三度目の世界で、僕は君と一緒に春を迎えたい。

「わ、私……凌佑のこと……ずっと前から、好きで……」
 僕は何度、そう頬を桜色に染めて言う幼馴染の姿を目に焼き付けただろうか。
 何回、後ろで手をモジモジさせながら恥ずかしそうに気持ちを伝える彼女をいじらしく感じただろうか。
「だから、その……幼馴染じゃなくって……恋人になって下さいっ」
 どこまでも真面目で、まっすぐな君は、何度そうやって僕に頭を下げながら告白してきただろうか。
 何度、僕は左右に長く流れた綺麗な髪を見つめ、震えそうな声を必死に押さえつけて、「君のその想いを踏みにじってきた」のだろう。

「……うん。付き合おう」

 もしこの世界に神様なんてものがいるのならば、切に願う。
 ……お願いします、どうかこの言葉を、叶えさせてください、と。


 **

 その日は、気持ちの良い青空が広がる夏の日だった。最寄り駅から高校へと歩く間、ずっとセミの鳴き声が響くような、そんな一日。つい最近切り替わった夏服も、肌にまとわりついて気持ち悪い。照り付ける太陽の光も、それを反射するアスファルトも、道行く僕等を殺しにかかっている。
「それにしても、最近暑くなったね、凌佑」
 そんななか、顔色ひとつ変えずにそう言うのが、僕の幼稚園からの幼馴染、高野梓だ。
「まあ、そうだね、梅雨明けすぐにこんな天気なんて、これから先が思いやられるけど」
「ね、まだ七月の頭なのに」
 梓とは物心ついたときからの知り合いだ。同じ幼稚園に通い、同じ小学校に通い、同じ中学校に通い、同じ高校に通っている。家が隣同士で、よく一緒に遊んだり、親ぐるみでどこか出かけたりもした。遊園地や温泉、プールに様々な観光地。数を挙げればきりがない。
「でもこれから夏かぁ」
「そうだね」
 隣を歩く梓がそんなことを呟く。
「昔はよく一緒にプールとか海行ったよね?」
「……昔はな」
 最寄り駅から繋がる環状通りを抜けて、学校の正門へと続く坂道に出る。
「中学上がってからは行ってないもんね」
 少しずつ大きくなっていく校舎を目に、彼女はそう感慨深げに続けた。
「……また、一緒に行きたいなぁ……」
 …………。
 一瞬、僕と梓の間に静寂が流れ込んだ。周りの「暑いー」「死ぬー」といったこの気温に対する悲鳴が耳に入ってくる。
「いや、泳げないだろ、梓」
 そんな沈黙を僕は破った。
「へへ、そうだったね」
 無邪気に笑って見せる、その表情に思わず胸が弾む。
「そうだったねって……」
「じゃあ、凌佑に教えてもらえばいっか」
「……あまり他人にそういうこと言うなよ」
「誰にも言わないよ、凌佑だから言ったの」
「っ……」
 そこまで話したところで僕等は正門をくぐり、校舎内に入った。一緒に登下校するのはいつものことで。時折追い抜いていくクラスメイトに「今日も仲良く一緒だなっ、保谷」って言われたり、「今日のお弁当は何だろうな保谷」ってからかわれたりするのもいつものことだ。ちなみに、保谷は僕の名字。
 お互い同じクラスなので、教室までも一緒に歩く。まあ、僕と梓が幼馴染っていうのは既に知られていることだから、朝一緒に登校するくらいではもはや何も騒がれない。
 どういう因果か家どころか席まで隣同士なので、下手すると寝ているとき以外、常に一緒にいる、なんてこともある。
「はい、凌佑、今日のお弁当」
 席につくと、隣からそっと弁当箱が差し出される。
「……ありがとう」
 僕はその弁当を受け取り、カバンの中にそっとしまう。
 僕の家に母親はいない。僕が幼稚園のときに死んだ。父親は単身赴任で福岡に住んでいる。だから今僕は家でひとり暮らしをしているのだけれど、弁当や朝食夕食は梓が作ってくれている。
「あ、そうそう」
 弁当を僕に渡した後、梓は何か思い出したかのようにそう切り出した。
 パチリと光る黒色の瞳を僕に向け、彼女は続ける。
「今日、親が出張でいないから、泊まりに行くね」
「は……? あ、ああ、わかった」
 これが普通と言わんばかりのスムーズさで、梓は僕の家に泊まると言い出した。
「あれ、もしかして駄目だった?」
 彼女は首を少し横に傾け、長く伸びた髪を揺らす。
「いや、大丈夫、うん、いいよ」
「……それとも、部屋にエッチな本置きっぱなしにしてるの?」
「っ、そ、そういうことじゃなくてっ」
 流れるように恥ずかしいことを言い出すからこっちの反応が慌てちゃったよ……。
 確かに、小学生くらいまではよく梓が僕の家に泊まりに来ることはあった。逆ももちろんあった。
 で、でももう高校生だぞ……。
 別に、梓の貞操観念がゆるゆるってわけではない。クラス委員を務めるくらいには真面目だし、スカートだって校則をギリギリ守るくらいに短くしている。勉強もしっかりこなしている。
 まあ、これで貞操がゆるかったらそういうキャラとしてそれはそれでギャップでありだったと思うけど、残念ながら梓に男の話があったことはない。それは僕が一番良く知っている。
 つまるところ、梓は僕を信用して泊まりに来ると言っているわけで。
 
──え? 信用しているのか?

もういいや、考えるのはやめにしよう。
「うんいいよ、問題ないから」
「やった、ひとりは寂しいから、よかったぁ」
 …………。
 僕にしか見せない、子供っぽい笑みを浮かべつつ、梓はそう言った。
 結局、今日はふたりでひとつの屋根を共有することになりそうだ。

