「あいつのことを気にしている? 確かに真子からは一回電話があったよ。出張が終わる前に一度飯でもどうかって。けど断った。沙綾に妙な誤解されたくないから」
正直に答えてくれた彼にわたしは安堵した。真子さんには悪いけれど、少しだけ嬉しかった。彼は、わたしを選んでくれた。
でも、とすぐに心の中の別の場所が異議を唱える。
本当は、ずっとほしい言葉があった。
だから、わたしはゆっくりと駿人さんを見上げた。
「わたしが駿人の求める結婚相手の条件にぴったりだから、わたしと結婚がしたいの?」
彼は合理性を求める人だ。それでも、わたしは聞かずにはいられなかった。
だって、これはわたしの結婚のことだから。
彼はわたしの視線から逃げなかった。互いに見つめ合う間を海風が通り抜ける。
駿人さんが唇を舐めた。
「条件は……」
彼が口を開くまでとても長い時間のように感じた。実際はほんの数秒の間のことだったのだろう。
「条件は大事だろ。その中で沙綾とは気も合うし一緒にいて苦じゃなかったから、改めて考えた。沙綾とならって」
この人は、結局条件だけで沙綾を選ぶのだ。
わたしは一度目をつむった。わたしは彼から欲しい言葉の正体を思い知る。この男は昔っからそう。沙綾が手を伸ばしているのに、欲しいものはくれないのだ。
「……わかった。そういうことなら。……わたしは駿人さんとは結婚できない」
* * *
カムデンタウンのフラットのリビングダイニングルームのテーブルの上には日本食材店で買ってきた日本の缶チューハイとスシロールのパック詰めと日本のお馴染みのスナック菓子に占拠されている。ほかにも近所のスーパーで仕入れた生ハムとチーズとオリーブの実と、クッキーもある。
「あーあぁ。せっかくイギリスで元カレと再会したのに。一瞬で玉砕とかありえなくない?」
生ビールの缶をプシュッと開けてぐびぐび喉に流し込み、ぷはぁっと缶を口から離した後の一言。発したのは真子さんだった。
どうしてここに彼女がいるのかというと、夕方リリーと待ち合わせをしてピカデリーサーカス近くにある日本食材店に行って買い込みをしているところで偶然鉢合わせたからだ。
お互い気まずい空気の中、真子さんが一言「楽しそうでいいわね」と口火を切ったら、リリーが「真子も来たらいいじゃん! わたしたち、今日はやけ酒なんだから!」と強引に彼女を引きずってきたからだ。
今日は平日のど真ん中で、真子さんは明日も仕事だろうにいいのかと考えていたわたしを尻目に、以外にも彼女はリリーに従ってついてきた。
しかもカムデンのスーパーに寄ったときなど自分の好きなチーズの主張までしていた。
「しかも、沙綾さん、結局駿人を振ったってどういうこと?」
「だって……。駿人さんはべつにわたしが相手じゃなくてもよかったんだもん。たまたま祖父同士が仲良くて、それでわたしに白羽の矢が立っただけってそういうことだったわけだし」
わたしものっけから缶チューハイをくぴくぴ飲んでふわぁぁ、と長い息を吐き出した。
「それのどこがいやなの。お互いの親族が乗り気で、相手の親族に受け入れられているってものすごくラッキーなことじゃない」
真子さんがビールの缶をだんっとテーブルに置いた。開始早々目が若干座っている。
「だって……」
結婚が条件とか、そんなにも割り切れない。もう少し夢を見ていたい。
「そっちの凛々衣さん、だっけ? もそうよ。あれだけ。あれだけ直球でプロポーズされて、なにが嫌なの」
「わたしは……やっとイギリスの大学に入りなおして、勉強している最中なのに。まだやりたいこともたくさんあるし、行きたい国もたくさんあるのに。結婚なんて……わたしにはまだ……重たいんだもん」
リリーがしょんぼりと項垂れた。本日ダニエルは仕事で出張。その隙を狙ってリリーのほうから家飲みしよ、と提案をしてきたのだ。
「若いねー。ま、二十五ならそんなもんか。わたしもあの時は仕事を覚えなきゃー、同期の男に負けてられるか、とか思って仕事ばっかりだったしねー」
真子さんが自嘲気味に笑って缶を振る。中身がすっかり空のようで彼女は別のビールのプルトップに手をかける。
「わたし、イギリスにずっと住むことなんて考えられないもん。卒業したあとのことなんて、まだ分からない」
「でも、ダニエルはずっとリリーと一緒にいたいって思ってくれているんだよね」
「……うん。たまに重たいけど」
リリーは椅子の上で体育すわりをしながらレモン味のチューハイの缶をぷらぷらと揺らしている。お酒が飲める年の、大きな迷子のようでもある。道ではなくて己の心に迷っている。
「いいじゃない。重たいって思うくらい想われてて。わたしなんかイギリス駐在が決まった途端に振られたんだから! 俺よりも仕事の方が大事なのか、とか言いやがってあいつ。付き合っているときは仕事をバリバリしている真子ってカッコいいよな、とか言ってたくせに! なんなの、あいつ。ふざけんなー!」
興奮した真子さんが空になった酒の缶をばきっと握りつぶした。彼女は迷子というより目の前の壁がぼこぼことグーパンチしそうな面持ちだ。
「わたしだって人並みに結婚くらいしたいだから! ロンドンで夜一人フラットに帰ったときに感じる寂しさがあなたにわかる? もう、ちょー寂しいんだからっ!」
彼女はそのまま慣れない海外暮らしの中での孤独を語った。「そりゃあ海外で仕事をするのは長年の夢だったけれど!」と言いつつも赴任してきてひと月、それなりに鬱憤が溜まっていたらしい。
