「ーー宇宙ロケットには乗れないから、私の行ける一番宇宙に近い場所」

 その言葉をきっかけに、僕と彼女は隣町にある天文台に行くことになった。

 天文台といっても、国立の研究所があるような本格的な施設ではなく、小高い丘に天体観測ができる広場があるような、市民向けに開かれた簡単な場所だ。

 行き方をスマートフォンで調べて、ルートを覚える。
 この小さな四角い箱があれば、どこにでも行ける気がした。
 どこにも行けない気もした。

 二人並んで夜の市営バスに乗り、ガタガタと田舎道を揺られて行く。
 山の方へ向かう道はたんだんと民家やお店が減り、自然豊かで静かな雰囲気になっていった。
 夜も遅い時間のせいか、バスは他の乗客は少なくまばらだった。

 僕は普段着ているくたびれた外着で、日向さんもラフなシャツにスカートという出立ちだった。

 日向さんは、病院での検査が一旦終わり、この夜のために一時帰宅を許可してもらったそうだ。
 
「でも、また明日から再入院だから、今夜が外に出かけられる最後の機会かもしれない」

 そんな驚きのセリフを、さも当たり前のように言ってのける。
 僕は不安に蝕まれる心を押し殺して、日向さんの横顔を眺める。

「そんな……そんな大切な時間を、僕と天文台に行くのに使って良いの?」
「いいの、お母さんにも、分かってもらったし」
「それは……友達とかは? それこそ鈴木さんたちは」
「だから、染谷君も友達だって」

 日向さんは呆れたように笑った。

「五十嵐先生にお願いして、クラスメイトには病気のことは内緒にしてるんだ。優里も、みんなも、受験を控えてるこの時期に、邪魔したくない」

 日向さんは何かを悟ったような、落ち着いた表情をしていた。

 彼女の言葉を聞く限り、五十嵐先生は事前に日向さんから話を聞いて、全て知っていたのだろう。
 担任だから当然とも言えるけど。
 救急車を呼んだあのとき、妙に落ち着いた様子だったのも得心がいった。

「染谷君は別ね。最後まで、巻き込ませてもらうから」
「……望むところだよ」

 日向さんはイタズラっぽく笑って、僕はそれに答えるように笑い返した。

 他のクラスメイトたちに内緒にしているというのは、日向さんなりの社会との向き合い方なのだろう。
 べつに、自分の置かれた状況や身体のことを周囲に告白することだけが、正解ではない。

 亡くなった父親と同じ心臓の病気。
 なるべく黙っているという選択が、どんな運命が待ち受けていようと、自分の人生でお世話になった人たちへの、彼女なりのアンサーなのだ。

 日向さんはもう長くないと言った。
 正直、それ以上詳しく追求することはできなくて、その言葉の真意は聞いていない。

 そして、最後になるかもしれないというセリフ。
 言葉の綾だろうか。それとも、本当にーー

「あ、着いたみたいね」

 日向さんの言葉で、顔を上げてバスの窓から外の景色を眺める。
 バスの行く先に、小高い丘の上にある天文台へ続く入り口が見えた。

「染谷君は何度か来たことがあるんだよね」
「うん、父さんが……天体観測が好きだったから」

 懐かしい景色に郷愁の思いを抱えながら、ポツリと呟く。
 子供の頃に何度か、父親に連れられてこの場所に来たことがある。

 父親は天体観測が好きだった。
 簡易な望遠鏡が部屋にあって、小学校に上がる前の幼い頃はよくそれで遊ぼうとして怒られた。

 夜空を指さしながら、父親が読み上げる星座の名前。
 あれがオリオン座、それがおおいぬ座、これがこいぬ座……。
 一つだって思い出すことができずに、僕はもうその名前をほとんど忘れてしまった。

