マスオは教室に入った。登校する途中、長月のことが頭から離れなかった。『運命の人』っていう言葉もなんか、現実味がなかった。今までそんなことを信じたことがないマスオだったから。

アツコはとっくに席についていた。マスオは少し迷ったけど、アツコの隣までいって、ぎこちなく礼を言った。

「き、昨日のお守りは、どうも、ありがどう」

いちおう、何事も起こらなかったお礼として言ったまでだ。

「私のお守りはすごいでしょう!」

アツコは勝ち誇ったように微笑みを見せた。お守りが効力あることに疑いのない笑顔だ。

「でも、完全に認めたわけではないよ。昨日はたまたま、変なことが起こらなかっただけなのかもしれないんだから」

マスオは自分の負けをみとめたくなく、すぐ否定した。

そんなにむきになったマスオを見まもるアツコは、自分は大人だから分るよ、というような眼差しで何度か頷いた。

「それって、何が変なことが起こっているってわけ?!」

話してからアツコはいきなり起き上がり、顔をマスオにぐいっと近づかせた。

「な、なにもないよ。あるわけないでしょう」

マスオはアツコから目をそらした。口を滑ったのが間違いだったと悔やんでも仕方がない。アツコの質問攻めをどうやってかわしたらいいか考えた。なのに、アツコはそれ以上追求することはなかった。

「わかった。でも私のお守りの効果を否定していいの?今日の分はほしくないかな?」

マスオは言い返す言葉を失った。効果は信じない。でも、心に勇気を与えるものとしてはお守りが欲しがった。


「安心して、今日の分もちゃんとあげる。でも、お守りを作るのって、すごく霊力を使うのよ。お礼は口だけだと、ちょっと……ねぇ?」

俯いて悩んでいるマスオを見ながら、アツコは言った。

マスオはアツコの話したがっていることをすぐ分った。

「今日の帰りにデザートおごってあげるよ」

「その言葉を待っていました!駅前のデザート屋に新しい商品が出てきたの。とても人気らしいの。それが食べたがったよね」

「分ったよ。それをおごればいいでしょう」

アツコとたわいのないと話をしていると、授業のチャイムが鳴った。マスオは自分の席に戻ると、また、長月の事を思い出してしまった。

よく考えれば、自分の事を長月と名乗るあの女の子は一体なにものなんだろう。僕の事をずっと探していたとか、生まれ変わってもすぐ分るとか、分けのわからないことを話して。もしかして、頭がおかしい人なんじゃ?!それなら、ママが危険かも。

だが、長月っていうあの子は変人には見えない。何だろう、不思議だけど、長月とどこかでであったような気がする。それに、心の中に温かい気流が溢れる。確かに、少しは懐かしい気持ちもなったけど、なぜだろう。もしかして僕は本当に彼女の運命の人?ってくだらないことも考えながら、黒板に視線を向けた。

マスオはいろいろと悩みながら、頭を抱えた。

そんなマスオの姿に、先生は自分の講義がむずかしいため、マスオが苦悩していると、勘違いをしてしまったらしい。

「マスオ君」

いきなり、名前を呼ばれたので、マスオははっとたち上がった。

「は、はい!」

「どこが難しい?」

「えっ?」

先生の言っていることがよく飲み込めなかった。けど、こんな時、正直にはなすとと、後が大変になるので、マスオはでとぼけることにした。

「すみません、全部難しいです」

「そう。分った。……じゃ、もう一度説明するね。マスオ君は坐っていいよ」

「はい」

椅子に坐ると、前に坐っているアツコがメモをこっそりと、渡した。

何か悩みがあるの?と書いてあった。

マスオは、何でもないよ、と書いて渡した。

長月のことを考えれば考えるほど、いとしく感じてきた。自分のこんな心の変化にマスオもびっくりして、考えないように試みたけど、無駄だった。これがもしかして『好き』という気持ちなのかな。

長月の姿が頭に焼きつかれたように、消せない。

マスオは、自分がおかしくなったと思ったその時、誰かが、自分の頭を軽く触るのに気付いて顔を上げてみた。

アツコだ。

「なにぼうっとしているの?やっぱり、悩みがあるのよね。この巫女の目は誤魔化せないよ。正直に話してみて、力になってあげるから」

昨日は、百歩譲って、アツコのお守りのお陰で何も起こらなかったかもしれないけど、アツコの力を完全に信用しているわけでもない。でも、自分のことを巫女と呼んでいるんだから、あの黒い影の不思議なこともきっと信じてくれるだろう、とマスオは思い始めた。

アツコはマスオの顔から心の微妙な変化を察して話し出した。

「話してみてよ。私はマスオの言う事を信じるから」

マスオはアツコのこの言葉を聞いて、自分が見たことを話してあげることに決めた。

「昼休みの時間に、どこか人のないところで話してあげる」

「うん、分った。そうしよう」

アツコの顔はぱっと明るくなった。マスオが秘密を共有することが、何より嬉しかった。秘密共有はとても親しい人じゃないとできない事だから。例えば恋人同士のような関係?こんな事を考えながら、アツコは椅子にちゃんと坐って、先生が入ってくるのを待った。

長月は男性と別れてから、当てもなくうろうろしてはいけないことを切実に感じた。力の強い黒魂はどこかにある。今まで出会うことができなかっただけ。

今まで弱い黒魂と相手をしたから、ちょっとだけ浮かれていたのかもしれない。長月はしっかりと自己反省をした。

もっと急いで沢山の黒魂を吸収し、力を上げないと。

なのに、長月が焦っていらば焦るほど、事は思うとおりにならないものだった。長い時間歩き回っているけど、黒魂の気配はどこにもいなかった。一体どうしてだろう、と長月は疑い始めた。街にはあてもなく歩いている人がこんなにもいるのに、黒魂が感じ取れないなんてありえないからだ。この人たちの心の中にはきっと黒魂があるはずなのに。いない方がおかしい。

そういえば、手掛かりは確かに一つはある。長月は思案しながら歩き続けた。目的地はなかった。

手掛かりはマスオの家に会った結界だ。結界があるっていことは、この町には呪力を使える人がいるってことになる。なら、その人が黒魂を狩るのもむりはない。あの人たちは昔から馬が合わなかった。今回の戦いはツイてない。最初にいやな奴らとも出会うなんて。

こうなった以上、その人たちより早く黒魂を見つけて食べないと。そうしないと、黒魂が全部、その人たちによって消されてしまう。

気が付くと、長月はいつの間にか、最初にこの大地に足を踏んだ山のふもとに来てしまった。午後なので、人の姿はみえない。平日の昼はこんなもんだ。時にしては、夜より、昼のほうが、犯罪に向いている。特に、昼にはあんまり人が来ない山とか。

このまま踵を返して町に戻るのはここまで来た体力にもうしわけないと思ったので、長月は目を閉じて精神を集中した。そして、山の中に黒魂がいないか探った。

しばらくしてから、黒魂の弱い力を感じ取った。弱いから、見逃そうと思ったけど、これを見逃したら、いつまた黒魂を見つけられるか知らない。それに、ないよりましだ。チリも積もれば山ってわけだ。

長月は黒魂のいる場所に向かって歩き出した。

黒魂も近づいている長月に気付いたのか、距離をとろうとしたが、また元の場所に戻ってじっとしていた。観念したのか?

長月はゆっくりと山を登った。 向こうが逃げる気がないなら、こっちから急ぐ必要がないと思った。長月は草むらのなかで黒魂を見つけた。

見たとたん、長月は息を吸ってしまった。黒魂の正体はこの間、この山で自分が助けた女だった。

女は長月が来たのを見て、ゆっくりと立ち上がり、気味悪い笑顔を見せた。

「久しぶり、でもないけど、久しぶりと言わせて。なんか、そんな気分なの」

「あなた、どうして?」

長月は目の前の女の姿が信じられなかった。でも、女は別に気にもせず、明るい顔でいた。

「顔、変だけど。あっ、わかった。どうしてこんな姿になったかと?」

女はその場で体を一周りして長月に見せた。裸の体に、黒魂が三つの黒くて短い棒になって、大切な部位だけ、隠している。

「全部あなたのお陰じゃない?私がこんなふうになったのは」

「私?」

長月は驚いた。あの日、確か目の前にいる女を助けたと思ったが、一体何があって、こんなふうになってしまったのか、知りたくもなった。ましえてや、自分のお陰と話している。

「そうよ。全部あなたのお陰。あの日ね、そのままあなたが行かなかったら、私はこんなふうにはなれなかったよ」

「どういうこと?あの日、確かにあなたを助けたと思ったけど……。黒魂も殺したし」

「確かに、あのクズ男からは私を助けたよ。でも、それで私はまた救いの手をうしなってしまったことになったのよ」

「何を言っているか、全然分らないけど」

「そうね、わからないよね」

女はケラケラ笑ってから話をつづけた。

「中途半端なところで、あなたがあのクズ男の黒魂を消したから、私はあの時から、続きを求め続けたの。どんなことをしても、こころの欲望を抑えることができなかった。その時、欲望が新しい黒魂を生み出し、この黒い棒となったわけよ。だから、わかった?」

「わからないけど」

「わからないだろうね、私が何を考えているのか!」

女は言葉を止めて、自分の胸の前に浮かんでいる二つの棒の中の一つを手に取って、口元に運んだ。そして、舌を出して、舐めた。

「ご覧のとおり、私はもう、性欲なしには生きていけないよ。一秒でも刺激しないと、心が痛くなるの。これは全部あなたのせいよ」

「それじゃ、あの男は?」

「もちろん、もう使え物にならないほど、遊びまくって、処分したよ。だって、あんの屑男がこの世に生きていても、何の得もないでしょう?……最初に欲望が襲ってきたとき、あの男で体が満たされると思ったけど、黒魂のとは比べ物にもならないのよ。だから、おもちゃとしてちゃんと使ったの」

