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 完璧な人間。
 ここでは、この言葉の定義を「文武両道」「容姿端麗」「謹厳実直」であるとしよう。
 中学の萩上は「文武両道」であり、「容姿端麗」であり、「謹厳実直」であった。つまり、完璧な人間の要素を全て兼ね備えていた。そのことは、僕のみならず、萩上と同じクラスになった者ならば皆知っていることだ。
 彼女はいつも人に囲まれて、羨望のまなざしを向けられていた。この先、彼女が進路で迷うことも無いだろうし、仮に迷ったとしても、その美貌と性格さえあれば、苦労することは無いだろう。まるで黄金の光に照らされたかのような、彼女のこれからの進むべき道を横目で見て、僕たちは、彼女を妬むようなことはしない。むしろ、そんな素晴らしい人間と、同じクラスにて同じ空気を吸うことが出来たこと自体が、光栄なことだと思い、胸の中の想いでの箱にそっとしまうのだ。
 彼女の存在は、誰かにとっての「宝」だった。
 少なくとも、僕は中学時代の萩上を、宝石を見るような目で見つめていた。
 ああ、すごいなあ。
 って、思いながら見るのだ。
 ただ見ているだけ。「いいなあ」とか言っている奴らみたいに、羨んだりはせず、欲しがったりはしない。ただ見て、「すごいなあ」と思う。
 彼女が美術作品賞で優秀賞を得ると、「ああ、すごいな」って思う。彼女が、定期テストで学年一位を取ると「ああ、すごいな」って思う。
 僕にとって、彼女は美術館の一角にひっそりと展示されている美術品だった。
 触れることはできない。写真撮影もできない。持ち出せば、当然捕まってしまう。
 まさに、芸術品だった。
 そんな、しがない客の僕と、美しい彼女だったが、一度だけ、一対一で会話をしたことがあった。梅雨が明けて、夏休みに入った時の話だ。
 月曜日の十一時ごろ、一学期末の定期テストで赤点をとった僕は、追試として学校に呼び出されていた。
 この暑さなので、運動部は日が昇る前から練習を始めて、日が昇りきる前に終わる。僕がうだるような暑さの中、駐輪場で自転車を停めていると、野球部の一団がやってきて帰り支度を始めていた。
 焼けてしまいそうな日差しから逃げるように校舎に入る。靴箱で靴を脱ぐと、そのまま、クーラーが効いた職員室に直行した。
 呼び出しておいて、担任の先生は、気だるげに「早くしろよ」と言って、僕に追試用のプリントを渡した。
「一時間以内に終わらせろ。教室使っていいから」
「はい」
 追試だと聞いて身構えてきたのに、やけにあっさりとしているものだ。監視役の先生もいないのなら、徹夜で勉強なんかせず、堂々とカンニングしてやればよかった。
 僕はそんな狡いことを考えながら、教室に向かった。
 教室の鍵は開いていた。
 建付けの悪くなった扉を引くと、冷えた空気が流れ出て僕の頬を撫でた。
 教室の隅の席に、萩上千鶴がちょこんと腰を掛けて、勉強をしていたのだ。
 人、とくに、萩上千鶴がいると思っていなかった僕は、面食らってその場に立ち尽くした。
 扉が開いた音で、萩上が僕の方を見る。
 視線が、バチリと合った。
 別にやましいことなんて何もしていないのに、僕の体中から冷や汗が吹き出した。だって、みんなの憧れの、萩上千鶴だぞ?
