三度目の世界で、僕は君と一緒に春を迎えたい。

 六時を過ぎた頃に、佑太と羽季は帰っていった。ふたりを駅まで送っていったその帰り道。
「ねえ、凌佑が外に出たとき、練馬君と何話してたの?」
「え? あれだよ、男同士の熱い話だよ」
「うそうそ。練馬君はともかく、凌佑はそういうキャラじゃないでしょ?」
「……バレたか」
 ふふっと微かに笑みを浮かべる梓は僕を真っすぐ見つめながら言う。
「何年幼馴染やってると思ってるの?」
「敵わないなあ……」
 諦めたように僕は両手を広げて見せる。
 けど、内心焦っていた。
 いやいやいや。本当のこと言うわけにはいかないし、どうやって誤魔化す?
「で、本当のところは何を話していたの?」
「……秘密」
 誤魔化せてねえし……もういいや、これで通そう。きっと佑太も言わないだろうから、これでいい。うん。
「えー? 気になるなぁ。教えてよ、凌佑」
 彼女はおどけるようにして僕の前に踊り出し、両手を腰につけて立ち止まった。
「……別に、大したこと話してないよ。佑太がモテるにはどうしたらいいかの相談会」
「それを大したことないって言われる練馬君が不憫で仕方ないけど……あの流れでそれ話したの?」
「……どうだろうね?」
「えー? 何か今日の凌佑、秘密作りだなあ」
「なんでもいいだろ? それより、今日の夕飯どうする? 買い物するなら今寄っていこうと思うけど」
 僕は彼女を追い抜きつつそう言う。やはり時間が時間だからか、お腹がすき始めている。夏とは言え、この時間だと陽も沈んでいるし、もう夜だから。
「あっ、そうだね……でも結構時間遅くなったし……テスト終わった記念にたまには外で食べない?」
「珍しいな、外食だなんて。いいけど、どこにする?」
「うーん、ちょっと遠いけど、ファミレスにしない?」
「いいよ、まあ、いい散歩にはなるよ」
 家から一番近いファミレスは、駅を通り過ぎて北側にある。因みに僕等の家は南側。ちょうど反対。駅前にも多少お店は並んでいるけど、きっと平日のこの時間帯だと混んでいるだろうから、駅から少し離れたところにある店のほうが空いているかもしれないし、別に悪くもないだろう。
 そうと決めると、僕等はまた戻ってきた道を引き返し、再び沼袋駅のほうへ向かい始めた。

 狙い通りか、駅から少し外れたところにあるファミレスは他のお店より若干空いていた。おかげでスムーズに席に座ることができた。
「何食べる、梓?」
「ううん、そうだね……私は焼き野菜と和風ハンバーグにしようかな。凌佑は?」
「えっと……じゃあ僕は若鶏の竜田揚げにしよう」
 やはり高校生だからか、財布に優しい値段のものをお互い注文することになった。ステーキとか色々食べたいものはあるけど、お金も有り余るほどあるってわけでもないから、そこは堅実にいく。
 注文も済ませ、料理を待つ間、プールの話をすることになった。
「プール行くことになったけど、泳げないのどうしようかな……」
「……別にいいんじゃない? そんなガチで泳ぐ場面なんてないだろうし、浮輪とか持っていけばいいと思うよ」
「そ、そうかな……?」
「それとも、今から競泳選手目指す?」
「え、遠慮しておきます……」
 人の話し声が交錯する店内で、向かい合わせになりながらそんな話をしていく。
「水着も買わないとな……多分今家にあるの、サイズ合わないだろうし」
 ……身長が、だよね? いや、知らないけど。前の水着がいつ買ったのかなんて僕知らないけど。
「お待たせしましたー」
 すると、頼んだ料理がテーブルに運ばれてきた。一旦プールの話はそこで止めて、僕等は熱々の夕飯を美味しくいただいた。

 **

 夏休みに入り、宿題をコツコツ片づけたり、家で本を読んだり、たまに梓とどこか出かけたりしているうちに、約束のプールに行く日になった。
 待ち合わせ場所は、西武線の練馬駅だった。プールに行くにはもってこいの灼熱の気温と天気で、改札前で待っているだけで汗をかいてしまう。
「暑いね……やっぱり」
 白のノースリーブのブラウスから伸びる、スマホも手のひらに入らないような小さな手でパタパタと扇ぎながら梓は僕に言う。少し困ったようにしながら浮かべる笑みは、一瞬だけ僕の体感温度を高くさせる。
「そうだね……」
 僕は視線をあちらこちらにさまよわせながら、とりあえずそう返しておく。
 ……いや、なんか梓の脇が見えるのが恥ずかしくて……。
 別に脇フェチとかそんなんじゃないけど、普段見ることのない梓の白色の肌を見ると、少しドキドキしてしまう。
 そ、それに……。
 普段あまりノースリーブ着て外出ないのに、なんで今日は着ているんだよ……。「恥ずかしいから」とか言って家の中でしか着なかったのに。
「悪い、待ったか?」
 僕がドギマギしていると、これまた夏っぽい涼しそうな格好をした佑太と羽季が待ち合わせ場所にやって来た。
 佑太は何か英語がプリントされているシャツって……こいつ、意味わかってこのシャツ着てんのか? さすがに隣歩くの恥ずかしいな……梓のとは別の意味で。
 羽季も短い丈のジーパンに黒のシャツと、梓とは対照的な雰囲気の服。天使と悪魔(いや悪意はないよ)、ふんわりと元気、そんな対照図。
「凌佑、暑くないの? ワイシャツって」
 そして僕は水色のワイシャツ。半袖だけど、そこそこ厚い服だから、かなり暑い。
「今後悔している途中だから、言わないで」
「おう、早く入ろうな、プール」
 うん。激しく同意するよ。でも、僕の近くには来ないでくれ。恥ずかしいから。
 全員集まった僕等四人はそのまま改札を通り、とましえんに向かう電車に乗り込んだ。

 やはり電車に乗る間、視線を集めたようにも感じた。あまり、いい意味ではない視線を。
 それでもこの練馬佑太という男は基本ポジティブだから、
「なあなあ、なんか俺等周りから熱い視線集めてなかった? やっぱ、これ俺の時代が来たってことなのかなあ!」
 電車を降り、とましえん最寄り駅のホームを歩きながら彼はそう言った。
 ああ、無知って最強。
「いや、多分視線集めたの練馬の服でしょ。意味わかって着てる?」
「え? なんて意味なの? これ」
「僕はチェリーボーイ! 誰か貰って下さい!」
 ……言ってしまった。彼は知識を得てしまった。
「いや事実だし、いいんじゃね?」
 ああ、彼は僕の予想を超えたよ。
 意味を知っても平然と歩き続ける彼は、きっと愛されるアホなんだろうなと僕は思ったりした。
 僕は絶対そんな服恥ずかしくて着られないけど。……事実だよ、悪いか?
 園内に入り、一旦着替えるため男女で別れる。
「なあなあ、ふたり、どんな水着だと思う?」
 男子更衣室で、例のシャツを脱ぎながら、佑太はそう聞いてくる。
「……別に、興味ないし」
「またまたぁ。少しは気になるだろ」
「……全然」
 僕もワイシャツのボタンを外し、上半身裸になる。
 それからも佑太に色々とからかわれたりもしたけど、僕は意に介さず、それぞれ持ってきた水着に着替え、首からゴーグルをぶら下げて更衣室を出た。
 やはり夏休みということもあり、プールは子供連れで賑わっていた。
 更衣室の前で並んで立って待っていると、通りかかる人達から「ねえ……」「うん、いいね、物憂げそうな顔をしている人のほう」「格好良くない……?」とかなんとか聞こえてきたけど、とりあえずスルーした。きっと僕と佑太の隣に立っているイケメンのことだろう。
「ああ、水着の美女がたくさん……これだけで高い入園料を払った甲斐があるよな凌佑」
 既に少し鼻息を荒くさせている佑太が、興奮気味に言う。
「落ち着け佑太。あまりガツガツしているとモテないぞ」
「そ、そうか……」
 そして一分。
「み、見ろ凌佑、あそこにアイドルにすげー似た可愛い子いるぞっ」
 一分しかもたなかった……。
「はいはい……どこにいるの?」
 と僕は凌佑が指さしたほうに視線をやりその美少女を目で追っていると、別のほうから見慣れた顔ふたつが入ってきた。
「あ、来た来た、梓に羽季」
 太陽の光をバックに姿を現したふたりは「お待たせ―」と言いつつ僕等のもとへやって来た。
 さっきの私服の印象そのままの水着を、ふたりは身にしていた。羽季は一番メジャーどころなビタミンカラーの三角ビキニ、梓は上にラッシュガードを羽織って、下はひもの飾りがついていて少し可愛い。
 ……少し、可愛い。
「どーよ、練馬」
 ドヤ顔しつつ佑太に聞いて来る羽季。それとは対照的に、梓はどこか恥ずかしげな様子を見せ、体を縮こませていた。
「いや、普通に似合ってるよ。元気っぽいし」
「お、それはよかった。ね、梓のも可愛いでしょ」
「ああ、高野もすげー可愛いじゃん。な? 凌佑」
「あ、ああ。うん」
 直射する太陽を片手で覆いながら、僕は頷く。
「だってさ、良かったね、梓」
「う、うん……」
 手をモジモジさせつつ、彼女は小さくそう呟いた。いつも伸びている長い髪もプールに入るためか結ばれていて、それが新鮮だったりもした。
「さ、とりあえず適当に荷物置いて、プール入ろうぜ」
「賛成、泳ご泳ごっ」
 一足先に佑太と羽季は僕と梓を置いてプールサイドにある草むらに向かう。ここにレジャーシートを引いて荷物を置いて動くのが基本の動線になる。
「梓も行こうか……ふたり、先行ったし」
「そ、そうだね」
 何年振りかに見る幼馴染の水着姿は、僕の心をどこかむず痒くさせた。
 きっと、夏の太陽のせいだ、なんてことを言ってみたいけど、そうじゃないから困るんだよな……。

