ディパーテッド~最強魔術師は毒親育ち~

 翌朝、バン爺は旅立つ準備を始めていた。
 起きてきたマゼンタが言う。

「あれ、バン爺どうしたの? こんなに朝早くから?」
「昨晩に言うたじゃろ、当てがないわけじゃないと。そこにこれから行くんじゃ」
「そこって……どこさ?」
「ダリア伯の領地じゃ」
「そこって……。」
「まぁ、けっこう遠いのう。長旅になるぞい」
「そこなら、シアンくんの事も……何とかなるの?」
「……知り合いに事情を話して助けてもらおうと思っての」
「知り合い……。」

 そうこう話していると、シアンも起きてきた。

「あら、シアンくん、おはよう」
「……おはよう」
 寝ぼけた様子でシアンは言った。
「顔を洗ってきなよ。すぐに出発するから」
「……出発?」
「そ。……でも、シアンくんの希望を確認しとかないとね。ねぇシアンくん、もしお父さんの所に帰りたくないなら、あたし達と一緒に来ない? そこなら、シアンくんも違う人生を歩めるかもしれないよ?」
「……違う……人生」
「うん。少なくとも、今とは違うってことだけど」

 シアンは手の指をもぞもぞ動かして、マゼンタから目をそらす。

「……どうしたの?」
「でも、お父さんが……。」
「お父さんのいない所に行くんだよ? 気にしなくて大丈夫だよ」
「でも……。」
「のう、坊や。お前さんはどうしたいんじゃ?」
「……ぼくが?」
「そうじゃ。誰かの意見や望みじゃない、自分自身の心は何と言っとる?」
「ぼくは……。」
「……ワシらは準備を続ける。ワシらが出るときに、一緒に行きたかったら黙ってついてきたらええ。そうでないなら、このままここにとどまりなさい」

 シアンは何も答えず、うなずきもしなかった。

 バン爺はマゼンタに言う。
「さ、お前さんも準備をしなさい。あと、シアンの前でその恰好(かっこう)やめんか」

 昨晩と同じく、マゼンタは下着姿だった。

「……気になる? シアンくん?」

 うつむいてるシアンの耳が赤くなっていた。

「12歳でも異性の事は分かる年齢じゃ。みょうな性癖が芽生(めば)えたらどうする」
「年上のおねえさんが好みになっちゃうとか?」
露出癖(ろしゅつへき)のある女が好きになるかものう」
「それはまずいね」

 マゼンタは奥の部屋に消えていった。

「まったく、悪い娘じゃないんじゃがのう……。」

 バン爺とマゼンタが旅の支度を終えた。食料は、前日に村人から贈られたものが十二分にあった。

「さて、行くかのう」

 バン爺はリュックを背負い外に出た。マゼンタは部屋の(すみ)から動こうとしないシアンを見る。

「……シアンくん」
「こればっかりは坊やの意思じゃ。ワシらが強制することじゃない。それにそそのかすことでもな」
「……分かってるよ」

 バン爺とマゼンタは家を出た。もしかしたら着いてこないかも、そう思っていたふたりだったが、すぐにシアンはふたりを追いかけてきた。
 自分に並んで歩くシアンを見てマゼンタは言う。

「……シアンくん」
「決まりじゃな。……ワシらも気を引きしめるぞい。こうなったらもうワシらの責任じゃ。無事にこの子をダリア伯の所まで届けんとのう」
「もちろんさ」

 マゼンタは、手を握ろうとシアンに右手を差し出した。しかし、小さく首をふってシアンはこれを断った。マゼンタは、シアンがまだ自分に心を開いていないのだと思ったが、その本当の意味をまだ知らなかった。
──

 マゼンタたちが出発した日の夕暮れ時、ひとりの男が村に現れた。
 20代前半の灰色の髪の男だった。瞳は大きく、人なつっこい顔をしていた。涼しげな若草色のローブに薄布のストール姿の男は、まるで風にそよぐ草木のようだった。

「ちょっと、ええですかぁ?」

 男はシアンに足を治してもらった、農夫のザビの家畜小屋にひょっこりと顔を出した。男の口調も、(ほが)らかで人なつっこかった。

「……誰だい、あんた?」

 家畜の世話を終えたザビは怪訝(けげん)な顔をして言った。たとえ人懐っこい男といえど、田舎の村はよそ者をたやすく受け入れたりはしない。

「いやぁね、実は自分、頼まれて人探しをしとるんですよぉ」
「……人を?」
「ええ。おっちゃん、ここ最近、この村で可愛らし~お子さん見はりませんでしたかぁ?」
「……子供?」
「えぇ、綺麗な髪した、12歳くらいのお子さんですぅ」
「……知らんね」

 ザビは意味もなく農具用のフォークで(わら)をかき集める。

「あれぇ、おっかしいなぁ? ここら辺にいる言われてはるばる来たんですけどぉ?」
「そうかい、だが、あいにく俺は何も知らん。帰った帰った」
「そうでっかぁ、こりゃ参りましたなぁ。その子、貴族のご子息なんですがねぇ、ちぃと前から行方不明ですねん」
「貴族の?」

 ザビの手が止まった。
 男はにっこりと笑う。

「おっちゃん、何か知っとるような反応しはりますねぇ?」
「い、いや、俺は何も……。」
「いやいや、そんなん構えんとってくださいよぉ。おっちゃんを問い詰めようとかじゃありませんからぁ」

 男は腰にくくりつけている小さなカバンから、金貨を取り出した。

「おっちゃん、この金ぴか見たら何か思い出しませんかぁ?」
「……それは」

 男は家畜小屋に入ってきた。

「お、おい、勝手に入るんじゃない」
「一枚じゃあきまへんか? ほなら……。」
 男は金貨をもう一枚カバンから取り出す。
「おっちゃんの欲しい分だけあげますよぉ?」
「ちょ、ちょっと待て……だいたい、アンタ何者なんだ?」
「……何者?」
 男の足が止まった。
「そんなん、どうだってよろしゅうおまへんかぁ?」

 そうして、男は「ほぅれ」と金貨を指ではじいてザビの前に落とした。
 屈んでその金貨を取るザビ、取り終えて顔を上げると、すでに目の前に男が立っていた。

「なっ!?」

 男はザビの顔面を手でわしづかみにすると、家畜小屋の柱に押しつけた。優男(やさおとこ)に似つかない怪力だった。

「あきませんなぁ、大切なものから目ぇ離したらぁ……。おっちゃん、そうやって人生で大切なもん失うタイプでっせ?」
「う、ふぐぅ、う……。」
「恐ろしゅうおまっか? すんませんなぁ、怖がらせてしもうて……。」
 男は顔を近づけた。
「でも俺、人がビビっとるところ見るの、めっちゃ好きやねん……。そういや、おっちゃんの奥さんもええ顔しとりましたよ?」
「ご、ご、ごぶ……!?」
「ははっ、その表情その表情。たまらんわぁ。安心しとってつかぁさい。奥さんは無事ですけぇ」

 男は家畜小屋の入り口を見た。ザビもそちらに目を向ける。そこにはザビの妻が立っていた。

「……!?」

 妻はザビたちのもとへ歩き始めた。ザビは必死に首を振ってこっちに来ないように伝える。

「まぁ、無事っちゅうのとは違うかもしれまへんけど」

 ザビの妻は背後から男の体に手を回すと、男の肩に顎を乗せた。

「ッ!?」

 男はザビの妻の頬にいやらしく指をはわせながら言う。
「皆で仲良ぉやりましょうやぁ……。」


 それからしばらくして、ザビの家に農夫のマッソが訪ねてきた。

「おおい、ザビさぁん、家畜小屋の柵が空きっぱなしになってるよぉ?」
「おお、マッソさん。ちょうど良かった」とザビは言った。
「ん? ちょうど良かったって……何がだい?」

 家の中では、ザビとザビの妻と、例の男が楽しく酒を囲んで談話(だんわ)している最中だった。

「素敵な人と友達になれたところなんだ」
 ザビは言った。
「ええ、とっても素敵な人と」
 ザビの妻も言った。
「……はぁ」

 男は微笑んでマッソの方へ歩いてくる。

「マッソさんいいはりますの? はじめましてぇ」

 男は手を差し出した。いきなり差し出された見知らぬ男の手だった。マッソは身を少し引いてザビ夫妻を見る。不自然な笑顔をふたりは浮かべていた。まるで、無理やり顔の皮膚を左右に引っ張られているような。

「……ザビさん?」

 男は無理矢理マッソの右手を取り、握手に持ち込んだ。

「お、おい……。」
「自分、アッシュ言いますねん。……よろしゅう頼んます」

 男の笑顔は、ザビ夫妻とは違い自然でさわやかだった。


 さらに夜が暮れた頃、男・アッシュを囲んで村では宴会(えんかい)が開かれていた。まるで、彼がこの村に富をもたらす者であるかのようで、昨日のシアンよりも手厚(てあつ)い歓迎ぶりだった。皆が宴の中心にいるアッシュばかりを見ていた。

