眠り姫は宇宙ロケットの夢を見る

 幼い頃の僕は、事あるごとに「なんで?」「なんで?」とよく聞く子供だった。

 母親が生きている頃は、ただ道を散歩するだけでも、「あの花はなんで良い香りがするの?」「あのセミはなんで鳴いているの?」と立ち
止まってあれこれ聞くので、母親をとても困らせていた。

 その度に母は「お父さんに似ているわ。将来は学者さんね」と笑って、僕の頭を撫でた。
 そうすると、僕の心は上手く言い表すことのできない心地の良い感情に包まれた。
 それはまるで綿のブラウケットに肌をこすりあわせるような心地よさだった。

 母の手の温かさが僕は大好きだった。

 正解が知りたかったわけじゃない。
 もしかしたら、ただ母の気を引きたくて、父親に似ているというそのセリフが聞きたくて、質問を繰り返していたのかもしれない。

 やがて両親が亡くなり、小さい妹と、今にも泣き出しそうな目をした僕だけが残った。

 あの日以来、僕は誰にも「なんで?」と聞かなくなった。

 だって、世界の正解なんて、もう何一つだって知りたくはないから。





「――暑い」

 こめかみから汗が雫となって流れ落ちる。

 もう9月も中旬だというのに、空から降り注ぐ日差しはまだ真夏のそれだ。
 今年は例年よりも残暑が厳しくなると、テレビのお天気キャスターが言っていた。

 僕が今何をしているかというと、ペットボトルロケットの材料を購入すべく、工具店に来ていた。

 ペットボトルロケット製作をしたいと言い出した当の本人はここにはいない。
 なにやら用事があるとか言って、買い出しは全て押し付けられた。
 もはや驚きの自由奔放さだ。

 高三にもなってペットボトルロケットを作ることになるなんて、思いもしなかった。
 これでも一介の受験生だというのに、もっとやるべきことがある気がする。

 この残暑が厳しい中、荷物を抱えて外を歩かないといけないのも難儀なことだ。
 そもそも、なぜ僕が彼女の要望を叶えてあげないといけないのかも、改めて考えると理由が分からない。
 買い出しの対価として、コンビニのアイスでも要求しようかな。

 そんなことを考えながら、学校からほど近い商店街を歩く。
 この商店街の通りにある工具店が、テープやらノズルやらの必要な材料を購入するには、一番近所だ。

 少し遠出すれば大きなショッピングセンターもあって、百均ショップなどのテナントも入っているので、そちらの方がなんでも揃うことは分かっていたが、単純にそこまで歩くのが面倒くさかった。

