週が明けた月曜日。雷閃は第二音楽室の扉を開けて、固まった。永海の隣に知らない女子生徒がいる。長い黒髪の、切れ目の女子生徒。座っていても長身であることが見てわかる。柔和な笑顔で永海と会話している。
「……失礼しまーす」
 雷閃が声を出すと、ふたりは同時にこちらを見た。雷閃を確認すると、永海はたいそう嬉しそうな瞳で隣の少女を紹介した。
「琴ちゃんだよ!」
 紹介された「琴ちゃん」は雷閃に向かって丁寧なおじぎをした。
五月女琴(そうとめこと)です。永海から話は聞いております。新入部員の一年生なんですってね」
 慇懃無礼なほどに丁寧な口調だ。雷閃は緊張する。
「は、初めまして。朝来雷閃です。よ、よろしくお願いいたします……」
 雷閃もお辞儀を返すと、琴はふっと笑った。
「わたしが心配するようなおひとでは、ないようですね」
「……はい?」
「いいえ、こちらの話です。さ、座ってください。あなたもわたしのことを得体の知れない女だとお思いなのでしょう? そうでしょう、そうでしょう。さ、こちらへ」
 琴が手招きして、永海がいつも雷閃が座る席の机をばしばし叩いた。対照的だ。天真爛漫な永海と、寒気がする美しさを持った琴。壮介が言っていた「きれいなものは、いいなぁと思う」という話は嘘だ。雷閃は恐怖しか感じていない。
 雷閃が席につくと、永海は楽しそうにする。
「ようやくふたりが会えて嬉しいよ!」
「わたしもお会いできて嬉しいですよ。朝来くん、永海と仲良くしてくださって、ありがとうございますね」
 温度差がすごい。声も口調も態度も、彼女たちの温度感は真夏と真冬くらい違っている。
「いや……えーと、はい。仲良くさせていただいております……?」
「わたしは永海の幼馴染なんです。小学生からずっと一緒におりますの。永海はひとりにしておくのが心配になるほどのドジっ子ですから、先週は朝来くんがご一緒してくださって本当によかった。誰も部員が来なくても、新入生が来るかもしれないから音楽室にひとりでいると言って聞かなくて。いつもはわたしが一緒なんですが、どうしても塾に行かなくてはいけなくて……」
 困ったように微笑む琴に永海は憤慨する。
「琴ちゃんは心配性だよ! 私はひとりでも十分やっていけるし! 大丈夫だから!」
「そうでしょうか……? でも永海、今日も中庭の花壇でスプリンクラーの水を浴びたじゃないですか」
「暑いからちょうどよかったし!」
「そういう問題じゃないでしょう。そういう想定があるなら着替えを持ってくるべきです」
 いや、そういう問題でもない。「そういう想定」ってなんだ。不幸にもスプリンクラーの水を浴びる予定があるなんてことがあり得るのか。
 雷閃が不審に思っていると、永海は強制的に琴の心配の話を打ち切った。くるりと雷閃の方に身体を向ける。
「たいやきおしかったよ! 朝来くんはチーズたいやきだったよね? どうだった?」
「あー、普通に美味かったですよ。甘いもの食べたいときには向いてないかもですけど」
 先週の話を始めた瞬間、雷閃の肌に厳しい視線が刺さった。
「……たいやき?」
 琴の声は氷点下の温度だった。さっきまでは六度くらいの温度はあったのに。
「先週の金曜日に朝来くんとオン太に行ってきたの」
 オン太とは先週行ったデパートの愛称だ。正式名称は知らない。街のみんなも「オン太」と呼んでいる。
「へぇ、ふたりで?」
「うん、ふたりで」
「そう……仲良しになれたんですね」
 雷閃は冷や汗を感じた。誤解されている。そりゃあ高校生の男女がふたりっきりで校外に出たら、そういうことを疑われる。
「い、いや。五月女先輩。俺はただ、安良田先輩が腹減ったって言うから……」
 雷閃は言い訳を始めるが、琴は少しも厳しさを緩めない。まるで敵を相手にしたみたいに警戒している。黒目の大きな琴の瞳は攻撃の意図を湛えている。
「あぁ、永海がお弁当を食べられなかった日でしたね。だからわたしが半分わけると言ったのに。まさか放課後に、ね……」