仕事繋がりでないわたしたちに対して遠慮なく愚痴を吐いていく。
「でも、アーサーは真子に気がありそうだったけど?」
リリーが水を向けた。確かに彼は真子さんに気がある素振りだった。
「あれはいや。タイプじゃないもん」
「じゃあ仕方ないか」
リリーはあっさり話を打ち切る。
「わたし、もっと線の細いタイプがいいの」
日本語オンリー飲み会での本音トークは容赦がない。たしかにアーサーはどちらかというとがっちりというか、線は細くない。お腹も……うーん、出ていたような。わたしもつい、彼の姿を脳内で再生してちょっと失礼な感想を持ってしまう。
「駿人はさ、大学時代からモテてたわけよ。遊び人ってわけでもないけど、暗くもないでしょう。面倒見もよかったし。ちょうど彼女と別れたってゼミの飲み会で言ってて……それで……だったら、わたしと付き合わない? って聞いたのよね」
そうしてお付き合いが始まったのだという。
「へ、へえ……」
わたしはじゃがいものスティック菓子をぽりぽり食べる。それをどうして今更聞かせるのか。
「ま、それなりに大事にはしてくれていたけどね」
大事にってどれくらいだろう。わたしは駿人さんとお付き合いをしたことがないから分からない。今まで付き合った彼氏はわたしをどのくらい大事にしてくれていただろう。とはいえ、こればかりは人それぞれの基準があるから分からない。この話、どこまで続くのだろう。
「大学四年の時だったかなー。卒論の口頭試問時期で学校に行ったとき、駿人にメール来て」
「……」
卒論の口頭試問っていえば年が明けた頃合いだろうか。
「なんか幼なじみが大学に見学にくるかも、とか言ってて。駿人感慨深げにもうそんな年かとか会うたびに大人っぽくなっていって俺が年取るはずだよとか言うわけ。その顔がさ、なんか優しくて。わたし平静を装っていたけど内心面白くなかったなー」
だって、その子はわたしの知らない駿人の昔を知っていたから、と彼女は続けた。大体、バレンタイン近い日で、わざわざメールして大学見学を伝えてくるなんて。と彼女は続ける。待ち合わせまではしていなかったみたいだけど、いたずら心を発揮して駿人と戯れていたと言ったところで真子さんはわたし向かってにっこりと微笑んだ。
「その幼馴染って沙綾さんでしょう」
わたしは息を呑んだ。まさかここで繋がっていたとは。
「いいなあ。親族公認じゃあわたしに勝ち目なんてないじゃん。しかも駿人ったらご飯に行こうっていうわたしの軽い誘いをきっぱり断ったし。なんて言ったと思う?」
「さ、さあ……」
「沙綾に誤解されたくないし、今は沙綾と大事な時期だから余計なことに煩わされたくないって。変われば変わるよねー。わたしにそんなこと言ってくれたことなかったのに」
「……」
わたしは黙りこくって、缶チューハイを飲もうとしたら空だった。仕方なくチョコレートクッキーのパッケージを開けて中身を口の中に放り込む。
口の中が甘さに浸食されていく。
反対にわたしの心の中は塩辛いままだ。
「だって……駿人はわたしに最後まで、結婚は条件だって。一緒にいて苦にならないからとか。そういうプロポーズってあります?」
あの日のことを思い出して、くしゃりと顔を歪めた。
ダニエルがリリーに向かって放ったプロポーズの言葉のあとだからこそ余計に悲しくなった。あまりに違いすぎる言葉の数々に。
わたしだって本当は、あんな風に情熱的に心を向けてほしかった。わたしのことが好きだから結婚がしたいのだと、そう言ってほしかった。
「それで断ったの? いいね、若いって。わたしなら即オッケーしちゃうけど」
「真子とサーヤとでは違うの! サーヤはずっと駿人のこと好きだったんだから。初恋相手にそんなドライなこと言われたら思わずノーって言っちゃうでしょう」
リリーが叫んだ。
「沙綾さんて少女漫画の読み過ぎじゃない?」
「わたしにだって憧れってものがあるんです!」
「だったら駿人とは合わないかもね。あいつ、来るもの拒まず、去るもの追わずっていうか。相手に深入りすることなかったもん」
「よくそこまでわかっててあの男に付き合おうって言ったねー」
リリーが感嘆した。
「わたしはそこまで重たいの好きじゃなかったし。顔もいいし、頭も悪くなかったし」
「わたしはダニエルくらい重くてもいいんだもん。彼、確かにちょっと重たいけど。けど、ちゃんと愛してくれているなあっていうのは分かるし」
「じゃあさっさと結婚しちゃえばいいじゃない」
真子さんの声がやや投げやりになった。
「だって、わたしダニエルみたいに、いま熱烈に彼と結婚したいってわけじゃないんだもん。それなのに今ダニエルと結婚してあとあと後悔したらって思うと……。それは嫌。わたし彼のことが好き」
今度はリリーが顔を歪ませる番だった。彼女なりに葛藤があって、自分の気持ちの間で揺れているのが分かった。
大切なものがいくつもあって、分岐点に立っていてどっちの方向に足を進めるべきなのか分からない。それはわたしにも言えること。
「じゃあそう言う風に言えばいいんじゃない? 今の気持ちと、ダニエルのことをずっと好きでいたいからまだ結婚は考えられないって」
わたしの言葉にリリーが目線を上げる。
「そうしたら彼は呆れないかな?」
リリーがハイボールの缶を手の中でもてあそぶ。心の迷いを現すかのように缶がくるくると回っている。
