ドアがぶっ壊れた音がした。それから髪の槍が飛びついた来た。桃色は跳びあがりながらかわした。その後ろを葉月が飛んできて手に持っていた髪の槍をそのまま桃色の体に突き刺した。桃色は逃げることもできなく、髪の槍に刺された。

「どうして?あなたは死んだはずなのに」

「運転士の死体のおかげで逃げることができた」

「そう、相手を侮るもんじゃないね。ゲームやる時に一番気を付けないといけないことなのに、忘れるなんて」

葉月は桃色の話が終わったのを待ってから黒魂を吸った。

「大丈夫?」

僕の傍に駆け寄った葉月が尋ねた。何か答えようとしたけど、声に出なかった。

葉月は僕を抱いて外にでた。太陽の光が両目を刺す。僕が今まで閉じ込められたのは山の奥にある廃棄工場みたいな場所だった。

近くの日のよく当たる場所で葉月はそっと僕を下ろした。彼女は僕の額に自分の髪を刺した。僕は眠りに入った。

目を開けるとオレンジいろの空が目に入った。黄昏はいつもより速く来た気がした。太陽は自分の光が消えかけているのが悔しくて、最後の抗いをしていたけど、闇にはかなわなかった。

僕の横に坐っている葉月を見て傷の具合を尋ねた。

「傷はもう大丈夫なの?結構ひどかったみたいけど」

「休んだから、もう大丈夫 」

葉月が大丈夫と言っているので、僕はそれ以上聞かないことにした。葉月の髪のおかげなのか、ひと眠りしたら、体はもう元気になった。

僕らは家に戻った。

明日からは葉月たちの戦いが始まる。今日はゆっくり休んで体力をつけたいだけだ。

「晩ご飯はないを食べよう?」

葉月は何も言わずソファーに座ってテレビをつけた。どのチャンネルも全部同じニュースをやっている。最近急増している猟奇殺人事件に対しての報道だ。

軽くご飯を食べて、寝るまで何をしようかと一人で考えてみた。葉月はチャンネルを回しているだけだ。葉月は今何を考えているのだろう。

このまま家の中でテレビを見るには、もったいない平和な時間なので、葉月と一緒に町を歩くことに決めた。夜の街も華やかで面白い。

「出かけてみない?」

「どこ?」

「あちこち。前に葉月が一人でやったように。でも、今日は僕が付いているから、面白いところにもつれてあげる」

「行こう」

今夜はなんか涼しい夜風も吹いていた。

葉月と街に出たのはいいものの、これからどこへ行けばいいか分らなくなった。ふと思い出したのは、今までの僕は殆どお宅のような生活をしていたので、女の子と楽しく遊べる場所なんでひとつも知っていない。

ふとゲームセンターへ一緒に行く恋人を見たのを思いだしたので、そこへ行くことにした。UFOキャッチャーもあるし。

僕は早速、葉月をつれてゲームセンターへ向かった。たくさんあるゲーム機に葉月は興味を示さなかった。でも、UFOキャッチャーのぬいぐるみには目を離せなかった。

ここで、僕は硬貨をいれて、一発でつれるように願った。かっこよく見えるから。しかし、こんな時に限って、運はついていない。そもそも、運がついてきたことは一度もなかったけど。二千円近くはらってやっと、一つをつった。ウサギのぬいぐるみだ。葉月にあげたけど、受け取った彼女の顔は無表情なので、気に入ったかどうかは分らない。

ゲームセンターから出て、僕は葉月をつれて、この街の若者に一番人気の「ハヤリのミチ」に向かった。この一本道の両側に軒を並べている店はみんな若者向けの店ばかりだ。しかし、人込みの中からは、自分はまだ若いと思っているおばさんやおじさんもよく見かける。

この一本道の始まりから終わりまで歩いてみたけど、特に葉月の興味を引くものはみつからなかった。
時計を見たらもう夜の10時になった。

僕と葉月は帰り路についた。

今更だけど、よく考えてみたら、これって世間でよく言うデートではないか。ちょっと照れる思いに浸った。

今はそんな妄想をしている場合ではない。何か話題をみつけて、この沈黙を破らないと。

「前回の葉月の恋人だった人は誰なの?」

葉月はただ前を見た。

「あなたの知らない人」

葉月の答えはぶっきらぼうなので、これ以上聞かないことにした。いいたくない話だろう。

楽しい一日も終わり、葉月は僕の部屋に、僕はソファーで寝た。

誰かに揺すぶられて目を開けた。僕は葉月かと思って目を開けた。手で目をこすりたかったけど、手が動けなかった。

目を開けたらぼんやりと女の子の姿が目に入った。でも、髪がちょっとながい。葉月ではない。

桃色だ。

「フモト、よく寝た?気絶したので、起こしてあげたのよ。これから始まる楽しいことを覚えてもらいたいから、寝ちゃだめよ」

葉月と一緒だったのは夢だったのか。
いつもの暑いの夏の夕方、空中に忽然と巨大な白い球体が現れた。

球体から口が現れ、真赤な舌を大地に垂らした。

異変が起こったのは空中だけではなく、地面でも不思議な情景が現れた。

人々の体からは黒い人影が抜き出てきた。黒い人影は魅せられたように球体の舌をつたって、口の中へと歩いていった。球体は黒い人影を食べ始めた。黒い人影をいっぱい食べるにつれ、変化を起こした。

段々小さくなり、胴体が現れ、四肢は生え、最終的には人型となった。人の姿になった球体はそのままそらに浮かんでいた。

食べられなくなった黒い人影は地面でうろついている。自分の宿主をさがしているのだろう。でも、みつけてももう宿主の体には入れない。

うろついている黒い人影の中を歩いている人々の中にこの異変を気づいた人は誰一人いない。

異変を見た者は誰一人としていない。だった、一人の中学生を除いて。

中学二年を通っているこの生徒の名前は前勝マスオ。夏休みが終ってから、一週間はもう過ぎているのに、懐かしい朝寝坊の日々がいとしいというような溜息を、マスオは吐いた。

放課後の帰り道を歩くと、前で歩いている人の体から黒い人影が出てきたのを見てしまった。マスオは立ち止まって目の前に広がっている画面を見つめるだけだった。黒い人影たちは同じ場所を向かって歩いている。フモトは彼らが向かってる場所に視線を向けた。彼の目に入ったのは空に浮かんでいる大きな白い球体だった。

マスオはその場に立ち竦み、口をぽかんと開けた。

こんなマスオの様子を見た周りの行人は、変な目つきを注いだが、マスオは気にしなかった。気にしなかったより、目の前に広がれたことに気をとられて、他の事に気を配る余裕がなかった。

あれは一体なんだろう!?なぜ、誰も驚いたらり、喚いたり、大騒ぎをしないだろう?と、マスオは思いながら、かろうじて、足を動かすた。マスオの目的地は球体が浮かんでいる真下だ。

しかし、マスオが目的地に近づく前に、球体は小さくなり、どこかへ飛んでいってしまった。人込みと黒い人影に囲まれたマスオは、今更ながら、おぞましい恐怖感を感じた。熱い夕方なのに、冷たい汗が背中をつたって流れた。

マスオは黒い人影を見たくなくて、頭を下げ、冷や汗を我慢しながら、家に向かった。いつも歩いている家路なのに、長く感じた。歩いてもたどり着かない気がした。

やっと家に着いてからも、夕方の情景があまりにも衝撃だったので、脳裏から消すことはできなった。ちょうどマスオのお母さん、前勝フミヨは今厨房で晩ご飯を作っている。

ドアの音に気付いて、フミヨは玄関に出てきた。その後ろには黒い人影がついていた。

「母さん後ろ!」

マスオの叫びに驚いて、すばやく振り向いたが、フミヨの目には何も見えなかったように、再びマスオに向き直った。

「最近はやりの騙しなの?でも、母さんに悪戯しちゃいけないよ」

フミヨは軽くマスオの額を指で突いてから、言葉を継いだ。

「家に帰ったらまず、手を洗ってうがいをすること」

マスオは厨房へもどるフミヨの後ろ姿をずっと見守っていた。黒い人影は母さんの後ろをついて一回厨房へ入ったが、すぐ出てきた。そして、逃げるように壁を通りぬけて、どこかへ行ってしまった。
黒い人影がいなくなって、マスオはほっとした。

カバンを自分の部屋に置いてから、マスオは厨房に入った。

「母さん」

マスオは低い声でフミヨに声をかけた。

「どうしたの?」

「今日、なんか変わったことなかった?」

「何が?」

フミヨは味噌汁の味見をした。

「うん、今日の味噌汁は絶品だよ。マスオ、飲んでみる?」

「うん」

フミヨはお玉で味噌汁を汲んでマスオの口元に運んだ。

「熱いからふーふーしてね」

「僕はもう子供じゃないよ。そんなことぐらい、わかっているよ」

「はいはい、分りました。小さな大人さん」

マスオは味見した。

「母さん、おいしい!」

「よかった。皿やお箸を運んでね」

「うん、分った」

マスオは自分の言おうとしたことをすっかり忘れ、母さんと幸せな夕食の時間をすごした。
「今回はこの町かあ~」

長月は埃を払いながらたち上がった。周りを見回すと、樹木に包まれていた。山の新鮮な空気をいっぱい吸い込んで、長月は歩き出した。そして、自分の裸姿を見て、つぶやいた。

