南高校の校舎は日当たりが良い。入学した四月の時点では、明るい教室で助かる、と思っていた。だが五月に入ろうとする現在、暑さが強まってきた。学校に向かう足取りも重くなる。正確には、自転車を漕ぐ足であるけれども。
 朝来雷閃(あさきらせん)は今年、南高校に入学したばかりの一年生である。やんちゃな不良もいなければ、まじめすぎる優等生もいない、普通の学校に通う男子高校生である。
 中学三年のころ、雷閃は担任に「もう少し頑張ればワンランク上の高校に通える」と言われた。しかし雷閃は頑張らなかった。雷閃は頑張ることが嫌いだ。最低限の行動でその場をやり過ごしていたい。事なかれ主義と言われても、雷閃にとっては罵倒になりえない。
 教室は一階の右端にある。二年生は二階、三年生は隣の校舎に教室を持っている。雷閃は教室に入ると、新しいクラスメイトたちと挨拶を交わした。一年二組は男女合わせて二十六人の生徒がいる。まだ顔と名前を覚えきれていないが、問題児のような生徒はいないように見えた。
「おはよぉ~」
 雷閃が自分の席に鞄を置くと、後ろの席の男子生徒に声をかけられた。彼の名前は安達壮介(あだちそうすけ)。出席番号が一番である雷閃に続いて、出席番号二番の男子だ。席順が名前順であるため、廊下側の一番前の席である雷閃の後ろの席に壮介が座っている。
「おはよ。何してんの?」
 雷閃は鞄から筆記用具を出して机に置いた。壮介は手鏡で自分の顔を見て、目を閉じたり開いたりしている。
「汗かいたから、マスカラが取れてないかなって確認してる」
 まばたきを繰り返す壮介に、雷閃は驚きの声を上げる。
「えっ、おまえ、メイクしてんの?」
「うん。姉ちゃんがこういうの詳しいからさ、俺も興味持っちゃった」
 手鏡をポケットにしまった壮介は、じっと雷閃の顔を見つめる。壮介は自然な鳶色の髪で、すっきり整った顔立ちをしている。そんな壮介に見られると、劣等感が沸く。
「雷閃はちょっと表情が暗いかなぁ。きれい系の顔だから眉毛を細めにするといいんじゃないかな。髪もさらさらだし、爽やか系イケメン目指せるよ!」
 そう言った壮介に、雷閃はため息をつく。
「目指せるかよ、そんなの。変におだてるんじゃねぇ」
 そうかな、と壮介は笑った。笑顔の作り方が上手だ、と雷閃は思った。
 四月からの新生活を、雷閃は難なくこなしている。ときどき行われる小テストも合格点を取るし、制服だってきっちり着ている。どうせ背が伸びるからと、少し大きめの制服ではあるが。
 新しい友達の壮介は、良い生徒だ。メイクをしてくるのは校則違反だが、バレない程度のナチュラルメイクだから今のところ目をつけられていないらしい。連絡先も交換して、放課後に一緒に寄り道したりもする。
 いい調子だ、と雷閃は思っていた。それなりに大変で、それなりに楽しい高校生活。この調子で三年間を過ごしたい。大学には進学したい気もするが、勉強についていけないなら就職でもいい。そのときの自分のポテンシャルに任せたい。
 昼食はいつも壮介と食堂に行くか、近くのコンビニで買ってきたパンやおにぎりを食べる。雷閃の母親は毎日弁当を作ろうかと言ってくれたが、たまに作ってくれるだけでいい、と断った。母親は自分の手から子供が離れていくことが寂しいようなので、たまには母さんの弁当も食べたい、と告げておいた。
 今日はコンビニで買った明太子のおにぎりと、黒糖のコッペパンを食べた。本心を言えば、母の弁当の方が絶対においしい。
「なぁ、雷閃は部活どっか入んないの?」
 壮介は姉が作ったという彩り豊かな弁当を食べている。雷閃は食べ物のにおいが充満した教室があまり好きではない。
「部活なぁ……入るとしても活発な部活は嫌だな……」
 雷閃が言うと、壮介は「そっかぁ」とひとの好い笑みを作った。
「部活以外にも楽しいこと、たくさんあるもんねぇ。せっかくの高校生活だし、学校のなかだけで活動するのももったいないよねー」
 壮介のその言葉は、どうしてか雷閃に反抗の気持ちを起こさせた。ひとつの意見として何も間違ってはいないが、まるで学校生活を楽しめていない人間だと言われているように聞こえてしまった。雷閃には目立つような特徴もないし能力もないが、普通以下だと思われることは気に入らない。
「いや、どっか入るわ、部活。なんか、こう……文化的な部活に入るわ」
「文化部ってこと? 雷閃って中学では何やってたん?」
「……あー、そういやこの学校って合唱部あったよな。合唱部入るわ。俺、口笛うめーし」
「合唱と口笛は関係なくない? てか中学のときは?」
 中学の話はしたくない。雷閃にとって中学の思い出は良いものではない。決して、悪いものでもないけれど。
「壮介は? 部活入んのか?」
「俺ぇ? 俺は美術部に入ろうと思うんだよね」
