駿人さんだってきっと、親切を無下にできずに写真を撮ってもらったのだろうし。
駿人さんの手元を覗き込む。ちょっとだけぎこちない笑顔でわたしが映っている。
「あとで沙綾に送るよ」
「ありがとう」
二人で一緒にスペインに来たという証拠のような写真を見ると、胸の奥が妙にくすぐったい。
勇気を出して、一緒に撮ろうって話しかけていたら、二人の写真がもっとたくさんあったのかな。
なんて考えて、わたしは思い切りその考えを否定した。
だめだめ。変なことは考えない。これは事故のような二人旅なのだから。
思い出せ、わたし。駿人さんは単に都合がいいからわたしと結婚がしたいと言った男なのだ。
「きれいな飾りだね。ええと、トレンカディスっていうんだっけ。ガウディが好んで使う手法なんだよね」
観光に意識を傾けていれば駿人さんとも普通に話せる。
階段を降りていく途中、たくさんの装飾品を間近で見ることができる。カラフルなタイルで覆われた装飾物をすぐ近くで眺めることができるのも塔見学の醍醐味だ。
正直、可愛くない見学料だったけれど一生に一度のことだからケチらなくてよかった。
「スペインらしい、明るい配色だよな」
「そうだね。そんな感じするね」
余計なことを考えずに、互いにゆるい感想を言い合うくらいの距離でわたしは満足だ。
このまま友達になら、なれるかもしれない。今みたいな自然体が心地いい。
* * *
スペイン最終の夜、わたしたちは最後の晩餐なのだからと、少し値の張る店に行こうと話し合った。
わたしたちは食事の前に一度ホテルに戻った。
ディナータイムの始まりが遅いため、小休憩というわけなのだけれど、わたしはこれからやることがたくさん。
着替えるのは、日本から唯一持ってきたワンピース。ブダペストでは寒さに負けてしまったけれど、ここバルセロナの気候にはもってこい。
最後くらいはちゃんとおしゃれをしたい。
一度化粧を全部落としてからのメイク直しは入念に。ヘアアイロンが無いのがちょっと無念だったけれど、そのかわり丁寧にブラシを入れた。
でも、あんまりヘアアレンジをすると、先ほどまでとの変わり様に駿人さんから気合を入れていることがバレてしまう。
この匙加減が難しい。動画サイトでいくつかヘアアレンジ動画を観たけれど、結局無難にシュシュでまとめるだけにしてしまう。
準備に思いのほか時間がかかってしまい、気が付けば待ち合わせの時間だった。
駿人さんも昼間はシャツだけだったけれど、今は薄手のジャケットを羽織っている。
着替えたわたしを見て細めた目が柔らかだった。
「似合っているよ、沙綾」
「棒読みな気がするのは気のせい?」
「いいや」
唇を尖らせるのに、なにやら口元がむずむずしてしまう。
二人で地下鉄を乗り継いでやってきたのはバルセロナの中心部にある創作スペイン料理店。ハイシーズン前ということで昨日駿人が電話をして予約が取れたレストランバーは、オープン直後だというのに、すでに少なくない人々ですでにフロアはにぎわっている。
食前酒で乾杯をして運ばれてきた前菜のサーモンとアボカドのタルタルに頬を緩んでしまう。
生姜風味のソースがいいアクセントになっている。
バルセロナは海が近いこともあって、最近わたしたちは魚介メニューばかり頼んでいる。
メイン料理のホタテのグリルは火加減が絶妙で、付け合わせのアスパラガスもしゃきしゃきで美味しい。
まるでデートのようだ、なんて考えたとたんに、これまでずっと二人旅行だったことを意識してしまう。
まるで隠れ家のような、落ち着きのある店内と美味しい食事というシチュエーションに完全に飲まれている。
最初は何を話していいのか、そもそも会話なんて続くわけもないし、と考えていたのに、思いついたことを話せばそこから会話が広がるようになっていた。
「俺、週明けから仕事できる気がしない……」
「駿人さんでもそういうこと言うんだ。仕事大好き人間だと思っていた」
「日本に帰っていなかったってだけで一応毎年ちゃんと休みは取っていたよ。さすがに三週間もまとめて取ったのは初めてだったけど」
それもそろそろ終わりだな、と駿人さんは苦笑いだ。「正直、ここまで長い休みだと次の出社が辛くなる」と彼は続けた。
「お仕事頑張ってください。わたしはもう少しだけ現実逃避しますんで」
「沙綾はこのあとイギリスか」
「はい。ロンドンに行きます」
このあとは四週間ほどリリーのいるロンドン滞在だ。
でも、そこには駿人さんはいないんだよね。彼と一緒にロンドン歩きをしたかったな、と考えその想いを何とか心の奥に封印する。
デザートのチョコレートケーキとラズベリーソルベまできっちり完食したらお腹いっぱいになった。甘さ控えめでラズベリーの酸味も相まってするりと入ってしまった。
会計を済ませて外に出ると、昼間よりもいくぶん冷たくなった風が肌を撫でる。
太陽の光はとても強いのに、日が沈むと空気はひんやりする。
「沙綾、寒くない?」
「ん、平気」
むしろ心地がいいくらい。
隣を歩く駿人さんは最初の頃のように早歩きではなくて、ちゃんとわたしのペースに合わせてくれる。
そういえば酔っぱらって自分から手を繋いだのに、次に彼の方から手を繋いできたときびっくりしちゃって大げさに反応しちゃったんだっけ。
そのせいもあってか、駿人さんはとてもお行儀が良かった。うっかり同室になってもわたしにはまるで関心がないんだもん。
あれ、地味にへこんだな。わたしだって、一応二十五歳だし、彼氏だって過去にはいたことがあるから、初心ってわけでもないんだけれど。
結局、駿人さんの中でわたしは単なる幼なじみなんだよね。
わたしはそっと彼を見上げた。
「どうした?」
「……水買おうかなって」
最近、駿人さんはわたしの視線によく気が付く。
慌てて目についた店を示した。彼は「じゃあ俺も」と言って、二人して方向転換。
日本のコンビニのような店がスペインにもたくさんある。飲み物やお菓子やお酒、ちょっとした雑貨が所狭しと並べてある。
買い物が済んで、歩けばホテルはもう目と鼻の先。
夜の風がわたしの心を撫でていく。
二人で眺める夜空も今夜が最後なのだと思うと、これまでの思い出がぱちぱちとシャボン玉のように浮かんでは弾けていく。
「楽しかったな。最初はさ、なんでこんな男と一緒に旅行なわけ? マジありえないんだけどって思っていたのに、なんだかんだと一緒に過ごしていって。楽しくなっていて。今は、駿人と一緒に旅行出来てよかったって思っている」
「喧嘩したもんな」
駿人さんがくつくつと思い出し笑いをする。
その眼差しが温かくて、それだけでわたしの胸がいっぱいになる。
変なの。これは、小さなころの拗らせた気持ちの延長線?
