「ーーお兄ちゃんこの前、笠原さんと歩いてたでしょ」
日向さんを一方的に責めて、二人の間に距離を作ってしまった、あの日。
その日以来初めて迎える週末、自宅のリビングで一人勉強をしていると、妹の梨沙が不意に声をかけてきた。
勉強といっても、正直まったく身は入っていなかった。
日向さんのことで頭がいっぱいで、勉強どころではない。
言い訳のように開きっぱなしの参考書は、いくら目で追っても解読不能の古文書のようで、その役目をまったく果たしていなかった。
僕はぼーっと意味もなく参考書に目を泳がせながら、気の抜けた調子で答えた。
「笠原さんって、誰のこと?」
「誰って……」
妹は「はあ?」と呆れたように口を開けた。
そんな苗字の人間と一緒に歩いた記憶なんてない。
笠原なんて奴、クラスにいただろうか?
誰と勘違いしているのかな。
「ーー笠原佳乃さんよ」
僕は思わず、手にしていたシャープペンシルをコロリと落とした。
妹の口から飛び出した名前に、耳を疑った。
頭の中で、ぐるぐると思考が巡る。
笠原佳乃が、なんだって?
込み上げてくる衝撃を必死に抑えながら、ごくりと生唾を飲み込む。
「佳乃……もしかして日向佳乃?」
「え、笠原さんじゃなかったっけ。でも、佳乃さんだよ」
当然のように、その名前を口にする妹。
あまりにも自然にその名前が出てきたので、僕は自分の感覚がおかしくなったのかと疑った。
「ーーなんで知ってるんだ?」
「なんでも何も……転校前に仲良くしてたじゃん。だいぶ前の話だけどさ」
妹の梨沙は、こともなげにあっけらかんと答えた。
僕はそのセリフに驚きを隠せなかった。
転校前の記憶。
思い出したくはなかった。
まだ両親が生きていた頃の、幸せな記憶。
まだ僕がまともだった頃の記憶。
「笠原……」
本当に、掛け値なしに本当に、久しぶりに思い出した。
今、この瞬間まで完全に忘れていたと言っても過言じゃない。
たしかに、小学校のとき、同じクラスに笠原佳乃という女子生徒がいた。
笑顔が特徴的な、元気な女の子だった。
そう、近所の仲良しグループの一人で、放課後になると同じ公園で遊んでたっけ。
おぼろげながら、そんな印象が思い出せる。
あくまで小学校低学年の頃の記憶だから、ハッキリと覚えているわけではないけど。
「懐かしいね〜。私もよくお兄ちゃんのお友達グループに混ぜてもらって遊んでたでしょ? そのときよく佳乃さんに面倒見てもらったなあ」
そうだ、たしかに妹の梨沙は小さい頃は人見知りで、僕の遊びによくついて来たことがあった。
妹は学年は一個下だけど、近所に住んでいる同じ学校の子供達で一緒によく遊んでいた。
「お兄ちゃんも仲良かったでしょ、佳乃さん」
「そう……だった気もする」
もう十年近く前のことだし、まだ幼かったから、ハッキリとした記憶があるわけじゃないけど、言われてみればその女の子のことが印象に残っている気もする。
笠原佳乃と日向佳乃。
苗字が違うけど、まさか同一人物なのだろうか。
「話しかけようと思ったけど、ちょうど別れ際みたいだったからタイミング逃しちゃった」
妹はそう言いながら、残念がるように眉を寄せた。
図書館で宇宙に行く方法について調べた日か、あるいはペットボトルロケットを打ち上げた日か、たしかに家の近くまで二人で帰り道を共にしたことがあった。
妹は別の高校に通っているから、家の近くで偶然二人でいる場面を目撃したのだろう。
「なんで、分かったの」
「うーん、雰囲気? 顔とか、わりと変わってないよ。昔から可愛かったし」
「僕は……分からなかった」
胸の内になんとも言えない感情がざわつく。
日向佳乃が、実は小学生のときクラスメイトだった。
たしかに、両親の事故死をきっかけに、僕と妹は隣の市に住む叔父さんの家に引き取られた。
隣の市なので、途方もないほど距離が離れているわけではないから、当時の知り合いとどこかでで会う可能性はゼロではない。
それこそ、日向さんが苗字が変わっているということは、なにか家庭の事情があって地元を離れたのかもしれない。
でも、たしか中庭のベンチで顔を合わせたとき「初めて話す」と彼女は言っていた。
日向さんも、僕がかつての同級生であったことに気がついていなかったのだろうか。
混乱する様子の僕を見て、妹は困ったようにため息を漏らした。
「お兄ちゃん、顔が分からないのはしょうがないけど、流石に喋ったら気付きなよ」
「いや、本当に気がつかなくて……そもそも小学生の頃だって正直覚えてないんだよな」
小学校低学年の頃の自分。
それは、両親が事故で亡くなるまでの、唯一友達と遊んだり、普通に過ごせていた頃の記憶。
あの頃の僕は、少なくとも今の僕よりは明るくて社交的だった。
人生のピークが小学校低学年なんて、なんとも言えない物悲しさがあるけど、こればかりは事実なんだから仕方がない。
思い出せないというより、思い出したくない過去なのかもしれない。
あの頃の、もうこの手には戻ってこない世界を、思い出しても辛くなるだけだから。
「気付いてないのに一緒に帰ってたの? 逆にどういう関係よ」
「クラスメイト……だけど」
日向さんは、僕の過去に気がついていたのだろうか。
小学生の頃、同じクラスで何回か遊んだ記憶があるくらいの関係。
妹が覚えていたのが不思議なくらいで、忘れていたって不自然ではない。
「話してみたら、小学生の頃の話。意外と盛り上がるかもよ」
「べつに……盛り上がりはしないでしょ」
僕は首を振って、妹の提案を否定する。
ここまでお互い気がつかず忘れていたくせに、今さら懐かしい思い出話に花を咲かせたり、久闊を叙するのも白々しく感じる。
それに、僕が小学校三年生で転校したことや、日向さんの苗字が変わっていたことは、センシティブな話題だ。
お互いに、触れられたくないデリケートな部分だってあるだろう。
なんでもかんでも曝け出すことが、正しいコミュニケーションのあり方とも思えない。
「ーーでも、話した方がいいと思う」
妹は改まったように、声のトーンを少し落とす。
