葉月は髪を投げた。無数の髪の毛は槍となりお爺さんを攻撃している。お爺さんが髪の毛を両手で持ったメスで切断し続けた。この隙を狙って葉月はお爺さんの後ろに回した。そして、背中を目掛けに髪を投げた。お爺さんの目の前で髪の毛がまだ攻撃しているため、避けることはできなかった。
お爺さんはかまわず目の前から自分に飛んでくる髪の槍を切り続けた。
葉月はこの機会を逃さず髪を投げ続けたが、お爺さんはちょうど空から降りてくる髪を全部切った。すぐ、身を回し葉月が放った髪も全部切った。
「お嬢さんよ。年寄りはいたわるものだよ。あんな物騒な髪を投げたら、いけないよ。しつけが必要だね」
言ってから、お爺さんは自分の背中に刺さった髪を後ろ手で引き抜いた。そして、右手のメスを葉月に向けて投げつけた。葉月はうまくかわした。お爺さんは葉月が避ける路線をわかっているかのように、そっちに向かってもう片方のメスも投げたが、これも葉月はかわした。
投げ道具なら葉月には髪がある。髪を抜いてなげようとすると、お爺さんはまたメスを投げ出した。お爺さんのメスは減ることなく、立て続けに葉月にに飛んでいった。投げる速度もますます速くなった。
お爺さんのメスをかわしながらも、葉月は髪を投げるチャンスをもらった。髪の槍は葉月の前で一面の壁となった。無数のメスは髪の壁に突き刺ささっては消え、その繰り返しが続きている最中、ついに髪の壁に穴を開けてしまった。
葉月はまた髪を抜いて防御の壁を作ろうとしたとたん、動きを止めて二、三歩よろめいた。葉月の背中に、何本のメスが刺さってあった。
背中に刺さったメスは消え、ただ赤い血のあとを残した。
葉月は体をバランスをなおし、お爺さんに髪を投げつけた。今度、お爺さんは髪を切らないまま、避けて葉月の前に飛びついた。切るとその動作で葉月に次の攻撃の隙を与えると思ったのだろう。葉月は避けられずお爺さんに掴まれてしまった。葉月の両手を握ったお爺さんは葉月を地面の押し倒した。
その瞬間、かわされたはずの髪は戻ってきて、お爺さんの背中を刺した。お爺さんは右手を上げたとたん、メスが現れ、そのメスを握ったお爺さんは葉月の右肩を思いっきり突き刺した。自分の背中に刺さったままの髪の毛は気にもせずに。
葉月は叫びもせず、ぐっと痛みを堪えていた。
お爺さんはすぐ左肩にも同じくメスを突き刺した。地面に固定しようとしている。
お爺さんは両手を開いた。するとまたメスが現れ、そのメスを使って背中の髪を切り刻んだ。
背中の髪の処理が終わってから、お爺さんは右手のメスを葉月の身体を滑らせて、最後は腹のところで止めた。
「お嬢さんの臓器はきっとお嬢さんのようにきれいだろう。いい値段になれそうだね」
人それぞれは自分にしか知らない心の闇がある。それは決して誰かに見せてはいけないもの。
ある人は黒魂にのまされ、ある人は黒魂を利用して、ある人は黒魂とわかれて。誰もが自分の欲望を解放したいという本能はある。ただ、人には自制心があって、その欲望を抑制している。
僕が一人、くだらない事を考えていると、お爺さんが話し出した。
「お嬢さん、ちょっと、内臓を見物させてもらうね」
メスは葉月の腹を切った。腹に赤い線が現れたと思うと、お爺さんはメスでその傷を開けようとしている。
叫んではいなかったが、葉月は確かに呻いている。僕はもう見切れなくて走り出した。
僕はお爺さんにぶつかり、身体を強く抱いて地面を転がった。回転に回転を重ね、止まったときは僕はお爺さんの身体をまたがり、両手を掴んで地面に押し付けた。
お爺さんは別に驚きもせず、ただ優しい眼差しで僕を見つめているだけだった。
僕は葉月の方に視線を投げた。葉月の身体のあちこちに白い光が輝いていた。傷を治しているのだろう。少しは安心した。
再びお爺さんに目線を向けた。
「お爺さん、なぜ攻撃するんですか?黒魂がいいものでないことを、お爺さんはわかっていないでしょう?」
「分るとも」
「ならなぜ、なぜ黒魂で抵抗するんですか?このまま黒魂を吸わせて正常な人に戻りましょう」
お爺さんは首を横に振った。
「悪い物は百パーセント悪いわけでもないよ。いいところに使えばその価値は変わってしまう」
お爺さんの言っている事の意味は僕には理解できなかった。
「分らないみたいね。……なら簡単に説明してあげよう。体育の先生はなぜ学校へ来なかったと思う?」
「病気じゃないですか?」
「違うよ。わしが殺したんだから。学校へ来れるはずないでしょう。さすがに体育の先生だけあって、臓器はすばらしかったよ。いい買い手も見つけた」
僕は心の中に湧き上がってくる無名の怒りを感じた。体育は嫌いけど、先生まで嫌ってはいない。
「お爺さん、なぜ体育の先生を殺したんですか?体育の先生を殺さなければならない恨みでもあるんですか?」
お爺さんは乾いた笑いを漏らした。
「ないよ」
「なら何で殺したんですか?!」
お爺さんの顔には優しい表情が現れた。僕を見つめる視線はどこか優しかった。
「君のためだよ」
「僕のため?!」
お爺さんの言っている事の意味がますます分らなくなった。体育の先生は僕のせいでお爺さんに殺された。しかし、僕は体育の先生が死んでほしいほど憎んではいない。それに、お爺さんには体育先生の悪口など一度も言ったことがない。
「体育の授業が嫌いでしょう?体育の時間によくサボるから分った。だから、体育の先生を殺してあげたよ。他に嫌いにな授業があるの?お爺さんが代わりに消してあげようか?」
僕の頭は混乱し始めた。僕は震える声でお爺さんにきいた。
「お爺さん。サボることは殆どの生徒が一度くらいはやってます。でも、そうからといって、どの先生が死んでほしいと真剣に思っている生徒は一人もいないと思います。体育の先生を殺さなくてもいいじゃないですか!」
お爺さんは僕を見つめながら、しゃがれた声で話し出した。