「先ず、服を一枚こしらえないと……誰から一着借りちゃお」

あてもなく、森の中を歩いていると、すぐ目の前に、山小屋が現れた。

「この中に人がいればいいんだけど……。人がいたとしても、女の服など、あるのかな?」いろいろ考えつつ、山小屋に近づいた。
しかし、近づくにつれ、山小屋の中から人のもがき苦しむ声が漏れてきた。それとともに、男性の気狂った声も隙間から流れ出て来た。懐かしい匂いも感じた。獲物の匂い。

「中で大変な事が起こっているかも知れないけど。私にとっては好都合だよね。沢山の黒魂を吸収して、強くならないと。でも、こんなにもはやく黒魂に出くわすなんて、ついているかも、私は」

長月は山小屋のドアの前に立った。中で犯罪が行われている事は、百パーセント確定になった。

「でも、感じるからには、そんなに大した黒魂ではないが、ないよりましだよね」

こうつぶやいてから、葉月はいきなりドアをぱたんと開けた。長月の前には大体、予想したとおりの事が起こっていた。ただ、長月は床で女、いや、少女が侵されると思っていたが、実際は机の上で侵されていた。

長月に気付き、少女と黒魂に体を包まれた男は一斉に目をドアの方に向けた。ただ、違う眼差しで。少女は恐怖に満ちた視線、黒魂は邪魔者で不快になった目線を送った。

「助けて!」

少女は喘ぎながら長月に向かって助けを呼んだ。

しかし、長月は答えず、自分の言いたいことを話した。

「私が誰か知っているでしょう。黒魂の直感で」

黒魂は少女から離れ、真正面から長月に向き直った。発情中の男の裸、長月はいやな顔で眺めた。

「あ~、わかっているとも。もちろん、お前を食ったら強くなれるって事もね」

「本当に、自分の都合にいいことしか覚えないのね。忘れたようで教えてあげるけど、私もあんたを食べたら強くなれるよ。でもね、あんたは私を食べれないの。だって、私の方が強いって事は一目瞭然でしょう。……あっ、そうだ。バカにはつわものとの差を知らないんだ。だから、世の中には身の程知らない人がいっぱいいるんんだね。まぁ、あんたはもう『人』って呼べないけど」

長月の明らかな挑発的な言葉に黒魂はかっとなった。

「おれがバカだと!なら、どちらが食われるか、結果がすべてを語るんじゃないか!でも、簡単に死ねると思うな!お前を犯しまくって食ってやる!」

言い終えると、黒魂に包まれた男の体は長月に向かって駆け出した。まるで、体に墨を塗ったような恰好だ。

長月は軽く後ろに飛んで、黒魂の衝突をかわした。山小屋の中じゃ場所が狭いので、長月は黒魂を山小屋の外に誘き出した。

「あんたは赤い布に反応する牛なの?ごめんごめん、牛に例えると、牛に失礼だわ。あんたの動きはのろすぎるよ。簡単に避けられるんだもん」

黒魂は長月のからかいにかまわず、というより、一層怒りの感情をむき出しにしながら、狂い始めた。

「絶対、お前を食ってやる!」

「ふっふっ。ねぇ、バカはなぜ死ぬ運命なのかは知っている?」

長月は黒魂の攻撃を軽くかわしながら言った。

「そんなのしらねぇよ!知りたくもねぇよ!」

いくら攻撃を仕掛けても、やすやすとかわされる長月に苛立ちながら、黒魂は言葉を吐き捨てた。

「それはねぇ、バカだからだよ。自分と相手の能力の差を知らず、戦うんだから、死ぬしかないでしょう。あんたのように」

「よくも、おれのことを二回もバカ扱いしたなあ!」

しかし、黒魂がどんなに怒り狂っても、攻撃は長月に通用できなかった。かろうじて、長月の体に触れようとすると、すぐに、長月の長い髪によって、払いのけられた。

「このままあんたと遊ぶのも厭きたし、裸をみられるのもいやだから、終わりにするね」

長月は動きを止めて、黒魂がくるのを待っていた。

「逃げないのは、おれに殺されたいのかい?なら、殺してあげようじゃないか!」

「誰が死ぬかは、まだ分らないよ。おバカさん」

「おれはバカじゃねえよ!」

黒魂はこう吠えて、跳び上がり、空から長月に向かって、攻撃してきた。

長月は冷ややかな目付きで、空中から自分に向かってくる黒魂を見つめた。そして、黒魂との間が目と鼻の距離になった時、長月の髪はずさっと、黒魂の体を突き刺した。長月の髪は一つの束になり、先端は鋭いドリルのようだ。

黒魂は串のように刺され、長月の頭上に持ち上げられた。

「ほうら、私の言ったとおりでしょう。バカは死ぬって」

長月が息を吸うと、黒魂が吸い込まれた。

「やはり、弱い黒魂だね。早く、強い黒魂を食べて、力を増やさないと」

黒魂を吸収してから、長月は山小屋の中に入った。

少女は恐怖で体が激しく震えている。自分に近づく長月に気付き、後ずさったが、壁にぶつかり、もう退けないとわかってから、目を瞑り、頭を抱えて呻いた。

「安心して、私はあなたを害しないから。私は先の黒いやつに用があるだけよ」

長月は優しい言葉で少女を慰めてから、そっと手を少女の頭に載せた。

すると、少女は気を失ってしまった。

「少し休んでいてね。それから、服は借りるね。助けてあげたお礼だから、怒らないでね。これぐらいの礼ですむんだからむしろ、ありがたく思ってほしいわ」

話しおえてから長月は、少女の体から服を取って、自分の身につけた。

「悪くないね、この服」

一周まわってみて、長月は褒めの言葉を少女にあげた。少女に聞こえるはずはないのをしっていても。

部屋の隅に乱暴に捨てられた男子の服の中からシャツを取って、そっと少女の体を覆った。

「男の服でも着てかえってね。それじゃ」

山小屋を出た時に、太陽はもう燃え尽きた焚火のように、最後の光を投げ続けていた。
マスオは晩ご飯を食べ終えてから、すぐ自分の部屋に入り、黒い影と消えた球体について考え始めた。

どうやら、異変に気付いているのは自分一人しかいない。なぜなら、今になっても、ニュースで報道されないのがおかしい。あんなことが起こったのに、何のパニックも起こっていないから。

時々、壁を貫き流れてくるテレビの音は、いつもと変わらないバラエティーのうるさい笑い声だ。周りのみんなに見えないって事は、自分がおかしくなって、幻影を見たのではないかと、疑ってもみたが、あんなにはっきりとした幻影はあるはずがない、とマスオは自分に言い聞かせた。言い聞かせたというより納得させた。

これから、世界は変わっていくのだろう?とマスオは考えれば考えるほど不安になってきた。自分にしかみえないものが、自分や母さんを苦しめにくるのではないかと思うと、胸が締め付けられるような感覚を感じた。

今は何も起こっていないけど、明日になって、急に世界が一変するかもしれないという憂いがマスオの胸から離れなかった。あの黒い人影が実態化して、人々に見られ、世界が壊されたらどうなるだろう?平穏な母との暮らしはどうなるのだろう?

でも、心を落ち着かせてよく考えてみると、あんな大変な事が起きたのに、世間はいつもとおりに動いているってことは、やはいあれは幻だったからに違いない、とマスオを結論をつけ、宿題をやり始めた。

宿題を初めて、しばらくたってから、ドアをノックする音が聞こえてきた。

入ってきたフミヨは手に果物を乗せた皿を持っていた。

「ノックしないで入って来てもいいっていったじゃない、母さん」

マスオの言葉にフミヨは優しい微笑みを浮かべた。

「でもね、マスオ。もう少し成長したら、ノックせずに入ってくる母さんが嫌いになるよ」

「そんな事絶対ありえないよ、母さん。僕はいつも母さんのことが大好きだから」

「大好きと言ってくれてありがとう。母さんもマスオが大好きよ」

フミヨは皿を机の上において、マスオを頭を撫でた。

「宿題、頑張ってね」

「うん、母さん」

フミヨが出て行ってから、マスオは皿に目をやった。林檎とバナナがある。

世界がこんなにも穏やかに一秒一秒と過ぎていくのに、異変なんか起こるわけないと、マスオはもう一度自分に言い聞かせてから、宿題に没頭した。

宿題が終って、風呂に入ろうと思ってマスオは自分の部屋を出た。

フミヨはソファに坐って、本を見ていた。

「お風呂に入る?」

「うん」

「母さんが背中、流してあげようか?」

「いいよ、僕はもう大人だから」

「母さんから見れば、マスオはいつも子供だよ」

「そんなことないよ」

「分った。ゆっくり浸かっててね」

あまりにも気持ちのいいお風呂なので、夕方に見た異変についての記憶は吹っ飛んでしまった。幻と思い始めた夕方の情景もだんだん薄れていった。

マスオは、もうすぐ夏休みになる、と思いながら天井を見上げた。安らぎの時間、全身全霊をくつろいでいるその時、天井から黒い影が現れた。

天井を通り抜けて現れた黒い影の頭には黒い線があって、どこかとつながっているようだ。

マスオは自分の体が凍えてしまったように感じた。動かそうとしても、体は自分のいうことを聞かない。あったかいお湯なのに、体のどこからか、寒気が走った。今いる場所は南極のど真ん中のような錯覚さえ感じた。

床についた黒い影は不気味な笑みを作って、マスオに近寄った。そして、浸かっているマスオの体を眺め始めた。マスオの頭から足まで視線をすべらせながら、醜くつりあがった口元はやらしくもなった。