「んじゃ、俺と石神井はウォータースライダー行ってくるから! ふたりも好きにしてていいよ」
 荷物の配置もそこそこに、佑太はそう言い残し水色の建物が映えるほうへ消えていった。羽季も「じゃあ、私も行くから、楽しんでね」とだけ残し後について行った。
「ど、どうする? 別に無理に泳ぎに行くことないと思うけど」
 レジャーシートの上、隣に座る梓に話しかける。まだ少しドキドキしていて、上手く話せる気がしない。
「えっと……じゃあ、私達は流れるプールに行かない? そこだったら、泳げない私でもなんとかなるだろうし」
「そ、そうだね……どうする? 一応色々持ってきてはいるけど……」
 僕はバッグの中から、ボールやボートを出してみる。
「あ、ボートいいね。それ乗ってみたいなー」
 向日葵のように無邪気な笑顔を浮かべる梓。やっぱり、こういうふうに笑うのは、僕の前だけな気がする。
 思い違いならごめん、だけど。
 その笑顔が、僕はやっぱり好きだ。
 普段は真面目な委員長なのに、こういうときは子供っぽく笑うタンポポも。
 アスファルトから反射される熱にも負けず「暑いねー」と苦笑いしつつ言ってくれるゼラニウムも。
 冬支度始める長袖から腕を伸ばし、飛んでいる赤とんぼを捉えようとするコスモスも。
 白い息漏れだす寒空に、少し俯くシクラメンも。
 やっぱり、僕は好きだ。
「凌佑? 凌佑?」
「あっ、ご、ごめんごめん。ボートね、オッケー。少し待ってて」
 我に返り、僕はボートに空気を入れるために息を吹き込み始める。
 久々に入れた空気は、僕の肺活量では少ししんどいもので、ボートが形を成す頃には、少し息が切れてしまう有様だった。

 ボートを小脇に抱え、流れるプールに僕と梓はやってきた。
 楕円に広がる、穏やかに水が流れていくプールはやっぱり子供で賑わっていた。
「……こいつら、なんでこんな元気なの……?」
 プールサイドで思わずそんなことを言う僕。……ほんと、子供は苦手……。
「凌佑、子供駄目だもんね」
「……高いテンションで動き回っているのとか、苦手」
「まあまあ。そう言わずに。きっと凌佑も将来子供できたらそう思わなくなるって」
 え?
 隣に立つ彼女のその言葉を聞いて、不意に固まってしまう。待て、待て待て。何を考えている僕。落ち着け。深呼吸。よし。
「……そうなるといいけどね」
「じゃあ、私達も入ろっか?」
「そだね」
 そうして、僕と梓は一緒に流れるプールに足を踏み入れた。心地よい冷たさの水が自分の体を包み込み、日に当たっていた皮膚をやんわり冷やしてくれる。
「ああ、気持ちいいー」
 つまり、そういうこと。
「涼しいね、凌佑」
 ラッシュガードを着たまま入った梓も、水のなかに入って気持ちよさそうにそう言う。一瞬、というかまあ、その上着が水に張り付いて体のラインが浮かんでくるのが……その。
「そ、そうだね、涼しいね」
「ねえ、ボート乗っていい?」
「いいよ」
 「やった」と言い彼女はよくあるいかだみたいな形をしたゴムボートに乗り込む。
 僕は梓がしっかりとボートに乗ったのを確認すると、後ろから少し押してみた。
「あっ、すごい、動いてるっ」
 その歓声を聞いて、少し調子に乗った僕は、押すスピードを速めてみた。
「わ、ちょ、はやい、はやいよ凌佑!」
 ただ流されていく人達よりは明らかに速くなるので、どんどん追い抜いていく。
 ボートの上からそんな声が聞こえてくるけど、少し意地悪して、構わず維持してみる。
「ストップストップ! 落ちちゃうって! きゃっ!」
 やり過ぎたかな……。
 梓はバランスを崩しボートから落ちてしまった。僕は慌てて水の中に潜って梓を探す。
 いた。案の定足をばたつかせている幼馴染が。
 僕は泳げない彼女を背中から抱き寄せて水上へと引き上げた。
「ごめんごめん、やり過ぎたよ」
「はぁ……はぁ……ほ、ほんとだよっ、私泳げないの知ってるのにっ」
 梓は頬に風船を膨らませ、僕をポカポカと叩いてくる。
「ごめんって、ごめん」
 なんて幸せな時間なんだろうって、思った。
 こんなふうに、遊ぶことができるなんて。
 できるなら、ずっとこの時間が続いて欲しい、そう思った。

「おっ、おかえりーどこ行ってた? ふたりとも」
 荷物を置いたところに戻ると、飲み物を飲みながらくつろいでいる佑太と羽季がいた。
「僕等は流れるプール行ってた。ウォータースライダーどうだった?」
「よかったぜ、なかなかにスリリングだった」
「そっか」
 僕もバッグにしまっておいたスポーツドリンクを口に含ませる。
「にしても、暑いなー水の中入っているときはそんなに気にならないけど、外にいるとめちゃくちゃ暑い」
「ね、ウォータースライダー待っている間きつかったよ」
 佑太と羽季が口を揃えて言うように、やっぱり暑い。今こうしてレジャーシートに座っているだけで、体に汗が浮かんでくる。
「とりあえず、昼にしない? どうする?」
「あ、私お弁当作ってきたよ、食べる?」
 佑太がそう言うと、梓は持ってきたクーラーボックスから三段に積まれている弁当箱を出した。
「……マジで? いいの?」
 僕のモテたい友達は、口をあんぐりと開けてそう言う。
「……ああ、女の子の作った弁当を食べるときが来るなんて……俺もう死んでもいいや」
「そ、そこまですごいものじゃないから、し、死んだら駄目だよ練馬君」
「ありがとう、高野。おかげで灰色の高校生活が一瞬で青色になったよ」
「そ、そう? ははは、それはよかったです……」
「ちょっと、練馬、梓が困ってるからそれくらいにしておきなよ。ありがとう、梓。ありがたく食べさせてもらうね」
 そういえば、何気に佑太と羽季が梓の弁当食べるのは初めてなのか……。いや、まあ一口あげたりとかはしたことあるけど、こうしてちゃんと食べるのは、って意味で。
「んんっ、うまっ」
 佑太は早速隅にある唐揚げにがっついた。
「凌佑お前、毎日こんなに上手い弁当食ってたのか?」
「……まあ」
「リア充は爆発してしまえ。いつまで幼馴染というポジションに甘んじているんだ」
「……別に、甘んじているわけじゃ」
「うるせぇ、俺はお前に嫉妬しているんだ。理不尽だろうがなんだろうが、言わせてもらうぜ。うめぇ……このおにぎりうめぇ……」
 忙しい奴だな……酒でも入ったのか?
「でも、梓って毎日保谷の弁当も作ってるんだよね? それに、朝と晩ご飯も一緒に作ってるって聞いたけど。あ、ほんとだこの唐揚げおいしい」
 みんなが唐揚げおいしいおいしい言うから僕も唐揚げ食べたくなったじゃん……。僕も箸を隅にあるきつね色の唐揚げに伸ばし、口に放り込む。
 うま……。
「うん、そうだよ」
「きーっ、知ってはいたがやっぱり羨ましくなるような関係だなぁ、おい」
「これで付き合ってないんだもんね、不思議だよ、もう」
 口々にふたりにそう言われ、思わず僕と梓は顔を見合わせた。
「……だから、顔赤くしながら見つめ合うんじゃねーよ、こっちが恥ずかしいわ」
 髪を結んでいるからか、顔がはっきりと見える。子犬のように小さな顔に浮かぶ大きくて穏やかな瞳はが、真っすぐ僕を見つめたかと思うと、少し頬を赤く染めて視線がそれる。
「まあ、色々あるんだよ、色々、ね」
 僕はそれだけ言い、おにぎりをひとつつまんだ。
 その色々は、誰にも言うことができない、色々なんだけど。
 その後、僕が強引に話題を変えつつ、梓が作ってきたお弁当は四人でペロリと平らげてしまった。
 この話題が続くと、きっと梓の心が揺れてしまう。そう、思ったから。

