歌声喫茶が人生変えた

*田中明照(たなかあきてる)
主人公。中学2年になったばかりの男子。体格・外観・成績は極普通。
声変わりの時期を過ぎても未だに高い声のままである事を非常に気にしている。
小学生の時、並びに中学1年の時、この事で酷い虐めを受け
一時は人前で声を出すことが非常に怖くなった。
元々友達作りは非常に下手であり、普段から目立たない様に努力してきた。
それ故、崇と美娜が友達になってくれた事に深く感謝している。
気が小さい一方、非常に礼儀正しく、仁義を尊ぶ性格なので
歌声喫茶“ひかり”の会員からの支持率は結構高い。
何故か杏果に気に入られ、歳の離れた親友として認められた事に
最初は大いに戸惑った。しかし、一緒に遊んだり、御風呂に入ったりする内に
心の距離が縮んだ。何時の間にかボーイフレンドに
格上げになった事に大いに驚いたが、直ぐに受け入れた。
家庭では、母方の祖父母にのみ心を開いている。
最初の頃は非常に自己評価が低かったが、歌声喫茶に通う内に
リーダーシップを発揮する様になった。
極度のお化け恐怖症であり、幼児向けの、お化けが出てくる絵本を
読んだだけでも号泣する程である。


*稲葉杏果(いなばきょうか)
本作のメインヒロイン。小学3年ではあるが、余りにも身長が低く
初対面の人には5~6歳程度に見える。
歩ける様になった頃から歌声喫茶“ひかり”で
祖父母の仕事っぷりを
見てきた上、様々な歌を聴いてきた。その反動で
最近の流行歌は詳しくない。
小学校に上がる直前に交通事故で両親と兄を
喪い、母方の祖父母に引き取られる。この少し前
偶然にも両親がずっと隠していた残酷な真実を耳にする。
古い歌を好む一方で、魔法少女を愛する一面も有る。
母方の祖父母のことは大好きだが、歌声喫茶の仕事が
忙しそうだからと甘えるのを遠慮していた。
明照を何故か一目で大好きになり、会って1秒で大親友に認定した。
以降、すっかり明照を愛慕する様になり、幼稚園の頃やったお遊戯を
見せるなど、何かと尽くす様になった。
リーダーシップが有り、幼稚園の頃は並居る候補者を押し退け
卒園児代表に選ばれ“Believe”のソロパートを担当した上
演説までした。また、小学校の入学式でも新入生代表で
矢張り舞台上で演説を行なった。
明照と会う前、祖父母と共に行った沖縄県が気に入り
ウチナーグチを口にする様になった。
明照と違いホラー/オカルト/スプラッター/意味怖
洒落怖/都市伝説等が好きで
並大抵のお化けでは眉一つ動かさない。
尚、父方の祖父母は杏果が幼稚園の頃に病没。


*吉野均(よしのひとし)
明照の母方の祖父。心を開いている数少ない存在の1人。歌声喫茶に誘った張本人であり
結果として人生を極めて大きく変えることに貢献する。普段は温厚で寡黙だが
食わず嫌い、或はそれに類するものが許せない。この事で義理の息子を叱ったことが有る。

*吉野清美(よしのきよみ)
明照の母方の祖母。同じく、明照が気を許す存在。物忘れが酷い。
しかし、孫に関する事になると途端に頭の回転が速くなる。
夫と共に、明照を歌声喫茶に連れて行くことになる。

*田中靖彦(たなかやすひこ)
明照の父。普段は仕事が非常に忙しく、下手をすると
丸一日息子と顔を合わせない事さえも有る。仮に
早く帰れても、引き続き家で仕事を続ける毎日を送っている。
当初、歌声喫茶について知らず、不良の巣窟と勘違いしていた。
真実を知った後は、資金援助を行う等、肯定する様になった。

*田中千枝(たなかちえ)
明照の母。息子の陰キャを心配していたが
歌声喫茶の存在を知り、当初は嫌な予感を覚える。だが、真実を知って以降
一転して全面的に肯定するようになった。また、息子が杏花と
懇意にしていることを喜ばしく思い、助言を与えることもある。
明照が魔法少女グッズを大量に買い漁ったのを見た時
勘違いしたことから本来の意図がバレずに済み、安堵させた。


*吉野寛司(よしのかんじ)
杏果の母方の祖父。大らかな性格の持ち主で
明照を自分の孫の様に可愛がる。一方、ネガティブな
発想に囚われた時、言うべき事を言える程の強さも持っている。

*吉野英子(よしのえいこ)
杏果の祖母。非常に冷静で、相手の気持ちを思いやることに
長けている。人の意見には先ず肯定から入る。万一
意見が違った場合、提案という体を取る傾向が顕著。