ゆっくりと顔を上げると、神妙な面持ちで僕の顔を見つめていた。
「……梨沙」
吐き出したい想いを飲み込むようにして、ポツリと呟く。
にわかに、静かな雰囲気が二人を包む。
「お兄ちゃん、最近少し変わったと思うよ。明るくなった。病気でしょうがないことはもちろんあるけど、私は変わって欲しいって思ってる」
妹の言葉を聞きながら、目の前に広げられた参考書に目を落とす。
相変わらず、参考書に書かれた言葉は一文字だって頭には入ってこない。
「そろそろ、一歩踏み出してもいいんじゃないかな」
「それじゃ」と小さく微笑む。
妹はそんな言葉を残して、自分の部屋へ戻っていった。
リビングに一人残された僕は、妹とのやりとりを頭の中で反芻する。
本当に人間的によくできた妹だと思う。
一歳年下とは思えないな。
精神年齢でいえば、むしろ僕の方がよっぽど低いような気がする。
交通事故に遭ったとき、僕と妹もその車に同乗していた。
幸い、僕と違って妹は軽症で、特に後遺症もなかった。
しかし、幼くして両親を失ったという衝撃は、並大抵のものではなかっただろう。
妹という立場で、僕とは違う苦労や悲しみが沢山あったはずだ。
叔父さん夫婦の家庭に引き取られてから、本当に良くしてもらった。
小学生の子供二人を引き取るなんて、突然降って湧いたような状況に嫌な顔一つせず、我が子のように迎え入れてくれた。
こうして兄妹揃って高校に通えているのも、叔父さん夫婦の援助があってこそだ。
経済的にも不自由することはなく、現在進行形で、本当に感謝している。
ただ、そんな環境で、僕は妹に対して兄らしいことを一つもやってやれなかった気がする。
もっと模範となる立派な人間になりたかった。
心配されるどころか、叔父さん夫婦や妹にも「いてくれてよかった」と感謝されるような、そんな存在になりたかった。
それどころか、妹は僕のことをこうして、何かと気遣ってくれる。
両親が交通事故で突然いなくなって、後部座席に乗っていた僕と妹だけがこの世に残された。
「そう、だよな……」
あの日から止まっていた時計の針。
もう事故から十年近くが経ち、僕も十八歳になった。
自分の力で、自分の人生の扉を開く必要がある。
妹のおかげで、そう覚悟をすることができた。
僕が口にするのを遠ざけ、逃げ続けてきた事実。
そろそろ、自分の人生と向き合わないといけない時期なのかもしれない。
◆
物語はいつも、放課後に始まる。
放課後、僕は中庭のベンチに向かった。
帰りのホームルームが終わると、日向さんは荷物を片付けて、そそくさと教室を出て、どこかへ向かっていった。
僕はそれを、教室の後ろの席から眺めていた。
日向さんが教室を出る直前、鈴木さんが席を立ち上がって、日向さんに話しかけようとしているのが見えた。
しかし、日向さんは気がつく様子もなくさっさと教室を出てしまった。
置いていかれた鈴木さんは、所在なさげに立ち尽くしていた。
そんな場面を目の前で目撃すれば、鈴木さんの言っていた、日向さんの友達付き合いが悪くなったという話もにわかに信憑生が増す。
「……行くか」
ゆっくりと帰り支度を済ませて、僕も教室を出る。
向かう先は、中庭のベンチ。
目的の場所に足を運んだのは、何も確信があったわけじゃなかった。
普通に考えれば、授業が終わって教室を出たなら、もう帰ってしまったと考えるのが妥当だ。
日向さんがまだ帰っていないことを祈るしかなかった。
もし今日話せなければ、明日も残る。
明日もダメなら、明後日も。
それくらいの覚悟だった。
教室で、僕から彼女に話しかけることはできない。
クラスメイトが周りにいる状態では。
それこそ、鈴木さんのような友達連中から、本格的に反感を買ってしまう恐れがある。
大勢の目がある中でそんな揉め事になれば、亀裂は決定的になってしまう。
日向さんはきっと、こんな僕でも庇おうとしてくれる。
そんな状況でも友達として、みんなの折り合いがつくような方法を模索しようとしてくれる。
しかし、せっかくもう三年生の夏終わりだというのに、そんなしょうもないことでクラスメイトたちの関係性を悪くしてしまうのは、本意ではない。
「……ふう」
中庭のベンチに腰掛けて、あの日の出来事を思い出す。
ベンチで横たわる、眠り姫を見つけた瞬間。
そうだ、あの瞬間から。
僕は、彼女のことをーー
「ーー奇遇だね」
待ち始めて、二十分ほどが経った頃だろうか。
気がつくと目の前に、華奢な女子生徒が立っていた。
ガラスの風鈴を夏風が鳴らしたような、耳心地の良いソプラノボイス。
「……そうだね」
日向佳乃が、そこにいた。
彼女がそこにいるだけで、当たり前の風景が特別に見える魔法にかけられたみたいだった。
古ぼけた校舎の壁が、雑草の生える赤茶けたタイルの床が、まるで生きたアニメーションのようにキラキラと輝き始める。そんな気がした。
「奇遇って言葉、素敵だよね。奇跡の奇と、偶然の偶。決められた運命みたいなのものに、逆らってる感じが好き」
日向さんは爽やかな微笑みを湛えながら、僕の横にゆらりと座った。
ベンチに並んで、同じ景色を眺める。
もう、こうして隣り合って座るのも、だいぶ慣れてきた。
「ーー話したいことがあって、待ってたよ」
僕は日向さんと向かい合って、正直に思いを伝えた。
今日はありのままに、思ったことを伝えようと決めていた。
「そう、私も聞きたいことがあって、来たよ。職員室に寄ってたから、遅くなってごめんね」
僕は胸に込み上げる不安を押し殺しながら、覚悟を決めて口を開いた。
「君を避けてた。この間は酷いことを言って、ごめん」
頭を深く下げて、謝罪の意を示す。
そしてそのまま言葉を続ける。
「鈴木さんに言われて。僕と関わることが、君に迷惑をかけるんじゃないかって。でも、それは僕の勝手なエゴだった。ごめん」
「……やっぱりそうだったんだね」
日向さんは、納得したように笑った。
彼女は、鈴木さんの独断行動をある程度予期していたのかもしれない。
ーーもしかしたら、日向さん自身にも、友人たちと距離を置いている自覚があったのだろうか?