マスオは思わず手で大事な体の部位を隠した。

マスオのこの動きを見た黒い影は、いきなり手を伸ばし、マスオのあごをつまんで、頭を持ち上げた。

「あなたには私が見えるよね」

黒い影が現れたことで、怖くなった。そして黒い影の思いがけない行動に、恐怖を感じ始めた。

「見えるなら都合がいいかもしれないね。怖がる人を鑑賞するのも悪くないかも。反応が好み」

黒い影はマスオをお風呂から持ち上げて、床に置いた。

「私ね、男の性器が見たいの。特に生の。インターネットで見るのは、どこか物足りなさを感じるんだよね。こうなったら、いっそうのこと、触ってもみたい。抗うと私がどんな恐ろしいことをするか、自分でもわからないからおとなしくしていてね。うっかり殺すことだってできるから」

軽く笑ってから、黒い影はマスオの手をつかんだ。

マスオは何もできず、銅像のようになった。

「最初はまず、性器を見せてね。私の一番の目的なんだから。楽しみ」

マスオは思うがままにされる奴隷に変わっていこうとするその時、フミヨの声が聞こえてきた。

「マスオ、クラスメートから電話が来たよ」

黒い影は軽く舌打ちをした。

「今日はこれで終わらせてもらうけど、明日また会いましょうね。この時間にまた訪れるから、楽しみにしてね。だから、ちゃんと時間とおりに風呂に入ってね。じゃないと私、本当にあなたを殺すことだってできるから」

こう言って、黒い影は頭から伸びた黒い線に引っ張られているように、天井を抜けて消えた。

マスオはしばらく、ショックから立ち直れなかった。再びフミヨの声が聞こえた時に、やっと気を取り戻し、すばやく体を拭き服を着て、電話を取りに行った。

電話の相手は寒麗アツコだ。マスオの前に座る勉強のできる女の子。いつも分厚いめがねに、三つ編みにした髪が特徴だ。今ときに、三つ編みにする女の子なんて、希有ものだ。

明日のスピーチ大会の最後の打ち合わせた。

「マスオ、聞いている?」

アツコの不機嫌な声に、マスオを先の黒い影との恐ろしい体験の思い出から、引っ張り出した。
「聞いている、聞いている」

「じゃ、私が何を話したか、復唱できる?」

「……ごめん」

「何があったの?」

「なにも……」

相手に見られるわけないのに、マスオは力強く頭を左右に振った。

「ならいいんだけど……。でも、明日のスピーチ大会は本当に重要だから、ちゃんと練習しておいてね」

「わかった」

「じゃ、また明日」

「バイバイ」

電話を切ってから、マスオは重い足取りで自分の部屋に戻った。

椅子に座るなり、ノックの音がした。

「は~い」

「マスオ、冷たいミルクだよ」

「ありがとう、母さん」

「アツコからの電話だったね」

「うん」

「どんな話をしたの?」

「明日のスピーチ大会のことについての最終の打ち合わせよ」

フミヨか小さな悲鳴を上げた。

「ごめんね。明日の仕事、どうしても抜け出せないの」

「大丈夫だよ、母さん。僕は何もしないよ。ただ座って、資料を整理したり、スピーチする生徒に資料を渡すだけのことをするんだから」

「そうなの?でも、マスオがスピーチするのも見たいね」

「恥ずかしいよ。それに、人前で大声で話すのも、なんだか気まずそうだし……」

「わかったよ。マスオはマスオのままでいいから。じゃ、ミルク飲んで、スピーチの準備をしてからはやく寝てね」

「うん」

フミヨはドアまで言ってから振り向いた。

「ほかに何があったの?」

マスオはフミヨの質問が理解できなかった。

「何もなかったよ?どうしてそう聞くの?」

「マスオの顔色が急に暗くなったのよ。それに、声も元気なく感じるから」

さすがに母だ。マスオの微妙な変化をすぐ気づく。

「僕、元気だよ」

マスオはわざとらしく声を張り上げて答えた。マスオが無理で元気があるようにふるまっているのを、フミヨがわからないはずがないのに、あえて何も言わずに部屋を出て行った。話したいのならいつかは話してくれるとフミヨは信じたから。

フミヨが出て行ってから、マスオの無理やり作った笑顔も崩し、明日のことについて考え始めた。もちろん、スピーチについてではなく、黒い影について。明日も来るといっていた。逃げたいけど、どこへ逃げればいいか、わからない。母に打ち上げても、実際に見ない限り、信じてはくれないと思う。

急に喉が渇くなって、ミルクを一気に飲み干した。そしてマスオはまた、明日のことについて、くよくよ悩み始めた。

うするうちにマスオは、いつの間にか、椅子に座ったまま、寝てしまった。
山をおりた長月はあてもなく、街を歩き始めた。

太陽はすぐ地平線の向こうに沈み、薄い光を放つ月と数え切れるほどの星が、夜空を飾った。長月はちらっと月を見た。来週、ほかの姉妹との戦いが終わったらまた月に戻って次を待つ。今回は好きな人と一緒にいられるように、と願いながら歩いていた。

長月のそばからは、主を見つからず、さまよっている黒魂が通り過ぎたけど、長月はそれらに見向きもしなかった。強い力を持つ黒魂を食べると決めたから。あまりにも力の小さい黒魂を食べても、力にはならないから。

雑魚は主を見つけても、もうもどれない。ほかの黒魂に食べられる道しか残されていない。長月にはご都合だ。

月にいる時に地球の凄まじい変化には驚いたけど、こうやって、直に見ると、本当にすごいね、と長月は思いながら、街の見物を続けた。わずかな時間を過ぎただけで、これほどの進化を遂げるとは、人類の知恵には感服せざるを得ない。長月のわずかな時間は何十年、何百年のことだけど。

歩いていると、脇道が現れた。脇道からは悪の気配が漂ってきた。悪の気配がたまりやすい場所は、極陰地だ。日当たりが悪く、一年中、陰湿な黒闇に包まれる土地である。なので黒魂もよく現れる。なぜなら、極陰地にいると、力が増えるから。

脇道に入って、極陰地の力が一番強いところに長月は立って、黒魂が現れるのを待っていた。

しかし、時間が経つにつれ、極陰地の力は長月によって段々弱まり、やがては消えてしまった。極陰地の悪の気配を吸収できないのが、何より悔しい。長月は極陰地を浄化することしかできない。

長月は完全に消えてしまった極陰地に文句をいいながら、脇道から大通りに出た。

こうなった以上、悩んでいても仕方ないと思った長月はまた獲物を探し始めた。そうするうちに、ちょっと気になった黒魂の気配を感じ取ってしまった。

力は少しあるようだが、長月が食べたいほどの強さでもない。ただ、今まで出会った(山の中で出会った黒魂を除いて)黒魂よりは少しぐらい強いからだ。

気になるのは、これだけではない。

黒魂は黒い線で主とつながっていて、アパートのあちこちを歩きまわっている。そして、ある部屋に止まって、しばらくして離れた。悪いことをしたわけでもなく、食べたいと思ってもいなかったので、長月は見逃すことにした。

これからもっと強くておいしそうな黒魂が待っているかもしれないと思ったから。長月は、このちょっぴり気になった黒魂のことを忘れて、足を急いだ。

街を歩く時に、周囲の人達はずっと、暑い視線を長月に注いだ。もちろん、彼女の足まで長く伸びたきれいな、潤沢のある黒い髪が不思議で。でも、長月はそんな人々の視線をじっとも気にしていなかった。むしろ、喜んでいた。美しいものは見せびらかすものだと思っている。隠しておくともったいないのだ。

いい気分になって、夜の街を歩いていると、前から警察が二人、長月の前に立ちふさがった。

「君、一人なの?」

太い方の警察が先に口を開いた。

「そうだけど。何か?」

「見た目からには、まだ未成年だろう。一人で夜道を歩いちゃいけないよ。危ないから」

痩せた方の警察が今度、口をきいた。

「でも私、未成年じゃないよ。もうとっくに成人になったんだから」

「本当なの?」

太い警察はわざとらしい驚いた顔を作って、言葉を続けた。

「それじゃ、身分証明書を見せてくれない?」

「そんなの持ってないよ」

「じゃ、仕方ないね」

痩せた警察は困った顔をして、太い警察を見つめた。すると、二人の間でアイコンタクトが交わされた。太い警察は軽く口元を吊り上げて、長月に向き直った。

「すぐそこに、交番があるから、一緒に行きましょう」

太い警察はこう言って、先頭に立って歩きだした。痩せた警察は動こうとしない長月を見て、顎で太い警察の後ろ姿をさした。長月に、ついていきなさい、という意味を伝えていた。

二人の警察は長月を連れて、人気の少ない街に入った。

「本当の姿を現したら」

周りには人がなく、三人しか残っていないのをみて、長月は声をかけた。長月はもうとっくにこの警察たちの正体を見破っていた。ただ、先までは町の中だったのでへたなお芝居に付き合っていただけだった。

「これが本当の姿だよ」

太った警察が両手を開いて、これを見なさいといわんばかりに、大げさな身振りをした。

「私がどんな存在なのか、知っているから、こんな人気のない場所に誘い込んだでしょう。だから、つまらない前置きは抜きにして、早く、本番に入ったほうがいいと思うんだけど」