 お昼も食べ終わり、四人で波のプールに行くことにした。佑太と羽季は手ぶらで、僕は持ってきたボールを持って、梓は持参した浮輪を持って向かった。
「さ、入ろうぜ兄弟」
「誰が兄弟だ、いつ家族になったんだよ僕等」
「小さいことは気にするな、兄弟。人類皆兄弟って言うだろ? 兄弟」
「だからその兄弟やめろって、あれか? なんか洋画でも見て影響受けたのか?」
「…………」
「図星かよ」
 こういう単純なところ、別に嫌いじゃないけど……。
「さ、気張っていこうぜ兄弟」
 僕は水の中に入り、兄弟に……違う、佑太にゴムボールを投げかけた。
「お、いいもん持ってんな凌佑。ほい」
「まあな」
 そしてキャッチボールが始まると、羽季と梓もプールの中に入り「私もー」と混ざってきた。
 プールの中で四角形を描きつつ、回されるゴムボール。ときに暴投したり、波にボールがさらわれたりとなかなかに色々あったが、それなりに楽しむこともできた。
 最初は浅いところで遊んでいた僕等だったけど、そのうち深いところ、僕の足もつかなくなるくらいの深さのところまで移動していた。梓以外の三人は泳げるし、泳げない梓も浮輪をしているから大丈夫、と思っていた。
「凌佑、パース」
 佑太から回ってきたボールを受け取り、隣にいる梓に回そうとした。
「梓」
 僕の右手からボールが離れると同時に、プールサイドから笛の音が聞こえてきた。
 高い波が来ますよーっていう合図。
数十分に一回やってくる高い波は、それなりに僕等の体を揺らすし、なんなら顔が水の中に入ることもある。さっきまでは浅いところにいたから平気だったけど、果たしてどうか。
 そう、思ったとき。
 大きな波が僕の体を揺らした。やはり顔のところまで水は来たから、一瞬潜るような恰好になった。
 僕が視界を戻して、さっき投げたボールを探そうと梓の姿を求めると。
「え……? 梓?」
 さっきまでそこにいたはずの幼馴染の姿はなく、代わりに使っている人がいない浮輪がぷかぷかと浮かんでいた。
「……梓!」
 僕はその様子を見ただけで状況を察し、すぐさま水の中に視界を移した。
 やはり。
 浮輪の下に、体を揺らしている彼女の姿があった。
 数メートルの距離を一気に詰め、やはり驚かせないよう背中から抱き留め水上にあげる。
「大丈夫か? 梓?」
 浮かんだ浮輪を見て危険を察したふたりも、近くにやって来ていた。
「けほっ……けほっ……ご、ごめん……足がつって……多分波で浮輪からすり抜けてびっくりしちゃって……けほっ」
 よかった……息はしてる……。ホッと一息つき、僕は佑太に「ごめん、浮輪取って」と頼む。
「ああ、ちょっと待ってて」
 そう言い佑太は浮かんでいる浮輪のほうへ向かっていく。
「ごめん、浅いところで大丈夫だったからここまで来たけど、やっぱり危なかったね」
「ううん……別に凌佑が悪いわけじゃ……それに、ありがとう……すぐ気づいてくれて」
「梓がいないってわかってから速かったよね保谷。ばって潜って助けちゃうんだもん」
「ほい、浮輪。大丈夫か? 高野」
 佑太から浮輪を受け取り、梓につける。
「うん、ありがとう。大丈夫だよ」
「……足つったんだろ? 少し休もうか」
 僕がそう提案すると「そうだね」とふたりも言ってくれたので、一旦プールサイドに上がることにした。梓はまだ歩くのがしんどそうなので、僕が肩を貸して陸まで戻った。
 ……何事もなくて、よかった……。

 自分たちが引いたレジャーシートに戻り、一旦梓を休ませる。
「足は? 大丈夫? まだ痛いなら伸ばそうか?」
「だ、大丈夫だよ」
「ん、そっか」
 僕はバッグにしまってある飲み物を取り出し、また一口飲み込む。
「じゃあ、高野も大丈夫みたいだし、後は凌佑に任せるわ。俺と石神井、少しフラフラ遊んでくるから、よろしく」
「わかった」
 ふたり残されたレジャーシート。体育座りして俯く梓と、足を伸ばして座る僕と。
 陽射しが一段と強くなる、午後二時。
「……ごめんね、せっかくのプールだったのに、水差して」
 そんな詫びが、彼女の口から聞こえてきた。
「別にいいよ。気にしなくて。仕方ないことだし、僕の配慮不足だったし」
「そ、そんなっ」
「……梓もそう言うだろうし、僕もそう言う。埒が明かないから、この話はもう終わり。いい?」
 食い下がろうとする梓を制しながら、そう続けた。
 きっと、こう言ってもまだ責任を感じるような子だろうから。
「う、うん……」
「少し、休みなよ。朝早かったんだろ? あれだけの量の弁当作ったってことは」
 四人分の弁当だ。何なら前日の夜から準備していたんじゃないだろうか。
「朝、五時からかな……?」
「で、昨日は何時に寝た?」
「い、一時……」
 やっぱり。予想通り。梓はいつも日をまたぐ前に寝る習慣をつけている。それが一時になってしまうってことはやっぱり準備に時間を掛けたからなんだろう。
「……休みな。きっとそれだよ」
 それに運動音痴も加味したら、体力的にしんどいスケジュールだったんじゃないだろうか。
「あ、あのさ凌佑……」
「何?」
「……やっぱり、私達って変なのかな……?」
 突如発せられたその一言に、僕の心臓が跳ねる。
「へ、変って」
「お昼のときにも言われたけど……幼馴染にしては、やりすぎてたりするのかなぁって……」
 ……やばい。僕が恐れていた展開に、なっている……?
「あ、あのね凌佑、私──」
 俯いていた彼女は、視線を僕に合わせる。
 胃がきしむ音が聞こえた。
 これは、まずいんじゃ──
「ずっと前から凌佑のこと」
 僕が息を呑み込んだその後。
「好きで……」
 聞きたくない言葉が、漏れ出た。
「……ご、ごめんね、急にこんなこと……」
 きっと、今一番聞きたくない言葉だった。
「……いや、いいよ」
 抑えて、抑えて。震えそうになる声を抑えつけて。
 答えなんて、決まっているんだ。
「……僕もさ」
 ここで振れば、きっと梓は何事もなく高校を卒業できるだろう。平穏無事に、残りの高校生活を送れるんだろう。
 でも。
 僕にそれはできない。
 過去に一回だけ、梓の告白を断ったことがあった。もしかしたら、何も起きないんじゃないかって。
 結果はその通り。何も起きなかった。梓が事故に遭うことも何か不幸になることもなく日々は流れていった。
 卒業式に出る梓の姿も「遠くから」見た。
 僕が何度目かの梓の告白を断った後、梓は次第に僕と距離を置くようになっていった。初めは共通の友達である佑太と羽季と関わることが減っていき、中学生のときから続いていた晩ご飯を一緒に食べることもなくなり、お弁当もなくなった。
 きっと梓は、僕に振られたことで幼馴染としての立場も捨てようとしたんだ。そうするために、梓はひとりになることを選んだ。
 最終的に、梓は誰とも関わることなく、孤独な高校生活を送っていた。それは遠目から僕が見てもわかるようなものだった。
 僕が梓に届けたかった未来は、そんなものだったのか?
 いつか迎えた卒業式の日、僕はそう思った。
 こんなことになって、梓がひとりを選ぶくらいなら。
 ……いっそ、僕がもがき続けてやる。何度繰り返すことになっても。
 心折れそうになっても、絶対に。
 二度目の世界で、僕は君と一緒に春を迎えたい。その決意を持って、僕はタイムリープをした。
 だから、僕は言いかけた言葉の続きをこう繋いだ。
「……僕も、好きだよ。梓のこと」
 でも、きっとこの言葉も、彼女の想いを踏みにじるものになるのかと思うと、胃がキリキリと痛む。できることなら聞きたくない言葉だったし、言いたくない言葉でもあった。
「……本当? ……嬉しい、な……私」
 隣に座っていた梓がそう言いつつ僕のほうへもたれかかって来た。
 ちょっ、いきなり……ん?
 待て。これは本当にもたれかかっているのか?
「……梓?」
 それを確認するためにも、僕は一度彼女の名前を呼んだ。
「…………」
 反応が、なかった。
「梓? 梓? 起きてる……か?」
 寝ている……んだよな? そう思いつつ、僕は梓の頬に手を当てた。
 ある可能性を、排除したいために。
「……熱い」
 僕は今日一日の梓の行動を逐一思い出す。
 ……今日、梓何か飲み物飲んでたか?
 もしかして。
「梓? 梓?」
 僕は耳元でそう呼びかける。でも、やっぱり反応はない。
 なあ。さっき足つったって言っていたけど……。
 それ、熱中症のサインだったんじゃないのか?
 頭のなかに浮かんだひとつの事実に、僕は激しい後悔に襲われる。
 やばい。なんとか……なんとかしないと。
「すみません! スタッフの人近くいますか!」
 僕はそう叫んで、とりあえず助けを求めた。これ熱中症じゃないか、という知識はあっても、じゃあどこまで対処すればいいのかという知識は持ち合わせていない。
 近くにいたスタッフの人が僕の叫び声に反応しこちらにやって来る。
 その間に僕は梓のラッシュガードを脱がせ、なるべく涼しい格好にさせようとする。
「……汗の量、やばくないか?」
 その下には、尋常じゃない量の汗が流れていた。
 間違いない。熱中症だ。
「どうかしましたか?」
 そう判断した頃に、スタッフさんが到着した。
「すみません、体温が高いのと、汗の量がやばくて、多分熱中症だと思うんです。救急車呼んでもらってもいいですか?」
「ちょっといいですか?」
 スタッフさんはそう断りを入れて、梓の額を触る。
「……疑いはありますね。今呼ぶんで、とりあえず救護室に行きましょう!」
 そう言われ、僕は慌ててバッグからスマホと財布を取り出し、スタッフさんとふたりで梓を救護室があるという室内に連れて行った。
 でも、どんな道を歩いていったか、全く目に入っていなかった。それくらい、怖かったんだ。