憧れだったお兄ちゃんはもうここにはいない。すぐそばいるのはわたしよりも少し年上の男性。一緒に旅をしてお酒を飲んで、ときには口論をして。
「でも、俺も楽しかった。思いがけずいろんな国を旅して」
「わたし……こんなふうに駿人さんと話ができるようになるなんて思わなかった」
「俺も」
嬉しいな。素直にそう思う。今の距離感も彼の言葉も何もかも。
だからかもしれない。わたしはとっておきの秘密を口に乗せてしまう。
「わたしね、駿人さんが……たぶん初恋だったんだよね」
躊躇いは一瞬で、それを乗り越えれば、その先はするりと口から滑り出た。
ずっとずっと消化不良だったわたしの気持ち。
あなたは絶対に気が付いていなかったでしょう。
わたしは心の中でそっと舌を出した。
お腹の奥も奥で長年しこりのようになっていたそれを吐き出してしまうと、存外にあっけなかった。
それなのに、今とてもすっきりしている。
「え……」
代わりに駿人さんの顔が固まってしまった。この人のこんな顔を見るのは初めてかもしれない。まるで宇宙人が盆踊りをしているところに遭遇してしまったような呆け具合だ。
この人でもこんな抜けた顔するんだ。彼には悪いけれど、ちょっと面白い
。
「あー、うーん。ごめんね。急に。もう終わったことだもん。昔の話だし」
わたしは一歩足を踏み出す。
彼は立ち止まったまま。まだ思考回路がストップしているらしい。
「わたし、女子校だったでしょ。でも、女子校でもバレンタインとかってやっぱ憧れるわけで。わたし、なんでか駿人にチョコレートを渡したくなっちゃったんだよね。女子高生って変なところで行動力あるっていうか、考えなしっていうか、アホっていうか。まあ、なんていうか、受験の下見とか言い訳を心の中で盛大にして駿人の大学まで行っちゃったんだよね」
お酒の勢いもあったのか、一度話すと口が軽くなるのか、ついいらないことまで暴露してしまう。
これこそ本当にブラジルまで開通しちゃえるんじゃないかってくらい深い穴を掘って埋めたい過去の思い出。
それを一気に放出してしまう。
一応駿人さんのメールアドレスは知っていたし、大学生は二月になるとほぼ休みなることも耳に挟んでいた。だからわざわざ彼にメールんだっけ。今日は大学に来る日? とかなんとか。さすがに彼の家に行くのは勇気がいった。家に遊びに行くと彼の家族にもバレバレだから。
「なぁんで高校生の時って無駄に行動力あるんだろうね。大学の構内で駿人を見つけたの。駿人、女の人とチューしててさ。ああ、もう摘んだって思ったよね。そのまま引き返して、手に持ったチョコレートが重いのなんのって」
大きなガラス窓に亀裂が入るときってこういう音を立てるんじゃないだろうか、というような音が自分の心から聞こえてきたような錯覚をもってわたしの淡い憧れはあのとき終わりを告げた。
自分の知らない人を見てしまったようで、後ろめたいのとショックなのとが織り交ざり、あの日わたしはぐるぐると家の近所を意味もなく徘徊したのち帰宅した。
あの日のように、今夜のわたしたちもちょっとだけ回り道。
ライトアップしたサグラダ・ファミリアが目に飛び込んでくる。
ひっそりとした夜空を割り割くように照らされた天高くそびえ建ついくつもの塔。
駿人さんはいつの間にかわたしの隣に追いついている。
「帰ろうか」
ふわりと唇を持ち上げる。
駿人さんが何か言いたげに口を開こうしたから、わたしは首を小さく振った。
彼の口から言葉が出ることは無かった。
それでいい。わたしは単に思い出話をしただけだ。だから、この話に対しての感想は求めていない。
「ま、昔話だから。駿人さんも忘れてね」
わたしたちは普段通りの距離のまま、ホテルへ帰った。
ちなみに酒は飲んでいてもしっかりと記憶は残っているわけで。
翌日のわたしはどうしてあんなことを言っちゃったのかと朝起きて一番にベッドの上でごろごろと悶絶してしまった。
はちみつ色の石でできた小さな民家が連なった小道が眼前に広がっている。白い雲が空一面に広がっていて、透き通った水の流れる小川が近くを流れている。朝も早いため人のまばらな田舎の村でリリーが元気よくツアーコンダクターのように右手を持ち上げて後ろに掲げる。
「じゃじゃーん。これがバイブリー名物のアーリントン・ロウです!」
イギリスはコッヅウォルズ、バイブリーはガイドブックでも大きな写真付きで紹介されるほど有名な観光地。
土曜日の今日、わたしたちは早朝ロンドンを出発して、この村へやってきた。
時刻はまだ朝の十時前。田舎の歩道を歩く人の姿はまばらだ。
スペインとは違い、日差しは若干弱弱しいけれど、郷愁を誘うのどかでほのぼのとした景色に癒される。
特に、幼なじみに自分の黒歴史を暴露した後であればなおさら、来るものを拒みませんという包容力の塊のような田舎の光景は心に染みわたる。
「わたしコッヅウォルズ好きなんだ。可愛いよね。素朴で愛らしくてのどかで。まるでおとぎ話に迷い込んだようで。なんかさ、あのドアから妖精が出てきてもわたし納得できるもん」