「それもそうだなあ」

痩せた警察が言い終わると、二人の警察の体から、黒魂が出てきた。

「僕はフトック!」

「僕はヤセック!」

「二人合わせて、太痩黒(フトヤセック)!!」

長月は、黒魂が人体から離れて、すぐ攻撃を仕掛けると思っていたが、お笑い芸人のようなことをしたので、あっけにとられた。

「ちょっと、あなたたち。黒魂として、可笑しくない?」

「何が可笑しいんだ!」

フトックという黒魂がふてくされて言い返した。

「黒魂なのに、自分に名前をつけるなんて。もっと可笑しいのは、二人一緒に何をしているの?もしかして漫才?可笑しすぎるよ」

長月は思わず笑い出してしまった。

「フトック、もしかして、僕たちは今、あの子にバカにされた?」

「どうやら、そうみたいね」

「なら、どうすればいい?」

「もちろん、食ってしまえばいいだろう。食ってしまえば、僕たちは力をもらえる」

フトックの話を聞いて、ヤセックは何かを話そうとしたが、長月は一足早く言葉を口に出した。

「ごめんなんだけど、私はあなたたちのような雑魚黒魂には手に負えないよしいて言うなら、あなたたちが私に食べられるけどね。まぁ、見た目と違って、結構の腹ごしらえになると思うけど」

長月の言葉を、黒魂はあんまり気にしていないみたいだ。

「一人が僕たち二人に勝つんだって。そして、僕たちを食べるって。地球についたばっかりなので、黒魂の怖さを知らないのかな?」

ヤセックは笑いをこらえながら言葉を続けた。

「知らないみたい」

「そうだね」

「僕たちを食べることはありえないでしょう」

「そう、ありえない。絶対ありえない」

フトックが相槌を打った。

「だって、二はいつも一より大きいから。一は二に勝てないから」

ヤセックの小学生より低レベルの言葉に、長月はこれ以上こうやって時間を無駄に過ごし必要はないと思った。

「ねぇ、あなたたち。もし、攻撃しないなら、私から攻撃するね」

黒魂の返事も待たないまま、長月は走り出した。

自分たちに走ってくる長月を見た黒魂は防御をしようとせず、話し合いを始めた。

「本当にバカだよね。あの子は」

フトックの言葉にヤセックは大きくうなずいて見せた。

「そうだね。それを身の程知らずと言うんだね」

「うまく言った」

走りながらも、黒魂のやり取りを聞いてしまった。聞かないようにしても、音波を防ぐことはできない。思わず、鼻で笑いだしてしまった。

長月はまず、標的としてはうってつけのフトックを狙って、髪を突き刺した。

しかし、考えとは裏腹に、フトックはいとも簡単に長月の攻撃から、身をかわした。見た目より、体が軽い。

その隙に、ヤスックは長月の後ろに回って、背中に向かって、拳を投げた。

長月はすぐ髪を使って、後ろに髪の壁を作り、ヤスックの拳を防いだ。そしてすぐ、髪の束でドリルの形にしてヤスックの胸を狙った。

ヤスックは自分に突き刺してくる髪のドリルを足で払い、後ろに飛び退いた。

「あなたたち、ただのおバカコンビじゃないみたいね。私も、これからは容赦しなから、覚悟してね」

ヤスックとフトックはすぐ互いに近寄って、話し始めた。

「ねえ、聞いた?容赦しないと言ってた。本当に、生まれたばかりの子犬は、恐ろしいということを知らないね」

「それを言うなら、生まれたばかりの子馬だろう!それに、それはどうでもいいよ。あの子は今僕たちをおバカコンビといったんだぞ!」

ヤスックは急に目を光らせながら話した。

「おバカコンビって、いい響きだよね」

「バカ!感心してどうするんだよ!僕たちのことをからかっているんだぞ」

ヤスックは何かを話そうとしたが、長月はすぐ目の前に来たので、防御の体勢に入った。フトックはヤセックの後ろで、両手を合わせ、何かをぶつぶつ言っているようだ。

「防御だけでは、私の髪を防ぎきれないよ。隙を探し出すのが私の髪の特技だから」

葉月はこう言いいながら攻撃した。すべての髪を一束に巻いて、太くて大きいドリルの形にし、フトックに向けて突き刺した。

すると、ヤスックはうずくまり、自分の前に立っているフトックの両足を掴み、思い切って、長月の髪を横から打ち払った。

意表をついたできことに、長月はよけられず、フトックに髪を打たれてしまった。長月はよろけてから下半身に力をいれ、立ち止まった。

「ほら、僕たちは言ったでしょう。一は二に勝てないって」

ヤスックはフトックを肩にかけて、長月に向かって、あざけるように話した。確かに、フトックのようなでかい武器は打撃面積も、強度も充分にある。

「これで、僕たちの強さがしっかりとわかったでしょう。といっても、少ししか見せられなかったけど、今のうちに降参すれば、痛みを感じられずに、食ってあげることだってできるよ」

「そうそう、苦痛を感じたくなければ、おとなしくいる方が身のためだって」

ヤスックの言葉にフトックは相槌を打った。

そんな二人のやり取りに長月は気にもしなかった。髪を後ろに戻した長月は言い返した。

「まさか、そんなふうに黒魂を使うなって、知らなかった。油断は禁物と言ってるけど、ついついしてしまうんだね。でも、これからは絶対しないから、覚悟してね。黒魂たち」

ヤセックは笑いながら話した。

「フトック、あの子が僕たちに覚悟しなさいと言ったよ。笑っちゃうんだね。先、あんな攻撃を受けたくせに」

「本当本当。あの子に僕の真の姿を見せてあげよ」

「それいいね。それいい!」

ヤスックの言葉が終わると、フトックの体が怪しい黒い煙に包まれた。黒い煙が消え現れたのは、フトックではなく、大きな金槌だ。

「これがフトックの本当の姿だよ。驚いたでしょう。こうなって以上、許しを乞っても、もう遅いから」

ヤスックは自慢げに話した。

「ふっふっ。笑わせることはよくいうよね。今日あう黒魂たちはなぜ、こんなにも知能が足りないかな?バカばかりじゃないの。それとも、この長い間に、黒魂は進化じゃなく、退化したっていうの?」

長月の言葉にヤスックは首をかしげた。

「君がなにを言っているかは知らないけど、僕たちを侮辱していることだけはわかった。本当に許さない。マジで許さない!」

「許さないなら言葉だけでではく、行動でみせて」

長月の言葉が終わると、ヤスックは大きな金槌を振りかざしながら、走り出した。あんなでかい金槌を手にして、よくも走れるんだな、と長月は感心しながら、ヤスックに向かって走り出した。

ヤスックは長月が攻撃できる範囲内に入りとすぐ、金槌を振り下ろした。しかし、長月はやすくかわし、ヤスックの横に近づき、髪を突き刺した。

ヤスックは金槌の柄を握ったまま、飛び上がって、長月の髪の攻撃をかわした。

地面についたヤスックは体を廻した。金槌を持って急速回転するヤスックは長月に向かって、せめて来た。

長月はあせらず、飛び上がって、廻っているヤスックの頭に向かって、髪のドリルを突き出した。長月の攻撃を気づいたヤスックは動きを止めようと努力した。でも、反動もあって、すぐには止まれなかった。

この隙を狙って、長月は髪でヤスックの体を貫いた。

ヤスックは抗ったけど、長月にはかなわなかった。

ヤスックは吸い込まれ、使用者をなくした金槌はもとのフトックの姿に戻った。

「今も一は二に勝てないと信じているの?」

 長月はフトックをからかった。

「信じている!それに、僕の体はでかい」

フトックの答えははっきりしていて、少しの迷いもなかった。

「でも、ヤスックはもう私に食べられたよ。あなた一人で私に勝てると思っているの?」

フトックは少し言葉を捜してから、話した。

「一ヒク一はゼロ」

「それで?」

フトックが意味不明の掛け算を問題を口にしたので、長月はちょっとだけ、気になってきた。

「つまり、どちらも勝てないってこと。一言でいうと相打ち」

フトックはあんまりにも自信満々に言うので、長月は思わずふきだしてしまった。

「そんなことはありえないよ。フトック、だったよね?まぁ、あんたみたなバカには死んでもわからないけどね。結局、私に吸い込まれるのよ」

長月の言葉にかまわず、フトックは拳を振り上げて、駆け寄ってきた。長月はよけようとせず、髪を持ち上げて、フトックが間近に来た瞬間を狙って、突き刺した。

髪はフトックの頭から体を貫通した。

「これで、わかったでしょう。一ヒク二は一。一ヒク一も一ってことを」

長月はフトックを吸い込んでから、その場に座った。

人間の体になったばかりなので、疲れが全身を駆け巡った。このままここに座っていてはいけないと思い、長月は無理やり体を起こして、近くにある木の下まで歩いて行き、軽く飛び上がってしっかりとした枝に座り、目をつぶった。

明日になったら、もっと強力な黒魂を探そうと、心の中で願いながら、眠りに入った。そして、あの人も探さないと……。

そう、運命の人。今回も運命の人と恋をして一緒になるために地球に降りてきたんだから。その前に大きな力を身につけないと。大きな力を身につけて、ほかの競争者たちを打ちのめさないと、運命の人と一緒にいられない。
マスオはいつもより早く、目が醒めてしまった。体のあちこちで関節が傷みを訴えていたから。それに、腕を枕代わりにねたので、血の循環も悪く、腕が痺れてきた。