「救急車、一台呼びました。少し待っていてください。その間、うちわで体扇いだり、首筋、両脇、足の付け根を冷やしましょう」
 クーラーの効いた救護室内。梓を連れて来た僕とスタッフは彼女の身体を冷やし続けた。梓の体は一向に熱を持ったままで、何なら僕の肝だけがどんどん冷えていく、そんな感覚さえした。
 これも……僕が告白を受けたせいなのかな……。曲解かもしれないけど。……もし、これで梓の身に何かあったら。
 ……できるなら、梓のこういう姿は見たくない。こういう目に遭わせたくない。
 それに……もし、戻ってやり直せるなら。
 そもそも熱中症になんてさせない。
 時間遡行で生死を覆すことはタブーってよく創作の世界のキャラクターが言う。まあ、その通りだとも思う。
 そう簡単に生き死にを変えたら、とんでもないことになる。
 ……もし、この場で梓が熱中症で……なんてことは考えたくない。でも、もうもしの段階じゃない。
 なら、そうなる前に。梓が死んでしまう前に。
 僕は持ってきたスマホに付けているストラップを握りしめる。
 ──お願いします、梓を助けさせてください。
 そう願った瞬間、やはり僕の意識は白の空間に包まれ。そして──

 ***

「さ、入ろうぜ兄弟」
 気づけば、お昼を食べ終わった後の波のプールに入るところに戻っていた。
「誰が兄弟だ、いつ家族になったんだよ僕等」
「小さいことは気にするな、兄弟。人類皆兄弟って言うだろ? 兄弟」
「だからその兄弟やめろって、あれか? なんか洋画でも見て影響受けたのか?」
「…………」
「図星かよ」
 まあ、ここの会話をずらす必要はないか……。
「さ、気張っていこうぜ兄弟」
 いや、でも一応このタイミングで確認しておこう。
「暑いからな……飲み物飲んでるか? 皆」
「ああ。ばっちり」
「勿論」
「う、うん……」
 あ、やっぱり飲んでないな梓。でも、「うん」と答えている以上無理に飲ませるのも怪しまれるし……。
「ならいっか……じゃあ、適当にキャッチボールでもしよう?」
 プールの中で四角形を描きつつ、回されるゴムボール。ときに暴投したり、波にボールがさらわれたりとなかなかに色々あったが、それなりに楽しむこともできた。ここも変わらない。
 けど、浅いところに居続けることに変えた。前回はたまたま早く気づいたからなんとかなったけど、わざわざ梓をもう一度溺れさせて助けようなんて悪い趣味は持っていない。
「凌佑、パース」
 浅いところに浮かびながら繰り返されるキャッチボール。
 佑太から回ってきたボールを受け取り、隣にいる梓に回そうとした。
「梓」
 僕の右手からボールが離れると同時に、プールサイドから笛の音が聞こえてきた。
 高い波が来るっていう合図。
 今度は、浅いところだから……大丈夫なはず。
 そう思っていたのに。
 僕の体が高い波に揺らされる。今回は前もって水の中に潜っておく。
 そして、波が到達。
 目の前に、バランスを崩した二本の足がバタついていた。
 やっぱり、それでも駄目なのか。
 僕は視界に水に沈む梓の姿を確認し、その方向に泳いでいく。
 二度目も梓を抱きかかえ、水上に連れて行った。
「……大丈夫か? 梓。足つった?」
 水を滴らせつつ目線を合わせる僕。
「う、うん……あ、ありがとう……凌佑」
 僕はひとつの嘘をつくことにした。告白を回避するために。
「佑太っ! 悪い、梓足つったみたいだから上に連れて行ってやってくれない?」
 すぐそばに浮かんでいた彼に、そう頼む。
「え、まあ、いいけど。どうかしたのか? 凌佑」
「僕も足踏み出したときにひねったみたいでさ。ちょっと冷やしてくる。あと、頼んだ」
 僕は右足をかばう振りをしつつ陸にあがろうとする。そして、すれ違った佑太の耳元でさらに続けた。
「……あと、梓に水ちゃんと飲ませといて。……足がつるのって、熱中症のサインかもだから。あいつがいいって言っても、飲ませて。頼んだ」
「あ、ああ……わかった」
 僕は振り返ることなく、自分達の荷物を置いた場所に引き返していった。
 ……これで、告白と熱中症の両方を回避できる。両者に因果関係があるかどうかはわからないけど、一番安全な方法だと思う。
 バッグから飲み物を持ちだし、建物の影に入った。
 スポーツドリンクを一気に飲み干し、空になったペットボトルを力なくぶら下げる。
「高野、とりあえずここで休んでて。今適当に飲み物石神井が買ってきているから」
 僕がいる場所と、荷物の場所はわずか数メートル。話し声なら余裕で聞こえる。
「う、うん……ごめんね、迷惑かけて……」
「いいよいいよ気にしなくて」
「買ってきたよーほいっ、スポドリ」
「ありがとう」
 ……この様子なら、しばらく放っておけば大丈夫か。
 痛いのは、足じゃなくて心のほうなんだけど、なんて。
「……また、なかったことにしちゃったな……」
 青空に浮かぶ一羽のカラスを見上げつつ、ふと呟く。
 なんで、こうなっちゃったんだろうな……。
 プールの喧騒のなか、ペットボトルを握りしめる音が、力なく響いていた。きっと、聞こえていたのは僕だけだ。
 **