*根路銘崇(ねろめたかし)
明照の数少ない親友。美娜とは幼馴染。
中学生には見えない程の巨体・怖い顔
褐色の皮膚からよく怖がられる。だが実際は
怪我した明照を担いで保健室へ運ぶ程の優しさの持ち主。
喧嘩っ早い一面も有るが、力では美娜には勝てない。
だが、美娜の暴走を防げる事実上唯一の存在でもある。
祖父母は父方・母方共にウチナンチュ。
杏果がウチナーグチで話してくれると魂が天に昇る事が有る。

*赤嶺美娜(あかみねみな)
明照の数少ない親友。美娜とは幼馴染。
中学生には見えない程の巨体・怖い顔
褐色の皮膚からよく怖がられる。だが実際は
明照を破落戸から護る程の優しさの持ち主。
女だからと云う理由で見下されるのを病的に嫌い
うっかり地雷を踏んだ者は血の海に沈む。
過去、数多のヤンキー/暴走族を全滅させた
伝説を持っており、界隈では恐れられている。
祖父母は父方・母方共にウチナンチュ。
杏果がウチナーグチで話してくれると魂が天に昇る事が有る。
読者の皆様、御機嫌よう。桜撫子(さくらなでしこ)で御座います。
皆様は歌声喫茶と云うものを御存知でしょうか。
カラオケと違い、一つの楽曲を
皆で歌うことを目的としています。ジャンルは革命歌・軍歌・民謡等
何でも有りですが、概ね東側諸国の歌を扱う傾向が強いです。
勿論、店にもよるので一概には言えませんが。
今の時代に於いては却って斬新と言えるでしょう。
極普通の飲食店が不定期にイベントと云う形で
歌声喫茶をする事が有ります。
最近では高齢者向けレクリエーションとして形を変えて
存在すると聞いたことが有ります。
今や懐かしの存在である歌声喫茶の存在を再び世に
知らしめる事が本作を執筆した目的です。
加えて、数々の革命歌
軍歌・民謡等を知ってもらえると嬉しいです。本作を読んだ後
YouTubeで検索すると、もっと広い世界が広がるでしょう。
尚、表紙のト音記号とヘ音記号ですが、筆者の手描きです。
アナログであるが故の温もりが感じられて良い・・・と言えば
聞こえは良いですが、実態は単純に私の絵心が-200なだけです。
それではどうか素敵な暇潰しを。

追伸
本作の内容は100%フィクションです。
実在の人物/出来事等とは一切無関係です。
次のページに進んだ瞬間、この事を完全に
理解&合意したものと見なします。
どうも初めまして。田中明照(たなかあきてる)です。僕は今、博士課程を修了する間際です。
横では、長い付き合いの恋人、稲葉杏果(いなばきょうか)ちゃんが紅茶を淹れてくれています。
初めて出会った頃に比べると、身長は多少伸びましたが、それでもやっぱり
実際より遥かに幼く見られる事が今でも多々有ります。

僕は特待生として迎えられたので高校・大学・大学院迄は
無試験で入学出来ました。受験戦争とは無縁だったので
杏果ちゃんと数え切れない程の思い出を作ることが出来ました。

ついこの前なんて、映画館に行ったら、大柄な小学生と間違えられ
本来、中学生以下の子が対象の入場者プレゼントを貰いました。
従業員に恥をかかせない様にするのも武士道と本人は言っていました。
しかし僕は見てしまったんです。あの後、客席で途轍もなく
悪い顔をしている杏果ちゃんを。だけど僕は何も言えませんでした。
自分から小学生と言ったのなら勿論僕だって叱りますよ。
ですが、あの時は、従業員が勝手に勘違いしたんです。
一応“今回は従業員が間違えたから仕方ないけど、もし
騙し取ったらお尻ペンペンするよ”と言ったんですが
杏果ちゃんはこれを本気にしたのか冗談と解釈したのか・・・・・・。
何年かしたら、これも笑い話になる時が来るんでしょうね。

あぁ、忘れてた。1つ、洒落にならない事案が有ります。
数年前、僕と杏果ちゃんは一緒に遊園地に行きました。
杏果ちゃんから、ライドマシンに乗るタイプの
和風のお化け屋敷に入ろうと誘われました。
嫌な予感を覚えながらも僕は従いました。しかし案の定
最初に現れたのっぺら坊見ただけで小さい子の様に大泣きしました。
苦笑しながらも、杏果ちゃんは僕から離れずに居てくれました。
今思い返してみても、情けないやら醜いやら・・・・・・。
僕は筋金入りのお化け恐怖症で、絵本読んでも大泣きした程でした。
杏果ちゃんは反対にそう云うのが大好きで、ちっとも怖がりません。
唯一、この点に限っては正反対です。