「確かに。妖精とか小人とか住んでそう」
リリーの楽しそうな声を聞いたら、わたしもそう思ってしまう。
実際に住んでいるのは人間なのだけれど、全体的に小さなつくりの家々は妖精のために作られましたと言われても受け入れてしまいそうなくらい、どこか浮世離れている。
昨日バルセロナからロンドンに到着をした翌土曜日、わたしはリリーと一緒にコッヅウォルズの村々を回っている。
ちなみに車を出してくれたのはリリーの彼氏のダニエルだ。
リリーは学生でダニエルは会社員。貴重な土日のうち一日をわたしのために費やしてくれて、本当にありがたい。
コッヅウォルズの村々を回るには公共交通機関を使うよりも車の方が圧倒的に便利とのこと。
リリーは手持ちの一眼レフカメラで愛らしい村の景色を写真に収めていく。黒髪のツインテールがぴょんぴょん元気に揺れている。
わたしたちはコルン川沿いに建つホテルやマスの養殖場、それから小さな教会などを回って車に戻った。
ダニエルの運転に身を任せて窓の外に視線を向けると、なだらかな丘陵が眼前に広がる。ドイツにいるときも思ったけれど、ヨーロッパは全体的に雲がとても近いように感じる。その下に広がる大地は草色で、白い点がいくつも散らばっている。
たくさんの羊たちがのんびりと草食んでいるのを眺めていると、わたしは今イギリスにいるんだなあ、と深く実感した。
次に到着した町はバーフォード。駐車場に停めた車から降りたわたしはダニエルに「運転してくれてありがとう」と伝えた。
彼は特に表情を変えることなく「どういたしまして」と答えた。少し素っ気ない口調なのだがこれがダニエルの通常運転だと昨日の時点でリリーから聞いている。
彼は現在二十八歳で茶色の髪に茶色の瞳をした男性だ。リリーとは同じフラットでルームシェアをしている。
ということはリリーと同じフラットの空き部屋に間借りすることになったわたしともフラットメイトということになる。
彼氏と同じフラットに住むって要するに同棲では、と思うけどリリーに言わせると同棲ではないとのこと。
それというのも、二人の他にフランス人の男性とハンガリー人の女性も同居しているから。そのハンガリー人女性が里帰りして不在になったため、その部屋を今わたしが借りている。
「サーヤ、こっち来て、こっち。ここのカフェを予約してあるんだ」
リリーがぴょこぴょこ手を動かす。
この街は目抜き通りにお店が立ち並び、先ほど見学をしていたバイブリーよりもにぎやかだ。お昼時ということもあってか、ハイストリートには多くの観光客が行き交っている。
「すごい。至れり尽くせりだ」
「うふふ。サーヤが来るから張り切っちゃった。やっぱりイギリスのいいところ見てほしいしね」
リリーに追いついて、扉をくぐったのはカフェというかティールームといった面持ちの、どこかおばあちゃんの住居のような温かさにあふれた店。板張りの床に暖炉の上の飾り棚には沢山の小物や花が飾られていて、テーブルクロスは各テーブルごとで少しずつ柄が変えられている。
わたしは店内を見渡してほうっと息を吐いた。まさに童話の中の世界に迷い込んだようで、あまり持ち合わせいないはずの乙女心がくすぐられてしまう。
「オーストリアのカフェもかっこよくていいけれど、イギリスのティールームも可愛くていいでしょ」
「うん。めっちゃ可愛い!」
「ここはね、食事も外れが無いから安心して注文してね」
リリーの台詞にわたしは苦笑を漏らす。
イギリスご飯に対するイメージを思い出してしまったからだ。そういえばダニエルも一緒だったんだ、と思い出したわたしは慌ててきりりとした顔を作った。
リリーは先ほどから日本語を使っている。ダニエルの手前申し訳ないのだけれど、全編英語での会話にはついていけそうもない。
スペインでオリヴィアやエミールと一緒に刊行した時も早口の会話にはついていけなかった。
予約席に案内されたわたしたちは席に着いて、メニュー表をめくった。
英語に苦戦しているとリリーが話しかけてくる。
「ここはスコーンも人気で、とっても評判がいいんだよ」
「そうなの?」
確かにメニューをめくっていくと、後ろのページにクリームティーの文字を見つけた。ハイティー又はアフタヌーンティーと違いクリームティーとは紅茶とスコーンのセットだ。スコーンにはもちろんクロテッドクリームとジャムが付く。
スコーンの他にもいくつかケーキの名前が書いてある。
キャロットケーキやレモンケーキ、ジンジャーケーキ、それからヴィクトリアケーキってどんなケーキだろう。
どれも美味しそうだ。駿人さんならこの中からどれを選ぶだろう。
うっかり彼のことを思い浮かべてしまいわたしは慌てて頭の中から追い払う。
「スコーンは持ち帰りもできるみたいだし、たぶんケーキもできると思うよ。あ、デザートに頼んでシェアする?」
「いいね。そうしよ」
リリーの素敵な提案にすぐに乗る。同性同士のカフェタイムも楽しいから好きだ。