 僕の高校の学祭は、クラス発表がメインどころになる。毎年秋に開催される学校祭は、各クラスが事前期間に準備を重ねた発表で、賑わう。喫茶店、お化け屋敷、屋台……色々な種類。
 僕のクラス、一年三組は、お化け屋敷をやることになっていた。
 夏休みも終わりに近づいた八月最後の日曜日。夏休み中週一の割合で学校に集まって発表の準備をしていた僕のクラスは、この日も教室に集まって作業をしていた。
 といっても、集まるのは帰宅部の生徒で、暇な人だけ。来ているのは僕と梓、それに佑太と羽季の他に三人。合わせて七人だった。
「じゃあ……そろそろ休みも明けるし、小道具類は頑張って仕上げちゃおう」
 お昼の時間も過ぎた午後二時。クラス委員長の梓のその一言で、集まった僕等は準備を始めた。
 お化け屋敷の通路を象る机の配置などは、人手が増える夏休み明けに行ったほうが効率はいいし、大道具の制作も同じ理由で後回しになっている。僕等が先行してやっているのは細かい装飾の部分だ。そもそも仕事で使う受付の道具とか、足元に設置する仕掛けとか、そんなもの。会場は視聴覚室を借りて行うことになっているので、まあまあ広い。だから多彩な仕掛けが必要となる。そのため、求められる小道具類も多くなるだろう、という見立てでもあった。
「いやーでも夏休みも終わりか―」
 教室の真ん中に机を寄せて作業するなか、佑太がそう言いだす。
「俺、まだ宿題終わってないんだよね」
 ……まあ、佑太は最後までためておくタイプだろうな。で、最終日になって慌てて泣きついてくる。
 見たことないけど、想像はできる。
「そうそう、俺もまだなんだよー」
「マジで? やばいよなー」
 今日参加していたもうひとりの男子からもそんな声があがる。
 いやいや、そこでシンパシー感じるな。
「石神井は? 宿題どうなのよ?」
「え? 私はあとそれぞれあと一ページくらいだよ」
 当たり前のように答えた羽季を、信じられないものを見たような目つきで見つめる佑太。
「……嘘だろ。お前は同類だと思っていたのに」
「私は計画的にサボる人間だからねー。これであと三日は宿題サボれる」
 まあまあ。佑太よりはまあ……しかしその発想はすごいな。
 あと三日サボれるって。
「え……じゃ、じゃあ高野は……?」
 意外と仲間がいなくて焦り始めているのか、恐る恐るといった感じに佑太は梓にも話を振った。
「わ、私はもう終わらしてるよ……?」
 ですよね。委員長。
「ああ! なぜみんなこうも宿題を進めているのか」
「いや、やれよ」
 僕がツッコミを入れたことで、佑太の意識が僕にも向いた。
「……凌佑は?」
「終わっているけどな」
「だろうな、思ったよ。なんとなく想像ついたよ。どうせ高野とふたりでさっさと終わらしたんだろ?」
「いや……別にそういうわけじゃ……」
「そこは一緒にやれよぉ!」
「練馬、うるさい。口より手を動かして」
 僕の背中がボンと叩かれたあたりで、羽季がストップをかけた。まあ、実際作業の手止まっていたしね……。
「は、はい……」
「今日で小道具は作りきりたいんだから。あまりサボって梓困らせないの」
「……わかりました……」
 羽季に怒られてションボリした佑太は、その後口数を減らして作業に集中するかと思ったけど、一分ともたずにまた次の話題を持ってきてはまた怒られ、というループを繰り返していた。
 まあそれなりに雑談もしつつ、作業は数時間続いた。時計の針が午後四時半を指したころ。
「あ……ごめん私そろそろ家帰らないと」
 ひとりの女子生徒がそう言いつつ立ち上がる。
「うん。いいよ。ありがとね、来てくれて」
 梓はニコリと笑顔を作りつつその子に言った。
「ほんとごめんね、まだ途中なのに、バイバイ」
「高野……悪い俺も五時になったら家で宿題やろうと思うんだ」
「あ、ごめん俺も宿題進めないとで……」
「うん、全然いいよ。大丈夫」
 佑太と宿題をやっていない同盟の男子も続けてそう言う。
 まあ、皆色々用事はあるもんな……。仕方ないか。
 ……でも、大丈夫かな……。
 そして五時になると、佑太と男子生徒ひとりが。さらにそれに続いて、
「梓ごめん、親から帰ってこいって連絡来ちゃって、帰らないと」
「高野さんごめんね、私もそろそろ……」
「いいよいいよ、あと私でやっておくから」
 羽季と残った女子ひとりも帰っていった。
 オレンジ色の光が窓から差し込むなか、残った僕と梓。
 辺りに人の気配はなく、きっとこの階で今学校にいるのはふたりだけなんだろうなと思った。学校には七時まで残ることができる。別にまだしばらく作業をすることに問題はないんだ。
 ただ……。
「……ふたりになっちゃったね、凌佑」
 この状況には問題があるかもしれない……。
「……そうだね」
「どうする? 何時まで、残ろうか?」
「……六時、とかでいいんじゃない?」
 きっと、それまでには作業も終わる。そう思い、僕はその時間を提示した。
「うん、じゃあそうしよっか」
 そして、沈黙が僕等の間に流れる。折り紙と手がこすれる音が、教室内に響く。
「今年の夏は色々面白かったよね、凌佑」
 すると、夏の思い出話が始まった。
「コミケも一緒に行ったし、映画も見に行った。……それなりに、色々やれたよね……」
 僕も梓も、それなりにアニメは見る。そんなワンクールにたくさん見るほどの本気ではないけど、まあまあ見る。だから、そっちの世界にもまあ興味はあるわけで、高校生になって色々自由が効くようになったからふたりでコミケに行こう、という話になって、色々買い物をした。……薄い本は買ってないよ。
 今年の春アニメに、時間遡行をテーマにした作品があった。僕も梓もそのアニメを見ていて、結構気に入っていた。休日を使って、グッズを買ってしまうくらいにはね。そこで僕等はその作品のキーにもなっている「砂時計」型のスマホにつけたりするストラップを買った。何がキーかって言うとそのアニメにおいて、砂時計を握りしめると任意の時点から過去をやり直せる、っていう代物なんだけど……。
 これが、まあ、うん。
 あまり細かいことは言わないでおくけど、結構なもので。
 平たく言えば、本当に時間遡行できる道具なわけで。
 それを使って僕は過去四回、過去をやり直した。理由は……まあ、色々。
 で、僕があまりこの状況をよろしくないって言っているのはその色々な理由と関係があるんだけど……。
「まあ、そうだね。それなりに遊べた、と思う」
「……プールとか、海とか、来年は行けるといいなぁ……」
「うん、来年、ね」
「…………」
 急に押し黙る梓を見て、僕は胃が痛むのを感じた。
 ……まずいかもしれない。この流れは。
「凌佑は、さ。……誰か好きな人いたりするの?」
 その予感は、やはり当たっていて。
「は、はは……何? 急に?」
 細い弦をゆらせるかのごとく、震える声で返事する。
「いや……なんとなく」
 いるよ。っていうか梓だよ。
 って本当のことを話せたらどんなに楽だっただろうか。
 でも、そう言えないことを、僕は過去四回の時間遡行から学んでいる。
「……いないよ。僕に、好きな人は」
 だから、僕はそう嘘をつくことにした。
「そ、そう……」
 お互い、作業の手を止めることなく、会話を進める。
「……凌佑」
 目の前に座る梓が、僕のほうを見つめる。
「……好き、です」
 そして、その言葉を僕に編み出した。
「…………」
 なんとなく予想はついた。あ、こうなるだろうなって。でも、実際に言われるとなると思考が止まってしまいそうになる。
 ……これで、五回目、か。
 過去四回、僕は梓から告白され、それを受けた。
 でも、信じられないけど、その四回すべてで梓は色々な不幸な目にあった。いじめの対象になったり、事故に遭ったり。ひどいときは、命を落としそうになったりもした。
 僕は最初、その事故とかいじめの原因を取り除けばなんとかなるだろうと思い、時間遡行で解決しようとした。
 一回目。事故にあった学校近くの坂道で、わざとゆっくり歩いて該当の車両との遭遇を回避しようとした。でも、別の場所で梓は事故にあった。
 二回目。もともとあまり仲良くなかった女子から、梓はいじめを受けることになってしまった。時間遡行でその女子との関係性を改善したはずなのに、今度は別のグループから梓はいじめをうけることになってしまった。
 三回目。化学の実験で、隣に座っていた男子の不注意で薬品が梓の目に入ってしまい片目の視力が弱くなってしまった。時間遡行で隣に僕が座り、注意深く実験をしていたはずなのに、今度は隣ではなく前に座っていた女子の事故で薬品が目に入ってしまった。
 四回目。……思い出したくないし、言いたくもない。
 でも、この四回とも、僕が梓の告白を回避したらこういった不幸は起きなくなった。そもそも、該当の問題が発生しなかった。
 こうなってしまうと、梓が不幸になる原因は、僕にあるのではないかと思うのが自然だろう。
 そして、今の五回目。
 ……もし、ここで僕が告白を振ればどうなる?
 梓の身に、何も起きない展開になるのか?
 僕が振ることで、梓が無事に生きられるのであれば。
 ──僕は、その想いを踏みにじることを選ぶ。
「……ごめん。僕、梓のこと、そういう目で見たことなくて……」
 その答えを発した瞬間、彼女の瞳が大きく揺れた。
「……だ、だから……ごめん。付き合えない……」
 重ねた嘘は、梓の心に、ナイフを刺した。
「そ……っか……」
 彼女は、バタンと音をたて席を立った。
「ご、ごめん、私買い物してかないといけないから、もう帰るね。教室の戸締り、よろしくね」
 流れるように教室を出て行った梓。普段走らない廊下も今日ばかりは駆け抜けていた。
 大きかった靴と床がこすれる音も、次第に小さくなっていき、僕はひとりになった。
 太陽はもう、沈んでいた。
「失礼しまーす。一年三組準備終わったんで帰りまーす」
 僕は帰り際、職員室に寄り鍵を返しに来た。
「おう。お疲れさん。気をつけて帰れよー」
 当直の先生に鍵を渡し、僕は家路につく。
 坂道を下る帰り道、隣に少し空いたスペースは、少し寂しい気持ちにさせた。
 学校の最寄り駅、各駅停車をひとり待つ。
 ほとんど人のいない下りのホームに、空虚に響く警報音。カラスの鳴き声さえ聞こえない。
 ……何も、起きないなら、それでいい。梓に何も起きないなら、それが一番なんだ。
 僕はそう思って、振った。
 のに。
「……この気持ちはなんだよ……」
 ぽっかりと穴が開いたかのように感じるこの切なさは何だ。
 ……僕が自分で選んだ答えだろ。
 僕にこんな思いをする権利なんて……。
 急行電車が通過していく。一瞬の風が、僕の髪も、心も揺らしてしまう。
 少し考えれば当たり前かもしれない。その日から夏休みの間、梓が僕の家でご飯を作りに来ることはなかった。それどころか、会うことすらなかった。

