2つの自動販売機の脇にあるゴミ箱の水洗いをすること。

清掃係は担当が1人なので、わざわざこれにしてた。

まあ、そんなわけで、購買の忙しい仕事のために、紗々が11:45に静かにかがみながら教室から出ていったのを見ていた。12時のチャイムがなり、そろそろパンのケースを持って紗々が帰ってくるころだなって思っていたら、

廊下で女の子の大きな声と、ガターンという何かが落ちる音がした。お昼休みだから、普段も廊下で大騒ぎしてる子がいることはあるし、他にも音楽聞いて踊る子や、集まってお喋りしている子が多い。

お弁当は教室か、校舎の屋上、校庭も使っていいの。校舎内は空調がきいているいるので、結構、自分の机で食べてる子も多い。

最初はみんな気にしていなかったんだけど、結構ギャーギャーした感じになったから、廊下側の後ろに座っている多摩川さんが、席を立って教室のドアを開けて廊下に顔を出してみると、怒鳴り声の内容が全部、教室に入ってきた。


「人の彼氏になにしてくれるのよ!人のもの盗るなんて、恥ずかしくないの?あなたなんか、絶対許さないから」

という涙声のようなかな切り声が聞こえた。教室に残っていた生徒は全体の半分くらいだったけど、何々?って感じで廊下をみんなが見に行く。私も、何だろうと思って興味本位で見に行ったら、

床に散らばったパンの入った袋を、紗々が黙々とケースの中に戻していた。紗々は泣いていなくて、泣いているのは、ケイのクラスにいる浜里紅子っていう女の子だった。

紅子のそばには、紅子と同じグループの3人がくっついていて、そうよそうよ!ひどいわよ、謝りなさいよ的なことを言っていた。

紅子は常に目力の強いメイクをした、インスタなんかで人気のある女の子だ。一回、興味本位で彼女のSNSを見に行ったことがある。私は反吐がでそうだったが、フォロワーはたくさんいたから、一応、人気モノってことになるのかな?

紅子って、確かに、いつもケイにベタベタまとわりついていて、お弁当作ってきたりとかしている子だ。あの子と付き合ってたんだ、へー、知らんかった。

パンを全部拾い終わると、紗々は袋の破れなどがないかをひとつ一つチェックして、ケースを持ってスッと立ち上がった。

何か仕返しでもされんのかと思った紅子は、ビクッと後ずさりしたが、紗々はただパンのケースを教室に持って入っただけだった。

「なによ、無視すんの?」
紅子が教室の中に入ってきてまでそういって、紗々に突っかかってきた。どうも、この紅子ってのは、人の後をまとわりついて歩くのが習性らしい。

購買のパンは、教室一番後ろの本棚の上にケースを置いて配ることになってる。パンを待ち構えていた人に次々に札と交換しながら、紗々は黙々と作業を続けていた。

自分の片思いの相手や彼氏が紗々になびいた女子は興味津々で野次馬していたけども、それ以外の人たちにとっては、紗々はただの購買係をしている転校生なので、紅子の絶叫内容などはあまり興味が無さそうだった。

私だって、ほんの少し前までは、このあまり興味のない方の軍団だったと思うけど、いや、ちょっとくらいは面白がったかもしれないけど。今は紅子に責められているのが紗々だから、傍観はできない。

いつも遅刻しそうな私のためにドアを開けてくれてる多摩川さんと並んで紗々たちのやりとりを見ていた。

どうも、ケイが紗々と仲良しなのが気に入らないらしいのだが、2人が何でもないのは私が良く知ってるので、本来ならばこの紅子の怒りはケイにぶつけるべきものなんだろう。


しかし、今日まで学校内で空気のような存在だった私が何かを発言したところで、この紅子の怒りが鎮まる感じも、そもそも私の意見に誰かが耳を傾けてくれる気もしない。

そう思ったので、ちょっと面倒だけど、ケイにこの場を納めてもらうように言おうと、ケイの教室まで行った。

「ケーイ」
ちょうど、ケイが席を立って、パンツのポッケに手を突っ込んで教室の後ろドアに向かって来るところだったので、廊下からケイを呼んだ。

「んだよ、お前。今日、もう来るなっつったろ」
「だけど、紅子って子が、紗々がケイを盗ったって言って、うちの教室ですごい怒鳴ってんだけど」

「うっわ。なんじゃそりゃ」
「知らないよ。でも、紅子がどんどんヒートアップしてるし、なんか泣いてるから、ケイ止めてよ。紗々がなんか言うと、また大騒ぎになるから」

「ん~~~~」
と言いながら、眉間にしわを寄せて、顎に手を当ててすごい考え込んでいたけど、ハアってため息ついて、いっしょに教室に来てくれた。

廊下からも聞こえるぐらいに、紅子の罵詈雑言はすごかった。よほど悔しかったか、よほどケイのことが好きか、それか両方なんだろう。半泣きになりながら、力の限りの悪口を紗々にぶつけていた。

紗々は心のスイッチをオフにしているのか、パンのケースが乗っている本棚に肩ひじを預けて、能面のような表情のない表情で紅子を見つめ、うんともすんとも返さなかった。言われっぱなしともいえるし、見当違いなことをしている頭のおかしな人を黙って見ているともいえる。

一緒にうちの教室まで入ってきたケイが、怒鳴っている紅子の後ろあたりに立って、少しだけ言っている内容を確認してから

「おい、紅子」ケイが聞いたことないような荒っぽい口調で紅子を呼んだ。一緒に入ってきた私は、ケイの斜め後ろくらいのところに突っ立たまま、ケイがどうやって事態を収拾するつもりなんだろうと思ってた。

ビクッとして紅子がケイを振り向き、「ケイ、ケイ、ケイ」って何度も呼びながら、小動物がぴょこぴょこと歩くみたいなステップで、ケイのところにすっ飛んで来る。

ついでにお連れの3人組も、紅子良かったね的なことを口ぐちに言いながら、ケイのそばまで一緒にやって来た。

お連れの3人が「早乙女君、夏木さんにちゃんと言ってやりなよ、俺の彼女は紅子なんだってことを!」「そうよそうよ、じゃないと、紅子がかわいそうよ」「早乙女君に言いよっても、無駄ってことをわからせてやってよ!」みたいなことをケイに向かって言っていた。

その話が全く耳に入っていないような感じで、ケイが紅子に向かって「あのさ俺、お前と付き合った覚えないけど?」って普通のトーンで言う。

3人組は、ほうらごらん、あなたとなんて付き合ってないってよって勝ち誇った顔で紗々を振り向いたが、よく見ると、ケイがお前って言ってる相手が紅子だってことに気が付いて、慌てて口を抑えたり、表情を変えたりしていた。

「え、だって、私、毎日お弁当作ってきてたし、ケイが好きな味のクッキーとか、ケイ食べてくれたし。だから私、てっきり、ケイも私のこと好きって思ってて、だから」
ケイが私を好きじゃないなんて想定外だっていう表情で、みるみる鼻声になりながら、涙をためてケイを見ながらそう訴える紅子。

「あの、さ。どういう発想ならそうなるわけ?なんで弁当作って来ると彼女になるんだよ?っていうか俺、お前のインスタの餌にされんの、マジで迷惑なんだけど」
私が子供のころから知っているはずのケイは、私が今まで一度も聞いたこともないような、乱暴かつ冷たい口調で言い放った。

「でも、でも、だって、私………」
この言葉の後は、ケイが好きなんだものって言うんだろうなって思って、期待して見ていたんだけど、ケイは言わせねえぞくらいの勢いで

「俺、お前のこと、なんとも思ってないから。こんなの迷惑だから、今後、俺にも夏木にも二度とかまってくんな」
ってものすごく冷酷な内容を、1ミリの愛もないのがわかる、乾いた口調で言い切った。それを聞いて、紅子の中の何かがブチっと壊れたらしくって

「何よおおおお!夏木紗々のどこがいいのよおおお」
そういって、両手をブンブン上下に振りながら、顔を真っ赤にして怒鳴りはじめた。

「あ、あんたたち、昨日、園町のラブホ街にいたんでしょ?私、知ってるんだから!朝礼で先生が言ってた話って、あんたたちのことじゃないの?黙っててやろうと思ったけど、我慢できないから言ってやるわ!夏木紗々はね、あっちこっちで男をたらしこんでる女なの。こんな汚れた女にのぼせ上って、騙されて、ケイなんてバカよ!」

「あほか」
ケイはそう言って、紅子の脳天にズビシっと、全く手加減なしの空手チョップをした。ちょうど髪の毛の分け目で、地肌直撃だったらしく「った!」と言って紅子は頭頂を両手でおさえた。

ケイは「言いすぎだぞ」と大きな声で言って、それから「それ以上言えば、なんとも思ってないから嫌いになるぞ」、と紅子の耳元で低い声で言った。

本当にあれはケイなのかと思うほど、怖い声で、あれは、脅しているのと一緒だった。紅子はちいさい声で、それは嫌!ごめんなさいって、ケイに言って、走り去っていった。

「俺じゃねえだろ、夏木に謝れよ」
廊下越しに大声で言ったが、それだけはしたくないようで、紅子は聞こえないふりをしてお供の3人を連れて走り去っていった。

私は紗々が大丈夫かなって思って紗々を見たら、普通にパンのケースから自分の分のパンの袋を持ち、その場で立ったまま紙袋の中から、パンを少しちぎってはモクモクやっていた。なんか、こういうことに慣れっこな感じで、何の痛痒もない表情をしていた。

こういう時、紗々にこの場で声をかけるべきなのか、あとでするべきなのかを迷っていたら、ことの顛末を見ていたセクシー後藤が、机に半分もたれかかりながら、ケイに向かって話しかけた。

「ねえねえ。早乙女君て、いつの間に夏木さんと付き合ってたの?」
すっごいストレートにそう聞いてきた。つい、その場にいた全員が、セクシー後藤を見てしまう。

この人って、なんかいろいろストレートな人だよなあ。教室に残っていた人たちも、今回の事件の中では、まさにそれを聞きたかったので、全員、「よっしゃ!ええこと聞いた」って心の中でガッツポーズしてたと思う。