 市営バスが空気の抜ける音とともに、緩やかにスピードを落とした。
 車掌さんのアナウンスが、僕たちが目的地に到着したことを告げていた。

 バス停に着いた僕たちは、ICカードをタッチして料金を支払って、バスを降りた。
 そこで降りたのは僕たちだけだった。

「へー近くに来てみると、思ったより高いね」
「うん、こっから階段が続くよ」

 日向さんが首を伸ばして、丘の上を見上げる。

 辺りは林のように木が生い茂っており、それを突き抜けるように道ができている。

 そして木で作られた大きな看板のふもとに、土と木で固められた自然由来の階段がある。

 僕らは荷物を背負い直して、天文台の広場へと続いていく階段を登り始めた。

「大丈夫?」
「うん、なんとか」

 彼女を気遣いながら、一段一段ゆっくりと登っていく。

「絶対、無理しないって約束してね。途中で体調が悪くなったら、担いででもすぐに帰るよ」
「頼りになるねー」

 僕はわりと本気だったのだけど、彼女はからかうように笑った。

 正直、彼女の顔色を見ていると、入院が必要なほど心臓が悪いだなんて想像もできないくらいだ。

 以前ベンチで眠っていた時もそうだけど、血色も悪くなくて、むしろ僕みたいな人間の方が不健康そうに見てるくらいだ。

 でも、彼女の胸には爆弾が埋め込まれている。
 それが、いつ爆発するかは誰にも分からない。

 体調のことだって、無理をしているのかもしれない。
 周りに心配をかけないよう、明るく振る舞ってしまう日向さんのことだ。
 もし万が一、この間のように倒れてしまうようなことがないよう、最新の注意を払う必要がある。

「ーーねぇ知ってる? 匂いって、人間の一番最後まで残る記憶なんだって」
「喋りながらで大丈夫? まだ階段は続くよ」
「いいの、お喋りしながらの方が気が紛れるから」

 僕は隣で少し息を荒くしながら、階段に足をかけていく日向さんの横顔を眺めた。

 雑談をしながらの方が、階段登りが捗るというのは僕も同意だった。
 もう秋が近づいていて、以前のような暑さはないのが救いではあったけど、完全に整備されたわけではない土と木の階段を登っていくのは、なかなか大変な作業だった。

「匂い……そうなんだ。たしかにカレーとか一発で思い出せるもんね」
「そうだけど、カレーって」

 日向さんは面白がって小気味よく笑う。
 僕の例えがおかしかったようだ。

「私は金木犀かな。あの匂いを嗅ぐと、子供の頃のお父さんと散歩した思い出が、すぐに浮かんでくる……」

 彼女はふと、昔を懐かしむように目を細めた。

 僕も足場の悪い階段を滑らないように踏みしめて登りながら、かつての思い出を心に浮かべた。

 匂い、か。
 カレーの匂いと言ったのは、あながち見当違いではなかった。

 叔父さん夫婦の家に引き取られてから、二人とも辛いものが苦手だったため、夕飯でカレーが出されることが無くなった。

 逆に、亡くなった両親はカレーが大好きで、週に三回は食卓にカレーが並んでいた記憶がある。

 僕と妹は、「またカレー?」と言ってぶーぶーと文句を垂らしていたけど、両親はどこ吹く風といった様子でパクパクとカレーを食べていた。

 カレーの匂いを嗅ぐと思い出す。
 もう戻ってこない、あの時間を。

「匂いが記憶に残るっていうのも、確かにそうかもしれない」

 意識したことはなかったけど、言われてみれば匂いは記憶に強く結びついている気もする。
 匂いはいつ、どのタイミングで嗅いでも、何故忘れていたのか不思議に思うくらい、すぐに記憶が引き出されることがある。

「逆に、一番早く忘れる人の要素って知ってる?」

 日向さんはクイズ番組の出題者のように、指を立てた。

 僕は頭の中の引き出しを探して回ったが、答えは見つからなかった。

「……分かんないな。顔とか?」

 だとしたら、僕の人間に対する記憶力の悪さが証明される。
 やはり顔が覚えられないと、その人の名前や特徴もいまいち印象に残りにくい。
 僕はそんな苦労をもう何年も続けている当事者だ。