僕と出会う前、杏果ちゃんは寛司さん・英子さんと沖縄へ
何度か旅行して、心の傷が痛まない様にしたそうです。
所々にウチナーグチが出る理由はこれだったんですね。
僕と出会って以降も何度か家族ぐるみで沖縄へ旅行に
行きましたが、現地の人達は、小さい女の子がウチナーグチ
話しているのを聞いてほっこりしています。

まぁ、過程は如何あれ、僕にとって杏果ちゃんは救い主です。
御蔭で自分に自信が持てたし、人前で歌うのが楽しくて堪りません。
寧ろ、オーディエンスが少ないと張り合いが無いです。
剰え、受験戦争を免れたんですから人生イージーモードですよ。
尤も、高い声は今もそのままなんですが。


今だから気楽に話せるんですが
僕が杏果ちゃんと初めて出会った日、こんな事が有りましてね・・・
PCの画面からはソ連の軍歌“聖なる戦い”が流れていた。
画面の中では、金色の仮面に赤紫のドレスが特徴的な、小学3年位の
女の子が、一瞬たりとも臆する事なく歌っていた。

その声には幼さの片鱗が見え隠れしていた。一方で、ネイティブと間違えられる程
ロシア語の発音は精密だった。
然し、今聴いている者にとっては全く以て如何でも良い事だった。

田中明照たなかあきてる。中学2年になったばかりのこの少年にとって
歌ってみた動画専門のサイト、SongTube(ソングチューブ)は、一時的にでも
真っ黒い現実から自分自身を切り離す為の手段でしかなかった。
画面では小学生の女の子が表情豊かに歌を披露している最中だった。
Chang(チャン) Yuehui(ユエホイ)と云うユーザー名の、この小柄な女の子の存在は
明照にとって事実上唯一無二の救い主だった。
「何で僕にはこれだけの行動力と胆力が無いんだろう」
SongTuber(ソングチューバー)の中でもこの女の子の存在は別格だった。

金色の仮面の下の素顔を想像していると、誰かが扉をノックした。
父か母が性懲りも無く小言をぬかしに来やがったのかと
苛立った様子で扉を開けると、意外にも、そこに居たのは祖父だった。
吉野均(よしのひとし)。明照が心を開いている数少ない身内の一人である彼は
PCの画面を見ると小さく頷いた。
「おやおや、すまんね。聴いている最中だったのか」
「気にしなくて良いよ。お祖父ちゃんは芸術の価値を正しく
理解する同志だから」
室内の椅子に腰を下ろすと、均は口を開いた。
「明照、一緒に面白い所へ行かんか? 勿論
嫌がるのを首に縄つけて引っ張りはせんよ」
思いもよらない勧誘に明照はポカンとした。今迄
何処かに誘う時は具体的に行先を伝えていた。なのに
今日は曖昧な事を言っている。
「良い所って?」
「心配せんでもカルト教団やギャンブルではないから」
「いや、そりゃそうだろうけどさ」
「金の事なら気にしなくて良い」
全く訳が分からなかったが、“良い所”の正体が気になったので
明照は応じることにした。気に入らなければ帰れば良い。そう
考えると多少は気が楽になった。
1Fに下り、支度をしていると母方の祖母、吉野清美(きよみ)が姿を見せた。
「あれま、何処へ行くの?」
「今日は一緒に行く日だろうが。明照も行くんだと」
思わぬ展開に清美は普段切れている頭の回線が繋がった。
「行先は内緒にした?」
「今言ってしまうと面白くなくなるからな」
訳も分からないまま明照は祖父母について行った。