 九月の頭、始業式。
 カーテンの隙間から差し込む太陽の光に当てられ、僕は目覚めた。スマホで時間を確認すると……。
「ってやばっ! 遅刻だろこれ!」
 慌てて起き上がり学校に行く準備をする。
 いつもは梓が起こしてくれていたから、遅刻することはなかったけど、今日は間に合わないかもな……。とりあえず、早く着替えないと。
 起きて十分で家を出た僕は、朝ご飯も食べる間もなく沼袋駅へと駆け出した。
 沼袋駅から学校の最寄り中井駅までは五分くらいで着く。近いと言えば近い。
 でも、起きた時間が本当に遅かった。
 中井駅に着いたのが八時二十二分。
 どんなに頑張ったって駅から学校までは五分から十分はかかる。しかも行きは上り坂の通学路。
「いや、まあ走るけどさ」
 南口を出て待ち受ける坂道を全力疾走。幸い、今日は始業式だけだから荷物は軽い。
 あと、こういうときに例の時間遡行を使えばいいんじゃないかって思ったときもあったけど、どうやらそれはできないみたいだ。
 多分、相当な思いがないと、時間は遡れない。こんな遅刻のひとつやふたつ回避したいくらいの軽いことではできないみたいだ。現に、一応今もスマホを握りしめてはいるけど、戻れない。
 にしても……きっついな……この坂道!
 そんなことを考えつつ、学校に着いたのは八時二十八分。生徒玄関前に立っていた生活指導の先生に少し怒られ、僕は教室に入って行った。
 教室に入る頃には朝のホームルームは既に終わっていて、これから始業式で体育館に移動するってときだった。
「お、珍しいな、凌佑が遅刻って」
 息を整えつつカバンを机に置くと、これから廊下に並ぼうとしている佑太にそう話しかけられる。
「寝坊しちまってさ」
「ふーん? 何? 高野と喧嘩中で起こしてもらえなかった?」
 そうおどけつつ言う佑太に、ふと言うべき言葉を見失う。
「もう、体育館行くから、整列だってさ」
「あ、ああ」
 僕も廊下に出る佑太について行き、クラスの列に合流した。
「おっす保谷、なんだ幼馴染と喧嘩したか?」
「な、珍しいよなぁ。びっくりしたよ、高野がひとりで教室入って来たとき。どよめいたぜ教室」
 列に入ると、前後のクラスメイトに声を掛けられる。
「まあ……あれだな、僕もそろそろ自立しないといけないかもな」
 その声に対し、僕は苦し紛れに笑いつつそう言うことしかできなかった。

 相変わらず長い校長の話もようやく終わり、この暑い中ひとりの犠牲者を出すことなく始業式は終わった。今日はあと一時間ホームルームをやったら終わりだ。
 教室に戻り、とりあえず休み時間になる。
「……よ、元気か? 凌佑」
「佑太……僕はお前と違って色々考えないといけないことがあるんだよ。それより宿題終わったのか?」
「……ああ。ばっちりだぜ」
「その間は何だその間は」
「それより。……本当のところは何があったんだよ。……高野と」
 これまでのおちゃらけた態度から一変。澄んだ声を僕に刺しこんだ。
「何がって……何も」
「んなわけあるか。高野、今日誰とも話してねーんだぞ。石神井でさえ、話せてない」
「……告白された」
 何事もなかったように、僕はその事実を告げる。
 佑太もさほど驚かない。
「で?」
「……で、僕が振った」
 でも、この答えに関しては別だった。
「はぁ?」
 教室に、佑太の声が響き渡る。クラスメイトも、何事かとこっちのほうを向いて来る。
「声でかいよ」
「いやっ……そりゃでかくなるわっ。振ったって……お前、高野のこと好きじゃなかったのかよっ」
 ああ、好きだよ。今も好きだよ。
「…………」
「無視してんじゃねーよ……」
 冷たく、蔑むような視線で僕を見る佑太。見れば、右手に拳を作って震えさせている。
「……わかんないよ。僕が好きかどうかなんて」
 また、僕の口から嘘が並べられる。
 わかっている。本当は知っている。
 皆の前では真面目な姿を見せて。なんだってしっかりとこなしていて。勉強も、学校行事も。運動は微妙だったりするけど、そこもまた可愛くて。
 でも、僕の前だけでは、無邪気な笑顔を見せてくれる梓のことが、僕は好きだって僕はわかっている。
「……わかんないまま、付き合えないよ」
 小さく、僕はそう吐いた。
「……そっか、わかった……」
 右手に拳を作り震えさせていた佑太は、ゆっくりとその手を開き、僕の胸をポンと叩いた。
「じゃな、また、帰り」
 そして、彼は自分の席へと戻っていった。
 いつの間にか、集めていたクラスの視線はもう散らばっていた。

 それから、梓は一切僕と関わりを持とうとしなかった。仮に話すことがあっても事務的な連絡に留まり、以前のような砕けた会話はしなくなった。
 僕、梓、佑太、羽季で食べていたお昼も、梓がドロップアウトする形になった。
 それにはさすがの佑太と羽季も動かないわけにはいかなかったようで、ある日、僕の首根っこ捕まえてお昼になり教室を出ようとする梓を捕まえた。
「ねえ、梓最近どうしたの? ずっとひとりでお昼食べているみたいだけど」
「それに、凌佑とも全然話してないし……」
 因みに、佑太は僕が梓を振ったことを誰にも言わないでいた。そういうところはデリカシーがある奴だから、そのうちいい人が見つかるんじゃないかとも思っているんだけど、今は関係ないので割愛する。
「……べ、別に……何もないよ」
「そんな、今まで普通に一緒にお昼食べてきた友達が急にひとりになって何もないって信じると思う?」
 廊下で梓を囲む僕等三人。いや、少なからず僕に梓を止める意思はなかったからふたり、か。
「……何も、ないよ」
 梓が目を伏せつつ答えたのを見て、佑太が動いた。
「……凌佑に振られたのが原因?」
「え?」
 佑太のそのカミングアウトに、僕等を取り巻く空気が一変した。
「ちょっ、保谷……どういうこと? 振ったって……梓のこと、振ったの?」
 羽季の標的が、梓から僕へと切り替わる。まあ、そうだよね。
「……そうだよ」
「そうだよって……なんで、なんでなの?」
「なんでって……わからないよ」
 僕はまた、梓を傷つける嘘を重ねた。
「だって……あんなに仲良かったのにっ……どうしてっ」
「羽季……もうやめて」
「梓はいいのっ?」
「いいの……。私が振られたんだから。……だから、もう私に凌佑の隣にいる権利はないから、もういいの」
 俯きながら言葉を紡ぐ梓の表情は、萎れた花のように辛そうで。
 でも、そんなこと思うなんて僕はしちゃいけないはずだから。
 辛そうって……そうさせたのは僕なのに。僕が辛くさせているのに。
「……だから、もういいんだ」
 それだけ言い、梓はふたりの円から抜け出していった。残された羽季も、
「……保谷、最低」
 と呟き、佑太も僕に背中を向けつつ、
「……もう少し、何かあったんじゃないかって思ってたよ、俺は」
 そう言い残し、僕を置いていった。
 その日以来、佑太と羽季が僕に話しかけることはなくなった。まあ。この状況からして被害者は梓で加害者は僕だからね。梓に同情するのもわかる。
 だからか、ふたりは梓となんとか仲を維持しようとしていたけど、結局梓も梓でひとりになることを選んだ。
 僕と梓は、お互いにひとりになってしまった。