「五月女先輩、ほんとに俺は安良田先輩に何にもしてませんし、変な感情も持ってませんから……」
 窓を開けていても暑いはずの音楽室。雷閃は嫌な寒さに歯が震える。
「えぇ、わかっております。朝来くんが永海に何もしていないことも、永海に劣情を抱いていないことも。ただ……心配で」
 意外と話がわかるのか、と安心したときだった。琴はどこか寂しそうな、悲しそうな、やるせない表情を見せた。どうやらこのひとは何かを知っている。雷閃が知らない、永海に関する何かを知っている。
「ねぇ、琴ちゃん。怒ってるの? 私は無事なんだからいいじゃん」
 無事、と永海は言う。彼女らは、雷閃が永海に手を出すという懸念とは別の心配をしている。
「……そういうことにしておきましょう」
 琴が折れた。永海は満足そうに笑う。
「今度は琴ちゃんも一緒にたいやき食べようね!」
「えぇ、ぜひ」
「朝来くんは今度何味にする?」
「あ、俺もですか」
「そうだよ。だって朝来くんは私たちの仲間でしょ? 仲間外れはだめだよ。だから今度は三人でおやつ食べに行こうね」
 永海は立ち上がると、ちょっと待っててと言って準備室に入って行った。琴が追いかけようとしたが、逡巡の仕草をして座りなおした。
「行かないんですか?」
 雷閃が問うと、琴は苦笑いする。怖い先輩かと思ったが、案外普通のひとだ。幼馴染の永海が大好きで、心配で、でも拒絶されたくないんだろう。
「あんまり世話を焼きすぎると、永海に嫌われてしまいますので」
 琴はほかの女子生徒と違ってスカートを短くしたり、リボンの巻き方にアレンジをくわえたり、そういう小さな違反を一切していない。まじめな優等生といった印象を受ける。塾にも通っているということから、その認識は間違っていないのだろう。でもどこか不器用さを感じる。
「ねぇ、これ使っていいよって許可もらったの!」
 永海は準備室からラジカセを持ってきた。今時古いデザインのラジカセだ。この学校は音楽に力を入れていないということがよくわかる。吹奏楽部もほとんど活動していないようだ。先週、楽器の音が聞こえてきたのは二回だけだった。今日は休みらしく、第一音楽室は静まり返っている。
「CDも好きなの選んで聴いていいよって星田先生が言ってた」
 机に持ってきたラジカセはコンパクトで、持ち運びに便利なタイプだった。雷閃の父親が若いころなら、これを最新のラジカセだと呼んだかもしれない。
「それはよかったですね、永海。コンセントは……あっちですか」
 琴が壁に目を向けると、永海はコンセントをさしに行った。そしてこちらに戻って来る途中で、案の定コンセントに足を引っかけた。
「わぁっ!」
「永海!」
 顔面から床に転びそうになった永海を、琴が抱き留めた。俊敏な動きは彼女のおしとやかな見た目からは想像できない。慣れているのだろうか、と雷閃は思った。だったら永海に行かせなければよかったのに。
「えへ、ありがと、琴ちゃん」
「……どういたしまして。痛くない?」
「うん、大丈夫だよ。ねぇ、琴ちゃん。なんか楽しいね。新しく朝来くんが入部してくれて私、楽しいよ。琴ちゃんも楽しくなれそう?」
「えぇ、楽しいです。もし楽しくなくなったとしたって、わたしが永海を楽しくさせてあげます。いえ、そうさせてください」
 琴は苦しそうな呼吸をして永海の頭を抱き込んだ。永海は何も言わずに琴の抱擁を受け入れた。絵面だけ見れば微笑ましい光景であるはずなのに、まるで悲劇のようで雷閃は困惑した。琴は永海に関して何かを悔やんでいる。それだけはなんとなく察した。
「CD、どれにする?」
 琴から離れた永海は小さなかごに入れて持ってきたCDを数枚、雷閃に見せた。永海の細い指には痛々しい切り傷があった。何かで切ったのだろう。当たると痛そうだ。
 それを見て雷閃は苛立ちを感じた。そんな傷を作っておきながら絆創膏を巻かない永海にも、それをさせない琴にも。
 その日は有名な合唱曲集を聴きながら準備室にある楽譜を見て回った。埃くさい準備室で永海は三度、棚に頭をぶつけた。