「いやぁ、遠路(えんろ)はるばるよくぞお()しくださいました」
 村長がうやうやしくアッシュに頭を下げる。
「そんな、かしこまらんでもええですがなぁ。俺は皆さんにちょいとばかし訊きたいことがあって、この村まで来ただけですさかい」
「ほほう、訊きたいことというのは?」
「ええ、昨日、この村におった可愛らしいお子さんの話なんですがねぇ」
「おお、あれは確か……。」
 村長がマッソを見る。
「ああ、俺はバン爺の親戚のお子さんだって聞いたけどな?」
 アッシュは興味深そうにマッソを見る。
「その……バン爺ゆう人は何もんでっか?」
「数年前に、この村に流れてきたじいさんだよ。確か……王都で魔術師をやってたんだっけ?」

 その“魔術師”というマッソの言葉に反応し、アッシュの指がピクリと動いた。

「そうだっけ? あんまり詳しいことは聞かないなぁ。まぁ、魔術師であることには変わりないよな。あの爺さんのおかげで畑の収穫が増えたんだし」と、ザビが言った。
「……そりゃ結構な術式を使いはりますな。もっと詳しゅう教えてくれませんか?」
 マッソはあご髭をなでながら言う。
「う~ん、あんまり身の上話をしない人だからなぁ……。」
「そういえばバン爺さん、腕に白いブレスレットつけてなかったか? あれって確か、等級魔術師の(あかし)かなんかだろ?」
「へぇ、そうなのか? ……ん?」

 そうマッソとザビが話していると、突然アッシュが笑い出した。

「……どうしたんだい、いきなり?」
 アッシュは膝を叩いて愉快そうに天井を見上げる。
「いやぁ、おっちゃんたちが王都の魔術師言いはりますから、びっっくりしてしもうて。せやけど、白い腕輪でっか? えろお安心しましたわぁ」
「……どうしてだい?」
「白い腕輪、そりゃ7級の魔術師の証明ですわ。等級いうても下の下、そこら辺の我流で魔術を身につけたもんとさして変わりませんのよ」

 マッソとザビは顔を見合わせる。

「そ、そうかい……で、それだと何で安心するんだ?」
 アッシュはマッソの手を両手で握った。
「ええやないですか、そないなこと。それよりも、そのおじいちゃんたちがどこに行ったのか教えてくれまへんかね?」

 マッソは、アッシュの瞳の奥が光るのを見た。

「あ、ああ……。あの三人は……。」
 (ほう)けたようにマッソは語り始めた。


 村人たちから情報を聞き出した後、アッシュは外で立ち小便をしていた。

「いやぁ、思った以上に楽な仕事やなぁ。気をつけんといかんのは、あの坊やくらいや……。」
 空に浮かぶ月を見ながらアッシュは独り()つ。

 アッシュが視線を下げると、成人したばかりの美しい村の娘が井戸で水汲みをしていた。アッシュの顔にふわりとした笑顔が浮かぶ。

「……手伝いましょか?」

 娘がふり返ると、そこにはアッシュが立っていた。

「い、いえ、結構です。お客様に雑用など……。」
「“お客様”」
 アッシュは暗い笑いを浮かべた。
「あの、何か……?」

 アッシュは笑いを浮かべたまま、ゆっくりと娘に近づく。

「ちょ、本当に結構ですから……。」

 しかしアッシュはさらに娘に近づき娘の腰に手を回した。

「きゃっ」 

 アッシュは接触するほどに娘に顔を近づける。

「や、やめて……。」
「口開けぇや」

 その言葉を聞くや否や、娘の瞳からは光が失われ、アッシュの言われるままに口を開いた。
 アッシュは娘の開いた口に自分の舌を滑り込ませる。

「……ん、く」

 アッシュは茂みの奥に娘を押し倒した。


 翌朝、その村からアッシュは消えていた。村人たちは村長の家で目を覚まし、二日酔いの頭をかかえて笑いあっていた。

「シェンタさんとこの出産祝いにしてははしゃぎ過ぎたな」
「ああ、あんなに飲んだのは久しぶりだよ」
「どうして、あんなに飲んだんだっけ?」
「さぁ、誰かが一気飲みし始めてそれから……。」
「あれ、あんまり記憶がないな……?」
「なにか……大切なことを忘れているような……。」

──
 一方のマゼンタたちはバン爺を先頭に旅を続けていた。懸賞金のかかっているシアンを連れての旅だったので、先を急ぎたかったものの、異変を感じたマゼンタがバン爺を引きとめる。

「……どうしたんじゃ?」
「シアンくんの様子が……。」
「……なに?」

 後方からついてくるシアンの足取りがおぼつかなかった。その足跡は左右でたらめについていて、まるで泥酔(でいすい)した酔っ払いのもののようだった。

「こりゃいかん、ちと休むか」

 一行は、道ばたの木陰で休憩を取ることにした。

「……シアンくん、水飲む?」

 マゼンタがうなだれて木の根元に腰かけているシアンに水筒(すいとう)を手渡す。シアンは小さくうなずいてそれを受け取った。

「ふぅむ、どうやらお前さん、あまり遠出をしたことがないと見た。無理は禁物じゃったか……。」
「これから辛かったらすぐに言ってね。きちんと休みを取るから」
「……ごめんなさい」
「あやまらなくていいんだって」

 ふたりはちょっとした疲労だと思っていた。しかし、真昼になり日が昇りきった時間になっても、シアンは一向に回復しなかった。それどころか呼吸を荒くして、額からはうっすらとした汗が絶え間なく流れていた。

 シアンから距離を取ったところで、バン爺はマゼンタに相談する。
「……どうやら、ただの疲労じゃないようじゃ。連日(れんじつ)の野宿だと坊やの容態(ようだい)が悪化しかねん。どこか、近くに村なんぞがあれば」

 バン爺は地図を確認する。しかし、地図にはめぼしい村は載っていなかった。バン爺は小さくため息をつく。

 マゼンタが口を開く。
「……あるには、あるんだけど」
「……ほ?」

 マゼンタは遠くに見える山間を見つめると、そこに向かって歩き始めた。
 マゼンタについていきながら、バン爺は地図を確認する。その方向には村はないはずだった。
 しかし陽が傾きかけた頃、マゼンタたちは山間(やまあい)にある村に到着した。

「……こんなところに村が」

 バン爺はマゼンタを見る。マゼンタの表情は硬かった。

「お~、マゼンタじゃないか……。」
 村の住人が遠慮がちにあいさつをした。マゼンタも遠慮がちに手を振った。

 彼だけではなかった。その村の住人がマゼンタを見ると、ぎこちなく声をかけるか、彼女を見ても無視をするかだった。バン爺とシアンを見た村人にいたっては、家の中に逃げる者もいた。

「……どこに行くんじゃ?」
 バン爺が訊ねた。
「……あたしの家」
「……ふむ」

 バン爺は村を見渡す。(さび)れた村だった。そして、そこに住まう住人の顔つきや服装を見て思った。

──棄民(きみん)の村か。

 今から60年以上前、大陸間で大規模な戦争が起こった。魔術戦争と呼ばれる国家間の総力戦、発達した魔術が用いられたその戦争では、多くの魔術師や兵士、さらに民間人が命を落とした。その際に国々の地図は大きく書きかえられ、一部の少数民族は分断され、また一部の部族は故郷を奪われた。結果、彼らは存在しない民として人々から忘れ去られてしまった。しかし、外部から忘れ去られても死に絶えたわけではない。彼らは独自にコミュニティを形づくり、命を、生活をつないでいた。

 マゼンタたちはとある一軒家に到着した。その家の前では妙齢(みょうれい)の女が野良仕事をしていた。女はマゼンタたちに気づくと、仕事を中断してこちらに小走りで近づいてきた。

「……マゼンタっ」

 その女は、近づいてくるとマゼンタに目鼻立ちがよく似ていることが分かった。

「……ひさしぶり、姉さん」
 女はマゼンタの後ろにいるバン爺たちに目を遣った。
「……どうしたの、突然?」
「……うん、近くまで寄ったから」
 マゼンタは青ざめた顔をしているシアンを見た。
「それと……一緒に旅をしてる連れの様子が悪くて……。」
 事情を察したマゼンタの姉が言う。
「……分かった。父さんに聞いてみる」
「あたしの問題だから、あたしが直接言う」
「……そう」

 そうして、マゼンタとマゼンタの姉は家に入っていった。
 しばらくすると怒鳴り声が聞こえ、マゼンタが戻ってきた。マゼンタの左の頬は()れていた。

「大丈夫だよ、入って」

 あまり大丈夫そうに見えないマゼンタの様子を見て、バン爺とシアンは顔を見合わせる。
 バン爺たちが家に入ると、部屋の真ん中のテーブルの前には不機嫌そうな中年の男が座っていた。おそらくマゼンタの父親なのだろうその男は、バン爺とシアンを見て、より不機嫌な顔になった。