 学祭も、体育祭も、二年の修学旅行も、どんなときも、梓はひとりだった。遠目に見ていてもそれはわかった。
 それでも、僕は仕方ないと思っていた。
 事実、梓は何も遭っていない。告白を振る、というのは一番効果的な対処法なんだとさえ気づいていた。
 なのに、心のどこかで、違う、こうじゃないと叫ぶ僕がいる。こうじゃないんだと必死に訴える僕がいた。
 学祭でひとり校内を歩く梓を見て、浮かない顔をして体育祭の準備をする梓を見て、修学旅行で常にひとりで京都の寺を見ていた梓を見て。
 僕が望んだのはこれなのかと尋ねる僕がいた。
 三年になり大学受験も控えるようになると、ますますお互いの孤独は深まっていった。梓の第一志望校がどこか知ることもないままいたずらに時は流れていった。センター試験も、滑り止めの私立も、国立の二次試験も、僕の目にあの長い黒髪に隠された穏やかな瞳を見つけることはなかった。
 春、卒業式。
 ……あっという間に高校生活が終わったなと思いつつひとりで歩く高校までの道のり。
 まるで、どのヒロインともフラグを立てることなく終わったノベルゲームのバッドエンドみたいな日だ、とも思った。
 まあ、僕の場合は、ひとりしかいないメインヒロインのフラグを、嘘で塗り固めたナイフで思いきり切り落とした、という表現が適切だろうか。
 中井駅を出て、川沿いを歩く通学路。桜のつぼみが来るべき開花に備え、その支度を整えている。
 僕は、不意にスマホに付けた砂時計のストラップを見つめる。
 ……結局、あれ以来時間遡行はできなかったな……。
 できないならできないでそれが普通のことだから、いいんだけど。
 何度か走って上ったあの激坂も、これが最後の上りになるかと思うと、少し感慨深くもなる。
 すれ違うランドセルを背負った小学生達。無邪気にはしゃぎながら坂を下りていく彼等も、今日が卒業式だったりするのだろうか。
 ……あんな時期もあったな、と。
 坂を上った先にある校舎に入り、自分の教室に入る。もう既に多くのクラスメイトが教室で最後のクラスメイトとのひとときを過ごしている。
 僕に話しかけてくる人も、同じ教室の隅に座っている梓に話しかける人はいない。
 八時二十五分のチャイムが鳴ると同時に、スーツをきっちりと決めた担任が「おーし席に着け―」と言いつつ教室に入ってきた。
「今日は卒業式だなー緊張しすぎて変なタイミングで立ったり座ったりするなよ?」
 その冗談に、教室の空気が弛緩する。
 皆が綻んだ表情をするのに、梓はやはり俯いたまま。
 ふと、僕の胃が痛む。
 え? ……な、なんで……。
 なんでこのタイミングで、胃が……。
 違う。僕は、これでいいって……。
「九時になったら、体育館に入場する準備するからな。それまでは、好きに話してな」
 担任はそれだけ言い、また教室を後にした。

 卒業式はつつがなく行われ、涙ながらに終わった。
 最後のホームルームで担任から卒業証書が渡される。
「……じゃあ、次だな。高野梓」
 保護者も教室内に入って行われるホームルーム。梓の両親も来ている。
「……はい」
 梓は後ろの席からゆっくりと立ち上がり、俯きながら教壇へ。
「おめでとう」
 担任からそう言われ、証書を受け取る。そのまま彼女は自席へと戻っていった。
「──保谷凌佑」
 少しして、僕の名前が呼ばれる。
「はい」
 僕は席を立ち、担任のもとへ向かう。
「……おめでとう」
 妙に少しできた間から、証書を渡され、受け取る。
 席に戻ろうと振り返ると、僕はひとつの目と目が合っていることに気が付いた。
 ……梓?
 僕は少し困惑しつつ、自席へと戻る。
 すると、スマホが小さく震え出した。
 ……なんだ?
たかのあずさ:ホームルーム終わったら、時間下さい
たかのあずさ:話したいことがあるんだ
 視線を横に座っている梓に向ける。やはり、合う目と目。
凌佑:いいけど
たかのあずさ:そしたら、五階の図書室前で。そこなら人も来ないし
凌佑:わかった
 少し、風向きがおかしい……?
「じゃあ……元気でな。俺より先に死ぬなよ? 教え子の葬式になんて出たくないからな俺は。それが、一番の先生からのお願いです。じゃあ、解散!」
 その一言で、ホームルームは終わった。他のクラスの友達に会いに行く人もいれば、教室に残って友達と話す人もいる。
 そして、僕と梓のように、学校の隅でこれから話をしようとする人もいる。

 下のほうからは生徒たちの喧騒が聞こえてくる五階図書室前。人はいなく、廊下に歩く音が響くくらい、何も音はしない。
「お待たせ……ごめんね、待たせちゃって」
 僕がひとりか図書室のドアに背中を預けて待っていると、梓が待ち合わせの場所にやって来た。彼女は、僕の隣に立って、カバンを足元に置く。
「いや、僕も今来たばっかだったから」
「……こうして話すの、一年生の夏以来かな?」
「そう、だね」
 改めて口にされると、僕と梓が離れていた時間の長さを思い知らされる。
「凌佑は、大学、どこに行くの……?」
「……学芸大学か、八王子の私立」
「……そうだよね、東京、だよね……」
 僕の答えを聞いて、梓は少し残念そうな顔をする。
「梓は?」
「私? 私は……」
 彼女は少し間を置いて、ゆっくりと答えた。
「……京都の公立大学、行くことにしたんだ」
「……え?」
 き、京都……?
「ごめんね、言えなくて」
 僕は、今隣にいる梓がどこか遠い場所にいるような、そんな気がした。
 手を伸ばしても、届かないような。
「もし落ちても私立も関西の大学は受かっているから……沼袋の家は、出て行くことになる」
「…………」
 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことかと思った。
 ……なんで。なんで。なんで。
 僕はこんなにショックを受けている。
 これで良かったんじゃないのか? これは僕が望んだ結末だったんじゃないか?
「……ごめんね、私のせいで、凌佑に迷惑かけて」
「いや、それは」
「……私が凌佑の気持ち考えずに自分勝手に告白したせいで、羽季や練馬君と仲悪くさせちゃって」
 いや、折っていたのは梓のフラグだけでなく、僕の心もだったかもしれない。
 梓に突き刺していたナイフは、諸刃となって僕の右手も傷つけていた。
 その傷を見て見ぬふりを、三年間し続けた僕は、今。
 泣きそうになっていた。
「あのときの言葉は本心だよ? ……振られたのに、幼馴染の立場を利用し続けるなんて私にはできない。凌佑だって、気を遣うに決まっている。それなら、関わりを止めてしまえばって、思った」
 駄目だ。僕は泣いたら、泣いたら駄目なんだ。
「……凌佑、自己犠牲が過ぎるよ。なんで悪者演じちゃうかなあ……。おかげで、羽季も練馬君も、凌佑じゃなくて私を選んだんだよ? ひとりになるのは、私だけで十分だったのに」
 ……泣いたらっ、駄目なのに……。
「私が原因なのに、私だけ友達を残していい思いはできない。凌佑がひとりを選んだなら、私もひとりでいないといけない。……それが、きっと私への罰……になるかなって」
 気づけば、嗚咽が漏れていた。
「でもね、凌佑。……やっぱり、私凌佑が好き。距離を置いたってそれは変わらなかったんだ。どうしたって、好きなままだった。凌佑が別の女の子と付き合ってくれたら、諦めもついたかもしれないけど、それもないから諦めきれなくて……でも、一度振られた分際で、都合よすぎるよね? ……このまま沼袋の家にいても、きっと私はずっと凌佑のこと想っちゃうから、家を出ることにした。……そうすれば、きっと凌佑も、私っていう重荷を背負わないで済むから」
 僕が望んだのは、こんな、こんな──
 涙目になりながら梓が僕に謝る未来じゃない。
「……じゃあね、凌佑。……凌佑の幼馴染でいられて、私、幸せだった」
 ふと、一雫の輝きが、舞い落ちた。幻覚だと、こんなのは嘘だと思いたかった。
「……まっ」
 差し出した手はすり抜けて、彼女は僕の手の届かないところへ旅立とうとしていた。
「……ぁぁ……違う……違う……違う」
 もう、視界に彼女の姿は映らなかった。
 ひとり、ドアに背を預けながら崩れる僕。
 彼女が望んだのは、こんな未来だったのか?
 僕が彼女に届けたかった春は、これだったのか?
 泣きながら、謝る未来が?
 ……違う。僕が、梓に届けたかった未来は、そんなものじゃない。
 梓が迎えたかった未来も、これじゃなかったはず。
 本望なら、泣きながら謝ったりしない。
 僕は、スマホのストラップを握りしめる。
 ──お願いします、戻してください。もう、嘘はつきません。嘘で、彼女の気持ちを踏みにじったりしないから。
 こんな悲しい未来、見たくない──