二人でシェアをすれば多くの味を楽しめる。そういえば駿人さんとも旅行中は料理のシェアをたくさんしたっけ。ああ、また思い出してしまった。
わたしは駿人さんの影を頭の中でくるくるっとまとめてぽいっと隅の方へ追い払う。
油断するとすぐに彼が頭の真ん中にやってくるから困りものだ。
だいたいあの人、最後はわたしに何も言わなかった。ドイツに到着した時の食い気味の婚約続行宣言はいったい何だったのか。
あまりににもあっさりとしたお別れだったから拍子抜けしたくらいだ。
三週間も一緒にいたのに、気を付けて行って来いよ。上条さんがガドウィックまで迎えに来てくれているんだろ。じゃあまあ多少は安心だけど。あんまり一人でふらふらと出歩くなよ。ロンドンは大都市なんだから、とかなんとか。最後はやっぱりどこかの保護者かあんたは、っていうくらいの過保護ぶりだった。
「サーヤ」
「へっ?」
「んもう。サーヤったら。オーダー決めた? あと、ケーキ何にする?」
「あ、そうだね。」
リリーの呼び声に遅れて反応したわたしは慌ててメニューとのにらめっこを再開した。
せっかくリリーがコッヅウォルズ観光に連れてきてくれたというのに、どうして駿人さんのことを思い出してしまうのか。
「まあねぇ。サーヤがぼんやりする気持ちもわかるよ~」
リリーはニマニマしながらわたしの顔を覗き込む。完全にからかう顔だ。
「金曜日までずぅぅっと一緒だったんだもんね。ハ・ヤ・トさんと。そりゃぁ寂しいよね。恋しいよね」
「だから、そういうのじゃないから!」
ここで強く否定をしておかないとこのネタでこのあと一週間はいじられるからこっちも必死だ。
リリーがにやにや顔をする傍ら、わたしはローストラムのランチを食べ進め、食後のデザートを完食した。
昼食後、ストウ・オン・ザ・ウォルドやチッピング・カムデンなどといった小さな村をまわりながら、時折つんと胸の奥が疼いた。
どの村も素朴で、そして村や町ごとに流れる空気も少しずつ違っていて外界とは違う時間の流れに癒される。
それなのに、どこか心の中が空虚なのは、きっとリリーとダニエルの仲の良さに当てられたせいに違いない。
二人は今、指を絡ませ合いながら連れ歩いている。
わたしもあのとき、駿人さんの方から手を絡ませてきたのを振りほどかなければ、また何か違っていたのかな、なんてことを考えてしまった。
* * *
週も明けて平日が始めるとわたし以外のシェアメイトはみんな朝早くから起きてそれぞれ朝の支度に慌ただしい。
「おはよう」
「おはよう、サーヤ。早いね」
早いと言っても八時前だけれど。リリーはメイクもばっちり、あとは出かけるだけという様相だ。今日も両耳の上でツインテールを作っている。服装もカジュアルなので同じ年だというのにもっと若々しく見える。
「うん。あんまり遅くまで寝ているのもね」
「リリー、サーヤ。俺がいる前では日本語禁止」
と、英語で会話に混ざってきたのはフランス人シェアメイトのエリックだ。すらりと細身でまだ大学生だというエリックはわたしの目を見て「おはよう、サーヤ。今日もかわいいね」と気障ったらしい台詞を口にした。
こういうときなんて返していいのかわからなくて、わたしはとりあえず必殺曖昧な微笑みを彼に向けて返しておいた。
たぶん、大多数の日本人女子が同じ顔を作ると思う。
「うっわ。もうこんな時間。じゃあね、サーヤ。あとでメッセ送るね~」
リリーはダイニングテーブルの椅子の上に置いてあった大きなトートバックを持って慌ただしく出て行ってしまった。会社勤めをしているダニエルはすでに出発した後で、エリックも朝食を食べたお皿を洗った後、「じゃあね。サーヤ」と言って大学へ行ってしまった。
今のわたしはお気楽旅行者のため、時間に縛られることはない。
好きな時に起きて外出をして、時間そ気にすることもなく自分のしたいようにすることができる。贅沢だと思うが、社会人や学生といった身分を持つ人と一緒に暮らしてみると自分だけが世界のシステムから外れてしまっているような錯覚を覚えてしまう。
わたしは買っておいたトーストとヨーグルトで簡単に朝食を済ませて出かけることにした。
せっかくのロンドンなのだから、外に出ないとね。大都市だけあって見どころも多い。
先週の金曜日に到着をして、現在は翌水曜日。毎日回るエリアを決めて順番に攻略をしているけれど、それでもまだまだ見どころは尽きない。
わたしはフラットを出て、地下鉄に飛び乗った。
ノッティングヒルのパステルカラーの街並みをカメラに収めて点在する雑感店を冷やかしつつ、スローンスクエアに移動。バスを乗りこなしたほうが経済的(一日フリーパスの値段がバスの方が安い)だけれど、まだ慣れないこともあってつい地下鉄ばかり使ってしまう。こちらではチューブというらしい。
サッチー美術館をざっと見学をしてキングスロードをぶらぶら歩いてみると、オーガニック食品店で美味しそうなクッキーを見つけて買うかどうか迷った。
実はというか案の定というか、体重増えているんだよね……。
リリーの家にある体重計にこっそり乗ってみて後悔した。帰国するまで見るんじゃなかった。