 僕がその場で銅像のように硬直していると、萩上は僕に向かって、にこっとほほ笑んだ。
「こんにちは」
「あ、ああ、うん」
 そんなことしか言うことが出来なかった。
「偉いね。桜井君も勉強しに来たの?」
「いや…、追試なんだ…」
 僕は見栄を張らずに正直に言った。
「追試?」
「うん。期末の、国語でな…」
「ああ、そう! あれ難しかったよね!」
 僕はまた面食らって、次の言葉を絞り出すことが出来なかった。あの萩上から、「難しかった」なんて言葉が出るなんて思わなかったのだ。
「難しかったの?」
「うん。難しかったよ。特に、最期の小論文の問題がね。先生オリジナルだったから、対策できなかったでしょ」
 ああ、あの問題…、オリジナルだったのか…。道理で見覚えが無いわけだ。
 僕は自虐の意味を込めて、鼻で笑った。
「萩上が『難しい』なんて言うんだから…、僕なんかが解けるわけないよな」
「そんなこと無いよ。桜井君もちゃんと勉強すればできるようになるよ」
「そうだといいんだけどね」
 つかつかと歩いていって、エアコンの真下の席に座った。
 机の上に、プリントとペンケースを出しながら言う。
「ほんと、情けないよな。お前は自主的に学校に来て勉強だろ? 僕は先生に呼び出されて強制的にだ」
「ううん」萩上は僕の自虐を否定した。「ちゃんと、さぼらずに来れていること自体がすごいよ!」
「まあ、行かないと怒られるもんな…」
 ふと横を見ると、萩上千鶴が隣に立っていた。
 細くてふっくらした顎に手をやって、「ふむふむ」と机の上の追試用プリントを覗き込む。ミディアムにカットされた彼女の黒髪からは、制汗剤の石鹸の香りがした。
「ああ、なるほどね」
「何が『なるほど』?」
「結構簡単に作られているから、頑張れば解けるよ」
「萩上の基準は信用ならないんだよな」
 レベル百の勇者が、村人に対して「このモンスターは弱い」よ言うものだ。
 すると、萩上はプリントから僕の方に視線を移した。
「何なら、一緒に解こうか?」
「いや…、いい」僕は気恥ずかしさを紛らわせるように目を背けた。「一応…、勉強はしてきたんだ」
「そうなんだ。偉いよ」
「まあ、でも、本当にわからなくなったら頼むとするよ」
「うん、いつでも頼ってね」
 萩上は、自分の席に戻っていった。
 それから、僕は黙って問題を解いた。萩上の言う通り、前みたいに、手も足も出ないことは無かった。
 一時間で全部を解き終えると、僕はわからない部分だけは萩上に見てもらおうとして、彼女の方を振り返った。
 萩上は、席に腰掛けたまま、腕組みをしてこくりこくりと首を上下に揺らしていた。
 勉強中に寝落ち。というわけではない。参考書やノートは閉じてある。
「萩上?」
「…」
 僕の声に、ぱちりと目を開ける萩上。
「ああ、桜井君、どうしたの?」
「ここの問題、わからないから見てもらおうと思って…」
「ああ、うん。わかった。見せて」
 萩上は僕からプリントを受け取ると、最期の空欄をじっと読み始めた。
 彼女が解いている間、気が散るだろうに、僕は思わず訪ねていた。
「疲れてるの?」
「うん?」
「いや、さっき、転寝してたから」
「ちょっと眠くなっちゃったね」
 萩上は恥ずかしそうに頬を掻いた。
 体育のこわもての教員に実は奥さんがいた。と知らされた時のような衝撃が僕の胸を静かに駆け抜けていた。萩上にも「難しかったね」と言えるテストがあることを知った。萩上も、「疲れる」ことがあるのだと知った。アイドルオタクが「アイドルはトイレに行かない」なんて妄言を吐いているが、僕の中には、「萩上に解けない問題は無い」「萩上は転寝などしない」という偏見にも似た潜在意識があるのだと気が付いた。
 でも、冷静に考えてみて「そりゃそうか」という言葉を呟く。
「萩上は、寝る間も惜しんで勉強しているもんな。そりゃ、眠くもなるさ」
 ほめたつもりだった。
 だけど、彼女はそれに関して返事をしなかった。「ここの問題はね」といって、設問の文章を指でなぞり、僕に問題の解説をした。
「ここの問題は、この文章を読めばいいの。波線部に関連していることは、すぐ近くにそれらしい答えがあるからね。評論文はそうなの」
「うん」
 僕は適当な相槌を打つ。
 その日の追試は、満点だった。