沼袋駅を出て、徒歩十分のところに僕と梓の家はある。平和公園の横を抜けて、しばらくしたところに並んだ一軒家ふたつが、僕と梓の家。
 駅から家に向かう間、お互い一言も話すことはなかった。梓がそうなったのは、きっと恥ずかしさとか嬉しさとか、そういったプラスの感情からだろうけど、僕がそうなったのは正直なところ恐怖からでしかない。
「じゃ、じゃあ……支度できたら、行くから」
 家の前で彼女はそう言い、僕と別れた。小走りで家の中に入って行くのを見て、僕も折り畳み傘を閉じ、玄関に入る。
 ……できるなら、何も起きないでくれ。
 僕の願いはただひとつ、それだけだった。
 普段から家の掃除はしているから、梓が来るからといって特段何か慌ててすることはない。勿論、部屋にそのまま梓に見られて困るようなものも置いてはいない。ちゃんとそういった類いのものは勉強机の引き出しにしまってある。だから、問題はない。
 部屋に入り、すぐに制服から部屋着のジャージに着替える。梓が来るぶんには、何か気張る必要がない。まあ、羽季が来るってなったら、それなりに格好は選ぶかもしれないけど。別に、羽季を特別視しているわけじゃない。梓といる時間が長すぎて、そうなっているだけだ。
 ベッドにダイブして、しばらく顔を布団にうずめる。
 ……何も、起きないでくれ。今度こそ、今度こそは──。
 僕は、顔を少し上げて、スマホにつけた砂時計の形をしたストラップを見つめる。
 ──こいつを使うことがありませんように。
 そのまま僕はベッドで寝転がりながら、梓が家に来るのを待った。ボーっと部屋の天井を見つめること約一時間。僕の部屋を出てすぐにある玄関の鍵がガチャガチャと開く音がした。
「お、おじゃましまーす……」
 ドアの向こうから、聞きなれた彼女の声がする。僕はベッドから起き上がり、部屋を出て梓を出迎えに行く。
「いらっしゃい」
 梓は一瞬僕のほうに視線をやると、照れたように頬を染めてそっぽを向いてしまう。
 靴を揃えて置いてから、彼女は僕の家に上がり込む。
「あ、この写真、懐かしいね。……まだ飾ってくれているんだ……」
 彼女は、玄関に置いてある一枚の写真を指さしながら、思い出に浸るような声で、そう言った。
 そこにあるのは、幼稚園のとき──まだ僕の母親が生きていた頃──に保谷家・高野家合同で行ったキャンプの写真だった。
 写真の真ん中には、満面の笑みを浮かべつつピースサインをしている僕と梓が、その両脇に僕の両親と梓の両親が映っている。
 でも、毎日ここに来ている梓はこの写真も毎日見ているはず。……やっぱり緊張しているな。
「……出張、いつ帰って来る?」
 僕は、少しでもその写真から話題をそらしたくて、梓を部屋に連れながらそんなことを聞いた。
「えーっと、明日の夜には帰って来るって言ってた」
「お母さんもそれに?」
「うん。ひとりでも大丈夫でしょ? 隣には凌佑君もいるしって言ってお父さんについて行っちゃった」
 ……狙っているんですか? お母さん。僕は気づいてますからね。ええ。
「ふーん……そっか」
 部屋に入り、梓は部屋に荷物を置いて勝手知ったる様子でベッドに腰を下ろした。
「……き、綺麗にしているんだね、部屋」
「何? もうちょいゴミまみれにしていたほうが良かった?」
「い、いや、そういうわけじゃなくて……ただ、あれだったら掃除してあげようかなーって思っただけで……」
 ……すぐに会話は途切れ、外から聞こえる雨音が学習椅子に座る僕の耳に響く。
「こ、今晩何にする? 何か食べたいのある? 凌佑」
「そうだね……今日はカレーが食べたいなぁ……」
「か、カレーかぁ、うん、材料あるし、買い物行かなくていいね、うん」
 …………。
「雨……止まないね……」
「うん、いつまで降るんだろうね」