「うーん、優里も悪い子じゃないんだけどね」
優里、鈴木さんのことかな。
「良い子だと思うよ、彼女は」
きっと二人には今までも、親しいが故の衝突や悩みもあったのだろう。
人と深く関わらないで生きてきた僕には、想像するしかできない。
「それに、確認しておきたいことがあるんだ。僕らの話」
「私と……染谷君の?」
不思議そうな顔で首を傾ける日向さん。
そう。妹から背中を押されて、向き合おうと決意した過去の話。
「僕らは、小学生のときに同じクラスだった……違うかな」
「ーー思い出したんだね」
彼女は手品のタネを披露するマジシャンみたいに、にっこりと笑った。
まるで答え合わせをするのを、ずっと楽しみにしていたみたいだ。
「正確には、妹に言われて気がついたんだ」
「梨沙ちゃん! 懐かしいなー元気にしてる?」
「妹は元気すぎるくらいだよ」
そっか、良かったと日向さんは昔を思い出すように目を瞑った。
小学生のとき、友達グループで遊ぶときには妹も一緒に混ざっていたっけ。
よく覚えてくれているものだ。
「覚えてる? 小学二年生のときかな。ツチノコを探しに行くって男子たちが言い出して、染谷君たちと山に行ったよね」
「……懐かしいね」
「私や梨沙ちゃんは止めたのに、結局男子は迷子になって、警察沙汰になったっけ」
「思い出したくない失敗談だよ」
日向さんはやけに嬉しそうに思い出話を話した。
そんな子供の頃の失敗を聞かされるとは予想していなかった。
思わず気恥ずかしくなって、目線を泳がせる。
「あの頃は、染谷君もやんちゃだったね」
「誰しも若かりし頃はあるんだよ……」
「今も若いじゃん」
嬉しそうに笑う日向さん。
なんとか話題を変えようと頭を巡らせる。
「そ、そうだ、日向さんは僕のこと、いつ気づいてたの?」
「ーーうん、実はね。入学してすぐ気がついてたよ」
僕は思わず驚いて、口を開けた。
日向さんと同じクラスになったのは、高校三年生になってからだ。
クラスメイトですら関わりの薄い三年間を過ごしてきたというのに、そんな僕のことを一年生の頃から知っていたなんて。
「定期テストの順位表を見て、ビックリしたよ。名前だけで分かった。他のクラスまでわざわざ確認に行って、顔を見て確信したの。面影があったからね」
「そうかな……」
小学校三年生から高校三年生なんて、だいぶ容姿は変わっていそうだけど。
妹といい、日向さんといい、人の顔とか雰囲気を覚えるのが得意な人には分かるものなのだろうか。
「ずっと、覚えてたんだ。何回か遊んだことがあるくらいの関係だったと思うけど、それ以上に転校した理由がーーね」
小学校三年生で転校したあのとき。
忘れられない傷を、残した両親の死。
「話して、大丈夫?」
「うん」
日向さんは、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
僕のことを慮ってくれる彼女の優しさが、胸に沁みた。
「両親が事故で亡くなって、親戚に引き取られたんだ。妹と一緒に」
「そうだよね……人づてに聞いたよ」
日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
僕はそれを見て、胸がずきりと痛んだ。
「ーー実はね、私のお父さんね、私が中学生のとき病気で亡くなったの」
日向さんは深く息を吸ってそう言った。
思わず顔をあげて、彼女の顔を見る。
驚きの感情が頭の中に広がる。
「……そうだったんだ」
僕は言葉が見つからず、なんとか絞り出すようにして呟いた。
こんなにも明るく楽しそうな笑顔を振る舞える日向さんが、抱えている悲しみの部分。
中学生にして、父親の死。
その悲しみは、察して有り余る。
「病気……」
不意に、以前目にした、日向さんの大量の薬が頭をよぎった。
ポシェットいっぱいに詰められた色とりどりの錠剤やカプセル。
それはなんとも不吉な、カラフルカラー。
「苗字、変えなくてもよかったんだけど、前を向いて歩こうってお母さんが」
日向さんは、なるべく重たい雰囲気にならないように気を遣ってくれたのか、明るい調子で話した。
その軽妙さが、かえって物悲しさを冗長させるようにも感じた。
「お父さんが亡くなったときね、あの転校していった小学校の同級生も、きっと私と同じような気持ちだったのかなって、印象に残ってたんだ」
「……辛かったね」
僕はなんと返していいものか分からず、ただそんな言葉を返すことしかできなかった。
こんな場面で、気の利いた言葉や、悲しみを和らげられるようなセリフを返せたらと思うが、不器用な僕にはできない。
「辛い記憶を思い出させたら可哀想だと思って、あえて染谷君には昔の話はしなかったんだ。だから、このベンチで起こしにきてくれたときは驚いた!」
日向さんは大袈裟に目を丸くして、僕の顔を見た。
その芝居がかった仕草になんだか気恥ずかしくて、僕は目を泳がした。
「まるで私を起こしにきたーーいや、なんでもない」
日向さんは言葉の途中で口をつぐんで、誤魔化すように手を振った。
「……なにさ」
「へへー、内緒」
にっこりと頬を上げて、いたずらっぽく笑う日向さん。
なんだろう、何かを言いかけたように思ったけど。
「でも、ショックだったなー。私のこと覚えてなかったんだもん」
「それは……ごめん、苗字が変わっていたし」
「でも、妹の梨沙ちゃんは私の顔覚えてたんでしょー」
疑うようなジト目で、こちらに視線を投げかける日向さん。
思い切りこちらに投げかけてくるその視線が痛い。
「実は、まだ話さないといけないことがあるんだ」
「……なに?」
僕は姿勢を正して、改めて日向さんに向き合った。
日向さんも、僕の真剣さを汲み取ってくれたのか、真面目な面持ちで向き合う。
「僕のーー脳の話なんだ」
僕の目から見えている視界。
目の前に座っている、日向さんの顔。
目がぱっちりとしてモデルみたいだとか、唇が薄くて綺麗だとか、クラスメイトの女子が騒いでいるのを聞いたことがある。
美少女と表現して大袈裟でない、日向さんの容姿。
でも、僕は見たことがない。
本当に見たことがないのだ。
そう、顔に靄がかかったみたいに、僕には見ることができない。
「相貌失認っていう、病気なんだ。交通事故の後遺症で」
「そうぼう……しつにん?」
日向さんが、子供のようなたどたどしい口調で復唱する。
初耳だったようだ。