「ちょっと残念に思うかもだけど、そもそもダニエルがリリーと結婚したいって思うのは、リリーの心が離れていっちゃうって思っているからでしょう。だから、ちゃんと言えばいいんだよ。ダニエルにこれからもずっと好きだよって」
「将来のことなんて誰にもわからないよ」
「今の正直な気持ちを言えばいいんだって。だって、今の時点ではリリーはこれからもダニエルのことを好きでいたいんでしょう?」
リリーはなおも小さな子供のような声を出す。彼女がここまで弱弱しいのは初めてで、わたしはそんなリリーを包むようにふわりと抱きしめた。
いつも猪突猛進なのに、恋をすると変わる。
抱きしめながら、胸の奥でシャボン玉が弾けたような錯覚を覚えた。わたしは、駿人さんにも変わってほしかった。
恋をして欲しかった。わたしのことをちゃんと好きになって欲しかった。
「好きとか嫌いとか。気が合えばそこから始めればいいじゃない。面倒な子たちねー」
真子さんが冷めた声を出した。
「ねえねえ、僕も混ぜてよ。女の子たち三人だけで飲んでいたって楽しくないよ。英語で話そう。俺も一緒がいい」
女子三人の飲み会に、英語の声が割って入った。
実は初めからリビングルームのソファにはエリックがいたのだ。「今日は女子会だから! 男子禁制」とリリーにしょっぱなに宣言されて、それでも未練がましくワインをちびちび舐めていたのだけれど、ここにきて耐えきれなくなったらしい。
「まあ、あらかた言いたいことも言えたし。いいよ、おいでエリック」
リリーが英語で許可を出すとエリックは嬉々としてグラスを四人分用意して持っていたボトルから白ワインを注いで回った。
「ボアンソール。美しいあなたと一緒にワインが飲めるなんて、僕はとても幸せだよ」
エリックが真子さんの手を取り、口元へ持っていった。
ちゅっと音を立てて映画の中の人のように口づけを落とした。本当にキスをされたのかはわからないが、真子さんの顔が瞬時に青くなる。
「ちょっと! このフランス人誰に対してもこれなの?」
いや、どうだろう。
少なくともわたしはエリックと初対面の時にここまではされていない。
空港という場所は物語に富んでいる。今日もここから様々な人たちが色々な場所に向けて旅立っていく。
「じゃあね、サーヤ。こっちに来てくれてありがとう。楽しかったよ。色々と話せたし。また来てね」
ロンドンのガドウィック空港でわたしはリリーと別れを惜しんでいた。
「また来るよ」
長いと思っていた休暇は過ぎてしまえばあっという間だった。二週間の語学学校も楽しかった。いろいろな国からやってきている年代もばらばらのクラスメイトと毎日会話をしてパブに行ったりティールームに行ったり。
リリーとも最後の週末に湖水地方に旅行にも出かけた。ロンドンを起点にして色々と見て回って暮らして、盛りだくさんな生活だった。
「転職活動頑張って」
「うん。また旅行に来れるよう早く仕事見つける」
「……駿人とは、最後に会うの?」
リリーが遠慮がちに尋ねてきた。
わたしがこれから向かうのはフランクフルトだ。一泊したのち、明日のフライトで日本へ帰国する。
「一応お礼メールはするつもりだけれど。たぶん会わない。そのほうがいいと思うんだ、お互いに」
あのロンドン日帰り旅行以降彼とは会っていないし、メッセージのやり取りもしていない。
とはいえ、最終日に帰国する旨のメールは入れるつもりだ。一応沢山お世話になったわけだし。本当は、最後に会ってもと思わなくもなかった。日本に帰ればわたしたちの縁はまた元通り糸のように細い関係に戻ってしまう。
けれど、それが今後のわたしたちの間柄だ。わたしはあのとき彼の手を取らなかった。
胸の鈍い痛みには気が付かない振りをする。
「後悔の、無いようにね」
「うん。大丈夫。リリーこそダニエルと上手くいってよかったね」
どこか吹っ切れたリリーの顔は穏やかだ。女子会で散々管を撒いた後、彼女はいまの正直な気持ちをダニエルに伝えた。彼のことをどう思っているのか、それから自分の心の中についても。
それを聞いたダニエルは「きみが僕のことを好きなら大丈夫。今は一緒にいてくれるだけで」と返してくれたのだと、あとからリリーが教えてくれた。
彼はリリーの気持ちをまっすぐ受け止めた。
「わたしもどうなるかわからないけどね。外国人のわたしには常にビザ問題が付いて回るから」
リリーは小さく肩をすくめた。もう二、三言凛々衣と話してからわたしは出国ゲートに向かった。
ロンドンからフランクフルトまでのフライトはあっという間だった。フランクフルトの空港に足を着けたとたんに目に入ってくるドイツ語に懐かしくなる。一人きりの旅行はもちろん初めてで、それなのに周遊旅行とか今思えば結構無茶をしたものだ。
それに、数年ぶりに駿人さんに会うということで、そのこともわたしの緊張を増幅させていた。
わたしは空港で彼の顔を見た時のことを思い出して苦笑した。
もちろん今回は誰も迎えに来てはいない。わたしは空港近くのホテルにチェックインして最後の観光に繰り出した。
あのときは予定が来るってフランクフルトをよく見て回れなかった。
市内中心部を少し歩いて、夜はドイツビールを飲んで早めに帰って眠った。
翌日、空港で日本行のフライトを待つ間そこかしこから日本語が聞こえてきた。日本の有名な旅行代理店のバッチをカバンや服に付けた団体客たちの楽しそうな声に混じってわたしは駿人さんにこれから帰国する旨メッセージを送った。返事を待たずにスマホの電源を落とした。