 昼休みになり、校内が色々な喧騒に包まれる。グラウンドからはボール遊びに興じる男子たちの声が、廊下では行き交う生徒たちの話し声が、教室の中でも、仲睦まじげに昼を食べる生徒の、会話があちらこちらでされていた。
 そういう僕も、隣に座る梓と一緒に食べていたわけだけど。それに加えて。
「いやぁ、本当高野の作る弁当は美味そうだよなぁ、な? 凌佑?」
「ね、毎日作ってくれているんでしょ? 保谷」
 目の前の席に座り何か微笑ましいものを見るような温かい目で僕と梓の友達が話しかけてきた。
「あーあ、俺も弁当作ってくれる幼馴染が欲しかったなあ」
「練馬にそんな女子現れたら速攻で裏があるって思うね」
「ひでぇな、おい」
「だって、ねぇ? 梓だってそう思うでしょ?」
 そういう感じに僕等とお昼を食べているのは、練馬佑太と石神井羽季。ふたりとも高校からの友達で、結構仲良くしている。休みの日にカラオケ行ったり、買い物行ったりするくらいの仲だ。
 僕の弁当を冷やかしたふたりは、コンビニ弁当と菓子パンをそれぞれ頬張っている。これもいつものことだ。
「……弁当食いたいなら自分で作ればいいんじゃ」
「馬鹿か凌佑。男が自分で作る弁当にどれだけの価値があると思ってんだ」
 たこさんウィンナーを口にしながらそうぼそっと言うと、佑太に窘められた。
「寂しいだけだろう? な?」
「でも、……料理男子ってモテるらしいじゃん。いいんじゃない?」
 僕が「モテる」という単語を言った途端、健全な男子高校生の練馬佑太は一瞬何かを考え始め、最後に残っていた唐揚げを放り込み続けた。
「……いや、毎朝早起きとかきついし、いいわ」
「そっか、それは残念」
「そんなんだから練馬はモテないんだよ、もっと甲斐性持たないとー」
「うっせーなー」
 そんなこんなで笑いが絶えない会話をするのが、僕等四人の日常だ。
 昼休みも半ばに差し掛かり、それぞれ昼を食べ終わった頃、思いついたかのように佑太が言い出した。
「なあ、今年の夏はさ、皆でプール行かないか?」
 すると、少しの間、僕等の間に沈黙が流れる。なかなか鳴きやまない蝉がようやくその声を止めた頃、羽季がようやく返事をする。
「あんたが言うと下心が見えるんだよね……」
「い、いや、そんなんじゃなくて、夏の思い出にさー」
 うろたえる佑太を見て、やはり下心があったなと僕は結論づけた。
 佑太……誘うならもう少し上手くやらないと……僕もその方法はわからないけど。
「まあ、練馬の下心は置いておいて、皆でプール行くっていうのは賛成だね。一年の夏休みは予定合わなくてどこか行けなかったし」
 羽季がそう賛同の言葉を言うと、落ち込んだ顔をしていた佑太は一気に生気が蘇ったかのように活き活きとしだし、身を乗り出して話し始めた。
「だよなだよな! やっぱ夏と言えばプールだろっ」
 ……のわりに言っていることは普通なんだけどな。
「な? 凌佑もプール行きたいだろ?」
 佑太は僕に同意を求める。キラキラした、今にも瞳から星が零れるんじゃないかってくらいキラキラした目を僕に向けてきた。
「べ、別に僕は……」
「あれ、保谷は梓の水着姿見たくないの?」
 佑太に返そうとした僕の言葉は、羽季に切られ、そう言われてしまった。
「ちょっ、な、何言ってるの羽季……!」
 急に話題の中心が自分に来たからか、梓は慌てて両手を横に振って否定しようとする。
「ね? 保谷は梓のエロい水着見たいよね?」
 半分ニヤニヤしながら羽季は僕に迫る。
 エロい水着、と具体的な言葉を言われ、僕は思わずそんな恰好をした梓の姿を想像してしまう。
 ──綺麗な肌色映える夏の陽射しのもと、長く伸ばした髪をしばって普段見えないわずかに主張のある胸と、スラリと伸びる白い足と。
 それをきっと無言で凝視してしまっている僕を想像した。
「……って、何考えさせるんだよ羽季っ、べっ、別に僕はそういうわけじゃ……!」
 一通り頭の中で梓の水着姿を妄想したのち、僕はハッと女子ふたりのほうに目線をやり言い訳をする。
 まずい、この間は明らかに想像してましたって間だ……。
 そう思った頃にはもう遅く、羽季は「うわぁ」って表情をしつつ僕のほうを温かい目で見ていた。
「そっかぁ、やっぱり保谷と言えども女の子のエロい姿を妄想するんだねー勉強になったよ」
「いっ、いや、だからっ」
「うーん、楽しみだなー、練馬が当日どんな女の子にナンパしかけて撃沈するか」
「俺、巻き込まれてね? しかもナンパしてフラれるの確定?」
「まあ、期末テスト終わったら詳しい話決めようよ、ね?」
「あ、ああ……そうだね」
 その後も、取り留めのないことを四人で話しているうちに昼休みは終わり、そして放課後になった。
 帰りのホームルームをするために教室に入って来た先生が窓の外を見やり、ポツリと言った。
「……降ってきたな」
 僕はそれに合わせて外を向き、これまで猛威を振るっていた太陽が黒い雲に隠され、雨が降り始めているのを確認した。
「……マジで? 今日雨降るの……?」「予報だと一日中晴れだったのに……」「サイアク……」
 教室内からため息とともにそんな恨み声があちらこちらからし始める。
「うそ、今日私傘持ってきてないよ?」
 隣に座る幼馴染からも、そんな声が聞こえてくる。
「いや、普通持ってきてないよ……梅雨明けましたってテレビで言った次の週の晴れの日に傘持ってくる奴なんていないだろう……」
 僕はカバンに教科書やノートの類いをしまいながらそう言う。
「はぁ……どうやって帰ろうかな……」
 先生が淡々とホームルームを進めつつ、僕は帰る支度を整える。最後に数学の教科書をしまうってときに、僕はカバンの中に水色の細長い物体が横たわっているのを発見した。
「…………」
 マジ?
「じゃあ、ホームルームはここまで、雨降り出しているから気をつけて帰れよー」
「きりーつ」
 席を立ちつつ、まじまじとその物体を見つめる。
「さよならー」
「「さよならー」」
 挨拶と同時に一斉に動き出すクラスメイト達。隣の真面目なクラス委員も例外ではなく、いそいそと椅子をあげて、机を下げている。
「……梓」
 机を下げて、カバンを持ってさあ帰ろう、とした彼女に僕は声を掛ける。
「……いたわ、こんな日に傘を持ってきている酔狂な奴」
 僕は、彼女に微笑みながら、さっきまで見ていた水色の折り畳み傘を目の前でヒラヒラと揺らめかせた。

 それなりに雨が地面を叩く放課後。生徒玄関には傘を持ち合わせていなくどうしようか悩んでいる生徒が足を止めていた。生徒会が設置している貸し出しの傘は、もうゼロだ。
 ま、当然か。
「でも、なんでカバンの中に折り畳み入ってたの? 凌佑」
「いや……多分折り畳みは梅雨の時期毎日持ち歩いていたけど、普通に傘も持ってきた日がほとんどだったからそのうち存在を忘れて……今ですね」
 下駄箱で靴を履き替え、外へ歩き出す僕と梓。
「でも、凌佑のうっかりのおかげで今日は助かったね」
 口元を緩ませながら、梓は軽い足取りで校舎内を出た。
 屋根の残っている外玄関にも、帰るかどうか悩んでいる生徒の姿が見られた。そのなかには、友達の佑太の姿もあった。
「あれ? 凌佑は傘持ってたのか? 神かよ」
 僕が右手に折り畳み傘を持っているのを見ると同時に、彼は近づいて来ようとした。が。
「……あー、はい。そうだよねー」
 僕の後ろにひょこりと梓が顔を出したのを見て、その動きを止めた。
「あ、練馬君も帰り?」
「え? あー……そうだなぁ、帰ろうと思ったけど、傘ないから少し雨宿りしてくわ。ふたりは帰るんだろ? 相合傘で。じゃあなー」
 それだけ言い残し、佑太は校舎内へと引き返していった。僕の横を通り過ぎる際、耳元でボソッと「……やるじゃん、モテる男は違うねぇ」とささやかれた。
「……なんか、悪いことしちゃったね。練馬君に」
 そんな友人の後ろ姿を見つつ、梓はそう呟く。
「大丈夫だよ。佑太はあんなんだけど、根はいい奴だから誰かの傘に入れてもらえる」
 きっと「仕方ないなー」とかなんとか言われながら。
「さ、帰ろう? 雨が強くなる前に」
「うんっ」
 小さい折り畳み傘のなかに、無理やりふたり入る。すると、まあ、そこそこの密着度になるわけで。
 ……でも、まあもう学校中には「幼馴染」って知れ渡っているから噂にはなんないから大丈夫だよな。
 やはり後ろから色々な意味で羨ましがられる視線を集めた気がするけど、構わず僕等は帰り道を歩き出した。