「絵描くのか?」
「絵も描くけど、どっちかと言えば立体の勉強がしたいんだ。この学校でどれくらい勉強できるかはわからないけどさ」
 立体、という具体的なイメージが雷閃には描けなかった。彫刻とかかな、となんとなく思った。でも「学びたい」という壮介の意識は羨ましかった。
 五月のみどり色の風は、人々に新しい気持ちを湧き立たせる。




 中学一年生のとき、雷閃は野球部に所属していた。小学生のころからスポーツが好きで、特に野球は大好きだった。俺もたくさんホームランを打ってやる。そういう輝かしい希望を持って野球部に入った。しかしその希望は、早々に打ち砕かれた。
 雷閃の通う中学の野球部はそれなりに熱心な部活だった。先輩と顧問の指導は共に厳しかった。一年生は先輩にこき使われ、ストレスのはけ口にされ、クラスでは大きな態度の男子も先輩の前では犬同然だった。
 雷閃は生まれつき体力がなかった。校庭を走るたびに死にそうな思いをした。それでもバットを持って思い切りボールを打ちたくて頑張った。夏のころ、汗だくで部活を終えたときに、雷閃の無邪気な未来は叩き潰された。
「おまえ、向いてないよ」
 先輩のひとりにそう言われた。暴言ではなかった。憐れむような顔で先輩は雷閃の肩を叩いた。
「おまえだけ何の結果も出てないだろ。なぁ、入部したときと比べて、おまえは何が上達した? 走るスピードも上がってない、体力は無いまま、声も小さいし、同級生の足引っ張ってるだろ?」
 心臓が冷たくなるあの感じを、雷閃は一生忘れられない。汗臭い更衣室でみんながこちらを見ないふりをする。一緒に頑張ってきたと思っていた友達はわざとらしくそばを離れていく。
「もっと頑張れないなら辞めた方がいいぞ。おまえはひと一倍……いや、俺たちの百倍は頑張らねぇと俺たちと同じ場所に立てないんだよ。何度言っても走り方を直さない、部活以外ですれ違っても挨拶しない。あとその靴、おまえに合ってねぇってずっと言ってんだろ。おまえだけ意識が低いんだよ。部活に来るのはいちばん遅いくせに、帰るのはいちばん早い。小学生までの遊びとは違うんだよ」
 しんと静まり返る更衣室は真夏にも関わらず寒気がした。そのあと雷閃は先輩に何と言ったのか覚えていない。次の日、顧問に退部しますと伝えに行った。顧問は「そうか」と安心した顔でうなずいた。
「おまえにもきっと、頑張れるものがあるよ」
 厳しかった顧問がその日、初めて優しい言葉をくれた。その残酷な優しさは雷閃の頭から「努力」の文字を奪っていった。
 もう頑張らない。
 雷閃はそう決めた。自分なりの頑張りなんてものは、他人に理解されない。どれだけ必死で校庭を走っても周りからは「だめな奴だ」と思われる。
大きな声を出すのが苦手だった雷閃は、今までに出したことのない声量で「おはようございます!」と言った。でもそれは、その集団のなかでは「小さな声」でしかなかった。
 雷閃は野球が好きだった。見るのもするのも好きだった。大好きな野球選手は「努力は報われる」と言っていた。その裏切りは耐えがたいものだった。希望の言葉は自分にも当てはまると信じてしまった小学生の己が恥ずかしかった。
 たぶん、あの先輩は退部した雷閃のことを「臆病者」だとか「小さい男」だとか言っていたに違いない。雷閃自身もそう思っている。
もっと頑張るべきだった。みんなの百倍頑張って、朝練にも一時間前に行くとか、家に帰ってからランニングをするとか、そういう努力をすべきだった。
 でも、もうどうでもよかった。
 頑張って何になるのか。中学の部活でホームランを打ったら人生も成功するのか。鍛えたことで一生病気にならない身体が手に入るのか。高校に入れば知らない人間たちの集団に属することになるのに、中学の部活の栄光が、いったい何になるのか。
 雷閃はそうやって言い訳した。しかし、今こうやってあの日のことをずっと引きずっているということは、成功だってそのひとの人生についてまわるだろう。もし雷閃がみんなの百倍頑張れていたら、こんなに憂鬱で陰険な現在は存在しなかったはずだ。
 でも、いい。
 諦める方が楽だ。諦めにさえ到達しないのは、もっと楽だ。だからそれで、いい。
 放課後。そんな風に考えながら雷閃は合唱部の活動場所である第二音楽室の扉を開けた。


「え、えっと……?」
 第二音楽室は机と椅子がきっちり並べられていた。そのまんなかのひとつに、女子生徒がひとり座っていた。
「あ、あれ……? ここって……?」
 雷閃は戸惑いながら教室を見渡した。部活動紹介のとき、合唱部には二・三年生の男女合わせて六人の部員がいます、と部長が話していた。部長の男子生徒は淡々と「興味があればぜひ第二音楽室へどうぞ」と言っていたはずだ。
「が、合唱部、は……?」