毎日せっせと歩いているのに体重増えるだなんて理不尽だ。納得できない。
クッキーは、今はやめておこう。このあとリリーとお茶する約束あるし。
スマホを確認してみると、リリーからメッセージが届いていた。予定通り待ち合わせの場所に到着できそうという内容で、わたしも移動することにした。
バスに乗ってみてもいいけれど、時間が読めないためまたもや地下鉄で移動。
この数日でロンドンチューブにも慣れてきて、ロンドンの街を颯爽と歩いているようにも感じる。
ちょっとかっこいいかも、なんて思いつつピカデリーサーカスに到着した。
待ち合わせ場所でリリーと無事に落ち合って、案内されたのはピカデリーサーカスのすぐ裏手にある北欧テイストのカフェ。十席ほどの座席と小さな店で、ノートパソコンを持ち込み仕事をしているような人もいる。
「まさかあんなにも賑やかなピカデリーサーカスの裏手がこんなにも静かな広場になっているとは思わなかった」
「ロンドンの街って至る所にスクエアがあって、結構静かなの。街中でも緑が多いし、結構のんびりしてる」
リリーの言葉からは愛情が感じられて、この街に溶け込んでいるんだなっていうことが伝わってきた。
実際リリーはロンドンによく馴染んでいる。英語もスピーディーに口から出るし、歩き方に迷いが無い。かっこいいなあとほれぼれしてしまうほど。
「本当はもっとサーヤにロンドン名所とか案内したいんだけど、課題とかあって平日はなかなか時間取れなくって」
リリーは美術大学に通っているのだ。美大というところは毎日何かしらの課題がでるのだろうとはわたしでも想像つく。
「気にしないで。大学忙しいんでしょ。コッヅウォルズ連れて行ってくれただけで充分」
「わたしとしてはもっともっとサーヤにロンドンのお勧めどころを紹介したいんだけど。土日遊ぶためにも平日はあんまさぼってもいられなくって」
こっちの大学は進級するのも大変なんだよ、真面目にやっていないと容赦なく落とされる、とリリーはぼやいた。
「そうそう、フラット生活には慣れた?」
「うん。ロンドンに住んでるって感じがする。かっこいいね」
「みたいじゃなくてサーヤもロンドンの住人の一員だよ」
「だといいなあ」
そんな風に言われるとほわんと心が弾む。
いまはまだ土地勘も無くて観光客丸出しだけどさすがに四週間もいたらもっと颯爽と風を切ってロンドンの街を歩くことができるかもしれない。
「でも、せっかくのヨーロッパなのにロンドンばかりでいいの? 四週間いるのは、もちろん大歓迎だけど、ちょっと勿体ないなって」
「旅行のアレンジしていた時ってまだ働いていたから。なんかもうスペインまでで力尽きた」
普段旅行代理店に任せることを全部自分で手配した。いくらネットで簡単に取れるとはいえ、数が増えるとそのうち面倒になってくるのだ。
「サーヤ、ほんと働きすぎだったよね。ようやく解放されてわたしとしては一安心。ロンドンでゆっくりしなよ。あ、あと。駿人との旅行。これが本題。それで、どうだったの?」
リリーがぐいと体を前に乗り出してきた。
わたしとしては内心、来たかという心境。きっとリリーはずっとうずうずしていたのだ。その証拠に今ものすごく目が輝いている。
「え、ええと……」
わたしは目を泳がせた。
「まあ、ほら。ここはおねーさんに全部吐いちゃいなさい。ていうかさ、昔好きだった相手と三週間も一緒だったんでしょ。うちらだってもういい大人じゃん? 何も起きなかったわけ?」
「あるわけないじゃん。だって駿人はわたしのこと単なる幼なじみくらいにしか思っていないんだよ?」
カフェラテに口をつけながら慎重に言う。ほんの少しだけ低い声になったのは気のせいだと思うことにした。
「でもいまは二十五歳と三十歳じゃん」
「ほんとに無いって」
「でも楽しかったんでしょ?」
リリーがずばり言うから、わたしはうっと言葉に詰まって、もう一度カフェラテのカップを口元へ運ぶ。飲み物が無いと間が持たない。
自分の気持ちがとても複雑で、毛糸がいくつも絡まっているような心地なのだ。しかし自力でほどけるほどわたしは器用ではない。けれども、どこから話せばいいのか分からない。
「そりゃあ、まあ……。最初は仲たがいもしたけど、仲直りしてからは普通に話せるようになったし」
リリーとは旅の途中何度か電話で話していた。だから、話すことはスペインでのわたしの失態と今の整理のつかない気持ちだけ。
わたしは少しだけ長く息を吐いた。気持ちを落ち着けて、覚悟を決める。
どのみち、話は聞いてもらいたいのだ。こういうとき、友だちっていいなあと思う。
「実はね……」
わたしはスペイン最後の日に、勢い余って駿人が初恋だったと本人に暴露してしまったことを打ち明けた。
「うわぁ。時間差で言っちゃったんだ。わたし、墓場まで持って行くものだと思っていた」
当時同じクラスの友人たちによって炊き付けられた側面もあったけど、リリーとは違うクラスだったため事後報告で、休みの日に会ったときに慰めてもらった。