歩くこと数分、3人はとあるビルに着いた。
“歌声喫茶 ひかり”と書かれた看板を見て明照は首を傾げた。
執事喫茶とかメイド喫茶の亜種だろうか。それにしては見た目が然程
派手ではない。あれこれ考えつつ中に入ると、予想以上に客が多く
明照は一時的に瞬きを忘れた。
「随分繁盛している様だけど、一体・・・・・・」
祖父に尋ねていると、店の奥から老夫婦と
1人の女児が姿を見せた。
「吉野さん御夫婦、今日は御孫さんと一緒ですか」
白髪混じりの、背筋の伸びた老紳士は初めて見る客に目線を向けた。
「初めまして。田中明照と申します」
緊張しながらも丁寧に一礼するのを見て、老紳士の妻は
表情を緩めた。
「何とまぁ礼儀正しい。余程高度な教育を受けたのね。
初めまして。私は小野田(おのだ)英子(えいこ)です。隣は夫の小野田寛司(かんじ)
前に居るのは孫娘の稲葉(いなば)杏果(きょうか)です」
ツインテールの女児が自分に目線を向けていると気付き
明照は屈んで目線を合わせた。
「初めまして。僕は田中明照です」
聞き漏らさない様、比較的ゆっくり挨拶していると
思いもよらぬ事が起きた。
「田中明照君、気に入った! よし、今この瞬間から
あたし、稲葉杏果は年の離れた御友達!」
闘牛の如く突進してきたと思うと、子守熊の子供の様に
抱きついてきて、明照はどの様に反応するべきか分からなかった。
「え、な、何・・・・・・??」
フリーズしていると、杏果の祖父母は笑い出した。
「これは凄い! 面白い事になった!」
「普段は簡単には心を開かない杏果が1秒で親愛度
カンストするとは素晴らしいわ」
小さな手で頭を撫でられている明照は何が何だか分からなかった。
「あ、あの・・・僕は気に入られたって事で正しいんでしょうか」
未だ情報が整理出来ていない明照の疑問に答えたのは
均と英子だった。
「そうだろうな」
「良かったじゃない。おめでとう」
小さい子供と接した経験が無い明照は戸惑いを隠せなかった。


約20分後、漸く放して貰えた明照は寛司と英子に連れられ
舞台に上がった。人前で演説した経験の無い明照にとっては
拷問も同然だが、皆に名前と顔を覚えて貰う為
避けては通れなかった。
「初めまして。田中明照と申します。本日は
祖父母の紹介で来ました。祖父母の名前は
吉野均と吉野清美です。歌声喫茶がどんな所か
全く分からず来た素人ですが、どうか宜しく御願い致します」
ガチガチになりながら一礼すると、一斉に拍手が起きた。
「歌声喫茶ひかりへようこそー!」
「新たなる同志の入隊を歓迎するぞ!」
「宜しくー!」
何故か皆自分を熱烈に歓迎している。自己評価が-100の
明照にとっては、目の前で起きている事は斬新を通り越し怪奇現象だった。
舞台袖に居る杏果に手招きされ、専用席に明照が座った後
寛司は入れ違いに演壇の前に立った。
「本日から新たな仲間が増えました。皆さん、我々の御誓文を
斉唱しましょう。あぁ、明照君はそのまま座っていて。未だ知らないよね」
何が始まるのかと見ていると、寛司は何やら大きな箱を置いて
舞台を降りた。入れ違いに、杏果は踏み台として用意された箱の上に立った。
その時明照が見たのは皆の纏め役としての杏果の顔だった。
「一つ、去る者は追わず。来る者は拒まず」
他の会員達が一斉に復唱する様子は、明照には何処ぞの軍隊の様に映った。
「一つ、御新規様は手厚く歓迎」
右も左も分からない明照は只々聞かなければしょうがなかった。
「一つ、御新規様に教えるのが古参の仕事
一つ、御新規様の疑問には必ず答える
一つ、御新規様は知らないのが当たり前
一つ、前例が無い、其れ即ちまたと無い好機
一つ、我々は歌声を以て世界に幸せを届ける
一つ、我々は表現の自由を重んじる
一つ、我々は音楽を原語で味わう。翻訳は数ある解釈の一つ」
御誓文の斉唱が終わると、全員着席した。
直後、演壇の前の英子が手招きするので再び上がると
明照にとっては答え難い質問が来た。
「明照君、あなたがどれ程歌えるか私達の前で示してくれる?
楽曲は何でも好きなもので良いから」
トイレに行きたい訳でもないのに明照は脂汗を垂れ流した。
然し、下手な言動で祖父母に恥をかかせるのはもっと嫌だった。
どうしようか考えていると、不意に良い事を閃いた。
SongTubeでよく聴くあの歌ならいけるかも知れない。
「僕のお気に入りの歌は複数有りますが、中でも一番のを
披露させて下さい」
スマホに保存していたデータを呼び出し、再生ボタンを押すと
“独立軍歌”が流れ始めた。
忘れもしない、SongTubeで初めて聴いたChang Yuehuiの
歌う楽曲だった。
少なく見積もって150回以上は確実に聴いたこの歌曲なら確実に歌い切れる。
明照は多少楽観的に考えていた。然し、現実は甘くなかった。
祖父母を含む全ての会員の目線が自分に集中している。こうなると
気道が狭くなった気がした。それでも必死で声を絞り出した。
歌い終わった時、明照は体育の授業1コマ分と同じ位カロリーを燃焼した
感覚を覚えた。加えて、時計を見るまでは1時間位経ったと本気で信じ込んでいた。
僅か3分27秒がこうも長く思えたのは、明照の人生で初めてだった。だから
拍手も碌に耳に入ってこなかった。
杏果に手を引かれ再び舞台脇の専用席に戻ったのを見ると
寛司は演壇の前に戻ってきた。
「皆さん、人前で歌うと最初は誰でも緊張します。今後
人前で歌うのは恥ずかしくなどないと皆で教えましょう。
そんな訳で明照君、私達の普段の活動を御覧下さい」
飽きてる以外の全員が起立して、杏果に目線を向けていた。
杏果がタブレットを操作すると、SongTubeで聴いた覚えの有る
歌曲が流れ始めた。
インターナショナル。元々フランスで作られたこの革命歌は
あっという間に世界中に広がり、様々な言語に翻訳された。
今この歌声喫茶では原語である仏語から始まりスペイン語
朝鮮語・中国語・ウチナーグチと来て、最後はロシア語で締め括った。
楽曲が終わった時、明照は何故か今目の前で起きている事が
現実ではない気がした。然し、手の甲を抓った結果、夢でないと証明出来た。
寛司に手招きされ再び演壇に上がった明照は不意に質問を投げ掛けられた。
「単刀直入に言って、私達の活動について如何思う?」
明照でなくてもこの類の質問は難しいものだった。貶すなど問題外。
かと言って矢鱈持ち上げても不自然な気がする。然し在り来たりな
内容では誰も納得しない。考えた末、明照は慎重に言葉を選んだ。
「今迄この様な世界が有るとは知りませんでした。半ば夢見心地です。
人生経験が浅いから尚更そう思えるのかも知れません」
明照の掌は汗塗れになっていた。然し、そんな事を気にする暇は無かった。
「全く知らない世界に来るとそう思うのは無理もないね。明照君
孫娘は君がお気に入りなので、尚更私達の仲間に入るに相応しいよ。
上手に歌うとか、そう云うのは後からでもついて来るから。と云う訳で
今この瞬間から田中照明君は正式に歌声喫茶ひかりの一員です」
万雷の拍手と杏果の笑顔に、明照は或る事を考えていた。
もしかすると自分の人生は大きく激変するかも知れない。l
人生初の歌声喫茶を体験して数日後、照明は未だぼんやりしていた。
これは本当に現実で間違い無いのか。
何度も手の甲または頰を抓ってみたが
何回やっても夢ではなかった。
SongTubeソングチューブから聞こえてくる韓国の歌曲
“四大門を開け”も右から左へ抜けていた。
「・・・あぁ、もうこんな時間。行くか」
半ば上の空だった明照を不意に現実に引き戻したのは
タブレットの左上に表示されている時刻だった。