 おそるおそる雷閃が少女に尋ねた。青っぽさのある濃い黒髪の少女は、大きな瞳を輝かせて席を立った。胸の名札が黄色。ということは二年生らしい。
「新入部員、ですか⁉」
 先輩にあたる少女はボブカットを揺らして駆け寄ってきた。雷閃よりもずっと背の低い少女は、雷閃の前まで来る途中で椅子に足を引っかけて豪快に転んだ。
「うわっ、大丈夫ですか⁉」
 慌てた雷閃が肩をつかんで少女を起こすと、彼女は顔を上げて笑った。
「ごめんなさい、ありがとうございます。えへ、ここの椅子、いつも足ひっかけちゃうの」
 立ち上がった少女はおでこをさすって雷閃を見上げた。雷閃は素直に、この子のことをかわいいと感じた。ひとつ上の先輩のはずだが、年下の女の子のような雰囲気がある。
「あの、えっと。私は合唱部の二年生、安良田永海(あらたえみ)です。君は一年生?」
「はい、朝来雷閃といいます。えーっと……合唱部の活動の見学に来たんですが……」
 雷閃は音楽室の奥の方まで見てみるが、この安良田永海以外には生徒も教師もいない。雷閃が怪しむ表情をしたら、永海は焦ったように「大丈夫だよ!」と言った。
「三年生の先輩たちは部活来ないけど、私は来るから!」
「……三年生、来ないんですか」
「こ、来ない、けどぉ……私は来てるよぉ……」
 実質廃部したような合唱部だと雷閃が気づいたことに、永海はあからさまに落胆したようだった。第二音楽室にはほかの教室と同じように机と椅子が並べられ、ピアノが一台ある。
第一音楽室は吹奏楽部が使っているらしいが、今日は休みのようで何の楽器の音もしない。
 この小さな少女たったひとりが使うには広すぎる音楽室。雷閃は彼女を哀れに感じると同時に、かわいらしさも感じていた。かわいそうで、かわいい。
「安良田先輩、でしたっけ。俺、合唱部に入りたいんですけど、顧問って誰ですか?」
 そう言うと、永海はぱっと顔を上げた。
「ほんとう⁉ 顧問の先生は星田先生だよ! 星田先生、今なら職員室にいるよ!」
「あー……すいません、星田先生の顔わからないです」
「じゃあ私も一緒に行くね!」
 子犬みたいにはしゃぐ永海は荷物を取りに机に戻った。そして、こちらに来る途中でさっきの椅子に足を引っかけた。
「いったぁい!」
 そう叫んだが、今回は転ばずに済んだ。涙目の永海を雷閃は哀れに思う。
「……いつも引っかけるなら、椅子ずらしたらどうですか?」
「えへ……いいの、いいの! 早く行こう!」
 永海の隣を歩きながら、雷閃は尋ねる。
「二年生は安良田先輩しかいないんですか?」
「ううん、もうひとり二年生の女の子がいるんだけど……塾とかで忙しいんだって。難関大学に行きたいから毎日勉強が忙しいって言ってた。今度紹介するね」
「へぇ……俺以外の今年の新入部員は?」
「まだいないよ、だからひとりめだよ!」
 やったね! と永海は笑ったが、雷閃には何がいいのかはわからなかった。ただ、この子の笑顔はとてもかわいい。ゴールデンレトリバーの子犬みたいな笑顔だ。人間の悪意を知らない、純真な愚かさ。
 職員室は第一校舎にある。渡り廊下を通って校舎を移る。校庭では野球部とサッカー部が走ったり飛んだりしている。
「朝来くんは中学も合唱部だったの?」
「いえ、帰宅部でした。でも歌は好きなので、気になってました」
 嘘ではない。一年の夏以降は帰宅部だったし、音楽も好きだ。父親の影響でほんの少しならピアノやギターも弾ける。
「そうなんだ~。じゃあごめんね……うちの合唱部だと、ぜんぜん歌えないの……」
 職員室の前で永海は足を止めた。それは永海のせいじゃない。部活に来ない三年生のせいだ。
「別に大丈夫ですよ。俺は別に熱心な部活がしたいわけじゃないですから。大会に出たいとか、そういうのもないです。音楽が楽しめたらそれでいいです」
 雷閃はできるだけ普通の声でそう言った。頑張りたくないから、とか。裏切られたくないから、とか。そういう意思がにじみ出ないように、普通に。
「そう、なの? じゃあいっか……。そうだ、先生に許可もらってCDとか流そっか! 披露する場所はないけど、歌えたら楽しいし!」
 明るい表情に変わった永海は職員室に入っていった。雷閃もあとに続く。職員室だけエアコンが効いていてずるい。顧問の星田先生は窓側の方に席を持っていた。
「先生、新入部員です!」
 永海は誇らしそうに宣言した。星田先生は四十代くらいの女性の教師だった。穏やかそうな、優しそうな瞳をしている。
「あら、あら。新入部員? それは嬉しいわねぇ。入部届の紙、どこにあったかしらねぇ。あなたは何組の生徒なの?」
 優しい声で星田先生は目を細めた。
「一年二組です」
「そう、柳先生のクラスね。わかったわ、柳先生にも伝えておくわね。それで、えぇと、入部届ね、探してくるから待っててちょうだいね」