「うふふ、それはね」

 日向さんはイタズラっぽく頬に人差し指を当てて、答えた。

「声、だよ」
「ーー声」

 僕は日向さんの答えを反復した。
 声、か。

「声って、結構重要な気がするけど、忘れちゃうんだね」

 両親の声。
 もちろん、音声データなんて残っていないから、もう十年近く聞いていない。

 もう、どんな声だったか、思い出すことは確かに難しい。
 僕や妹の名前を呼んでくれた、父さんや母さんのあの優しい声も。

「ーー覚えていてね、私の声」

 日向さんはまるで、もう二度と会えないみたいに、そう言った。





 人の顔が識別できない。

 この相貌失認という障害を負ってからの僕というのはまるで、排水溝に揺蕩う髪の毛のようなものだった。
 自らの意思とは関係なく、大きな力に流されるがまま、意味のない時間を浪費していた。

 もう、誰とも関わることはできない。
 そう思っていた。

 あのベンチで、眠り姫に出会うまで。

「ーーついた」
「やったー!」

 僕と日向さんは、長い階段を登りきって、やっと天文台の広場までたどり着いた。

 天文台は芝生の生えた広場になっており、そこで寝転ぶなり、望遠鏡を立てるなりして思い思いに天体観測を行うことができる。

 日中は家族連れのハイキングや遠足の子供達で賑わっているそうだが、流石に夜となると人気は少なかった。

「すごい、綺麗だね」

 彼女は僕の隣で大きく伸びをするように手を伸ばして、夜空を見上げた。

「うん、晴れて良かった」

 満点の星空、とは言わないが、それなりに美しい星空が広がっていた。
 これがもっと田舎の方で、もっと標高の高い場所なら、もっと美しく見えるのだろう。

 墨汁を垂らしたような暗い夜空に、頼りなさげな星々がキラキラとした海岸の砂を散らしたみたいに煌めいて見えた。

 幸運なことに、今夜は快晴だった。
 夜になると、曇っているか晴れているかなんて気にする人はほとんどいないと思うけど、天体観測するとなれば話は別だ。

 雲ひとつない夜空は、とりわけ深く遠くに感じられた。
 一度溺れてしまえば、もう二度と助からない深海のような深さだった。

「ーー望遠鏡が残っていれば良かったんだけど、どこかにいっちゃったみたいで、ごめんね」

 父親が残した望遠鏡だが、叔父さん夫婦の自宅に引っ越す過程でどこかに紛失してしまったらしく、見つからなかった。

 あくまで簡易な小さいものだったから、処分されてしまったのかもしれない。
 思い出の品ではあったけど、仕方ない。

「そんな、謝らないで。直接この目で見れるだけで、すごく嬉しいよ」

 こちらに気を遣わせないように、明るく振る舞ってくれる日向さん。

「寝っ転がろうよ」
「……うん」

 僕と日向さんは、芝生の生えた座り心地の良さそうな地面に荷物を置いて、そのままゴロンと横になった。
 芝生が服にまとわりつく感覚がしたけど、もう今日は気にしないことにしよう。