「……あの時に戻れるなら殴ってでも止めさせる」
「で、駿人は何て言ったの?」
「何も言わないでって言ったから、そのことについては何にも。わたしも今更ごめんなさいとか言われても困るだけだし」
「んー、まあ。それは……そうだけど」
リリーが腕組みをして首を横に傾けた。
「それで、婚約は解消?」
「それも分からない」
「どうして?」
「だって、結局駿人何にも言わなかったし。わたしから……念押ししたほうがよかったのかな」
とは言いつつ、わたしの言葉に力はない。飛ばした紙飛行機が途中から徐々に低く飛んで行くように最後はすとんと言葉が小さくなった。自分でもどうして、と思う。
「じゃあまだ脈ありじゃん」
「脈って……」
リリーの声が力強くなる。
「だって、サーヤはまだ駿人のことが好きなんでしょ?」
「ちょ、待って。ほんっとうに違うから!」
わたしはここがカフェの中ということも忘れて叫んだ。がたんとテーブルも叩いてしまい、店員と目が合った。わたしは申し訳なさから体を小さく竦ませた。
「でも、沙綾は駿人のことずっと気にしていたでしょう?」
「どうしてよ」
「んん~、なんていうか。沙綾の作る彼氏ってどこか駿人みたいな、年上で自分のことを引っ張ってってくれそうな人っていうか。とりあえず年上でえらそうな人が多かったから」
リリーの駿人さんへの評価が多大に現れた言葉だ。
わたしとしては無自覚だったため、納得できかねる。これまで、二人の男性と付き合った。確かに二人とも年上だったけれども。わたしは彼らを駿人さんに重ねたことは無かったと思う。
大学生の頃付き合った彼氏とはどちらも続いて一年くらいだった。なんとなく波長が合わなくて別れを切り出されたり、自然消滅したり。
周りも似たようなもので、別れたり出会ったりしていたから、わたしは男女交際とはそういうものだと思っていた。
「なんかさ、今の駿人とならいい友達になれるとは思うんだよね。一緒にご飯食べに行ってお酒飲んで、それで仕事の愚痴とか言い合って。昔はわたしのほうばかり追いかけていたけれど、大人になって世代間の差があんまりなくなったっていうか」
「友達って……。友達でいいの?」
「うん。楽しいもん。それに、わたしドイツには行けない」
遊びに行くのはいいけれど、暮らすための移住はできない、という意味だ。
「ドイツも楽しいと思うよ。海外生活だよ」
「日本でもう一度再就職したいんだよね。わたし新卒で入った会社でそれはもう一生懸命働いて、他の友達が会社のあとに自分磨きをとか恋とか、飲み会をしていたのに、わたしだけ取り残されて。今度はちゃんとワークバランスを考えて生活してみたい」
「でも、会社辞めてドイツまで飛行機乗って会いに来ようって思うくらいには駿人のこと心の隅っこでずっと気にしていたんでしょう?」
「そりゃあ、勝手にこの人と結婚すれば万事オーケーとか決められちゃったら、というか期待されちゃったらね。ここをクリアにしておかないと次の機会も無くなっちゃう」
わたしはあえておどけた声を出した。
リリーは小難しい顔をしたままルイボスティーをごくごくと飲む。話に夢中になっていてカップの中にはすっかり冷めてしまっていた。
「それにさ、結婚と恋愛は違うとか言われるとさ……。わたしと結婚すればお互いの両親を紹介する手間も省けるし、おじいちゃんも喜ぶ、とか。そういうことばっかり言うんだもん」
結局そこなのだ。
彼の態度が冷めているから、わたしはそんな駿人さんのためにドイツで暮らすイメージがわかない。語学に自信が無いというのもあるけれど、それを何とかしてやるという情熱を燃やす気持ちが湧いてこない。
バルセロナで会ったオリヴィアに突っ込んだ質問をした。違う国で、遠距離恋愛をしている彼女に聞いてみたくなったのだ。
どちらか一方の拠点に移動することになったらどうするのかと。
彼女はあっさりと、エミールが移動する選択肢を乗せた。
わたしには、たぶんその選択肢を駿人さんに突きつけることはできない。彼は別にわたしじゃなくてもいいのだ。ただ、身近に手頃な女性がいた。それだけでわたしを選んだのだから。
「あの年になったら割り切って結婚する人も多いんじゃない? こっちにも多いよ。そういう人」
リリーが割り切ったように言う。彼女も案外にさっぱりしている。
わたしは少しだけ眉間にしわを寄せてリリーに尋ねる。
「例えば?」
「アジア人が好きな男性とイギリス国籍の人と結婚したい日本人女性とか」
「なにそれ」
「イギリスに永住したいならイギリス人と結婚するのが一番手っ取り早いから」
住みたくてもビザが無いと外国には住み続けられない。労働ビザの取得条件は年々厳しくなっていくばかりだから、とリリーは続けた。
「なるほど」
「だからわたしもたまにほかの日本人に会うと言われたりするんだよね。芸術家ってビザ取るのが難しいから。ダニエルと付き合ってるのってようするにそういうことでしょうって。ムカつくから、わたし顔が可愛いからもてるんですぅとか言ってやるけど。ダニエルは別にアジア人専門でもないし」