もうすぐ搭乗開始だ。この飛行機から次に降りると、そこは日本。たくさんの日本語が出迎えてくれるだろう。
わたしの長かった旅が終わる。
夏のフランクフルトには観光客が大勢押しかける。日本からの直行便も飛んでいるため、街を歩いていると日本語も聞こえてくる。
俺は先日も街中で聞こえてきた日本語に意識を持って行かれた。若い女性の声に、もしかしてと思ったからだ。
もちろん、俺の思う声の主がいるはずもない。彼女はすでに日本へ帰ってしまった。
俺は自分でも信じられないくらいパフォーマンスが落ちている。これまでこういうことなどなかったというのに、一体どうしたというのだ。
いや、原因は理解している。
だからこそ俺は訝しがっている。どうしてこれしきのことで自分がこれほど腑抜けになってしまうのか。そのことに理解が追い付かない。
今日やるべきことを終え、PCの電源を落としたところでエミールが近づいてきた。
「ハヤト、最近元気ないね」
定時を過ぎたオフィスは閑散としている。皆今日やるべきことを片付けて時間が来ると早々に帰宅をするからだ。俺だってずるずると仕事をするつもりはない。
「そんなことない」
「そう?」
俺が歩き出すとエミールも付いてきた。つくづくおせっかいなやつだと思う。職場の同僚などもっと表面的な付き合いでいいと思うのに、この年下の同僚は俺が遠い異国の地で働いているせいか、なぜだかこちらの都合も構わずに世話を焼きたがる。
どうやら初対面で俺を同じ年だと思い込んだことに原因があるらしい。
「僕もそろそろ海外で働きたいな」
「ふうん。じゃあ今度の面談で話したらいいじゃないか」
「ハヤトはどこがいいと思う? ニューヨーク、上海、香港……シンガポール。やっぱり一度くらいはアジアに住んでみるのも面白いかなあ。高層マンションに住みたい」
フランクフルトの金融街もなかなかに高層ビル群だと思うが旧市街には古い建物が多く残っている。確かにヨーロッパとアジアの街並みは異なるからエミールからしたら新鮮に映るのだろう。
「俺は……」
そろそろ移動が出てもおかしく無いことを思い出す。ドイツに渡って五年目だ。
俺の職種は地域を限定したものではない。世界各国にある支社へ、国に関わらず移動できる。リアルタイムで世界が知りたくて、俺は就職活動時外資系に絞った。
そのため大学時代から英語の勉強にも力を入れたし、留学もした。
とはいえ、実際の移動は上司との面談によって決まる。本人の意思を尊重してくれ、上の人間との対話を用意してくれるのが外資系のよいところでもある。ただし、実力・成果主義だけれど。
エレベーターから降り、ビルの外に出るとまだ日は高い位置にいた。八月なのだから当たり前である。ただし、六月よりも日の入りは確実に早くなっている。
「あー、やっと出てきたぁ」
ビルの外へ足を踏み出すと、日本語が聞こえてきた。
俺たちの方に向かって黒髪の若い女性が早足で向かってくる。
両耳の上で縛った髪の毛がぴょんぴょんと跳ねている。その年で妙に子供っぽい髪型だが、不思議と彼女、上条凛々衣には似合っている。
「ハァイ、駿人。ひと月ぶり」
「ああ夏休みか。学生は呑気でいいな」
彼女とは俺もそれなりに知った仲だ。近況については沙綾から何度か聞かされていた。
「うっわ。喧嘩売られた。わたしだって課題で死んでたんだからね! なんとか進級できそうでホッとしているんだから」
俺の嫌味に上条さんは眉を吊り上げた。忙しくて何よりだし、だったらロンドンに居ろよ、と思った。
「ねえ、ハヤトの友達?」
エミールが口をはさむ。さっさと帰ればいいのに突然に現れた日本人女性に興味津々な顔をしている。俺とどういう知り合いか気になるのだろう。
「彼女は沙綾の友達」
「ハアイ。よろしく。わたり、リリー」
俺のあとを引き継ぎ、上条さんが英語で自己紹介をした。名乗った後、ロンドン住まいであることを告げた。そのあとエミールが名乗り、ハンドシェイクをする始末。
「で、なんだってこんなところに?」
これ以上三人で話をするのも面倒だ。俺はエミールにさっさと帰れとアピールするために日本語で話しかけた。
「ダニエルに付いてきてもらってドイツ旅行なの。ベルリン見たいって思って。どうしてもっていうならドイツとイギリスの遠距離でもいいよってダニエルが言ってくれて」
「誰だよ、ダニエルって」
「わたしのボーイフレンド。そっか、前にうちでカレー食べた時はまだダニエル帰ってきていなかったんだっけ」
あのときとは、俺がロンドン出張の折沙綾の住まうフラットへ押しかけたときのことだ。ちょうどその日、沙綾はカレーを作り過ぎたらしく俺にも「食べる?」と尋ねてきた。俺は「もちろん」と即答した。
懐かしい思い出に胸の奥がずきりと痛む。
上条さんが後方に目を向ける。俺もそれに釣られて目線をやると少し離れたベンチに彼女よりもいくらか年上の中肉中背の男が座っていた。なるほど、二人で旅行とは羨ましい限りである。
「とりあえずさ、わたしソーセージが食べたいんだよね。後ビールも飲みたい。ドイツと言ったらこの二つでしょ。美味しいお店教えて。ねえ、エミールはどこかお勧め知っている?」
上条さんはにこりと笑って英語でエミールに話しかけた。
「もちろんだよ」
エミールは満面の笑みで答えた。
俺はさっそく帰りたくなった。よし、さっさと立ち去ろう。
「じゃあ俺はこれで」