 肩と肩とが触れ合う距離で、並んで歩く。傘を叩く雨滴は不規則に音を鳴らし、少し弱くなったと思うとすぐに強くなる。
「やっぱり折り畳みだと小さくて難しいね」
 隣を歩く梓が、坂道を下りながらそう言う。
「ま、まあそうだね」
「……でも助かった、傘あって」
「それはなによりで」
 高校の校門を出て、しばらく住宅街が続く。坂道には所狭しと家々が並んでいて、多種多様な色の屋根から、雨が地面に流れ落ちる。いつもは猫やカラスの一匹一羽いるものなのだけど、やはり雨だからかそんな彼等の姿は見られなかった。
「……あ、あのさ……凌佑は、私の水着見たい?」
 すると、昼休みの話を受けてだろうか、梓が少し声をうわずらせながらそう言いだした。
「え? ……い、いや……別に、そんなことは……」
「やっぱり、私なんかより羽季とかの水着のほうが見たいよね……」
 彼女は、落ち着かないかのように、長い黒髪をさっと撫でては両手を握りしめ、また撫でては握りしめ、と繰り返す。
「……そういうわけじゃなくて」
「じゃ、じゃあ……年上の人のほうが好みだとか? 実は凌佑ロリコンだったとか?」
 待て待て、人を勝手にロリコンに仕立て上げるな。
「……だから、落ち着けって……梓」
 一度咳ばらいをし、僕はゆっくりと話し始める。
「別に、僕はどういった女性がタイプか、なんてわからないし、誰かの水着を見たいなんて願望も持ち合わせていないから。佑太もそうかは知らないけど」
 隣を歩く彼女に、諭すように言う。
「……ほ、本当?」
「ああ、そうだよ」
 僕のその言葉を聞いてホッとしたのか、梓は胸に手を当てて息をひとつ吐き出し、僕の体に密着した。
「おっ、おい急にどうしたんだよ……」
「ふふっ……なんか、安心して……」
 肩と肩とが触れ合って、彼女の体温を直に感じる。
 少し、脈が速くなったようにも思える。……でも、僕は意識して落ち着くよう努める。
「……だいたい、幼馴染なら、僕がロリコンじゃないくらいわかるだろ? 僕、子供苦手だし」
「そ、そうだけど……やっぱり、不安にはなるんだよ……」
 坂道を下りきり、西武新宿線と並走する形で並ぶ妙正寺川に出る。ここの川沿いに咲く桜は、下から、上から見ても綺麗なもので、散った桜が水面に浮かぶ景色もまた一興だ。卒業シーズンになるとある種画になる背景となる。
 まあ、今は雨が降っているから、川の色は美麗な桜色ではなく、少し濁った薄茶色ってところだけど。
「……だって、凌佑、女の子にモテるし……」
「いや、いつ僕がモテたし」
「……現在進行形で」
「は……? そんなわけ」
「……鈍感」
 いやいやいや、さっきから勝手に人をロリコンにしたり鈍感扱いしたり、僕の扱いひどくないですか高野さん。
「……で、そんな鈍感な僕の家に今日は泊まりに来るんだよね、た、か、の、さん」
「っ……そ、その呼び方、嫌いです。凌佑」
 僕が梓のことを「たかのさん」と呼ぶと、彼女は露骨に嫌な顔を浮かべた。理由はわからない。まあ、僕がそう呼ぶときは機嫌が悪いときか、梓と喧嘩しているときかの二択だからどっちにしろいい傾向じゃない、というのは確か。だから嫌いなのも頷ける、けど。
「はいはい、で、今日は僕の家に泊まるんだよね? 梓」
「……う、うん」
「何時頃来るの? 帰ったらすぐ?」
「うーん……着替えとか明日の学校の道具とか持っていくのに準備するから……家着いて一時間経ったらとかかなあ」
「ん、わかった。まあ、いつでも来ていいから」
 僕が梓呼びに戻すと、彼女はまたいつも通りの穏やかな表情になった。
 ……そんなに嫌なのか、「たかのさん」呼び。
 相変わらず弱まらない雨脚。坂の上から時折聞こえていた踏切の警報音が段々と大きくなり、やがて学校最寄りの中井駅に到着した。
 僕が傘を閉じる頃には、左肩は完全にびしょびしょだった。別にいいけど。

 地下にある南北自由通路を通り、駅に一ヶ所しかない改札を抜ける。この自由通路ができる前は学校から帰るには必ず踏切を渡らないといけなかったから、この自由通路の存在はかなり大きい。特に、こういう雨の日には。
 エスカレーターを上がり、下りの各駅停車が来るのを待つ。高校最寄りの中井駅は、各駅停車しか停まらないし、僕等の家がある沼袋駅も、各駅停車しか停まらない。七、八分に一本ってところだろうか。
 僕等が着いたタイミングは良かったようで、少しすると、駅のすぐ隣にある踏切が警報音を鳴らし始める。
「間もなく、一番ホームに、田無行が、八両編成で、参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ちください」
「……ねえ、凌佑」
 そんな、一瞬のとき。
 向こう側のホームから、急行列車が通過していく、ほんのわずかな一瞬。
 僕の隣に立つ黒髪ロングの幼馴染は、まるで、一本の細い絹糸を揺らすかのように小さな声で僕に言ったんだ。
 僕が、聞きたくない言葉を。
「……好き、です」
 聞こえないふりをしようかどうか迷った。実際、電車の通過音でかき消されていたから、「聞こえなかった、もう一回お願い」とも言えたはずだった。
 それでも、僕がそうしなかったのは。
 これまで「何度も見てきた」真っすぐな梓の気持ち。それを精一杯僕に伝えるために、頭を下げて、言葉を紡いで。
 そんな梓の言葉を聞こえなかったことにするのはもっと申し訳なく思ったから。
 僕等の真横を黄色い電車は減速していき、やがて停車する。空気を吐き出すように音を立てつつドアは開いた。
「……とりあえず、乗ろう?」
 僕はちゃんと聞いたよ、ってことを示すため、きっちり間を持たせ、梓にそう言った。
「……うん」
 相変わらず、か細い声で、君はそう呟く。
 電車のなかはやはり静かで、そして人の数もまばらだった。
「次はぁ、新井薬師前、新井薬師前、出口は左側です」
 朝の沈黙とはまた違ったそれが、車内に広がっていた。
 右側のドアに背中を預けつつ、目の前に広がる車窓を眺める。
 住宅街、公園、住宅街、とほとんど住宅街なんだけど。とりあえず、眺めていた。
 どうしてこのタイミングで告白したのか、想像はつかない。でも、きっと梓のなかで思うところがあったんだろう。
 僕は、無意識にポケットにしまっているスマホを右手に掴む。
「……どうして?」
 車内にも聞こえてくる雨音に負けないけど、この空気にふさわしいくらいの大きさの声で、僕は目前でつり革をつかんでいる彼女に聞き返した。
「どうしてって……そんなの……わかんないよ」
 少し苦しそうに、絞り出すように梓は答えた。
 ──何度聞いても同じだよね、理由。
 ──わかんないよ。
 ……そりゃあそうだよな……。十年以上も一緒にいれば、距離感なんてつかめなくなる。何が普通の距離で何がそうじゃないかだなんて。
 いつから、どうして、それが普通じゃないと気づいたかなんて、覚えているほうがおかしいんだ。
 好きになったきっかけなんて「好きになっている今」においてはどうでもいい。だから、理由なんてわからない。
「……そっか、まあ、そうだよね」
 電車がまたゆっくりと減速し、停車する。反対側のドアが開き、車内に雨の音が響き渡る。
 少しずつ僕の胃がキリキリと痛み始めているのを感じた。
 ああ、またこの痛みか。
「次はぁ、沼袋、沼袋、出口は左側です」
 ……どうする。いや、答えなんて決まっている。答えの答えももう決まっている。
 どうせ、そうなんだろ。
 だから、僕は、君のその想いを踏みにじる。
 震えそうな、自分の声を押さえつけて。
「……いいよ」
 僕はそれだけ言い、沼袋駅に着いた電車を降りた。
 怖くて崩れそうな表情を隠すために、早足で。
「──えっ、いっ、今なんてっ」
 後ろから、そんな声が聞こえてきた。でも、振り返ることはせず、僕はただただ改札のほうへ向かっていった。
 雨は、まだ止んでいない。