「……蒼の民と茶の民か」
 マゼンタの父は言った。
「……そうですじゃ」
「……老人には申し訳ないが、大したもてなしはできないぞ」
「……結構じゃよ、屋根を貸していただけるだけで(おん)の字じゃ。それと……もし、この村に医者がいたら紹介してほしいのじゃが……。」
 マゼンタの父親は笑った。
「いると思うか?」
「……いや、すまんかった」
「ふんっ、久しぶりに顔を見せた娘の頼みじゃあなかったら、犬小屋だって貸しはせん」
「ちょっと、お父さん」と、マゼンタの姉が(いさ)めた。

 マゼンタは「こっちだよ」と言って、バン爺たちを外の納屋(なや)に案内した。そこには(わら)を束ねた上にシーツを被せた、簡易(かんい)のベッドが用意されていた。

「……ごめんね、ほんとはもっときちんとしたところで休ませたかったんだけど」
「ええわい。野宿に比べりゃあ、これだけでも豪勢なもんじゃ」
「……ここの人たちはよそ者が嫌いでさ」
「……そうみたいじゃの」

 よそ者が嫌いという程度ではないだろう、とバン爺は思った。
 彼ら棄民は戦争で利益を得た支配民族を、嫌いどころか憎んでいる。特に、シアンのような蒼の民と呼ばれる貴族階級は戦争をおこし、バン爺のような茶色の民は戦争で大きな利益を得た。彼らに土地を奪われただけではなく、同胞(どうほう)を殺された者も少なくない。あまり長居もひかえた方が良いだろう。
 ベッドに寝かせると、すぐにシアンは寝入ったが、それでもうなされているように汗をかいていた。マゼンタは手ぬぐいでシアンの額をぬぐった。

「……病気なのかな?」
「……貴族のお坊ちゃんじゃから、慣れんこと続きでヘタってしまったのかもしれん。それとも……。」
「それとも?」
 バン爺はシアンの手首を握った。
「おとといは、はりきっておったからのぅ……。」

 目をつむり、バン爺は手首を握る手の力を緩めては強める。やがてバン爺とシアンの呼吸が重なり、ふたりの体は一体化しているかのように上下し始めた。

 しばらくシアンと呼吸を合わせた後に、バン爺は目を開いた。
「……むぅ、妙じゃ」
「……妙って?」
「いや、術式を使用しすぎて体内のオドを消耗(しょうもう)しとるのかと思ったが……しかし、オドの方はいたって充実……それどころか、この子の体内に満ち満ちとる。……いったいどういう事じゃ?」

 そう言われても、マゼンタにはピンとこなかった。

「普通に、風邪ひいちゃったとかじゃ?」
「ううむ」
 マゼンタはシアンの額に手を置いた。
「熱はないみたいだね」
「……まるで、この子の体の中にもうひとりの存在があるような、妙なオドじゃ……。」
「そんなこと言われても分かんないよ。ねぇ、明日もこのままだったら、お父さんにロバを借りて、大きな町まで行ってみようよ」
「ええんか?」
「まかせて」
 そう言って、マゼンタは納屋から出ていった。

 家の方から怒鳴り声が聞こえ、そして戻ってくるとマゼンタの右の頬が腫れていた。バン爺はドン引きする。

「ロバ借りても大丈夫だってさ」
「……お前さんが大丈夫かね」
「家にいた頃はしょっちゅうだったよ」
 バン爺はシアンのために濡らしておいた手拭いを、「ほれ」とマゼンタに渡した。
「ん、ありがと」

 マゼンタはその手拭いを頬にあてる。
 バン爺はシアンの手を握りつつもマゼンタを気にしていた。

「その……家を出たのは、そういうことかね?」
 マゼンタは笑って首を振る。
「違うって、そんなに重く考えないでよ。ここいらの子供なんて、だいたい父親にぶん殴られてしつけられてるんだから」
「ふ……ふむ」
 マゼンタはシアンの(そば)に体育座りで座り、両膝(りょうひざ)の間に頭を乗せる。
「……あたしはこの村が嫌いだったの。窮屈(きゅうくつ)なのに、ここにいる限り息苦しいって分かってるのに、それでもここから出ようとしない皆が。誰かが外の世界に行こうとしても、自分たちには住むところがないとか、さっきみたいに外の人間は敵ばかりだからって、引きとめようとする空気があるんだ」
「……まぁ、ワシが物心ついた頃には終わりかけとった戦争じゃが、しかし、ここの人々の言い分も分からんでもないぞ。実際に、ワシらや貴族たちが彼らの土地をひっかきまわしたんじゃからな。元いた土地から追い出されて、こんな辺境の地で王国の庇護(ひご)にもあずかれんのじゃ」
「それ何十年前の話? 戦争の事なんて、お父さんだってお爺ちゃんから話で聞かされてるだけだし、そのお爺ちゃんだってバン爺と同い年くらいだったんだよ。戦争が終わった時は子供だったんだ。その後からいくらでもやりなおしはできたんだよ、それなのに自分たちからその道を捨てたんじゃない」
「むぅ……。」
「あたしはここで終わりたくなかった。家族の事は好きだけど、あたしは自分の人生を生きたかったの」
 バン爺はシアンを見る。
「……お前さんがこの子に同情するのは、そういうことがあったからかね?」
 マゼンタもシアンを見る。
「めっちゃ可愛いから」
「あそ」
「この寝顔を見てると(たま)らん気持ちになっちゃう」
「やめんか」

 マゼンタは笑い、バン爺は首をふった。
──

「……あかん、見失ってもうたわ」

 アッシュはシアンを追う道中で途方(とほう)に暮れていた。仕方なく、アイリス伯から預かったクリスタルを懐から取り出し様子を見る。

「シアンくんが術を使うてくれんと反応せんっちゅうんは、便利なようで不便なもんやなぁ……。せっかく、あの子のオド操って動けんようにしとんのに、いったいどこ行ったんや……。」
 アッシュは荷物袋から地図を取り出した。
「この辺になんぞ村でもあるんか? せやけど地図にはないしなぁ」
 アッシュは再びクリスタルを手に取ってそれを(かか)げた。
「しゃあないな、あんまやりたないけど、見失うよりマシやろ」

 アッシュがクリスタルに念じると、クリスタルはグリーンの濃淡(のうたん)の光を放ちはじめた。

「……悪く思わんといてや、シアンくん。甥っ子の教育や」

──
 
 ふと、マゼンタはバン爺の足を見た。
「……ところで、なんで裸足なの?」
 いつの間にか、バン爺は靴を脱いでいた。
「ん? ああ、ちょいとここの土地神と話をしとるんじゃよ」
「土地神と?」
「そうじゃ、ワシゃあ新しい土地に来たら──」

「う、う、うああああああ!」

 突然シアンの容態(ようだい)が変化した。シアンは口を大きく開け白目をむき、体を異常なまでに緊張させ弓なりに反らしている。病気とは思えなかった。まるで、体を外からの大きな力によって()じられているかのようだった。

「な、なんじゃ!?」
「シアンくん!?」
「が、が、があああああああ!」

 シアンは陸に引き上げられた魚のように、体を打ちつけて跳ねまわる。

「ちょ、バン爺、何が起きてるのさっ!?」
「ワ、ワシにもいったい……。」

 バン爺はシアンの腕を取り、脈と、そして体内のオドの流れを調べる。

「な、なんじゃあ!?」
「どうしたのっ!?」
「ありえん、こ、これは……。人間の持てるオドをはるかに……。」
「医者を呼んだ方が良いの!?」
「医者……いや、医者などでは……。」

 シアンはさらに激しく痙攣(けいれん)し始める。

「ねぇ、何とかしてよ、シアンくん死んじゃうよ……。」
 マゼンタは両手で口を押えて涙を流し始めた。

「……ど、どういうことじゃ?」
 ふたりはシアンの次の変化に気づき始めた。
「ねぇ、シアンくんの体、大きくなってない……?」

 最初は尋常(じんじょう)ではない様子で暴れまわっている(ゆえ)錯覚(さっかく)だと思っていたが、そうではないことが分かった。暴れながら、シアンの体は実際に大きくなっていた。寝床よりも小さかったはずのシアンの体が、今では手足がはみ出るくらいになっている。

 シアンの手首を握りながら、バン爺が何かを予見(よけん)した。
「……マゼンタや」
「なに!?」
「……ここから逃げるんじゃ」
「……え?」

 バン爺は立ち上がると、マゼンタの手を引いて外に走り出した。

「ちょ、ちょっと、シアンくんは……?」
「それどころじゃない!」

 バン爺たちが納屋から飛び出ると同時に、納屋の中から強烈な光が放たれた。

「な、何なの!?」

 さらに光は強くなり、光の柱が納屋の屋根を真上に吹き飛ばした。だが、屋根から伸びた光の柱は真っ直ぐ空に伸びることなく、ジグザグに空を飛び回り、そして近くの山にぶつかった。ぶつかった場所からは爆発音が聞こえた。