 星田先生は職員室の棚の方へ向かった。雷閃の担任である柳先生は、豪快に笑う初老の男性教師だ。柳先生は入学初日に「まず、おまえたちが最初に覚えなくてはいけないこと。それは俺の名前である『柳』という漢字だ」と言った。
けっこう誰でも書けるけどな、と雷閃は思った。
「ねぇ、朝来くん。部活の活動日なんだけどね」
 星田先生が戻って来る前に、永海は部活の話をした。
「基本的に毎日活動することになってるけど、三年生はずっと来ないと思う。私は毎日音楽室に行けるけど、朝来くんは……いつ来られる?」
 毎日部活があるなら、部員は毎日行かなければならないんじゃないのか。雷閃は疑問に感じたが、この人数ではそんな常識も通用しないのかと納得する。
「毎日行けますよ。俺は塾にも通ってないし、早く帰る理由もないんで」
「そ、っか……じゃあ毎日来てくれる、の?」
「はい。え、もしかしてダメなんですか?」
「ううん、違う! う、嬉しいなって、思っただけだから……」
 はにかむ永海はやっぱりかわいい。中一で部活をやめた雷閃には後輩というものがいない。彼女は先輩だが、後輩みたいな顔をする子だな、と思った。
「あ、でもテスト期間中は部活禁止だから、お休みね。あとは……特に決まりはないかな~。部長はいるけどたぶん引退するまで来ないと思うからなぁ」
「去年は……今の三年生が二年だったころは、来てたんですか?」
「んーん……あんまり来てない……」
 苦笑して永海は首を横に振った。
「先輩たちは『高校時代は合唱部』っていう事実だけ欲しいんだって。部長は難関大学を志望してるから『部長』に肩書が欲しいって言ってた。だからずっと私と、もうひとりの子だけしか来てないの」
「もうひとりの子って、二年生の?」
「うん。来週は来ると思う。今週は、塾で模試対策中だからって言ってたし」
 この人数は雷閃にとっては都合がよかった。頑張らなくていい。楽にやっていける。それはきっと居心地がいいに違いない。
「入部届あったわよ~」
 星田先生が戻って来た。雷閃はその用紙に名前を記入して、星田先生に提出した。
「柳先生には私から言っておくわね。朝来くん、これからよろしくね。あんまりたいした活動はしてないけど……そうだ、夏になったら合唱コンクール、見学に行こうか」
 星田先生が提案すると永海は「行きたいです!」と食いついた。
「じゃあ準備しとくわね。うちは人数が足りないから出場できないけど、見に行く分には問題ないからね~。永海ちゃん、楽しみにしててね」
「はい!」
 そうして雷閃の合唱部への入部が決まった。その日はそのまま解散したが、明日から雷閃は合唱部の部員として放課後を過ごす。最高に楽しい、なんて思えなくていい。ただ平和に、誰にも傷つけられずに過ごせたらそれで十分だ。




 その日の朝は曇り空だった。自転車通学の生徒にとって雨は許しがたい敵だ。自転車に傘を横向きに差して走り出す。降らないことを祈る。まだ梅雨には早いだろう。
 教室に入ると今日も壮介は鏡でまつ毛を確認していた。
「おはよ。またマスカラ?」
 声をかけると壮介はにまりと笑った。
「今日は取れてないよ。ウォータープルーフだからね」
「なんっ……なんて?」
「防水ってことだよ。汗かいても落ちにくい化粧品ってこと」
「あっそ……。メイクすんのも大変だな」
 雷閃が労わるように言うと、壮介は否定する。
「大変だけど大変じゃないよ。いや、大変なのは大変、かな。でもそれ以上に楽しいから苦にならないんだよね。動画サイトとかでメイクのやり方を勉強するのもすごく楽しいし、配信者と同じ色のアイライナー見つけたときなんかめっちゃ感動するし」
 確かに、そう語る壮介は楽しそうだった。
「雷閃にもメイクしてあげよっか?」
「いや俺はいいよ……似合わねーし」
「メイクが似合わない人間なんて絶対いないって! どんな風にでもきれいになれるんだからさ、将来雷閃に彼女ができたときにも役立つと思うよ?」
「そうか? メイクに詳しい彼氏ってどうなんだよ」
「絶対、ぜーったい好かれると思う」
「そう、なのか……?」
 未だ彼女なんてものはできたことのない雷閃にはわからない感覚だ。なんなら初恋も未経験だ。かわいいと思う女子生徒はいても、それ以上の欲望を抱いたことがなかった。
「壮介は彼女いんの?」
「いないよ。俺は彼女より、一緒にメイクしたり服買いにいったりできる女友達が欲しいかな~」
「それはおまえには難しそうだな」
「なんで『おまえには』なの?」
「察しろよ」
 壮介ほど顔が整っていて女心がわかる男に女友達なんてできるのだろうか。「友達」から「友達以上」を求められたとき、壮介はどうするのだろう。