椅子に坐ったまま寝てしまったのが、いけなかった。

ゆっくり上半身を起こし、ストレッチを始めた。

ようやく体が回復したところ、時計に目をやると、針が四時五十分をさした。二度寝ができると思い、ベッドに倒れて目を閉じると、昨日の夜、お風呂場で起きたことが、ありありと頭の中に浮かんできた。

いやな思い出は、そう簡単に忘れてしまうものではないと、マスオは実感した。そして、当然の事ながら、悩み始めた。

昨日、黒魂は何も見なかったけど、黒い影が自分に触れることができるって事は、自分にも抗うことができると、マスオは思った。

しかし、どうやって抵抗するかが問題だ。

黒い影は背丈が自分より高い。昨日、自分を風呂から軽く持ち上げたことから、力もあるのが分る。そんな相手にどうやってはむかうか?不安の念が、マスオの心で段々、膨らんだ。

仮に、自分が黒い影と戦ったとしても、戦いの火花が母さんの身にも及んだらどうしよう。母だけは傷付けたくない。

黒い影に自分の体をさらけ出すのが一番いい方法なのか?何もせずに、黒魂にされるままに?自分だけ大変な思いをしてすむことなら……。

自分にはそんな忍耐力があるか、確信がない。

ここまで考えると、マスオは強く頭を振った。

きっと何か方法があるはず。よく考えれば、黒い影に勝てずとも、撃退する方法はきっとある、とマスオは楽観的に考えようとした。こんなふうにもしないと、不安で夜までどう過ごせばいいか。

それでも、不安の念が心から消えたわけではない。ただの一時しのぎだけだ。

結局、二度寝はできず、ベッドに上でころころと、体をくねらせながら、時間を潰した。悩み事って、こんなにも人を苦しませるなんて、マスオは始めて知った。今までは楽な中学生の生活をしたのが懐かしくも感じた。

こうしているうちに、フミヨの呼び声が聞こえてきた。

「マスオ、朝だよ」

「起きました~」

「じゃ、早く準備して朝ごはん食べましょうね」

「は~い」

母の声に、一瞬だけ、いやな思いを忘れてしまったけど、自分の部屋を出て、風呂場のドアを見た瞬間、また忌々しい記憶が蘇った。

「マスオ、大丈夫?」

風呂場のドアをじっと見つめているマスオをみて、フミヨは心配で、声をかけた。突っ立っているマスオの顔から、今まで見たことのない恐怖を感じた。『母』という存在の感は鋭い。

「だ、大丈夫だよ」

マスオは元気を振り起して否定した。母には心配かけたくなくて。洗面所に入り、顔を洗い、歯を磨き、テーブルについた。

伝統的な日本の朝食に、マスオは幸せの気分を感じた。黒魂が与える重圧感から少しは解放したような感覚を覚えた。こんな平和な一日が始まったのに。

こんな生活があの黒い影に壊されるかもしれないと思うと、弱気になってきた。黒い影の言いなりになって、穏やかに物事を運ぶのも、悪くないと思い始めた。

これは駄目だ!と、マスオは強く否定し、残り少ない味噌汁を一気に飲んだ。

「ご馳走様でした」

「お粗末様です」

マスオはすぐ、自分の部屋い戻り、カバンに教科書を詰め込んだ。昼間には何とかしても、自分の身を守る方法を見つけないと、と思った。

家を後にして、学校へ行く道に、フスマは昨日の事をもう一度思いだしてみた。怖い思い出としてではなく、何か手掛かりがみつからないかと思って。

一番気になるのはやはり、頭にある、どこかと繋がっている黒い線だ。昨日の夕方にみた黒い影たちにはそんなものがなかった。それを 切ったら、黒い影は消えるのではないか?しかし、黒い線がなくても動く影のほうが普通のようだから、黒い影にダメージを与えることができないかもしれない。

黒い線だけではなく、ほかにも、弱点になりそうな何かないのかな?

しかし、マスオがいくら脳味噌を使っても、方法らしい方法は頭に浮かんでこなかった。

一人悩んでいるうちに、いつの間にか、学校についた。

校門の前にはアツコが、待っていました、というふうな顔をマスオに向けた。

「マスオ、スピーチの事はどうなったの?ちゃんと練習したんだよね」

「僕が練習しても、なんの役にも立てないと思うけど……」

「そんなことないよ。だって、マスオがやる仕事は誰でもやれるものではないよ!」

他の人が準備した資料をただ、決められた相手に配るだけの仕事なのに。アツコの大げさな物言いに、マスオは少しだけ不審を抱いた。

「それはおいといて、今日のマスオの顔色、あんまりよくないね。何があったの?」

「気のせいだよ。いつもの顔じゃないか」

「他人の目を誤魔化しても、私の目は誤魔化せないよ。きっと何かあったに違いない」

「本当に、アツコの気のせいだってば」

頑なに否定するマスオをみて、アツコもこれ以上追求しないことにした。

「じゃ、スピーチ大会は午後からだから、昼休みにもう一度、練習するからね」

「うん、分った」

こうやって、午前の授業は始まった。

先生は一生懸命に黒板に、何かを書いてるけど、マスオの頭の中には、黒い影の事でいっぱいだ。放課後までに、何か考えないと、自分の人生はめちゃくちゃにされそうな気がしたから。
長月は目を開けた。自分の体が誰かに揺すぶられたからだ。

彼女が目を開けてみると、昨日の夜の二人の警察が視野に入ってきた。黒魂がいなくなって、顔色が優しく見えてきた。

「お嬢さん、ここで寝ちゃいけないよ」

太っている警察が声をかけてきた。仏のような顔で尋ねた。

「どうしてこんなところで寝ているの?」

痩せている警察も聞いた。この上のない優しい口調で。

昨夜のフトックとヤセックがこの二人の心から生まれた黒魂だと分かると、笑ってる顔が気味悪くなってきた。

二人の問いに、どう答えればいいか悩んでいると、太っている警察が言葉を割ってきた。

「とりあえず、交番まで連れて行こうか。ね、お嬢さん、歩けるの?交番はすぐそこだから一緒に来てもらってもいい?」

長月は何も言わず、ただ頷いた。腹が減ったので、交番へ行って何か食べ物でももらおうと決めたから。黒魂を食っても腹こしらえにはなるけど、人間の食べ物を食べて美味を感じるのもいいものだから。

交番は本当にすぐ近くにあった。人気が少ない場所だからこそ、事件が起こりやすいと思って、近くにもうけたのかもしれない。

交番に入って、二人の警察は長月をもう一人の警察に任せて、巡回に行った。

「名前教えてくれる?」

警察は長月に暖かいお茶を渡してから、聞いた。

「長月です」

「長月、ねぇ。長月は名前なの、苗字なの?」

「名前です」

「じゃ、苗字も教えてくれない?それから、家族との連絡さきとかも教えてくれたら、連絡してあげるから」

「それより、腹減ったんですけど」

長月の言葉に警察はお菓子と飲み物を用意してくれた。こんなにも優しかったのか?と疑問に思ったが、長月はすぐ納得した。だって、昨日、黒魂を食べて、ピュアな心に戻ったから。明日のこの頃には新しい黒魂が生まれたけど。

「ご馳走様でした」

席を立とうとする長月を警察は呼び止めた。

「家族の連絡先をまだ言ってなかったけど?」

「そんなのいません」

長月はきっぱりと答えた。

警察はまずい質問をしてしまったと思って、軽くお詫びをした。

「じゃさあ、緊急連絡先とかないの?」

「私、もう帰ってもいいですか?警察さん」

長月は食べ物をもらう最初の目的を果たしたので早くはなれたくなった。

「えぇ!なぜ?」

そんな長月の心もわからず、警察はしつこく引き留めた。

「私は何も悪い事をしてませんよ。ただ、木の下で眠っていただけです。いけなかったんですか?」

「あななのような、女の子が一人でいると、危ないからだよ。それより、連絡できる人はいないのかな?せめて住む場所でもわかると送ってあげるよ」

黒魂がいなくなったせいか、重いほどのいい人になってしまった。

「私、急いでいるので、ここで失礼します」

長月は立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。

警察はすぐ駆けつけて、長月の前に立ちふさがった。

「このままかえったら、困るよ」

「何が困るの?」

「えぇと、そのう……」

「困ることなど、なにもないから、安心して」

これ以上、しつこく問い詰めるのも、面倒と思い、長月は一本の髪を使って、警察の額を軽く触った。警察は何回か瞬きをし、自分の目の前にある長月を見つめて、話しだした。

「何か用かね?」

「いいえ、何でもありません」

交番を出て、長月は目を瞑り、強い黒魂の気配を探った。しかし、真っ昼間に活動する黒魂はごく稀で見つけることはできなかった。

小さい溜息をついた長月はとりあえず、歩き出すことにした。でも、よく考えてみると強い黒魂を捜すより、あの人を探し出すほうが、もっと重要なのかもしれないと、思い始めた。しかし、強い黒魂を沢山吸収して、強くならないと、あの人を守れない。

しばらく歩いたら、喉がからからになった。真夏の太陽はこの大地から水分を全部奪おうとしているようだ。

歩いていると、コンビニやファーストフードの店が次から次へと長月の目の前に現れた。だけど、お金がないから、見ることしかできない。見ることもつらいので無視して歩き続けた。