女は笑い出した。悲しく聞こえてきた。おかしくなった自分の人生を悲しんでいるのだろうか。

あの日、長月は女から服を脱ぎとった時、確かに、後始末はちゃんとしたと思うけど、今の様子からみれば、そううまくいかなかったみたいだ。

「じゃ、今回、私がもう一度、あなたを黒魂から助けてあげる」

「無理だよ。だって、私ね、こんな状態が段々気にいってきたの。いつも絶え間なく、性欲を感じることも悪くないと思い始めたの。だから、このまま戦わずに私のことを見逃しては駄目?」

長月は少し戸惑った。女がこうなったのは自分のせいだと思ったから。だから、黒魂から女を解放すると、女は救われると思った。

こう結論をつき、女に訴えようとした時、空から、竹のような棒が飛びついてきた。

長月はこんな思いがけない攻撃を間一髪でかわした。そして、驚いたような眼差しを女に向けた。

「はっはっはっ。あなたは意外とバカだよね。黒魂を操る人の話を真にうけるなんて、本当にバカだね。私があのクズ男の黒魂が中途半端なところでやめたから、こうなったと思っているの?私は、最初からこうなの。あなたが最初に現れたときから、私は欲望に飢えていた。そして、あのクズ男にわざとさらわれたの。その前にも、たくさんの男と関係をもったよ。私は最初からこんな乱れな女の子なの。だから、救うなんてことは考えないで」

女が話しを続けている間も、三本の棒はずっと長月を攻撃した。

長月はかわしながら、髪で反撃をした。しかし、棒は思ったより丈夫だ。長月の髪が黒魂の棒を砕くことができなかった。

ちらっと、女を見ると、女の体の前にまた棒が現れた。女はその棒で攻撃をするのではなく、弄くり始めた。

今の女は黒魂と一つになった。黒魂を吸収すると、女は絶対に死ぬ。

もし、あの男性に出会わなかったら、こんな黒魂は見逃してもいいけど、自分より強い黒魂がある事を知った以上、どんなに弱い黒魂でも、食べることにした。戦ってみたら、思ったよりは強いが。

三本の棒が一斉に長月に向かって飛びついてくると、長月は長い髪を使って、三本の棒を包んだ。そして、棒の力を吸収した。

「あら、あなたの髪はそんなふうにも使えるの?便利だよね。……でも、一体、何本の棒が包められるか、試してみたくなったね」

言い終わると、女の前にいくつかの棒が現れた。

「まず、二十本で試してみようか?」

棒はたちまち竹のようになって、長月に飛びついた。

長月は髪で易く、二十本の棒を包んで吸収した。

「次は四十本行くよ」

棒はいきなり長月の目の前に現れた。

長月は先ず髪で自分の周囲を囲み、そして、一部の髪を使って髪の壁を叩く四十本の棒を全部吸収した。

「すごいね。じゃ、次は百本行くよ」

長月は女の黒魂が弱いからと言って、見くびった自分を恥ずかしく思った。黒魂の力は確かに弱い。でも、女の絶え間ない欲望が黒魂に力を与えている。一言でいうと、棒はいくらでも出せる。

女を直接に攻撃しないと、この棒は消えない。

百本の竹のような棒は空中で待機している。長月の隙を狙っているようだ。

長月は髪を傘のようにし、女の子に向かって走り出した。

すると、急に棒が長月の真正面に現れ、長月に向かって飛びついた。

以外なところで棒が現れたので、長月は髪で防ぐことはできなく、まともに攻撃を食らっていまった。

棒に突かれ、後ろに倒れると、空中の棒はこの瞬間を待っていたかのように、一斉にして、長月に向かって落ちた。

百本の棒の攻撃で、大地は揺れ、轟きが響き渡った。

埃があたり一面に立ち込めた。長い棒だけが埃の中から姿を突き出している。

こんな情景を見た女は自分の勝ちを確信したように微笑んだ。しかし、その微笑みもすぐ消え去った。

竹のような棒が次ぎから次へと消えている。

女はまた棒を作り出した。新しく作られた棒は長月が倒れた場所に向かって飛びついた。

地面に突き刺した棒は著しい速さで消えている。

埃が森の中の風に全部吹かれて消えた。

すると現れたのは、長月の身長の三倍はある髪があちこちに突き刺したある棒をひっくるめている情景だった。

長月の長い髪に巻かれた棒はすぐ消えてしまった。

女は長月の変化に驚いて一瞬だけ動きを止めたけど、すぐ気を取り直して、棒を作りだした。しかし、新しく作った棒も、長月の髪の前では歯を立てなくなった。

女は棒を作り続けていると、もう、長月の吸収の早さにはかなえなくなった。気がづくと、長月はもう自分の目の前についたことを、女は知った。

「やっぱり、私はあなたにかなえないのね。最初からしってたから逃げなかった。もしかして勝てるかもって思ったんだけど、やっぱり無理だった」

長月は髪で女の子を体を隙間なく包んだ。

「でも、少しだけ、楽になれるかも」

「楽にしてあげる」

長月の話が終わらないうちに、後ろから黒魂の棒が飛び込んで、長月の背中を狙った。でも、刺される前に髪に巻かれた。

「こうなったら最後。もう助かる方法がない」

長月は冷たく現実を告げた。

女は力なく笑った。そして、長月を見つめながら言った。

「本当のようだね」

女は体から黒魂が消えていくのを感じた。

「私がこんなふうになったのはあなたのせいじゃないから、気にしないで。気にしていないかもしれないけど言わせて。黒魂が吸われたら、自分が死ぬことくらいは知っている。私の死体をこのままここにおいて。後始末はあなたがやらなくてもいいから」

「分った」

こういった長月は女の頭も髪で包んだ。

黒い煙のようなものが、長月の髪を伝って、段々長月の体の中に流れ込んだ。

女の願いどおりに、長月は死体をそのままそこにおいて、山をおりた。
昼休みになって、マスオはアツコと一緒に学校の屋上に来た。

「昼休みなのに、屋上にいる人は私たち二人だけなんて、以外だよね」

アツコは嬉しそうな声で言った。生徒たちがあっちこっちで弁当を食べるのを想像したみたいだ。

空はとても青く、そよ風も吹いているので、本当に弁当日和と言ってもいい。

マスオはアツコがなぜうれしがっているか、知らない。人がいないから嬉しい?それとも、これから聞ける秘密があるから嬉しい?それとも、また別の何かが?もちろん、アツコはマスオと二人きりになったことに喜んでいる。二人きりの秘密基地を見つけたような気分だ。秘密を共有している二人の関係が急接近することも、アツコは期待している。

「ねぇ、なにぼうっとしているの?」

アツコの声に、マスオは我に返った。

「いや、別に」

「じゃ、早速ご飯を食べながら教えてね」

「う、うん。分った」

二人は鉄網により掛かって坐り、弁当箱の蓋を開けた。食べ物のいい香りがした。

「いつものことだけど、マスオのお母さんの料理の腕は本当に上手よね。すっごくいい香りがするんだから」

「食べる?」

「その言葉を待っていました!」

アツコはそういってすぐ、マスオの弁当の中身を狙った。アツコのお箸の裁きがすごかった。あっというまに、マスオの弁当のおかずが減っていった。

「アツコの目的はこれだったか」

「ばれた?」

アツコはマスオの弁当から貰った料理を口に入れながら話し出した。

「それで、マスオの悩みは何?すっごく真剣な顔だったから心配してたんだよ」

表情と口調からは少しもの心配気味が感じられないが。

正直、どうやって話し出せばいいか、全然分らない。マスオを戸惑っているところをみたアツコは、急かすのではなく、マスオが話し出すのをじっと待っていた。

「あれはさ、一昨日のことなんだけど……」

秘密を誰かにあかすのって、初めてなので、最初は胸がどきどきしたし、声も震えていたが、やっと落ち着いたところで、マスオは話し出した。

「放課後にね、家に向かっていると、空から巨大な白い球が現れたの……」

マスオは一昨日から見た異変を全部アツコに打ち明けた。しかし、長月の事だけは口に出さなかった。なぜ言わなかったか、マスオ自身もわけをしらない。

マスオの話を聞いたアツコは深刻な顔になった。そんな顔をみて、マスオは少し怯えてきた。だってアツコは、今まで見たことのない顔をしているから。

「マスオ、これから私の言っている事は絶対秘密にしてね。それに、私に話したことも、他の人に話してはいけないよ。絶対だよ、約束できる?」

アツコの真剣なまなざしに見つめられたアマスオは少し怯んだ。

「う、うん。誰にも言わないよ。言ったところで信じてくれないに決まってるんじゃない」

「ここで誓って!」

アツコの声には逆らえない威厳があった。びっくりしたマスオはおろおろしながら、両手を合わせ、誓い始めた。

「私、マスオは、この事を絶対誰にも言いません。もし、言ってしまったら、しまったら……」

後をどうやって続けばいいか分らなかったので、助けの目でアツコを見た。アツコは仕方ないという顔でマスオを見つめた。

「誓いは言葉だけで済ますものではないよ。一番大事なのは気持ちの問題だよ」

アツコの話を聞いて、マスオは分ったふうに頷いた。気持ちの問題なら大丈夫と自信があるから。

マスオはもう一度手を合わせた。今度は心の中で誓った。

誓いが終ってから、目を開きアツコを見た。

アツコは自分の膝に乗せた弁当箱に蓋をしめて脇の地面に移した。

「マスオが見た黒い影、私たちは黒魂と呼ぶの」

「私たち?」

マスオは訊いた。

「もちろん、マスオと私の私たちではなく、私の家族のことよ。大の昔から巫女をやってきたから、そんなことは知っていて同然よ。あの黒魂がこの世に現れたってことは戦いの嵐がもうすぐだという証なの」