「君がわしの孫に似ていたから」
「孫?」
お爺さんは淡々とした口調で語り出した。
「そう、わしの孫だよ。わしがまだ外科医として勤めていた時のことだ。わしには孫が一人いたよ。とてもいい子だよ。……しかし、小さい頃からいつもいじめられてばかり。最初は子供たちの戯れと思い、あまり気にはしなかった。それが、中学に通ってからも孫はいじめられている。わしは問題児の父母や担任の先生にも何回か訴えにいったが……いじめは消えなかった。あいつらはわしの孫の問題を軽く取り扱っていた」
お爺さんの声は興奮気味に変わった。
「わしは孫を転校させた。新しい環境の中なら、すべてが変わると信じていた。転校してから、孫は明るくなった。でも……それは全部わしに安心させようとする孫の芝居だったんだよ」
ここまで言ってお爺さんは口を噤んだ。
「お爺さんの孫は?」
僕の問いにお爺さんはゆっくりと口を開けた。
「自殺したよ。まだ小さいのに。わしが悪かったんだ。わしがもし孫の芝居に気付いたら……気付いてあげたら……」
「それはお爺さんのせいじゃないでしょう。両親もあるんじゃないですか?」
「死んだんだ。二人は孫が生まれた年に事故にあって死んだ」
お爺さんの話を聞いたら、両手の力が抜けてしまった。お爺さんはすぐ僕を振り落とし、遠く離れた所に立って話し続けた。
「わしは孫の日記を見て始めていじめ問題の張本人が体育の先生ということを知った。でも、当時わしには何もできなかった。その怒りを堪えて暮らし、今まで生きて来た。すると、数日前にわしは黒魂の力を手に入れることができた。最初はこの力に戸惑いもしたが、孫の仇のために、あの体育の先生を殺したら、この力の素晴らしさをわかったのだ。……黒魂の力はいいものだよ。人を殺したけど、何か足りないきがした。考えたあげくわしは悟ったのだよ。わしが助けるべき人は病院で死に掛けている人ではなく、この国の未来になる生徒達だ。孫の悲劇が二度と起こらないように、わしは生徒をいじめる人を殺すことに決めた。そのはじめとなったのがこの学校の体育先生だよ。死体は闇市場でいい値段で売った。死体はもちろん見つからないから失踪として片付けるでしょう」
お爺さんの怒りは当たり前だとは思っているし、同情の気持ちも少しはわいてきたが、許せなかった。
「お爺さん。あなたは間違っています。お孫さんはお爺さんに殺人鬼になってほしくないと僕は思います」
「わしが間違っていると?正しいかどうか、誰がわかるの?もしかしたら、孫は仇を討ったことを喜んでいるのかもしれないだろう」
「違いま、」
僕の傍を掠めて、お爺さんに飛んでいった髪の槍が僕の話を中断した。飛んでいく髪の後ろについて、葉月も走っていった。お爺さんはいとも容易く髪の槍を切ってしまった。それと同時に葉月はお爺さんの前についた。
葉月はお爺さんの両腕を掴んで倒そうとしたが、逆に、お爺さんに押し倒された。
「お嬢さんよ。力がまだまだだね」
葉月は抵抗をしなかった。見ると、葉月の両手から白い光が漂っていた。
「少しずつ力を削るつもりなのかね。でも、そうはさせないよ」
お爺さんは葉月の手を振り落とそうとした時、二本の髪の槍が飛んできて二人の左右両方の腕を一緒に、串のように貫いた。
この状態になったお爺さんはいきなり興奮し始めた。今までの余裕っぷりと違って。
しかし、どんなに力強く抵抗しても、離れることはできなかった。両手からはもうメスは出せなくなったらしく、膝で葉月の腹を何度も蹴った。
葉月はただ我慢しているだけだった。僕はすぐお爺さんの後ろに走っていき、後ろからもう足が使えないように両手で縛った。
お爺さんの抵抗の勢いも段々弱まってきて、最後は止まった。
「今日がわしのお終いの日のようだなあ」
葉月はすぐお爺さんの黒魂を吸い込んだ。黒魂がいなくなったお爺さんの顔はいつものようにぶっきらぼうな表情に戻ったけど、どこが優しさがあるように見えてきた。
今夜、お爺さんの黒魂を、葉月は吸い込んだけど、再び憎しみの炎はお爺さんの心の中で黒魂を生み出すことができるだろう。しかし、「月引症」を無事に乗り越えるかが、問題だ。今のお爺さんンの身体じゃ……
二人の手を串刺しにした髪の槍も消えた。
お爺さんの顔は何倍も憔悴したように見えた。地面に倒れたままじっと空を見つめていた。
「体は大丈夫?」
僕の問いに葉月はただ軽くうなずいた。
「壊れた校舎はどうしよう」
「どうすることもない」
こんなに異能力が使えるなら、もとに戻す異能力もあってほしかった。
葉月の体の傷口から白くて淡い光が光っていた。光が消えたら傷が全部癒されたことになるので、待つことにした。
一人ぼうっとしていると、お爺さんはゆっくりと体を起こし、壊れた保健室に向かって歩きだした。
「お爺さん!」
僕は呼びかけたが、お爺さんは答えてくれなかった。
お爺さんの姿が見えなくなるまで、僕はずっと見届けた。
気がづくと、葉月は校舎を離れようとしたところだ。僕は追いついた。
「お爺さんが『月引症』に苦しまないようにしてあげることはできないの?」
僕は控え目に聞いてみた。
「必要ない。彼の命はもう尽きた」
「せめて、苦しまずに死なせてあげては、駄目かな?」
「あなたのやっている事は、なんの役にもたたない。そうすれば、この世界に未練が残り、もっと強力な黒魂を生み出す恐れがある」
葉月の言葉を言い返せなかった。僕は黙って後ろについていった。
葉月について夜の街を歩いていると、パトカーが街道を駆けてどこかへと消えた。
「何が起きたのだろう?」
一人つぶやいていると、葉月にも聞こえたらしい。
「事件なら、黒魂かもしれない」
「そうね、じゃ調べてみるね」
僕はさっそく携帯から必要の情報を検索してみた。