 日差しの暖かい晴れの日が続いていたためか、芝生は湿っていることもなくふかふかとして、寝転ぶには最高のコンディションだった。

「なんだか不思議な気分。昨日まで病院の白い天井を見つめてたから。こんなふうに染谷君と夜空を眺めてるなんて」
「僕も……不思議だよ」

 呟くようにして答える。
 ほんの一ヶ月前ですら、日向さんとこんな関係になるなんて、想像すらしていなかった。

 日向さんは大気から生命を受け取るみたいに、大きく息を吸い込んだ。

「あーすっごく遠いね。星って。人類はどこまで行けるんだろうね」

 夜空に輝く星を掴み取るみたいに、寝転んだまま天に手を伸ばす。

 当然、何も掴めずに、日向さんの小さい手のひらは空を切る。
 まるでその手のひらから、大切な何かがこぼれ落ちていくみたいに見えた。

「人類の科学は進歩してるから、案外、百年もしたら宇宙の果てまで行けるようになるかもね」
「えー、年内にできるようにならないか」
「無茶を言わないでよ」

 数ヶ月で宇宙の果てまで届くロケットを開発するなんて、世界中の技術者がひたすら徹夜で研究し続けても不可能だろう。

 そう返事をしながら、日向さんを真似て僕も首を傾げて空を見上げた。
 数え切れないくらいの星が瞬いていた。

 あの星の中には、光でさえ何百万年と掛かるくらい遠くに存在している惑星もある。

 隣で目を輝かせている彼女。
 彼女との距離は数十センチ。声も届く。
 手を伸ばせば触れられる。
 すぐそこに血の通った身体が存在している。

 そのはずなのに。
 僕には、日向さんの方が、この夜空の星々よりもよっぽど遠くにいるような気すらした。

 恒星のように発熱する彼女が、不思議なほどに遠く儚げで、触れられないくらいずっとずっと遠く離れた存在に感じられた。

「科学が発展したら、宇宙ロケットにも気軽に乗れるかな」
「きっと行けるよ。電車に乗るくらい気軽に、宇宙に行けるようになるよ」
「ーー染谷君の病気も、治せるようになるかな」

 僕は寝転がったまま、黙って夜空を眺めていた。

「日向さんは、自分のことを第一に考えて。病気を治して、学校に戻ろう」
「私はーーそうだね」

 僕の励ましをどう受け取ったのか、日向さんは何かを言おうとして少し詰まった後、誤魔化すように笑った。

 僕はそれ以上、それについて何かを言う気になれなかった。

 夜空は美しく輝いていた。
 まるで、僕らの代わりに悲しんでくれてるみたいだった。

「宇宙一遠い星って知ってる?」
「またクイズかい」
「うん、クイズ」

 星空の下で、日向さんは妙に饒舌だった。
 まるで、最後の時間を惜しんでいるみたいに思えた。

「知らないな。どれくらいだろう」
「320億光年くらいらしいよ」
「へー、その向こうには何もないのかな」
「分かんない」

 日向さんはおかしそうに喉を鳴らして笑った。
 僕も釣られて笑った。
 僕らは、分からないことだらけだ。

「でもさ、もし一番遠くにある星が爆発して跡形も無くなっていたとしても、私たちが知ることができるのは320億光年後なんだよ」
「待ってられないな」
「そんなのって、どれだけ孤独なんだろう」