「それをしれっと言っちゃうリリーもすごいよね」
目鼻立ちのはっきりしていて美人な彼女だから言えることだ。二人は共通の友人が主催するハウスパーティーで知り合ったと以前聞いた。
「だいたい、リリーはどうなのよ。彼氏と同棲してるっておばさんもおじさんもちゃんと知っているの?」
「わたしのは同棲じゃなくてフラットシェアだって。現にベッドルームは分けてるもーん」
互いにプライベートは大事だということで、リリーとダニエルはベッドルームを分けて借りている。
リリーは美大の課題を夜遅くまですることもあるから会社勤めをしているダニエルと微妙に生活時間が違うらしい。
「結婚とか大学を卒業した後のこととか、考えているの?」
今度はわたしがリリーに話を振ると、彼女は唇を引き結んだ。
「……うーん、どうだろう。わたしは別にイギリスに住むことにこだわってはいないし、実はベルリンもいいなって思っているんだよね」
「ベルリン……またどうして?」
「んー、なんかいまベルリンが面白いって良く聞くし。アートな雰囲気なんだって。まだ行ったことはないんだけどね」
そういう情報って大学で仕入れてくるのだろうか。
それに、と彼女は悩まし気な顔を作る。
「両親も大学を卒業したら一度は帰って来いって言っているし。そのことでダニエルと喧嘩することは多いかな。彼、わたしみたいな子と付き合ったことなかったみたいで」
「リリーみたいな子って?」
「風船みたいな子」
「自分で言うんだ」
「うん。たぶんこれからもそんな感じだと思う。だからダニエルとも最近喧嘩ばっかり。正直どうしよっかなって感じ。彼はまじめな勤め人だし。そもそもカムデンに住むのも嫌みたいだし。イーストエリアはもっと嫌みたいだし」
リリーも色々溜まっているらしい。ふうっと長い溜息を吐いて「イーストエリアに引っ越したいって言ったら大げんかになった」と漏らした。
「ダニエルは住むところにこだわりある人なの?」
「生粋のイギリス人には色々とあるみたい。ま、日本でもそうじゃん。下手に東京で生まれ育つと東京でもどこそこには住みたくないとかそういうの」
「あー、なるほど」
「サーヤはさ、わたしみたいに面倒な女じゃないんだから、もうちょっと素直に自分の気持ち見つめた方がいいと思うよ。今、イギリスに一人でいて、駿人と会いたいって思わない?」
「友達としては会ってもいいけど……」
とはいえ、スペインでお別れしてから一度もメールが来ていない。いや、一度は来た。無事にロンドンに到着したと報せたら「了解」とめちゃくちゃ簡潔な二文字のみ。それはどうなのよ、とあのとき思ったくらいには寂しくなった。
「ちゃんと会いたいんじゃん。素直じゃないなぁ」
知らずに渋面を作っていたらしい。
「別にそういうわけじゃ……」
その後もわたしたちはガールズトークに花を咲かせた。
* * *
その週末はカンタベリに日帰り旅行をして、週が明けた月曜日からわたしは語学学校に通うことにした。せっかくの長期滞在だし、この機会に英語に触れてみようと思った。オリヴィアやエミールとはSNSで繋がっていて、もっとちゃんとコミュニケーションを取りたいと思ったのだ。
リリーに相談すると、彼女の留学仲間に色々聞いてくれて、エンジェルにある語学学校を紹介してくれた。
こちらの学校は週単位で料金設定がなされており、短期でも通いやすい。午前中の文法の授業と午後の会話の授業を取ることにしたため、しばらくの間規則正しい生活を送ることになった。
正直、会話の授業にまったくついていけずに初日から心が折れそうになったけれど。
つい話す前に頭で文法を考えてしまうわたしとはちがって、他の国の生徒たちはまず話す。とにかく話すのだ。そのためあっという間に話題が移ってしまい、わたしは余計にわたわたするばかり。
先生にも「サーヤ、もっと話して」と言われてしまう始末。
わたしは日本食材店に所狭しと並べられているお馴染みの製品にうるっと来てしまう。
気分転換にカレーでも作ろうと思って寄ったそこで納豆まで見つけてしまい、つい懐かしくて買ってしまった。
ロンドンセントラルからわたしの滞在先フラットのあるカムデンタウンまで戻って、駅近くの大きなスーパーで野菜と肉を調達。
パンクファッションのお店やマーケットが有名な観光地だけれど、にぎやかさに慣れれば住みやすい。それにカムデンマーケットをぶらぶらと冷やかすのも楽しかったりする。
ただし、夜は酔っぱらい含めてのにぎやかさなので、一人では出歩かないようにしているのだが。
カレーを作っているとリリーとエリックが帰宅した。
リビングダイニングルームの扉を開けたとたんにエリックが「いい香り! カレー?」と尋ねてきた。
「日本風のカレーを作ってみたの。食べる?」
「いいの?」
「もちろん」
「ありがとう! サーヤ、きみはなんて素晴らしい女の子なんだろう」
そこまで大げさにお礼を言われるほどのものはつくっていないはず。味の決め手は大手メーカーのルーなわけだし。