 商店街に並ぶ店舗は、ほとんどシャッターが下りていた。寂れた街だ。
 地方なんて、きっと何処もこんなものなのだろう。

 ふと、小学生の頃、転校する前の街並みを思い出す。

 たしか、前住んでいた家の近所にも、こんな商店街があった。
 しかし街の再開発で、僕が転校する頃には全て綺麗なビルや住宅に建て替えられた。

 新しく綺麗な街よりも、幼少期過ごした街の方が古くも温かみがあって好きだった気がする。
 もう戻ってこない思い出を、良いように美化しているだけなのだろうか。

 人気のない通りで二度と開かないシャッターを眺めていると、まるで文明が滅んだ後の地球に残されたかのような気分になった。

「......帰ろう」

 インターネットで調べた情報に従って、そそくさと買い物を終える。
 さっさと家に帰って、冷たい炭酸ジュースを喉へ流し込みたい。

 会計を済ませて、工具店から一歩出た瞬間に、道の先から喧しい騒ぎ声が聞こえて来た。

 それが同じ高校のクラスメイトの集団であることはすぐに分かった。
 聞こえてくる笑い声には、なんだか聞き馴染みがあったからだ。

 そうだ、よく日向さんを中心として、教室で賑やかに騒いでいる男女数名の集まりだ。
 きっと、放課後の寄り道でもしているのだろう。

 声はだんだん近づいてきた。
 このままでは、この狭い商店街の通りですれ違うことになるだろう。

 僕はべつに後ろめたいことがあるわけでもないのに、踵を返して工具店に戻り、集団から見えないように姿を隠した。

 クラスメイトたちは工具店の前を何事もなく通り過ぎて、商店街をそのまま歩いて行った。
 もしかしたらと思ったけど、声を聞く限りその中に日向さんはいないようだ。

 ただ、クラスメイト一行が通り過ぎる間、僕は息を潜めるようにして、ただ黙って立ち尽くしていた。

「......なんや兄ちゃん」

 しわがれた声に顔を上げると、工具店の店主のお爺さんが不審な目で僕を眺めていた。

「す、すみません」

 ペコリと頭を下げて、逃げるように店を飛び出す。
 クラスメイトの集団は、もう姿も声も消えていた。

 もう、早く家に帰ろう。
 足早に商店街を抜ける。

 僕は一人でいるのが好きだ。
 人と仲良くすることなんて、できない。

 学校で大して親しくもない友人と群れて、無理に騒いでいるようなタイプを、むしろ嫌っているくらいだ。

 でも、一人でいるのが好きだと厭世的な人間を気取りながらも、世間から「寂しいヤツだ」と思われるのに対して、人並みの抵抗感も持っている。
 そんな平凡な自分が、情けなく感じた。

 僕はいつだって認められなかったし、期待されなかったし、理解されなかった。
 でも、僕はいつだって認められたかったし、期待されたかったし、理解されたかった。

 そんな評価に値するような資格も、あるいは能力だってないくせに、そんな叶わない願いを抱く自分が、酷く不恰好で歪んだものに思えた。

 名状し難い、どうしようもない情けなさだけが、Tシャツについたカレーのシミのように残った。





「この部屋借りますねー!」

 理科準備室の扉を開けるなり、日向さんが元気よく声を上げた。

 空いていた椅子に堂々と座って、まるで我が家のようにくつろぎ始める。

「ちょっと、日向さん」

 僕は遠慮しながら、彼女をたしなめる。

「ーーまったく、自由な奴らだな」

 扉にもたれながら、担任の五十嵐先生が面倒くさそうにぼやいた。

「僕は巻き込まれてるだけですけど……」

 というのも、日向さんがわざわざ物理担当の五十嵐先生に頼み込んで、ペットボトルロケットを作る作業部屋として放課後の理科準備室を借りることになったのだ。

「ありがとー先生! ありがたく使わせてもらうね」

 両手を上げて、満面の笑顔で感謝の意を口にする日向さん。

「......まあいいや。機械と薬には触るなよ」

 担任の五十嵐先生は、眉を顰めて彼女を一瞥したが、諦めたようにうなだれた。
 彼女の突っ走りがちな人間性は、良く知っているようだ。

「はーい」

 日向さんはちゃんと聞いているのか分からない、気の抜けた返事をする。

 五十嵐先生はボサボサ頭を掻きながら、理科準備室を去っていった。
 普通、生徒の個人的な頼みのために教室を貸してあげたりなんてしないだろうに、五十嵐先生は案外優しい先生なのかもしれない。

「さ、作業しましょ! 時間は誰にも待ってくれないんだから」
「せめて君には待ってほしいけど......」

 僕は彼女の傍若無人な態度に呆れながら、差し出すように手に提げていた袋を長机の上に置いた。

「よし、ちゃんと揃ってるみたいね」

 日向さんは机に並べられた材料を漁りながら満足そうに頷いた。

「ーーねぇ、今更だけど、ペットボトルロケットが君の夢の正体に繋がるのかな?」
「それは分かりません!」

 いっそ清々しいくらいの堂々とした態度で答える日向さん。
 どこからその自信は湧いてくるのだろうかと、時々不思議な気持ちになる。

「でも、夢って潜在意識の表れでしょ? それも何回も同じ夢を見るってことは、私が無意識に強く考えていることが反映されてると思うの。だから、やりたいと思ったことをやれば、夢につながるヒントになると思う」

 僕はなんと言い返すこともできず、渋々その説明を受け入れる。
 なんだかそれっぽいことを説明してくれている気もするけど、いまいち得心がいかない。

「まあ、やるしかないか……」
「よーし」

 日向さんは急に僕にずいっと近づくと、僕の手を掴んだ。
 そして僕の手のひらの甲に、自分の手を重ね合わせる」

「あ、あのー」
「えい、えい、おー!」

 僕から何か言い出す暇もなく、日向さんは勝手に掛け声をかけて二人分の手のひらを点に突き上げた。

 何から何までエネルギッシュな日向さんに翻弄されながら、二人で理科準備室のテーブルについた。

 それから僕と彼女はスマートフォンで作り方を調べながら、ペットボトルロケットの製作に勤しんだ。

 彼女は意外と手先が不器用なようで、必要なところまでハサミで切ってしまったり、しょっちゅうミスをした。
 その度に「あー!」と大きな声を上げて、僕はぎょっと驚く羽目になった。