「いや、付き合ってないよ」
「えー、じゃあ、なんでラブホ街にいたのよ」

「あー、残念だが、そこには居てないから」
「じゃあ、なんで、2人で紅子に目撃されてんのよ」

「別に2人でいたんじゃねえよ。園町の別々の場所に親と一緒にいたんだけど、制服のままだったから周りの人にそう誤解されたの」
「そうなの?」

「そうだよ、だから今朝の先生たちの説明も、そうだったろ?」
「そうね、そういえば。別に何も悪いことしていないって言ってたもんね」

「そういうことです」
「へえ、じゃあ、なんで紅子はあんなこと言ってんの?」
「それは知らねえ、俺が聞きたい」

「ねえねえ、つまり、紅子とも付き合ってないんでしょ?」
「全くもって違うね」
これに関しては吐き捨てるようにそう言った。

「なあんだ。じゃあ、フリーってことじゃん。ねえ、早乙女君さ」
「あ?」

「私と付き合わない?」
突然の、ド直球な告白に、一瞬、教室にいるメンバーがざわッとなる。

「なんで後藤と俺?てか俺、もう女いいよ、面倒くさいから」
「じゃあさ、別に付き合わなくていいよ、デートしてよ。そんくらいならいいでしょ?」

ケイの後ろからそれを見ていて、私はセクシー後藤を尊敬してしまった。そして、私は彼女から頼まれていたデートの橋渡しの件を完全に忘れていたことを思い出した。

それにしても、興味のある男子にこんな風に自分からガシガシ迫れるって、さすがだわ。しかも、上手に受け入れやすいデートの話に持っていくとか。さすが、セクシー後藤の異名を持つだけあるわ(つけたの私だし、そう呼んでるのも私だけなんだけど)と、感心していた。

紗々はしばらくパンケースの周りで起きている出来事に付き合って立っていたけど、全員の興味が後藤さんの方に移動したので、自分の机に戻って、ぐったりと突っ伏していた。

結局、教室内では今朝の話は、紅子事件としてみんなの脳内記憶が塗り替えられた。

セクシー後藤がその場でいろいろとズケズケ質疑応答してしまったせいで、真相がとりあえずわかり、先生の言っていることとつじつまが合っていたので、それ以上つつくことがなくなって、みんなはこのことに興味を失ってしまったようだった。

そんなことよりも、なんで紅子は自分たちが知らなかったことをあんなに知っていたんだ?ってことに話が引継がれ、紅子がケイを追いかけまわしていたことから、ケイをストーキングしているってことになってしまい、紅子は完全なネタになった。

紗々に対してあまり良く無い印象を持っていた女子たちも、紅子があそこまで大声で鮮烈な悪口言ってくれて少しスカッとしたんだろう。なんか、今更になって「何もあそこまで言わなくてもねえ」「かわいそうよ」みたいな感じで、いい人ぶっていた。

お前らは本当にいい加減にしろ。どっちなんだよ、ホント。

とりあえず、こんな事件が夏休み直前にあったわけ。その日の午後、私はケイとデートできる約束を取り付けえたセクシー後藤から「ありがとね」とお礼を言われた。私はなにもしていないんだけど、「全然!」と答えておいた。

夏休みが始まった。うちの学校は夏休みが長く、7月上旬から9月後半まで丸2か月以上ある。その間に登校日みたいなのがないから、完全なるバケーション。

家族で海外や、長野あたりの避暑地の別荘に引っ込んでしまう人たちも多い。中には、クラブ活動なんかで学校に来ている子もいる。

私はクラブ活動はしてないし、うちは別荘なんてもっていないので、毎年、長い夏休みを過ごすのが大変だった。

昔の友達とも疎遠になってくるしね。会っても、年齢的に、どうしても恋愛系の話とか増えてくるから、相手の男子の情報を知ってないと、こっちも雲をつかむような話でつまらなくなるから、だんだんお誘いも断るようになった。

だから、家で映画見たり、ママと買い物に行ったり、親と旅行に行くとかが私にとっての夏休み。あ、1人で買い物したり、もだ。

でも今年の夏は、紗々とケイと3人で遊べることがわかっていて、すごく夏休みが楽しみだったから、やっと!やっと!夏休みが、私の夏休みが始まるって感じで、すごい気分が上がる。

紅子事件の後、夏休みが始まるまでの間の数週間、私たちはその後も普通に朝と夕方、タイミングを合わせられるときには2人か3人で帰って、ケイか私んちかでお茶をして遊んでいた。

前は、学校から歩いて20分くらいの駅前ローターリーにあるマックにもたまに行っていたけど、制服でいると何か言われるかもしれないからと用心して、ケイが私たちを人が多いところへは行かせないようにしていた。

あんな事があったから、紗々は傷ついてないかなって思って、さりげなくいろいろ聞いてみたけど、紗々から言わせると、あんなのは東京であったことに比べたら「ハナクソレベル」だということだ。一体、紗々は東京で何があったんだろうか。

紗々の家にはあの後、一回も行っていない。それは、紗々の家で、庭の手入れが始まっていて、工事の音があまりにもうるさかったから。庭の手入れっていっても、実際には森を開拓しているのと同じだった。

こないだママとスーパーの帰りにちょっと覗きに行ったら、ブルトーザーが2台とコンクリートのミキサー車が入っていた。あの古い門は結局、引いても押しても動かないので門ごと取って付け替えるんだって、ちょっと顔を出してくれた家政婦さんの小曾根さんが言っていた。

夏休みが始まる前までは主に、私の家で集まった。ケイのママが夜勤が多くて、昼間の時間家で寝ていることが増えたから。

ケイにとってうちは実家みたいなもんなので、家にケイがいるのは見慣れた風景なんだけど、紗々が初めて来た時のお兄ちゃんたちったら面白かった。

修人なんて、浮かれて、リビングで突然リフティング披露とか始めちゃって、電気のカバーにボールが当たって飾りのついたガラスが壊れて、ママが激怒していた。

あのおとなしくって賢い学人ですら、紗々が通り過ぎるのをじーっと目で追っていた。こういう時の態度で男のタイプがわかるなって思った。修人は100回フラれてもアタックするタイプ、学人は絶対ムッツリタイプだ。

でも、わかるわかる、私も最初そうだったから。紗々にかかったら、男だって女だって、みんなこうなっちゃうのよ。そう考えると、なんでケイって紗々を前にして、平気でいられるんだろう。不思議。


私たちはいつも、ママが作ってくれたお菓子とかをつまみながら、いろんな話をしていた。私たちには、同年代やクラスメイトとかがハマることにあまりハマらないっていう共通点があった。

例えば、自撮りをした画像や動画をアップしまくる、そういうのを延々と見る、好きなタレントのフォローをする、一日中チャットをしてる、人の恋愛の話、とか。

そういうことに触れないわけじゃないけど、そういうのばかりやるっていうのが向いていない性格の3人なのかもしれない。

もちろん、たまに写真撮ることはある。誰かの誕生日の時とか。でもそれを3人でシェアすることはあっても外に発信はしない。

散歩の途中、ステキなバラの花が咲いてたり、可愛い子犬を見かけたら、写真を撮ることはあるよ?でも別に、それをアップしようって思わない。

私はずうっと、そういうことをする相手がいなかったから、してないのが状態になってしまったわけなんだけども、ケイと紗々は、はじめっからしていない。

私が、ことのなりゆきでそうなったことと比べると、ケイと紗々は、自覚があってやっていないって感じ。

ケイはスマホはあるけどアカウントを作ってさえいなかった。ケイはすごく友達も多いし、ケイのファンの女の子も多いから、SNSやっていたらすごいだろうけど、そういうことを一切しない。時間の無駄、エネルギーの無駄なんだってさ。

紗々は前も話したと思うけど、LINEは家族とごく少数の人としかしてない上に偽名だったし、その他のアカウントも持っていなかった。この名前、誰?って聞いたら、おばあちゃんの名前だった(笑)

一度、紗々に、なんでしないの? 紗々なんてやったらすごいことになるに決まっているのにって聞いたら、逆に「だって、何のためにするの?」って聞かれて、すごく返事に困ったことがある。

だから、会っているときに私たちが話すことは、例えば、学校内で起きてる事に対して自分はどういう感想を持ったのか、とか、一緒に見たDVDに対して自分はどう感じてるか、などを自由に話してた。

3人では、とにかく、思ったことは何でも自由に話していいの。こんなことを話したら、こういう風に思われるとか、ああいうう風な受け取られたらどうしよう………とか一切の心配をしないでいい。

3人は、互いにジャッジをしないって決めてた。

どうしてそういう風になったんだか忘れちゃったんだけど、とにかく、私たちは、私たちが作ったルールで考えて話そうってことに、自然となった。

例えば、誰かの聞いていて、自分の中に浮かんできた気持ちがあったら、正直に話す。失礼なことじゃないならば。

だから安心して、学校の話でも、親の話でも、ニュースの話でも、政治の話でも、なんでも自由に話せた。

だから、たまにヒートアップして演説みたいになるときもあるけど、そういう時でも最後まで話を聞いて、それで、その演説に対して、自分なりの意見を言うっていうのだった。

もちろん、お笑い番組見て、おなか抱えて笑うこともあるよ?
紗々が、ケイが子供のころ、紗々の家で見たアライグマに角砂糖置いてきたっていう話の意味がわかんなくて、三人であらいぐまラスカルのアニメ見て、最後、ラスカルを自然に帰すシーンで号泣してたこともある。

私はたぶんこれは、子供のころ、ケイと一緒に幼稚園で見たような気がする。

この3人で話していると、私たちはまだ大人にはなれていなくて、それぞれが本当にバラバラの条件を持っているはずなんだけど、それでもちゃんと人は分かり合えることができるっていうのを実感する。

それに、思ったことをちゃんと言葉を選んだ上で本当のことを話せているので、お互いに嘘をつかないことがわかっているから、嘘をつく必要がないので、話しててとても楽。

思ってもいないことに、無理して合わせなくていいのが身体が楽な感じですごく良い。好きなのも嫌いなのも自由なのが楽しくて、だから、私はもしかしたら、こんな友達が欲しかったから、すっと1人で過ごしていたのかもしれないな、とさえ思った。

私たちはよく、私の部屋でダラダラしながら、本あそびっていうのを、3人でやってる。紗々が、前の学校でよくやってたって言って、教えてくれたやつ。

内容は単純で、自分が好きな本借りてきて、それぞれ、その本の内容に「感動」したら、その内容を自分の言葉で話すっていう遊び。

ちょっと演劇っぽい要素があって、私はこれがすごく好き。誰か登場人物の一人になって話すのでもいいし、普通に話をまとめて話すのでもいい。

この遊びには「感動したら」っていう絶対条件があるから、感動した部分がなければ、やらなくてもいいの。だって、それだと話すことがないから。

その本を読まないでも人の口から物語が聞けるし、その人が何に心を動かされたとかがわかって、らしさが伝わってきてすごく面白い。感想文のような無味乾燥な感じとは違う、もっと、その話の中を生きているというライブ感がある。