 友達以上に他人を好きになると、それだけ傷つけられたときの反動が大きい。だから雷閃は、まだ恋人が欲しいとは思えなかった。好きなひとに罵倒されたら立ち直れない。それが恋人でなくても、親しい人間から罵倒されたら、悲しいけど。



 放課後。雷閃は若干の緊張を胸に第二音楽室を目指した。昨日は問題なく永海と会話ができたが、雷閃は「先輩」という存在を恐れている。永海は「恐ろしい先輩」ではないだろうけど、先輩と後輩である立場は事実だ。
 もし永海に「もう来ないで欲しい」と言われたら、しばらく立ち直れない。他人に拒絶されること、否定されることは、何よりも悲しい。
「失礼します……」
 扉は開いていた。鍵は永海が職員室から持ってくると言っていたから、すでに永海は来ているらしい。
「あ、朝来くん!」
 昨日と同じ、まんなかの席に座る永海は嬉しそうに顔を上げた。読んでいた本を閉じて手招きする。
「隣おいでよ!」
 ほんの少し、緊張している。雷閃は先輩との正しい付き合い方を知らない。
「今日はね、お話しよう」
 永海の隣に座ると、彼女はそう言った。
「おはなし?」
「親睦を深めるってこと!」
「あぁ、なるほど……」
 永海は身体ごと雷閃の方を向いた。永海の瞳は、よく見ると髪と同じ、濃い青色をしている。彼女の名前の通り海みたいだ、と雷閃は思った。
「朝来くんはどうして合唱部に入ろうと思ったの?」
「まぁその……正直言うと、あんまり活動してないところがいいって思ったんですよね。熱心なの、苦手で」
「え、そうなの」
「こんな理由ですいません。でも音楽は好きですよ。口笛も吹けますし、ちょっとならピアノとギターも弾けますし。父が音楽好きなので」
「すごい! あとで聴かせてね」
「いや……人前で披露するほどじゃないですよ」
「そっか。じゃあどうして私しかいない合唱部に、毎日来ようと思ったの?」
 その声には感情がなかった。驚いた雷閃に、永海は微笑む。深海の瞳には温度がない。
「熱心に部活をしたくないなら、ろくに活動してない合唱部に毎日来る必要なんてないよね。それこそ、何か別の目的がないと、おかしいよね」
 疑われている。雷閃は瞬時にそう悟った。慌てて首を横に振る。
「違います! 下心とかはぜんぜんなくて! ただ……俺はこの……平和そうな雰囲気とか、穏やかな時間が気に入ったというか!」
「ほんと? じゃあ琴ちゃんを狙ってるわけじゃないんだね?」
「もちろ……ん⁉ コトちゃん⁉」
「ほんとに違う?」
「いや、違うもなにも……コトちゃんって誰ですか……?」
 雷閃が当然の疑問を口にすると、永海は「よかったぁ」と上体を机に投げ出した。
「琴ちゃんは二年生の、もうひとりの部員だよ。私の友達。琴ちゃんはすごく美人で性格も良いの。だから昔から男の子に付きまとわれやすくて……」
「はぁ……そ、そうなんですか……」
「でもよかった。朝来くんは違うんだね」
 安心しきった永海に、これも当然の疑問が浮かぶ。いや、あんた、自分の心配は?
「琴ちゃんに会ったらびっくりするよ。本当にとっても美人だから」
 そう言って友達を誉める永海に、雷閃は拍子抜けする。この子、本気で純真なのか。本物の清純なのか。
 この子に男として見られているのか、いないのか。微妙なラインだな、と小さくため息をついた。いや、意識されたいわけじゃない。雷閃だって永海のことを女として見ていない。だったらおあいこだ。問題なんかない。
「で、安良田先輩はその友達のことが心配だったんですね?」
「うん。ごめんね、疑ったりして……」
「いいですよ、別に。美人な子はそれだけ苦労も多いでしょうからね」
「そうだよね……琴ちゃんとは小学生からの幼馴染なんだけど、本当に苦労してると思う……」
 その口ぶりでは、永海は苦労してこなかったらしい。こんなにかわいいのにな、と雷閃は思う。でもそうか、この子は相手を男として意識する能力が低いのか。大丈夫だろうか。この世には悪い男が山ほどいるっていうのに。男だけじゃない。こんなにかわいいと、同性からも狙われるかもしれない。
「……そのもうひとりの先輩って、彼氏はいないんですか?」
「いない、というか、合格者がいないんだって」
「合格者?」
「琴ちゃんは理想が高いから、その合格点に達してないと彼氏にしないって言ってた」
「はぁ……ちなみにどんな理想なんですか? あ、挑戦する気はないですよ」
「えっとねー……十回連続でジェットコースターに乗っても酔わずにまっすぐ歩けるひと、だって」
「そりゃハードル高いですね⁉」
 よくわからない基準だがその先輩なりに、言い寄ってくる男を撃退する方法のひとつとして基準においているのかもしれない。
「安良田先輩は?」
「私はジェットコースター苦手だよ」
「違いますよ、なんでそこ気にすると思ったんですか。彼氏いるんですか、って聞いてるんです」
「えー……えっとぉ……どっちだと思う?」