「難しいな......」
「日向さんって、こういう作業苦手なんだ」
「うーん昔からね、細かい作業は下手なの。染谷くんは得意そうね」
「それは、僕が地味で冴えないって意味かな」
「もーネガティブなんだから」

 日向さんは呆れたように笑った。

 相手の言葉をマイナスに取ってしまうの僕の癖だ。
 今更変えられない、悪い癖だ。

「また失敗したー......ま、これくらいだったらセーフかな」
「いや、アウトだよ」

 彼女が手にしているペットボトルは思いきり歪んでいる。これでは墜落必死だ。

「裁縫、得意なんじゃなかったっけ」
「裁縫より難しいんだよなー」

 日向さんは困ったように眉を寄せる。
 僕には針と糸を使った技術の方がよっぽど難しいように思えるけど。

 僕も慣れないなりにせっせと手を動かして、一時間ほど作業を続けた。
 仕上げを終えると、子供番組で見たことのあるようなペットボトルロケットが完成した。

「よっしゃー! 完成ね!」

 日向さんは戦国武将さながら、両手を挙げて高らかに勝鬨をあげる。

「……結局ほとんど僕が作ったけどね」

 彼女が切り貼りした部品は切り口がガタガタでほとんど使えなかったから、僕が作り直す羽目になった。
 誰にでも苦手なことというのはあるらしい。

「さっそく飛ばしてみよ!」

 そう言うやいなや、彼女はペットボトルロケット本体と空気入れを抱えて、理科準備室から外に飛び出して行った。
 その奔放な振る舞いはまるで、活発な育ち盛りの子供を見ているような気分になる。

 やれやれと呟きながら、ロケットの発射台と、空気入れに繋げる取りつけ口を持って、その背中についていく。
 中庭まで行き、水道のある場所までたどり着いた。

「ほら、そこの蛇口で水を入れて」
「はいはい」

 僕は彼女から本体を受け取って、外の花壇近くにある水道の蛇口から水を注いだ。

「はい、空気入れ」

 彼女は何処から用意してきたのか、自転車のタイヤに使う小さい空気入れを僕に渡した。

「これ職員室にある備品じゃないの。勝手に使って大丈夫?」
「大丈夫よ、私が保証する」

 頼りにならない保証だ。無駄に怒られるのはごめんだけど、この際仕方ない。
 僕は空気入れを繋げて、ピストン運動で空気を入れていく。

「おお」

 日向さんが膨れたペットボトルロケットを手で押さえて、設置台にセットする。

「おし、行くよー」

 そう合図をして、さらに空気を押し込む。
 このまま上手くいけば、勢い良くペットボトルロケットが発射されるはずだ。
 ちゃんと発射されるかどうか、ちょっとドキドキしてきた。

 すると、

「あっ」

 瞬間、前方へ噴出するはずのペットボトルロケットはしゅるしゅるとマヌケな音を発しながらふわっと浮いて、中に溜まった水を吐き出しながらすぐに落下した。
 べしゃりと悲しい音を立てて、地面に墜落するペットボトルロケット。

「あら、失敗か」

 僕と日向さんは慌ててロケットに駆け寄った。

 地面に落ちた衝撃で、見るも無残に分解してしまったペットボトル。
 接続部分の作りが甘く、空気が漏れてしまったらしい。
 真心込めて作成した作品がこんな形になってしまうのは、なんだか切ない。

「あれー。作り方がおかしかったのかなー」

 日向さんが首を傾げながら、崩れたペットボトルロケットを眺める。

「改良の余地があるね」

 インターネットで調べた情報を頼りに作ってみたけど、作りが十分じゃない部分があったのかもしれない。

 とりあえずあたりに散らばった部品を回収して、理科準備室へと二人並んですごすごと戻る。

 次は接続部分のパーツをもう少し丁寧に削る必要があるな。
 ロケットエンジニアさながら、一丁前にそんなことを考えながら、工具を手元に用意して、改めてスマートフォンで作り方を調べる。