海岸娯楽施設で殺人事件が発生した。殺されたのは夫婦で、頭と四肢がそのままもぎ取られて即死した。むごいことに、小さな子供が死体の傍で気絶した。子供が犯人の顔をみたと警察たちが判断し、病院に運んで保護している。
このことを葉月に話すとそこへ向かうといった。
「じゃ、タクシーでも拾って向かおう。歩いて行ける距離ではないから」
僕らはすぐ一台をタクシーをひろうことができた。タクシーに乗って、運転手に目的地を教えた。殺人事件で騒がしい海岸娯楽施設になぜ行くかといういぶかし気な表情がバックミラーから窺われた。が、何も聞かずにタクシーを出発させた。
タクシーはアスファルトの道を奔っている。クーラーは効いているのに、暑苦しく感じるのはなぜだろう。何か言って、この情況を打ち破りたいけど、運転士の視線が気になる。
もちろん、僕を見るのではなく、葉月を見る視線がやらしいので、注意してみたいけど、葉月はそんなの気にしていないようだから、僕も黙ったまま、心の中で、運転士を呪い殺した。
一人、くだらない事を考えて、自分で自分の気持ちを害するのは、僕の悪い癖の一つである。
こうするうちに、タクシーは目的地に到着した。
タクシーから降りようとすると、運転手は名刺を一枚差し出した。
「次にもし車を使うことがあるなら、僕に電話をかけてくださいね。光速より速く迎えにいくから」
僕は答えせず、名刺だけ受け取って、車から降りた。なんかいやな予感がした。僕も葉月も答えなかったので、運転手はもう一度話した。もちろん答えなかった。彼の舐めるような視線がとても嫌いだ。
タクシーから降りた僕らを向かえたのは、涼しい潮風だ。
犯行現場はどこなのか探すこともなく、ひと目で分った。
だって、一箇所だけ人集りができているから。パトカーは赤い警告の明かりをみせびらかしながら、ちかづいてはダメと教えているみたいだった。
僕と葉月はまっすぐその場所に向かって歩いていった。犯行現場らしき場所の周りにはバリケードテープで区切られた。
一番外側にいる人々は、中を見ようと、つま先で立って、必死に首を伸ばしている。
僕らはこの集りの中を縫って近付けるのは、とてもできなさそうだったので、それ以上近寄らなかった。
少し時間が経つと、人集りの中から、一人が吐き出された。
僕と葉月は近寄って中の様子を尋ねてみた。自分の見た事を自慢したそうな顔をしたので、よかった。見た事をべらべらと話してくれた。
「酷いとしかいえないね。大人二人の頭は身体の横に転がり落ちていたよ。警察が話しているのをちょっと小耳に挟んでみたらなんと、首は強い力でそのままねじ取ったらしいよ。そんな事の出来る犯人がいるのかな。恐ろしいよね。本当かどうかは分らないけど、あなた達は見ないほうがいいよ。まあ、今頃、死体は警察がなんとかしたと思うけどね」
「大人二人の関係はやはり夫婦ですか?」
携帯で調べたことをもう一度確認のために、尋ねた。
「そうよ。それにね、二人には七歳の男の子がいたってね。かわいそうに、死体となった親の傍で気絶していたのをだった今病院へ連れて行ったのよ。あの子が犯人を見たのかもしれないけど、犯人より、親が目の前で殺されたのがショックでしょう。それからが心配だよね」
この人はまだ何かをしゃべろうとしたが、僕と葉月は用事があるといって、離れた。
二人になってから、僕は葉月に聞いた。
「これからどうするの?このあたりで黒魂を捜すの?」
「黒魂の気配はする。でも、もうここにはいない」
「じゃ、町に戻ってみる?それとも黒魂の気配をたどってみる?」
葉月は犯行現場を見つめた。
「まだ、戻ってくるかもしれない」
葉月は 近くにあるカフェーを指さした。そこで待ってみるつもりだ。僕の葉月はカフェに入り甘くて冷たい飲み物を頼んだ。
窓際の席に座って遠くに見える事件現場の様子をうかがった。時間が経つと、警察たちも、人集りもどっかへいちゃったので、僕と葉月は店を出た。
事件現場の周囲に張られたバリケードテープの近くに行くと、残って現場を守る警察が感情のこもってない声で、近づいてはいけません、と声をかけてくれた。僕と葉月はただ見ているだけだと分かってからは、気にもしなかった。
死体はもう運ばれ、地面には血の黒い後が見受けられる。一面に広がった血の跡を見ると、おのずと死体の様子が頭の中に浮かんできた。身震いをし、頭を振ることで、その映像を振り落とそうとした。
もうこれ以上見ても新しい発見がないか、葉月は現場から離れて歩きだした。僕はすぐ後ろをついて行った。
これから何をするかも分らず、ただ黙って歩いていると、向こうから一人の男の子が視野に入ってきた。一人で、砂で遊んでいる。真っ黒な水着を着て。
なぜ一人でこんな時間にこんな所で遊んでいるのか、気になって尋ねに行こうとしたら、葉月は僕の手を掴んでこの場から離れようとした。
「どうしたの?」
僕は聞いた。葉月はただ黙って僕を連れて歩くだけだった。
この時、あの黒い水着を着た男の子が僕らの前に忽然と現れた。どうやって、一瞬にしてここまできたのかと、不審に思っていると、男の子はつぶらな目で葉月を見つめながら声をかけてきた。
「お姉さん。どこへいくつもりなの?僕と遊んでくれない?」
葉月は何も答えなかった。
「ぼくちゃん、どこから来たの?なぜ一人でこっちにいるの?」
僕が尋ねた。
いまさら僕の存在に気づいたような表情で、男の子は答えた。
「僕はあそこから来たよ」
と、いいながら、男の子は振り返ってどこかを指差した。その方向を見ると、黒い闇しか見えない。
この隙をみて、葉月は僕を引っ張って走り出した。何が何だかよく分らず、ただ葉月と奔っていると、男の声が後ろから聞こえてきた。
「お姉さん、僕ね、もう走れるようになったよ。追いつく事だってできるよ」
無邪気な子供の声だけど、夜に聞くと背中に冷たい電流が走った。
「あの子に黒魂があるの?」
葉月は黙認した。