「何なの……これ」
 マゼンタは恐る恐る納屋に戻り、中の様子を見る。
「……シアンくん?」
 マゼンタが声をかけるが、そこにはシアンの姿はなかった。
「そんな、シアンくん、どこいっちゃったの……。」
「……おそらく、あそこじゃろうな」

 マゼンタがバン爺をふり返る。バン爺は山の方向を見ていた。

「さっきの光が、シアンくん……なの?」
「ふむ……。」

 バン爺は光が落ちた方へ歩き始めた。

「おい、さっきの音は何だ? ……うお!?」
 家から出てきたマゼンタの父が、破壊された納屋を見て驚きの声を上げる。
「な、何なんだ!? 何が起きたんだ!? おいマゼンタ説明しろ!」
「それを今から確認しに行くんだよ!」
 そう言って、マゼンタはバン爺の後を追いかけていった。

 バン爺がついてきたマゼンタに言う。
「お前さんは家で待っといた方がええぞ」
「大丈夫、やばくなったら逃げるよ。大賢者も言ってるしね、“やばくなったら逃げろ”って」

 バン爺はもう何も言う気が起きなかった。
 光が落ちた場所に到着すると、周囲の木々がなぎ倒され、その中心にはすり(ばち)状の大きな穴が開いていた。そして、その穴の真ん中にはうずくまっている全裸の人影が。
 思い当たる人物はひとりしかいない。しかし、マゼンタたちはそうだと思うことができなかった。そこにいたのは、12歳の少年ではなかった。体は遠巻(とおま)きに見てもマゼンタの父親よりはるかに大きく、筋肉は所々が岩のように盛り上がっていた。白い肌と青い長髪がせめてもの名残だった。

「……あれが、もしかしてシアンくん?」
「もしかせんでも、そうじゃろうな……。」
「うそ……。」
「う、うう……。」

 シアンは(うめ)きながら体を震わせていた。白い肌のせいで、まるで生きた彫刻のようだった。

 さらに近づいてマゼンタが変身したシアンに問いかける。
「……シアンくん?」
「う、う……。」
「……大丈夫?」

 マゼンタは苦しんでいるシアンを心配してかけ寄ろうとするが、それをバン爺が制した。

「用心した方がええ、どうもあの子は理性を保っとるとは──」

「うがぁあああああああっ!!」
 シアンが顔を上げるとともに、バン爺たちに衝撃破(しょうげきは)が飛んできた。

「いかんっ!」

 バン爺は片足で地面を踏み鳴らす。すると土壁が地面からせり上がり、衝撃波から二人を守った。土壁は役目を終えるとボロボロと崩壊した。

「え、な、何でシアンくんがあたしたちを!?」
「……分かっとらんのじゃろう」
「分かってないって……ん?」

 マゼンタが異変に気付いて空を見上げる。空には雷雲が広がっていた。

「さっきまで雲ひとつなかったのに……。」
「なんじゃと……。」
「うがぁあああああああああああああ!」

 再度のシアンの咆哮(ほうこう)。それと共に、辺り一面に雷が一斉に落ちた。(またた)稲光(いなびかり)(とどろ)雷鳴(らいめい)、一瞬で視覚と聴覚が失われる。

「きゃあああああ!」

 マゼンタは目と耳の衝撃で、ダメージはなかったものの倒れてうずくまった。

「あ、ありえん。一体いくつの術式を使っておるんじゃ? こりゃあ人間の(わざ)じゃあないぞ……。」

 体が筋肉の(よろい)で巨大化しているシアンの体が再び発光し始める。そして立ち上がり両手を広げると、シアンはゆっくりと宙に浮き始めた。
 空に昇るシアンをただ呆然(ぼうぜん)(なが)めるバン爺。そのシアンの姿は、まるで天から降りてきた、最後の審判(しんぱん)を実行する大天使のようだった。

「……あかん、こりゃああかんぞ」

 バン爺がそうつぶやくとともに、シアンが激しく発光し、その体から無数の光球が発射された。

「間に合ってくれ!」

 バン爺はマゼンタの体をつかむと術式を展開した。まるで真下の地面が液化したかのように、ふたりの体はするりと地中の奥深くへと沈み込んでいった。彼らの真上では、おそらくシアンの放った光球が作り出したのだろう、破壊の轟音(ごうおん)が鳴り響いていた。
 暗い地中の中、マゼンタは恐怖のあまり、バン爺に抱きついて離れようとしなかった。バン爺もこの状態ではもはや神に祈るしかないと、ひたすら目を閉じ身をすくめていた。
 しばらく地中深くで身を潜めていると、破壊音がぴたりとやんだ。

「……終わった?」と、マゼンタが顔を上げる。
「何とも言えん……。」

 このままさらに時間を置きたかったが、そういうわけにもいかなかった。マゼンタの村の安否(あんぴ)が気になるし、何より上にいるのは他でもないシアンだった。やり過ごすわけにもいかない。バン爺とマゼンタは地上に出ることにした。

「なんということじゃ……。」

 だが、希望的観測(きぼうてきかんそく)はすぐに打ち砕かれた。ふたりが見た地上の光景は、まるで神話世界の戦いの後のようだった。
 辺り一面が炎に包まれ、木々はなぎ倒されていた。そしてそんな業火の中、平然と立ち尽くすシアンの姿があった。

「シアンくん!」
 マゼンタはシアンに近づこうとするが、強い炎と豪風に阻まれる。
「シアンくんいったいどうしちゃったの!? バン爺、村の皆は!?」
「あそこまでは火の手も煙も上がっておらん、まだ大丈夫じゃろう!」
「わ、分かったっ。……シアンくんっ! いい加減にしなよ! あなた、この国ごとぶっ潰すつもり!?」
「う、う、う……。」

 マゼンタの言葉に反応したのか、シアンは両手で頭を抱え始めた。

「……シアンくん?」

「う、う、うおおおおおおッ!」

 シアンが叫ぶと、両目が輝き光線が放たれた。
 光線はふたりの隣の山を形を変えるほどに吹き飛ばした。

「ちょ……。」

 ふたりは山を見て呆然とする。

「マゼンタ……逃げた方がええかもしれん」
「だって……あの子をこのままほっとけないよ! それに、あたし達が逃げたら村がどうなるか……。」
 たとえ自分の力が及ばないと分かっていも、マゼンタは何もしないわけにもいかなかった。
「お願いシアンくん! あたしの声が聞こえないの!?」

 その声に気づいたのか、シアンの顔がマゼンタの方を向いた。

「シアンくん! あたしよ! マゼンタ! 気づいて!」

 シアンの瞳が再び強烈な光を放ち始めた。あの光線だ。

「……シアンくん」

 強烈な光の前に、マゼンタは目をつぶった。
 絶命(ぜつめい)の破壊光線、マゼンタはまぶたの上からでも強い光を感じた。
 死を覚悟していたマゼンタ、しかしその光は直撃することはなかった。
 目を開けると、彼女の前にはバン爺が立っていた。

「……バン爺」

 一体どうやったのか、周囲には光線が何かを破壊した形跡(けいせき)は見当たらなかった。ただ一つ分かるのは、バン爺の(いん)を組んだ手から火花がちりちりと散っていたことだった。

「……マゼンタや」
「……なに?」
「ここはワシが(おさ)える。お前さんは村の人間と一緒に逃げえ」
「じいさんをひとり残して置いてけってのっ?」
「……五分五分じゃ」
「え? 何が?」
「あの子を抑えられる確率がじゃよ。じゃが、お前さんがおったらそれが出来ん。はよぉ逃げえ」

 突然の情報料にマゼンタは混乱する。破壊光線がそれたこと、バン爺が五分五分で抑えられると豪語(ごうご)したこと、しかしひとつ確実に分かることは、自分が邪魔だという事だった。

 後ずさりするマゼンタ。
「バン爺……生きて戻ってきたら、めちゃサービスしちゃう!」
「みなぎるのぅ」

 バン爺は笑っていた。不思議な笑顔だった。後年、マゼンタがその老人の笑顔を、生涯忘れることがないだろうと述懐(じゅっかい)するほどに。
 マゼンタは(きびす)を返して村の方へと山を駆け下りていった。
 マゼンタが去ったことを確認すると、バン爺はゆっくりとシアンの方へ歩き出した。そんなバン爺を、シアンが雷鳴のような咆哮で威嚇(いかく)する。