 日向さんは、寂しそうにポツリと呟いた。

 320億光年の孤独。
 たかが数十年しか生きてられない僕らには、想像も及ばない。

 光ですら320億年もかかってしまう遥か遠く彼方で、ポツンと佇んでいる惑星がある。
 想像するだけで、寂しい気持ちになった。

 その後、僕らは芝生に寝転がりながら、いろいろな話をした。

 明日世界が終わるなら何をしたいとか、旅行で行ってみたい国とか、百万円あったら何に使うかとか、そんなしょうもない世間話。

 まるで、忘れたい現実から逃げるみたいに、毒にも薬にもならない話をし続けた。
 彼女の世界最後の日は、もうすぐそこまで迫っているのかもしれない。

「進路はどうするの?」
「あー、僕は地元の国公立を受けようと思ってるけど」
「理系だよね。どんなことを勉強したいの?」
「うーん決めてないかな……」

 日向さんはどこを受けるの、と聞こうとした瞬間、僕は口をつぐんだ。
 それは、恐らく今の日向さんに聞いてはいけない、残酷な質問だった。

 そんな申し訳なく思う僕の心中を察したのか、日向さんは寝転がりながらこちらに顔を向けた。

「私はね……受験しないよ。来年まで生きれたら……それはそのとき考えるかな」

 僕はその言葉に、何も答えることができなかった。
 虫の鳴き声さえ遠くに聞こえる静かな沈黙が、二人と夜の闇を包んだ。

 本当に、日向さんの病状は深刻なのだろう。
 そんな彼女を前にして、来年の受験のことを当たり前のように考えている自分が、なんて薄情なんだろうと思った。

 僕は彼女が死ぬなんてこと、到底受け入れられていないくせに、頭の片隅では自分の将来を当たり前のよう考えていたのだ。

 明日が来ないかもしれない人の隣で、自分の明日の予定を考えている。
 大切な人の死を前にしてすら、社会での役割やルーティンを守ろうとしている。

 そんな僕は、なんてちっぽけなんだろうと思った。

「ーー星は孤独ね。あんなに真っ暗な宇宙で、一人きりなんだから」

 日向さんはそう言って、また空を見上げた。
 夜空に走っている長い飛行機雲が、まるで空を二分するみたいに直線を描いていた。

「ねえ、知ってる? 惑星は、最後には自分の重さに耐えられなくなって、重力の塊になっちゃうらしいよ」
「へー、そうなのか。なんか皮肉だね」
「ま、いずれにしても人間には想像もつかない、途方もなく先の話」

 日向さんの胸中を、僕は知ることはできない。
 誰にも、人の心の中なんて、見えるわけがない。

「小さい頃、父さんに聞いたんだ。いつか、僕たちの地球がある天の川銀河は、アンドロメダ銀河と衝突しちゃうらしい。その衝撃に僕たちは耐えられるのか、小学生の僕はものすごく不安になった」
「……かわいいね」

 日向さんはそう言って微笑んだ。

 しばらく星空を二人で眺めた後、日向さんは意を決したように、静かに口を開いた。

「ーーこうやって夜空を眺めているとね、なんで私だけがこんなことにって、正直思うこともあるよ。私と同じような年頃の子たちが、当たり前みたいな顔して元気に歩いてる。子供を連れたお母さんや、お爺さんと連れ添って歩くお婆ちゃんを見て、あんな未来が私にもあったはずなのにって思う」

 明るい調子の口調が、かえって物悲しく感じられた。

 それは、いつだって明るく、品行方正な日向佳乃の、本心の独白だった。

「でもね、気がついたの」

 僕は何も言わずに、ただ彼女の声に耳を傾けていた。

「この病気にも、きっと意味があるの。神様が私に与えた、この病気も私の一部なのよ」

 そんなの。
 そんなのって。
 あんまりじゃないか。

「だからね――」
「意味なんてないよ。意味なんてない」

 彼女の言葉を遮るように、堪らず本音が口をつく。

 日向さんはそれを意に介する様子はまるでなく、何でもないように笑った。

「染谷君は相変わらず現実主義者だ」
「意味なんてないよ。だって君が病気で死んでしまったら、二度と目覚めない。もう僕は君に会えない」

 もうこうして、僕と話すことも出来ない。
 世界は、彼女の笑顔を見ることはもう二度と叶わない。

 一体誰が得するって言うんだよ。
 こんな世界、明らかに間違ってるじゃないか。
 どこかで見てる、神様という存在がいるのなら、今すぐここに来て「間違いでした」と謝罪してほしい。

「みんな君を必要としてる。君みたいな人間が生きていくべきなんだ。僕なんてーー」
「染谷君」

 不意に手に触れる、温かい感触。

 それは、隣に寝転ぶ日向さんの小さい手だった。
 以前触れた時は冷たく感じられたその手は、世界の何よりも暖かかった。

 日向さんは嗜めるようにして、僕の手をそっと握る。

「染谷君は、世界に必要だよ」

 僕はずっと思っていた。

 きっと日向さんは、世界中のあらゆることが好きなんだと思う。
 出会った全ての人、関わった全てのこと、彼女の世界を構成するすべてが、好きで構成されている。
 彼女にとって世界は愛すべきものなんだ。