「戦いの嵐ってなに?」

「それについては後で話す。それより、知らない女があなたを会いに行かなかったの?」

アツコが言っているのはきっと長月だ。

「そんな人、まだ、来てないよ」

「本当?」

アツコの疑いの視線を直面するのが怖くてマスオは目をそらそうとしたが、そうすると嘘だってことがばれると思った。

アツコの目にはびくっとしたが、マスオは平然を装って力強く頷いた。

「本当だよ。そんな女、みたことがない」

アツコは少し安心した顔になった。マスオはあの女がどんな人なのか気になって、おそるおそる尋ねた。

「知らない女が尋ねてきたら、何かまずいことでも起きるの?その女はどんな人なの?」

「うん。私もついこの間に、お母様から聞いたんだけど、黒魂は、戦いの嵐がくる前触れだって。黒魂は私にはまだ見えないけど、お母様のようなすごい巫女には見えるらしいの。そして、見つけた黒魂を消滅するの」

「じゃ、あの知らない女も黒魂なの?」

「違う。女も黒魂を消滅しに来たの」

これを聞いたマスオは少し安心した。黒魂を消す人なら悪い人ではない、っていう事を知っただけで、よかったと思った。

「なら、いい人じゃない?」

「違う。女はいい人じゃない。そもそも、女は人ではない。黒魂を食べて、その力を自分の物にする。そして、黒魂の力によって人の形になる、ただの化け物よ」

「化け物?でも、黒魂を消すでしょう?」

「それは全部自分が強い力を得るためだけなの」

「女は力を得てどうするつもり?」

「最後の戦いで勝って、自分の運命の人と一緒にいるためなの」

運命の人、この単語を長月は確かに口にしたのをマスオは覚えている。なら、長月は自分と一緒にいるために黒魂を食べ、強くなるのかなって、マスオは一人、考えた。

「それなら、別に悪い人でもないじゃない。自分の運命の人と一緒にいるために戦うなんて。なんか、切なくていいんじゃない?」

マスオは自然にも、長月の肩を持つような発言をした。

「全然よくないよ。マスオはまだ何も知らないからそんな事が言えるの」

「女が戦う相手は黒魂なの?それとも、アツコのような巫女なの?」

「黒魂と女は同類なの。私たち巫女はただ、人間に危害を与える物を消滅するだけ」

「なら、女とは敵じゃないじゃない。なぜ嫌っているの?一緒に黒魂を消滅すればいいんじゃない」

アツコはマスオの言葉を聞いて、困った顔になった。

「女が現れると、人間の死亡率は急速に上がるから」

「でも、女は人間を襲わないじゃない?」

「女は人間を襲わないけど、人間の心の中にある黒魂を誘き出す力があるの。黒魂を心の中から抜かれた人間は、死ぬか、もっと強力な黒魂を生み出す、この二つの選択しか残されていない」

マスオを言葉を失った。言ってる意味がよく分からないので、消化するのに時間がかかった。

「だから、女が現れると私たち巫女はあちこち歩き回りながら、黒魂を消し、黒魂に傷づけられた人を癒し、黒魂に支配された人の救助にとりかからなければならないの」

「黒魂に支配された人?」

「そう。女が現れて、一部の人間は自分の心に潜んだ黒魂の存在を知り、強い精神力で黒魂を支配し、黒魂の力を使って悪事をするの。もちろん、人間の体をのっとる黒魂もある。……一言で言って、女は災いの導火線となってこの世界に現れるってわけ。だから、本当に大変。うちのお母様も最近、忙しくなってよく顔も見れなかったの。私はまだ一人前になってないから連れていってくれないけどね。私としてはもう立派な巫女になったと思うけどな」

アツコはお茶を一口飲んで、マスオをを見ながらまた何か聞きたいことがある?というふうな眼差しを向けた。

「あっ、そうだ。先アツコは女は自分の同類とも戦うといったよね。女のように、黒魂を食べる人はまたほかにいるってこと?」

「そう。またいる。その事についてはまだ聞いていないの。なら、今夜うちに来ない?お母様がもっと詳しく教えてくれるはずよ」

「でも、忙しいって言ってだじゃない?」

「大丈夫。事情を説明すればきっと家に残るって。それに、マスオが黒魂の姿が見えるってことはとても珍しいから、お母様も理由がわかるかもよ」

マスオはその理由をなんとなくわかっているような気がした。長月という女の子が自分を運命の人って呼んでだから、なんとなく関係があるのではないかと。

いきなりアツコの家を訪れるのは緊張するが、マスオは長月の事をもっと知りたくなって、訪問することに決めた。

「決まりね。じゃ、そろそろ午後の授業が始まるから、教室に戻ろうか」

「うん。戻ろう」

アツコとマスオは立ち上がって教室に向かった。

この時、マスオの頭にふと母さんの面影が浮かんだ。

「アツコ、黒魂が抜かれても死ななかった人は、もっと強い黒魂を生み出すといったよね」

「そうよ。どうした?」

マスオの顔が急に暗くなった。明るくふるまっても、今のマスオに元気付けられることではないと、アツコはなんとなく知った。

「母は今も生きている。ってことは、今、母の心の中には前よりも強い黒魂がいるってことになるの?」

アツコはどう答えればいいか、分らなくなった。

「でも、アツコの母さんは、黒魂を抜かれなかったかもしれないじゃない?だから、今のままだよ。だって、黒魂がつよくなったら、絶対大変な事になったよ。このまま平和にいられるはずないよ」

「本当?」

「本当本当。黒魂を抜かれなくて、そのまま今までの生活をする人間だっていっぱいいるんだから」

現に、黒魂のことを知らずに生活を続く人がいっぱいいるから。

アツコの言葉を聞いて、マスオは少し安心した。しかし心にかかった雲は消えていなかった。

二人は階段をおりながら教室に向かった。

アツコはマスオの母さんの事をずっと考えた。黒魂がもし抜かれなかったら、きっともっと強力な黒魂が生まれるかもしれない。この事をお母様に話して、何か対策しないと。マスオが悲しむ顔が見たくない。黒魂が目覚めず、ずっと心の中で眠ったままになる確率の方が高いが、万が一っていうこともあるから、絶対お母様に頼むことにした。
放課後、マスオはアツコと一緒に、彼女の家に向かった。

アツコと友達になって以来、一度も家に行ったことはなかった。アツコはしょっちゅう自分の家に遊びに来たけど、誘ったのはこれが始めてだ。アツコの家族が巫女の一家であることだから、やすやすと他人を家に招かないだろう。

歩きながら、マスオはアツコの家はどんな形だろうか?と勝手に想像した。昔風の日本の家屋?ならば人に近寄せられない厳かな雰囲気があるかもしれない。でも、巫女だから神社に住んでるとか?

アツコの家に向かっている途中、二人は何も言わなかった。

地下鉄に乗り、バスを乗り、1時間はたっぷり使ってようやくアツコの家の近くに来た。アツコの家はマスオを今まで勝手に想像してたのとはまったく違った。二人は今とっても高いマンションの前に立っている。マンションは雲にまで届きそうに高かった。

目の前にあるマンションは立派な建物だ。ただ、自分の想像してた古風の家とは全然違ったので、
顔のどこかに落胆の影がかすった。それをアツコは見逃さなかった。

「何か、大変な建物を想像していたでしょう」

マスオは正直に頷いた。

「確かに、巫女というと、ドラマや映画、アニメの中に出てくるすごい木造の建物に住んでることを想像するけど、それじゃ、自分が巫女ですってことをばらしているのと同じだから、余計な争いが起こるの。だから、こうやって、普通に暮らすのが一番ってこと」

「なるほど」

「一般人向けの巫女や神社は隠す必要なく堂々としてればいいけどね」

マスオは少し感心した。

二人はマンションに入り、エレベーターに乗って、最上階にあがった。

「最上階の家なんだね」

エレベーターから出て、マスオは言った。

「高いところだと、町の様子がすべて見えるから。それに、危険がどこにあるかもすぐわかるから行きやすいの…ていうのをお母様から聞いたの」

アツコの家はエレベーターを出て正面の家だった。

アツコが鍵を出してドアを開けた。

「ここが、アツコの家なの?」

「うん。でもここだけじゃなく、この階の部屋は全部私の家だよ。ちなみに、屋上も私の家族以外は立ち入り禁止になっている」

「すっごい!」

こんなにも高そうなマンションのワンフロアが全部アツコの家だなんて、びっくりするのも無理はない。でも、巫女ってこんなにも儲かる仕事なのかな?

「儲かるわけではないけど、街を守っているんだから、政治家から金はたっぷりもらえるよ。いろいろと相談もしてるからね」

マスオは自分の考えがアツコにばれたと思い、顔が熱くなってきた。

「私に、読心術があるわけではないよ。ただ、普通なら、そう考えても仕方ないとおもったから」

アツコのこの話をきいて、マスオは少し安心した。もし、読心術が使えるなら、自分には秘密がいなくなる。それはそれで困ることだ。

アツコの家に入ると、アツコのお母さん、寒麗スズノが迎えてくれた。すらっとした体、腰まで長く伸びた真っ黒な髪。

スズノは、アツコと一緒に家にはいるマスオを見て、戸惑った様子を見せた。

「お母様、この人がマスオなの」

「あら、あなたがマスオなの。アツコがいつもあなたの話をしていたよ」

綺麗、と思ったのが最初の印象だ。よく見ると、アツコと似ているところもある。それもそうだ。親子だから。

スズノは嬉しそうな声でマスオに話しかけてから、とがめるような目でアツコを見た。

「お母様、マスオは黒魂と関係があるの」

黒魂と関係があると聞いて、アスズノのとがめる視線の変わりに、悲しいような視線でマスオを見つめた。

マスオはもう一回、スズノを見た。

スズノもいかに普通な格好をしている。これがアツコ家の現代式の巫女かもしれない。

マスオはリビングルームに案内され、ソファに坐らせた。

インテリアがとても綺麗。どれも高級感がある家具ばっかりだ。

アツコはマスオの傍にすわった。スズノは飲み物を三つもってきて、二人の向こうに坐った。

コップを受け取って礼を言ったマスオは気ごちなく啜った。

「アツコ、簡単に説明してくれない?」

スズノの問にアツコは早速、昼休みにマスオから聞いた事を話した。

話を全部聞いてから、スズノは話した。

「マスオ君。隠してることがあるんじゃない?」

マスオは瞬間、びくっとした。でも、何もいわず、ただ頭を横に振っただけだった。

「知らない女と出会ったよね」

マスオは少し焦った。なぜ、アツコのお母さんがそんな事を知っているか、不安になり始めた。

「ど、どうして、知ってるんですか?」

マスオは段々消え入るような声で尋ねた。

「マスオ!何で私には正直に話してくれなかったの?」

アツコが怒った声で、さらにマスオにまくし立てようとしたが、お母さんに止められた。

「マスオ君の体から月の匂いがする」

「月の匂い?」

マスオはわけが分らなくなった。

「『月の匂い』と言っても抽象的だよね。私たちもあの独特の感じを『月の匂い』と呼んでいる」

「じゃ、彼女は月ってことですか?」

マスオの言葉を聞いて、スズノは軽くうなずいた。

「そう、あの女の正体は月……」

スズノは黒魂とあの謎の女にまつわる話と淡々と話してくれた。

大昔、かぐや姫が月に行ってから、好きな人と恋をしなかったことをずっと悔やんでいた。でも、月に来た以上、二度と地球に戻れないことを分ったかぐや姫は、方法をずっと考えていた。