「……まったく、神さんはいつもワシに身に余る仕事を押しつけよる」
 バン爺は構えた。
「来なさいシアン、反抗期にしてはちぃと行き過ぎとるぞ」

 シアンが大口を開ける。喉の奥が緑色の光を放ち始めた。オドの気配から、先ほどの破壊光線より(はる)かに強力な一撃が来ることが予想された。山を破壊する以上の。

──あ、無理じゃったかもしれん。

 ふと、バン爺は死を予感した。突然の死神のささやきは、そよ風のように(さわ)やかだった。

──まぁ、とっくに捨てた命じゃしのう……。

 バン爺は術式を展開する。せめてマゼンタたちに被害が及ばないよう、命を賭けた一時しのぎのために。

「がるるるるるるぁあああああ!」
 シアンが吠える。

「来いやぁ小僧!」
 バン爺が(かつ)をする。

 決死の勝負、バン爺の心臓の鼓動(こどう)が残りの人生分の回数を使い果たそうというくらいに激しく脈打つ。

「う、……ありゃ?」

 しかし、シアンの攻撃は放たれることはなかった。体が一瞬はじけたように光ると、光の粒子(りゅうし)が四方に飛び散り、シアンはその場に倒れたのだ。

「……シアン?」
 バン爺が恐る恐る近寄る。シアンの体は元に戻っていた。そこにいるのはバン爺の見知った12歳の美少年だった。

 バン爺はシアンを抱き上げる。暴れる前もその最中も、悪夢にうなされ続けていたような少年は、今では安らかに寝息を立てて眠っていた。

「なんじゃったんじゃ……?」
 バン爺はシアンの胸に手を当てた心臓は正常に動いている。
「……むぅ?」
 バン爺がオドのを探っていると、シアンの胸の奥が濃淡(のうたん)の緑色の光で発光した。バン爺の顔が(けわ)しく(ゆが)む。
「……自分の子供に何ちゅうことをしおったんじゃ、あの男は」

 バン爺はシアンを背負うと、村へ戻っていった。
 ちょうどその頃、マゼンタは村に到着していた。
 急いで山奥での出来事を伝えようと(あせ)っていたマゼンタだったが、遠巻きに見て村の人々の様子がおかしいことに気づいた。灰色の髪の男が村人やマゼンタの家族と談笑(だんしょう)をしていたのだ。よそ者を嫌う土地で、あんなにも歓迎されている人間がいるのは奇妙なことだった。
 マゼンタは、自分がいない間にこの村の人間と仲良くなった誰かなのだろうかと思った。何よりそれ以上に、シアンがあれだけ山で暴れていたというのに、なぜ彼らはこんなに落ち着いていられるのだろうか。

 マゼンタに気づいたマゼンタの姉が言う。
「あらマゼンタ、ちょうど良かった。お客様よ?」
 マゼンタの姉は頬を赤らめていた。

──お姉ちゃんがあんな顔するなんて……?

「……客? あたしに?」

 灰色の髪の男はマゼンタを見ると、目を輝かせて近づいてきた。とても朗らかな笑顔をする男だった。悪意がなさ過ぎてむしろ邪悪に見えるような、屈託(くったく)のない笑顔だった。

「おねえさんがマゼンタ? 自分、アッシュ言います」
「……アッシュ?」
 アッシュは手を差し出した。
「よろしゅう頼んます」

 マゼンタも手を差し出す。アッシュはマゼンタの手を握ると、強引に自分に引き寄せた。

「あ」

 マゼンタとアッシュの顔が近づく。端整(たんせい)なアッシュの顔に、一瞬でマゼンタは心を奪われた。

「あ、あの……。」
「可愛らしゅうおますなぁ……。」

 心を奪われたとはいえ、まったくの面識のない男だった。マゼンタは家族に「この人は誰?」と訊ねようと、アッシュ()しに家族を見る。なぜか、マゼンタの家族たちは不自然な笑顔を浮かべていた。父親に至っては、少し痙攣(けいれん)しているようだった。

 アッシュがマゼンタの耳元に唇を近づけて(ささや)く。
「シアンくんは……どこでっか?」
「!?」

 光を失いかけていた瞳に力が戻り、マゼンタは手をふりほどきアッシュから体を離した。

「……あんた何者?」

 アッシュが興味深そうにマゼンタを見る。その瞳の奥は、相変わらず夜空の一番星のように輝いていた。

「へぇ、軽いねぇちゃんかと思うたら、意外と芯の強い人なんやねぇ」
「ねぇ、お姉ちゃん、この人だれ!?」

 しかし、そう問いかけるも彼女の家族は変わらず笑顔のままだった。笑顔によって体を拘束(こうそく)されているようだった。

「……あんた、あたしの家族に何したの?」

 アッシュは顔を左手で覆って笑う。少しづつ、朗らかな笑顔に闇が浮かび始めた。

「けったいなこと言いはりますなぁ、俺は皆さんと仲ようしたいだけでっせ?」
「仲良くですってっ?」
「……どうしたんじゃ?」

 そこへ、シアンをおぶったバン爺が戻ってきた。

「……おや?」

 アッシュに視線をやるバン爺。マゼンタは来ないようにバン爺に声をかけようとするが、アッシュが耳元で「黙りなはれ」と囁くと、マゼンタはしゃっくりをしたように言葉を飲み込んだ。

「……何じゃ、その人は? お前さんの知り合いかね?」
 アッシュは両手を広げバン爺に近づいていく。
「ええ、そうですぅ。この村の人たちと仲良ぉさせてもらってるアッシュいいますねん」
「……アッシュ」

 バン爺はマゼンタを見る。マゼンタは無表情でその場から動かない。その後ろの彼女の家族は、不自然な笑顔でこちらを見ていた。

「おじいちゃんとも、是非(ぜひ)ともお近づきになりたいですねぇ」

 アッシュは手を差し出した。
 バン爺は首を傾げると、おぶっていたシアンを地面に丁寧(ていねい)に寝かし握手に応じようと手を差し出した。袖からのぞく、バン爺の手首にある白い腕輪を見てアッシュがほくそ笑む。
 交わされる握手。バン爺の危険を察したマゼンタは、なんとか動こうとするが体が言うことをきかない。
 しばらくバン爺とアッシュは握手をしたまま動かなかった。笑顔は固まり、筋肉は硬直している。
 不自然なまでに長い握手、先に口を開いたのはアッシュだった。

「……なかなか、老獪(ろうかい)なオドを持ってはりますねぇ、おじいちゃん」

 バン爺が眼光(がんこう)鋭く笑う。

「お前さん、魔術師じゃな」
「……ええ、同業者ですぅ」

 笑い合うふたり。しかし、アッシュの額からは汗が流れていた。

「……どうしたね? 計算違いでも起きたかね?」

 相変わらずバン爺は笑顔だったが、アッシュの顔からは笑顔が消えた。

「……あんたぁ」

 バン爺はマゼンタやその家族、そして村人たちを見る。
「お前さんの目的は何となく察したよ。じゃが、ここじゃとちぃと面倒じゃ。場所を変えんか?」
 汗の流れるアッシュの顔に笑顔が戻る。
「おやおや、休憩の申し出でっか、おじいちゃん? 俺はここでもかまいませんがねぇ?」

「調子乗んなやクソガキ」

 小さい老人のつぶやき、しかし突然のバン爺の剣幕(けんまく)にアッシュは小さく身を引いた。

「ここでお前さんの内臓を四方に散らす訳にはいかんじゃろが」

 アッシュはバン爺から手を離した。手がしびれているらしく、握手をしていた手をもう片方の手でさすっていた。

「面白い事言いなはりますねぇ……。」
 劣勢(れっせい)を認められず、アッシュは何とか笑顔をつくる。
「……ついて来い」

 そう言うと、バン爺は森の方へと向かった。アッシュもその後に続いていく。

「バン爺!」
 アッシュの謎の拘束から解かれたマゼンタが叫んだ。
「安心せぇ、ちぃとこのあんちゃんと話すだけじゃて」
 バン爺は振り向いて言った。
「すぐに戻りますわぁ。そん時はじっくり可愛がってやるさかい、待っとってやぁ」
 アッシュも振り向いて手を振った。

 バン爺とアッシュは森に入っていった。
 森に入り、辛うじて月明りの指すけもの道を歩くふたり。しばらくしてからアッシュが口を開いた。

「……驚きましたわぁ。7級聞きましたから、てっきり楽なお仕事やと思うたんですけどねぇ」
 夜道の先を行くバン爺が、背中を向けたままで言う。
「……お前さん、オールドブラッドかね?」