それはそうだ、あまり一般的な病名とは言い難い。
「脳の障害で、人の顔が認識できなくなる病気なんだ。だから、小学校三年生からずっと、人の顔が分からなくて」
「人の顔が……」
日向さんは相当驚いたようで、口をぽっかりと開けてこちらを見た。
そう、人の顔が分からない。
もちろん、覚えることもできない。
そもそも、識別ができないのだ。
例えば、顔写真を並べて、この中から家族が写っている写真を選べと言われたら、間違える人は誰もいないだろう。
でもそれが、手のひらの写真だったとする。
どの指紋が家族の指紋か当てろ、という問いだったらどうだろう。
正解できる人はおそらく、いないだろう。
話の例えとして正しいのか分からないけど、今の僕にとっては、人の顔が指紋や板の模様のように、識別が不可能なものに見えているのだ。
まるで靄がかかっているように、ぐにゃりと視界が曲がっているように、不思議なくらいに顔だけが理解できない。
「喜怒哀楽くらいは分かるんだけど、覚えたりはできないんだ」
相手がどんな目線でどちらを見ているとか、顔にどんな感情を表しているのかとか、それくらいは何となく理解できる。
でも、その程度だった。
「だから、ごめん、実は日向さんの顔も、鈴木さんの顔も、五十嵐先生の顔も、僕には分からないんだ」
普段は、声や背丈といった身体的な特徴、そして衣服や持ち物などでなんとか見分けている。
しかし、いちいち一人一人の特徴を記憶しておくことには限界があって、どうしても対人コミュニケーションが上手くいかないことが多かった。
たとえば、五十嵐先生は僕の症状を知ってくれている。
だから、ワイシャツの胸ポケットにいつもお決まりの特徴的なボールペンを挿してくれているのだ。
もし同じくらいの体格で、同じような格好をされると、ほぼ見分けがつかないと言っていい。
つまり、制服を着るのが当たり前の学校という場所では、特定の相手を識別してコミュニケーションを取る術が壊滅的になってしまう。
「ごめんね、初めて聞く病名で……それが、染谷君が一人で過ごそうとしてる理由なんだね」
「うん、どうしても……どうにもできなくて」
僕は諦めたように笑った。
何度か、この障害を克服しようと思ったときもあった。
顔が見えなくたって、コミュニケーションは取れる。
そう自分に言い聞かせて、学校や社会に溶け込もうとした。
でも、無理だった。
声や仕草を見てからでないと、相手を識別できない。
遠くから名前を呼んだり、写真から特定の相手を見つけることもできない。
ましてや、顔が分からない以上、クラスメイトの名前を間違えて呼んでしまうリスクだって常にある。
そんな人間が、溶け込めるわけもなかった。
僕は早々に諦めて、とにかく他人に迷惑をかけないことだけを考えて、日陰で生きることを決めた。
「もう、治らないの?」
日向さんは自分のことのように、悲しそうに呟いた。
「治療法はまだ分かってないらしくて……見つかるのいつになるか。ある日急に、自然に治ったなんて人もいるらしい。でもそれが明日なのか、十年後なのかも、分からない」
定期的に病院で検査をしてもらっているが、未だに症状は改善されていなかった。
そもそも症例の少ない病気だから、どうしても分からないことが多い。
脳の仕組みはまだ解明されていない部分が多い、とか。
「そっか……」
「でもね」
今日は病気のことはもちろん、どうしても伝えたい気持ちがあったのだ。
僕は改めて勇気を出して、口を開いた。
「僕は日向さんに出会えてよかった。嬉しかった。僕に手を差し伸べてくれて」
「染谷君……」
僕は万感の想いで、感謝の気持ちを口にした。
誰の顔も分からず、世界で一番孤独に過ごしていた僕に。
日向さんは当たり前のように、手を差し伸べてくれた。
それは、何者にも変え難い、救いだった。
「もし良かったら、これからも君の夢の正体を探す手伝いをさせて欲しい。正直、何をすれば良いのか未だに見当もつかないけどね」
「……ありがとう、染谷君」
日向さんはゆっくりと微笑んで、たしかに頷いた。
分からなくても、分かる。
きっとその顔は、とびきり可愛いに決まっている。
「まるで、告白だね」
「いや、あの……」
日向さんのからかうような口調に、しどろもどろになる。
改めて考えてみると、こんな一対一で向かい合った愛の告白みたいなシチュエーション、人生で初めてだ。
勢いでベラベラと話してしまったけど、改めて自分を顧みてみると、妙に恥ずかしくなってきた。
「ーーまあ、なんて言うか、日向さんがこのベンチで寝てたことに感謝しないとね」
恥ずかしさを紛らわそうと、思いついたテキトーなセリフを話す。
しかし僕はそう口にした瞬間、はっとした。
「あ、ごめん、無神経なこと言った。日向さんも居眠り病って病気なのに、大変だよね……」
罪悪感を感じて、すぐさま謝る。
つい調子に乗って言わなくても良いことまで喋ってしまった。
病気の当事者にしか分からない辛さや悩みがある。
日向さんに不快な思いをさせてしまったかとしれない。
日向さんは思い詰めたような表情で、目をぱちぱちさせた後、少し間を置いて口を開いた。
「あのね」
「うん?」
「あのね、実はーー」
そう、彼女が口にした瞬間だった。
それは、突然の出来事だった。
日向さんは、急にがくりと身をかがめて、胸を押さえた。
「え、日向さん?」
あまりに不意の出来事に、頭が混乱する。
考えている間も無く、日向さんは倒れ込むようにしてその場に崩れた。
「日向さん! 大丈夫⁈」
「染谷……くん」
声にならない声を絞り出して、日向さんはその場で意識を失った。
日向さんを一方的に責めて、二人の間に距離を作ってしまった、あの日。
その日以来初めて迎える週末、自宅のリビングで一人勉強をしていると、妹の梨沙が不意に声をかけてきた。
勉強といっても、正直まったく身は入っていなかった。
日向さんのことで頭がいっぱいで、勉強どころではない。
言い訳のように開きっぱなしの参考書は、いくら目で追っても解読不能の古文書のようで、その役目をまったく果たしていなかった。
僕はぼーっと意味もなく参考書に目を泳がせながら、気の抜けた調子で答えた。
「笠原さんって、誰のこと?」
「誰って……」
妹は「はあ?」と呆れたように口を開けた。
そんな苗字の人間と一緒に歩いた記憶なんてない。
笠原なんて奴、クラスにいただろうか?