「駿人に話があるの! 付いてきてくれるよね」
上条さんは俺の前に立ちはだかった。
* * *
「いやぁ、ドイツは美味しいっ」
上条さんはどこぞのCM並みにビールをごくごく飲んだ。昔からその時の感情だけで生きているような娘である。
エミールが地元民が客のほぼ九割を占めるというドイツ料理店。
俺の前の座席に座った上条さんは隣の彼氏と「ダニエルのビールちょっとちょうだい」とか「このソーセージ美味しいね」とか「二杯目は何飲む?」とかきゃっきゃとはしゃいでいる。
彼氏の方は性格なのか口数が少なく相槌を打つだけのことのほうが多いが彼女は気にすることもなくぴたりとくっついている。見せつけたいのはわかったが、正直腹が立つ。というか、なんで俺はここにいるんだ。
俺はやけくそ気味にカリーヴルストと付け合わせのポテトを食べていく。
そのとなりでエミールが上条さんと友好を深めていく。
「へえ、サーヤの友達なんだ」「そうそう。小さいころからのね」「サーヤのインスタ、最近日本のご飯だらけなんだ。どれもおいしそう」「たしかにー。わたしもそろそろ日本が恋しい。え、ダニエルどうして裾引っ張るの?」「ダニエルとはどこで知り合ったの?」「友達のハウスパーティーだよー」などという会話を耳が拾っていく。
「あー、美味しかったぁ~」
あらかたの料理を食べた上条さんが満足そうに一度座席の背もたれに背中をつけた。その姿はおっさんだ。ダニエルと名乗った彼氏に問いたい。これのどこがいいのだ。
ふう、と息を吐いた彼女は急に真面目な顔を作った。
「ダニエル、エミールごめんね。これから大事な話をするから日本語で話すね」
エミールは少し不満そうな顔を作ったがダニエルはあらかじめ聞かされていたのかこくりと頷いた。
「わかっている。エミール、僕と話そう」
「ちぇえ、わかったよ」
俺としてはどうしてエミールが今この場にいるのか、未だに理解不明なのだが。
「駿人って、誰かとお付き合いするとき自分から告白ってしたことある?」
突然に斜め八十度くらい曲がった変化球を打ち込まれた俺は「はあ?」と正面を見据えた。一体どういう会話の流れからそんな質問になるというのだ。
「なんだよ、いきなり」
「ないよね~。真子から聞いたよ~。付き合おうって言ったのも真子からだって。駿人って顔もそこそこいいし学歴もあるから女の子の方から寄ってきたもんね。で、その中から自分に釣り合いそうな女の子を選んでつまんでいるって気がする」
「喧嘩売りにフランクフルトまで来たのかよ?」
「んん~、そうとるならどうぞ。わたしはサーヤ派だから」
「ていうかいつのまに真子と知り合ってんだよ」
「真子とは飲み友達なんだよ。ロンドンの日本人社会は狭いよね~。わたしも学外の年上のお友達ができて楽しいんだけど、最近うちのエリックが真子にご執心でね。あんまり遊びに来てくれなくなっちゃった。フランス人の年下男となんて付き合えるわけないでしょーって」
なんだそれは。一体何があってそんな縁に発展したのか。沙綾は一言も言っていなかった。女の友情というのもが計り知れない。
「告らなくても女なんてすぐに手に入るとか思っているってわけ? サーヤのことだって丸め込めば結婚を承諾するって思っていたんだとしたらわたしあんたのこと軽蔑する」
上条さんが鋭い声で俺を糾弾する。そう、彼女はそれをするためにフランクフルトまでやってきたのだ。
いや、ビルの外で待ち伏せされていたときからうっすらと気が付いていた。一緒にビールを飲んでドイツ料理を食べていたから忘れたふりをしていた。
彼女が怒るのも無理はない。俺は、間違えたのだ。だから沙綾は俺から逃げて行った。日本へ帰ってしまった。
彼女が隣にいることを望んでおきながら俺は失敗を犯した。
そのことを認めたくなくて、けれども自分から追いすがることに対してみっともないと感じていて、今自分は動けないでいる。
「なにか、言ったら?」
「……その通りだから何も言えない」
「ずいぶんと殊勝だね」
「俺だって、傷ついている」
「うそでしょ。駿人のばーか」
正直カチンときたが、何も言い返さなかった。沙綾派の彼女に言わせればすべては身から出た錆なのだ。沙綾の分まで彼女は今、俺を詰っている。沙綾が言わなかった分彼女は悔しくて、その感情を俺にぶつけているのだろう。
上条さんが泣きそうな顔をしている。それが沙綾の泣き顔と重なって見えて、俺はひどく動揺した。
「自分の気持ちも言わないでサーヤを手に入れようだなんて、そんなのおこがましい」
泣きそうな顔から一転して、上条さんはテーブルの上の茶褐色のビールをごくごくと煽り、だんっとグラスを置いた。感情の起伏の激しい娘である。そしてその目は完全に据わっている。
「駿人のばかぁぁぁ~。サーヤは……サーヤは……」
うっ、うっ、と目にもりもりと涙を溜め始め、彼女は最後盛大に泣きだした。
「ちょ、ちょっと泣くな。おい、ダニエル、どうにかしろ」
なんだか俺が泣かせたみたいではないか。狼狽して彼女の隣に座るダニエルに助けを求めた。
「すべてはハヤトのせい。愛しているなら逃がさない。自分の手元になんとしてでも置いておく。僕はそうしたいから彼女に伝えた」
「ダニエルはどさくさに紛れて考えがこわいよー」
上条さんは肩を抱く彼氏を非難した。とはいえ本気の拒絶ではないことは見てとれる。
俺はどうなのだろう、とダニエルの言葉を反芻する。