どれほど走ったかは知らなかった。速く走りたいと念じてないまま走ったので、きつかった。荒い息遣いを和らげている時には、月はもう夜空のど真ん中で朧げな光を放っている。
僕らは近くにある岩に背を寄りかけて坐った。
「疲れた?」
葉月は僕にきいたが、目はずっと海岸娯楽施設の方を見ていた。男の子の黒魂が気になっているのだろう。
「ちょっとだけ疲れた」
二人はこれしか話さなかった。静寂な月夜に聞く波の音は、人の魂を引く魅力があった。聞いていると、放心状態に陥った。このままだど本当に海へ引き込まれそうだ。
葉月の声が僕を現実に連れ戻した。
「黒魂が来た。あなたはどこかに隠れて」
葉月の話を聞いて、僕はもっと奥の方にある岩の後ろに身を隠し、顔を半分出して様子を窺った。
遠くから男の子が近づいてくるのが見えた。
最初に見えたのは、男の子の頭だけだった。真っ白な顔が近づくにつれ、全身がよく見えた。首の下からは真っ黒に染められていた。夜に溶け込むように見えた。体も心も黒に染められてしまったのかな。
男の子は今、黒魂に操られているのか、それとも黒魂を操っているのか、よく分らない。
「お姉さん。走りはお得意じゃないみたいね。だって、すごく遅いんだもん。僕、すぐ追いついちゃったよ。次はもっと待ってあげようかなぁ~。僕はここで待ってるからまた走って逃げてもいいんだよ」
葉月は何も言わなかったので、男の子はまた口を開いた。
「ねぇねぇお姉さん。僕、さきどこへ行ったか分るの?……お姉さん。話すのが嫌いなの、それとも僕を話すのが嫌いなの?」
男の子はしょんぼりと肩を落とした。
葉月は何も答えず、いきなり髪を抜いて投げつけた。
男の子はすばやくかわしながら、髪を一本ずつ掴み、引きちぎった。その動作はとても早くて一瞬の出来事だった。
「お姉さん、僕の手も動けるようになったよ。すごいでしょう」
自慢の体を見せびらかすように、男の子は自分の両手と両足を振って見せた。それから体操をし始めた。体を動かすのがよほど好きなんだろうと思った。男の子のその姿はとてもかわいかった。それを見て、僕は一層理解できなくなった。一体、何があって、男の子の心に黒魂が生まれたのだろう。
男の子の声に、僕は自分の考えを中断させた。
「お姉さん。お姉さんは僕の黒魂を吸いに来たんでしょう。僕も月と黒魂の事を知ってるよ。黒魂が全部教えてくれたから」
葉月は話の代わりに、髪の槍が飛んでいった。男の子は簡単に避けた。
「僕の黒魂を吸わなくてもいいじゃないの?ねぇ、お願いだから吸わないでくれないかなぁ」
男の子の愛嬌がこもった声を断ち切ろうとするように、髪の槍が立て続きに飛んでいった。男の子は髪の槍を全部引きちぎってから、声を荒げて話だした。。
「お姉さん。なぜ僕の黒魂を吸おうとしているの?僕が何か悪い事でもしたの?僕はずっといい子にしていたよ」
男の子の声には怒りの音色が含まれてあった。
「そう。僕があの夫婦の首を身体からねじ取ったの。だから僕の黒魂を吸おうとするのでしょう。でも、それはあいつらの受けるべき報いなの。それに……黒魂は絶対吸わせてやらない!」
男の子は葉月に向かって走り出した。
葉月はすぐ髪を抜き、投げ出した。髪の槍は浜辺に刺さり、一面の壁となって葉月の前に立ちふさがった。しかし、髪の槍の壁は容易く男の子によって破られた。それに、砂浜に刺さったせいか、髪の壁は脆かった。
でも、葉月は最初から髪の壁が男の子を防ぐとは思っていなかったらしい。髪の壁を作ってから、すぐ空に飛んでいった。
空中から、葉月はまだ髪を投げ出した。空で槍の形となった髪は、まっすぐに男の子に向かった。
男の子は髪の槍を簡単にちぎりながら空中に浮かんでいる葉月に向かって話した。
「お姉さんの髪は僕に効かないよ」
男の子は葉月に向かって跳んでいった。でも、葉月は避けようともせず、同じ場所に止まって、髪の槍を投げ出し続けた。髪の槍は男の子にダメージを与えることはできなかったが、地面に追い返すことはできた。
男の子は正面から無数の髪の槍を受けながら、もう一度葉月に飛びついた。
今回、男の子は髪を引きちぎるのではなく、踏み台にして、どんどん葉月に攻め寄っていった。葉月はすぐ自分の前に髪の槍の壁を作った。
男の子は一躍し、髪の壁を掴んだが、今まで長い槍の形をしていた髪は瞬時に元のサイズに戻ったので、男の子はそのまま地面に落ちてしまった。
顔を上げて、葉月を見上げる男の子は淡々と話し出した。
「次こそ、お姉さんをとっ捕まえるんだから!」
自分に飛びつく男の子に、葉月は髪を投げた。そしてすぐ、男の子の後方に回って髪を投げた。たが、男の子も鋭い勘を発揮し、身体を回して、髪を避けた。二人の戦闘は終わりなく続いた。葉月の髪は男の子にダメージを与えなかった。男の子も葉月には近寄れなかった。
「お姉さん。このまま戦いが続いても、勝負はつけないから、このまま僕の黒魂を諦めるのはどうかな?だめかな?」
葉月は髪を射た。これが葉月の答えだった。
男の子は今度もまた、髪の槍を踏み台にして葉月に近寄った。
この時、男の子に命中できなくて、砂浜に突き刺さった髪の槍は浮き上がり、男の子に向かって、電光石火のこどく飛んでいった。
今回の髪の槍の攻撃は、男の子の予想外だったらしく、何本が背中に突き刺さった。男の子はそのまま砂浜に落ちた。
すぐ男の子の悲鳴が聞こえた。男の子は立ち上がり、身体の砂を払ってから、背中の髪の槍を全部もぎ取った。そして、怒りに狂った声で葉月に吠えた。
「お姉さんなんか、大嫌い!」
こう吠えてから、男の子は周囲に転がっている岩を抱いて、一つ一つ、葉月に投げつけた。そして、投げられた岩を踏み台に、葉月との距離を段々縮めた。
だけど、葉月に届かないまま、踏み台となった岩は髪の槍に貫き、砕かれた。踏み台をなくした男の子は再び砂浜に落ちた。それでも男の子はやめず、岩を投げ続けた。