歌声喫茶ひかりには今日も多くの会員が集まっていた。
壇上では主宰者夫妻と孫娘が
紅白歌合戦の時の日本野鳥の会の様に出席者の数を数えていた。
欠員が無いと確認すると、小野田寛司は徐に話し始めた。
「今日は予告通り“赤旗の歌”を扱います。舞台両脇の画面に歌詞が出るので
安心して歌って下さい」
事前に予告が有ったので練習する時間は十分有った。然し、それでもいざ
本当に歌うとなったら緊張感が凄まじい。一瞬でも油断すると口から心臓が
まろび出る気がした。Twitterで知った“Box(ボックス) Breathing(ブリージング)”を実践することで
何とか正気を保った。
「大丈夫だ。落ち着け、田中照明。2人の顔に泥を塗る要素はたった今
完全に排除した。何も心配無い」
しかし、前奏が始まると結局元の木阿弥となった。
画面に出る歌詞を機械的になぞっているだけの自分が
只の人形の様に思えてならなかった。
意識してないのに気道は狭くなり、自分ではない別の誰かの声の様に聞こえた。

終わって、力無く座り込んだ時、明照は目が回った。矢張り
完全に場違いな所へ来てしまった気がする。主催者の孫娘に
気に入られたのも、一時的な気紛れで、直ぐ心が離れるだろう。
そんな事を考えていると、主宰者の妻、小野田英子から名前を呼ばれ
舞台上に招かれた。キョトンとしながら登壇すると、予想通りの
内容を聞かれた。
「照明君、人前で歌うって恥ずかしい?」
ここで下手な事を言うと怒りを買う。かと言って嘘を吐くと今後
益々面倒な事になる。必死で無い知恵を絞り出した結果
出てきた答えは以下の通りだった
「そうですね。昔はそんなこと考えもしなかったのに。
だけどこのままじゃ駄目とも思っています。何とか打開したいです」
前向きな態度を見せれば少なくとも嫌な気分にさせる事は無いという
読みは見事に当たった。
「素晴らしいわ。たとえ音程が滅茶苦茶でも、リズム感が
無くても、そうやってポジティブな考え方が出来るなら
私達は如何なる協力も惜しまないから」
安堵したのも束の間、明照はいきなり生き地獄に蹴落とされた。
「さぁ、レッスン開始だよ。他の会員の皆さんは各自で過ごして下さーい」
足元が不意に暖かくなったと思ったら、そこには
ショッキングピンクの、ノースリーブのワンピースを着た
稲葉杏果が抱きついていた。
逃げられないと観念した照明は杏果と共に自分の席へ戻った。
戻ってくると、祖父母は面白い事が始まると、期待の目で見ていた。
「折角だから杏果ちゃんのレッスン、見学させてくれるかい」
「面白そうだねぇ・・・あれ? 何するんだったっけ」
何時もの掛け合いに吹き出しながらも、明照は腹を括っていた。
「個別レッスンだよ。尤も、何するのかは分からないけど」
至極当然と言わんばかりに膝の上に座ったと思うと杏果は明照を見上げた。
「一先ずね、さっきの歌、もう1回歌ってみて。何処からでも良いよ」
公の場で歌うだけでも緊張するのに、小さい女の子が膝の上で
自分に目線を向けているとは。最初に歌う前にやったBox Breathingが
再び役に立った。
落ち着きを取り戻した明照が歌っている間、杏果は一度も目線を逸らさなかった。
聴き終えた後、杏果は大きく頷き、明照の胸元を撫でた。
「人前で歌うのが恥ずかしいって考えに完全に染まりきっているね。
呼吸が浅いもん」
自分より遥かに幼い子供に心を見透かされ、明照は別の意味で落ち着かなかった。
「杏果ちゃん、君未だ小さいのに頭が良いね」
何気無く口にした言葉に対する杏果の反応は意外なものだった。
「小さいと言っても、あたしこれでも小3だよ」
均と清美は杏果が胎児の頃から知っているので驚かなかったが
今日が2度目の訪問である明照は我が目を疑った。
「言われなければ今も5~6歳だと本気で信じ込んでいたかも。御免。嫌な事言ったね」
「良いんだよ。わざとじゃないから。然も、実際より
小さく見えるって案外悪くないよ。例えばお祭りでたこ焼き
8個入りパック買うと、2個おまけが付くから」
一寸法師の様に、自分の小さな体を逆に利用とは。明照は
自分の世界が如何に狭苦しいか改めて痛感した。
「杏果ちゃんは僕より凄いな。何でもポジティブに考えられて」
「歌うことで何かを表現するには必要な事だよ。分かったら先ず