夏目漱石の「吾輩は猫である」のとき、この時は、私が話す人だったのね。それで、話を進めていくにつれて、途中で

「え?ちょっとまって?」
「え?これ、誰の話?」

ってなって、私が「え?猫」って答えた。

つまり、私は完全に猫の立ち位置でこの話を最後まで読んでいたんだけど、ケイは英語の先生の立場、紗々は作者の立場で読んでたことがわかって、びっくりしたことがあった。

この時、3人ともはじめて、読む人によって誰を通して世界を見ているかが違うことに気が付いたんだよね。

それ以来、本のことを話すときには、これが誰なのかも言わないで言う、という要素が足された。

だから、多少の演技力も必要になるんだけど、その人物を理解してれば普通にできる。一瞬だけど、自分とは違う人生を歩んでいる気分になるのも面白い。

やればやるほどうまくなるから、どんどん3人でのめり込んでいった。やってみて、感動が伝わったら、次は自分でその本を借りて読んでみてもいい。すると、全然自分が違うところで心をつかまれることとかあって、それもまた面白かった。

3人とも収穫ゼロの時もあるし、3人とも感動感激しちゃって、わしに話させろ!って伝える係の取り合いになるときもある。スマホの青空文庫を使って、同じ本を読んでやることもあった。

マンガでやっていたこともあるんだけど、マンガだと絵がかいてあるし、どこが感動するべき場所かを絵で示してあるのが、私たちには興覚めっていうか、なんか物足りない感じがして、結局、本に戻った。

こんなことして遊んでるって、他の人たちが知ったら、ちょっとびっくりされるかもしれない。

たまに3人で「誰か誘ったらやるかな?」て話になるけど、たぶん、最終的にこれやってる姿を動画なんかに取られてSNSにアップされるくらいなら、誰も誘いたくねえって話で終わった。

学人に話したら「それは良い遊びだね。知的でステキだし、創造的だ。そんなん、俺はその年齢の時には思いつかなかったよ。俺も混ぜてほしいくらいだよ」って言っていたので、私の中では東大生お墨付きの遊びってことになってる。

今日は、本の収穫ゼロの日だったから、3人で「なーんだ、つまんねーの」って感じで、私の部屋でお菓子食べて、床に寝転がりながら、夏休み何するかって話をしていた。

紗々が、もうすぐ紗々の庭の工事が終わるから、そうしたら森の中に山小屋みたいなの作ってもらったから、そこでキャンプしようよって提案してくれた。ケイがガバッと起き上がって「マジ?」と言ってすごい嬉しそうにしていた。

ケイはキャンプが好きなんだけど、両親が離婚してからはお父さんが忙しいから行かれないし、学人も修人もキャンプとかには全然興味ないから、一緒に遊ぶ人がいないっていつも言ってたのね。

仕方がないから、ベランダにテント張って、寝袋で寝起きしてんだって。1人で行きたいってお願いしても、なぜかケイのママが許してくれないので、ケイからしたら大チャンス。

「一応、水道と、電気は通してもらって、トイレもあるよ。でもシャワーとかはないから、それは母屋に行って使うの」
「なんでそんなの作ろうって思ったの?紗々」

「あー、最初はね。大きめの犬小屋を作るって話だったの。だけど、それはやっぱりいらないかって話になったんだけど、そのカタログに山小屋風ログハウスっていう、半分くらい組み立ててあるのが売ってて。ちょうどその日、パパがいたから、ダメもとで頼んだら、あっさり聞いてくれた」

「いいなあ、紗々のお父さん、優しいね」
「優しい?うーん。まあ、そうかもね」
「泊れる感じ?」ってケイが目をキラキラさせて聞いている。

「泊れるんじゃない?布団とか持っていけば。なんなら外にテント貼ってもいいよ。先月からさ、ママが美容の会社はじめて、付き合いなんかで忙しくてあまり帰ってこなくなっちゃったの。だから晩御飯も一人が増えて、ちょっといやだったから2人とも毎日来てよ」

「おおおおおお、すげえ!やっと、やっと俺のテントとBBQセットが!」
「御飯、どうするの?紗々が作るの?」

「ううん?小曾根さんが作っておいてくれるから。言えば3人分作っておいてくれるし、夏休みだから、私たちがなんか作ってもいいよね」
「楽しそう!泊りなんてママ許してくれるかなあ」

「マイマイ、俺が子供んときみたいに、おまえんちに毎日遊びに行けばいいんだよ。もし泊りがダメでも、俺が一緒なら、夜遅くても近所だから帰ってきてれば文句いわれないだろ」
「あ、そっか」
確かに、ケイが一緒なら、ママもパパも何も言わないな。

一応、ママには紗々の家に山小屋ができることを言って、夏休みは主に、そこに遊びに行ってることを説明しておいた。意外にも、何泊もはご迷惑だからダメだけど、1日とかならたまに泊ってもいいわよ?ってママが許してくれた。

3日後、完成した山小屋の記念パーティーを3人で開くことにして、集まった。山小屋って言っても、出来立てのピカピカで、周りも危なくないように道がコンクリートで作られていた。山小屋は、黄色に近いベージュの明るい色の木でできていて、屋根もパステルブルーに塗られていて、なんかおもちゃみたいでカワイイ。

こういうのフィンランド式ハウスっていうみたいって紗々が言ってた。かなり庭というか森を切り開いて作った場所なので、山小屋から母屋にはあるいて8分くらい。門までは歩いて5分くらいかかる。

2人が並んで歩ける程度の幅があるコンクリートの道には、足元に外灯がつけてあり、危なくはない。ただ、山小屋の2メートルくらい後ろにはもう木々が生い茂っていてるから、夜はちょっと怖いかも。

夜使うときには、犬小屋のカギをかけずに犬を開放しておいてくれるって紗々が言っていたので、もしケイがいなくても、泥棒なんかの心配はしないでも良さそう。

ママがマドレーヌとかクッキーとかの焼き菓子を「紗々ちゃんに」って山小屋完成祝いに焼いておいてくれたので、それと、私が自分で作ったカップケーキを持って行った。ケイは、大量のキャンプグッズを持ってきていて、今晩は、ここでカレーを作ってくれるらしい。

テキパキとテントを張り、山小屋の柱に何かをひっかけてはロープを引っ張って雨よけみたいなのを張っている。電動の虫よけや、持ってきたBBQセットなどを設営して、忙しそうだ。

ケイって、どっちかっていうと、いつも、何となく不機嫌でなんとなくダルそうなんだけど、今のケイは生き生きとしてる。しかし、これだけのキャンプグッズ、1人でコツコツ買い集めてたのかと思ったら、なんか笑えた。

紗々は、家の大型犬を二匹とも連れてきて、山小屋の周辺を散策させていた。ここに紗々がいるってことをわからせておかないと、いけないみたい。犬は、紗々のすぐ近くを歩きながら、一匹ずつ、少し離れた場所まで行って、警らをしていた。

犬はこの前見たときは大型犬ってことしかわからなかったけど、よく見たらシェパードだった。警察犬のやつじゃん。

「この犬、頭いいんでしょ?」
「ああ、シェパード。うん、頭いいね。なんか、刑事のおっさんみたいだよ」
両脇に護衛のように座った二匹の犬を、右左の手でそれぞれ撫でながら紗々が言った。

「紗々の言うこと聞くの?」
「まあまあかな。やっぱりパパの言うことを一番聞くよね、次はママかな」

「やっぱそうなんだ。いいなあ、私も犬飼ってみたい。小型犬でいいから」
「小型犬もいいよねえ、部屋で飼おうかなあ」

なんて話をしていたら、出来た!って言って、ケイがキャンプの完成をお知らせしてくれた。山小屋のすぐ前に、モスグリーンの大きめのテントが張ってあって、その上に、運動会の時に使う仮設ブースみたいなのがあって、あれは雨よけなんだって。

かなり大きく見えるけど、テントは2人用だから、新しく3人以上のやつと、冬用の寝袋も買おうって張り切っている。

山小屋の正面から3Mくらい離れたところに砂利と砂で作った子供用砂場みたいなのが作ってある。紗々が、そこでBBQができるといいなと思って作ってもらったんだけど、ケイがそこにかなり本格的なキャンプ用グリルを運んできて、飯盒などがきれいに置かれていた。

まだ使ったことが無かったみたいで、飯盒もセットもピカピカだ。

「だってさあ、ベランダでやろうとしたら、おふくろがキレるんだよ。七輪でサンマ焼くのはよくてなんでBBQがダメなんだよ。それに、普通の公園とかはBBQってやっちゃいけないんだよ、知ってた?」だそうだ。確かに火を使える場所ってそんなにないから、こんな広い場所でもないと出来ないよね。

じゃあ、これは夜になったら使うってことで、とりあえず、新しい山小屋の中で、まずはお昼を食べることになり、みんなで部屋に入った。

コンクリートの道は山小屋の最後の端っこまでつづいていて、コンクリートの高さのところから、山小屋に上がる広めの階段が4段ついている。4段目が玄関前の場所になっていて、小さい椅子なんかも置けそうな広さがある。山小屋の両脇には、山小屋と同じ木材でできた木の囲いがしてあって、落ちたりすることはなさそう。

小さなガラス窓が6つついた木の玄関扉があり、同じ壁の面には玄関の扉と同じように6つの小さな窓がついていた。これは開かない窓みたい。

中に入ると、木の良いにおいがした。なんか、健康になれそうな香りだ。内側も外と同じ、明るい木肌で作られていて、ニスとかが塗っていないから、もっと素朴な感じ。

外から見ると三角のとんがり屋根なんだけど、玄関の高さは普通のおうちくらいだ。玄関の
右側にトイレ、その隣にコートなんかをかけるためのクローゼットで扉がないものがある。

玄関上がって正面の木の扉を開けると、右側にダイニングキッチン、左側にリビングだ。多分、16畳くらい。天井の高さは3Mくらいなので、紗々の家の母屋の方が天井は高いんだけど、とんがり屋根の真ん中あたりがリビングの真ん中あたりになるので、天井が遠くて、すごく広く感じる。

天井からは小さなダウンライトが、いくつも固定されている。

キッチンは木枠の内側が白い素焼きのタイル囲まれているアイランドキッチンというやつで、シンクや調理をするる部分がリビングのほうを向いている。ちょっと覗いたら、小さめの電磁調理器がおいてあって、シンクも小さめだった。

キッチンは小さめなのに、それに比べて、やけに大きな冷蔵庫がドーンと入っていた。ケイがキッチンにすっ飛んでいって、嬉しそうにそのキッチンの扉を開け閉めしている。

部屋の左側には、壁にある大きな木の柱にビス止めされた、扉くらいの大きなテーブルがしつらえてあった。これは、真ん中に蝶番みたいなのがあって、折りたためるらしい。

テーブルの周りには藤で編んであるタイプの背もたれが付いた椅子が4脚、あとは、部屋の端っこに、巨大なビーズクッションが水色・ピンク・パステルグリーンと3色置いてある。これは、私が紗々と一緒に通販サイトで選んたもの。

部屋の床も天井も全部同じ木材で出来ていて、窓の枠やドアの枠も全部同じ素材でペンキなどを使っていないので、本当に、ここにいると身体が浄化されてしまいそうな気がする。