誰と勘違いしているのかな。
「ーー笠原佳乃さんよ」
僕は思わず、手にしていたシャープペンシルをコロリと落とした。
妹の口から飛び出した名前に、耳を疑った。
頭の中で、ぐるぐると思考が巡る。
笠原佳乃が、なんだって?
込み上げてくる衝撃を必死に抑えながら、ごくりと生唾を飲み込む。
「佳乃……もしかして日向佳乃?」
「え、笠原さんじゃなかったっけ。でも、佳乃さんだよ」
当然のように、その名前を口にする妹。
あまりにも自然にその名前が出てきたので、僕は自分の感覚がおかしくなったのかと疑った。
「ーーなんで知ってるんだ?」
「なんでも何も……転校前に仲良くしてたじゃん。だいぶ前の話だけどさ」
妹の梨沙は、こともなげにあっけらかんと答えた。
僕はそのセリフに驚きを隠せなかった。
転校前の記憶。
思い出したくはなかった。
まだ両親が生きていた頃の、幸せな記憶。
まだ僕がまともだった頃の記憶。
「笠原……」
本当に、掛け値なしに本当に、久しぶりに思い出した。
今、この瞬間まで完全に忘れていたと言っても過言じゃない。
たしかに、小学校のとき、同じクラスに笠原佳乃という女子生徒がいた。
笑顔が特徴的な、元気な女の子だった。
そう、近所の仲良しグループの一人で、放課後になると同じ公園で遊んでたっけ。
おぼろげながら、そんな印象が思い出せる。
あくまで小学校低学年の頃の記憶だから、ハッキリと覚えているわけではないけど。
「懐かしいね〜。私もよくお兄ちゃんのお友達グループに混ぜてもらって遊んでたでしょ? そのときよく佳乃さんに面倒見てもらったなあ」
そうだ、たしかに妹の梨沙は小さい頃は人見知りで、僕の遊びによくついて来たことがあった。
妹は学年は一個下だけど、近所に住んでいる同じ学校の子供達で一緒によく遊んでいた。
「お兄ちゃんも仲良かったでしょ、佳乃さん」
「そう……だった気もする」
もう十年近く前のことだし、まだ幼かったから、ハッキリとした記憶があるわけじゃないけど、言われてみればその女の子のことが印象に残っている気もする。
笠原佳乃と日向佳乃。
苗字が違うけど、まさか同一人物なのだろうか。
「話しかけようと思ったけど、ちょうど別れ際みたいだったからタイミング逃しちゃった」
妹はそう言いながら、残念がるように眉を寄せた。
図書館で宇宙に行く方法について調べた日か、あるいはペットボトルロケットを打ち上げた日か、たしかに家の近くまで二人で帰り道を共にしたことがあった。
妹は別の高校に通っているから、家の近くで偶然二人でいる場面を目撃したのだろう。
「なんで、分かったの」
「うーん、雰囲気? 顔とか、わりと変わってないよ。昔から可愛かったし」
「僕は……分からなかった」
胸の内になんとも言えない感情がざわつく。
日向佳乃が、実は小学生のときクラスメイトだった。
たしかに、両親の事故死をきっかけに、僕と妹は隣の市に住む叔父さんの家に引き取られた。
隣の市なので、途方もないほど距離が離れているわけではないから、当時の知り合いとどこかでで会う可能性はゼロではない。
それこそ、日向さんが苗字が変わっているということは、なにか家庭の事情があって地元を離れたのかもしれない。
でも、たしか中庭のベンチで顔を合わせたとき「初めて話す」と彼女は言っていた。
日向さんも、僕がかつての同級生であったことに気がついていなかったのだろうか。
混乱する様子の僕を見て、妹は困ったようにため息を漏らした。
「お兄ちゃん、顔が分からないのはしょうがないけど、流石に喋ったら気付きなよ」
「いや、本当に気がつかなくて……そもそも小学生の頃だって正直覚えてないんだよな」
小学校低学年の頃の自分。
それは、両親が事故で亡くなるまでの、唯一友達と遊んだり、普通に過ごせていた頃の記憶。
あの頃の僕は、少なくとも今の僕よりは明るくて社交的だった。
人生のピークが小学校低学年なんて、なんとも言えない物悲しさがあるけど、こればかりは事実なんだから仕方がない。
思い出せないというより、思い出したくない過去なのかもしれない。
あの頃の、もうこの手には戻ってこない世界を、思い出しても辛くなるだけだから。
「気付いてないのに一緒に帰ってたの? 逆にどういう関係よ」
「クラスメイト……だけど」
日向さんは、僕の過去に気がついていたのだろうか。
小学生の頃、同じクラスで何回か遊んだ記憶があるくらいの関係。
妹が覚えていたのが不思議なくらいで、忘れていたって不自然ではない。
「話してみたら、小学生の頃の話。意外と盛り上がるかもよ」
「べつに……盛り上がりはしないでしょ」
僕は首を振って、妹の提案を否定する。
ここまでお互い気がつかず忘れていたくせに、今さら懐かしい思い出話に花を咲かせたり、久闊を叙するのも白々しく感じる。
それに、僕が小学校三年生で転校したことや、日向さんの苗字が変わっていたことは、センシティブな話題だ。
お互いに、触れられたくないデリケートな部分だってあるだろう。
なんでもかんでも曝け出すことが、正しいコミュニケーションのあり方とも思えない。
「ーーでも、話した方がいいと思う」
妹は改まったように、声のトーンを少し落とす。
ゆっくりと顔を上げると、神妙な面持ちで僕の顔を見つめていた。
「……梨沙」
吐き出したい想いを飲み込むようにして、ポツリと呟く。
にわかに、静かな雰囲気が二人を包む。
「お兄ちゃん、最近少し変わったと思うよ。明るくなった。病気でしょうがないことはもちろんあるけど、私は変わって欲しいって思ってる」
妹の言葉を聞きながら、目の前に広げられた参考書に目を落とす。