“問診”から始めようか」
首を傾げていると、杏果は早速鋭い所を突いてきた。
「“人前で歌うのは恥ずかしい”って誰から言われたの?」
想定外の質問に明照は面喰らった。慌てて考えてみるも全く記憶に無い。
「覚えてない?」
「そもそも、そんな事誰かから言われたか否か自体怪しい」
「成る程ねぇ・・・・・・」
考え込んでいたと思うと、杏果は不意に目を大きく見開いた。
「可能性は2つに1つだね。
間違い無く誰かに真っ赤な嘘教えられたけど、誰の仕業か記憶に無い。
或は、本当は誰もそんな事言ってないのに、言われたと思い込んでいる。
明照君自身は何方だと思う?」
明確な物証が無い以上、普通なら答えたくても答えられない。然し
玉虫色の答えでは抜本的な解決にならないと明照は悟った。
「証拠こそ無いけど、僕は思い込み説を取るね。もし
誰かが嘘を教えたのなら、皆がその人を責めるんじゃないかな。
僕にとってそれは耐え難い場面だよ」
今度は杏果がポカンとする番だった。何でこんな状況でも
未だポジティブな考え方が出来るのか。
「こんな時でも自分より人の事を気にするんだね。驚いちゃった。
まぁ、知りたい事は分かったから良いよ。それじゃ、続けようか。
人前で歌うのが恥ずかしいって考えを、明照君はどうして正しいと思ったのかな?」
再び頭を捻るも、矢張り答えは見つからない。
「・・・・・・御免、全然分からない」
何度も同じ答えを出せば流石に怒るかと思ったが、杏果は
依然として笑顔だった。
「そう云う事、有るよね。音楽室の壁に貼ってあるベートーヴェンの
肖像画が何故か怖い。理科室の骨格標本が何故か怖い。誰からも
何も言われてないのに、何時の間にか可笑しな事を考える。
どうしてこうなるのかは分からないけど、放っておいて良い事じゃないね」
対面座位でのレッスンを見学していた均と清美はこの場面を見ても
何も驚かなかった。
「本当、杏果ちゃんは下手な大人より賢いな」
「前世ではさぞ高名な学者だったのかも」
感心する均と清美とは正反対に、明照はどんどんネガティブな方へ沈んでいた。
「何で僕こんなになったんだろう。本当にここの一員で良いのかな」
頭を抱えている明照を、杏果は見捨てていなかった。
「あたしは明照君が大好きだから、悩みを解決出来るなら何でもするよ」
家族からも言われたことがない言葉を他人、然も、会って未だ数日の
小さい女の子から言われ、明照はネガティブとポジティブ、2つの感情が
鳴門海峡の大渦の様に渦巻いていた。
「僕は本当に慕われているのか・・・・・・?」
「未だ信じられないならチューしようか」
慌てて制しようとするも間に合わず、明照のファーストキスは
一瞬で杏果に奪われたのであった。丁度通り掛かった寛司と
英子は口付けの瞬間を見ていたので、流石に叱ると思っていた。
しかし、2人の反応は明照の予想と全く違うものだった。
「何と大胆な・・・・・・! 誰に似たんだろうな」
「明照君が余程気に入ったのね。素晴らしいわ」
呆然としながら目線を上げると、寛司と英子は冷静に話し始めた。
「明照君、驚かせたね。杏果がこんな事するのは
初めてで、大いに驚いたよ」
「そ、そうですよね。何度もこんな事有ったら怖いです」
「杏果の両親は“人を愛するのは尊い事”と
教えてきたので、それを忠実に実行したのね」
「えっと、あ、はい、立派な教えです」
しがみ付いて離れない杏果の頭を撫でながらも、明照は
落ち着かなかった。嫌というのも違うが、正直
何と言って良いか分からない。明照は未だ唇の感触が消えずにいた。
「明照君、今後もレッスン頑張ったら今みたいにチューするから
一緒に歌おうよ。あたしは大好きな明照君と一緒だと嬉しいよ。
明照君の歌を聴きたい人がここに居るんだから、恥ずかしがる必要など無いよ」
「あ、有難う・・・・・・」
年齢=恋人居ない歴の明照にとって、今日のファーストキスは
色々な意味で一生忘れられなかった。
予定よりも大分早い時間に着いた明照は、暇潰しに
“カチューシャ”を聴いていた、それも中国語の歌詞を。
明照のお気に入りのソングチューバーChang(チャン) Yuehui(ユエホイ)
“前例が無いのは絶好の機会”と普段からSNSでも公言していて
今回カチューシャを中国語で歌ったのもその一環だった。