髪の力で、従業員の記憶を変えることもできるから、無料で食べることもできるけど、プライドが許してくれなかった。それに、CCTVにも映れる。それだけはいやだ。

水でも飲もうと思い、長月は公園に入った。子連れの主婦たちが立ち話しをしている。水飲み場を捜し、水をいっぱい飲んで、近くにあるベンチに坐った。子供たちは楽しそうに砂で遊んでいる。近くで母親が楽しそうにおしゃべりをしている。

長月は思わず空を見上げ、あの人はどこにいるのかな?と思い始めた。

長い間、月の中に閉じ込められて、地球の変化を見ながら、過ごす日々も、昨日で終わり、あの人を捜すことができるようになって、長月は本当に嬉しく思った。こんどこそ、あの人と幸せに暮らそうと誓っていたから。その為には、やはり強い黒魂を沢山吸収して、誰にも負けない力を身につけるのが、先決だと、長月は結論を出した。

強い黒魂を食べるためには、ここに坐って、ぼうってしてはいられない。長月はベンチを離れ、公園を出た。

公園の出口にさしかかろうとしたところ、後ろから誰か、服の端を掴んだ。

振り返ってみると、幼稚園児ぐらいの女の子だった。

「ね、姉ちゃん。おままごと、一緒にやらない?」

可愛い笑顔を長月に見せながら女の子は言った。

「いいね、一緒にやりましょう」

長月は断らなかった。
午前の授業はどうやって過ぎたのか、マスオは何も覚えていない。黒い影の抵抗策を考えようとはしたけど、黒い影を思いだすと、時間が止まったように、何も思いつかなかった。それで結局、どんな策も練れず時間だけを無駄にしてしまった。

「マスオ、昼ご飯食べに行こう」

誘ってくれたのは、アツコだ。アツコ以外に、マスオを誘う人は一人もいない。原因は多分アツコだろうと、マスオは思っている。ほかの人が近づけないようにガードしているとマスオは思っている。そんなことはないけど。

「今日のマスオは、やはりどこか変だよ」

「な、何が変なの?」

ぎぐっとしたマスオは大げさな反応を見せた。

「元気ないし、どこか思いつめている感じがするんだから」

 食堂でご飯を食べながら、二人は会話をかわした。

「アツコの気のせいだよ」

「でもねマスオ、何か困ったことがあるなら、私に打ち明けてね」

マスオは思わず口元を釣り上げてしまった。信じるには信憑性がたりないといったふうな顔をした。それを見たアツコは機嫌を損ねたらしかった。

「今、私は力になれないと思ったでしょう。私の事を見くびらないでね。こう見えても、私はやる時はやる、気が強い女だから」

「はいはい、分りました。ごめんなさい」

「ところで、本当に何もなかったの?」

「本当に何もないの。ただ、寝不足で疲れているだけ」

「あっ、そう」

黒い影の事をアツコにはなしても、絶対に信じてはくれないと思った。人々は不思議なでき事がこの世にいてはほしいわりに、自分にはおきてもらいたくないと思う。面白いでき事は他人の身に起こってほしいのが人っていうもんだから。

昼ご飯を食べ終えて、教室に戻ると、なぜか、黒い影の事が一層怖く感じはじめた。放課後に近づくにつれ、いい方法が思いつかない焦りと、黒い影への恐怖が、全身を苦しめている。

やはり、どう考えても、科学的に解釈できない黒い影を倒す方法なんて、この世にはいない。いるとしたら、同じく、非科学的な存在じゃないとだめなきがしてきた。

非科学?マスオの頭に急にひらめいた。

そうだ、非科学なら、自分の周りにもいっぱいあるのではないか。お守りだとか、仏像だとか、呪文だとか、いろいろと。非科学は非科学で対応する。

これは百パーセント確実で黒い影に効果があるかどうかはまだしらないけど、解決策が一つだけでも思い出したことに、マスオは嬉しさを隠し切れなかった。

一人、ひそひそと笑っているマスオを見た先生は、「マスオ、この問題が解けたから、笑っているんだね。じゃ、出てきて解いてみて」と言った。

ゆっくり席からたち上がったマスオは、か細い声で、「分りません」と言った。

「なら、一人でにやにやしてるんじゃなく、授業に集中してね」

「はい」

周りの生徒は笑い出したので、マスオの顔は真赤になり、すぐ教科書で顔を隠した。

午後の最初の授業が終ったら、アツコはすぐ声をかけてきた。

マスオは直感的に、いやなことを聞くかもしれないと、分った。

「授業中に何にやにやしたの?」

やはり、思ったとおりだ。

「何もにやにやしてないよ」

マスオはかぶりを振った。

「じゃ、先生の見間違えというの?」

「多分ね」

曖昧な答えをしたマスオに、アツコはそれ以上問いただすことをやめた。

「じゃ、行きましょう」

「えっ!どこへ?」

「もちろんスピーチ大会に。忘れたとは言わせないよ」

「もちろん、忘れていないよ。でも、僕はただ資料を整理する仕事をしただけだから、抜けてもいいでしょう。別に僕がいなくても……」

アツコはマスオの言葉をきっぱりと切った。

「だ~め。マスオは重要な一員だから、欠けてはいけないよ。もし、マスオを出席しなかったせいで、うちのクラスが負けたらどうするの?」

「行かない人も結構いると思うけど」

「あの人達は来なくてもいいの。来てほしいのはマスオだけなの!それに、人数でまず勝てないとね。人が多いほど威勢もいいんだから」

「そもそも、名前がおかしいよ」

「何の名前?」

「二年の四つのクラスだけ競うスピーチなのに、大会と呼ぶって、変でしょう」

「それは、スピーチ大会を遊びに思わせられたら困るからだよ。そんな無駄口をたたくんじゃなくて、早く行きましょう」

結局、アツコの粘り強さに負けたマスオは、いやいやながら、スピーチ大会が開かれる体育館へ向かった。

四つのクラスの生徒はもうついていて、何か準備をしていた。

「うちのクラスが勝ちますようにと、祈っていてね」

アツコはこう言って、離れた。

クラスが勝つのを祈るより、黒い影が来ないのを祈りたい。

ざわめいた体育館も静まり返った。スピーチ大会が開始した。

正直にいって、生徒たちは何についてスピーチしているのか、全然ききとれなかった。ただ、ものすごいスピードで何か話していることだけは、ちゃんと分った。一つのチームが終わると相手のチームが食い掛るように反論を始めた。きれいでまじめな言葉で口喧嘩をしているようにも見えた。

ようやく、スピーチ大会も終わった。

アツコはまっすぐマスオの前に走ってきた。

「マスオ、どうだった?」

「あ、うん。すごかったよ」

何を話したかは分らないけど、この場合は大体、こんな曖昧な言葉で切り抜くことだと、マスオを心得ていた。

「明日の朝会に結果を発表するんだって。一位になったらいいよね」

「そうだよね」

でも、一位になりたがっているのは、うちのクラスだけではないとマスオは思った。

教室に戻ったら、担任の先生が注意事項をいくつか、話して、今日の授業は終わりと教えてくれた。スピーチ大会のおかげで、授業が早く終った。本当によかった、とマスオは思った。非科学的な物を探しに行ける時間もたっぷりもらった。

カバンを背負って、教室をでようとすると、アツコが呼び止めた。

「マスオ、一緒に帰りましょう」

「ごめん。今日、寄りたいところがあるんだ。先に帰るね」

「寄りたいところって、どこ?私も一緒について行くよ」

「それは……」

「言いよどんだ。あっ、もしかして、やらしいところへ行くんじゃないでしょうね。まぁ、そんな年頃になったのはわかるけど、マスオにはまだまだはやいよ」

「違うよ!そもそも、僕はまだ未成年だし、そんな場所にはいれないし」

「じゃ、未成年じゃないなら、行くってこと?」

「そ、それは……」

「冗談だよ。で、行きたいところはどこ?」

「神社だよ。神社」

アツコは目を丸くして、マスオを見つめた。

「神社?そこへ行って、何するの?」

「お守りを貰おうかなと思って」

「神社へ行かなくてもいいよ。私がすごく効くお守りをあげる」

「いいよ。どうせ、アツコの手作りのお守りでしょう」

「そうなんだけど、私が作ったのは、神社で売っているのとは、かくが違うのよ。同じもの扱いはしないでもらいたいね

「はいはい、そうですか。わかりました」

「信じてないみたいね。じゃ、いくつか私のお守りで助かった人の話をしてあげようか?」

「わかったわかった。信じるから」

ここで、信じないといったら、またアツコの長話が始まる。

「じゃ、ちょっと待っててね。すぐ作ってあげる」

「えっ?!すぐって、今ここで?」

「そうよ」

「でも、お守りって、もっと、精気が感じられる場所で作ったほうがいいじゃない?森の中とか……。不思議な力がみなぎる場所とか?」

アツコは、素人はこれだから困るよ、と言っているような目つきでマスオを見つめた。

「お守りを作るのは、場所より、作る人の思いが重要なの。作る人の強い思いがお守りにちゃんと注ぎ込んだら、それはそれは、強力なお守りになるよ。しらなかったでしょう」

アツコは偉そうな顔でマスオを見つめた。

「そう」

マスオは信じてはいないけど、アツコがどうやってお守りを作るのも気になった。

アツコは自分の席につき、紙を一枚取りだし、鉛筆でなにかわけのわからない記号をかきむしった。それが終わったら、今度は紙を折りたたみ、折鶴を作って、軽く息を吹きつけてから、マスオに渡した。