相変わらず、参考書に書かれた言葉は一文字だって頭には入ってこない。
「そろそろ、一歩踏み出してもいいんじゃないかな」
「それじゃ」と小さく微笑む。
妹はそんな言葉を残して、自分の部屋へ戻っていった。
リビングに一人残された僕は、妹とのやりとりを頭の中で反芻する。
本当に人間的によくできた妹だと思う。
一歳年下とは思えないな。
精神年齢でいえば、むしろ僕の方がよっぽど低いような気がする。
交通事故に遭ったとき、僕と妹もその車に同乗していた。
幸い、僕と違って妹は軽症で、特に後遺症もなかった。
しかし、幼くして両親を失ったという衝撃は、並大抵のものではなかっただろう。
妹という立場で、僕とは違う苦労や悲しみが沢山あったはずだ。
叔父さん夫婦の家庭に引き取られてから、本当に良くしてもらった。
小学生の子供二人を引き取るなんて、突然降って湧いたような状況に嫌な顔一つせず、我が子のように迎え入れてくれた。
こうして兄妹揃って高校に通えているのも、叔父さん夫婦の援助があってこそだ。
経済的にも不自由することはなく、現在進行形で、本当に感謝している。
ただ、そんな環境で、僕は妹に対して兄らしいことを一つもやってやれなかった気がする。
もっと模範となる立派な人間になりたかった。
心配されるどころか、叔父さん夫婦や妹にも「いてくれてよかった」と感謝されるような、そんな存在になりたかった。
それどころか、妹は僕のことをこうして、何かと気遣ってくれる。
両親が交通事故で突然いなくなって、後部座席に乗っていた僕と妹だけがこの世に残された。
「そう、だよな……」
あの日から止まっていた時計の針。
もう事故から十年近くが経ち、僕も十八歳になった。
自分の力で、自分の人生の扉を開く必要がある。
妹のおかげで、そう覚悟をすることができた。
僕が口にするのを遠ざけ、逃げ続けてきた事実。
そろそろ、自分の人生と向き合わないといけない時期なのかもしれない。
◆
物語はいつも、放課後に始まる。
放課後、僕は中庭のベンチに向かった。
帰りのホームルームが終わると、日向さんは荷物を片付けて、そそくさと教室を出て、どこかへ向かっていった。
僕はそれを、教室の後ろの席から眺めていた。
日向さんが教室を出る直前、鈴木さんが席を立ち上がって、日向さんに話しかけようとしているのが見えた。
しかし、日向さんは気がつく様子もなくさっさと教室を出てしまった。
置いていかれた鈴木さんは、所在なさげに立ち尽くしていた。
そんな場面を目の前で目撃すれば、鈴木さんの言っていた、日向さんの友達付き合いが悪くなったという話もにわかに信憑生が増す。
「……行くか」
ゆっくりと帰り支度を済ませて、僕も教室を出る。
向かう先は、中庭のベンチ。
目的の場所に足を運んだのは、何も確信があったわけじゃなかった。
普通に考えれば、授業が終わって教室を出たなら、もう帰ってしまったと考えるのが妥当だ。
日向さんがまだ帰っていないことを祈るしかなかった。
もし今日話せなければ、明日も残る。
明日もダメなら、明後日も。
それくらいの覚悟だった。
教室で、僕から彼女に話しかけることはできない。
クラスメイトが周りにいる状態では。
それこそ、鈴木さんのような友達連中から、本格的に反感を買ってしまう恐れがある。
大勢の目がある中でそんな揉め事になれば、亀裂は決定的になってしまう。
日向さんはきっと、こんな僕でも庇おうとしてくれる。
そんな状況でも友達として、みんなの折り合いがつくような方法を模索しようとしてくれる。
しかし、せっかくもう三年生の夏終わりだというのに、そんなしょうもないことでクラスメイトたちの関係性を悪くしてしまうのは、本意ではない。
「……ふう」
中庭のベンチに腰掛けて、あの日の出来事を思い出す。
ベンチで横たわる、眠り姫を見つけた瞬間。
そうだ、あの瞬間から。
僕は、彼女のことをーー
「ーー奇遇だね」
待ち始めて、二十分ほどが経った頃だろうか。
気がつくと目の前に、華奢な女子生徒が立っていた。
ガラスの風鈴を夏風が鳴らしたような、耳心地の良いソプラノボイス。
「……そうだね」
日向佳乃が、そこにいた。
彼女がそこにいるだけで、当たり前の風景が特別に見える魔法にかけられたみたいだった。
古ぼけた校舎の壁が、雑草の生える赤茶けたタイルの床が、まるで生きたアニメーションのようにキラキラと輝き始める。そんな気がした。
「奇遇って言葉、素敵だよね。奇跡の奇と、偶然の偶。決められた運命みたいなのものに、逆らってる感じが好き」
日向さんは爽やかな微笑みを湛えながら、僕の横にゆらりと座った。
ベンチに並んで、同じ景色を眺める。
もう、こうして隣り合って座るのも、だいぶ慣れてきた。
「ーー話したいことがあって、待ってたよ」
僕は日向さんと向かい合って、正直に思いを伝えた。
今日はありのままに、思ったことを伝えようと決めていた。
「そう、私も聞きたいことがあって、来たよ。職員室に寄ってたから、遅くなってごめんね」
僕は胸に込み上げる不安を押し殺しながら、覚悟を決めて口を開いた。
「君を避けてた。この間は酷いことを言って、ごめん」
頭を深く下げて、謝罪の意を示す。
そしてそのまま言葉を続ける。
「鈴木さんに言われて。僕と関わることが、君に迷惑をかけるんじゃないかって。でも、それは僕の勝手なエゴだった。ごめん」
「……やっぱりそうだったんだね」
日向さんは、納得したように笑った。
彼女は、鈴木さんの独断行動をある程度予期していたのかもしれない。
ーーもしかしたら、日向さん自身にも、友人たちと距離を置いている自覚があったのだろうか?