「少し角度を調整してみよう」
「……私よりやる気になってない?」

 笑いを浮かべながら、日向さんが僕の顔を覗く。
 僕はどぎまぎしながら、言い訳をするように手元の作業を続けた。

 いざ作業をやり始めると、案外集中して取り組んでしまうものだ。
 発射に失敗して分解してしまったペットボトルロケットにも、妙な愛着が生まれて「お前の死は無駄にしないぞ……」という気分になる。

 そもそも、日向さんの夢の正体を探すのが目的だったはずだけど。

 何故、こんな夢中になってペットボトルロケットを飛ばそうとしているのだろう。
 我ながら、かなり迷走してる気がする。

「私にも手伝わせて!」

 予想より僕が前向きに取り組んでいるのが意外だったのか、負けじと前のめりに参加しようとする日向さん。

「それじゃ、この留め具を……」

 工具を片手に持ちながら、ペットボトルロケットの材料に手を伸ばそうとした、その時だった。

「あっ」

 急に手を伸ばしたせいで、彼女が椅子にかけていた鞄に勢いよくぶつけてしまった。

 半開きになっていた鞄の口から、小さいポシェットが滑り落ちる。
 ポシェットは、二人の目の前で大袈裟な音を立てて地面に落下した。

 しかも不運なことに、少しだけチャックが開いてしまっていたようだ。
 まるでピタゴラスイッチみたいに、ひっくり返った勢いで、理科準備室の床に中身が撒き散らされた。

「あ、ご、ごめん」
「あちゃー、やっちゃった」

 僕は屈んで、謝りながら慌てて中身を拾いあげようとする。
 そして同時に、驚愕に目を見開いた。

 小さなポシェットの中には、ぎゅうぎゅうにある物がたくさん詰まっていた。

 僕が手に取ったのは、飲み薬の束だった。
 それも見たこともないくらい山盛りで、様々な種類が重なっていた。

 色とりどりのカプセルやタブレットの数々。
 それはあまりに非日常的なアイテムだった。

「ーーだ、大丈夫?」

 思わず目を泳がせながら、呟くように問いかける。
 それは、持ち物が床に散らばってしまったことなのか、それともこんなに大量の薬を持ち歩いていることなのか、自分でも分からなかった。

 日向さんも屈んで、薬の束を一緒に拾い集める。

「見てしまったね」

 日向さんは、慌てるでも、怒るでもなく、妙に落ち着いた様子だった。

「いや、この量は......普通じゃないでしょ」

 僕は彼女の手に薬の束を渡しながら、思わず目を逸らして俯く。

 これは一体、どういうことなんだろう。
 何故、彼女がこんなにも大量の薬を持ち歩いているのか。

 まるで、遊園地の舞台裏でキャラクターが着ぐるみを脱いでいるのを目撃してしまったかのような、見てはいけないモノを見てしまった気持ちになった。

「んー......」

 彼女はゆっくりと思案するように、薄い唇をつむんだ。

「あ、ごめん、言いたくなかったらいいけど」

 しまった、そう思った。

 不思議な縁から、日向さんと関わる機会が出来たからって、浮かれてしまったところがあったかもしれない。

 十代の女の子が薬の束を持っているなんて、絶対に何かしらの事情があるに決まっている。
 こんな風に、気安く踏み込んでいい領分じゃない。

「まあ、教えちゃおうかな」

 一瞬の逡巡の後で、すうっと彼女は息を吸った。
 その仕草はまるで、空気から大切な成分を奪おうとしているみたいだった。

「――私ね、居眠り病なの」
「......居眠り病?」

 彼女の口から飛び出した予想外の言葉に、僕はマヌケな声を漏らした。

 聞き間違いじゃないよね。
 居眠り病、だって?
 初めて聞いた単語だった。

「ーーうん。病気が分かったのは今年に入ってからなんだけど。昼間でも意識がなくなるみたいに眠っちゃうの。だからこの前のベンチでも寝ちゃってたんだよね」

 そう口にする日向さんの表情に目をやる。
 その顔は、たしかに真剣な雰囲気が感じられた。

「そんな――病気があるの」

 初めて耳にする病名だった。
 こんなことを言っては失礼だけど、なんだかサボりの言い訳に使えそうな病気だ。

 深刻な顔をしていたから身構えたけれど、やっぱり僕をからかっているのだろうか。

「いつもは、薬で症状を抑えてるんだ」

 日向さんは「てへへ」と口にしながら、コツリと自分の額を叩いた。
 昭和の芸人みたいなリアクションだ。
 病気を告白している人にしては、いささか明るすぎる、気がする。