 沼袋駅を出て、徒歩十分のところに僕と梓の家はある。平和公園の横を抜けて、しばらくしたところに並んだ一軒家ふたつが、僕と梓の家。
 駅から家に向かう間、お互い一言も話すことはなかった。梓がそうなったのは、きっと恥ずかしさとか嬉しさとか、そういったプラスの感情からだろうけど、僕がそうなったのは正直なところ恐怖からでしかない。
「じゃ、じゃあ……支度できたら、行くから」
 家の前で彼女はそう言い、僕と別れた。小走りで家の中に入って行くのを見て、僕も折り畳み傘を閉じ、玄関に入る。
 ……できるなら、何も起きないでくれ。
 僕の願いはただひとつ、それだけだった。
 普段から家の掃除はしているから、梓が来るからといって特段何か慌ててすることはない。勿論、部屋にそのまま梓に見られて困るようなものも置いてはいない。ちゃんとそういった類いのものは勉強机の引き出しにしまってある。だから、問題はない。
 部屋に入り、すぐに制服から部屋着のジャージに着替える。梓が来るぶんには、何か気張る必要がない。まあ、羽季が来るってなったら、それなりに格好は選ぶかもしれないけど。別に、羽季を特別視しているわけじゃない。梓といる時間が長すぎて、そうなっているだけだ。
 ベッドにダイブして、しばらく顔を布団にうずめる。
 ……何も、起きないでくれ。今度こそ、今度こそは──。
 僕は、顔を少し上げて、スマホにつけた砂時計の形をしたストラップを見つめる。
 ──こいつを使うことがありませんように。
 そのまま僕はベッドで寝転がりながら、梓が家に来るのを待った。ボーっと部屋の天井を見つめること約一時間。僕の部屋を出てすぐにある玄関の鍵がガチャガチャと開く音がした。
「お、おじゃましまーす……」
 ドアの向こうから、聞きなれた彼女の声がする。僕はベッドから起き上がり、部屋を出て梓を出迎えに行く。
「いらっしゃい」
 梓は一瞬僕のほうに視線をやると、照れたように頬を染めてそっぽを向いてしまう。
 靴を揃えて置いてから、彼女は僕の家に上がり込む。
「あ、この写真、懐かしいね。……まだ飾ってくれているんだ……」
 彼女は、玄関に置いてある一枚の写真を指さしながら、思い出に浸るような声で、そう言った。
 そこにあるのは、幼稚園のとき──まだ僕の母親が生きていた頃──に保谷家・高野家合同で行ったキャンプの写真だった。
 写真の真ん中には、満面の笑みを浮かべつつピースサインをしている僕と梓が、その両脇に僕の両親と梓の両親が映っている。
 でも、毎日ここに来ている梓はこの写真も毎日見ているはず。……やっぱり緊張しているな。
「……出張、いつ帰って来る?」
 僕は、少しでもその写真から話題をそらしたくて、梓を部屋に連れながらそんなことを聞いた。
「えーっと、明日の夜には帰って来るって言ってた」
「お母さんもそれに?」
「うん。ひとりでも大丈夫でしょ? 隣には凌佑君もいるしって言ってお父さんについて行っちゃった」
 ……狙っているんですか? お母さん。僕は気づいてますからね。ええ。
「ふーん……そっか」
 部屋に入り、梓は部屋に荷物を置いて勝手知ったる様子でベッドに腰を下ろした。
「……き、綺麗にしているんだね、部屋」
「何? もうちょいゴミまみれにしていたほうが良かった?」
「い、いや、そういうわけじゃなくて……ただ、あれだったら掃除してあげようかなーって思っただけで……」
 ……すぐに会話は途切れ、外から聞こえる雨音が学習椅子に座る僕の耳に響く。
「こ、今晩何にする? 何か食べたいのある? 凌佑」
「そうだね……今日はカレーが食べたいなぁ……」
「か、カレーかぁ、うん、材料あるし、買い物行かなくていいね、うん」
 …………。
「雨……止まないね……」
「うん、いつまで降るんだろうね」
「家出る前にテレビ見たら、明日の夜まで降りそうなんだって……」
「そっか、あれ、出張ってどこなの?」
「え? あ、えっと……金沢、かな」
「新幹線、止まらないといいけどね」
「そ、そうだね……」
 …………。
「あ、あのさ……さっきのことなんだけど……」
 その沈黙に耐えられなくなったのか、ベッドに腰かけている幼馴染は切り出した。
「……いいよ、付き合おう?」
 一時間気持ちを落ち着かせ続けた。だから、淀みなくその返事は言えた。
「……ほ、ほんとうに……?」
「うん……」
「な、なんか……こんなあっさりでいいのかなぁ……なんて、思ったりもするんだけど……」
 はははと少しわざとらしく乾いた笑いをする梓。
「もっと劇的なほうがよかった? それとも、ロマンティックに決めたほうが、いい?」
「いやいや、私のほうから告白しておいて、そんなことリクエストするのは筋違いって言うか……」
 彼女はアワアワと首を左右に振りながらそう答える。
「う、嬉しいんだ……凌佑がいいよって言ってくれたことが……」
 ベッドのシーツをキュッと掴みながら、彼女は二の句を継ぐ。
「よ、よろしくお願いします……」
 そして、僕と梓は幼馴染から恋人になった。
 でも、僕は知っている。
 この関係が、きっと長続きしないことを。
 どんなに願ったって、終わってしまうことを。

 その後、僕の部屋でなんとなく時間を一緒に過ごし、一緒にカレーを作り始めた。
 いつもの光景だ。たいていふたり一緒に夕食を作るのが習慣になっている。朝はさすがに僕が起きられないので梓に任せっきりになっているけど。
 梓は毎日僕の家に来ては、夕食を作りに来てくれる。僕が風邪を引いて動けないときも、テスト前のときも。
「あ、凌佑、ご飯炊かないと」
「ああ、そうだね、危ない危ない」
 キッチンに並ぶ僕と梓。梓は手際よくじゃがいもの皮をむいていきながら、一番大事なお米の存在を思い出し僕にそう言う。
「……あ、そういえば。いつか梓、他は全部ちゃんと作ったのに、ご飯だけ炊き忘れて僕に謝り倒したときあったよね」
 僕は思い出したかのようにそんな思い出話を始めようとする。
「そっ、それはもう忘れてよ凌佑」
 確か、中学三年のときだっただろうか。僕が私立高の滑り止めを受験した日。
「あんときは梓大泣きしてたよなー可愛かったよなー」
「っ、だ、だから忘れてよー」
 その日もカレーを僕の家で作ってくれていたのだけど、ご飯を炊き忘れてしまった。
「家にお米がないって言って泣きながら僕にしがみついて謝ってたよなー結局その日慌てて梓の家行って梓のお母さんからお米貰ってなんとかしたっけなー」
「も、もう凌佑の意地悪……忘れてって言っているのに」
 僕はお米を研ぎ終わり、炊飯器にセットしてスイッチを入れる。
「梓のお母さん大笑いしながらお米渡してくれたよ、『あの子、そんな単純なことに気づかないんて、可愛いわねー』って」
 彼女のほうを振り向くと、切っているにんじんくらい顔を赤くして、体を小さくしていた。
「だ、だって……受験で疲れて帰って来るかな、って思って……それなのにご飯がないって辛いでしょ……?」
 そう言いながら、彼女はにんじんを一口大の大きさに切り終わる。
「だ、だから気づいたとき……慌てちゃって……も、もう忘れてよ」
「……できるかなぁ」
「も、もー」
「ははは、ごめんって、もう言わないから」
「言わないだけじゃ駄目、忘れて、お願いだから」
「はいはい」
 ……ごめん、多分一生忘れられない。だって、その日、僕は梓への恋心を意識したんだから。
 そんな感じに楽しく会話を取りながら(家に来たときのあの硬さはなんだったんだろうか)、僕と梓はカレーを作った。
 いや、梓は。かもしれない。
 ……僕は、少し苦しかったから。