「うーん、優里も悪い子じゃないんだけどね」
優里、鈴木さんのことかな。
「良い子だと思うよ、彼女は」
きっと二人には今までも、親しいが故の衝突や悩みもあったのだろう。
人と深く関わらないで生きてきた僕には、想像するしかできない。
「それに、確認しておきたいことがあるんだ。僕らの話」
「私と……染谷君の?」
不思議そうな顔で首を傾ける日向さん。
そう。妹から背中を押されて、向き合おうと決意した過去の話。
「僕らは、小学生のときに同じクラスだった……違うかな」
「ーー思い出したんだね」
彼女は手品のタネを披露するマジシャンみたいに、にっこりと笑った。
まるで答え合わせをするのを、ずっと楽しみにしていたみたいだ。
「正確には、妹に言われて気がついたんだ」
「梨沙ちゃん! 懐かしいなー元気にしてる?」
「妹は元気すぎるくらいだよ」
そっか、良かったと日向さんは昔を思い出すように目を瞑った。
小学生のとき、友達グループで遊ぶときには妹も一緒に混ざっていたっけ。
よく覚えてくれているものだ。
「覚えてる? 小学二年生のときかな。ツチノコを探しに行くって男子たちが言い出して、染谷君たちと山に行ったよね」
「……懐かしいね」
「私や梨沙ちゃんは止めたのに、結局男子は迷子になって、警察沙汰になったっけ」
「思い出したくない失敗談だよ」
日向さんはやけに嬉しそうに思い出話を話した。
そんな子供の頃の失敗を聞かされるとは予想していなかった。
思わず気恥ずかしくなって、目線を泳がせる。
「あの頃は、染谷君もやんちゃだったね」
「誰しも若かりし頃はあるんだよ……」
「今も若いじゃん」
嬉しそうに笑う日向さん。
なんとか話題を変えようと頭を巡らせる。
「そ、そうだ、日向さんは僕のこと、いつ気づいてたの?」
「ーーうん、実はね。入学してすぐ気がついてたよ」
僕は思わず驚いて、口を開けた。
日向さんと同じクラスになったのは、高校三年生になってからだ。
クラスメイトですら関わりの薄い三年間を過ごしてきたというのに、そんな僕のことを一年生の頃から知っていたなんて。
「定期テストの順位表を見て、ビックリしたよ。名前だけで分かった。他のクラスまでわざわざ確認に行って、顔を見て確信したの。面影があったからね」
「そうかな……」
小学校三年生から高校三年生なんて、だいぶ容姿は変わっていそうだけど。
妹といい、日向さんといい、人の顔とか雰囲気を覚えるのが得意な人には分かるものなのだろうか。
「ずっと、覚えてたんだ。何回か遊んだことがあるくらいの関係だったと思うけど、それ以上に転校した理由がーーね」
小学校三年生で転校したあのとき。
忘れられない傷を、残した両親の死。
「話して、大丈夫?」
「うん」
日向さんは、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
僕のことを慮ってくれる彼女の優しさが、胸に沁みた。
「両親が事故で亡くなって、親戚に引き取られたんだ。妹と一緒に」
「そうだよね……人づてに聞いたよ」
日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
僕はそれを見て、胸がずきりと痛んだ。
「ーー実はね、私のお父さんね、私が中学生のとき病気で亡くなったの」
日向さんは深く息を吸ってそう言った。
思わず顔をあげて、彼女の顔を見る。
驚きの感情が頭の中に広がる。
「……そうだったんだ」
僕は言葉が見つからず、なんとか絞り出すようにして呟いた。
こんなにも明るく楽しそうな笑顔を振る舞える日向さんが、抱えている悲しみの部分。
中学生にして、父親の死。
その悲しみは、察して有り余る。
「病気……」
不意に、以前目にした、日向さんの大量の薬が頭をよぎった。
ポシェットいっぱいに詰められた色とりどりの錠剤やカプセル。
それはなんとも不吉な、カラフルカラー。
「苗字、変えなくてもよかったんだけど、前を向いて歩こうってお母さんが」
日向さんは、なるべく重たい雰囲気にならないように気を遣ってくれたのか、明るい調子で話した。
その軽妙さが、かえって物悲しさを冗長させるようにも感じた。
「お父さんが亡くなったときね、あの転校していった小学校の同級生も、きっと私と同じような気持ちだったのかなって、印象に残ってたんだ」
「……辛かったね」
僕はなんと返していいものか分からず、ただそんな言葉を返すことしかできなかった。
こんな場面で、気の利いた言葉や、悲しみを和らげられるようなセリフを返せたらと思うが、不器用な僕にはできない。
「辛い記憶を思い出させたら可哀想だと思って、あえて染谷君には昔の話はしなかったんだ。だから、このベンチで起こしにきてくれたときは驚いた!」
日向さんは大袈裟に目を丸くして、僕の顔を見た。
その芝居がかった仕草になんだか気恥ずかしくて、僕は目を泳がした。
「まるで私を起こしにきたーーいや、なんでもない」
日向さんは言葉の途中で口をつぐんで、誤魔化すように手を振った。
「……なにさ」
「へへー、内緒」
にっこりと頬を上げて、いたずらっぽく笑う日向さん。
なんだろう、何かを言いかけたように思ったけど。
「でも、ショックだったなー。私のこと覚えてなかったんだもん」
「それは……ごめん、苗字が変わっていたし」
「でも、妹の梨沙ちゃんは私の顔覚えてたんでしょー」
疑うようなジト目で、こちらに視線を投げかける日向さん。
思い切りこちらに投げかけてくるその視線が痛い。
「実は、まだ話さないといけないことがあるんだ」
「……なに?」
僕は姿勢を正して、改めて日向さんに向き合った。
日向さんも、僕の真剣さを汲み取ってくれたのか、真面目な面持ちで向き合う。
「僕のーー脳の話なんだ」
僕の目から見えている視界。
目の前に座っている、日向さんの顔。
目がぱっちりとしてモデルみたいだとか、唇が薄くて綺麗だとか、クラスメイトの女子が騒いでいるのを聞いたことがある。