さっき入ってきた玄関扉は、紗々の家の石垣の壁のほうを向いているんだけど、その反対側になる森の中に向かって、2M四方の大きな窓がとってあって、そこに光が下りてくるように小さな天窓もついていた。紗々んちは天窓好きだな。

天窓の横あたりに、小さな1人用の階段があり、ロフトの床面から天井までの窓があるロフトに続いている。ロフトは、木の手すりがついたベランダになっていて、そこには白い天体望遠鏡が置いてあった。

「あれ、望遠鏡、紗々の?」
「ああ、うん。そう」

「へえ、紗々、星が好きなんだ」
「うん、星っていうか惑星が好きなの。この山小屋お願いするときも、この望遠鏡置く場所が今の家にないから作ってほしかったの」

「へええ。あ、そうか、平屋だから?やっぱり高い場所のほうがいいの?」
「そうそう。前の家は、マンションの12階だったから、何でもすごい良く見えた」

「へええ、今ってなんか見える?」
「もうすぐ、土星が見えるよ」

そう言って、紗々は遠い宇宙を見るような表情になった。ケイは夜のクッキングに使う予定の肉や野菜をせっせと自宅から担いできた大きなクーラーボックスから出して、チルド室や冷蔵庫に詰め直してる。

山小屋の外から、「お待たせしましたー!ピエロピザでーす」って声がして、紗々が「はーい」って言いながら山小屋の玄関に向かった。

門から山小屋までバイクで乗り付けて来たピザ屋のお兄さんが、ピザを三箱手渡して、紗々のことをジーっと見ながらバイクにまたがって帰っていく。

「ママがお昼頼んどいたって言ってたの。これだったのね!」
と言いながら、Lサイズピザを三箱、よいしょっていいながらテーブルに運んできた。すっごいいいにおい!

「冷蔵庫にドリンク買っておいたから、適当に出していいよー」
っていう声よりも先に、ケイが冷蔵庫からコーラと炭酸水と、氷の入った袋を出していた。そのボトルを受け取って、私がテーブルに置いてあるガラスコップに氷を指でつまんで入れて、ドリンクを注いだ。

「あー、いいねえ。俺の好きな、ガーリックチョリソーのニオイがするねえ」
って言いながら、キッチンで手を洗ってる。みんなで次々とピザの箱を開けて、パーティーの始まり。

かんぱーい!ってして、ピザを平らげる。山小屋だけど本当の山じゃないから、空調もきいてるし、自然な木の良いにおいがしてて、この山小屋って気持ちいい。

壁に作りつけられている大きなテーブルを折りたたんでみたら、ずいぶん部屋が広く使えることがわかったので、脇に置いてあったビーズクッションを使って、みんなでだらしなく床に座った。

はあ、おなか一杯で幸せ。ケイは朝から張り切って準備してくれていたせいか、ピザ食べたらビーズクッションに腹ばいになったまま寝てる。

私もうとうとしてしまう。紗々は、あまりにも細いせいか、ビーズクッションの上に上手に座っていられなくて、仕方がないのでビーズクッションを壁際まで持って行って、上半身だけもたせ掛けていた。

ケイが夕方前くらいに目を覚まし、夜のキャンプの準備をし始めた。私たちはケイに言われた通りに野菜を洗ったり、切ったりする係。


夜のテントはかなりステキだった。テントの中にはオレンジ色の小さなランプみたいなのがつるしてあって、3人で入ってみたら、ほんの少しだけ狭い感じだけど、なんかテントに守られている感じですごく居心地が良かった。

でも熱がこもって暑いから、外に出た。冬ならいいかも。

ケイが虫よけをたくさんつけてくれてるので、テントから外に出て、普通に座ってても大丈夫だった。二匹の犬は紗々のそばから離れず、山小屋の入口のところで並んで大人しく寝そべっている。

ケイがBBQコンロのところで、上手に玉ねぎ、肉、人参、と正しい順番で炒め物をしながら、本格的なカレーパウダーをチャチャっと振って、手際よくカレーを作っていく。

「ケイ、慣れてんねー、料理」
私が、ケイが持ってきた折り畳みの小さな椅子みたいなのに座って、ケイの手元を見つめながら言った。

キャンプと言ってもキャンプファイヤーするわけじゃないから、実際にはBBQセットの木炭だけが火だな。これも実際にはチャッカマンで着くやつだけど。

「ほんとだ、ケイ。すごいね。実は私、料理できないんだよね」
紗々が立ったままケイの料理を眺めながら言う。

「え?そうなの?なんか紗々って何でもできそうなんだけど」
私は小さな椅子に座ったまま、しゃがんでるみたいなポーズで顔だけ後ろに立っている紗々を向いた。

「いや、全然。料理はねえ、なんか完成したことがない。本見ながら作っても、なんか違うものが出来上がってくるんだよね。我ながら恐ろしいよ」
「ああ、そういうタイプいるよね。俺のオヤジがそうだよ」

「えー、ケイのおじさんってそうなの?」
「うん。だからオヤジは毎年、BBQに精を出しているわけ。肉焼くのは得意らしい」

「あ、そうそう、紗々。お盆過ぎくらいにね、パパとケイのパパの会社で家族も呼んでBBQ大会毎年やるんだけど、紗々もおいでよ。お兄ちゃんたちも来るから」
「えー、ホント。楽しそう。行こうかな」
「うん、おいでおいで。人がいっぱいいるし、ちいさい子も一杯来るよ」

ケイがペットボトルに詰めておいた水道水を、鍋のなかにドボドボ注ぎ込んで、木べらでなべ底の野菜などを優しく剥がしていた。

「ホント、手慣れてるね、ケイ。家でもいつもやってんの?」
「おう、究極の母子家庭だからな」
ローリエの葉っぱを小袋から出して2~3枚入れながら、ケイが答える。

「ケイのママ、試験たくさん受けて偉くなったの。だから、いつも忙しいんだよ」
「ここんとこ、俺と昼夜逆が増えてあんまり一緒に飯とか食えてないけどな。でも、ごはん炊いて保温しておいて、トン汁とかカレーとかハンバーグとか、惣菜とかさ、そういうものまとめて作っておけば、どっちが帰ってきても、冷蔵庫から出して温めれば、すぐに食べられるじゃん?つくおきっての?」
鍋に浮かんでくるあくを丁寧にカレースプーンですくいながら、ケイが珍しく家のことを話す。そっか、今はそんな風なんだ。

「なんか、ケイ、私はあんたを見直したわ」
「俺の何を勝手に見損なっていたのかね?マイマイ」
ケイは鍋にふたをして、ちょうどよい加減の火があたる場所に、鍋を少しずつずらしながら、そう言った。

夕焼けも終わり、チャコールとランタンしかない頼りない光の中で、両方のほっぺにげんこつで頬杖ついて、私はケイの健気な人生を本当に偉いと思った。

だいたい私、カレー最後まで1人で作ったことないし。ケイ、ハンバーグなんて作れんのか、と尊敬してしまった。

「ほい、これでジャガイモに火が通れば出来上がり。あとは飯盒で飯を炊く、と」
と言いながら、洗ってざるにあげてある米を、飯盒につめて手首までの水分を計りながらBBQコンロにかけた。

足されたチャコールが酸素を取り入れて赤々と燃え、パチパチと燃える音がする。子供のころにキャンプファイヤーに行ったときのような臭いがして、少し懐かしくなった。

「マイマイ、そこにあるレタスちぎって、サラダにしといてよ」
私のすぐ左側に置いてある、きれいにあらあってある生野菜が入ってる大きなボールをケイが指さした。

「りょうかーい」
上半身だけ左側に向けて、大きなボウルをズリズリ自分のほうに引きずって、中をのぞくと、プチトマトが数箱と洗って芯が抜いてあるレタスが中くらいのボウルに入っていた。ボールの中に入っている中くらいのボールを出し、大きなボウルにレタスをちぎり入れることにした。

「ケイ、私は?私もなんかやりたい」と紗々が言う。ケイはクーラーボックスの中からオリーブオイルとなんかスパイスの入ったちいさい袋と、黒っぽいお酢を出してきて

「じゃあ、はい。紗々はこれで、ドレッシング作り」
「ええ?ドレッシングって作れんの?」
「紗々………マジか、お前」
しゃがんだ状態でケイが紗々を見上げて言う。紗々は立った状態で腕組しているので、実際にマジかと言われてるのは紗々なんだけど、ケイが言われているように見える。

「私もママが作ってるのは見てて知ってるけど、何入ってるのかは知らないよー」と私が続けて言うと

「マジか、お前ら」
本気で呆れた顔をしてケイが私たちを見た。まあ、確かに今、この3人で最も女子力があるのはケイだ。

「ケイ、そして、このグッズは、どこで混ぜるの?」
「なんか、空いてるペットボトルの中に入れて、適当に振りゃあいいよ」
「おー、なるほどー」って言いながら、紗々は山小屋の中に空きペットボトルを探しに行って、結局、1.5リットルの空ボトルしかなかったので、それで作ることになった。

紗々に任せておいたら、お酢とオリーブオイルの量のバランスがおかしくて、調整するために何度も足していったら、1リットルくらいのドレッシングが出来上がってきた。

ケイがなんで業務用になるんだって言いながらゲラゲラ笑い、味見したらすんごい酸っぱいことに紗々と私がなぜかツボってしまい、腹筋壊れるかと思うくらい笑った。

パチパチと音がするコンロの上で、飯盒ごはんが炊ける臭いを嗅ぎながら、私たちは3人で大きなボウルを囲んで、レタスをあるだけ全部手でびりびり千切り、プチトマトのヘタを取っては庭の茂みに放り投げながら、トマトをポンポンとボウルの中に入れて、ケイの家庭料理のレパートリーの話を聞いていた。

幸せだな。
そう思った。


タイムマシンがあるなら、少し昔の自分がいる世界に戻って、そっと教えてあげたい。
あれだけ時間と空間を持て余していた自分に。

だけど、それで大丈夫なんだって教えてあげたい。
さみしさや心細さから、仲間に入れてもらうために無理をしたり、自分を隠したりしないでも、全然大丈夫なんだってことを、あの時の私に伝えて励ましたい。

私は私のままでいただけで、時期が来たら、私らしい仲間が出来た。
私、すんごく我慢弱くて、良かった。
私、正しかった。

そう、心からそう思えたからか、BBQの煙もないのに、ケイと紗々の姿が少しにじんだ気がした。


その頃、園町ではちょっとしたうわさが流れていたそうだ。
私は知らなかったけど。

そう、それはご推察の通り、例の、園町で制服姿のうちの学校の生徒がウロウロしていた件なんだけど。

私たちが住んでいるとこに一番近い大きな繁華街であるJR園町駅は、東京の郊外みたいなところで、新宿と同じくらいのデパート数やショップやモールの数がある。私たちが住んでいる桜駅からは3駅目。急行で10分、各駅で16分なので、とても便利。