「だって……」

 僕は彼女を見ているのが辛かったんだ。

 だって、僕は世界のあらゆることが大嫌いなんだから。

 教室でもいつもクラスメイトに囲まれて、こんなにも楽しいことはないって笑顔で笑って。

 話すようになる前から、そんな僕とは真逆の日向さんが、僕は怖かったんだ。

「意味はあるんだよ。だって」

 日向さんはまるで、世界の全てを知っているみたいな微笑みで、僕に笑いかけた。

「だって、君に出会えた」

 ありがとう、と小さく呟く。

「染谷君と出会ってからね。目を覚ましたら君が側にいてくれる、そう思うと、眠るのが怖くなくなったの」

 小さく握られた日向さんの片手から、どくどくと血液の鼓動が伝わってくる。

 それは、確かに生命の躍動だった。
 彼女がこの世に存在している、なにより確かな存在証明だった。

「まるで私たちって白雪姫と王子さまみたいって」
「ーーそんな、大層なものじゃないよ。すくなくとも僕は王子様なんてのには不相応だ」
「そうかしら? 世の中に地味で平凡な王子様が一人くらいいたって良いと思うわ」

 日向さんはいつもみたいにイタズラっぽく笑った。

 僕はいつもみたいに無感情な表情を保とうとした。
 でも、無理だった。

 溢れてくる。
 抑えきれない感情が、思いが、涙になって溢れ出そうとする。
 必死に、目頭を押さえて、感情を押し殺す。

「確かに、僕は限りなく平凡な人間だけど、改めて指摘するのはやめてくれ」
「大丈夫、君は相当変わってるから。普通とは程遠いよ」
「君にだけは言われたくないな」

 そこまで会話を続けて、あまりのくだらなさに僕らは声をあげて笑った。

 少しの間、二人で笑い続ける。
 そして二人の笑いがゆっくりと治ると、また世界は静寂に包まれた。

「ーー私ね、昨日また夢を見たの。宇宙ロケットに乗って、君と宇宙に行くの。数えきれないくらいの星に囲まれた夢」
「それは……それはきっと正夢だよ。だから生きてよ」

 そう言いながら、僕の片手は震えていた。
 怖い、そう怖いのだ。
 彼女と繋がる唯一の手段である、この手を離さなければいけない瞬間が来るのが。

 もう、神様の気まぐれみたいな少しばかりの幸運を求めて、暗いトンネルを歩いて生きていくのは嫌なんだよ。

「僕は......何者でもないんだ。何もない。君にもっといろんなことを教えて欲しい」
「大丈夫よ、染谷君なら」

 こんな悲しい夜でさえ、彼女はまるで旧知の友人との久方ぶりの再会のように、明るく笑った。

「ーーだって、私を見つけてくれた。誰にも見つけられない星だった、私を」

 それが、彼女が僕に残した最後の言葉だった。

 ふう、と深く息を吐いて、目を閉じる。
 そのまま日向さんは眠ってしまった。

 すうすうと寝息を立てて、その小さな胸が呼吸に合わせて上下する。

 彼女の寝顔を眺めながら、僕はあることに気がついた。

「そんな……」

 日向さんの顔が、見える。
 文字通り、見えるのだ。

 あまりに自然で、ゆるやかに視界が晴れたので、自分ですら気がつくのに時間がかかった。

 相貌失認が、治っている。
 いや、これは治ったと言うべきなのだろうか。

 もう十年近く見えていなかった人間の顔が、今僕の目に映っている。

 目を閉じた日向さんの顔。
 緩やかで長い曲線を描いたまつ毛。
 スラリと筋の通った綺麗な鼻。
 リボンを結んだかのような薄くて整った唇。
 ーー綺麗な、寝顔だった。

 唐突に、子供の頃、お医者さんに言われた言葉をフラッシュバックする。

「精神的なショックである日突然、自然に治ったケースもあってーー」

 僕は込み上げてくる複雑な感情に、思わず叫び出しそうになった。

 顔が、見えるようになった。
 それは、日向さんからの、特別なギフトだった。

 僕は寝息を立てる眠り姫の横で、夜空を眺めながら、その小さな手を包むように握った。

 心には触れられないと聞いていたけど、確かに彼女の心はそこにあった。

 そう、すぐそこに、心があった。