「はい、これでオッケーよ。すごいお守りだから、肌身離さずにもっていてね。でも……
ひとつだけ、欠点があるんだよね」

「なんなの?その欠点って」

「私の修行がまだたりないから、このお守りの効力は一日しかもたないの。だから、明日の今ころには、効力をうしなって、ただの紙屑になるってわけ。だから、必要なら明日も作ってあげる」

今もマスオの目にはただの紙屑にしか見えなかった。

「とりあえず、ありがとうね。じゃ、僕はもう帰るから。じゃね」

「一緒に帰りましょう。家まで送ってあげる。マスオが何かにおびえているらしいから、私がちゃんと家まで一緒にしてあげる」

正直なところ、一人で帰りたかったけどマスオは何も言わず、うなずいただけだった。それにしても、アツコはどうやってマスオが隠した感情を読み取るなんて、本当に不思議な力を持っているのかも。

一人で、神社へ行ってお守りを買おうとしたけど、アツコが家までついていくんじゃ、そんなことはできない。なら、家にいったん入ってから、アツコがいなくなるのを待って、神社へ行けばいいと思ったら、少しは心強くなった。でも、アツコは作ってくれた誠意を思うと、マスオの心のどこかに後ろめたい気持ちもあった。

「ところで、アツコってお守りとかがつくれるなんて、以外だよね。どこで学んだの?」

ちょっとおせっかいなアツコだけど、自分を手伝うつもりってことはちゃんとわかっているから、マスオは居心地悪い沈黙が訪れないように、先に口を開いた。

「言わなかった?私の家は代々、巫女をやっているってことを」

アツコはすらりと話した。の答えを聞いたマスオは信じられないというふうな顔でアツコを見つめた。

「じゃ、アツコの家は神社ってこと?」

「違うよ。うちの巫女も汚れたものを祓うのが仕事なんだけど、普通の神社とは一緒にしないでね」

アツコと結構付き合いがないのに、家柄については今初めてしった。近くにいる人の事は知っているようで以外にも知らない。

「へえぇ。すごいよね」

そっけないマスオの返答に、アツコはすこしむっとした。でも、マスオは自分の感情をうまく表現できないだけ。心の中ではびっくり仰天まではいかなくても、ショックは受けた。

「信じてないでしょう」

「ち、違うよ。信じているよ。信じている」

でも、語尾になればなるほど、マスオの声は小さくなった。

「信じてくれなくても別にいいよ。どうせ、こんな科学の世界に、人はそうやすく非科学的なものをしんじないよね」

アツコが言った「非科学的」の言葉がマスオの頭を刺激した。もしかしたら、アツコに自分が見た事を打ち明けてもいいかもしれないと思った。しかし……。自分の事を巫女というし、それに、お守りの効力も信じているから。

いつの間にか、アパートの正門についた。

「じゃ、私は帰るからね。付き合ってくれてありがとう」

アツコは少し歩いてからまだ戻ってきた。

「神社へ行っちゃだめだからね。わかった。それに、私が巫女だってことは内緒よ。秘密にしないといけないのをマスオだけに特別に教えたんだから」

「うん、わかったよ。神社へ行かないよ。アツコのお守りがあるだけで、十分でしょう」

マスオの言葉を聴いて、少しは安心したような顔つきになったアツコは自分の家に向かった。

家にもどってみると、フミヨはまだ帰っていない。

自分の部屋に入って、ポケットからアツコが作ったお守りを取り出して、机の上においた。

お守りを見つめながら、これって、本当に効くのかな、と思ったけど、アツコのあの自身たっぷりの様子を信じて、神社へいかないことにした。友達のことを信じることにした。

そもそも、神社のお守りもあの黒い影に効くかどうかもわからないから。

マスオはもっと心を安心させるために工具箱を取り出した。その中で、身につけられる小さなハンマーをズボンの尻ポケットに入れた。そして、アツコからもらったお守りと手に握った。黒い影がいつくるかはしらない。準備はしないより、するのがみのためってわけだ。

大した準備ではないが、終わってから、少しは安心感を感じた。

この時、玄関のドアが開いた音がした。

迎えに出ると、フミヨが食材がいっぱい入ったビニル袋を手に提げて、入ってきた。

「ごめんね、母さんが遅くなったでしょう。すぐ晩ご飯作るから、待っていてね」

「は~い」

いつもと変わらないフミヨの笑顔を見ると、黒い影に立ち向かう気力が急に激減した。もし、戦うことになったら、傷つくのは自分だけではなく、母さんも巻き込まれることを、もう一度思い出したから。

正直、どうすればいいか、マスオはますますわからなくなった。
木陰の下に入った長月は女の子と向かい合って座った。

「姉ちゃんはなんの役がしたいの?」

「そうね。なんの役がいいのかな?おままごとはあんまり遊んだことがないから、教えてくれる?」

「そうなんだ。じゃ、姉ちゃんにびったりな役はやはり、冷蔵庫の中に冷凍されたお肉の役だけどね。きっとおいしいお肉になれると思うの」

「それはどうもありがとう。……私がお肉の役ならあなたはなんの役を演じるの?その隣にいるひき肉の役?」

「姉ちゃん、冗談がうまいよね。もちろん、ひき肉の役ではなくお肉を食べる役だよ」

言ってから、女の子は笑い出した。かわいい笑顔から洩れる笑い声は人の背筋がぞっとするほどのすごさがあった。

「でもまさか、こんなところで、あなたみたいな黒魂に出会えるなんて、私はついていると思うよね。探し求めていた強いやつに出会ったのだから、私はもしかして幸運に恵まれているかも」

「姉ちゃんの最後かもしれないけど、それでもついていると思っているの?これは幸運じゃなくて不幸じゃない?」

「それはどうかな。でも、よく考えてみると、ひき肉の役をやるより、あなたは私に食べられる黒魂の役の方がもっとびったりと思うよね」

女の子はじっと長月を見据えてから、再び話し出した。

「まぁ、そんなことで言い合うのをやめた。ほかに役者がいるから、呼んできてもいい?姉ちゃん」

「もちろん。お構いなく、どうぞ。多ければ多いほどにぎやかで楽しいから」

長月の返事を聞いてから、女の子は目をつぶって、唇を動かした。何を言っているのかは聞き取れないけど、大変なことが起こったのはわかった。なぜなら、女の子の体から、黒魂が出てきたから。黒魂は全部で三匹現れた。

女の子は目をあけて、黒魂を紹介してくれた。

「これは父ちゃんの役、これは母ちゃんの役、そして、これは弟の役。覚えたの、姉ちゃん?おままごとの基本は役に忠実することと、役者をちゃんと覚えることだよ」

「覚えたよ。つまり、この三匹の黒魂を全部食べないと、あなたには触れないってことだよね」

「姉ちゃん、そんな物騒な言葉は口にしないでよ。私はまだ子供だよ」

「あなたが先に話したのよ。……でも、本能って怖いよね。この時代に生きている黒魂は私の姿など知るはずないのに、一目みただけで、分かるんだから。やはり私たちは運命の糸で結ばれているのね。赤い糸ではなく黒い糸みたいな」

「私もそう思ってるよ、姉ちゃん。姉ちゃんの見た瞬間、心にある欲望が生き返ったような気がしたの。こんなにも何かを食べたいという衝動が私の心にあるなんてわからなかったもん。ただ、この黒魂達の楽しくおままごとをしながら残りの時間をつぶしたいと思っていたのに」

「しかしへまをしたんじゃない?昼だど、あなたの力も百パーセント使えないでしょう?力が減った状態で私を呼び止め、本当に大丈夫?夜に襲い掛かったほうがもっとよかったんじゃない?」

「大丈夫だよ。だって、今のままでも姉ちゃんに勝てる自信はあるんだから」

「そうなの。じゃ、姉ちゃんは手加減しないからね。覚悟しなさい」

「そういうことなら、私が手加減してあげるよ、姉ちゃん」

長月は立ち上がり、後ろに何歩下がった。周りを見ると、先までいた子連れの主婦もいつの間にか、いなくなった。周りに誰もいないほうがもっと、都合がいい。後で、記憶を消すのも面倒だから。

長月がまた何かを話そうとしたが、三匹の黒魂が自分の周りに駆けつけてきた。三匹の黒魂は同時に攻撃を仕掛けてきた。

長月はすぐ髪で三つの束をつくり、三匹の黒魂を攻撃に対応した。

黒魂たちの攻撃は鋭かった。だからと言って、長月の髪の防御を破るほどでもなかった。かといって、長月も簡単に黒魂たちの攻撃を突破できる状況でもない。思った以上の強さで長月は防御しつづけている。一見、不利の状況に置かれているようにも見えるのだが、長月は打開策をちゃんと考えている。

考えるうちに、黒魂たちの攻撃がますます激しくなってきた。

長月は、かわすチャンスも、反撃するチャンスも逃し、膝を抱え、髪で自分の身を包み、球を作た。防御の姿勢に入った。

三つの黒魂の攻撃はしばらく続いた。髪の球を打ち続けたが、長月はなんの反応も示さなかった。髪でできた球の中は安全だから。

髪が守っているから、長月が受けたダメージはゼロに等しかったけど、このまま攻撃を受けるだけだと、戦いが長引くことになるのに気付いた。

このままだと、埒が明かないので、長月は反撃を開始した。

何本かの髪を使って、三つの黒魂に向けて突き刺した。一部の髪を武器に使った代わりに、球に穴が開いて隙ができた。

三つの黒魂は思ったよりすばやい動きで攻撃を停止し、長月の髪の攻撃をかわした。そして、隙のできた球に拳を飛ばした。髪の球にある隙をこじ開けるように拳を押し入れた。長月はもちろん黒魂たちの腕が入るのをただみていたのではなかった。すぐ隙を縮めた。黒魂たちの腕はすぐ切断された。