「あ、信じてないでしょ」

 そう言って、不満げに口をへの字にして、彼女は僕の顔を覗き込んだ。

 少し油断すれば、吐息がかかりそうな距離だ。
 日向さんはなにかと距離が近くて、反応に困るときがある。

「......信じるよ」

 僕が諦めたようにそう口にすると、彼女は何故か満足そうに頷いた。

 疑ったところで、そんな変な嘘を僕につく意味もないだろう。
 僕みたいな奴相手でも、信じてもらえたことは嬉しいらしい。

「これは秘密だよ」
「分かったよ。誰にも言わない」
「ーー二人だけの、秘密ね」

 彼女は人差し指を口元にあてて、いたずっらぽい笑みを浮かべた。
 先ほどまでの重たい雰囲気はどこかへ消えてしまったようだ。

 僕は不思議な罪悪感に、心がざわつくのを感じていた。

 秘密。
 僕はまるで悪事の共犯者にでもなってしまったようだ。

 そして思った。
 一体どれくらいの人が彼女が病気だということを知っているのだろう、と。
 僕と日向さんは、幾度かの失敗を重ねながら、まだペットボトルロケットの製作に勤しんでいた。

 もう放課後もだいぶ時間が経って、夕焼けが夜空に変わりかけていた。
 理科準備室の窓からも、空の色がグラデーションに変わっていく景色が見えた。

 部活や習い事とは無縁の学生生活を送ってきた僕からすると、こんな陽の落ちる時間まで校舎に残った経験はほとんどない。
 部活動の練習に汗を流している生徒たちも、そろそろ片付けて帰り始める時間だ。

「ーーお前ら、まだいたの」
「あ、五十嵐先生」

 顔を上げると、五十嵐先生が呆れた表情で僕らを見下ろしていた。

「もう帰ったと思って見にきたら、随分と熱心だな。授業も、それくらい熱心に受けてくれると有り難いが」
「私たちはわりと優等生じゃないですか〜」
「自分で言うな」

 日向さんが力なく笑う。
 元気がトレードマークの日向さんも、流石にそろそろ疲れてきたみたいだ。
 細かい作業が続いたせいか、僕も幾分かくたびれてきた。

「もう学校も閉める時間だ。そろそろ終われよ」
「はい、次でラストにします」

 何故こんな熱心に取り組んでいるのか、自分でもよく分からないけど、ここまで来たら完成させたい気持ちが強くなってきた。

 後日に持ち越すのも変な話だ。
 そんな夏休みの自由研究みたいに宿題にするのも嫌なので、ここで成功させて終わりにしたい。

「ーーあ、なんだろこれ」

 日向さんが不意に、呑気な声を上げる。

 僕と五十嵐先生が顔を向けると、彼女はいつのまにか何かの冊子を机の上に広げていた。
 どこから引っ張り出してきたのだろうか。

「何それ?」
「なんかそこの棚にあったから」

 日向さんは理科準備室の壁際に陳列されている棚を指さす。
 そこには授業で使われる実験器具などの他に、辞書や分厚い資料集などの書籍も並べられていた。
 でも、ほとんどの物品は埃を被って、まるで世界が終わった後に残されたオーパーツのようだった。

「どれどれ……」

 ペットボトルロケットの材料を片付けながら、僕も興味本位で冊子を覗き込んでみる。

 やや古ぼけて、埃の被った厚い冊子だった。
 それなりに丁寧に装丁されて、立派な見た目をしていた。
 冊子をめくると、その表紙には「西南高校野球部OB記念誌」とプリントアウトされていた。