 できあがったカレーを食べ終わると、僕は食器洗い、梓はお風呂掃除に入る。いつもなら一緒に食器を洗うところまでやって、梓は自分の家に帰るのだけど、今日は僕の家に泊まるからそうもいかない。別にくつろいでいいよと僕は言ったけど、泊めてもらう身でそういうわけにもいかないと梓はお風呂掃除をやると言い僕のそばから離れていった。
「……はぁ……僕の身がもたないよ……」
 右手に握るスポンジから浮かぶ、泡を見つめつつ僕はポツリ呟く。
 だって、梓と話している時間が、楽しくて。
 だからこそ、苦しくなって仕方ない。
 泡まみれの左手で食器を掴み、僕はしばらく動きを止め、考えにふける。
「……いつまで、こんなこと、繰り返してれば……」
「何を?」
 いつの間にか、僕の後ろにひょこりと梓が顔をのぞかせていた。
「え? あ、い、いや……なんでもないよ……」
 僕は、最後の一枚を洗い、食器かごに置く。
「……さ、終わったことだし……お風呂沸くまで何かしたいことある?」
 あっぶね……梓に聞かれるところだった……。
「でも、凌佑の家のお風呂、すぐ沸いちゃうよね? 十分かそこらで」
「ま、まあ……」
「じゃあ、テレビ見てよ?」
 そうして、さっきまで一緒にカレーを食べたリビングで、テレビを見始めた。適当にチャンネルを回し続けていると、九時からのテレビドラマに引っかかった。
「あ、このドラマがいい、私毎週見ているんだ」
「そう? じゃあ、そうしようっか」
 梓がそう言うので、僕はチャンネル回しを止め、画面に映る男女を見始める。
「……ラブストーリー?」
「うん、そうだよ。少女漫画原作の。アニメは凌佑も見たことあるんじゃない? 私が見ようって言ったのだから」
「え? ……あー見たことあるわ。実写ドラマ化したのね……なんも追ってなかった」
「そういえば、凌佑今期どれくらい見てるの?」
 僕と梓は、軽度のオタクだ。軽度、だと信じている。
 別に二次元命ってほどアニメを見ているわけではなく、かといってアニメを迫害するほど三次元に偏っているわけでもない。まあ、どっちも見るよーってタイプ。コミケは毎回行っているけど。
「えっと……今期は……バドはねと、はたらいている細胞、ぐらんどぶるーかな……」
「……どれも私も見ている……やっぱ趣味似ているね」
「長年一緒にいれば感性も似てくるよ」
「そんなものなんだね」
「あ、そういえば、梓、今日はどこで寝る? 父さんの部屋?」
 ふと、気になったから、僕はそう尋ねた。
「え? ……うーん、凌佑の部屋?」
 その答えに、僕は思わず押し黙ってしまった。テレビからは、主演俳優の熱演が聞こえてくる。
「えーっと……僕はリビングで寝ればいいんだね、オッケー理解した」
「え?」
「え?」
 お、おい……まさか……。
「な、なあ……梓。まさか、同じ部屋で寝ようって言ってないよな?」
「……わ、私そのつもりで……」
「もうひとつ確認するね、僕と梓はもう恋人だもんな?」
「う、うん……」
「……梓、その提案がどういう意味かわかって言ってんのか?」
 すると、テレビから、イケメンの主演俳優が恋人役の女優と激しく絡み合うシーンがってぇ? ……アニメにこんなシーンあったか? あれか? これが噂に聞く改悪って奴なのか?
 ま、まあ都合がいい。だって梓わかってなさそうだから。
「梓が今言ったのは、つまりこういうことしてもいいよってサインなの。っていうか男はそう捉えるものなの、僕もそう捉えるの」
 そう言いつつ僕はテレビの画面を指さした。梓は視線を僕からテレビに移すと、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていった。
「……梓が思っている以上に男は単純だから、気をつけてください。……それは僕も同じなんで、僕だから大丈夫とか思わないで。……まあ、できるだけ自制はするけど」
「ごごごめんなさい……べ、別にそういうつもりで言ったわけじゃ……」
「ん、ならよし。お風呂沸いたみたいだから、先に僕入っちゃうね。ドラマ見るでしょ?」
「う、うん……」
「オッケ―」
 僕はリビングから自分の部屋に戻り、着替えを持って脱衣所に向かっていった。
 ……ぷしゅーって聞こえそうなくらい顔真っ赤だったな……梓……。

 翌日。
「凌佑、朝だよ。もう起きないと時間危ないよ」
 そんな声で、僕はいつもより高い天井を視界に捉える。少し目線を後ろにやると、もう制服に着替え、その上からエプロンを着けた梓が立っていた。
「……悪い、今何時?」
 僕はのそのそとリビングに敷いた布団から起き上がる。
「七時だよ」
「ん、サンキュ……顔洗ってくるから少し待ってて」
 テーブルには、梓が用意してくれた朝ご飯が並んでいた。
 ……ほんと、助かるわ……。
 洗面所で顔を洗い、意識をはっきりとさせる。制服に着替え、リビングに戻った。
「よし、じゃあ食べよ」
 椅子に座って待っていた梓は、僕の姿を認めるとそう言う。
 僕も梓と向かい合うところに座り、
「いただきます」
 朝ご飯を食べ始めた。
「雨、やっぱり降ってるね」
「傘持ってきてる? 僕の家に」
「うん、来るときに一緒に持ってきた」
「なら大丈夫だね」
 梓の家の朝はご飯派だ。梓がこうやって家にご飯を作りにくるようになってからは、朝もご飯になった。作ってくれるだけでも十分ありがたいので、文句を言う気はさらさらない。父親と住んでいるときはパンを咥えるだけだったから、むしろちゃんと食べてる感じがしていいしね。
「あのさ……付き合い始めたこと、皆には……?」
 僕が味噌汁をすすっていると、目の前からそんな言葉が飛んできた。
「んー言ってもいいんじゃない? だって、なんか普段と変わり無い生活してるし、そんな不都合はないと思うよ」
「そ、そう思う?」
「うん、まあ佑太と羽季には言ってもいいかもしれないね」
「わ、わかった、じゃあそうしよう。……で、でも……普段と変わり、ないか……」
 梓は一旦僕の言葉に同意を示してから、また何か引っかかるような雰囲気を出した。
「あ、あのさっ、次の休みの日、デートしようよ」
「え? デート?」
「う、うん。せっかく付き合い始めたのに、このままだと何も変わらないし、どこか行かない?」
「……ま、まあ……それもそうだね」
「やった。じゃあ、行きたい場所、考えといてね、凌佑」
「り、了解……」
 デートの約束を取り付けて、少し上機嫌になったのか、梓は柔らかな笑みを浮かべつつ食べ終わった自分の食器をシンクに持っていった。
 僕は、茶碗に少し残ったご飯を見つめつつ、行き場のない気持ちをもてあそばせていた。

 一緒に家を出て、沼袋駅に向かう。今日は相合傘にはならず、しっかり自分の体を雨から守ることはできている。
「ね、ねえ……凌佑、手、繋ごうよ」
 僕の隣を歩く彼女は、そう言いつつ左手を僕のほうに差し出してきた。
「そ、そのほうが少しは恋人らしくない……?」
「……そうだね」
 僕は差し出された左手を右手で掴む。傘は左手に持ち替えた。
 手のひらから感じる梓の温もりは、とてもあたたかくて。
 女の子の手って柔らかいんだなと、改めて感じた。
 駅近くの横断歩道で、信号を待つ。まだ時間に余裕はあるから、別に信号をやきもきしながら待つ必要はない。
 信号が、赤から青に切り替わった。
 それを見て、梓が横断歩道を渡り始めようとした、そのとき。
 一種の悪い予感が僕の頭の中を走った。一瞬だけ離した梓の左手を僕は必死に探す。けど、僕の手は虚しくも空を切るだけ。
 そして、予感が当たってしまったことに、僕は息を呑んだ。
 右手から乗用車の急ブレーキ音とクラクションが聞こえてきたから。
「梓っ、戻って! はやく!」
 五メートル前を歩く君は、僕の叫び声に反応して顔をこちらに向ける。
 ちっ、違うそういうことじゃねーよ!
 持っていた傘を放り投げ、僕は梓のもとへ駆け寄ろうとする。
 梓も、異変に気が付いたのか、慌てて身を僕のほうへ戻そうと、した、けど。

 次の瞬間。

 僕の目の前を、ほんとに目の前を車が通過した。
 鈍い衝突音を、一緒にあげながら。
「っ──」
 僕は反射で車が通過していったほうを見る。
 交差点の隅には、横たわる女の子がひとり。
 コンクリートに浮かぶ、赤色。
 さっきまで、一緒に歩いて、会話して、手も繋いで。
 笑っていた女の子が、そこに倒れていた。
「──梓ぁぁぁ!」
 僕は倒れた彼女のもとに駆け寄る。周りを歩いていた人たち、信号待ちをしていた車の運転手たちも様子を見に来た。
「梓、おい、梓、しっかりしろよ、僕だよ、凌佑だよ!」
 必死に声を届けようとするけど、反応は一切ない。
 その反応のなさを見たひとりの男性だろうか、
「はい、救急です、高校生の女の子が車にはねられて、はい、呼びかけにも反応がない状態です──」
 
 どうして。
 どうしてこうなるんだ。
 何度やっても、何度繰り返しても。

 どうして、僕は梓を守ることができない。
 どうして、僕と梓が付き合うと、必ず梓がこういう目に遭うんだ。
 ──どうして。
「っ……どうしてなんだよ! どうして!」

 ──だから僕は、君のその想いを踏みにじることを選ぶ。

 ポケットに入れてあるスマホを手に取り、ストラップで付けている砂時計を僕は握りしめる。
 ……お願いします、戻ってください、なかったことにさせてください。どうか、梓を助けさせてください。
 僕がそう願ったとき。
 意識が白い光に吸い込まれていった。