「素顔こそ金色の仮面に覆われているけどChang Yuehuiさん
声と動作が可愛いし、色々な言語の歌を知ってて、凄いなぁ」
何気無く発した独り言を聞いていた人物が居た。横丁の中華料理屋の
店主、王 欣怡は何時の間にか、くノ一の如く忍び寄っていた。
「本当。この子、中国語は勿論、ロシア語・朝鮮語の歌も
知っていて凄い。然も言語により再生リスト有るから親切」
(ワン) 欣怡(シンイー)が至近距離に居る事に全く気付かなかった明照は危うく
飛び上がるところだった。
「わっ・・・! い、何時の間に!?」
気がつくと至近距離に居たのは1人ではなかった。
「大分前からだよ」
あっと思った時には稲葉杏果は明照の膝の上に座っていた。
「いや近い近い。僕の膝の上は何時から杏果ちゃんの席になったのかな」
「そんなどうでも良い事、気にすることないよ。あたしと明照君の仲なんだから」
何処までも自由過ぎる杏果に、明照は適切なツッコミが思い浮かばなかった。
然し、子供に慕われるのは素敵な事とも分かっていた。


「今日は“ワルシャワ労働歌”を歌います。革命の場面を思い浮かべると
歌い易くなりますよ」
進行役の英子の言葉が終わるのを待って、寛司は音楽を再生した。
元々ポーランドで作られた後、インターナショナルと同様、諸外国に伝わった
この歌をポーランド語→日本語→ドイツ語→ロシア語の順に歌った。当然
日本語以外はさっぱりだったが、明照にとっては然程
大きな問題ではなかった。ポーランド語・ドイツ語・ロシア語が分からない問題は
人に聞けば済むから未だ良かった。然し、歌う度に気道が狭くなる様な
感覚は本当に死活問題だった。
「如何しよう、本当に二進も三進もいかない・・・」
人前で歌うと恥ずかしくなる問題に加え、明照はもう1つ悩みを抱えていた。
結論から言うと、耳コピが壊滅的に下手なのである。祖父母から最初に
重要性を教わったものの、如何しても上手く出来ずにいた。