 アッシュの足音のリズムがほんの少し崩れた。

「……さいです。よぉ分かりましたねぇ」
 バン爺が小さな笑い声をあげた。
「さっき村の人たちに使うたのは、テンプテーションじゃろう? あの術式は修練(しゅうれん)で覚えられる代物(しろもの)じゃないからのう。生まれついての才能……いや、血の特性が必要なはずじゃ」
「……流石、7級といえど王都の魔術師ですねぇ、よぉお勉強してはりますわ」
「それだけが取り柄じゃったからのう……。」
 バン爺がふり向きアッシュを見る。
「お前さん、見た所、独学(どくがく)のようじゃの?」
 アッシュが笑う。
「俺、嫌ですねん。自分よりアホな奴に教え()うのが」
 バン爺はからからと笑った。
「若いのう」
「……ところで、何でおじいちゃん裸足ですの?」

 バン爺は照れくさそうに笑った。

「急いで出てきて、靴を履くのを忘れとったんじゃ」
「あわてんぼうのおじいちゃんやなぁ」

 森を抜けると、ふたりは開けた草原に出た。空からの満月の明りで、その草原の周囲は十分に見わたせた。

「……ここなら良いじゃろ……むぐぅ!?」

 バン爺が振り向くや(いな)や、アッシュはバン爺の顔面を左手でわしづかみにした。
「えらい恥ぃかかせてくれはりましたなぁ、おじいちゃん」
「む……むぅ……。」

 大きい目を()いてアッシュがバン爺に顔を近づける。

「あんさんが悪いんやでぇ、大人(おとな)しゅう術にかかってくれたら、こないなことせんですんだのに……。」

 アッシュはバン爺の胸に右手をあてた。その右手が青白く発光する。

「……プレゼントでっせ」

 アッシュはバン爺の体内に直接オドを叩き込んだ。

「かはぁっ」

 アッシュはバン爺を投げ捨てるように解放した。胸元をおさえ、バン爺がよろめく。

「う……く……。」
「じいさんらしく、心臓麻痺てあの子らには言うときますわ」

 バン爺はアッシュを見る。アッシュは目を輝かせて笑った。

()ぜぃや」

 アッシュが右手を握りしめた。

「ぐぅお!」

 バン爺が草むらに(ひざまず)いた。

「悪く思わんといてや。俺も仕事ですきに」
「し、仕事……?」
「ええ、アイリスのおっさんからのじきじきのね……。」

 バン爺はうつぶせに倒れる。左手で何とか体を起こしている状態だった。

「な、なぜ……アイリス伯は、ここが……。」

 アッシュはバン爺を見下し得意げに笑うと、懐からクリスタルを取り出した。

「……それは?」
「アイリス伯が精製(せいせい)したクリスタルですわ。これを使えば、シアンくんの体調をコントロールしたり、強い術を使うた場合には反応して居場所が分かるようになっとるんですわ」
「……もしかして、さっきのあの子の暴走も……お前さんが?」
冥土(めいど)の土産にしては頼みが多すぎますねぇ。ええでしょ、教えたりますわ。俺、敬老精神めっちゃありますねん」

 アッシュは倒れているバン爺をのぞき込むようにして言う。

「そのとおりですよ、おじいちゃん。まぁ、ある程度近くにおらんと出来へんことなんですけどね。……おじいちゃん、あの子はねぇ、お父ちゃんに首輪をつけられとるようなもんなんですわぁ」
「……なるほど。ならば、あの子に術式を使わせなければ、居場所はばれんということじゃな?」
「そないなこと今さら気にしてどないするんすか? もう居場所は分かっとりますよ?」
「これから逃げて居場所をくらますからじゃよ」

 バン爺はすくっと立ち上がった。

「……な!?」

 驚いて尻もちをつくアッシュ、すぐに立ち上がろうとするが足に草が絡まって立ち上がることができない。

「お前さん、ずいぶんと口が軽いのう」
 バン爺はアッシュを見下す。
「な、なんでや!」
 バン爺は胸元をさする。
「ちぃと強いオドじゃったがな、単純じゃから流させてもらったんじゃ」
「……流した?」

 バン爺は足元を指さす。

「お前さんの足元にな」

 アッシュは改めて足元を見る。まるで、人為的に結ばれたかのように、しっかりと足首が草で拘束されていた。

「こ、これがあんたの……術式!?」
些細(ささい)なもんじゃがな。……さてと」

 バン爺は(かが)むと、地面に手を当て術式を使い始めた。

「安心せぇ、さっきはワシもつい物騒(ぶっそう)なことを口走ったが、お前さんを殺しはせんよ。お前さんにはしばらくの間、ここから動けんようになってもらう。ワシらが逃げ切れるまでな」

 アッシュの周りの雑草がさらに成長を始めた。バン爺は、よりしっかりとアッシュを拘束するつもりらしい。

「あと、そのクリスタルも渡してもら──」
「な、なめんなジジイ!」

 アッシュは強引に力技で草を引きちぎり立ち上がり、転がりながらバン爺から距離を取ると怒声(どせい)を上げた。アッシュの薄いベージュのローブが逆巻(さかま)き灰色の髪がなびく。

「ほっほ、たいしたオドじゃ。さすがオールドブラッドじゃのう」

 アッシュから発せられる突風で、自身の髪をなびかせながらバン爺は笑った。

「死にさらせ!」

 右手をバン爺に突き出すアッシュ、手から青白い閃光が放たれた。
 バン爺に直撃する閃光、バン爺の体が激しく光った。

「今度は加減なしや、体ごと爆発せえ!」

 バン爺は体をくねらせる。すると、バン爺の体から光が消えた。

「な!?」
「返すぞい」

 バン爺が右の人差し指と中指をくいっと持ち上げると、アッシュの足元が爆発した。アッシュは衝撃で空高く舞い上がる。

「うわぁあああああ!」

 バン爺は手を叩きながら上空にいるアッシュを見上げる。

「お~、飛んだ飛んだ~。お前さん、とんでもないもんをジジイにぶつけようとしたんじゃなぁ」 

 落下すると受け身を取って素早く立ち上がるアッシュ、バン爺と改めて対峙(たいじ)する。広い草原の真ん中、ふたりを月明りが照らしていた。

「……おじいちゃん、ホンマに7級でっか?」
 バン爺は首を傾ける。
「いつワシがそうじゃと言うた?」
 アッシュは目を大きく開くと、額を左手で抱えてくっくっくと笑いだした。
「そうでしたねぇ……そういえば、なぁんも確認は取ってませんでしたわぁ」

 アッシュは薄布のストールをはぎ取り上着を脱いだ。

「……ほな、俺は出し惜しみはせぇへんから」

 アッシュは両手を合わせた。祈りではなかった。両手には力がみなぎり、肩の筋肉と胸の筋肉が膨張(ぼうちょう)して盛り上がる。

「おじいちゃんも、出し惜しみはやめてんかぁ!」

 アッシュの体が閃光に包まれ突風が吹き荒れた。
 光と風が収まると、筋肉の鎧に包まれたアッシュの体は金属のような光沢(こうたく)を帯び、さらに身長も頭一つ伸びていた。

「ほぉ、これはこれは……。」
 バン爺は規模(きぼ)は違うがシアンと同じ術式だなと思った。

「どやっ? おじいちゃんの枯れ木みたいな体と、このムキムキマッチョの俺の体、オドなんぞ関係あらしまへん! ボッコボコにしたるさかい!」

 バン爺は腰に回していた右手を前に出し、くいくいっと手招きをした。

「かまわんよ。どんなおデブちゃんでも、体内のオドは変わらんのじゃから」

 アッシュが弾丸のように飛び出す。

「これが!」

 一瞬で間合いが詰まっていた。アッシュはバン爺に殴りかかる。

「デブの体でっか! がぶぅ!?」

 拳がバン爺に届く寸前、アッシュはつまずいて顔面から地面に倒れていた。勢いがありすぎて、顔の半分が地面に()まってしまうほどに。
 そんなアッシュを呆れたようにバン爺は見下す。

「……どっちでもええわい」
「あ、あ、あれ……?」

 アッシュが顔を上げ足元を見る。またもや足に草が絡んでいた。

「少しは学習せんかい」

 バン爺を睨むアッシュ、叫び声をあげると両の手の力だけで飛び上がり、空中で体を1回転させてバン爺の前に立った。

「うおおおおおお!」

 アッシュは左右のパンチをくり出す。しかしバン爺には当たらなかった。バン爺が避けているのではない。足元の雑草がうごめくせいで微妙にすべり、体勢を崩し、拳がことごとく(くう)を切っていた。
 仮に当たったとしても、当たる瞬間にバン爺の体がゆらめき、ぺちりと気の抜けた音を出すばかりで手ごたえがない。