 ***

「……降ってきたな」
 意識が戻ると、雨模様を見る担任が教壇に立ち、これからホームルームを始めようとしているときだった。
 僕は即座にスマホを取り出し、日時を確認する。
 ──七月三日午後三時二十三分
 間違いない。「昨日」に戻ってる。
「……マジで? 今日雨降るの……?」「予報だと一日中晴れだったのに……」「サイアク……」
 録音したものをそのまま流したかのように、聞いたことのある恨み節が教室内に流れ始める。
「うそ、今日私傘持ってきてないよ?」
 そして、隣に座る幼馴染のこの声も。
「いや、普通持ってきてないよ……梅雨明けましたってテレビで言った次の週の晴れの日に傘持ってくる奴なんていないだろう……」
 とりあえず、同じ台詞を繰り返しておく。
 でも、どこかで変化させないと。
 また梓は交通事故に遭ってしまう。
 僕はカバンの中を睨みつけながら、次の一手を考える。
 やはり、中には水色の折り畳み傘があった。
 ……どうする、どうすれば……。
「はぁ……どうやって帰ろうかな……」
 そんなため息が彼女のほうから聞こえてくる。
 ここに、傘はある……。僕がこの傘で梓と一緒に帰ったから、駅で告白された……。
 ってことは。
 ……これしか、ない。
 僕はひとつの決意を固め、残りの教科書やノートをカバンにしまい込んだ。
「じゃあ、ホームルームはここまで、雨降り出しているから気をつけて帰れよー」
「きりーつ。さよならー」
「「さよならー」」
 挨拶が済むと同時に僕は椅子を机の上にあげ、教室を飛び出した。
「あっ、凌佑机下げてないよっ」
 真面目な委員長からそんな窘める声が飛んでくるが、お構いなしに玄関へ向かった。
 はやく、はやく……!
 一目散に廊下を駆け抜け、玄関に出る。そして外靴に履き替え、僕は梓の下駄箱に水色の折り畳み傘を置いた。
「……これで、いいんだ」
 そう呟き、僕は雨が降りしきるなか、傘なしで外へと走り出した。
 
 学校は坂の上に建っているから、行きは激坂を上り、帰りは下ることになる。あまりいいことはない。特に、こういう雨の日に走って帰る場合には。
 足を前に運ぶ度に速くなっていくスピードは、僕の心の焦りを表しているようで。
 焦る気持ちと、意図しない加速と、雨に濡れた道とが相まって、僕は思い切り転んでしまった。
 多分、足がスピードについていけなくなったんだと思う。
 気がついたら、視界が大きく揺れて体が傾いていた。その後に脇腹に鈍い痛みを感じ、少し坂を転げ落ちた。
「……痛ぇ……」
 でも、立ち止まるわけにはいかない。梓と同じ電車に乗ったらいけないんだ。そのためには、早く駅に着かないと。
 ……じゃないと、梓を助けられない。
 僕は体をすぐに起こし、再び足を前に動かし始めた。
 もう目の前に、坂を下りきった先にある妙正寺川が見えていた。
走ると五分で着く中井駅に、びしょ濡れになりながら到着した。
 改札を抜け、下りのホームに着く。
「間もなく、一番ホームに、本川越行の、電車が、八両編成で、参ります。黄色い線の内側で、お待ちください」
 息を切らしながら、心の中で安堵のため息をつく。
 ま、間に合った……。
 これで梓より一本早い電車に乗って帰ることができる。
 ……そうすれば、駅で告白されることはない。
「……さむい」
 その代わり、僕の体は水浸しになったけど。
 車内に雨を垂れ流すことになるけど、二区間しか乗らないので許してください。
 頭から水をぴちゃぴちゃ垂らしながら、僕は電車に乗り込んだ。
 ドアがゆっくりと閉まり、中井駅を出発していった。

 電車の床をある程度水に濡らして、僕は沼袋駅で降りた。一向に弱まらない雨のなか、また僕は走って家へと向かい始める。
 今度は坂道もないので、転んだりすることなく、無事に家にたどり着いた。
「……なんとか、これで……」
 玄関で腰を落とし、息を切らしながらそう呟く。
 これで……大丈夫なはず。これで……梓は事故に遭わないはず。
「……これで、いいんだ」
 座り込んだまま、僕は視線を、水を吸った靴に向ける。
「これでっ……いいんだっ」
 梓の想いを踏みにじって、僕は梓を助けることを選んだ。その申し訳なさと、ついさっき間近で見た動かない梓の姿とが重なって、身が引き裂かれそうな思いになる。
「だって……こうしないと、こうしないと駄目なんだから……!」
 歪んで見える靴と、潤みを帯び始めた声が、今の僕の気持ちを示している。
 ふいに、「昨日」聞いた彼女の声が心の中でフラッシュバックする。

 ──ねえ、凌佑……好き、です

「っ……」
 なかったことにした彼女の想いは、何回僕の記憶に残っているんだ。何度だ。何回なかったことにした。
「……これで十四回目だよ……!」
 僕の記憶には、十四回分の「なかったことにした梓の告白」が残っている。全部、しっかりと焼きつけている。
「ぁぁぁぁ……!」
 それが、苦しくて、苦しくて。叫び出したいほど、怖くて。
 少し温かい水が、僕の手に零れ落ちた。
 さっきまでの雨とは、また違うものだった。
 そして、僕がゆっくりと瞳を閉じて、何も考えないようにし始めた頃。
 玄関のドアが、開いた。
「凌佑、傘返しに……」
 そこには、ちゃんと雨に濡れずに帰って来た幼馴染の姿があった。
 よかった……ちゃんと、傘使ってくれた……。
「って、どうしたの凌佑! てっきり傘ふたつ持ってるのかって思って……びしょびしょじゃない!」
 僕が身体中から水を滴らせているのを見て、梓は家の中に入ろうとした。でも。
「……やめて」
 僕の脇を抜けようとする彼女を、手で制した。視線は、下に向いたまま。
「な、なんで。早く着替えて体拭かないと風邪引いちゃうよ!」
 構わず靴を脱ごうとする梓。きっと、脱衣所に行ってタオルを持って来ようとしてくれたんだろう。
「……やめてって! いいよ!」
 思わず、声が荒くなってしまった。
 普段大きな声を出すことがないからか、梓はびっくりして靴を脱ぐ手を止めた。
「……ごめん、大きな声出して」
 小さく、謝った。
「……ごめん、今は優しくしないで……少し、ひとりにさせてくれないかな……?」
 変わらない梓の姿をもう一度見ることができて、嬉しかったんだ。ホッとしたんだ。
 でも、今、梓といると、梓に優しくされると、僕がおかしくなる気がしたんだ。
 だから、そう言った。
「で、でも……」
「お願いだから……頼む……」
 なおも食い下がろうとする彼女に、俯いたままお願いする。
「……落ち着いたら、連絡するから……そしたら、家泊まりに来ていいから……お願い、今は……ひとりにさせて……」
「……わかったよ……で、でも。ちゃんと着替えて体拭くんだよ? お風呂も入ってね?」
「わかってるって……」
 ようやく諦めてくれたか、梓は折り畳み傘を僕の隣にそっと置いて、ドアに手をかけた。
「傘、置いておくね。……落ち着いたら、連絡してね……じゃあ、またね。凌佑……」
 でも、どこか不安そうな声をさせつつ、梓はそう言い残し、僕の家を後にした。
 ドアがバタンと閉まる。その瞬間。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 家の中いっぱいに、僕の行き場のない叫びが、こだました。

 あれからどれだけの時間が経っただろう。雨の降る音だけが、延々と聞こえ続けた。
 僕は、玄関から動けないまま、まるで縛り付けられたかのようにその場に座り続けた。
 時折「っくちゅ」と僕のくしゃみが雨音に混じるようになってきた。
 ……体が冷えてきたんだな……。当然か。梓に言われたこと、何ひとつやってないんだからさ。
 それでも、動く気にはなれなかった。
 鉛に取りつかれたかのように、僕の気持ちは、深く、深く、濁った水の底に沈んでいきそうだ。
「っくしゅ」
 段々と意識が落ちていきそうだ。
 いっそこのまま、僕のこの気持ちも一緒に、闇の中に沈めてくれれば、いいのに。
 