岩を手取り次第なげていると、男の子はいつの間に、僕が隠れている岩の近くまで来た。
葉月もそれに気付き、髪の攻撃を一層激しくした。僕が発見できなくなるためにやっている。
こうやって、男の子は岩を投げる時間がなくなって、避けるのに精一杯になった。僕が岩の後ろに隠れたこともばれずにすんだ。本当にばれなかったのかな。本当のことは分らない。
髪の槍の攻撃の隙間を狙って、男の子は懲りずにまた葉月に向かって跳んだ。葉月は無論、髪を投げ続けている。しかし、今度もまた葉月に届かず、避けたはずの髪の槍が男の子の背中を刺して、砂浜に落とした。
男の子は砂浜に倒れたまま、泣きじゃくっている。
この情況を見た葉月は、空から降りて、男の子に向かって近付いた。葉月が近づくにつれ、男の子の泣き声も弱まってきた。葉月が男の子の間近にたどり着くと、泣き声を止めた男の子はすばやく葉月の足首を掴んだ。
「お姉さん。やっと捕まえたね。……これでも僕の黒魂を吸うつもりなの?吸わないと約束するなら、お姉さんを放してもいいよ」
ウソ泣きだった。葉月を自分の攻撃範囲以内に近づかせるための戦略。
男の子の話が終るとたんに、葉月の掌からは髪が飛び出してきた。男の子の反応も早かった。自分に飛び付いてきた髪を、そんな近い距離でも全部手で掴んだ。そして、葉月の腹にパンチをいれて、そのまま砂浜に押し倒した。
「お姉さん。黒魂には死んでもらいたくないから、お姉さんが死んでもらうしかないよ。ぼくを恨まないでね。こうなったのも、お姉さんが悪いんだから」
男の子は葉月の胸元を踏みつけ、両手の手首を掴んだ。何をする気なのか全然見当がつかない。
傷みを堪えながら葉月はずっと握っていた拳を開けた。その中からは髪が飛び出した。男の子は避けられず、顔中が髪にさされた。
痛みに、男の子はあばれまぐった。その反動で、葉月の両腕を身体から引き抜いた。
二人の叫び声は、波音のリズムを狂わせた。
男の子は葉月の両腕を捨てて、自分の身体に突き刺さった髪を抜いて一つ一つ引きちぎり始めた。
僕はすぐ走り出し、まず葉月を抱いて岩の後ろに隠した。それから彼女の両腕も拾って、岩の後ろに戻った。
葉月の両腕を元の位置につけると、白い光が傷口を包んだ。僕は葉月を膝の上にねかせた。葉月は傷を癒しながら、時々発する呻き声が、僕の心を痛めた。
「お姉さん、見~つけた!」
顔を上げると、男の子は岩の上にすわって、僕らを見下していた。
「あっ、お姉さんと一緒に逃げたお兄さんだ」
男の子は岩から飛び降りて僕らの前に立った。
僕は葉月を抱いてゆっくり立ち上がった。葉月の傷跡に負担がいかないようにと。
「お兄さん、どこへ行くつもりなの?逃げたい?でも、本当に逃げられるかな?僕より足が速くもないし」
僕は男の子にかまわず走り出した。心の中では速く走りたいとずっと祈りながら。葉月がくれた髪の力のおかげて結構長い間走った。
「お兄さん、以外だね。そんなに早く走れるなんて。待ってあげるから遠くまで逃げてね!」
男の子の声がだんだん消えていった。
あまりの速さに、どれぐらいの距離を走ったかの実感がないので、随分と遠くまで来たと思った頃、僕は足を止めた。周りを見回したら、海岸娯楽施設の付近に戻ってきた。殺人事件と夜のせいで、海岸娯楽施設はお化け屋敷に見えた。
長い間走ったと思っていたのに、結局ここまでしかこれなかったことに僕はがっかりした。ここに長くいてはいけないと思って、再び走りだそうとした時、葉月は自分を下してと合図をした。
葉月は砂浜に立って、僕に話した。
「どこかに身を隠して。あいつが来る」
「でも、あなたの腕はまだ治っていないよ」
突然、葉月の傷口を包んだ白い光は消えうせた。
「治ったから、速く隠れて」
葉月は僕をみず、僕らが走ってきた方向を見つめていた。
白い光が消えたのをみて、僕も少しはほっとした。それから近くの物陰に身を隠した 。いざと言う時、葉月を抱いて逃げるための待機した。
最初に現れたのは男の子ではなく、岩だった。
岩はまっすぐに葉月に向かって飛んで言った。
「お姉さん、腕、もう治ったの?治るの早いんだね。じゃ、何回壊してもいいってわけだね?まるでお人形みたい。でも、お人形は自分で治せないからちょっとつまらないか」
男の子はさりげなく怖い事を口走った。
葉月が何も答えなかったので、男の子は話を続けた。
「じゃ、早くこの戦いを終らせようね、お姉さん。お姉さんを僕のお人形にしたくなったなあ~」
葉月は自分に向かって奔ってくる男の子に髪の槍を投げつけた。よく見ると、今の葉月は左手でしか攻撃をしていない。
左手だけってことは、まだ全部治っていないのに違いない。僕を安心させるための嘘だったと考えると胸が締め付けられるような気持にかられた。今から出て行って、葉月を抱いて逃げようにも、戦いの中に乱入したら、かえって葉月の邪魔になるかもしれない。
男の子も今まで受けた傷のせいか、攻撃も防御も思うままにできず、左手だけで攻撃をしている葉月には近づけなかった。このままでは、戦いが長引くののを知った男の子は、体の向きを変えて、僕に向かって走りだした。
男の子の算段がすぐわかった。僕を人質にして葉月の動きを少しでも鈍らせようとしたのだ。
僕は海岸娯楽施設に向かって走り出した。そこなら、結構な隠れ場所が見つけると思っていた。男の子は僕の後ろで追いかけてくる。
海岸娯楽施設に入ったら、後ろで建物が壊れる轟音が響いた。振り返ると捕まえそうなので僕は前だけ見て必死に隠れ場所を探した。
「壊さないで!!」
すると男の声が聞こえてきた。振り返ると髪の槍が海岸娯楽施設の中にある建物を壊している。僕はでっきり男の子が建物を破壊していると思ったのに、違った。