 ***

「高野……悪い俺も五時になったら家で宿題やろうと思うんだ」
「あ、ごめん俺も宿題進めないとで……」
「うん、全然いいよ。大丈夫」
 意識が戻ると夏の教室だった。近くには、梓、佑太、羽季や他のクラスメイトもいる。
 間違いない。あの日だ。戻って来たんだ、僕。
 どうする、告白を振らないためには……。
 きっと告白を受けると、今までと同じ。なら。
「ちょっ、ちょっ、佑太」
 今にも帰ろうとする佑太を僕は引き留める。体感二年ぶりの会話かもしれない。
「……いいよ、宿題。僕が見てやる。……だから残っていかないか?」
「……マジで? いいのか?」
 餌を放る。すると彼は面白いように飛びついてくれた。
「ああ。オーケーだ」
「あ、高野。やっぱり俺最後まで残るわー」
 佑太は持ち上げたカバンをストンと置き席に戻った。
「え? あ、じゃ、じゃあ俺は帰るから、じゃーなー」
 宿題やっていない同盟のクラスメイト君は拍子抜けしつつ、教室を後にする。
「いいの? 練馬君、宿題あるんじゃ……」
「いいのいいの。なんでも凌佑が見てくれるって言うから」
「え? 保谷気前いいねー」
 ……とりあえず、これで告白は回避できる……。
 あとは羽季も捕まえられたら完璧なんだけど……。
 うーん……何もいい案が思いつかない。
 そして何も策を講ずることができないまま迎えた五時。
 前回は、ここで女子ふたりが帰ったんだけど……。
「高野さんごめんね、私そろそろ……」
 席を立ったのは、クラスメイトの女子ひとりだけだった。
 あれ……羽季? ……帰らないのか……? な、なんで……。
「うん。ありがとうね」
 梓は穏やかに笑みを浮かべつつその女子を送り出した。
 な、なにはともあれこれでふたりきりになることは回避できた……ちょっと不可解な点もあるけど。
 僕の関与しないところで、未来が変わった? ……そんなことないと思うんだけどなあ。だって、前回親に帰ってこいと言われ羽季は帰った。それが、「僕が佑太を引き留めただけで」親が帰れと言わなくなる、そんなことがあるか?
 ……ま、考えられるのは佑太が残ったから羽季も残った、ってところだけど。
 まあ、そういうことにしておこう。
「あと少しで終わるから、頑張ろう」
 前はふたりでやったからか、時間がかかった。でも、今回は四人でやったから、その半分で今日やるべき準備は終わった。
「よしっ、終わったー!」
 佑太の声が、その終わりを示した。
「あーでももうこんな時間かー家着くのかなり遅くなっちゃうな……」
「俺も、今日親いないから晩ご飯どうしようかな……」
 引き留めたふたりから、そんな声が聞こえる。
 あ……そっか、ふたりは家、遠いんだっけ……。特に佑太は学校から一時間以上かかるところって聞いたし……。
「な、ならさっ……凌佑の家で。皆でご飯、食べない?」
 ふと、梓が思いついたかのように、そう言う。
 僕等四人はキョトンと顔を見合わせる。しばらくそうしたのち、
「いいね! そうしようぜ。俺は賛成」
 佑太が右手の親指を立てつつ返事をした。
「うーん……わかった、私もいいよ」
 羽季も頷いたことにより、僕の家でご飯を食べることになった。
「それじゃ……帰ろう? みんな」

 その日の夕飯は、カレーにすることにした。即興で四人分を作るのには楽だし、時間もかからないから、という梓のチョイスだった。
 沼袋駅近くのスーパーで買い物を済ませ、僕の家に向かう。
「なんだかんだで凌佑の家行くの初めてだなー俺」
「あれ? そうなの? 意外。私てっきり保谷と練馬ならお互いの家行ったことあるのかと思ってた。そのくらい仲いいしね、ふたり」
「いやいや、俺の家どこだと思っているの。拝島だぞ、拝島。そうそう行こうと思うところじゃないよ」
「練馬って名字なのに練馬関係ないところに住んでいるんだね……練馬」
「それ小学生のときめちゃくちゃ言われた。別に好きで練馬名乗っているわけじゃないんだけどな……」
「じゃあ将来は練馬区に住めばいいんじゃない?」
「いや、簡単に言うけど……」
 僕に言わせれば佑太と羽季も十分仲いいと思うけどね。言わないけど。
「着いたよ、僕の家」
 しばらく歩き、到着した僕の家。
「ほぉ……ここが凌佑と高野の愛の巣なんですね」
「いや、そんなんじゃないし……。言い方。それ梓に言うなよ」
 意識するから。
「さ、入って。リビングで適当にテレビとか見ていていいから」
 皆を家に上げ、僕と梓はまず台所に向かう。それを見た羽季が、
「……いや、夫婦かいっ」
 とツッコミを入れる。
「ん? ……どうかした羽季?」
 梓がきょとんと顔を小さく傾ける。
「何も言わずに一緒に台所立つって……阿吽の呼吸過ぎて」
「あ、ああ……」
「僕の家にご飯作りに来てもう三年くらい経っていて、僕も手伝っているからもう習慣なんだよね」
「……ほんと、一糸乱れず、って動きだったよ」
「そ、それはどうも……っていうかもう佑太くつろいでいるし」
 まあ、テレビ見ていてとは言ったからいいんだけど、もう佑太はリビングのテレビをつけてバラエティー番組を見て爆笑していた。
「……と、とりあえず僕はお米とぐから梓は野菜よろしく……」
「うん、わかった」

 一時間くらいで、カレーは出来上がった。やはり四人分はいつもより時間がかかる。
「できたよー」
 梓がカレーの入った鍋をリビングのテーブルに持ってくる。
「お、いい匂い。もうお腹が減って仕方ないんだよなー俺」
「練馬はただテレビ見てただけでしょ」
「まあまあ」
 僕は四人分の皿とスプーンとコップを並べる。
 ふと、四つ並んだそれらを見つめてしまう。
「どうかしたか? 凌佑」
「いや……こんなににぎやかな晩ご飯、久しぶりだなあって、思っただけ」
「凌佑のお父さん単身赴任中だから、こうやって大人数で食べることなかったしね……」
「そっか……」
「さ、好きなところ座って。食べよう食べよう」
 僕は皆に座るよう促す。いつの間にかお皿にはご飯がよそわれている。僕は苦笑しつつそれにカレーをかける。
「ほい羽季」
「ありがとう」
「あい佑太」
「サンキュ」
「でこれは梓で」
「うん」
「最後のは僕と……よし。じゃあ」
 いただきますと四人の声が揃った数秒後、佑太と羽季から「お、美味しい」の声が漏れた。僕と梓は目を合わせつつ「やったね」と音にはしない声を出した。

 羽季はご飯を食べ終わると「そろそろ帰らないと親がうるさいから」と言い帰って行った。佑太にどうするか聞くと、
「ん? いや、今から家帰るのめんどいから泊めてくれない?」
 と言われ、僕は彼を泊めることにした。
 梓も片付けが終わると隣の自分の家に帰ったのでリビングには僕と佑太だけが残った。
「……静かだな」
 相変わらずテレビはつけているから、佑太は別な意味で静かだなと言ったんだろうか。
「毎日こんな感じなの? 凌佑の家」
「……まあ、そうだね。ご飯終わると梓は家帰るから。この時間は」
 佑太は、椅子に座りつつ大きく伸びをして続ける。
「すげぇよ。凌佑は」
「そうか?」
「俺には多分一週間ももたない。寂しいよ。いや、親元離れてとかならまだいいけどさ、ここ、実家だろ? ……俺なら、そのうちしんどくなる」
 伸びた腕と、僕を捉える目線の真剣さが、妙に会わない。
「……別に、僕は凄くなんか……」
「まあまあ。凌佑はそう思うかもしれねーけどさ、俺にもそう思わせてくれよ。……なんだかんだで、俺は凌佑の力になりたいんだから」
 ……そういう彼の表情は、どこか遠くを見つめているようで。
 確かに、一度目の世界で、佑太は僕と梓が距離を取り出したとき真っ先に様子を確認しに来た。アホなところもあるけど、根はいい奴だ。
「……今の凌佑達の距離感、見ていて歯がゆいから」
 テレビの音にかき消されるくらいの大きさで、彼は呟いた。
 落ちた言葉を、僕は聞かなかったことにした。この話を突っ込んですると、僕のほうが揺さぶられそうだから。
「さ、そろそろ風呂入りたいなー凌佑」
「……調子いいなあ、お前は」
「まあな」
 僕はリビングからお風呂場へ移動し、お湯をはり始めた。
「少し待って。すぐ沸くから」
「ありがとよ」
 何故か男同士の付き合いだとかで一緒に風呂に入らされたし、寝るときもなかなか話の種を絶やさない佑太に寝かしてもらえなかった。
 それでも、こういう付き合いは、初めてのことで、どこか胸のあたりがポカポカとしていた。
 ──代償に、彼女の想いをなかったことにして、だけど。