「凌佑! 凌佑! しっかりして!」
 次に意識が戻ったとき、僕は飴細工のような綺麗な目と目が合った。その瞳からは、星が零れているんじゃないか思うくらい大粒の涙が落ちていた。その涙は、僕の頬を濡らす。
「だからちゃんと着替えてって言ったのにっ! 連絡ないから心配になって来たら……! 凌佑のバカ!」
 そっか……僕、連絡しないで落ちたのか……。それは、悪いことしたな……。
 梓は、僕の額にそっと手を当てる。
「っ……熱、出てるよ……! 早くちゃんと横になって寝ないと! 立てる?」
 ああ、辛い。体もそうだけど、やっぱり優しくされるのも、滅茶苦茶しんどい。
 それに、何が苦しいって、心のどこかで、梓が心配してくれたことを嬉しく思っている僕がいるのが、一番苦しい。
 梓に肩を貸され、僕は玄関から部屋のベッドに連れて行かれる。
 部屋に入ってすぐ右に置いてあるタンスから、梓は僕のパジャマと替えの下着を持ってきた。
「とりあえずこれに着替えて。私は外に出てるから、ちゃんと着替えるんだよ」
 そう言い、梓は部屋の外に出て行った。
 まあ、これ以上この濡れた制服でいる意味もないし、そろそろ本格的に体が重くなってきてまずいから、僕はゆらゆらと体をふらつかせながら、梓の出した服に着替えた。そして、力尽きたようにベッドに倒れこんだ。
「着替えた? 入るよ」
 と言いつつ梓は僕の部屋に戻って来た。着替えている間に何か用意したのか、手元で何かやっている。
「はい、冷えピタ貼るから、じっとして」
 彼女は僕のおでこにペタっと冷感がするものを貼りつけた。心地よい感覚が、そこから流れる。
「体拭くから、ボタン開けるね」
 続けてタオルを持って梓は僕のパジャマのボタンを開け始めた。
「……シャツ、めくるね」
 全部のボタンを開け、梓は一言断ってから、僕のシャツをめくった。
 無言になりながらも、梓は僕の上半身をタオルで拭いていく。
「はい、次は背中拭くから、うつぶせになってね」
 またボタンを閉める彼女が言うままに、僕は体を転がす。
「ありがとう。はい、タオル入れるね」
 濡れていた体は、スッキリと乾いた状態になった。
「よし。……あとは、とりあえず寝てね。きっと、そうしたら良くなるから……」
 枕元に座りながら、梓は僕の体をポンポンと優しく叩きながら、寝かしつけようとしてくれた。さすがに疲れていたのか、体が休みたがっていたのか、一分も経たずに僕は再び意識をベッドの中に落としていった。

 目が覚めたのは、日をまたいだ深夜二時だった。枕元に置いてあるスマホで時間を確認した。
「あ、起きた?」
 僕が動いたのを見て、隣に座っていた梓がそう声を掛けてきた。
「……うん、起きた。……もしかして、ずっと起きてた……?」
「う、うん……だって、起きたとき、私が寝てたら、あれだしね」
 彼女は頬を掻きながら、持っていた文庫本をパタリと閉じ、立ち上がる。
「お腹空いた? おかゆ作ってあるけど、食べる?」
「あ、ありがとう……食べます」
「わかった、今持ってくるから。ちょっと待ってて」
 梓は部屋を出て、台所に向かっていった。
 その優しさが、眩しかった。目を逸らしたくなるほど、眩かった。
 梓が作ったおかゆは、とても食べやすく、用意していた分のほとんどを僕は食べてしまった。
 結局、この日、僕は梓に告白されることはなかった。
 朝になる頃には、熱も引いて体調がよくなり、登校できるくらいのレベルまで回復した。
「真面目に助かった……ありがとう」
 学校に向かう朝。繋ぐことのない手は、フラフラとさまよいながらズボンの裾をキュッと握る。
 そして、問題の場所。
 前回は。この場で車が赤信号を無視して突っ込んで来た。
 離した手を探した先に、彼女は消えてしまった。
 今回は、信号を渡る前に目と耳とで何もないかを探る。
 ……よし、大丈夫。問題ない。
 最後の一歩を渡り切ったとき、僕は心の底からホッと一息ついた。
 ……助かったんだ、これで、いいんだ。これで。

 *

「はい、筆記用具置いてー後ろから答案用紙集めてー」
 期末テスト最終日、最後の数学のテストが終わった。試験監督の先生が答案を回収していき、教室を出る。
「終わったぁー!」「来たぜ、これで俺等は自由の身だ!」「俺たちの時代の到来だ!」とかなんとか騒ぐクラスメイトがいるなか、
「おっし、テストも終わったし、プール行く日程決めようぜ! 皆」
 僕の友達かつ、梓や羽季ともつるむモテたい系男子、練馬佑太もテンション高めでそう話しかけてきた。
「お、そうだね、どうしよっか」
 羽季も僕と梓の席の近くにやってくる。
「僕はいつでもいいよ。大丈夫」
「私も、いつでも行けるよ」
 部活に入っていない僕等四人は、基本長期休みに予定は入らない。よ、言うか少なからず僕は。
「あれ……いつでもで大丈夫なの? おふたりは」
 意味ありげにニヤつき顔を浮かべる佑太は、僕の肩に手を回し、耳元で何か囁いてくる。
「いいのか? ……デートの予定とか立てなくて?」
「……いいよ、別に……」
「はーい席つけーホームルーム始めるぞー」
 すると、担任が教室に戻ってきた。一旦教室内のお祭り騒ぎは収束し、落ち着きが取り戻される。
「──テストは終わったけど、授業はあと数日残っているからなーまだ羽目は外すなよー」
 よし、じゃあ終わり、と担任は号令を促す。
「きりーつ、れい」
「「さよならー」」
「今日は完全下校で掃除もないから早く学校から出ろよー」
 ホームルームも終わると、さっきのお祭りがまた帰ってきた。
「な、どっか寄って計画立てようぜ!」
 佑太は僕と梓のもとに駆け寄ってそう言ってくる。
「……ほんと、佑太はテンション高いよな……」
 僕はいつもこんな感じの友達に、どこか羨ましいっていう思いを持ちながらそう言う。
「だって、楽しんだほうが面白いだろ? 高二の夏は一度しか来ないんだぜ?」
「……留年しなければな」
「ちょっ、冗談きついな凌佑」
「練馬の場合冗談で済まないかもしれないからねー」
「え、石神井まで?」
 まあ、この四人組、佑太と羽季はテンション高め、それを見つめているのが僕と梓っていう立ち位置で。
 話は大体佑太か羽季から始まる。
「なあ、凌佑の家で計画立てようぜ?」
「は?」
 急に言われて、素っ頓狂な声をあげてしまった。
「い、いや、まあいいけど」
「おし、決まりな。じゃあ、駅向かおうぜー」
 ……ほんと、テンション高いよな。
 多分、僕はそういう軽い感じで、誰かと接することはできない。