「な……なんでや……。」

 アッシュは呆然とする。バン爺は拳の当たった場所を手でなでて、そしてふぅっと虚空(こくう)を見た。

「……なかなか強烈なパンチじゃの。けっこう痛いわい」

 そう言うものの、まったく痛がっているように見えなかった。
 打撃が当たらないのならばと、アッシュはバン爺の胸ぐらをつかんだ。

「それやったら、(じか)にオドを叩き込んだるわ!」

 バン爺とアッシュを光が包み、ふたりの衣類が音を立てて逆巻く。

「はあああっ!」

 そして光は柱となって天に昇った。

「消えてなくならんかい!」

 アッシュの最大出力のオドの放出、普通の人間相手ならば消しくずになっているほどの攻撃だった。
 しかしバン爺はいたって平静だった。アッシュのオドはバン爺を通して地面に流され、ふたりの周りの雑草は腰ほどまでに成長し、季節外れの花が咲き乱れ始めた。
 色とりどりの花畑の真ん中で呆然とするアッシュ。「もう終わりか?」とばかりにほほ笑むバン爺。

「あ、あ……。」
「もったいないのう。せっかくテンプテーションを持っとるのに、こんな無駄な術式に力を(つい)やしおって。どの攻撃も単純で、お前さんの孫の代まで読めそうじゃ」
「やかましぃ!」
「ほ?」
「さっきのお返しや!」

 アッシュは上空にバン爺をほうり投げた。そして両手をかざすと、バン爺に向けてありったけのオドを放った。

「空の上やで! さっきにみたいに、逸らせるもんなら逸らしてみぃや!」

 破壊の光線がバン爺に直撃する、そう思われた瞬間、バン爺の落下スピードが突然上がり、バン爺は地面に急降下した。アッシュの閃光はバン爺に当たることなく空に消えていった。

「……へ?」

 バン爺が右腕を回す。
「出し惜しみは抜き、お前さんさっきそう言うたな」

 言い終わると、何の予備動作もなくバン爺がアッシュの目の前に飛んできた。

「!?」

 滑空(かっくう)しながらのバン爺のパンチがアッシュの顔面をとらえた。異常なまでに(かたい)い拳、アッシュは後方に吹っ飛び、ゴロゴロと地面を転がった。

「あ、あ……。」
 アッシュの鼻からおびただしい血が流れていた。

 アッシュは顔を上げてバン爺を見る。バン爺の右の拳が石化していた。

「な、なんや、それ……。」
 拳をくるくると回しながらバン爺は言う。
「どうじゃ? 別に体をデカくせんでも、術式を器用に使えばこういうこともできる。……そして」

 バン爺は左の人差し指と中指をくいっと曲げてアッシュに手招きする。するとアッシュの体が引っ張られ、猛スピードでバン爺のもとへ飛んでいった。

「あ、あ!」

 飛んできたアッシュの顔面をバン爺の右の(ひじ)打ちが迎え撃った。今度は右腕全てが石化していた。アッシュはバン爺とすれ違いながら、きりもみ上に飛んでいく。

「ほ、寸前で防いだようじゃな」

 直撃したら終わっていた石化した肘での攻撃、それをアッシュは両腕で防いでいた。しかし、そのダメージは大きく、アッシュは両腕をだらりと下げていた。

 アッシュはバン爺を睨みながら言う。
「な、なんなんや、おじいちゃん。あんた、何でそないな数の術式をつこうてはるんや? おかしいやろ、オールドブラッドでもあらしまへんのに」
 小さなため息をついてバン爺は言う。
「あほう、分からんのか?」
「何がやっ?」
「ワシが使うとる術式は、ひとつだけじゃぞ」

 だらりと下げた腕に加えて、アッシュの口もだらりと下がった。

「んな、アホな。だって、さっきから……。」
「お前さんのオドを逸らしたんは、オドの基礎をしっかりやっとるからじゃ。じゃが、術式に関しては嘘をついておらんよ。とはいえ、手品師は種を明かさん」

 ゆっくりとバン爺はアッシュのもとへと向かう。

「う、ぐ……。」

 正体の分からない術式に怯え、アッシュは後ろに下がろうとする。しかし、足が動かなかった。恐怖で足が動かないのかと思ったが、よく見ると足が地面に埋まっていた。足を上げようとしても異常なまでに体が重かった。

「……残念じゃな。良き師に巡り会えておったなら、オールドブラッドの上に強力なオドを持っとるお前さんじゃ、ワシなど足元にも及ばんかったろうに」

 バン爺はさらにアッシュに近づいていく。

「く、来るな……来るなぁ!!」

 アッシュは腕を振り回してバン爺を退けようとする。

「基礎からやり直せい!」

 バン爺はアッシュの胸元を掌で打った。アッシュは後方に吹き飛び、草原を越えて森の木に衝突した。ずるりと倒れるアッシュ。

「あ……が……。……あ?」

 アッシュは自分のぶつかった木を見る。アッシュのぶつかった木がざわざわと動き始めていた。

「な、なんや……?」
「ワシらがここを発つまで、ここで大人しくしてもらうぞ」

 硬いはずの樹木が、粘土のように柔らかく動き、そしてアッシュを飲み込んでいく。

「う、う、うわああああああああ!」

 アッシュは樹木に飲み込まれ、(かろ)うじて顔を出した状態で拘束された。流動的に動いていた樹木だったが、やはり硬いままでアッシュはまったく動くことができない。

「思った以上に、お前さん力が強いみたいじゃからな。ワシのオドが完全に回復するまでそこに閉じ込めておくぞ」
 「後、これも」と言ってバン爺はアッシュの懐に手を伸ばし、クリスタルを奪い取った。

「ちょ、待ってぇや。それはひとつしかあらしまへんのや。奪われたらアイリス伯に何て言われることか……。」
「……やっぱり、お前さんおしゃべりじゃのう。それを言わんかったら、ワシはアイリス伯の追跡をまだ心配しとったんじゃが」
「……あ」

 そうしてバン爺は踵を返して村の方へ歩いていった。

「ちょ、ちょっと待ってぇや! こんなところにこないなカッコで置いてきぼりでっか!?」
「明日の昼には術は解けとる。そのあいだの虫刺されくらい我慢せんか、男じゃろうが」
 勝負が決した後、来た道をたどって村に帰っていたバン爺だったが、途中で足を止め、うずくまって胸を抑えた。
「……効いたぁ」
 バン爺はけもの道の真ん中でぺたりと座り込み、息を整えながら目を細めて月を見上げる。
「……誰じゃね」
 何者かの気配をさっしていたバン爺が訊ねる。けもの道の端の草木が揺れ、そこからマゼンタとシアンが出てきた。

「……ついてきとったんか」
 マゼンタは肩をすくめる。
「ついてきたって言うか、あんだけすごい音がしてるんだもん。そりゃ見に来るよ」

 バン爺は「あちゃ~」と頭を抱えた。当初の計画では、もっと穏便(おんびん)に片づけるつもりだった。

「ああ、あのあんちゃん、思ったよりも手練(てだ)れじゃったからのう。ちぃと苦戦したわい」
「……大丈夫なの?」
「あのあんちゃんの身の上かね? 死にゃあせんよ。追ってくるかどうかなら、あの拘束が解けるまでには、目的地には着けるじゃろう」
「そうじゃなくって、バン爺がだよ」
「ワシかい? ほっほ、あんな若造に後れを取るほど老いぼれてはおらん」

 マゼンタはバン爺の前に行くと、背を向けて座り込んだ。

「ほ?」
「乗りなよ、おぶってくから」
「大丈夫じゃ、少し休めばすぐに歩けるわい」
「シアンくん、バン爺のお尻の方持ち上げて」

 マゼンタがバン爺の腕を自分の肩に回し、シアンがバン爺の後ろに回って老体を抱えるようにして押し上げた。マゼンタは「よいしょ」と立ち上がった。

「助かるわい」
「助けてもらったのはこっちだよ。ありがとう、村の皆を解放してくれて」
「ならば、言いっこなしという事にしておこうか」
「そうだね。あ、それと、あんまり股間を押し付けないでね」
「どうせえっちゅうんじゃ……。」

 ふたりは鼻で笑った。

 バン爺がふり返る。
「……シアン、もう体はええんか?」
「……うん」
「ダメならダメと言うとけ、だぁれも困りゃせんからの」
「……うん、大丈夫」
「そうか。……ところで、何かを気にしとるような顔をしとるの?」
「……ねぇバン爺さん」
「なんじゃ?」
「バン爺さんは、本当は7級じゃないんだよね?」

 バン爺は前を向いた。

「……。」
「ぼくも等級試験を受けたからわかるよ。バン爺さんのあのオドの使い方って、3級くらいの人のレベルだよ」

 マゼンタがバン爺をおぶりながら振り返った。しかし、バン爺はシアンをふり返ることはなかったし、マゼンタにも目を合わせなかった。

「……ああ、そのとおりじゃ」
「やっぱり。本当は何級なの?」

 バン爺は振り向いた。
「……ワシゃ等級なんぞ持っとらん」

 キョトンとするシアン、バン爺はそんなシアンを見て自嘲気味(じちょうぎみ)に笑った。

「さ、早く帰っていったん休息をとるとしよう。日が昇る前に出発したい」


 怪我の功名(こうみょう)か、村の人たちはシアンを連れ去る算段(さんだん)だったアッシュの術式によって記憶を書きかえられ、シアンが起こした騒ぎは、突然の嵐と山崩れによるものだと思い込んでいた。
 仮眠を取った後、バン爺の言ったように、空が白んできた頃に3人は村を出発する準備を始めた。その最中、マゼンタの姉が納屋に現れてマゼンタを呼び出した。
 マゼンタは外に出る。外では山の向こうが光を放ち始め、マゼンタの姉は逆光で表情が分かりにくくなっていた。