痛みを感じない黒魂たちは、切断された腕をぼうっと見つめた。間もなく、切断面から黒い煙が上がり、新しい手が生えた。

「姉ちゃん、私の家族は丸ごと食べないと再生するよ。あんな甘い攻撃じゃ、ダメージはちっともないんだからね」

傍らで観戦している女の子の声が響いてきた。

「そうなんだ、いい情報ありがとうね。じゃ、さっそくあんたの言ったとおりにしてみるわ」

長月の髪の球にできた三つの髪束を足のように動きだし、弟役の黒魂に駆け寄った。一匹ずつ食べるつもりだ。

父ちゃん役と母ちゃん役の黒魂は長月の動きを見て、すぐ妨害しに走ってきた。

しかし、一足遅かった。

父ちゃん役と母ちゃん役の黒魂が近づく前に、弟役の黒魂は髪の球に食べられた。球の中にある長月が食べようと息を吸うと、弟役の黒魂は抵抗した。狭い髪の球の中で拳を上げ、長月の頭目掛けに振り下ろした。長月は手で軽く払いのけた。弟役の黒魂はそれ以上攻撃ができなくなった。無数の細い髪の毛が体を巻いたから。

「おいしくいただくね」

長月は外にいる女の子が聞こえるように、わざと大声で言った。それから、黒魂を吸い込んだ。弟役だからほかの二匹より弱かったのもあって、あっさりと決着がつけたのかもしれない。今、外で自分の髪の球を攻撃する二人の攻撃はますます激しくなった。まるで本当の子供を殺された親が暴れているようだ。

攻撃だけが上がった二匹の黒魂を真っ向から立ち向かうと決めた長月は髪の球を解けた。究極の防御を解けたが、勝てない相手ではない。

長月は髪を二分に分け、ドリルの形にし、黒魂たちの攻撃を攻撃で立ち向かった。黒魂は左右から攻めた。長月は二つの髪のドリルで黒魂たちの拳や蹴りを打ち払った。長月は力いっぱいで打ち払ったつもりだったけど、黒魂たちの腕や足を打ち砕くことはできなかった。やっぱり、弟役の黒魂とは違う。打ち砕くことができないなら、切断することしかない。

長月は髪が黒魂の体に触れるたびに巻きつく機会を狙ったんだけど、黒魂も長月の考えを呼んだかのように、そんなチャンスを与えなかった。

ぶつかり合った拳と髪、足と髪。長月はまきつこうとする。それを巧妙に避ける二匹の黒魂。

このすべてを、後方でじっと見ていた女の子は立ち上がり、戦っている長月に向かって歩き出した。

「姉ちゃん、余裕みたいね」

正直に言って、余裕まではいかなくても、長月は負けない。

「もちろんだよ。これしきの黒魂に私がやられるわけがないよ。さっさと終わらせてからあんたを食べるから、待っててね」

昨日の夜、十分寝たので、長月の体力回復はちゃんとできた。それに、今しがた吸収した黒魂の力も少しずつ体に溶け込んできた。

「じゃ、黒魂が増えても、姉ちゃんにとっては、なんの問題もないわけだよね」

「そうだよ。増えれば増えるほど、私的にはありがたいね」

長月の答えを聞いた女の子は笑った。

「それでは、家族をもっと増やすね。私の大家族を紹介する」

言葉が終ると同時に、女の子の体から、続々と、黒魂が出てきた。

「これは婆ちゃん、これは爺ちゃん、これは叔母ちゃん、これは叔父ちゃん、これは兄ちゃん、これは姉ちゃん、これは妹、これは従兄弟。これくらいなら、月の姉ちゃんをやっつけるのに、十分じゃない?」

数を数えてみるとちょうど十匹はある黒魂は、隙間がなく長月を取り囲んだ。長月はもう一度、髪の球で防御体勢に入ったのは、黒魂たちが一斉に攻撃をしかけた時だった。

たとえ黒魂を全部吸い込んだとしても、女の子はすぐ新しい黒魂を作り出すから、厄介なことになった、と長月は舌打ちをした。

女の体から出てきたたくさんの黒魂は、本体から切り離された黒魂なので、攻撃力はそんなにいないと思ったけど、そうでもなかった。父ちゃん役と母ちゃん役の黒魂並みの攻撃力を持っている。本来、本体から分離された黒魂の力は数が多ければ多いほど、攻撃力も下がるのに、この黒魂たちは違うみたい。

長月はずっと髪の球の中に隠れていてもいいが、早く、片付けないといけないと思い始めた。

なぜだか、力が少しずつ失っていく気がした。その変わり、黒魂たちの攻撃の力が

「月の姉ちゃん、自分の立たされた立場が漸く分ったみたいだね」

「どういう事?」

「私の家族は月の姉ちゃんの力を少しずつ吸い込んでいるのよ。だから、月の姉ちゃんがあの髪でできた盾の中に隠れていたら、結局負けてしまうのよね」

そして、黒魂たちに声をかけた。

「私の家族のみんな、頑張って!」

女の子の言葉にこたえるかのように、黒魂たちの攻撃は一層、激しくなった。

長月は地面に足をつけた。そして、髪を四方に伸ばした。ちょうど、開かれた傘のようにみえた。伸ばされた髪は、伸縮しながら、周りの黒魂を攻撃した。長月の足を狙っても、頭のてっぺんを狙っても、全部、髪ではねかえした。

「なら、私も本気を出してもらうわ」

長月は髪の毛を何十本に作り、攻撃をしてくる黒魂たちの拳や足に対抗した。黒魂たちの体に突き刺さった髪は刺さったまま、抜けられなかった。黒魂がどんなに引っ張り出そうとしても、できなかった。

女の子は一番近くにある黒魂の前まで走り寄って様子をみた。

「わかった?私の髪っていいでしょう?」

よく見ると、長月の髪の先端は釣りフックの形になった。だから、黒魂がいくら引っ張っても抜けなかった。

「抜けないならそのままでいいの。これって月の姉ちゃんも逃げられないってことでしょう」

女の子がの話が終わると、黒魂たちは体を貫いた髪を気にもせず長月に向かって走った。円の中心にいる長月は逃げることはできなかった。髪の毛は長くないから黒魂たちはすぐ攻撃できる範囲まで近づいてきた。

長月は焦った顔は見せなかった。

彼女の髪は持ち上げてから強く地面に叩き込んだ。これを何回か繰り返すと黒魂たちの動きも鈍くなった。

長月は、ゆっとりとした足取りで、女の子に近づいた。黒魂たちを空中に持ち上げたままで。

「あなたの家族をいくら出しても、結果は同じよ。だらか、大人しく私に食べられてはどう?」

「いやよ!」

女の子はまた家族という黒魂を呼び出そうとした。それより早く、長月は女の子の目の前について、髪で女の子の体を巻きつけ、持ち上げた。

「さあ、黒魂の本体はどうやら、あなたの執念によって、勝手にでられないみたいね」

「私を放して!」

女の子は抗ったが、髪から抜け出すことはできなかった。

「でもね、あなた。黒魂の本体を自分の心に閉じ込めて、その力を使うことができるってことは、あなたの精神力はとても強いってことよ。こんな、罪の塊みたいな黒魂とあそばなくてもいいじゃない?」

女の子は黙ったまま何も言わなかった。

「あなたに何があったのかは聞かないよ。でも、黒魂を食べることは確定だから、恨まないでね」

こういって、長月は一本の髪を女の子の額に刺した。黒魂の本体は何のダメージを受けていないので、息を吸うだけでは女の子の体から引き離すことは無理だ。

長月はその一本の髪に自分の力を注ぎ込んで、黒魂の力を弱まらせた。そして、ずいぶん弱まったところを狙って息を吸った。すると、女の子の体から、黒魂が現れ、長月に吸い込まれてしまった。

長月は女の子をそっと地面に置いて、残りの黒魂を全部吸い込んだ。

女の子は芝生に倒れて、しゃくり出した。

「みんな、私の事を嫌っているの。だから、一人でおままごとをするしかないの」

長月はしゃがみ、女の子の頭にそっと手を置いて、優しく撫でた。

「大丈夫。今は友達や家族がいなくても、この先にはきっと、あなたが望んでいる温かい人の心を感じれる未来が訪れるから。だから、その強い心で、前に進んで。……それにね、あなたが、黒魂を自分の心の中に閉じ込めなければ、私には勝算などなかったよ?」

「本当に?」

女の子は長月の慰めに、少しは気分を落ち着かせたようだ。時には嘘も方便。

「うん、本当。だから、家に帰ってね。そして、希望を捨てないで」

「うん」

女の子は目じりの涙を拭いて、たち上がった。

「月の姉ちゃん。ありがとう」

「お礼を言われるほどの事など、していないよ。あなたは十分強いだから、自分の事を信じて。たとえ、他の人に好かれなくても、自分が自分の事を大事にすればいい。いつかきっと、あなたの事を好きになってるくれる人はあらわれるよ」

女の子は力強く頷き、長月に別れの挨拶をして、どこかへ走り去っていった。

意外と、強力な黒魂を吸収できたことに、長月はすこし嬉しくなった。だから、気分がよかったので、優しい言葉をかけたのだった。