「いないでしょ」
「ちょっとは悩んでよ!」
「絶対いないでしょ。なんていうか……誰かの彼女っていう色気がないっていうか……」
「ひっどい! でも私もそれは思ってる!」
「思ってるのかよ」
 ショックを受けましたという表情で永海は「すごくよくわかる!」と同意した。だからこの子はまったく、自分が狙われるかもしれないという心配をしていないのか。
 こんなにかわいいのに、と雷閃は思う。夕方の陽光を浴びて紫っぽくなるさらさらの髪の色とか。孤独な海を潜ませたような瞳とか。甘い缶詰のような声とか。保護したくなるような危うさとか。男が好きな要素はたくさん持っているはずなのに。
「私もね、もっと背が高かったらいいのになーって思う」
「何センチなんですか?」
「ないしょ」
「百五十くらい?」
「なんでぴったりジャストで当ててくるの?」
 不満そうに永海は雷閃を睨んだ。
「朝来くんは何センチ?」
「俺は百七十……三、くらいだったかと」
「私と二十センチも差があるんだね~。でも座ると関係ないからね! 朝来くんもわたしと同じ目線になっ……てない……?」
 そりゃあ二十センチも差があれば座高にも差が出るだろう。どうしてそんなに絶望したような目をするんだ。それくらいの予想はつくだろう。
「……先輩もこれから伸びますよ。それに女の子は小さい方が可愛がられるんじゃないですか?」
「私はもっと背の高い私になりたかったの~!」
「それは……骨を恨んでください」
「骨のばか~!」
 くだらない話をしていたらいつの間にか十七時半を回っていた。この時期の部活は十八時半まで可能だが、永海はいつもこのくらいに帰るらしい。
「ひとりで音楽室にいるときは何してたんですか?」
 開けていた窓を全部閉めて雷閃は永海に尋ねた。永海は音楽室の鍵をしっかり施錠する。
「本読んだり、テスト勉強したりかな。でもいつもひとりってわけじゃないよ。琴ちゃんもいるからね」
 永海は「琴ちゃん」のことを自慢げに話す。彼女の幼馴染であるらしい「琴ちゃん」はどんな人間なんだろう。
 来週には会えるのか、とわずかに緊張した。




 今日も天気が悪い。朝はくもりだったが、放課後には小雨が降りだしていた。第二音楽室には昨日と同じく雷閃と永海がいた。「琴ちゃん」はまだ姿を見せない。雷閃は真っ黒な雲を見上げる。
「雨、ひどくなる前に帰った方がいいんじゃないですか? 安良田先輩も自転車ですよね?」
「うん、帰ろっか。すごく暗くなってきたし」
 数学教師の細山先生はどうしてあんなに冷たい指導をするのか、と話していたところでふたりは席を立った。鞄を持って雷閃は音楽室を出る。永海は「いつも引っかける」という椅子に、今日も足を引っかけた。
「……学習しましょうよ」
「い、いいの!」
 半分転んだ永海は笑いながら音楽室を施錠した。職員室に鍵を戻して校舎の外に出ると大粒の雨がぽつぽつと頭に落ちてきた。これは本降りになりそうだ。
「急ぎましょう」
 屋根のある駐輪場から出ようとしたとき、視界は雨でいっぱいになった。ざぁざぁと大きな音を立てて降り出した雨は、バケツどころか池を丸ごとひっくり返したようだ。
「うわ……ちょっと止むの待ちます?」
 雷閃が尋ねると、すでに永海は自転車に乗っていた。傘さし運転は違反なので雷閃は濡れても問題ないくらいまでは傘をさして自転車を押して帰るつもりだった。しかし永海は傘も持っていないし、雨合羽も着ていない。
「安良田先輩?」
「私、ぱぱっと帰っちゃうね!」
「は……? いや傘は?」
「持ってないから傘さし運転なんかしないよ、大丈夫!」
「いやぜんぜん大丈夫じゃな……」
「じゃあまた明日ねー!」
「ちょっ⁉ 風邪ひきますって!」
 雷閃の制止を振り切って永海は豪雨のなかを走り出した。颯爽と自転車で走り抜ける姿は勇敢なように見えるが、その選択は愚かだとしか言えない。追いかけるべきか迷ったが、たぶんあの子はそれを望まない。
「馬鹿なのか?」
 そう呟くと雷閃は傘をさした。自転車を押して歩き始める。言い知れぬ違和感がある。昨日から天気は悪くなると予報で言っていたし、雷閃も昨日の別れ際、永海にその話をした。そのとき永海は「傘忘れちゃだめだよ」と雷閃に忠告していた。その永海がどうして傘を忘れてくるだろうか。
 それから、あの椅子。永海はあの椅子に毎回わざと足を引っかけている気がする。引っかけるためにあの椅子に近づいている気さえする。不幸にも彼女は傘を忘れた、と。そんな単純な話ではないような気がした。なんとなく、だけど。
 かわいそうでかわいいと思っていたが、それも度を過ぎれば心配になる。


 夕飯はコロッケだった。雷閃の母親はコロッケを作るのが上手い。だから雷閃は総菜のコロッケを食べたことがない。