男の子は壊された建物に駆け寄って、髪の槍を抜きながら、なんとか、建物を修繕しようとしている。瓦礫を拾っては、欠けたところに置くけど、それだけじゃ、くっつけるわけがない。
葉月は男の子の叫び声を無視して、髪の槍を施設に向かって投げ続けた。立て続けに壊れていく周りの建物を見ながら、男の子の声は怒鳴り声から、懇願の声に変わった。
髪の槍を引きちぎるやら、建物を守るやら、なおすやらと、男の子は涙を流しながら忙しく動き回っている。
でも、男の子の努力は報いをもらえることはできなかった。
「お姉さん、お願いだから。もうやめて。もう壊さないで!父さんと母さんとの楽しい思い出がつまっている場所を壊さないで……」
葉月は男の子の願い事を聞き入れず、施設を壊し続けていた。
男の子は自分には建物をなおすことができない事が分ったか、ただ泣いているだけだ。
施設を廃墟のようにまで壊してから、葉月は男の子に近づいた。そして、四本の髪の槍は男の子の四肢を貫いて地面に固定した。
「お姉さん。本当に……僕の黒魂……を吸収しちゃうの?」
葉月の無表情な顔から、答えを読んだらしく、男の子は抵抗したが、髪の槍を抜くことはできなかった。
葉月は男の子が抵抗しないように、身体にも何本かの髪の槍を立て続けに刺した。
「父さん、母さん、僕を捨てないで……」
男の子は独り言をしゃべり始めた。
「僕を捨てないで。ねぇ、お願い。こんな病気に罹ったのは僕のせいじゃないよ。だから、捨てないで。父さん、母さん、今どこにいるの?」
葉月は黒魂を吸う準備をした。
男の子の身体から、黒魂が少しずつ引き離された。
「僕の黒魂を吸わないで。お願い、お姉さん!」
男の子がどんなに泣き喚いても、葉月はやめなかった。黒魂が消えつつある男の子の身体からは血が滲み出た。
「父さん、母さん」
男の子の声も力をなくしていた。
「この子がかわいそうだよ」
僕の心に同情の念がわきあがってきた。
「心配ない。この子は死なない」
「それでも……」
僕が言葉につまっているその時、男の子の様子が変になってしまった。父さん、母さんと喚くのではなく、別の人と会話しているそうだ。ちょうど、前の女性被害者のようだ。
「お願い、消える前に僕を殺して。君がいなくなったら、僕はもう生きていけないよ。だから、早くして。お願い」
黒い影が男の子の首を巻きつけた。その後、僕は骨が折れた音を聞いた。
黒魂を全部吸って、葉月も地面に倒れこんだ。傷のダメージが相当おおきらしい。
僕は葉月の傍に坐り、彼女の頭をそっと、自分の膝の上に載せた。
葉月は目を開けて、僕だと確認してから再び目を閉じた。
時計をみると、もう朝の3時になった。海風が冷たい。葉月が風邪にかからないように、僕はそっと彼女を抱いてみた。
波の音だけがこの静寂な夜に潜む恐怖を払ってくれる気がして、安心できた。
どれぐらい経ったのだろう。
葉月はいきなり起き上がった。
「行きましょう」
こういって、すたすたと歩きだした。
「うん!」
僕もすぐ後ろについて行った。
少し歩いてから、
「葉月、この壊された施設と、男の子の死体はこのままにするの?」と葉月に聞いてみた。
「それしか方法がない」葉月はこう答えた。
死体を僕たちが処理できるはずがない。振り返って施設の残骸を一目みた。朝になれば、これも結構なニュースになると思った。謎の破壊事件としてオカルトファンに好かれそうなテーマだ。
海岸通りだからなのか、タクシーが見当たらない。近にあるバス停も地下鉄もまだ動いていない。
どうしようかと迷っていると、葉月が話し出した。
「あのタクシー運転手を呼んで」
あの感じ悪い運転手を呼ぶ、だなんて、僕個人的にしては呼びたくない。でも、家に帰る交通手段は今のどころほかにないんだし、僕が走って家まで行けることもできない。グタグタに疲れたから。
僕は仕方なく電話を掛けた。
電話の向こうから運転手の声がした。
「もしもし、どちらですか?」
寝ていたのか、声がずいぶんとしゃがれている。
「はい、あの、タクシーを呼びたいんですけど……」
「あ~、すいません。今日はもう終わったので、ほかを当たってください」
ほかを当たってください、という言葉を聞いてうれしかった。この運転手を呼びたくないからといって口実を作らなくてもいいから。でも、よく考えてみたら、この運転手を逃したらいつまたタクシーが拾えるのかわからないし、葉月の様子を見るとダイブ疲れていて、このまま海風に吹かれると、体調が悪くなりそうなので、もう一押しすることにした。
「ここ、海岸娯楽施設なので、タクシーがいないんです。だから夜分遅く電話しました。昨日のよる送ってもらった恋人です」
最後の『恋人』をわざと言ってあげた。それに、葉月には聞こえないように、片手で口を隠しながら。
電話の向こうで起き上がるような物音がした。
「もしかしてあのお嬢ちゃんとお兄ちゃん?」
僕の気のせいか、運転手の声には少し興奮しているようだった。僕が言ってやった『恋人』という言葉に全然気にしていない様子だ。どんなふうに気になってもらえたいと、と言われたらはっきり言えないけど。
「は、はい、そうですけど」
「すぐ行きますんで、それじゃ」
一方的に電話を切られて、少々気分を害した。
僕が電話をポケットにしまるのをみて葉月は目で問いかけた。
「すぐ来るって」
あの運転手がくるのたいする抵抗はまだある。家からちょっと離れた場所でおろしてもらおう。家が特定できないように。
一人でこんなつまらないことを考えていると、車の照明が闇を割いてこっちに向かって走ってきた。僕と葉月の目の前にぴったと止まってドアを開けた。
なのに葉月はタクシーに乗ろうとしない。
「お客さん、早く乗らないと出発できませんよ」
僕は葉月の顔を見たのだが、彼女は僕の前に立ちふさがった。
「正体を現しなさい」
正体?どういうことだろう。まさか、この運転手も黒魂?