それで、思いついた方法が十二個の分身に分けて地球に送ることだった。悲しいことに分身は二度と一つに戻れない。

かぐや姫の分身が地球に来て運命の人と出会い恋をし、死ぬまで一緒になる。運命の人が死んだら、分身は月に戻ってつぎの機会をまつ。

このままならとても暖かい話なのだが、そう簡単に運命の人と一緒になれない。

かぐや姫と一緒に地球に現れたのは人々の心から生まれた黒魂だ。分身たちは黒魂を餌にし、力を強める。運命の人を捜し守りながら、ほかの分身と戦う。なぜなら、最後に残った分身だけ、運命の人と一緒に生きる資格を持らえる。負けた分身はすぐ月に戻ってしまう

しかし、今まで、何回も繰り返したけど、殺し合いで勝った魂にも運命の人と暮らしていけることはできなかった。

これが、アツコのお母さんが話してくれた女の正体だ。

「でも、僕とどんな関係があるんですか?」

「巫女に黒魂が見えるのは、厳しい修行の結果だけど、普通の人に黒魂が見えるって事は、あの女の運命の人という証なの」

まだ事情を飲み込めていないマスオを見て、アツコはいらいらしながら、話した。

「つまり、死んでしまうことよ。それも、殺されてしまう!黒魂、もしくは他の分身にね!」

アツコの話を聞いて、マスオは怯え始めた。殺されてしまう?自分は今まで悪い事もしなかったし、母さんとも別れたくなかった。

「僕はこれからどうすればいいですか?彼女はもう僕の居場所を知っているし、母さんはなぜか彼女が気に入ってるらしいんです」

スズノは高ぶるマスオの感情を落ち着かせるため、なだめるように話し出した。

「私がお守りを作ってあげる。このお守りなら一ヶ月はもつ。黒魂もあの女も近づけない」

「その後はどうすればいいですか?」

「魂たちの殺し合いが始まったら、ここに来なさい。戦いが終るまで、守ってあげる」

この言葉を聞いて、マスオは少しはほっとした。殺されずにすむから。母さんと別れずにいられる。

「そう、お母様。マスオのお母さんは今も普通に暮らしているそうです。それはどうしてですか?」

「黒魂を抜かれた人は、その夜、『月引症』という病に襲われる。その病に襲われた人は、死ぬか、生き延びるかにわかれる。生き延びた人の心の中からは段々、前よりも強い黒魂を生み出すことになっている。新たに生まれる時間は人それぞれだから、正確にわからない。でも、黒魂の存在を知らず、普通に暮らす人も沢山あるから、多分、マスオのお母さんの場合もそうかもしれない。心配する必要はないよ。たとえ、前より強い黒魂が心の中に宿っても、自制心があれば、大丈夫。それより、マスオの体の中には黒魂がないよね」

「えっ!分るんですか?」

「巫女になると、そんな事も知るようになるよ。でも、マスオ君の心の中の黒魂はどうやって消されたんだろう」

「わかりません」

マスオは頭を下げた。それを見たスズノは微笑みながら、言葉を続けた。

「黒魂がない人はこの世界にいないの。私たち巫女も、定期的に自分の心の中の黒魂を消すから。……もしかしたら、誰かが、あなたの黒魂を消しているのかもしれないね」

「でも、僕はそのような人を知りません。巫女が本当にあるってことも、知ったばかりなので。もしかして……」

ここまで言いかけたマスオの頭の中に長月の影が浮かんできた。

「アツコにはまだ黒魂を見つけ出して消す力はないから、違う。やはり、あの女がマスオ君にあった時に消したとしか考えられないね」

「やっぱりあの女かもね」

アツコが傍らで小さくつぶやいた。

マスオは自分の知りたいことが全部分ったので、この辺でお暇しようと、立ち上がった。これ以上お邪魔するのも気が引ける。それに母さんのことも心配だ。

「もう帰るの?」

アツコが訊いた。

「うん、もう十分お邪魔したよ」

こう言ってマスオはスズノに向かって頭を下げながら礼を言った。

玄関で靴を履ぎ、マスオは見送るスズノに向かってもう一度確かめた。

「母さんは本当に大丈夫でしょうか」

「大丈夫とはいいきれない。……なら、一回会ってみよう。そうすると直に判断できるから。どう?」

「本当ですか?ありがとうございます」

家を出ようとしたマスオは急に思い出したように立ち止まった。

「でも、あの日、僕の体からは黒魂が出てこなかったのはどうしてですか?」

マスオのこの言葉を聞いてフミヨは驚いた。

「黒魂が出てこなかったと?それは本当なの?」

「は、はい」

スズノの鋭い声に、マスオはおどおどしながらこたえた。

「そうすると、だれかがずっとマスオの黒魂を消滅しているってことになるね。あの女のはずはないから。……マスオの一番近くにいる人はあなたのお母さんしかいないよね。定期的に誰かにあうこともないね?」

マスオは頷いた。

「マスオのお母さんにさっそくあってみたほうがいいね。運命の人だから黒魂がないという記載もなかったし……」

スズノはここまで言って口を噤んだので、マスオは余計に気になったが、スズノはそれ以上何もはなさなかった。

マスオは腕時計を見た。もうすっかり遅くなったので、急いで家から出ようとすると、アツコが呼び止めた。

「お母様、お守りを忘れていました」

「あっ、そうね。今から作るから、もう少し待っていてね」

マスオはすぐお礼を口にした。
山で女の子の黒魂を吸収してから、もう、何時間も経ったというのに、黒魂を一つも見つけることができなかった。ため息が出るのも仕方がない。

これからどうすればいいか分らなくなっていたその時、長月はマスオの家に侵入しようとしていた黒魂の事を思い出した。弱いけど、ないよりマシだ。もし運がよければ今夜、あの黒魂に会えるかもしれない。食べると少しは力が上がる。

こう思った長月は早速、マスオの家に向かった。

マスオの家の近くまできた長月は偶然にも、一緒に歩いているマスオとアツコを見てしまった。

長月はすぐ、アツコが巫女であることを知った。特有の雰囲気とオーラが漂っているから。巫女だからと言って、長月が彼女たちを憎んでいるわけではない。巫女は自分たちの事を敵のように恨んでいるけど。黒魂は悪の存在だから、消す人がいて同然の事だ。しかし、少しは、自分に残してもいいんじゃないか、と心のなかで愚痴った。ただ、この巫女はまだ黒魂を消すほどの力がないことはわかった。

それに、長月はもう一つのことに気づいた。

それは、マスオの周りには前と比べることのできない、強力なお守りの結界がはっていることだ。今の自分はその結果を通り抜けるほどの力はない。このお守りを作った人が、この町の黒魂を消していることは確かなことになった。出会いたくない相手だ。きっと、戦闘になって負傷するに違いない。今まで出会わなかったことがラッキーとでもいっていいほどだ。

ただ、今残念と思っているのはマスオに近づけなくなったことだ。あの結界をみると、半径5メートルくらいはある。つまり、同じ部屋に入ることもできない。でも、あの結界のお陰で危険もマスオの近づけないからという、安堵の念も生まれた。

長月は二人と離れた所で後ろをついて歩いた。三人の目的地はみんな同じだ。マスオの家。

前で仲良く話し合いながら歩く二人の後ろ姿をみた長月の心に、嫉妬の情が少しずつ膨らみあがった。

ちょうどこの時、マスオの家のアパートの入り口についた。アツコはマスオに何かを言って、別れた。

長月はすぐわき道に身を隠した。なぜ自分がこんなことをするか、よくわからなかった。アツコが通り過ぎたのを見届けてから、わき道から出てきた。

アパートを見上げると、結界があがっていくのがみえた。

長月はマスオの家を監視できる建物を探しに行った。見晴らしのいいところで、あの黒魂を待ち伏せしようと思ったから。

見張りのいい建物の屋上でマスオの家を見つめている。結界の力からみては、一ヶ月はもつだろう。その前に、何とか黒魂をもっと食べて、力をあげないと、マスオには近づけない。

闇がすっかり、世界を包んでしまった頃、あいこちの家から洩れる明かりが、夜空で輝いている星のようだった。

待ちくたびれて、欠伸がでそうになった時、狙いの黒魂がついに現れた。思った通り、結界があるため、近づけなくまよっている。長月は黒魂の後ろに伸びている線に目を向けた。正面から戦いをしかけても、前回のように逃げられるから、黒い線の先にある本体に興味をもった。