「ここのとこ帰りが遅いけど、遊んで帰ってきてるの?」
 母にそう聞かれて雷閃は「部活だよ」と答える。母は、夕飯とは絶対に家族で食べるものと信じている。そのため父は残業のほとんどない会社に転職した。結果的に父に合った職場となり、収入も増えたらしい。
「おまえ、部活入ったのか」
 父は雷閃に驚いた視線を向けた。父は雷閃が中学のころ突然野球部を退部したことを気にしているようだ。
「合唱部に入ったんだよ。部員は少ないけど」
 雷閃はキャベツの千切りにソースをかけて父にパスする。
「合唱部? おまえが合唱部か……」
 父は意外そうに微笑んだ。母は「この子も音楽が好きなのよ」と言った。
「父さんは歌があんまり上手くなくてな。昔、カラオケで大恥をかいたことがあるんだ」
「そういえば父さんの歌って聴いたことないかも」
 すると母はおかしそうに笑いだした。
「雷閃が私のお腹のなかにいたときは、お父さんも自分の歌をあなたに聴かせてたのよ。下手な歌を聴かせちゃだめって私が言ったらしょんぼりしてたわね」
「そりゃおまえ……しょんぼりもするだろ……」
「あなた、ピアノとギターは上手いのにね」
 両親は懐かしそうに笑い合った。
「でも雷閃が俺の音痴を受け継がなくてよかったなぁ。……ん? 音痴ではないんだよな?」
 父はキャベツをざくざく食べた。母は「音痴じゃないわよね」と言う。
「まぁ……音痴ではない、と自分では思ってるけど」
「だってこの子、幼稚園のころ先生に『お歌が上手い子ね』って褒められてたんだから」
「覚えてないし、幼稚園の子供なんてみんな褒められるだろ」
「そうねぇ。で、その合唱部ってどんな感じなの? 部費はいらないの?」
 母は心配そうな顔をする。母も、野球部のことを気にしている。
「部費はいらないよ。大会にも出られないくらい小さい部活だから大変でもないし。先輩もいいひとだし。楽しくやれてる」
「ならよかった。母さんとお父さんには話しづらいこともあるだろうけど、困ったら大人を頼るのよ」
 両親はやさしいひとだ。世界中がうちの家庭のような関係性であればいいのにと雷閃は思う。




 壮介は美術部に入ったと雷閃に告げた。英語の予習ノートを必死で書き写しながら壮介は美術部を語る。
「俺、美術室の絵の具のにおい、大好きなんだよね」
「あー、なんか酔いそうになるやつな」
「部員はあんまりいなかったけど先輩も顧問もめちゃくちゃ尊敬できるひとだったし」
「へー。あっ、そこ、一行間違えて写してんぞ」
「あ⁉」
 雷閃の予習ノートをカレーパンで買った壮介は午後の英語の授業のために手を動かし、同時に口も動かす。
「やっぱさ、俺はきれいなものが好きだなって思ったよ。絵でも彫刻でも、なんでもそう。建築物も空間も写真も文章も音楽も料理も、いいなって思うものはきれいなものなんだよ。きらきらしてるとかそういう意味じゃないよ。真っ暗な夜を撮っただけの写真でも、右下にオレンジ色の日付があって、その瞬間に撮影者はそこを撮りたいって思う何かがあったんだなって考えると、なんかきれいだって思うんだよ」
「芸術的ってことか?」
「言い表すとしたらそうだと思う。でもそのときの撮影者の感情も、それを見た俺の感情も、『芸術的だ』とは思ってないんだよね。言葉にするなら『うわー!』とか『あー!』って感じ。あれだよ、さっきの古文で出てきた『おかし』ってやつ?」
「なんとなくわかるけど」
「言葉なんてあとからできたものじゃん? 感情が先にあって、それをあとから作った言葉に当てはめてるだけじゃんか。だから表現できないのは当たり前なんだよ。でも、そういう表現を、俺は物で伝えたいわけ」
「ふーん……難しそうだな」
「難しいよ。難しいし、大変だし、苦しいと思う。でも楽しいからやりたい」
 すべて書き写した壮介は晴れやかに笑っていた。彼は努力を裏切られたことがないんだ、と雷閃は思った。その「楽しい」はいつか「なんにもならない」に変わる。たいていの人間はそうして挫折する。
 でも、雷閃は壮介を眩しいと感じた。それはおそらく憧れであった。壮介のように挑戦する心を自分も持てたら、と。けれどその挑戦は恐ろしいものだ。
誰かの挑戦はひとに勇気を与えるが、並行して諦めも与える。「こんなに頑張れるのはこのひとの生まれ持った才能によるものだ」「私にはできない」「このひとでも失敗するなら僕には無理だ」と。
 何かに挑戦することを雷閃はいつでも避けてきた。挑戦には努力が必要になる。その苦しさを知っているのに、五月の空は雷閃を新しい場所に導こうとする。



 職員室に続く渡り廊下で永海を見つけた。雷閃は追いかけて声をかけた。
「鍵取りに行くんですよね?」
 放課後。今日はきれいに晴れている。
「うん、でもね……ちょっと問題があって……」
