中学一年生のとき、雷閃は野球部に所属していた。小学生のころからスポーツが好きで、特に野球は大好きだった。俺もたくさんホームランを打ってやる。そういう輝かしい希望を持って野球部に入った。しかしその希望は、早々に打ち砕かれた。
 雷閃の通う中学の野球部はそれなりに熱心な部活だった。先輩と顧問の指導は共に厳しかった。一年生は先輩にこき使われ、ストレスのはけ口にされ、クラスでは大きな態度の男子も先輩の前では犬同然だった。
 雷閃は生まれつき体力がなかった。校庭を走るたびに死にそうな思いをした。それでもバットを持って思い切りボールを打ちたくて頑張った。夏のころ、汗だくで部活を終えたときに、雷閃の無邪気な未来は叩き潰された。
「おまえ、向いてないよ」
 先輩のひとりにそう言われた。暴言ではなかった。憐れむような顔で先輩は雷閃の肩を叩いた。
「おまえだけ何の結果も出てないだろ。なぁ、入部したときと比べて、おまえは何が上達した? 走るスピードも上がってない、体力は無いまま、声も小さいし、同級生の足引っ張ってるだろ?」
 心臓が冷たくなるあの感じを、雷閃は一生忘れられない。汗臭い更衣室でみんながこちらを見ないふりをする。一緒に頑張ってきたと思っていた友達はわざとらしくそばを離れていく。
「もっと頑張れないなら辞めた方がいいぞ。おまえはひと一倍……いや、俺たちの百倍は頑張らねぇと俺たちと同じ場所に立てないんだよ。何度言っても走り方を直さない、部活以外ですれ違っても挨拶しない。あとその靴、おまえに合ってねぇってずっと言ってんだろ。おまえだけ意識が低いんだよ。部活に来るのはいちばん遅いくせに、帰るのはいちばん早い。小学生までの遊びとは違うんだよ」
 しんと静まり返る更衣室は真夏にも関わらず寒気がした。そのあと雷閃は先輩に何と言ったのか覚えていない。次の日、顧問に退部しますと伝えに行った。顧問は「そうか」と安心した顔でうなずいた。
「おまえにもきっと、頑張れるものがあるよ」
 厳しかった顧問がその日、初めて優しい言葉をくれた。その残酷な優しさは雷閃の頭から「努力」の文字を奪っていった。
 もう頑張らない。
 雷閃はそう決めた。自分なりの頑張りなんてものは、他人に理解されない。どれだけ必死で校庭を走っても周りからは「だめな奴だ」と思われる。
大きな声を出すのが苦手だった雷閃は、今までに出したことのない声量で「おはようございます!」と言った。でもそれは、その集団のなかでは「小さな声」でしかなかった。
 雷閃は野球が好きだった。見るのもするのも好きだった。大好きな野球選手は「努力は報われる」と言っていた。その裏切りは耐えがたいものだった。希望の言葉は自分にも当てはまると信じてしまった小学生の己が恥ずかしかった。
 たぶん、あの先輩は退部した雷閃のことを「臆病者」だとか「小さい男」だとか言っていたに違いない。雷閃自身もそう思っている。
もっと頑張るべきだった。みんなの百倍頑張って、朝練にも一時間前に行くとか、家に帰ってからランニングをするとか、そういう努力をすべきだった。
 でも、もうどうでもよかった。
 頑張って何になるのか。中学の部活でホームランを打ったら人生も成功するのか。鍛えたことで一生病気にならない身体が手に入るのか。高校に入れば知らない人間たちの集団に属することになるのに、中学の部活の栄光が、いったい何になるのか。
 雷閃はそうやって言い訳した。しかし、今こうやってあの日のことをずっと引きずっているということは、成功だってそのひとの人生についてまわるだろう。もし雷閃がみんなの百倍頑張れていたら、こんなに憂鬱で陰険な現在は存在しなかったはずだ。
 でも、いい。
 諦める方が楽だ。諦めにさえ到達しないのは、もっと楽だ。だからそれで、いい。
 放課後。そんな風に考えながら雷閃は合唱部の活動場所である第二音楽室の扉を開けた。