長月は、気付かれないように、一定の距離をおいて、線を辿り始めた。

追っていると、本体に近づけたらしく、黒い線の数が数十本まで増えた。全部同じ場所から伸びている。

長月は漸く、本体の居場所にたどり着いた。病院の病室に黒魂の本体がある。

長月は病院に入り、問題の病室に向かった。

すると、今まで周囲に散らばった黒い線に繋がられた黒魂たちが、もどり始めた。敵がきたことをしった本体が、呼び戻しているのだろう。

病室のドアをあけると、中には、女の子が一人しずかに、ベッドでよこになっていた。

黒魂が何個あるかはよくわからないけど、全部病室内に集まった。攻撃を仕掛けるようすはないので、長月も何もせず、立っていた。

長月のすぐ前にある黒魂が沈黙を破った。黒魂の声はかすれた低音で、耳障りのように聞こえるが、女性の声だった。長月はすこし驚いたけど、すぐわけが分った。女の子は黒魂を通して話をしている。

「黒魂を食べに来ましたか?」

落ち着いた口調で、長月に問いかけた。

「そうよ」

「やめてもらえますかとお願いしたら、やめますか?」

「それはできないよ。私には時間がそんなにないの。それに、この町には巫女がいて、黒魂を消滅しているの。やっと見つけた黒魂をこのまま見過ごすわけにはいかないよ」

「そうですか、分りました」

女の子の声には抑揚がなかった。

「それにしても、あなたのような黒魂に、巫女が気付かれないはずはないけど。どうやって、目を誤魔化したの?」

「誤魔化す方法はいくらでもあります。気配を消すとか、囮を作るとか」

「あなたなら、囮を作るのに、むいているよね。分身をいくつも作れる力があるから」

長月の誉め言葉に女の子は素直に笑った。綺麗な笑い声が、黒魂の口から流れた。ちょっと不気味にも聞こえた。

「あなたと戦うなら、勝算は私にはいないでしょう」

「なら話は簡単になるけど、大人しく私に食べされる気もいないじゃない?」

「もちろんです」

話が終ると、黒魂は合体した。そもそも、一つの黒魂から分離された固体だから、本体に戻ったといったほうがいいかもしれない。

黒魂は一つになった。黒い線は女の子の額と繋がっている。女の子を胸に抱いた黒魂は窓を破り、逃げ出した。

長月はすぐ後ろを追った。

落ちたカラスの破片に、悲鳴を上げた人がいた。長月はなるべく人目につかないように動いた。

黒魂を追っていると、周りの景色が見覚えのあることに気付いた。山に向かっている道だ。長月は自分は、あの山となんらかの縁があるのではないかと、思い始めた。

木のはえていない広い草地に、黒魂は降りた。そして、女の子をそっと草地の上に置いた。

女の子は動かない。目も開けない。口も動かさない。

「あなたはいわゆる植物人間?」

長月の問いに、女の子は悲しい声で、そうです、と答えた。

「事故があったのは6年前です。6年間、私はあの病室の中で、ずっと寝ていました。意識があるのに、体を動かすことができません。瞼を開けることさえできませんでした。私はさけび続けたのです。でも、誰も私の声を聞いてくれませんでした。こんな私にも運が巡ってきたと思ったのは、先日の事です。私の心の中にある黒魂の存在を知りました。私は自分にもこんな醜い考えがあるとは思ってもみなかったのです。でも、そんなことをしていると、この6年間の空白が埋められそうな気がしてきました」

「他人を覗くことで、6年間の空白が埋められるなんてことは、到底できないよ」

長月は納得いかないというような口調で言ってやった。

「そうかもしれません。でも、心がわくわくしてくるのです。始めて味わった禁果に、私はとても興奮しました」

「知らない人を覗くのがそんないも嬉しくなれることなの?」

「嬉しくなります。最高の気分になれます。最初はただ好きだった男の子の家に行って、どんなふうに暮らしているのかを確かめたかっただけです。でも……そこで、何を見たか知っています?」

長月は答えなかった。男が一人部屋でやれることは大体想像がつく。

「彼はAVを見ていたのです。自分の物を握りながら。それを見たら、私の頭の中で閃いたものがありました。それが、覗きです。あの日から、私はあちこちに黒魂をいかせて、男が自分で解決するのを覗くようになりました」

「それがそんなにいいの?どうせ、あなたは感じられないでしょう、あの体の快感を」

「えぇ、そうです。体では感じられませんが心が感じるんです。本当に最高です」

黒魂で、女の子の心は完全におかしくなったことが、長月には分った。

「ここで話続けても、らちが明かないないから、はやいうちに決着をつけましょう」

長月の言葉が終わらないうちに黒魂が飛びこんできた。

長月は余裕をもって、髪を自分に前に垂らし、防御の壁を作った。黒魂がいくら攻撃しても、長月の髪の壁を砕けることはできなかった。

「あなたに私は勝てないよ」

長月は言った。

「そうですよね。でも、何もしないままあなたに食べられるのも悔しいです」

女の子の声は平淡だ。悲しみや悔しいの音色は微塵もなかった。

長月は髪を横に払った。黒魂は消えたけど、黒い線からまた新しい黒魂が現れた。これじゃきりがないと思い、長月は女の子に近づき始めた。

すると、女の子は次から次へと黒魂を作り出した。

数え切れない黒魂に囲まれた長月は焦ることなく、防御の髪と攻撃の髪を使い分けながら、すこしずつでも女の子に進んだ。

長月はやっと髪で女の子を捕まえる距離まで近づいた。一束の髪を使って女の子を掴もうとしたら、黒魂が自分の体を使って長月の髪をはねかえした。何度も同じ攻撃をしたけど、そのたびに黒魂にじゃまされた。

「簡単には私に食べられてくれなさそうね」

「今はまだそういうわけにはいかないのです」

「今はまだ?」

「誰でもすこしでも長く生きたがっていると思いますけど?」

明らかに何かを隠しているのが、長月は感じ取ったけど、女の子が話さないかぎり、しるよしはない。

それより、なんとかして、黒魂を消さないと、女の子には近づけない。弱い黒魂もたくさんあると、やっかいなことだ。

防御より、攻撃で道を開こうと長月は決心した。

伸びた髪は瞬時に一本の長い髪の鞭となって、周りの黒魂を薙いだり、叩き潰したりした。まだ消せなかった黒魂は集まり一つとなって、女の子を抱き、逃げ出した。

「諦めが悪いよね」

長月は後ろで追いながら言った。

「まだ死ぬわけにはいきません」

「そんな事いっても、本当は死にたくないだけでしょう?」

「自分はいずれ死ぬ運命だとは知っています。ただ、死ぬ前に、見届けておきたいことがあるのです」

「今のあなたのやってることからみれば、ただの言い訳にしか聞こえないけど?」

力が切れたのか、黒魂の速度が段々遅くなってきた。

長月は警戒しながら、女の子に近づいたが、黒魂は抵抗しようとする様子など、感じられなかった。

「もう終りました。私を食べてもいいです」

いつも平淡だった女の子の声に、始めて感情がこもってあった。切なく悲しい感情だ。

「急に考えが変わったの?」

「考えが変わったのではありません。ただ、思い残すことがないからです」

「思い残すこと?」

正直、長月は気になり始めた。

「初恋の人が今日結婚したのです。美しい花嫁と。二人が自分たちの部屋でセックスをするところを見ました。ついさき、終ったのです。これで私は死んでも悔しいとは思いません」

「あんなものみてどこが楽しいの?」

「初恋の人がほかの女と体を絡むことを見てたのしいわけありません」

「ならなぜ?」

「黒魂をあの女の体に入れたのです。そうすると、私が彼とぬくもりを分かちあうようなきがしたので」

「死ぬ間際にも、変態のようなことをするよね、あなたは」

長月の皮肉に、女の子は気にする様子もなかった。

「どういわれてもかまいません。やりたいことをやっておかないまま、死ぬ時に後悔することだけはしたくありません」

「じゃ、後悔することはもうないということだね?」

「はい、もう抗いません。どうぞ私を食べてください」

黒魂は女の子を下した。

長月は迷わず髪で黒魂の体を貫いた。そして、髪一本を女の子の額に軽く突いた。黒魂は女の子の体から滲み出てきて、全部長月の口の中に入ってしまった。

黒魂の力をなくした女の子は倒れた。

長月は女の子と話したくて髪を女の子の額につけた。

「病院に連れて行くからね」

「いいえ、私はこのほうがいいのです。夜風、森の空気、かすかに聞こえる虫の鳴き声。病院では聞こえないものばかりです。ここが好きです。それに、夜空で輝いている星が見えるような気がしました。……黒魂が抜かれたら『月印症』が襲ってくるでしょう。私はそれを乗り越える気力などありません。このままここで死なせてください」

「それがあなたの望みなら」

「はい、私の望みです。もう一度病院へいって、あの冷たいベッドで寝るのはいやです。あのまま何年経っても起き上がらない事はちゃんとわかっています。ここで寝ているほうが、生きていると実感ができます」

長月は何も言わなかった。髪をもとの長さに戻して、山を降りた。

山を降りた長月に一つの問題が生じた。それは、どこで夜を過ごすことだ。マスオのお母さんには帰る家があるといったけど、そんなものがあるはずない。どこか、高いところへ行くしかない。一番月に近いところへ。
ドアを開けると、カレーのいい香りが漂ってきた。

「マスオなの?」

ドアの音を聞いたフミヨが声をかけた。

マスオは厨房に入り、カレーの香りを胸いっぱい吸い込んだ。ちょっぴり辛いスパイシーも入っているのでむせってしまった。

「お皿を運んでちょうだいね」

「は~い」

「その前に手を洗ってきてね。すぐ晩ごにするから」

手を洗ってからマスオは自分の部屋に入り、普段着に着かえた。アツコのお母さん、スズノからももらったお守りを大切にデスクの上に置いて、感謝の意を込めて軽くお辞儀をした。これで黒魂を防ぐ事ができる。