美少女と表現して大袈裟でない、日向さんの容姿。
でも、僕は見たことがない。
本当に見たことがないのだ。
そう、顔に靄がかかったみたいに、僕には見ることができない。
「相貌失認っていう、病気なんだ。交通事故の後遺症で」
「そうぼう……しつにん?」
日向さんが、子供のようなたどたどしい口調で復唱する。
初耳だったようだ。
それはそうだ、あまり一般的な病名とは言い難い。
「脳の障害で、人の顔が認識できなくなる病気なんだ。だから、小学校三年生からずっと、人の顔が分からなくて」
「人の顔が……」
日向さんは相当驚いたようで、口をぽっかりと開けてこちらを見た。
そう、人の顔が分からない。
もちろん、覚えることもできない。
そもそも、識別ができないのだ。
例えば、顔写真を並べて、この中から家族が写っている写真を選べと言われたら、間違える人は誰もいないだろう。
でもそれが、手のひらの写真だったとする。
どの指紋が家族の指紋か当てろ、という問いだったらどうだろう。
正解できる人はおそらく、いないだろう。
話の例えとして正しいのか分からないけど、今の僕にとっては、人の顔が指紋や板の模様のように、識別が不可能なものに見えているのだ。
まるで靄がかかっているように、ぐにゃりと視界が曲がっているように、不思議なくらいに顔だけが理解できない。
「喜怒哀楽くらいは分かるんだけど、覚えたりはできないんだ」
相手がどんな目線でどちらを見ているとか、顔にどんな感情を表しているのかとか、それくらいは何となく理解できる。
でも、その程度だった。
「だから、ごめん、実は日向さんの顔も、鈴木さんの顔も、五十嵐先生の顔も、僕には分からないんだ」
普段は、声や背丈といった身体的な特徴、そして衣服や持ち物などでなんとか見分けている。
しかし、いちいち一人一人の特徴を記憶しておくことには限界があって、どうしても対人コミュニケーションが上手くいかないことが多かった。
たとえば、五十嵐先生は僕の症状を知ってくれている。
だから、ワイシャツの胸ポケットにいつもお決まりの特徴的なボールペンを挿してくれているのだ。
もし同じくらいの体格で、同じような格好をされると、ほぼ見分けがつかないと言っていい。
つまり、制服を着るのが当たり前の学校という場所では、特定の相手を識別してコミュニケーションを取る術が壊滅的になってしまう。
「ごめんね、初めて聞く病名で……それが、染谷君が一人で過ごそうとしてる理由なんだね」
「うん、どうしても……どうにもできなくて」
僕は諦めたように笑った。
何度か、この障害を克服しようと思ったときもあった。
顔が見えなくたって、コミュニケーションは取れる。
そう自分に言い聞かせて、学校や社会に溶け込もうとした。
でも、無理だった。
声や仕草を見てからでないと、相手を識別できない。
遠くから名前を呼んだり、写真から特定の相手を見つけることもできない。
ましてや、顔が分からない以上、クラスメイトの名前を間違えて呼んでしまうリスクだって常にある。
そんな人間が、溶け込めるわけもなかった。
僕は早々に諦めて、とにかく他人に迷惑をかけないことだけを考えて、日陰で生きることを決めた。
「もう、治らないの?」
日向さんは自分のことのように、悲しそうに呟いた。
「治療法はまだ分かってないらしくて……見つかるのいつになるか。ある日急に、自然に治ったなんて人もいるらしい。でもそれが明日なのか、十年後なのかも、分からない」
定期的に病院で検査をしてもらっているが、未だに症状は改善されていなかった。
そもそも症例の少ない病気だから、どうしても分からないことが多い。
脳の仕組みはまだ解明されていない部分が多い、とか。
「そっか……」
「でもね」
今日は病気のことはもちろん、どうしても伝えたい気持ちがあったのだ。
僕は改めて勇気を出して、口を開いた。
「僕は日向さんに出会えてよかった。嬉しかった。僕に手を差し伸べてくれて」
「染谷君……」
僕は万感の想いで、感謝の気持ちを口にした。
誰の顔も分からず、世界で一番孤独に過ごしていた僕に。
日向さんは当たり前のように、手を差し伸べてくれた。
それは、何者にも変え難い、救いだった。
「もし良かったら、これからも君の夢の正体を探す手伝いをさせて欲しい。正直、何をすれば良いのか未だに見当もつかないけどね」
「……ありがとう、染谷君」
日向さんはゆっくりと微笑んで、たしかに頷いた。
分からなくても、分かる。
きっとその顔は、とびきり可愛いに決まっている。
「まるで、告白だね」
「いや、あの……」
日向さんのからかうような口調に、しどろもどろになる。
改めて考えてみると、こんな一対一で向かい合った愛の告白みたいなシチュエーション、人生で初めてだ。
勢いでベラベラと話してしまったけど、改めて自分を顧みてみると、妙に恥ずかしくなってきた。
「ーーまあ、なんて言うか、日向さんがこのベンチで寝てたことに感謝しないとね」
恥ずかしさを紛らわそうと、思いついたテキトーなセリフを話す。
しかし僕はそう口にした瞬間、はっとした。
「あ、ごめん、無神経なこと言った。日向さんも居眠り病って病気なのに、大変だよね……」
罪悪感を感じて、すぐさま謝る。
つい調子に乗って言わなくても良いことまで喋ってしまった。
病気の当事者にしか分からない辛さや悩みがある。
日向さんに不快な思いをさせてしまったかとしれない。
日向さんは思い詰めたような表情で、目をぱちぱちさせた後、少し間を置いて口を開いた。
「あのね」
「うん?」
「あのね、実はーー」
そう、彼女が口にした瞬間だった。
それは、突然の出来事だった。
日向さんは、急にがくりと身をかがめて、胸を押さえた。
「え、日向さん?」
あまりに不意の出来事に、頭が混乱する。
考えている間も無く、日向さんは倒れ込むようにしてその場に崩れた。
「日向さん! 大丈夫⁈」
「染谷……くん」
声にならない声を絞り出して、日向さんはその場で意識を失った。