さすがにそこまでの気持ちを俺は沙綾には持ち合わせて……いないのか、と胸の奥の奥に問いかける。
俺はここにはいない年下の幼なじみを思い起こす。これまでの沙綾との距離から考えると、この初夏に二人きりで旅した日々はあまりにも濃かった。
小さいころから知っている幼なじみの女の子。それが沙綾だ。お互いのじいさんたちの仲が良く、よく家を行き来していた。
彼女と初めて会ったのは俺が中学生の頃のことだった。大人たちから沙綾の面倒を押し付けられ、別荘の周囲を散歩させている途中で迷子にさせてしまった。
思えば、あのときの印象が強かったのだろう。異国の地で彼女をまた迷子にさせるわけにはいかずに、口やかましく彼女の行動に干渉した。
沙綾は目に見えて機嫌が悪くなっていき、結果喧嘩になった。
彼女はもう成人した大人になっていた。俺の手をぎゅっと握る女の子は、いつの間にかすくすくと成長して、一人でどこにでも行くことのできる女性へ変貌を遂げていた。
久しぶりに再会してそのことを突きつけられた。
そう、幼なじみというフィルターを外した状態で沙綾を見るとただの妙齢の女性だった。
同じ景色を眺めて、一緒のテーブルで酒を飲んだ。隠れ甘党の俺に呆れるでもなく、一緒にケーキをシェアして、ころころとよく笑った。
いつの間にか、隣にいることが当たり前になっていた。
彼女の視線の先に映っているものを俺も眺めている。同じ風の香りを嗅ぎ、同じ速度で歩き、たくさんの初めてを共有した。
意地っ張りで、少しあまのじゃくで駿人に本心を見せたがらないのに、何回かに一回は素直になるのだ。俺に本心をさらけ出したくないと意地を張りつつ、時折見せる素直な表情が可愛かった。
この先も沙綾の笑顔を見ていたい。
気が付けば自然とそのようなことを考えるようになっていた。大人の沙綾との距離が心地よく、彼女だって俺のことを憎からず思ってくれているはずだった。
バルセロナのホステルで思いがけず一緒の部屋で寝泊まりすることになったとき、俺がどれだけ自制心をかき集めていたか、彼女は知る由もなかっただろう。
何度このまま既成事実を作ってしまおうと思ったか。無防備な彼女を可愛いと思う反面、懊悩していた。このまま押し倒せば、彼女は自分のもとに留まってくれるのではないか。
昔の俺への想いをカミングアウトした沙綾。手を伸ばせば届く位置にいるのだと舞い上がってしまった。
それなのに、彼女は日本へ帰ってしまった。俺のあの言葉がポーズなことくらい分かってくれてもいいはずなのに。
俺は、態度で示していただろう? 沙綾だから出張中だろうが都合をつけて会いに行った。彼女が喜びそうな小さな町をネットで調べまくった。この年で土曜の早朝から出かけるとか、好きでもない奴のために、そんなことするわけがないだろう。
「駿人のばかぁぁ~! サーヤに一度くらいは誠意ってものを見せやがれ~?」
目の前で上条さんはまだ泣いている。
「誠意ってなんだよ。俺だって、誠意見せまくったわ」
「嘘だ。サーヤが一番欲しい言葉をあげなかったくせに」
上条さんは鼻をずびずびさせながら俺を睨みつける。鋭い眼差しに射抜かれた俺はぎくりとした。
「どうして高学歴のくせに、肝心なところがおバカなのよ」
「……俺に喧嘩売ってんのか」
「これで分からないなら、本気でバカだ」
上条さんがぷいっと横を向いた。
彼女の言いたいことが分からないわけでもない。大体、三十も過ぎて直球でプロポーズなんて、格好悪いだろう。それで玉砕したらどうする。いや、実際婉曲表現で玉砕したのだが。
結局、そういうことなのだ。俺は間違えた。沙綾に対して誠実ではなかった。大人のずるいやり方で本音を包んでしまった。
ため息を吐くと、上条さんが「陰気臭い」とぶった切った。
彼女は俺に容赦がなかった。
しかし、沙綾の味方だというのなら、仕方のないことだった。
* * *
『駿人さんへ
ヨーロッパではお世話になりました。無事に日本に帰国をしたわたしは、あれから転職活動に励み、どうにか営業事務の仕事を見つけることができました。世間では売り手市場とか言われているけれど事務職にかぎってはそうとも言えなくて、一つの枠に希望者が何十人も殺到しています、なんて転職支援会社の人にも言われるくらい狭き門みたいです。
今は都内の中規模メーカーで働いています。契約社員からのスタートで、いずれは正社員登用も見越していると面接で言われたので、頑張ってみようと思います。
なにより、定時が午後五時十五分で、毎日ほぼ残業なしで帰れるのが信じられません。
最近、大学卒業以来疎遠になっていた友達と会社帰りに待ち合わせをしてご飯を食べに行ったり、水曜日に映画を観て帰ったりして楽しんでいます。会社帰りにショッピングができるってすごいいいことだと思います』
メールボックスには未送信の近況報告メールがそのまま残っている。LINEではなく、駿人さんのフリーメールアドレス宛てのもの。
作ってみたはいいけれど、未だに送れるじまい。たまに読み返してはそっと閉じるという作業をひと月に二度ほど繰り返しているうちに世間はそろそろクリスマス。この時期特有の電飾に目をチカチカせる日々だ。
まあどうせ、わたしから報せなくてもお互いに両親祖父母を交えた交友関係なのだから、どうせどこからか話は伝わっているだろう。
新しい生活はようやく軌道に乗ってきた。仕事にも慣れて会社から解放された後にまだ数時間も余裕があって友達とごはんができるというのが信じられない。その分残業代が減って収入源になったのは痛いけれど、来年の六月になればフルでボーナスももらえる。