部屋を出るとフミヨが厨房から出てきたところだった。

「今日はあの子来ないかな」

フミヨはテーブルの上に料理を置きながら独り言のようにつぶやいた。

「うん?あの子って誰のこと?」

「そりゃもちろん昨日きた長月のことよ。いつでも遊びに来ていいといったのに」

「家があるから家族と食べるんじゃない?」

マスオはとてもそっけなく答えた。一回しか会ってないのに、お母さんがこんなに気にかけているなんて、ちょっと不思議な気分になった。

アツコの家から出て、お守りの効果、黒魂の退治とかのことで頭がいっぱいだったマスオだった。今、フミヨによって長月の事を思い出させて、マスオはどんなふうに彼女に向き合うべきか迷うようになった。長月の事を考えれば考えるほど心臓が引き締まるような感覚がマスオの体を痛めた。でも、こんな苦しい気持ちばかりではなかった。どこか懐かし気持ちも感じた。長月という人は本当に悪い存在なのだろうか。ふと、こんなことを思うようになった。アツコと彼女のお母さんは悪者のように言ったが、マスオはどうにもその言葉を完全に飲み込めなかった。

「家も家族もないらしいの。だからちょっと心配で……」

フミヨが悲しそうにつぶやいた。

確かに、いったいどこで寝て、どうやって食事を済ましているのだろう。少しは心配になってきたマスオの顔を見たフミヨは微笑んだ。

「次出会ったら、うちへ食事に誘ってね。寂しい子なんだから」

「あ、うん、わかった」

マスオは気ごちなく答えた。部屋にあるお守りがある限り、会っても長月は自分に近づけない。すこし切ない気持ちにもなってきた。昨日、自分を見た長月のあんなにも喜んでる顔が浮かんできた。悪い人には見えない。

ご飯も食べ終えてご馳走さまでしたと言ったマスオは部屋に戻った。

一度、長月の事を思うと、もうマスオの頭の中から長月のことが離れなくなった。今頃どこで何をしているか、家もなくこの町のどこをふらふらしているか、あんな姿だからお金もないみたいだからご飯はちゃんとたべているか、ずっと気になってきた。急に探しに行きたくなった気もしたけど、どこを探せばいいかわからないので、思いとどまった。

こんなやるせない気持ちを胸に抱いたまま、マスオは風呂に入った。アツコのお母さんから作ってもらったお守りのおかげで、今日もマスオは安心して風呂に浸かることができた。季節は夏だけど、夜は冷え込む。長月が風邪などひかないようにと願った。長月を思いだすたびに懐かしい感情が増していく気がした。

自分が長月の運命の人だということにまだ実感がわいてこない。運命の人になったところで何をすればいいか、アツコのお母さんから聞いておけばよかったと後悔した。何もせずに結界の中で暮らせと言ったけど……。

もし次出会ったら、長月にちゃんと事情を聴くことにした。それから自分で判断しようとマスオは決めた。巫女と長月たちの間にきっと誤解があるに違いない。

いろいろと考えていたら頭がくらくらしてきた。これ以上風呂につかると、のぼせてしまう。マスオは寝巻を着て風呂場を出てきた。ちょうどフミヨが冷たい牛乳をもって厨房から出てきたところだった。

「牛乳」

フミヨは冷たい牛乳の入ったコップをマスオに渡した。

「ありがとう、母さん」

コップをもらったマスオは一口飲んだ。冷たい牛乳が喉を通して胃に入った。体中が冷たくていい気持ちになった。

「早く寝てね」

「はい、わかりました~」

牛乳をもって部屋になったマスオをベッドの上に坐り、窓の外で広がっている夜空を見上げた。綺麗な月が夜空で輝いている。長月はあの月から来たかぐや姫の分身の一人。地球に来て運命の人と一緒になるために黒魂と戦い、最後はほかの分身と戦う。最後に勝ち残った一人だけが運命の人と暮らす事ができるといった。考えると、悲しくなってきた。でも、今まで運命の人と一緒に暮らす人はなかったと、アツコのお母さんが言ったけど、今回はどうかな?もしかしたら、長月とほかの分身は今回こそと思って頑張っているかもしれない。

ここまで考えてるとふと、向こうのビルの上から人影が飛んで行ったような気がした。黒い影が一瞬にして消えたので、見間違えかもしれないと思ったマスオは牛乳の最後の一滴まで飲み干して横になった。

あれこれ考えても頭が痛くなるだけと思ったマスオは目を閉じた。
眩しい朝の陽ざしが長月の全身を包んだ。けだるそうに瞼を開けながら長月は座りなおした。一晩中、木に寄りかかって寝たら体のあちこちが痛い。

ひょいと跳び上がった長月は今日も頑張ろうと自分の頬を軽く叩いた。頑張って黒魂を食べないと、あの結界の中に入れない。マスオがこのまま結界に守ってくれればいいのだが、やっぱり会いたい。

「さてと、今日はどこを探そうか。あてもなく歩きまわるのは時間の無駄だから今日は気配を辿って行動しよう」

長月は両目をつぶり黒魂の気配を探った。町のあちこちに点在している黒魂の気配。人の心に生じて間もない黒魂もあれば人の体を離れうろうろしている弱い黒魂もある。強力な黒魂は自分の気配を隠すすべをもう取得しただろうと長月はふんだ。こうなると少なくとも近くにいない限り黒魂の存在に気付くのは難しい。

やはりこの町の巫女はとても熱心に動いているようだ。黒魂の数も少ないし、一部の黒魂は気配まで消している。

しかたがない。長月はまず町でうろうろしている黒魂を吸収することにした。弱いからといって役に立たないわけもない。塵も積もれば山となる、ということを期待して、全部狩る。

こう決めてから、今いる場所と一番近いところにある黒魂に向かって走り出した。黒魂にあう前に巫女に先を取られては困るからだ。

黒魂に近づくにつれ、そっちも長月の気配に気づいたか、場所を移動し始めた。

「勝てないと思って逃げるのね。賢い判断。だけど、いつまで逃げられるのかしら」

長月は少しばからスピードをあげた。

5分経ってから長月は追っていた黒魂を見つけた。一気にスピードを上げ、追い抜き、黒魂の前に軽く舞い降りた。長月と黒魂は人気のない公園まできた。平日の朝なので誰一人いない公園であった。周りには住宅街みたいな建物もなかった。

「もう逃がさないよ」

長月の髪は蛇のように黒魂目掛けて飛びついた。

黒魂もおとなしく食べさせるつもりはないらしく、横に転がって長月の攻撃をかわした。黒魂は身を整えて長月の髪を踏み台に長月に飛びつき、攻撃を仕掛けた。

「へえ、攻撃をするね。でも、あんたごときに負ける私じゃないよ。攻撃が甘い!」

長月の髪はパッと円の形に広がり、真正面から飛んでくる黒魂をあっという間に包み込もうとした。しかし、すべての弱い動物のように体だけは軽いし逃げ足も速い。包み困れるよりもはやく、身をそらして後ろに跳び下がった。

長月は逃げさせないと、髪を伸ばし黒魂を足を狙った。黒魂は跳びあがりながら避けようとしたのだが、髪の速さには勝てなかった。片足を髪に取られ、地面に落ちた。

長月は髪で弱い黒魂の体を包み込み、仕込み始めた。弱いだったので力を全部吸収するのに時間がそんなにかからなかった。

「やっぱり食べた感じがしないなぁ。どこかすっごい黒魂がないのかな」

すると長月の願いにこたえるかのようにすさまじい黒魂の気配を感じ取っってしまった。そして、ものすごい速さで長月のいる所に接近している。

「やばいやつに狙われたね。やばいことになりそうだ」

強い黒魂が現れてうれしくもあるが、今の自分の力ではあるけど苦戦するに違いない。体がボロボロになるまで戦う覚悟はしたほういいと、長月は拳を握りしめた。

長月は髪一本一本に神経を集中させた。

戦闘態勢で構えている長月の前に現れたのは2メートルくらいのとても太った黒魂だった。ついこの間吸収した漫才コンビの二匹が頭の中に浮かんできた。目の前にあるこの黒魂はふざけたフトックというやつとは格が違う。

「おやおや、めずらしい珍味が本当に現れるとは。おれはついているな。ずっと会いたかったよ」

太った黒魂が耳障りな声を出した。漆黒の奈落の底から這いあがってくるような声だ。

「ふん、こっちのセリフだね。まさかこんな強力な黒魂に出くわすとは。これじゃ、私の力も一段と上がるよね。だから先に礼を言ってあげるわ。私の体の一部になってくれて、ありがとう」

「戯言を。お前におれが倒されるとでも思う?」

黒魂の言葉は冗談ではなかった。漂ってくるすさまじいオーラは長月の体をすくませた。だからといって逃げるわけにもいかない。目につけられて以上、決着をつかねばならない。どこまでもついてくるだろうと長月も思ったからだ。

「じゃ、始めようか。おいしい朝食を」

言葉が終わるなり、黒魂の体の中から人が吐き出されてきた。まるで、粘土の一部を千切ったような技だ。吐き出された人は上半身を前かがみにし、ゆらゆら体を揺らしながらゆっくりと長月に向かって歩いた。

「こんなもので私が倒れると思うの?」

口はこういったものの、長月は気を緩まなかった。何が起きるかわからないからだ。人は突然走り出し長月にとびかかってきた。長月は身をよじっただけで軽くかわした。人はすかさず体を曲げ腕を振った。

体に届きそうなので長月は髪で防いだつもりだが、人の力は思った以上だった。打たれた長月は何メートル飛ばされてからやっと止まった。

「どう?おれのおもちゃは。よくできているでしょう?一人を養うには大分栄養が必要だ。でも出来上がりは上等だから待てたんだ。もう一人を腹の中で養っているけど、今日の戦いには間に合わないのは残念だな」

黒魂がしゃべっている時、長月はずっと人の攻撃をかわしながらこの厄介ものをどう解決するか考えた。人なので本気を出すわけにはいかない。しかし、攻撃をするにつれ、人の動きと力量が上昇しているのが分かったから、油断もできない。