急に殺気を帯びた空気がタクシーの中から発散してきた。
僕は逃げようとしたが、葉月は動こうとしない。ここで戦うつもりらしい。
「傷、本当に大丈夫なの?」
葉月は髪を何本か抜き、 一時的の処置として、ちぎられた腕と肩との傷を縫った。
ずいぶんと休んだのに、まだ完全には治っていない。
「今回は苦戦になりそう。だから、情況が不利になる次第に逃げて。あなたまで庇う余裕はないかもしれない」
葉月の口調から事の深刻さをしみじみと分った。僕は軽く頷き近くに身を隠した。
運転手はタクシーから降りた。
「逃げないのかね?」
運転手は気味悪い笑顔で話しかけた。
葉月も僕も何も答えてないので、言葉をつづけた。
「逃げようとしても無理だって事は分ったみたいね。もし、僕の言いなりになるなら、命までは奪わないよ。まあ、俺は最初からあなたを食べることには興味ないから。違う意味での食べることにわくわくしているからね」
こう言って運転手は何がおかしいのか笑いだした。
そんな運転手にかまわず、葉月はすぐ髪をなげた。槍となった髪は運転手に向かって真っすぐ飛んで行った。
「そんなもの、俺には効かないよ」
運転士は避けようともせず、同じ場所に立っていた。
髪の槍は全部命中した。運転手にではなく。
運転士が笑いながら話した。
「俺には効かないといっただろう。だって、この子達がいるんだから」
運転士の周囲に何人かの人影が現れた。髪の槍をまともに受けた人まで合わせると、総計十人になる。よく見ると全部女性ばから。幼女から熟女まである。
「お嬢ちゃん。あんたのお陰で俺はすごい力を手にいれたよ。感謝してるよ。しかし、そうだからといって、手加減をするつもりはないからね。降参するなら話は別だけど、そんな気、全然ないでしょう?」
運転士は話を終えて、手で合図をすると、十人の女性は一斉に走り出した。目標は葉月に決まっている。
葉月は髪を投げ続けた。
十人の女性は協力しあいながら、葉月が投げた髪の槍を壊しつつ、距離を縮めた。
葉月は今度は空に浮かび、女性たちの進む道の妨げになるように、髪の槍でできた壁を作った。でも十人の女性の進む道を遮ることはできなかった。ある女性は拳で、ある女性は足で、ある女性は頭で髪の槍をぶち壊しながら、葉月に進んだ。
幸いなことに、女性たちは飛べないらしい。力強い仲間を踏み台にして跳び上がり葉月に攻撃した。
飛べない人が空中にある人を狙う事は大変だ。空中には方向をかえるための足場がないから。空中で自由に身体の位置を変えない女性たちは、葉月に触れず髪の槍を食らって地面に落ちた。
女性たちは自分の身に突き刺さった髪を抜こうともせず、何度も何度も空中に浮かんでいる葉月に飛びつこうとしたが、届かなかった。
女性たちの身体はハリネズミのようになったけど、動きは鈍っていなかった。
「少しくらいなら、ダメージを与えられると思ったけど、俺の間違いだなあ。やはり、操られているだけでは、本当の力は発揮できないのようだね」
運転士は残念そうに頭をふりながら、両手をはたけた。
女性たちは自分を操っている張本人の気持ちも知らずに、自分の身体がどんなに傷だらけになっても、攻撃し続けた。女性たちの頭から足までは全部髪に刺され、動こうにも動けなくなった。
十人の女性は惨めな姿になって、地面に倒れた。
「やれやれ。お嬢ちゃんに少しでもいいから、傷をつけることができるんじゃないかと、期待していたけど。甘くみたようだなあ」
葉月はすぐ運転士に向けて髪の槍を放った。
今度も運転士は避けようとしなかったので、髪の槍は全部身体に命中した。先のように、また人が盾になるのかと思ってはいたが、今回は確かに運転士の身体に突き刺さった。
「まともに髪の槍を食らってみたら、結構痛いよね。でも……この痛さがたまらないんだよ。興奮してしまう」
ハハハっと笑っている運転手の体が変化し始めた。運転士の身体に刺された髪の槍は少しずつ彼の身体に飲み込まれてしまった。
「お嬢ちゃん。ぼうっとしてないで、もっと、、もっとくださいよ。髪の槍を!体がほしがっているんだから!」
運転士はいかれているに違いない。こう話しながら運転手は葉月に向かって走り出した。体に刺さってあったはずに髪が全部消えた。体が全部食べたと言ったほうがいいかもしれない。
葉月は相変わらず髪の槍を放ったが、運転士は自分の体の中に全部吸い込んだ。
自分の髪の槍が運転士になんの傷も与えていない事を知りながらも、葉月は髪を投げ続けた。外れた髪は地面のあちこちに刺された。
「お嬢ちゃんよ。大地を大事にしないといけないよ。だって、大地にいろんなものを埋めて隠せるんだから!」
運転手が葉月に攻め寄ってくると思ったら、急に動きを止めて、ただ髪の槍を身体で受け止めるだけだった。本当に、髪に刺されて受ける痛みを楽しんでいるようだ。
髪の槍が自分の身体を突き刺さる感触を感じながら、口では呻き声を漏らした。たても満足しているような声だ。
「そうそう。こんな感じ。もっともっと僕を刺して。たまらない。このままだと、もれてしまう!」
運転士は地面に崩れた。荒い息遣いをしている。
「はあ。行っちゃった。気持ちいい……」
満足そうな顔をした運転士。彼のズボンを見ると、股の部分が段々膨れ上がり、やがては爆発した。そして、現れたのは、真っ黒でタクシー大の、足が二本はえてあるおたまじゃくしに見える怪物が一匹だった。
真っ黒なおたまじゃくしは葉月に向かって、まっすぐに跳びついた。葉月は髪で壁を作りながら、おたまじゃくしと距離をおいた。
「やはり、お嬢ちゃんのお陰で出てきたおたまじゃくしは、他のものと比べ物にならないくらい、すばらしいよ。ほら、でかいでしょう?強いでしょう?それに、速いでしょう?」
運転士の興奮に満ちた笑い声が、夜空の下で響いた。
葉月の前を守るはずだった髪の壁は全部、おたまじゃくしに食べられた。