 永海は表情を曇らせた。快晴の空に相対するような。
「問題?」
「あのね……今日、お昼ご飯食べられなかったの」
「先輩って弁当じゃないんですか?」
「いつもはお弁当なんだけど……今日はお母さんが寝坊しちゃって。何か買って食べてって言われたんだけど……何買うか選んでるうちにお昼休み終わっちゃって」
 苦笑した永海に、雷閃はまた違和感を抱く。高校生にもなってそんな話、あり得るだろうか。聞いたところによると永海は成績優秀で、試験でも学年五位以内をキープしているらしい。
「じゃあなんか食べます?」
「なんか、って?」
「すぐそこにデパートあるじゃないですか。フードコートもありますし」
「で、でもひとりで行くのは緊張するなぁ……」
「一緒に行きましょうか?」
 雷閃が提案すると永海は両手を胸の前で絡ませて、動揺を示した。
「……いっしょに?」
「いや、すぐ帰りたいなら今日は解散でも構いませんけど」
「……ううん。お腹すいたから食べたい。一緒に来てくれる?」
「いいですよ。俺もなんか食おうかな」
 そうして今日の部活はサボりに決まった。自転車でデパートに着いたら二階のフードコートを目指す。
「先輩はここ、あんまり来ないんですか」
「ときどき琴ちゃんと来るよ。でもひとりで来たことはないなぁ」
 席はそこそこ埋まっていた。同じ高校の生徒もいれば、親子連れもいる。永海は夕飯を食べられなくなると困るからと、ファーストフード店でポテトを買ってきた。雷閃は同じ店でハンバーガーを買った。肉が二重に入っているやつ。
「そんだけでいいんですか?」
 ポテトのMサイズをほおばる永海はうなずいて水を飲んだ。
「ダイエット中だからね」
「嘘でしょ?」
「うん、嘘。でもなんで嘘だと思ったのか言ってみて」
「昨日、おはぎ三つ食った話をしてましたよね」
「うん、した。朝来くんは名探偵だよ」
「成長期だからいっぱい食べてくださいね」
「なんか馬鹿にされてる気がする」
「冤罪です」
 ポテトをかじる永海は小動物みたいでかわいい。そこでふと雷閃は気になった。
「安良田先輩、俺とふたりでこんなところ来てよかったんですか?」
「え? なんで? 寄り道は校則違反じゃないよね?」
「たぶんそこは大丈夫ですけど。男子生徒とふたりっきりで飯食ってたら噂されませんか?」
「そういうことかぁ。それこそ大丈夫だよ。私、影薄いから」
「先輩がそう言うならいいですけど」
 ハンバーガーは一瞬でなくなってしまった。でも雷閃も夕飯前だからあんまり食べられない。本音を言えば雷閃も追加でポテトを食べたかったし、ラーメンも食べたかった。
「朝来くんは大丈夫? もし好きなひととかいたら、誤解されちゃわない?」
「俺も影薄いし好きなひともいないんで問題ないですよ」
「そっかー」
 ポテトを食べ終わって手を拭く永海は、いたずらっぽく笑って声を潜める。
「私たち、周りからは付き合ってるみたいに見えるのかな?」
「あー……遠くから見たらそうかもしれませんね」
「なんで遠くなの」
「ははっ」
「なんで笑うの」
 トレーを片づけてデパートを出た。ここのデパートは壮介と何度か来たことがあるが、主に服屋が多く入っているらしかった。スーツから下着まで、全部そろう。
「あ、たいやき屋さんが来てる」
 永海は移動販売の車を見つけた。甘いにおいがすると思ったら、たいやきだったのか。永海は足を止めてじっと車を見つめている。
「欲しいんですか?」
「……欲しい」
 そう言って永海は力強い足取りで車に向かっていった。こしあんのたいやきを買った永海は嬉しそうに座る場所を探した。雷閃はチーズのたいやきを買った。食べたことがないな、と思って買ってみた。
「あ、あっちにベンチあるよ」
 永海は木陰のベンチを指さして駆けて行った。雷閃も追いかけて、色の濃いベンチに座ろうとする永海の隣に向かった。しかし座る一歩手前で立ち止まった。
「先輩、ここ……ってちょっと!」
「ベンチあってよかったね~……あ、っ……!」
 木陰にあるせいで、昨日の雨がベンチに溜まっていた。不幸にも、水たまりを乗せたベンチに永海は座ってしまった。しっかりと、深く。
「あ、あ~! 濡れちゃった!」
「……先輩」
「ごめん、スカートの下まで濡れちゃったから……帰るね! たいやきは夕飯のあとのデザートにするから! 一緒に来てくれてありがと! また来週ね!」
「安良田先輩!」
 永海は雷閃を振り返ることもなく駐輪場に走って行った。残された雷閃はたいやきを片手にその背中を睨みつけた。
 雷閃の違和感は確信に変わった。永海はベンチの水たまりを確認した上で、わざと深く座った。一緒に過ごした時間は一週間にも満たないが、永海の行動にはおかしなところがいくつかあった。
 あの子は、自分から不幸な目に遭おうとする。