 西南高校。もちろん、うちの学校名だ。

「ーーそれは俺のだ」

 五十嵐先生はしまったという顔をして、声を漏らした。

 普段のクールな態度からは意外なほど慌てた様子で、冊子に手を伸ばそうとする。
 すると、日向さんは冊子を抱き寄せて、奪われないように身を引いた。

「ちょっと見せてください! 興味があります」
「べつに見ても、なんにもならんぞ……」

 面倒くさそうにため息を吐く五十嵐先生。
 反対に、日向さんは疲れを忘れたみたいな顔で、目をキラキラさせながら冊子をめくり始めた。

「……うちの野球部の記念誌みたいなやつかな? なんで先生が?」

 僕が疑問を口にすると、五十嵐先生は気まずそうに口をへの字に曲げた。
 何か生徒に見られたら困るようなものでも写っているのだろうか。

「これ、五十嵐先生が写ってるんですか?」

 ずっとページをめくっていた日向さんが、嬉しそうにあるページを指さす。

 理科準備室の電灯にかざしながら覗き込むと、そこには少し年季の入った写真と、選手名簿が掲載されていた。
 写真には野球のユニフォームを身に纏った高校生たちが、整列している姿が収まっている。

「え、どれ?」
「ほら、これよこれ!」

 日向さんが嬉しそうに指をさす。
 まるでウォーリーを探せに夢中になる小学生みたいだ。

 言われるがままによく見ると、名簿に五十嵐先生の名前が記されており、写真にもその面影が残る坊主頭の高校生が写っているようだった。
 写真の日付は、今から十三年も前だ。

「え! 先生、野球部だったんですか?」
「――まあ、十年以上も昔の話だけどな」

 五十嵐先生は面倒くさそうな風で答えた。
 その様子からすると、あまり触れられたくない過去だったらしい。
 まあ、昔のアルバムの写真を他人に見られるのは、誰しも恥ずかしいものか。

「なんか、意外!」

 日向さんは写真と実物の五十嵐先生を見比べながら、感嘆の息を漏らした。
 かなり失礼だからやめた方が良い気がする。

「まあ、今じゃ演劇部の顧問だしな」

 意外だと言う点については、完全に同意だ。
 今では痩身で色白な容姿で、文化系なイメージがある五十嵐先生にも、そんな時期があったのか。
 というか、うちの高校のOBだったんだ。
 初めて知る事実だ。

「強かったんですか?」
「いや、弱かったよ」

 五十嵐先生はいつも以上に静かな声で、諦めたようにポツリと答えた。

「ポジションは?」
「……セカンドだった」
「思い出とかあるんですか?」

 まるで若手インタビュアーのように、矢継ぎ早に質問を繰り出す日向さん。
 担任教師の若き日の話に興味津々のようだ。

 いつもくたびれたような顔をした五十嵐先生の高校球児時代。
 たしかに僕も少し気になるけど。

「べつにねえよ」
「嘘だ、少しくらいあるでしょ」

 五十嵐先生は眉を寄せて、少しだけ考える素振りを見せた。
 そして深く息を吸い込んで、窓から覗く暗い空を眺める。

「......あれは三年生の夏だった」

 ゆっくりと、語って聞かせるようなトーンで先生は口を開いた。

「そうだな、地区大会の二回戦、六対五の二死満塁」

 夏の暑さには似合わない、低く響くような声色だった。
 僕と日向さんは突然のモノローグに、驚いて顔を見合わせる。

 五十嵐先生は授業の教科書でも読み上げるみたいに、淡々と言葉を紡いだ。

「俺はセカンドを守っていた。あと一つアウト取れば勝ちって場面。相手は打ち損じてフライを上げた。フライは俺の頭上に来た。その場にいた仲間全員が勝ちを確信した」

 五十嵐先生は、机の上に転がる空のペットボトルを手に取って、ポンポンと掌で叩いた。
 まるで、スタンドで試合を観戦する応援団のようだった。

「だが、俺はエラーした。信じられないようなミスだった。呆然としているうちに、俺のチームは負けていた。最後の夏はあっけなく終わった」

 五十嵐先生は吹き出すような短い笑い声を喉から鳴らした。

 担任教師の、意外な青春時代
 僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 日向さんの方を見ると、彼女は眉を寄せて、なんとも言えない切なそうな感情を浮かべていた。

「べつに甲子園がかかってたわけでもないし、プロ野球を目指してたわけでもない。なんて事のない、地方大会の二回戦だ。よくある話さ」

 五十嵐先生が言葉を切ると、重たい沈黙が流れる。

 誰もが抱えている、忘れられない過去。
 それが五十嵐先生にとっては高校の野球部時代だったのだな、とすぐに分かった。

「ーーでもな、今でも思うんだよ。もしあのとき、セカンドフライを取ってたらって」

 五十嵐先生は言葉を切って、遠い目で、窓から広がる夕闇に染まった景色を眺めた。

「セカンドフライ……か」

 物音ひとつしない、静かな校舎の中。
 窓を挟んだ遠く外の校庭から、運動部の声出しが聞こえてくる。
 まさに五十嵐先生の後輩に当たる野球部連中も、こんな遅くまで練習に精を出しているのかもしれない。