長月は頃合いを見計らって髪に力をいれた。

今までただ攻撃を受けたのではなく、一本一本の髪の毛を人の両手を両足に巻き付けたのであった。人は攻撃だけをする機械で、体に巻き付けられた髪は気づいていない。

ぐっと髪を引っ張ったら人の動きはピタリと止まった。と思って少しの安心を感じると、人はまたすぐ暴きだした。

「ちょっと、それ以上暴れると体が切れてしまうよ!」

長月の声を聞いても、人は動きをやめなかった。

「優しいねお前は、死んだ人にも」

「死んだ?!」

「気づいていないの?俺の見込み違いってわけか。すっごい『月』だと思ったのに。彼はもう死んでいるよ。おれが生きている人を操るとでも思った?笑わせるなよ。おれの魂が人の体中に廻ったのが最期、もうただの人の皮をした人形にすぎない」

長月は胸中で燃え上がる怒りの火花を感じた。

「悪趣味ね」

長月は暴れる人をなんとかしながら言葉をつづけた。

「確認のために一つ聞くけど。飲み込んだ人は生きた人?それとも死んだ人?」

太った黒魂は空に向かった高い笑い声をあげた。

「愚問だね。もちろん生きた人間だよ。じゃないと、おれに飲み込まれた時の恐怖、おれの中でもがき苦しむザマがみれないんじゃない」

長月の頭に血が津波のように上がった。

長月は髪に巻かれた人の頭上から強く振り下ろし、地面にたたきつけた。けれど、人を気絶できず暴れ続けた。

「中にあるおれの魂が消えない限り動きは止めれないぞ。つまり、おれを倒さない限り暴れ続けるわけだ。どうだ?とても遊び甲斐があると思わないのかね」

「思わないね!」

長月は髪で人の全身を包んだ。蜘蛛が餌を糸でくるくる巻き付けたように。長月は人を引きずりながら黒魂に向かって歩きだした。

「もう死んだ人にそんな優しくしても面白くねぇね。ところで、そんなに余裕ぶり、いつまで続くかか楽しみだね……」

黒魂がまた何か話をしようとしたようだが、それより先に、長月は攻撃を仕掛けた。残りの髪を黒魂あてに突き刺した。

黒魂の体に刺さろうとした瞬間、黒い胴体から人の手て現れ長月の髪を掴んだ。長月は抜けようとしたが思った以上の力を持っている両手に捕まえ、びくともできなくなってきた。

「おれ、完成した操り人形が一人だと言ったことないよね。つい最近飲み込んだ人はまだ完全に人形にできなかった。油断は禁物だよ!」

こう言ってから黒魂は不気味な笑い声を上げた。

長月の髪を掴んだ両手はだんだん黒魂の胴体から出てきた。完全に外へ出た人は力いっぱい掴んだ髪を横に投げた。

長月は空中で回転しながら体制を整えて、地面についた。

二番の人は長月に休み暇を与えずとびかかってきた。正面から飛んでくる二番目の人に髪で包んだ人を武器として打った。鈍い衝突音と共に、二番目の人は数メートルはじかれた。

「やはりお前は悪いやつだな、死んだ人の死体を武器に使うなんて。でも、面白いよ、それ。俺は大好きだ」

「こっちはちっとも面白くないんだから!」

長月は髪で包んだ人を宙につるして黒魂に向かって走りだした。この人で黒魂を打つつもりだった。あと一歩というところで、長月は飛びついてきた二番目の人に捕まってしまった。二人は一緒に地面に転がって,木にぶつかって止まった。

長月はすぐ立ちあがろうとしたが、体の上に跨がれた二番目の人の拳を受ける羽目になってしまった。すかさず髪で防いだが打撃のちからで、少しずつ地面に食い込まれるようになった。

今の人は一番目の人と明らかに力の差が違う。

しかし、もう少しここままにしてれば力が上がると長月は確信した。なぜかというと、髪に包まれた人の中にある黒魂の魂がもうすこして全部吸収するところだ。あともう少し耐えれば力があがる。

髪で包んだ人の中にある黒魂の魂を全部吸い込んで自分の力にした瞬間、長月は自分の上に跨っている人を髪で強く横に払った。人は飛んでいき、長月はゆっくり立ち上がった。

「私がなぜこんな荷物をずっと持っていると思ってる?力を吸い込むに決まっているんじゃない。おかげて力がまた上がった」

長月は黒魂をなくしたもぬけの殻のようになった人をそっと近くの木陰に置いた。

「それぐらいで調子に乗っては困るんだけどね。まぁ、おれの黒魂を吸ってるのではないか~とうすうす感づいていたがね。でも、それくらいの黒魂を吸いこんだところでおれに勝てると思ったら、困るんだね」

確かに、力を吸い込んでもまた楽に勝てる相手ではないってことは長月もしっている。しかし、戦ってる最中、隙をみて急所をねらうことさえできれば。

長月に考える暇も与えず、二番目の人は攻撃しようと駆けつけてきた。

長追は力が入った髪で向かってくる二番目の人を思いっきりぶった。二番目の人は両手を体に前に構え、長月の攻撃を防ぎながら、突進をやめなかった。

二番目の人は長月との距離が攻撃範囲以内に入ったところで、右手を上げ長月を殴ろうとした。長月も今度は防御はせず、髪を人の右手に払った。

長月の攻撃を受けても二番目の人は攻撃をやめなかった。人はもう一つ空いている左手で長月を打とうとしたその時、髪が人の右手を巻き付きその勢いで左手も巻いた。このまま一番目の人の黒魂を吸い込んだように包み込んでゆっくりと力を吸い込もうとしたがうまくいかなかった。

両手を縛られた人は力一杯長月の体ごと振り上げ地面に叩きつけた。長月の体は円を描きながら地面に打ちつけられた。

長月は血を噴き出した。

思いかけないこの傷は長月に大きなダメージを与えた。二番目の人はもう一回同じことをしようと振り上げたその時、長月は髪を彼の両手から放した。

長月は着地し、攻撃を開始しようたが背後からものすごい勢いでもう一人の人が飛びついて両手で長月をしっかりと抱きしめた。

「一度おれの人形になった人は、再び動かすにはそう時間がかからないもんでね。こうなった以上、お前はどうするつもり?くっついた人形を殺し解放する前にもう一つの人形に殺されるかもよ」

黒魂の話を実現しようとするかのように、二番目の人は拘束された長月に向かって駆け出した。

長月がいくらもがいても抜け出さないとわかって、髪を鋭くし自分を強く締めている両手を切り落とし後ろにある人を払いのけ、目の前攻撃してくる人に備え髪の盾をつくった。それからすぐ残りの髪で地面をひっきりなしに叩き、埃を起こした。

埃で周囲が見られなくなって長月はすぐ撤退した。今ここで自分にできることは時間稼ぎしかないことをはっきりとわかったからであった。

「逃げることを選んだのか。でも、いつまで逃げられると思う?いつかまた戦うことになるんだ!その日まで死なない事を祈るよ!」

黒魂の勝ち誇ったような叫び声が静かな公園内で響き渡った。

胸の中で飛び回る悔しい気持ちを、長月はぐっと抑えながら、黒魂から遠く離れる所に逃げる事だけを考えた。
「行ってきま~す」

さわやかな朝、朝ごはんを食べ終わったマスオは学校へ行く支度を終わらせ、玄関で靴を履きながらマスオは厨房で洗い物をしているフミヨに言った。

「マスオ、学校終わったら早く帰るのよ。最近、物騒だから。最近失踪した人があるらしいよ」

「わかった!」

ドアを出たマスオを学校へ向かった。

アツコのお母さんの言ったとおりかもしれない。重大犯罪がめったに怒らない町なのに、もう何人もが失踪したという知らせがテレビで報じられた。黒魂がこの街を壊しているのが、マスオにはなんとなくわかった。

それにしても、人の失踪は普通すぐ報道できることでもない。何日か姿も見えないし、連絡も取れなくなってから家族や友人が通報する。でも、最近頻繁に怒っている失踪が失踪したすぐ報道できる理由は、全部夜中、忽然と姿が消えたからだと周りにいた目撃者が言っているからだ。こんな不思議なでき事が起こっているからだ。

相次いで起こるこの奇妙な失踪事件に、政府もじっとしてはいられない。

忽然と姿を消す力は黒魂にしかいない。あんな非科学的な存在と警察はどうやって戦うんだろう。そもそも、黒魂の仕業と気づくかな。それより、アツコのお母さんが退治してくれるかも、とこんなことを考えながら、マスオは歩いた。

すると、後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえたので振り返った。アツコだった。

「おはようマスオ!」

「おはよう!」

「何考えているの?深刻な顔つきで」

マスオは少し黙ってからはなした。失踪ニュースについて聞いていいかどうか迷ったけど、相談できる人はアツコしかいない。自分が何かできるわけではないけど、事のいきさつくらいは知りたかった。

「アツコ、最近の失踪事件、やはり黒魂の仕業かな?」

「うん、私も気になって聞いたんだ。間違いなく黒魂がやったと言ってた。しかもとても強いといったよ。なので当分学校が終わったらどこへも行かずにまっすぐ家へ帰れと命令されたのよ」

「やっぱりそうなんだ。……僕の母さんも早く帰ってと言った。それより、心配だよね、この町が」

「大丈夫よ、私たち巫女があるんだから!絶対守られるよ」

アツコは明るい声でマスオに話した。こんなにも自身たっぷりにいうから、マスオもなぜか安心できるような気がした。

「それに、マスオのことなら私がちゃんと守ってあげるから安心してね」

「えっ、まだ正式に巫女になれたわけじゃないでしょう?」

「なによ!私の実力を疑っているわけ?」

「そうじゃなくって」

「まぁいいの。いつか私の実力を見せてあげるから」

実力を見せるのが黒魂と戦うことなら、一生みたくないと、マスオは思った。

「何がまだ気になることがあるの?」

顔色が晴れないマスオにアツコは聞いた。

「別になんでもないよ」

「もしかして月からきた女のことが心配なんじゃないでしょうね?」

マスオはびくっとした。図星だ。

「お母さんが言ったように、かかわらないほうがいいよ。だって、家に代々継がれた話によると本当に良い結末を迎えたことが一度もないんだから」

「そうなんだ」

そっけないマスオの返事にアツコはまた何か言って説得しようとしたけど、校門前まできてしまった。

「この話はここでやめよう」

マスオが先に話を切り上げた。

アツコはまだたくさん話がしたいが結局やめた。

授業が始まったというのに、マスオはほかのことで頭いっぱいだ。黒魂のことも考えてはいるけど、なによりも長月という女の子が気になってしかたがない。あれから姿を消したかのように現れなかったからだ。自分が持っているお守りのせいで近づけないんじゃないと思ってはいるけど、だからといってお守りを捨てるわけでもない。会えたらいいと内心期待さえした。