「家出る前にテレビ見たら、明日の夜まで降りそうなんだって……」
「そっか、あれ、出張ってどこなの?」
「え? あ、えっと……金沢、かな」
「新幹線、止まらないといいけどね」
「そ、そうだね……」
 …………。
「あ、あのさ……さっきのことなんだけど……」
 その沈黙に耐えられなくなったのか、ベッドに腰かけている幼馴染は切り出した。
「……いいよ、付き合おう?」
 一時間気持ちを落ち着かせ続けた。だから、淀みなくその返事は言えた。
「……ほ、ほんとうに……?」
「うん……」
「な、なんか……こんなあっさりでいいのかなぁ……なんて、思ったりもするんだけど……」
 はははと少しわざとらしく乾いた笑いをする梓。
「もっと劇的なほうがよかった? それとも、ロマンティックに決めたほうが、いい?」
「いやいや、私のほうから告白しておいて、そんなことリクエストするのは筋違いって言うか……」
 彼女はアワアワと首を左右に振りながらそう答える。
「う、嬉しいんだ……凌佑がいいよって言ってくれたことが……」
 ベッドのシーツをキュッと掴みながら、彼女は二の句を継ぐ。
「よ、よろしくお願いします……」
 そして、僕と梓は幼馴染から恋人になった。
 でも、僕は知っている。
 この関係が、きっと長続きしないことを。
 どんなに願ったって、終わってしまうことを。

 その後、僕の部屋でなんとなく時間を一緒に過ごし、一緒にカレーを作り始めた。
 いつもの光景だ。たいていふたり一緒に夕食を作るのが習慣になっている。朝はさすがに僕が起きられないので梓に任せっきりになっているけど。
 梓は毎日僕の家に来ては、夕食を作りに来てくれる。僕が風邪を引いて動けないときも、テスト前のときも。
「あ、凌佑、ご飯炊かないと」
「ああ、そうだね、危ない危ない」
 キッチンに並ぶ僕と梓。梓は手際よくじゃがいもの皮をむいていきながら、一番大事なお米の存在を思い出し僕にそう言う。
「……あ、そういえば。いつか梓、他は全部ちゃんと作ったのに、ご飯だけ炊き忘れて僕に謝り倒したときあったよね」
 僕は思い出したかのようにそんな思い出話を始めようとする。
「そっ、それはもう忘れてよ凌佑」
 確か、中学三年のときだっただろうか。僕が私立高の滑り止めを受験した日。
「あんときは梓大泣きしてたよなー可愛かったよなー」
「っ、だ、だから忘れてよー」
 その日もカレーを僕の家で作ってくれていたのだけど、ご飯を炊き忘れてしまった。
「家にお米がないって言って泣きながら僕にしがみついて謝ってたよなー結局その日慌てて梓の家行って梓のお母さんからお米貰ってなんとかしたっけなー」
「も、もう凌佑の意地悪……忘れてって言っているのに」
 僕はお米を研ぎ終わり、炊飯器にセットしてスイッチを入れる。
「梓のお母さん大笑いしながらお米渡してくれたよ、『あの子、そんな単純なことに気づかないんて、可愛いわねー』って」
 彼女のほうを振り向くと、切っているにんじんくらい顔を赤くして、体を小さくしていた。
「だ、だって……受験で疲れて帰って来るかな、って思って……それなのにご飯がないって辛いでしょ……?」
 そう言いながら、彼女はにんじんを一口大の大きさに切り終わる。
「だ、だから気づいたとき……慌てちゃって……も、もう忘れてよ」
「……できるかなぁ」
「も、もー」
「ははは、ごめんって、もう言わないから」
「言わないだけじゃ駄目、忘れて、お願いだから」
「はいはい」
 ……ごめん、多分一生忘れられない。だって、その日、僕は梓への恋心を意識したんだから。
 そんな感じに楽しく会話を取りながら(家に来たときのあの硬さはなんだったんだろうか)、僕と梓はカレーを作った。
 いや、梓は。かもしれない。
 ……僕は、少し苦しかったから。