ここにはJR以外にも複数の私鉄、バスが乗り入れているし、大きな企業の支社もたくさんあるし、かなりの大都市って行ってもいいような気がする。実際、必要なものは何でも揃うし、流行っているおしゃれなものもたくさんあるし、ネットなんかで話題になるたいていのお店と品物は揃ってる。

ただ、その繁華街エリアは、都心などに比べるとかなり狭いので、ショッピングモールや塾や予備校などと一緒に大人向けのお店も園町の中で一緒に揃っているわけ。

うちの学校の生徒で電車通学をしてくる子は、一旦、園町で乗り換えするので、多くの生徒は、園町にある塾なんかに通ってる。だから、聖レイジス学園では、在学中、18時以降に園町を制服で歩くときには、学校からの証明書が必要なの。

例えば、塾や予備校の18~20時の授業を受けていて、帰宅経路はこうですっていうようなことを証明するための届けを学校に出していない場合か、保護者が一緒にいない場合は、すぐに呼び出しで、割と厳しめの処分を受けることになっているの。

これは小学校~高校を卒業するまで同じで、ルールはルールっていうのがうちの学校のルールなわけ。

ちょっと厳しい気もするけど、このルールが徹底しているおかげで「聖レイジスはしつけが良い」って周りの大人に思われて、その結果、やっぱり良い家の子が幼稚園から入学して来るわけだから、これは学校にとっても、生徒にとっても、名門私立であるが故の、絶対の掟のようなものなのね。

何度か話してるけど、レイジスは不良もいないし、良い子が多いので、そもそも校則やぶりをするような子がほとんどいないのよね。実際、ケイのママがケイをレイジスに入れたのも、これが理由だった。

もっと忙しくなって夜間に家にいられないことになっても大丈夫な学校ということで、少し無理をしてレイジスに入れたらしいって、前に、うちのママとパパが、話していたことがある。

そんなわけで、うちの学校は夜に制服でうろついていると問題なわけ。それで、前に紅子事件で問題になった、うちの生徒がかなりの遅い時間に園町にいたって話が、実はいまだに父兄の間ではうわさになっていて。

その生徒がケイと紗々であることはわかっていないんだけど、保護者たちからすれば気になることなので、いろいろ探りを入れてくる暇な大人は多いってことなんだよね。

学校からは一応、プリントされたものが父兄に配られてて、どこの誰かは書いてないし、無問題であることは強調されてた。(袋を開けて、私たちが中身を見たから間違いない)

うちの親も、このことは気になるみたいで、私にもその話を聞いてきたけど、私は教室で先生が話した通りのことしか話さなかった。


で、ある日。
ママがパパの会社の用事に顔を出さなきゃならないことがあって、パパの会社がある隣の市まで行くことになった。午後はママがお買い物に行くって言っていたので、私も買って欲しい靴があったので、一緒に朝からついていくことにした。

午後は、パパと一緒にランチをした後に、昔の友達にちょっと会ったり、ママはママで昔のママ友に会ったりなどをして、そのあと、お買い物をして晩御飯を食べてから、電車に乗って園町まで戻ってきた。

夜10時近くに駅について、これから桜駅まで電車でいくか、それとも園町からタクシーで帰るかって話になったんだけど、タクシー乗り場が結構な人数並んでたの。

帰りの電車は混んでたから30分くらい立ちっぱなしだったし、荷物もあるから、電車に乗るとしても、まずはちょっとどこかに座りたいねってことになったのね。

だけど、お店もそろそろ閉店時間だし、どこか、座れるところっていうので、仕方がないからスタバでラテを買って、バスターミナルの真ん中あたりに噴水と花壇があるベンチがいくつかあるから、そこでちょっと休憩して、タクシーが空くまで待とうって話になった。

ママと一緒にベンチに座って、夜の園町を眺めながら、ショッピングモールの「70%OFFセール開催中」の垂れ幕が風にゆれているのを見て、ママと秋口に欲しいお洋服の話なんかをしていた。

園町から遠くに行くバスの何本かは、行き先を示すバス正面のところに赤いランプが灯って、最終であることを知らせていた。

私は、こんな遅い時間に園町にいたのが初めてだったので、なにもかもが珍しくて、そしてなんかすごく興奮してしまっていた。それをママに悟られないようにしながら、内心、かなり浮かれてた。

だって、見渡す限りどぎつい色のネオンがたくさんついているし、電灯以外は全部暗闇の中に沈んでいるのがちょっと怖くてドキドキする。昼間のお日様の光が何でも平等に照らしている時とは違う、ネオンをつける意志のあるものしか存在できない暗い強さの感じが、とても異様で、興味を引き付けられた。

ママのスマホにパパがから電話があった。座っている花壇とバスターミナルのある場所は、園町の複数の乗り入れ線の改札のために、いくつもにつながった歩道橋と遊歩道、それからデパート同士を結ぶ空中遊歩道なんかが交差した下に埋もれるような形で作られてるから、電波が悪くて、よく聞こえないらしい。

私はママに、歩道橋の上を指さして「あそこがいいんじゃない?」って感じで教えてあげた。ママがオッケーてして、そして私の横に置いてあるいくつもの紙袋なんかを「見ててね」って意味で指さしながら、早足で小さな横断歩道を渡って、歩道橋を上っていった。

私は、今、もし、ここでレイジスの生徒指導の先生なんかに見つかったら、なんて説明すればいいんだろうなんて思いながら、残り少なくなって飲みにくくなったラテのふたをあけて、中身を見て、底にたまっている黒っぽい粉をクルクル回しながら飲みほした。

私が座っている背後から、女性のクスクス声と男の人の低い声が聞こえてきた。こんな時間だから恋人同士がじゃれあってのかなあ………と思いながら、飲み終わったラテのカップにふたをしていたら、「ねえ、ケイ、まだ帰らないでしょ?」という甘ったるい女性の声がして、私はケイという単語に反応して、思わず振り向いた。

男性だと思っていた低い声の主は、手足が長く、スラっとした若い男の子のような感じだった。そして、その腕に、自分の腕と体をしなやかに巻きつけている女の人がいた。

ここは、たくさんの照明があって明るいけど、ちょうどそこだけ、照明と照明の谷間みたいに暗く影になっている場所があって、2人の顔が良く見えない。

「くっつくなよ、こういうところで」すごくドライな声色で、かといって、女性を自分からは振りほどくことはなく、ただ、言葉だけで制していた。

女性は、かなり身なりの良い女性で、私みたいな非モテの非オシャレ系女子であっても、その服は高級ブランドものであろうと判断できるほど、高そうな服を着ていた。

ベージュのVネックのサマーセーターと、黒のタイトスカートというシンプルな服装が、細いけど女性らしい凹凸のある整った身体にぴったりとはりついていて、とてもセクシー。大人の女っていう感じで、ステキだなと思った。

セーターのベージュ色がもう絶対に高いとしか例えようのない色をしている。スカートの黒も、高級品だけが醸し出す、細い糸で出来た、艶のあるきれいな黒い色だった。手元には線の細い時計のような革のアクセサリーをしていて、同じ革でできている小さな黒いハンドバックを持っていた。

男の子は、皴のない白い細身のパンツに、上は青と明るい水色でチェック柄を絵筆でデザインしたようなシャツを羽織っている。多分これは、この女性がこの男の子に買ってあげたものだと思った。

「今日はまだ遊び足りないし、もう夏休みなんでしょ」と今にも男の子の首っ玉に抱きつきそうな勢いで、女性は身体をクルンと男の子のほうに向けた。その途端、男の子がスッと身体を後ろに引いたので、ちょうど照明が当たる場所に出てきた。

ケイ!
思わず、ラテのコップをギュッと強く握ってしまった。多分、私、目をまん丸にして、見ていたと思う。

光の中に出てきたケイは、いつもの不機嫌でダルそうな表情をしながら、上手に女性と距離を取っていたが、ふと、私の強い視線に気づいてこっちを見て、まん丸の私の左右の目と、ケイの左右の瞳の焦点がぴったし合った。

「ケイ、なにしてんの」
とりあえず、聞いてみる。さっきラテ飲んだばかりだけど、扁桃腺がのどに張り付きそう。

「お前こそ何してんだよ、こんな時間に」
気まずそうな表情を一瞬だけして、すぐにいつもの感じで答えてきたケイ。

「いや、ママと、パパの会社行ってきた帰りなんだけど」
「おばさんは?」

「電波悪くて、あっちの歩道橋の上でパパと話してる」と、顔と顎で、自分たちのかなり後ろのほうにある歩道橋の上のあたりを示した。それを聞いてホッとした表情に戻り、「そっか」とだけ呟いた。

多分、この間、数秒しか経ってないんだけど、すごい気まずい空気が流れた。私は見てはいけないものを見たのかもしれない。いや、別に見てもいいのだろうか、どっちなんだ。

そしたら、その空気を察したのか、一緒にいた女性がとんでもないことを言い出した。
「あら、ケイと同じ学校の子? こんばんわ、ケイの母です」

これはケイも想定外だったらしく、女の人と私を見比べて、呆然としていた。私は、この人がケイのママじゃないのは百も承知だったけど、

「あ、こんばんわー。はじめましてー」
とだけ返しておいた。前にも自分で思ったけど、私は咄嗟のウソがとてもスラっと出てくるタイプらしい。

「ちょっと、待ってて」
と言って、女性の鼻先で手の平で犬に待て!をするみたいにして、ちょっと離れた場所にスタスタ歩いていき、そこからちょっと怖い顔で、チョイチョイと私に手招きした。

私は、あんまりこの荷物から離れたくないんだけどな、と思いながら、行こうかどうしようか荷物を見てたら、その女性が

「どうぞ。私がこの荷物みててあげるわ」
とニコニコしながらいったので、「よろしくお願いしまーす」と笑顔で答えて、ケイのところに行った。

「ちょっと。何よあれ!」
「お前こそ、何だよ。何だってこんな時間に、あんなとこに1人で座ってんだよ。魂飛び出るかと思ったわ」
「だって、タクシー混んでたから、少し空くまでここで時間つぶそうってことになったんだもん。っていうか、私はいいよ、さっきのあれ、なによ、あ・れ!!!」

「いや、俺のことはいいんだ。放っておいてくれ。お前には関係のないことなんだから」
「関係ないってなによ、なんであの人がケイの母ですー、なのよ」

「そんなことは、俺が聞きたいよ」
そう言って、少し泣きそうな表情になりながら、ケイは片手で顔の半分を覆った。

「ねえ、ケイ、家でなにかあったの?」

「何もねえよ。とにかく、俺はすぐこの場所を離れるから、おばさんには俺に会ったこと、絶対に言うなよ、絶対だぞ」
「言われなくったって、言えないよ!」
2人とも、ささやくような声で怒鳴ってる感じだった。今、何が起きてるんだかわからないけど、絶対に変なことが起きている。