「何考えているの?」

休みの時間にアツコが話かけてきた。

「別に何もないよ。ぼうっとしていただけ」

「ふん~そうなんだ……。そうだ、お母さんからメールがあったの。今日マスオの家に行っていいかって」

「僕は別に構わないよ」

「わかった。じゃそう伝えるね」

「うん」

アツコがなにやら熱心に携帯に文字を入力している。終わった頃を見計らってマスオが話しかけた。

「そういえば、初めてだよね。僕らを母さんが出会うのって」

「確かに。気まずくないでしょうね」

「分かんない。それより、なぜだと思う?」

「さあ、私の修行はまだ足りないから深いところまではしらないよ。ただ昨日のお母さんの表情から見れば大変な事かもしれないよ」

「本当に?」

不安がるマスオを見てアツコはなだめるように言った。

「お母さんに任せればきっと大丈夫だから、心配しないで」

「うん」

こういったものの、マスオの心の中にはぬぐい切れない不安があった。

一日の授業はあっという間に終わった。アツコはマスオの腕を掴んで校門へと急いだ。

「お母さんがもう校門前に着いたの。早く行こう」

校門へ着くとアツコの母になるスズノが車の前で待っていた。二人を見つかって微笑みかけた。

「お母様、待ったのでしょうか」

何かアツコは自分の母の前では性格が変わっている。そんなアツコを見てマスオはおかしく思いながら微笑んだ。

「何がおかしい?」

アツコが直ちにマスオに問いかけた。

「べ、別に」

「車に乗って、早く行きましょう」

二人はスズノの話を聞いておとなしく乗車した。

「じゃ、マスオ君、道案内お願いするね」

「はい」

車はマスオの家に向かって走り出した。
長月は鉛のような重い体をやっとのことで山小屋まで動かした。

その場に長引いたらきっと自分の負けに決まったから。逃げてきたのは快く思ってはいないが、仕方がないことだ。負けて黒魂に力を奪われたら元も子もない。今はまず傷を治すことに集中しようと決めた。あの黒魂が追いかけてこなければと願った。

負ってる傷からみると、明日まで休まないと完全に癒されない。

時間がただ過ぎていくのがとても無念だけど、今はそうするしか方法がない。早く回復して、もっと力を上げないままあの黒魂に出会ったら、もう今日みたいにうまく逃げられないかもしれない。

山小屋に入り壁にもたれたら、瞼がだんだん重くなってきた。山小屋は木々の影にあるので、空気がとても涼しい。長月は気持ちよく眠りに入った。

山小屋の外から物音がしたので、長月は目を開けた。もうすっかり昼になったから、登山客ではないかと長月は思った。

案の定、山小屋のドアを開けて入ってきたのは、登山服を着こんだ老人二人だ。

「おや、先客がいるようだな」

お爺さんが言う。

「お邪魔してもよろしいでしょうかね」

お爺さんの問いに長月は縦に頭を振っただけだ。

老人二人は長月に近づかず、ドア近くの場所で腰を下ろした。お爺さんはザックからボトルとコップを取り出し、並々に注げてからお婆さんに渡した。

「お嬢さんも一杯いかがですか?」

「いいえ、結構です」

「そうですか」
少し間をおいてからお爺さんは話をつづけた。

「傷を負ったようですが、病院へ行かなくてもよろしいですかね?」

「えぇ、一晩休めばすぐ治りますよ」

「なら、その傷が治る前に、どうかしないといけないということですかね」

言葉が終わるとともにお爺さんの体から黒い煙がにじみ出て波のように揺れ始めた。

「お爺さん、私は確かに傷を負っているけど、あなたに負けるほど弱ってはいないよ」

「はっはっ、やはりそうですか。これは失礼しました。実は、戦うつもりはありません」

また戦う気がない黒魂かよ、と長月は心の中で舌打ちをした。

「でも、私は戦う気、満々ですけど。黒魂を食べて力を上げないと」

長月の言葉を聞いてお爺さんは苦笑した。

「戦わないといけない運命ということですかね。この山小屋にお嬢さんがあると気づいたけど、婆さんの体力が持たないから休もうと決めたのですよ。わしに気づいた瞬間、攻撃してこなかったから戦わずにすむと思って入ってきたけど、検討違いのようですね」

長月も正直のところ今は戦いたくないのだった。深い傷を負っているので戦って、勝つことはできるけど、簡単には勝てない。それに回復の期間がまた伸びてしまう。このお爺さんの黒魂は、傷が完全に治ってから吸収しに行ってもいいと思った。

「まぁ、別にここで戦いたいと思ってもないけど……」

「それはたすかりました」

お爺さんの声には安堵の気持ちが含まれていた。

「でも、見逃してはくれないですね」

「はい」

「お嬢さんが戦う気になった時まで、婆さんともっといられるってことですか。それも悪くないな」

「私が吸収しに行かなくても、もう寿命がそう長くないでしょう?」

「お嬢さんの言ってるとおりですよ。もう時間がそんなに残っていない。だから、最後まで一緒にいたいんだ。なのに、なのに……婆さんが先に旅立ってしまってね」

「だから黒魂で婆さんの命を伸ばしだっていうわけですか?」

お爺さんは軽くうなずいただけだ。

「目の前にあるのは婆さんの皮をかぶった黒魂だって知ってますよ。それでもいいのです。死ぬ時は婆さんと一緒に死にたいですから。昔からの約束です。一人きりであの世へはいきたくないって。だから、わしもお供しないと」

「お爺さんが死んだら黒魂は制御できなくなって、二人の体にのっとるんですよ。二人は黒魂に操られるはめになるんです」

「おや、体を離れるとばかり思ってたけど、それでは困りますね」

「そういうわりには困ったようには見えませんけど」

お爺さんはお婆さんの手からコップをもらい、水を注いで一口飲んだ。

「もしかしたら、お嬢さんに出会うために、今日ここへ来たのかもしれませんね」

長月は何も答えなかった。この行動が自分に話を進めという促しとお爺さんは理解したようだ。

「婆さんとはこの山で出会ったんだよ。同じ登山仲間の紹介でね。週末になると必ず登山したんだな。婆さんにあってから目的はもはや体を鍛えるというより、婆さんに会いたいから登山したのも当然のようになったんですよ。そんなある日、朝から小雨が降り出して今日は取り消しだなと思ったけど、万が一に備えて出発したんだな。すると……」

お爺さんはお婆さんをじっと見つめた。視線からは愛情が感じられた。

「婆さんが待っていたんだよ。駆け寄って待たせたと言ったら、はにかみながらいいえと答えたんですよ。小雨はすぐ止んで二人きり登山しましたな。下山した時婆さんが言ったんですよ、わしを待っていたんだと。わしはすぐ付き合いを申し出て、一緒になったわけです」

思い出に耽るようにお爺さんはしばらく無言のままにいた。

「婆さんと一緒にいた日々はわしにとっては一番の幸せな日々だったんです。今もそうですよ。だから、先立つのは、のは、耐えられんです」

「だから黒魂の力を借りたのですね」

「そんなわけです。息を引き取った婆さんの体に黒魂の力を入れたんです。長くはもたないようですな」

お爺さんの目は涙ぐんでいた。お婆さんは手を上げ、お爺さんの頬に手をそっとおいた。その手にお爺さんも手を上げ、握った。

「お嬢さん、黒魂を吸ってもいいですよ。おとなしく座れるかどうかはわからないですけどな」

「いいんですか?」

「いいとも、いつか心を決めなければならないと思っていたんですよ。今日だと思えれば気も楽になるですな」

長月は何も言わなかった。

お爺さんは何も言わずに長月が自分の黒魂を持っていかれるのを待っているようだ。

長月は髪を伸ばし、お爺さんとお婆さん二人を包み込んで、長月は黒魂を吸収し始めた。黒魂は抵抗した。煙の形をした黒魂は山小屋の外へ逃げようとしたが、長月はすぐ、髪を伸ばして、髪の檻を作り、逃げるのを防いだ。煙の形をしただけで、本当の煙のように、隙間を通れることはできなかった。黒魂を全部吸い込むとお婆さんは空気が抜けた風船のように、倒れた。

お爺さんは別に驚いた様子もなく、静かにお婆さんを抱きしめた。

「黒魂が抜けると、『月引症』とやらがあるみたいですね。わしが乗り越えられるように見えるかね?」

長月は何も言わなかった。

「そうか。いいんですね。すぐ婆さんのところへ行ってお供できるんですから。このザックはここに置いていくよ。食べ物とかが入ってるから食べなさいな」

こう言って、お爺さんはお婆さんを背負って外へ出た。

山小屋は静まった空気に包まれた。

体の中にある黒魂を感じながら、なるべき一秒でも早く自分の力にしようと努力した。あの、人を操る黒魂より強くなって、あいつの力を超えないと、この町で生き残るのが難しい。

目を閉じゆっくり休もうとした長月の頭にあるアイデアがよぎった。この町に巫女がいるから、黒魂消滅に協力し合うのもいいと思えてきたからだ。そのかわり、黒魂は自分が吸い込むことに。

こう決めた以上明日、傷が治ったらさっそく巫女を探しにいくと決めた。

巫女はかぐや姫の分身を好んでない人もいるらしいが、出会ってみないと分からない。話し合いのできない巫女なら、一人の行動に戻ればいい。長月は自分の体にだんだん溶け込む黒魂を力を感じながら、運命の人、マスオと暮すことを夢見た