熱いのか、服を脱ぎ棄て、下着一枚になった運転士は、段々遠くなっていく葉月とおたまじゃくしの姿を眺めているだけだ。ズボンはおたまじゃくしが出てくる時、敗れたので、脱ぎ捨てることはなかったが。
おたまじゃくしと戦っている葉月を見た僕はこのままここにいてはいけない気がした。葉月の手助けにはなれないけど、傍で待っていたら、何か役に立つ機会にめぐまれるかもしれないと思ったから。それに、葉月の様子が心配だ。あんな傷をおっていながら、長く戦い続けられない。
こそこそと隠れた場所から離れ、葉月がいる場所の近くに向かって、動き始めた。最初はゆっくりと足を動かしたが、運転士から十分離れたと思った時、僕は走りだした。心の中では速く葉月においつくようにと強く念じながら。
必死に走っている僕から見れば、葉月とおたまじゃくしはまだまだ遠いところにいる。
もう少し、スピードを上げようとしたその時、僕のすぐ横で僕を呼ぶ声が聞こえた。
「兄ちゃん、どこへ行くつもりなの?」
運転士だ。運転士もすごい速さで僕と並んで走っている。彼の黒魂はあのおたまじゃくしを生み出す能力だけではないようだ。
僕は運転士にかまわず追い払おうともっとスピードを出したのだが、振り切れなかった。かわりに、運転士は手を僕に差し伸べた。掌には小さなおたまじゃくしがあって、僕に向かって飛んできた。
反射的に手をおたまじゃくしを払うと、足取りが乱れ、転がてしまった。走るスピードが速いだけあって、かなりの勢いで地面に転がった。
身体のあちこちで走る痛みをこらえながら、なんとかして立ち上がろうとした。
すると、足音が聞こえてきた。運転士が歩いてきた。僕は手で後ずさりする。
「兄ちゃんよ。そんなに嫌がらなくてもいいよ。このおたまじゃくしはね、あんたの脳に入って操るだけだから。それに、ただ操るんじゃなく、すっご~~くいい気持になるんだから。麻薬のように兄ちゃんの体をふわっとさせるから。怖がらなくてもいいんだよ」
僕をあやす運転士の声。彼は顔をぐっと僕に近づけた。
「セックスはしたことある?その様子からしてみりゃ、童貞みたいんだね。まぁ、童貞だとしても一人で解決したことはあるんだろう?おたまじゃくしにあやつられると、射精の時の快感を永遠に感じられるんだから、いいんじゃない?それにいいこと教えてあげる。体が傷づけられると、快感も高ぶるから、彼女たちも最高の気分を味わいながら死んだんだから、本望なのかもね」
言いたいことを言い終えた運転士はやらしい笑い声を出した。
僕はできるだけ、運転手と距離を置いた。足はまだ痛いけど、我慢して走れる。
立ち上がろうとしたら、運転手は素早く僕の前まで走ってきて前に立ちふさがった。
「先の戦いで、女性を操っていたおたまじゃくしが全部やられたかと思っていたが、一匹は生き残っていたよ。あんたを操るにはうってつけってわけだ。おたまじゃくしが全部殺されたら、また出せばいんだけど……射精しないといけないでしょう?射精するには相手が必要でしょう?一人でもぬけるんだけど、どうせなら誰かとやるほうがもっと気持ちいいでしょう?まぁ、相手がいたって、ここでやれるわけないし。あんたが黙ってみているとは思わないし。先は、ちょうどいい具合に月の姉さんが射精させてくれたからあんなにもでかいのが出たんだねぇ」
運転士は手を開いた。僕が払ったはずのおたまじゃくしがいつのまに彼の掌の上でちょんちょんと踊っている。
僕に手を差し伸べるで、僕はとっさに足で運転手の脇を蹴った。
葉月がくれた月の力のおかげて、運転手は飛ばされた。
やはり、葉月がくれた力は足の速さをあげるだけではなかった。
運転手は遠く飛ばされたけど、僕もダメージを受けた。まともに力の加減ができなかったので、骨にヒビがはいったか、それとも骨折したのか、動かせない。脚からすごい痛みが伝わってきた。
どうにか立とうとしたけど、無理だった。
この時、闇を切るような鋭い悲鳴が海岸に響いた。まるで、黒板を爪で引っ搔いたような音。
悲鳴のする方を見ると、あのでかいおたまじゃくしの体はすでに数本の太い髪に体を貫かれた。
僕が見ている間も、おたまじゃくしの体の中から髪がすっと現れた。まっくろな体から出現した葉月の髪は月の光に鮮やかに輝いた。
身体の全身に髪が生えたので、ハリセンボンのようになった。
これで残るのは運転士本人だけだと安心していたら、体が急に熱くなってきた。頭も恍惚になり始めて、身に覚えのある気持ちが全身の細胞を刺激している。
いい気持ちに浸っていると、僕の体が勝手に起き上がろうとした。動けないはずの足も今はしっかりと地面を踏んで立ち上がった。痛みは伝わってきたけど、いい気持ちの中に埋もれた。痛みより快感のほうが上回った。
しっかりと立った僕は体をくるっと回して、葉月の方を向いた。
僕の意志に関係なく、体は勝手に葉月に向かって歩きだした。
いい気持ちで思考が止まっている中でも、必死にこの状況から逃げ出そうとした。けど、僕の反抗はむなしかった。
これが運転手がいってた「おたまじゃくしにあやつられる」ってことだと僕は気づいた。
確かに、いい気持ちでいられる。ただ、これから自分がやるかもしれないことに不安を感じた。
「不安しなくていいのよ」
耳元で運転手の声がした。まるで僕の考えを呼んでいるかのようだ。彼は僕の傍に立っている。
「あんたの足どうなってるんだ?すごい力だね。骨が何本も折れたよ。普通の人間なら動けないかもしれないけど、おれは普通じゃないから」
僕の体は葉月に反応している。殺したいという気持ちが快感と一緒に頭を刺激している。理性ではこれはいけないと分かってはいるけど、感情には勝てなかった。
葉月も僕の異常に気付いたらしく、遠くから僕も見つめている。彼女の体は傷だらけになった。傷口から滲んだ血を見ると、もっと欲しくなってきた。
僕の感情がおたまじゃくしによってもう、めちゃくちゃになった。
我慢できず、僕は葉月に向かって走りだした。