今日も懲りずに気道が狭くなった様な感覚を覚えた明照は
他のメンバー達が帰った後1人で頭を抱えていた。
自分の視界が霞んでいる事に気付くのに然程長くは掛からなかった。
「こんなの有りかよ。何でこんな調子なんだよ。
僕は人前で歌うという立派な事が出来る人間ではないのか・・・・・・!」
明照は最早、自分でも感情の津波を如何にも出来なくなっていた。
そんな明照の視界に、不意にハンカチが入ってきた。
「如何したの? 話、聞くよ」
「あ、有難う御座います・・・って、杏果ちゃん!?」
ハンカチを受け取り涙を拭いた数秒後、持ち主が誰か分かり
明照は一時的にフリーズした。
「誰にも言わないから、話してみて」
何時もの様に対面座位になると、杏果は明照の顔を覗き込んだ。
「そうやってバイカル湖の様に澄んだ瞳で見られると
何故か嫌だとは言えなくなっちゃうんだよな」
観念した明照は一つ、二つと思い浮かべながら本音を吐き出した。
「僕は耳コピが下手で頭を抱えていたんだ。外国語が分からない
事などこれに比べれば大した問題じゃない。だけど、歌声喫茶で
耳コピが下手って致命的だろう? だから、僕は人前で歌える程
立派な人間じゃないって思えて・・・・・・」
一度も目線を逸らさず聞いていた杏果は前にした内容に近い質問を投げかけた。
「耳コピが下手だから立派な人間じゃないって、誰から言われたの?」
「いや、誰って事は無いけど・・・」
言葉遣いと表情はあくまでも優しいものの、逃げ道は完全に
塞がれていた。いい加減な答えを返しても納得などしないだろう。
「まぁ、覚えてなくても仕方ないね。じゃあ別の質問。
明照君にとって“立派な人”ってどんな人?」
「う、うぅ・・・・・・」
杏果本人には自覚など無いが、明照にとってはこの“尋問”は
考え方次第では、人前で歌う事以上の苦痛だった。
嘘を吐いたら十中八九怒るか呆れる。そんな未来が見えるから尚更
困り果てた。
そんな明照に助け舟を出したのは、予想外の人物だった。
「明照君、音楽は皆に平等に開かれたものなのよ。漢字を見て御覧なさい。
“『音』を『楽』しむ”と書くでしょう? 漢字は表意文字なんだから分かるわよね?」
とっくの昔に帰ったとばかり思い込んでいた英子は
2人の目線位の高さに屈んでいた。
「え、英子さん・・・」
何と返事すれば良いか分からなくなったが、少なくとも、事態は確実に
好転しつつある。それだけは間違い無かった。
「“立派な人間ではないから決して音楽に触れてはならない”なんて、
そんな馬鹿げた話が一体何処の世界で通用するというんだい?」
足音が聞こえなかったので気付かなかったが、寛司も近くに居た。
3人から問われ、明照は漸く悟った。
「現実には、世界中何処を探しても居る訳ない、幻の何者かが僕の悪口
言っていると信じ込んでいました。何でかは分かりませんが、兎も角も
真実に気付かせて下さって、有難う御座います」
杏果が膝の上に鎮座しているので深く一礼することは出来ないものの
それでも根が律儀な明照は、どうにかして目礼した。
「何だ、明照は立派な人間じゃないか」
「本当。人に感謝するって簡単そうで難しいんだからね」
未だ帰ってこない孫を探しに戻ってきた均と清美は、何時からか
一連の様子を見ていた。
予期せぬ出現はこれで4度目である上、足掛け14年も見てきた顔なので
明照は今度は驚かなかった。
「親切にして貰ったら御礼を言うのは当たり前の事だよね?」
「理論上はそうだけど、現実にはこれを出来る人が中々居なくてね」
「全く嘆かわしい。こんな事言うと老害呼ばわりされるかも知れないが
わしらが明照位の年の頃は、人に感謝出来ない奴は逆賊呼ばわりされたんだぞ」
この類の話は、ともすれば説教臭くなる傾向が有る。然し、何故か
均と清美の話は説得力が強かった。
「・・・改めて、有難う。こんなにも素敵な所へ連れて来てくれて。
それから、御免なさい。ウジウジしてたら2人の顔に泥を塗ることになるよね。
ポジティブになれば歌も上手くなるかな?」
最初の頃より大分表情が明るくなった明照を見て、祖父母は勿論
主宰者夫婦及び孫娘も表情を緩めた。

歌声喫茶が人生変えた

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