ケイは本当にすぐに女性の腰に手をまわして、園町の人込みの中に消えていってしまった。そこに取り残された私は、ノロノロとさっき座っていたところに戻り、荷物を自分の方に引き寄せて、カラになったドリンクのカップをペコペコさせて、ママが戻ってくるまで、その音と指の感触に集中していた。

ママがパパとの話が終わって小走りに戻ってきて、手を振りながら「タクシー空いたから、もう大丈夫そうよー、帰りましょー」って歌うように言いながら、ガサガサっと紙袋を両腕に全部かけて、ニコニコしながら元気よく歩き出した。

うちって平和だなって思いながら、こないだの担任の首振扇風機が言っていたことを、もう一回よく思い出していた。
家に帰ってから30分もしないうちに、パパも車で帰ってきた。なんだー、じゃあ、会社で待ってれば良かったわねーなんてママがキャッキャしながらパパと話してて、今日のお買い物のお披露目をしている。

パパは「ママは何でも似合うねー」なんて言いながら、ダイニングに座って、ママの戦利品を見ながら美味しそうにビールを自分でコップに注いで飲んでいる。そんなの見てると、なんかさっきのバスターミナルでの出来事が、全て私の空想だったような気さえしてきた。

リビングを振り返ると、修人が青い大きなバランスボールで腹筋をフンフン言いながらやってて、学人が白いソファに座って、iPadで静かに本を読んでいた。全然、いつものわたしんちだ。

今、この家で、私だけがいつもの私ではない。

そう思ったらなんか、疲れちゃったので、先にお風呂に入って早くリラックスしたいと思った。お風呂にお湯をためてる間に洗面所の下の台にある、良い香りのするバスバブルなんかがしまってある箱に手を突っ込んで、手にあたったものを出して、袋を破って湯舟に放り投げた。ラベンダーだったらしく、クールな香りと共に、お湯が薄紫に変わっていく。

あっという間に変わるな。

そんなことを思いながら、シャワーで頭と体と顔を洗い、お風呂に浸かった。

あの人、誰なんだろう。

そんなことが頭の中をグルグル回った。でも、あの人に関して私が知ってることは何もない。今夜、私がひとつだけ分かったのは、あの園町のうわさは、全くの嘘ではなかったってことだ。

明日は、紗々が紗々ママの会社に用事があって、3人では集まれないのがわかっていたので、明日、ケイに聞いてみようかなって思った。

でも、聞かないほうがいいのかな。
こういう時ってどうするのが正しいんだろう。

そんなことを思いながら、風呂場で頭をガシガシ洗い、シャワーの水量を最強にして、全身に力を入れながらお湯を浴びた。

部屋に戻って、ベッドに寝っ転がったら、LINEが入った。いつものグループではなく、私への個人的なLINEがケイから来ていて、「明日、話がある」ってだけ書いてあった。

「りょうかい」と書いて送った。で、すぐに、私は別に怒ってるわけじゃないから、という意味で、機嫌の良さそうな猫のスタンプをつけておいた。あ、またヘアパックするの忘れた。もう!



翌日、いつもみたいにケイが普通にお昼ごろ、家に遊びに来た。修人は朝からサッカーの練習でいないけど、学人が家にいたので、ママと学人とケイと私で、ママの作った冷やし担々麺を食べて、テレビで流れている通販商品の話なんかをしていた。


昨晩のケイを思い出しながら今のケイを見てて思ったけど、ケイは私よりもずっと大人だということに気が付いた。今のケイの少年らしい態度からは、昨晩のケイは全く想像がつかない。

学人だって、子供のころのケイのままでケイを見ている。それは私だってそうだった、昨日までは。そんなことを思ってたら、なんか、自分だけが永遠に成長のないのガキみたいで、少し恥ずかしくなった。

学人は午後はパパの会社に手伝いに行くし、ママはパン教室に行ったあと、お友達とごはんを食べる予定があるらしいから、夜は私とケイだけでカレーということになった。

ママが、レンジでチンしたらすぐ食べられるようにお皿に入れたカレーライスを冷蔵庫にいれておいてくれて、サラダと冷たいスープを2人分、わかりやすく並べておいてくれた。

「修人の分はこっちだからー、チンしてあげてね」って言われたから確認したら、一番下の段に修人のカレー皿が3個並んでる。毎日の、こんな何でもないことが、今、とても人生では重要なことのような気がしてくる。

2人で、玄関で学人とママにいってらっしゃーいってしてから、ドアに鍵をかけ、2人が通りに面した玄関門がガチャンとしめた音を確認してから、2人で顔を見合わせ、急いで2人でリビングに戻る。

リビングのローテーブルの上には、ママが氷カフェオレを作っておいてくれたものが、ガラスコップに汗をかくくらい、少し溶けかかっていた。とりあえず、それを飲みながら話そうってことっで、2人でソファにドサっと腰掛けた。

「で、話ってなによ」
片手でカフェオレ、ケイの方の片足でケイの足を軽く蹴りながら聞く。
「何ってお前………」
ストローでコップの中身をグルグルかき回しながら、気まずそうな表情でケイが答える。

「まず、あの女の人、誰?」
「あの人の話は、とりあえず置いといて、だ」

「なんで置いとくのよ、ケイの母親だとか名乗ってる知らない女の人なのに?」
「うーん」

「え?もしかして本当に母親なの?」
「それは、断じて違う」

「じゃ、誰?」
「お前に説明してもなあ………」

「じゃあ、話があるってなんなのよ!もう!」
なんかムカつくので、クッションでケイの後ろ頭を殴ってみた。

「そう怒るなよ。まあ、整理して話すとだな。あの人は俺の母親ではないんだが、この前、ほら、紅子事件の時にあった話あったろ?あの時に、俺、あの人に助けてもらったんだよ」

「じゃあ、あの時、遅い時間に園町にいたのは本当だったんだ」
「うん、それは本当」

「なんで、そんな時間にいたの?」
「それは、まあ、いろいろ、だ」

「なによそれ、全然分かんないんですけど」
「話せることと、話せねえことがあるの」
カフェオレをチューッと吸いながら、ケイが困った表情で言う。

「じゃあ、何なら話せんのよう!秘密守らせるなら、私にもわかるように説明してよ」
「んー。だから、あの日は、って紅子事件の前の話な。あの日は、俺は、塾の下見に行ってて、そんでそのまま帰る予定だったんだよ。だから制服のままだったの。だけど、ちょっと知り合いに見つかってさ」

「うん」
「その人は大人だからさ。だから一応保護者ってことで、制服でも大丈夫だろうってことになって、一緒に晩飯食ってたんだよ」

「それって、あの女の人のこと?」
「うん、もう一人いたけどね。だから3人ね」

「ふうん」
「で、まあ、飯も食ったし、帰ろうかってことになったんだけどさ」

「うんうん」
「まあ、ちょっと、そのまま帰れないような雰囲気になってね。でも、俺は制服だからどうしても帰りたかったわけよ」

「うんうん」
「そんで、帰る帰らないで、ちょっと揉めたっていうか。俺が揉めたんじゃなくて、その2人が揉めたんだけどね、俺はその2人をなだめる係ね」

「ちょっと分かんなくなってきたけど、まあ、うんうん、それで?」
「そんでまあ、俺は、面倒くさくなってきて、もうこのまま放っておいて帰ろうかなって感じになってた時にさ。目の前でちょっとしたトラブルがあってさ」

「トラブル?ってなに?」
「………うーん」
ここにきて、また、ケイが口ごもりはじめる。

「なによう。なんで言わないのよ」
「言わないというよりもだ、むしろ、言えないというか、だな。お前にこんなこと言ってもいいのかと考え込んでるわけですよ、俺はね」
両手であんまり減ってないカフェオレのガラスコップを持ったまま、頭を両腕の真ん中にガクンと垂らして低い声でボソボソと答える。

「私のこと、信用してないってこと?」
「いや、そういうことじゃなく。お前に言ってもわかるかなってことだよ」
「なによ、子供扱いして」
なんか、さっきも自分で自分のことガキだなって思ったばかりだったから、余計に図星な感じでちょっとショックだった。

私が多分、みるみるションボリしてきたんだと思う。ケイは慌てて
「いや、お前が子供だとか、そういうこと思ってバカにしてるとかじゃないんだよ」
とフォローを入れてきた。

しばらく、ケイが、コップの底をストローでグリグリ押しながら、じーっと考え事をしてるのを、私は飼い犬がご主人様の命令を待ってるかのような気持ちで待ってた。

「………紗々がさ」
ケイがしばらく考え込んでから、口を開いたら、急に紗々の話が出たので、私はちょっとびっくりした。この話に紗々が出てくるって想定してなかったから。

「え?紗々?」
「え、いや。ほら、2人で警察に捕まったみたいな話になってたろ?」
「え?警察?警察に捕まったの?」
「あ、ヤベ………」
咄嗟に口を押えて、失敗したって顔をした。

「え?2人とも警察で補導されてたの?」
「………。」
ケイがコップをテーブルに置いた手を自分の手元に戻す途中で、仏像の様に空中に手の平を置いたまま、動かなくなった。

「ちょっとお、ケイ、どういうことなのよ」
思わず、ゆさゆさとケイの肩を持って揺らす私。
「うわあああああ」
ケイはそう言いながら、ソファのひじ掛けがある、クッションが置いてあるほうに、倒れこんだ。

「いやー、ちょっと待って、マイマイ。俺の神経が持たねえわ」
ケイはそう言いながら、クッションを自分の胸に抱きかかえ、足を空中でバタバタさせた。

ケイは割といつも、慌てたりとかしなくって、ええと、なんて言ったかな、この前、3人で本の遊びしたとき出てきた言葉、あ、そうそう、「超然」とした感じなんだけど、こんな風にうろたえているケイは初めて見た。

その時、私とケイのスマホが同時に鳴る。
「紗々だ」
「うん、紗々だ」

LINEはこうだった。
『2人ともいる?』

『いるよ、私んちにいる』
『どした』

『ちょっと、いろいろ』
って来て、そのあと、返事がなくなった。ケイがしばらくじっと画面を見ていたが、急に

「おい、マイマイ。駅まで行くぞ、なんか上に着ろよ」って言って、そのままケイがLINE電話を紗々にかけた。

「紗々、今どこ?」
電話の向こうの紗々は、自分がいる場所なんかを返事しているんだと思う。

「じゃあ、すぐ乗れ」
って、結構な強い口調で言って電話を切った。もたもたUVパーカーを着ていた私の腕をつかみ「はい、早く着なさい。駅まで紗々を迎えに行くぞ」って言いながら、私を玄関まで引っ張って行く。