契約社員でもボーナスが出るのだからありがたい。
会社を辞めて一度は東京から河を渡った神奈川の実家に戻ることも考えたが、一人暮らしの自由気ままな生活にどっぷりとつかってしまった身としては今更プライバシー駄々洩れの実家暮らしに戻るのはなやましいところ。
仕事を定時で切り上げ、最寄り駅近くのスーパーで足りない食材を買い足してアパートの部屋に帰って、自炊をする日々。
これだって、前職では考えられなかったことだ。終電間近になって慌ててオフィスを出る日々からしたらとっても健康的な生活を送っている。
夕食を作って、どこか物悲しい部屋にため息を一つ吐いて、わたしはタブレットで動画を再生させながら食事する。
「ふう……」
この部屋がこんなにも広いと思ったことはこれまでなかったのに。せっかくの夕飯もどこか味気ない。
日本に帰ってきて、再就職をしてからすっかり腑抜けになってしまった。新しい会社にもようやく馴染んだから余計に一人であるということを痛感している。
あーあ、つまらない。リリーのフラットは楽しかった。
イギリスにいた時が四人暮らしだった分日本に帰ってきて一人の食卓が堪えた。会話も音も無くてがらんとしている。前はこんなにも寂しいとか思わなかった。
自分の時間を多く使える今になって、わたしは本当の一人暮らしというものを実感している。
駿人さんが言っていたのはこういうことなのだろうな。そんなことを思い出したわたしは慌てて記憶の中の彼を頭の中から追い払う。
手慰みにスマホの操作をしていると、LINEのメッセージが浮かび上がる。母からだ。
『クリスマスはこっちに帰ってくる?』
そっか、もうそんな季節なんだ。
旅行から帰ってきて、あっという間に日々が過ぎ去っていった。そうそう、誕生日だって過ぎてしまった。
そうだ、クリスマスだ。わたしだって二十六歳の女子なわけで、これから何か予定が入るかもしれない。たとえ今日が十二月十一日であっても。
でも、みんな彼氏と過ごすのかな。今さら合コン……、このあいだ誘われたとき断らなきゃよかった。そうしたらわたしだって今頃はクリスマスに予定の一つでも入っていたかもしれないのに。
わたしはスマホをベッドに放り投げて夕食を再開した。
* * *
うだうだしているうちに十二月二十五日がやってきた。社会人をやっているとクリスマスだとて普通の日も同じだ。サンタクロースなんて小学校低学年のころに真相を知って以来我が家には訪れていない。
メーカー勤務だとクリスマスというより年末年始のお休みに合わせて受注が立て込む時期でもあってこのところ慌ただしい。急な注文を受けて各所に電話をして根回ししたり、見積書を作ったりと普段は定時あがりのこの会社にしては最近残業続きだ。
急ぎの仕事を終わらせて会社を出たのが十八時半。なんていうことでしょう。それでもこの時間に帰ることができました! 去年のクリスマスなんて……うん、思い出すのはやめよう。
一人きりのクリスマスだというのに足取りもちょっと軽やかだ。
結局予定は埋まらなかったけれど、せっかくだからケーキを買って帰ろうかな。チキンもいいなあ。いや、ローストビーフも捨てがたい。温玉のせローストビーフドンは正義だ。
よし、牛肉にしよう。わたしの頭の中はローストビーフでいっぱいになって、駅ビルの総菜売り場に寄って返った。
まあ、家に帰れば一人なんだけどね。
クリスマスに実家に顔を出すのも見栄が邪魔をしてやめてしまった。去年就職した弟は名古屋配属で、現在一人暮らし。彼は年末年始にこっちに戻ってくるということだし、それに合わせて顔を出せばいいかと考えたからだ。
さて、食料も調達したことだし、あとはレンチンで温玉を作ろう。
肉のことを考えたらお腹が鳴った。
寒い道のりを少々早足で歩いていたわたしは、アパートの目の前でぴたりと止めた。
日本ではよく見かけるタイプのアパートの入り口付近に、ここにはいないはずの人間が佇んでいる。
「駿人さん……」
わたしは驚きに目を見開いた。呆然と彼の名前を呟くのと、彼と目があったのは同時だった。
記憶通りの彼の瞳が柔和に細められた。
わたしの胸がどきりと高鳴った。
「沙綾。久しぶり」
「どうして、ここが」
駿人さんが一歩足を踏み出した。ゆっくりとわたしとの距離が縮まる。
「うん。幸子さんに聞いた」
「ああそう」
今回もこのパターンらしい。
お母さん、人の現住所を勝手に教えるなんて防犯意識がなっていないんじゃないの。
しかし、だから母はわたしに対してクリスマスの予定は、などと探りを入れるような連絡を寄越してきたのだ。
そういえば昨日LINEに『メリークリスマス』ってトナカイのスタンプが送られてきた。どうやらこれが原因か。あとで絶対にいじられると思うと何やらズキズキと頭痛がしてきた。
「立ち話も何だし……俺を沙綾の部屋の中に入れてくれる気……あったりする?」
人に連絡一つ寄越さないでいったい今更何なのだ。
わたしは黙秘を貫いた。我ながら子供っぽい。
しかし、今更どうしたらいいのかもわからない。一体、彼は何しに来たというの。何を話したらいいの。
「そう……」
わたしがいつまでたっても口を開かないから、駿人さんは肩を落としてとぼとぼと立ち去ろうとする。
え、なに、帰っちゃうの? 何か話があって来たんじゃないの?