「凌佑の家に遊びに行くの久々だなあ、一年の学祭準備で遅くなったとき以来かな?」
 佑太の提案で、僕の家で計画を立てることになった。
 家に上がりながら、佑太がそう口走る。
「ああ、そんなこともあったね。練馬は保谷の家泊まったんだっけ?」
「俺の家、学校から遠くて、帰るの面倒だったから、そうした」
「ふーん」
「はい、とりあえず僕の部屋で待ってて。今飲み物とお菓子持ってくるから」
 僕は佑太と羽季を部屋に入れ、台所に向かった。ちなみに、梓は一旦家に帰って着替えてから僕の家に来るようだ。まあ、自然だね。
 冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースとポテトチップス、カントリィマアムを持って部屋に戻る。
 すると。
「……何やってんの? ふたりとも」
 何やら僕の部屋を物色している佑太と羽季の姿があった。
 佑太はベッドの下、羽季は勉強机の引き出しを開けて、何かを探しているようだった。
 って、いや、まあ何を探しているかなんて想像つくけど……。
「いや、その……普段、どういうの使って致しているのかなあって気になって」
「ははは、ほら、あれだよ。保谷がもし特殊な性癖持ってたら、梓に気をつけてって言わないしね、うん」
 僕は部屋の真ん中に置いてあるテーブルに今持ってきた飲み物とお菓子を置く。
「……で、羽季が今手に持っているそれは?」
 見逃してないからな、僕が部屋に入ったとき、サッと羽季が背中に何か隠したの。
「ああーあれだよ、うん。えっと……トレジャー?」
 僕がそう聞くと、あからさまに視線を外し、下手くそな口笛を吹き始める羽季。
 いや、誤魔化しかた……。
「誰が隠語で答えろと言った」
「……どの子で一番お世話になった?」
「言うわけないだろ」
 僕はゆっくりと羽季のもとに近寄る。
「さ、とりあえず返して貰おうか」
 背中に隠している「それ」を取り返そうと僕は手を伸ばした。
「わ、渡すものか、これを梓に見せるまでは断固として返さない! 練馬、パス!」
 羽季は持っていた本を佑太に投げる。
 本のページがパラパラと舞いながらそれは佑太の手元に届く。本を手に取った佑太はページを眺め、一言。
「凌佑、お前やっぱり高野みたいな少しおとなしめな子が好きなんだな」
「っ、よ、余計なお世話だってっ」
 ……そうだよ。僕は、本当は好きになったらいけないんだ。
 今度は佑太のもとへ駆け寄るが「パスパース」と羽季に返ってしまう。
「ほんとだ……このグラビアの子、なんとなく雰囲気は梓に似ているね」
「だっ、だから!」
「はい。練馬パス」
「ほーい、ナイススロー。しかも、そこらへんのページだけ、なんかよれているっていうか使用感があるというか」
 使用感とか生々しいこと言うなし……。
 そんなループを何度か繰り返した頃。
「返せって言ってるだろ!」
「お待たせ……凌佑、来たよ……」
 僕が羽季に詰め寄ってそう言うのと、梓が僕の部屋に入ったのが重なり、言葉がダブる。
「ど、どうかした? 凌佑」
 血の気が引くような、そんな思いにさらされる。
「あ、梓ようやく来たー。ほい、これ見てみて。保谷のお宝本」
 僕の腕を抜け、羽季はドアの前に立っている梓にさっきまで取りあっていた本を渡す。
「な、なに……? へ、こっ、これ……っ」
 梓はページに視線を落とす。と、みるみるうちに顔が発火してきた。
「こ、これ……凌佑、の……?」
 恥ずかしそうに声を小さくして、梓は尋ねる。
「うん、保谷の」
「へ、へー……ま、まあ凌佑も男の子だもんね……そういう本のひとつやふたつ持っていてもおかしくはないよね……」
 ……最悪だ……。いや、見られること自体はいい。そんな過激な本じゃないから。ただ。
 これまで、梓にそういった類いのものを見られたことはなかった。ときどき自分から話題を振るくせに耐性はないから、すぐにこうなってしまう。ドラマやアニメのお色気シーンとかサービスカットが流れても同じ。
 それに、男女を意識させるこういうもの見せて、梓がどういう行動に出るかわからないのも怖いんだよ……今は。
「はい……」
 僕の手にポンと梓は本を置き、そそくさと僕から距離を取る。
「梓―保谷は普通の性癖みたいだから安心していいよー」
「えっ、あ、安心してって……え?」
 あー、もう駄目だ。頭の回線がショートしてる。
 ……仕方、ないか。
 僕は無言のまま机の引き出しのなかにその本をしまい、部屋を出ようとした。
「ちょ、どこ行くんだよ、凌佑」
 佑太が慌てて引き留めようとする。けど。
「……ごめん、ちょっと風に当たって来る」
「お、おいっ……」
 僕は構わず部屋を後にして、外に出た。

「ふう……」
 沼袋駅近くにある平和公園のベンチに腰掛け、澄み渡る青空を眺めていた。
 これで梓も落ち着けたかな……。
 あの場に僕が居続けたら、気まずい空気のまま、話が始まっただろう。それはなんとなくぎくしゃくした関係に繋がりそうだから嫌だった。僕は別にプールはどこでもいいしいつでもいいから席を外して先に話してもらったほうがいいだろうと思ったから、こうして外に出てきたわけ。
 目の前にある広場には、緑いっぱいに草むらが続いていて、ところどころタンポポの綿毛がひらひらと舞っている。
 辺りには自転車に乗る練習をしている親子や、キャッチボールをしている小学生など、子供たちの歓声が響いている。
 僕も小学生とか幼稚園のとき、ここで梓とよく遊んだっけな……。
 梓は今でも変わらず運動音痴で、キャッチボールとかしようとするとほぼボールを取りそこなった。勿論、柔らかいボールでやっていたけど、何回かに一度は梓のおでこにボールを当てて泣かせるってこともしばしばあった。それで父親に怒られたこともあって、そのうち梓とここの広場で遊ぶときは、梓のやりたいことに付き合うようになった。花摘みとか四つ葉のクローバー探し、おままごとも僕は一緒にやった。当時遊びたい盛りの年だった僕にしては、もっと体を動かすことをしたかったし、男友達からからかわれたりするのも嫌だったから複雑な気持ちもしていたけど、梓に服の裾をつかまれて「……クローバー探そう?」とか言われると、なぜか断れない僕もいた。
 懐かしいな……。
「危ないっ!」
 そんな思いに身を沈めていると、甲高い声が近くからした。
 声がしたほうを見てみると、自転車の練習をしている子供が歩いている高校生とぶつかりそうになっていた。
「すみません、すみませんっ」
 付き添っていた母親はぶつかってしまった高校生に頭を下げている。幸い、高校生のほうもそれほど気にしている様子はなく「大丈夫ですよ、気をつけような、ぼく」とだけ言い、また歩いていった。
 まあ、その後、自転車をこいでいた子は怒られていたけど。
 さ、そろそろ戻るか……。
 そう思い、ベンチから立ち上がり、家へ帰ろうとしたとき。
「凌佑……」
 僕の正面に、制服を着たひとりの男子が立っていた。

 ベンチの両端に座り、おもむろに話が始まる。
「その……悪かったよ、お前のエロ本漁って……」
 近くにある自販機で買ったコーヒーを一口飲んでから、彼はそう謝った。
「べつに気にしてないから、いいよ……」
「……気づいているだろ? 凌佑だって」
「何が?」
 真面目な雰囲気を描きながら、彼は声を低くして続ける。
「……高野がお前を好きだってこと」
 ふと、僕と佑太の間に無言の時間が流れる。子供たちの楽しそうな声が、代わりに耳に入ってくる。それに混ざるように、救急車のサイレンが近づいては遠ざかる。
「……僕が気づいてないとでも思った?」
 気づいてないわけないだろう。だって。
 もう「告白されたこと」だってあるんだから。僕しか覚えていないけど。
「ま、だよな……。凌佑が気づいてないわけないか。……俺はさ」
 ひとつ間を持たせて、大事なことを伝えるかのように彼は、ゆっくりと呟いた。
「高野と凌佑がくっついて欲しいんだよ」
「…………」
「出会った頃から気づいてた。あ、高野って凌佑のこと好きなんだなって。そこからもう一年半だ。未だふたりの関係は幼馴染のまま。段々俺のほうもやきもきしてきてさ」
 佑太は、片手に持っていたコーヒーを一気に飲み切り、ベンチの端に置いた。
「……無理やりにでも凌佑のそーいう部分を見せたら高野も少しは意識するんじゃないかと思って、ああしたんだ。悪気はなかったけど……やり過ぎたよ、ごめん」
 わかっていた。佑太は、そういう奴だって。
 でも、それが僕にとって果たしてプラスになるかどうかなんて、わからなかった。
「……いいって、もう。……そろそろ家戻ろうって思ってた頃なんだ。行こうぜ」
 そう言い、僕も一緒に買ったコーヒーを飲み切った。
 いつもより、苦い味がしたように思えた。

「あ……保谷帰ってきた」
 戻った僕と佑太を見て、開口一番羽季がそう言う。
「……その、ごめんね」
「いいよ。別に。で、いつどこに行くことにしたの?」
「ああ、うん。練馬のとましえんにすることにした」
 先に断っておく。練馬とは、もちろん佑太のことではない。東京都練馬区にある遊園地のことを指しているのだろう。
「うん、わかった。日にちは?」
「えっと、お盆前がいいってことで、八月のあたま、三日で考えているけど、いい?」
「オッケ―、わかった。そこは空けておく」
「よし、じゃあ決まりだね! 楽しみだなープール!」
 プールに行く予定も立て切った僕等四人は、その後バナナが飛んだり甲羅が投げられたりするレースゲームをして、テスト終わりの解放感を味わっていた。