「紗々を迎えに行くの?なんで急いでんの?」
「いいから、早く、靴を履け」
そう言って、玄関のドア横にある私が鍵をかけておく場所から鍵をとり、2人で家を出た。こういうの見てると、ケイってほとんどうちの子なんじゃないかって思う。

すぐに中央通りまで出てタクシーを拾い、桜駅まで行くことになった。
「なんでタクシーなの?お金ないよ、私」
「俺があるから大丈夫」
って言いながら出したケイの財布には10,000円札がギッシリ入っていた。

「何これ、ケイ、なんでこん………」
「シッ」
って言って私の口を手のひらで押さえた。ケイの手があんまりにも大きくて、顔の半分以上がケイの手になってびっくりした。ケイの手のひらから、財布の革のにおいがして、ケイがもう私が知っている子供のころのケイはないことがわかり、ドキっとした。


駅前のバスターミナルのところでタクシーを降りると、ちょうど紗々が階段を駆け下りて改札を通ってくるところだった。

「麻衣!ケイ!」
紗々がすごくホッとした顔して、私たちの名前を呼んだ。紗々はいつもの色白ではなく、明らかに顔色が悪かった。

「今日、会えないかと思ったから、嬉しい」
そういって、私が両手のひらを紗々のほうに向けて出したら、紗々がニコニコしてハイタッチしてきたんだけど、その手は氷のように冷たかった。

「大丈夫か、紗々」
「うん、何とか」
後ろを振り返って、紗々は何度もうなづいた。

「とりあえず、夜までマイマイの家にいようぜ。紗々のおばさんは?」
「あー、ママは多分、今日帰らないと思うよ」

「そっか。じゃあ、今日は、みんなで、紗々んちでお泊りキャンプにするか?」
そういって、ケイは私の頭に手を置いた。私は3人でキャンプお泊りできるのが嬉しくて、軽く舞い上がった。

「え、ほんと?じゃ、ママに言っておかなきゃ」
私はいそいそとママにLINEで、晩御飯食べたら、紗々の山小屋に行ってくるという連絡だけした。すぐにOK!というスタンプが帰ってきて、冷凍庫にあるアイスクリームを持って行ってもいいって返事が来た。

帰りは30分くらいかかる駅からの道を、3人で並んで歩いて帰る。紗々は駅に着いたときには少し弱っていた感じだったけど、だんだん元気になってきた。

家についたら17時過ぎくらいだったから、3人で2人分のカレーの晩御飯を食べて、修人が帰ってきてから、修人の晩御飯のカレーをチンして出してあげて、紗々の家に行くよって言ってから出かけた。

ケイが、紗々の家に行く前に、スーパーでBBQで焼くソーセージを買うというので、聖レイジスの幼稚園校舎の正門の方にあるスーパーエミリオまで行った。園町街道に面した車で乗り入れができる割には小さめのスーパーなんだけど、とりあえず必要なものが揃うので、いつもここを使っている。

ケイが慣れた感じでスイっと買い物かごを持って、目的のケースまでとっとと行ってしまったので、私と紗々はきれいに並んでいる野菜などを見ながら、カワイイ色のトマトが詰まったパックや、知らない名前のハーブなんかを手に取って、面白がっていた。

すると、通りすがりの人から「あの子じゃない?美人だし。園町にいたっていう………」という声が向けられた。私たちはパッと振り返ったんだけど、中年の女性は何人もいて、それぞれが買い物をしているので、誰がそんなことを言ったのかがわからなかった。

美人だからって、というからには、確実に私にではなく紗々に向けて吐き捨てられた言葉だ。すごく嫌な気持ちになった。

紗々が一瞬、沈んだ表情をしたが、すぐに気を取り直して肉や魚があるところにスーッと移動していった。私もあとをついていったら、ケイが少し離れたところでシャウエッセンと薫香を両手に持って、どっちを買おうか真剣に悩んでいる。

「どっち買うの?」
ケイの手元を除きこんで、ケイに聞く。薫香は298円、シャウエッセンは398円って書いてある。

「100円違うわけよ。俺はさ、シャウエッセンは特別な日って決めてんだ。でも今日はキャンプだから特別って言えば特別なんだけど、でも、もう何回もやっちゃってるから、そこまでスペシャルじゃないじゃん?だから、やはり薫香なのかと………」

「変なの、ケイ。あんなにお金持ちなのに」
「バーカ。金なんてパッパと使っていたら、あっという間に消えちまうんだぞ」
なんか、ケイのおじさんが言いそうなセリフをケイが言う。私は面白がって、えい!ってシャウエッセンを5袋もカゴに放り込んだ。

紗々がニコニコしながら肉のパックを持ってやってきた。
「すごいもの見つけちゃった、ほら見て。今日食べれば大丈夫だよね、きっと」
ステーキ肉の7割引き、650gの厚切りなのにたったの298円になってるやつだった。

買おう買おうってことになり、焼肉のたれも買おうってはしゃいでいたら、また
「あら新婚ごっこ?やらしい。どういう躾けしてるのかしら」という言葉が聞こえてきた。

ケイが反射的に「んだとババア」と言って振り向いたが、やっぱり誰が言っているのかはわからない。私はケイが人を殴ったりしないように、ケイの買い物かごを持っていないほうの腕を、咄嗟に掴んだ。

明らかに、私たち、というか、正確には紗々に向けて投げられた言葉だったのがわかる。

「麻衣、ケイ、いいよ。行こ」
紗々はそう言って、棚にあった焼肉のたれを1個だけカゴに放り投げて、レジにスタスタと歩いて行ってしまった。仕方がないから、私とケイも、紗々の後に続いてレジに並んだ。

紗々の家について、一旦、荷物を山小屋の冷蔵庫にしまってから、家政婦の小曾根さんが用意しておいてくれたおかずなどを取りに、紗々が母屋に戻った。

「ケイ、さっきの。何だろう」
「ああ………。ここんとこ、よくあるらしいぞ、紗々が言ってた」

「私、あんなこと通りすがりに大人に言われたら傷つく」
「そりゃそうだろ、同級生でも普通にムカつくわ」

「だね。学校でも言われてるし、紗々」
「まあな」

「紗々、悪くないのにね」
「だな」

「どうにかできないのかな」
「わからん。まあでも、紗々には一生ついて回るかもな」

「どして?」
「目立つからさ」

「ああ、そんな。私なんて、憧れしかないけどな、紗々」
「そんな風に思えるのは、お前が素直にまっすぐ育った証拠だよ。学校のやつらだって、そう思いたくても思えないからねじれちゃうんだろ。あのババアどもが何が理由であんなことすんのかはわからんが」

「今日の多分、学校の父兄だと思う。パパとママにも聞かれたんだけど、保護者の間で噂になってるらしいんだよね、この間の………あっ、ちょっと、よく考えたら昼間の話、途中で終わってて、あのまんまじゃないの」
「あ、ヤバい、思い出しちゃった?」
竹串にシャウエッセンと、ポッケに入れてあるビクトリノックスのナイフで半分に切ったピーマンを刺し、塩コショウを振りながら、おかしそうにケイが笑った。

突然のお泊りキャンプと紗々に会えたことがうれしくて、あのことが頭から完全に消えていたことに腹が立つ。私ってどうしてこうなんだろう。

紗々が犬と一緒に、たくさんのお皿を乗せて、カチャカチャ言わせながら戻ってきた。「すごい作ってあった!」って言いながら、煮物、酢の物、ポテトサラダ、ひじき、小松菜と油揚げの煮びたしなんかのラップを次々に外した。

犬が2匹、ケイのそばまで来てシャウエッセンのニオイを嗅いでいる。でも訓練されているらしくて、ケイが食うか?と聞いても、そっぽを向いて、紗々の近くまで戻ってしまった。

ソーセージグリルと和風のお惣菜と、厚切りステーキ肉という、なんかよくわからないメニューをつまみながら、3人では少し足りなかったカレーの晩御飯のスキマを埋めた。

ケイが、消えかかるBBQコンロにチャコールを袋から出して足しながら、紗々に
「今日、どうした」
と聞いた。なんかそれが、2人の間ではよく話されている会話みたいな感じに聞こえた。すぐに紗々が

「あ、うん。前と同じ」
「またかよ、懲りねえな、あのオッサン」

「うん」
「そっか」

という会話があって、私は紗々とケイを交互に見ながら、きょとんとしてしまった。2人は完全に理解しあってるけど、私には全然会話が見えない。

「オッサンって誰?そうだ、そういえば紗々、今日なんかあったの?」
「あ、そうだった、マイマイに説明」
「ケイ、麻衣に言ってなかったの?」

「いや、なんて言ったらいいのかわかんなくて」
「ケイ、私に気を使わないで。別に、大丈夫だよ」

そういって、紗々は前の学校であったことを話してくれた。

紗々が言うには、聖レイジスに転校してきたのは、東京にある似たようなエスカレーター式の私立で、ちょっとした問題が起きてしまったからなんだって。紗々が言うには「私は問題児ってことになっている」って言い方をしていた。

紗々は中学2年生からそこに編入してきて、その前はお父さんの仕事の関係で、香港・シンガポール、アメリカ・スペインなど転々としていたので、あまり落ち着いて1か所にいたことがなかったんだって。

紗々のお父さんがしばらく日本を拠点に仕事をすることになったので、東京でも有名な私立の名門学校に入ったの。きっと、名前だけならだれでも知ってると思う。私でも知ってた。

そこは似たような生活環境の子も多いし、芸能人の娘や息子も多いから、他にも目立つ子がたくさんいて、今の学校みたいに注目されたりすることはなくて、どっちかっていうと地味で目立たないほうだったんだってさ。

紗々が目立たないなんて、一体どんな学校なんだろうと、そっちが気になってしまった。

それで、編入したはいいけど、外国生活と転校の多さで学校にうまく溶け込めなくて、何となく学校では静かに過ごしていたんだって。これは、私にもわかる。

周りも悪気はないけど、やっぱり、いろいろゼロから関係性作るのって面倒くさいんだよね。もっとうんと子供の時のほうが、友達って作りやすい。

編入するときに他にも何人かいればいいけど、そうじゃないと、新しくグループに入るのって入れるほうも、入る方も気を使うもの。だから、それは誰のせいでもないと思う。

そうやって1人で静かに学校生活を送っていたんだけど、紗々が言うには
「すごく気にかけて、親切にしてくれてる先生がいたの」

その先生は、まだとても若くて、先生っていうよりも、お兄さんみたいな感じだったんだそう。紗々が日常生活で困っていないか、家ではどんな感じで過ごしているのか、お友達が出来なくてさみしくないかなどを、いつも気にかけてくれて、放課後は先生と2人でたくさん話をしながら過ごしたんだって。