「……どうしたの、お姉ちゃん?」
「ねぇマゼンタ、あなたここに残らない?」
「……。」
「お父さんはあんなだけど、本当はあなたにここにいてほしいと思うの。どこかあなたを気にかけてる(ふし)もあるし、何より……わたしも……。」
「……お姉ちゃん」
「ここにはあなたの居場所があるのよ? 待ってる家族が、故郷があるの」
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「マゼンタ」
「でもね、あたし行くよ。ここじゃない場所がどこかにあるかもしれないし、そこで家族を作ることだってできるかもしれない。お姉ちゃんたちが嫌いとかじゃないの。お姉ちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいけれど、あたし、道の途中で歩くのをやめちゃったら、たぶん一生たどり着けたかもしれない何処(どこ)かを想像しちゃうと思うんだ。結婚しても子供を産んでもお婆ちゃんになっても、その何処かを考えちゃうと思う」
「……そう」
「ごめんね、わがままな妹で」
「……ううん、いいの。でもね、わたし思うの。多分あなたは我がままなんかじゃないのよ。人に流されないだけ」
「そうかな?」

 マゼンタの姉は苦笑いをして、マゼンタの両の頬を手で包んだ。

「普通、これだけぶたれたら少しは大人しくしようって思うわよ」
「ああ、あれって大人しくしてほしかったんだ?」
「え?」
「てっきり、お父さんが自分の感情ぶちまけてるだけかと思った」
「……まぁ、そういう(とら)え方もあるわね」

 マゼンタの姉がほほ笑む。マゼンタのうしろには準備を終えたバン爺とシアンがいた。マゼンタの姉は、自分たちが()み嫌うよそ者を甲斐甲斐(かいがい)しく世話をする妹の姿を思い出していた。

「もしかしたら、あなたなら自分が帰る場所じゃない、誰かが帰る場所を作れるかも。わたしたちの先祖がそうしたようにね」

 姉はマゼンタを抱きしめた。

「いってらっしゃい……。」

 マゼンタも姉に腕を回した。

「……うん」

 マゼンタがふり返ると、手をふってバン爺とシアンの方へ駆けて行った。
 遠くから、そんな娘の姿をマゼンタの父が見ていた。
 大地全体を日の光が照らすようになり、一行(いっこう)がマゼンタの村からかなり距離を取った頃、マゼンタが誰に訊ねるでもない様子で言った。

「……追手はあれだけかな」
「何とも言えん。……じゃが、ワシらがどこに向かっとるか知られん限り、追いかけようもなかろう」
「でも、あのアッシュって奴はあたしらの居場所が分かってたじゃん?」
 マゼンタはシアンの顔を見て、「ねー」と言った。
「もしかしたら、相手の居場所が分かる魔術とかじゃ? そういうのってあるの?」
「あるには、あるがのう」
「じゃあ、あいつ、その魔術を使ったとか」
「それはないじゃろ。あのあんちゃんが使ってた術式は、テンプテーションと肉体強化じゃ。まぁ、持ち前の気質と楽な修行に頼った結果じゃろうて。例えオールドブラッドでも、そんなに複数の術式を使えるわけじゃあない」
「そのさ、オールドブラッドってなんなの?」
「おや、もう知らん世代が出て来とるわけか。……シアンは等級試験で勉強しとるじゃろうから知っとるの?」
 シアンがうなずく。
「ほ、じゃあ復習といこうか」

 マゼンタがシアンを見た。シアンは小さく咳払(せきばら)いをして話し始める。

「……え~と、もともと魔術はオールドブラッドが発明したものなんだよ。魔術を使って、彼らは大きな帝国を作ったらしいんだ。ずっと昔の事だけどね。でも、彼らの支配はそう長くは続かなかった。植民地から抵抗が始まって、次第に帝国は植民地の言い分を受け入れるようになったんだ。植民地の文化、宗教を受け入れて、植民地の方でも積極的に帝国の文化を受け入れたんだけど、そうしていくうちに元々はオールドブラッドしか使えなかった魔術の中で、特別な民族じゃなくても使える術式が開発されるようになって、どんどん彼らは社会的な優位を失っていったんだ。彼らしか使えない術式もあったんだけど、それでもやがて帝国はオールドブラッドだけのものではなくなって、自然と国々が独立して今の国の形になったって……。」
「素晴らしい。満点じゃ」
「それじゃあ帝国を失った今、彼らはどうしてるの? 滅んじゃったの?」と、マゼンタは訊ねた。
「帝国が滅びた理由のひとつに、彼ら自身が他の民族と同化したというのがあっての。文化もさることながら、多くの血と交わり、そして民族としての特性を失って行ったのじゃ」
「……じゃあ、あのアッシュって奴は、奇跡的なオールドブラッドの生き残りってわけ?」
「今は“オールドブラッド”とは、部族や人種ではなく、(まれ)に生まれてくる彼らの特性が強い人間のことを指して言うんじゃよ」
「ぼくのお母さんもオールドブラッドだったんだ」
「ほぉ、そうか? ならば、お前さんの突出(とっしゅつ)した力は、母君ゆずりといったところじゃろうか?」
「……でも、ぼくはオールドブラッドじゃないって父さんが言っていたよ」
「言うたじゃろう、特性の強弱じゃと。1かゼロかじゃありゃせんよ」
「……じゃあ、バン爺的には追手が来る可能性は低いってこと?」と、マゼンタは言った。
「ワシはそう思う。どうやってワシらの居場所を知ったかは分からん。じゃが、あのあんちゃんの拘束が解けたとしても、ワシらをすぐには追ってこんじゃろ。ワシにあんだけこっぴどくやられた後じゃ。仲間を呼ぶにしても時間がかかろうて。近くに仲間がいるのなら、はなっから一緒に来とるよ」
「ふ~ん」

 バン爺はシアンをそれとなく見る。どうやら、本人はアッシュの語っていた、アイリス伯が自分を追跡できる理由を知らないようだ。父親に見えない首輪をされているという事実、それをそのまま伝えて良いものか、老人は苦慮(くりょ)していた。
 そして、3人がダリア伯の領地に入るまで、本当に追手はやってこなかった。もちろん、各々がその理由を違う形で考えていた。
 さらに領地を進み、ダリア伯の屋敷の前に着いた頃には夕方になっていた。

 1日歩き続けたシアンを気づかってマゼンタが言う。
「……あんまり休まなかったけど、昨日と違って、今日はずいぶん体調が良かったね? 何だったんだろ?」
「うん、たまにああなるんだ」
「……たまに?」
「前触れもなくああなったと思ったら、急に何もなかったみたいに平気になるんだよ」

 その意味を知るバン爺は、懐のクリスタルを握りしめていた。

 「あっ」と思い出したように言うと、シアンはふたりに深々と頭を下げた。
「昨日は、ご迷惑かけて申し訳ありませんでした」
「だから、あやまらなくていいんだって」
「でも……。」
「お前さんが言わんかったら、ワシらだって忘れとったぞ」
「そうだよ」
「……すみません」
「またあやまる」
「シアンや、人はただ生きとるだけで、それだけで誰かに迷惑をかけるもんなんじゃ。しかし、迷惑をかけとっても、たいして当人は気にしとらんもんじゃよ。もし、いちいち腹を立てとる奴がおったら、そいつが単に、自分が人に迷惑をかけとることを忘れとるだけじゃて」
「そうだよ、あたし何て普段から迷惑かけすぎてるから、人に迷惑かけられても何とも思わないんだから」
 そう言って、マゼンタが胸を張った。
「お前さんはちったぁ気にせんかい」
「……それよりバン爺、立派なお屋敷に着いたけど、これからどうすんの?」
「……本当に気にせんのじゃな。まぁええわい、お前さんたちはここで待っとれ」
「ここで?」

 バン爺はふたりを(とど)めると、ひとりで屋敷の前に行った。残されたマゼンタとシアンは顔を見合わせる。
 門の前まで行ったバン爺は、やはり番兵(ばんぺい)に止められていた。しかし、バン爺が何かを番兵に伝えると、番兵のひとりが屋敷に入っていき、しばらくして執事が現れバン爺に頭を下げた。
 その光景を見ていたマゼンタが「え?」と声を上げる。
 バン爺は何かを執事に説明すると、マゼンタたちに向かって手招きを始めた。

「……行こうか?」

ディパーテッド~最強魔術師は毒親育ち~

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