どうしてだかわたしのほうが慌て出す。
大体、一人暮らしの女性の家に男性を招き入れるのがあれなわけで。ていうか、どうしてあっさりと引き下がるの。
駿人さんてそんなに殊勝な人間だった? もっとぐいぐい来ればわたしだって……と頭の中がぐるぐると回り出す。
「ちょ……っとだけなら……別にいいけど」
気が付くと、彼の背中に向かって声を掛けていた。
すると、ゆっくりと振り返った駿人さんが安心したようににこりと笑った。
あれ……。策に嵌った気がするのは気のせい?
けれども、承諾してしまったものは仕方がないし、外は寒い。
わたしは覚悟を決めて彼を部屋に招き入れた。その前に「五分だけ待って!」と懇願して、部屋の中に散らばる色々なものをクローゼットの中に押し込んだけれど。
突貫で片づけた部屋に駿人さんがいる。
もてなさないのもあれなので、インスタントコーヒーを入れて彼の前に差し出した。
彼は「ありがとう」と言った後、ゆっくりと飲み始める。もしかしたら、相当に冷えてしまっていたのかもしれない。
なんとなく、手持ち無沙汰になったわたしは買ってきたものを冷蔵庫に入れて、そのあと、気のない声を出した。
「それで……何しに帰ってきたの?」
「沙綾に会いに」
「はあ?」
思いのほか酷い声が出た。けれど、仕方がない。だって、本当に今更なんだから。
まさか、この期に及んでまだ条件だけで嫁に来いとかいうつもり?
「日本には昨日着いた。クリスマス休暇でこっち帰ってきた。まあ、いろいろあってだな。その……沙綾に振られてから俺にも考えることがあったわけで」
「わたしは結婚をお断りしただけで振ってはいないけど」
わたしはつい揚げ足を取ってしまう。
どちらかというと、わたしのほうが駿人さんに振られ……いや、別にもうどうでもいいことなんだけれど。
「振っただろ。俺の渾身の告白を一蹴しただろ」
「あれのどこか告白よ? 馬鹿じゃないの?」
「俺にとっては最大限の告白だったんだよ。あとは空気で分かるだろ。三週間も一緒に旅してきたんだから」
「分かるわけないでしょ! 条件とか言ってくれちゃって」
「だから、俺も考えたんだよ」
「何が、よ」
「移動願いだした」
わたしは目を見張った。
言葉を失くしたわたしを見つめたまま、駿人さんが続ける。
「沙綾と結婚したいなら、沙綾の気持ちもちゃんと考えないと、と思ってこの数か月色々と考えた。沙綾が仕事を続けたいっていうなら、俺のわがままだけで俺についてこいなんて言えないし」
「当たり前でしょうっ」
「だけど今日本にポジションが無くて。上司と話し合った結果上海に移ることになった。早くて来年の夏」
「へ、へえ……」
だからなんだというの。移動くらいでわたしは駿人さんにほだされたりはしない。
「しばらくは遠距離になるけど。それでもフランクフルトと日本よりは近いし時差もほぼない。俺は結婚するなら沙綾がいい」
静かな声に駿人さんの真摯な声が響く。
わたしは泣きたくなった。そういうのが聞きたいのではないのに。この馬鹿。こいつは最後までわたしの欲しい言葉をくれないのだ。
そんなんで絶対に結婚なんてしてやるものか。
わたしは彼を睨みつけた。
駿人さんはその瞳を真っ向から受け止めた。
「沙綾のことが好きだ」
直球の言葉に、わたしの心臓が跳ね上がった。
ずっと、欲しかった言葉。じっと見つめる彼の瞳にはわたしの姿が映し出されている。
わたしのためにドイツから移動までしてくれた駿人さん。彼は本当にわたしと結婚したいの? わたしのことが好きだというの?
「ふ、ふん。そういえばわたしがほだされるとでも思っているの? いっておくけど、わたしが駿人とのことを好きだったのは高校生の時であって、そのあとわたしにだって彼氏の一人や二人くらいいたんだから」
でも、散々彼に失望してきたわたしは、たった一度の言葉では彼を信用できない。
「今は?」
「……いないけど」
「じゃあ俺のことを、まずは彼氏候補にして」