「サーヤ、わたしも? わたしも食べていいの?」
テーブルの上に両手をついてぴょんぴょん飛び跳ねるのはリリー。
もちろん、とうなづくと「わぁい!」と万歳した。エリックと二人でハイタッチをしている。なんか、一気に二人の子持ちになった気分。
「インドカレーもおいしいけど、やっぱり日本のカレーも食べたくなるんだよね。あとシチューとハッシュドビーフも。あと単純に誰かが作ってくれた料理って最高」
そんなわけでカレーパーティと相成った。
三人で食卓に着き、各自カレーを盛って食べ始める。
ダニエルはまだ帰宅していない。彼は忙しいそうで、帰り時間もまちまちなよう。あと、同僚とパブに寄ってくることもあるのだとか。さすがはイギリスだ。わたしも今度パブに行きたい。
カレーは結構な量が出来たため、今日ダニエルがまっすぐ帰宅すれば食べてくれるだろうか。色々とお世話になっているのでお礼がしたい。
「そういえばダニエルもカレーは好きなの?」
「あ、彼もカレーは好きだよ。日本のルーで作るクリームシチューは駄目みたい」
なんでもヨーロッパのシチュー的なスープと違う代物らしく、先入観があるから駄目とのこと。
「二人とも日本語で話してる。駄目だよ、共用部分での日本語は禁止。サーヤも英語を話さないと上達しないよ」
リリーと日本語で話をしていたらエリックから注意を受けてしまった。
その後、リリーが語学学校での様子を英語で質問してきたので、わたしも頑張って英語で話した。
会話の授業についていけないと答えるとエミールが「俺が先生になってあげるよ」とウィンクをしてリリーが「サーヤにはボーイフレンドがいるんだから」と目を尖らせる一幕もあった。
団欒のはずの夕食の時間が即席英会話教室になってしまった。エミールが主導する形で、わたしに質問をしてくる。ロンドンで行った場所を答えるとそれに対して再び質問が繰り出され、気が付けば会話のキャッチボールが成立している。
なんでもいいから声に出してと、エミール先生にも指摘を受け、わたしはとにかくしゃべりまくった。
英会話教室は食後の片付けの間も続行で、これを続けていれば確かに上達しそうだと感じるほど。
ダイニングテーブルを上を付近で拭いていると、スマホが震えた。
着信相手の名前がディスプレイに浮き上がっているのを見て、わたしの心臓が飛び上がる。
わたしはドキドキしながらスマホをタップした。
「も、もしもし?」
『ハロー沙綾。一週間ぶり』
耳元に、低いけれど懐かしい声が届いた。なんだか泣きそうになって慌てて背筋を伸ばした。
電話越しに聞こえる駿人さんの声。スペインで別れてからまともに連絡を寄越さなかったのに、一体どうしたのだろうと思う反面、心の奥から湧き上がる嬉しさを止めることができなかった。
「え、ええと。久しぶり。仕事復帰ちゃんとできた?」
平静に、と心に言い聞かせて口を開けば存外に素っ気ない口調になってしまう。
『先週一週間は休みボケで大変だった。それよりも、沙綾いま家?』
「そうだけど」
『表、出てこれない?』
「どうして?」
『さあ、どうしてだと思う?』
どこか面白がった返答に、まさかと思って慌てて自分の考えを否定する。なにしろここはロンドンで駿人さんの住まいはフランクフルト。
とはいえ、表に出て来いと言うには何か理由があるはず。わたしは逸る心に待ったをかけて玄関に向かう。
「あれー、サーヤ、出かけるの? 相手誰?」
凛々衣に見咎められたが「んー、ちょっと」と言葉を濁してわたしは玄関扉を開けてフラットの内階段を下りていく。
表玄関の扉を開くと、目の前の道にはスーツ姿の駿人さんの姿があった。
「え、うそ!」
わたしが叫ぶと、駿人さんはいたずらが成功したような顔、要するに笑顔になって「驚いた?」と返事をした。
「え、ちょっと待って。どういうこと?」
「今日からロンドン出張。週末までの予定」
「うそ!」
「前から決まっていたことだし」
「聞いてない」
「言わなかったから」
駿人は笑顔のまましてやったりというふうに胸を反らす。
だったら最初から教えてくれればいいのに。また会えることも知らずに彼のことでもやもやを抱えていたことを思い返して、自然と眉根を寄せてしまう。
「ていうか、どうしてこの場所分かったの?」
「幸子さんから聞いた」
なるほど、わたしの母経由というわけか。一応、ロンドンでの滞在先は教えておいたわけだし。家族ぐるみで付き合いがあると、色々なことが筒抜けというわけだ。
「あー、駿人だ。うわ。どうしてここにいるのよ。さてはサーヤのストーカー?」
と、背後から日本語が聞こえた。リリーの声だ。
「人聞きが悪いな。俺はサーヤの……、なんていうか親しい間柄だ。会いに来たら悪いか」
駿人さんが答えた。
ふうん……婚約者って言わないんだ。
どうしてだろう、彼の言葉に過敏に反応してしまう自分がいる。白い絹のハンカチに飛んでしまったインクのように、彼の言葉はわたしの心の中に落胆という名の雫を落とした。
* * *