先生は紗々が外国で暮らしてきたことにも興味を持ってくれて、海外での生活の話や、紗々が英語がある程度はできることがわかると、洋書がある本屋さんや、学校の図書室の中でも、洋書コーナーなどを案内してくれていた。

生徒指導の先生だったのかもしれないし、単に先生として、親切でしてくれてたのかもしれない。結局、そういう細かいことを誰もその学校では紗々に教えてくれなかったので、紗々にはよくわからないままだったんだって。

学校の校風は自由で、いかにも都会にある名門私立って感じだった。制服はあるけど私服で来てもよいし、上下関係もあまり厳しくない。バイトも部活動も自由だったから、どの生徒も、あまり規則にしばられないで、思ったようにやるっていうのが、校風といえば校風っていう言い方をしていた。

紗々は何度か、部活でもしようかなって思ったんだけど、自分の母親のことを考えてやめたって言ってた。紗々のママはちょっと気まぐれなところがあり、突然紗々を誘って学校を休ませて一緒に3週間くらいの旅行に出かけたり、

海外の高級ホテルに連泊するようなことがあるから、仮にクラブ入っても、突然休んで周りに迷惑かけるのも、ママにクラブ活動の説明をするのもどっちも面倒だから、やめたって言ってた。

だから、放課後は一人で家に帰るか、学校がある渋谷の街をプラプラするか、学校の図書室で本を読むか、先生が声をかけてくれた時には、先生とお話をするっていうのが、丸2年くらい続いていたんだって。

その先生は元は国語の先生なんだけど、その学校では主に作文の授業を専門にしている先生で、国語の中でも文学を専門に教える、ちょっと特殊な授業の先生だったの。海外で暮らしてきた紗々に、小学校くらいから触れる日本文学に関したことを教えてくれていた。

半分、紗々の家庭教師みたいな感じになっていたんだけど、先生の教えてくれることが面白いから、すごい勢いで日本文学と海外の文学を読んでいったんだって。

だけど、1年くらいしてから、先生の様子がだんだんと変になってきたんだそう。紗々が言うには

「多分、私のことを日々、熱心に考えるあまり、私に恋をしてしまったんだと思う」

って言っていた。そんなことってあるの?って聞いたら、紗々は、

「だって、私たちってほとんど毎日、自分の考えや、自分たちの生い立ちや、昨日食べたものや、好きな文学や音楽や映画の話をしていくんだよ?

だから、先生と生徒なんだけど、ほぼデートなのよ。その上、私たちは気が合ってるっていうのか、好きなものや物事への感じ方が似ていたんだよね。だから先生は、だんだん私のこと1人の女の人として見るようになってきたんだと思うのね」

って言っていた。なんか、それは、わかるような気がする。

紗々は、先生と一緒に、すごくたくさんの純文学と言われる名著を読破していたから、恋愛に垣根はないっていうのは、自分が恋をしたことがなくても理解は出来ていた。だから、先生の変化はすんなり受け入れてしまったんだって。

「受け入れたって言っても、先生の考えてることを理解したって程度だけどね。そもそも、私たちって学校の中でしか会えないから、別に何も起きないんだけどね。でも、先生の内側で私への愛情が濃く熱くなっていくのが、手に取るようにわかる」

先生の教師としての愛情は受け止められるけど、男の人としての愛情はよくわからないから答えようがないんだけど、でも先生のそばを離れるの嫌だった、って紗々は言ってた。

それを聞きながら、大人でも恋すると、いろんなことがわからなくなるものなのかな?って思った。そんなにも、理性が吹っ飛んでしまうものなのだろうか。

それとも、それは紗々が相手だからなのだろうか。私には、まだわからないやって思いながら聞いてた。紗々が、続ける。

「それでね。ある時から、先生が文学の話などをし終わった後に、本当にたまにだけど、私のことを抱きしめてくれることがあったの。変な意味じゃないよ?ハグだよね」

「紗々は、その間、どうしてたの?」
「ん?ただ、ジーっとハグされて、黙って抱きしめられてた。少しも嫌じゃなかった。それに、私の周りで信頼できる大人って、その先生だけだったから。その頃って、家の中はもめ事が多くて居心地が悪いし、学校もうまく馴染めなかったから、私にとっての安心できる場所って、この世で先生のそばだけだったし」

ハグされていると、大事にされていることが伝わってくる。先生が言葉には出さなくても、私を大事に思っていることはわかったって、紗々はそう言った。

だけどある日、その様子を保護者の一人に見られてしまって、問題になった。もちろん、先生は、生徒に対する教師としての友愛であることを説明したし、紗々も、あれはいわゆるハグであるということも伝えたんだけど、うまくいかなかったみたい。

私は多分、先生の紗々に対する激しい恋の気持ちが、隠していても、周りに伝わってしまうんだと思った。

「あの学校は割と放任っていうか、何に対しても自由なところがあったから、他の先生たちも大して気にも留めてなかったの、最初は。先生が生徒指導に熱心なのも知っていたから、日本にも学校にもなじめない私に、少し親切にし過ぎた程度にしか受け取らなかったんだけどね。でも、保護者代表の中には、私が誘ったんじゃないかって言い出す人も出てきてね」
「そんなのひどい!何その人たち!」

それで、仕方がないから、学校側は紗々と先生に、精神鑑定を受けさせ、それぞれにカウンセリングを数回受けさせることで、保護者代表は納得したんだって。さらに、先生と紗々が学校内で接触出来ないようにするために、先生は表向きは病気療養の無期謹慎、そして紗々はなぜか、一時期、校長室で自習を命じられるようになった。

「そんなことをしたら、同級生は、何故、あの子は校長室で勉強してるんだってことになるじゃない?学校も対応がバカなのよ」
と吐き捨てるように紗々が言う。

「それは、俺も聞いてそう思ったわ」
ずっと黙っていたケイが、口を開いた。

「学校はさ、先生に問題があるってなると採用してる学校側に問題があることになるから、とりあえず、紗々に問題が多いことにして、隔離したってことだよ」
「そんなのひどいよ、あんまりだよ」
「ひどくても仕方がないのよ。そうなっちゃったし。それに、うちのママもパパにも問題があるっていうか………」

紗々のパパとママは本当に変わっていて、紗々のもめごとを一切に気にしていなかった。何度も繰り返される会議に、ある日、とうとう紗々のママが呼ばれることになった。その会議で、紗々が先生に迫り、先生が女生徒に一定以上の感情を抱いている疑いがあるという話になった時でも、紗々のママは

「あら、うちの紗々はそれはそれは美しいですから。どんな殿方が心酔しましても、少しも不思議はございませんわ。紗々は誘ったのではなく、きっと、ただ見つめただけですわ。でも私の娘ですもの、その先生の態度は、殿方としては実に正常ですわよ」

という感じで、全然、話がかみ合わなくて、これには逆に先生たちが頭を抱えたという。

紗々のママは若いときにデビューした世間知らずな元女優さんということもあり、人生の価値基準が「美」に集約されているせいか、紗々の美の価値に加算されるような出来事は、どんなことでも、プラスと捉えてしまうという特徴があるんだそうな。「ママにとって私が美しいことは、翻って、ママが美しいってことになるの」って、紗々があきれ顔で言っていた。

それに当時は、紗々のママは、紗々のパパの前妻との離婚問題でもめていて、正直、娘の学校での出来事なんてどうでもよかったように見えたと、紗々が言ってた。
「私は、ママとパパの子なんだけど。ママ、パパの愛人だったの」

だから、3人で暮らすために、紗々のパパは海外を転々としながら会社を大きくして、前の家庭が破綻しているという既成事実を作って、東京で落ち着いて仕事を出来るようにしてから前妻さんとの離婚調停に入ったんだって。

それを聞きながら、ケイがニヤニヤして
「紗々のオヤジさん、実にデキルよなあ」
って感心していた。

それで、話の通じない紗々ママの代わりに、今後は紗々のパパが呼び出されたんだけど、このパパも、これまた変わり者で。

その先生が、娘を危険な目に合わせているならともかく、学校で1人さみしくしていた娘を守ってくれようとして一生懸命に愛情をかけてくれているのに、その先生を処罰するなんてケシカラン!娘を先生と引き離すなんてケシカラン!と職員室で先生と父兄代表に怒鳴り散らすありさまで、この件に関しては、とにかく紗々の両親は、普通の親としての対応は出来てなかったんだって。


そんなわけで、学校はどうしていいかわからず、とりあえず事態を鎮圧するために、先生は無期限の謹慎、紗々を一時的に校長室において監視をするって形で、父兄代表に納得させたってことみたいなの。

「先生は、自分のせいで私が校長室にいるようになったり、私に会えなくなってしまったことが苦しくなってしまったみたい。すごく自分を責めてた」
「え、紗々、それはなんでわかったの?」
「ん?先生が分厚いラブレター毎日家に送ってくるから」
表情一つ変えずに、紗々がそう答えた。

「毎日?それはすごい。紗々は読んでたの?」
「うん、もちろん。だって、私を心配する内容と、私が日々どうしているか、先生がどういう風に心配しているかだけが切々と書いてあるんだもの。それに、作文の先生だというだけあってね、それがもう、純文学みたいにきれいな文章なの。だから、むしろ、私だけに届く特別な文芸書みたいな感じで、毎日ポストを開けるのを楽しみにしてた」

「その先生も淫行をしたわけではないんだから、処罰をされる理由もないんだよな。その先生の話、どうやって聞いても、単に紗々を学校の中で庇っていただけじゃないかよ」
とケイが口を開く。
「インコーって?なに?」

「あ、うーん、大人が子供にエッチなことをすることだよ」
「ああ。それはしないでしょ、大人だから」

「まあな。普通はな。しかし世の中には未成年相手にそういうことをする人たちも、実際にいるからな」
「へ? そなの?」

「マイマイ、お前は、そんなこと知らなくていいんだ」
そういって、ケイが私のおでこに手のひらを置いて、グリグリ頭を動かした。なんかバカにされたような気がしてケイをグーで打とうと思ったんだけど、ケイのほうがリーチが長くて全然届かなかった。

そんな感じで、学校の中でさらに居場所が微妙になった紗々は、今度は教室に戻ってからが本当に大変だったという。

生徒たちには、先生と紗々とのことは伝わっていないので、生徒たちには、紗々が突然、校長先生からひいきをされるようになったと、完全に曲解されてしまっていた。

「もともと仲良い子もいないから、ますます仲良くしてくれる人はいなくなるよね。普通に話していた子さえ、もう互いに挨拶しかしなくなったよ。彼らは小さいころから一緒にいる子たちだから、途中で入った私のことはよく知らないし、知らない子のことって、そもそも庇いようも無いんだと思うよ」

そう言いながら、諦めきった表情を、紗々はした。