「先生......意外と感傷的なんだね」
「ほっとけ」

 なぜか嬉しそうに五十嵐先生を見つめる日向さん。

 照れくさいのを誤魔化すためか、五十嵐先生はその視線から逃れるように頭を掻いた。

 僕は部活で悔しい思いをしたこともない。
 劣等感なら毎日感じて生きてはいるけど、努力とか、挑戦とか、そういったことから逃げた生活をしている。

 だから五十嵐先生が抱えている心のわだかまりが、どういう類のものなのか、いまいち実感できなかった。
 でも、五十嵐先生にとっては忘れられない、心の傷みたいな思い出なんだろう。

 そんなことを考えていると、五十嵐先生がポツリと呟いた。

「お前ら見てると思い出すわ。高校生のガキだった頃」
「私はガキじゃないですよー」

 日向さんが唇を突き出して嘯く。
 私はとはなんだ。僕はガキなのか。

「――お前らの時間は今しかない」

 零すようにそうセリフを残した後、五十嵐先生は日向さんの手元から記念誌を取り上げた。

「あっ」
「ラストチャレンジするんだろ。さっさと終わらせろよ」

 僕は五十嵐先生の言葉の真意を測りかねて、日向さんに目をやった。
 彼女は納得したような、そうでもないような表情で、五十嵐先生を眺めていた。

「先生! 良かったら、見て行ってください」
「……まあ、いいけど」

 僕は思わず、立ち上がって五十嵐先生を引き止めた。
 自分でも、意外な行動だった。

 五十嵐先生は僕からそんな申し出をしたのが意外だったのか、物珍しいものを見る目で頷いた。

 理科準備室を片付けて、鞄と共に荷物を持つ。
 三人揃ってもうほとんど人気のない校舎を通って中庭に向かった。

 もう何度目かの挑戦だ。手慣れてきた手つきでペットボトルロケットをセッティングする。

「さあ、やるぞー!」
「あいよ」

 日向さんの威勢の良い掛け声に背中を押されながら、僕は空気入れを動かし始めた。

 ピストン運動が続くにつれて、膨張していくペットボトルロケット。
 段々と機体の中の気圧は増していき、いよいよ限界を迎えーー

「おお!」

 思わず大きな声で叫ぶ。
 ペットボトルロケットは、シュポンと気持ちの良い音を立てながら、勢い良く飛び上がった。

 ぴゅーん、そんな擬音が頭に浮かぶような見事な放物線を描いて、校舎の三階近くまでみるみる飛んでいく。

「すごい! 大成功だ!」

 日向さんが歓喜の声をあげる。
 僕と日向さん、ついでに五十嵐先生も加えて、首を傾けながらペットボトルロケットの行く末を見すえる。

 ペットボトルロケットは限界まで上昇した後、推進力を失ってゆっくりと落下を始めた。

 中身が空っぽになったペットボトルロケットが、空気の抵抗を受けながらゆらゆらと揺れて、僕らのちょうど足元あたりに落ちた。
 からんころん、とペットボトルロケットが地面に転がる。

「いやー、良い飛びっぷりだったね」
「……そうだね」

 日向さんが嬉しそうにペットボトルロケットを拾い上げて、僕に駆け寄る。
 苦労したプロセスがあったせいか、打ち上げに成功した瞬間、僕もにわかに興奮してしまった。
 比べられるわけもないけど、もしかしたら宇宙ロケットを作っている人たちも、きっとこんな気持ちなのかもしれない。

「まあ、悪くなかった」

 五十嵐先生も、満更でもない様子で頷いた。

「先生、ありがとうございました! 場所貸してくれて」
「僕からも、ありがとうございました」

 二人揃って、ぺこりと頭を下げる。
 べつに部活動でもないのに、いきなりペットボトルロケットを飛ばそうなんていう謎のお願いに場所を貸しくれただけでなく、こんな遅くまで付き合ってくれるなんて、五十嵐先生は相当優しい人だ。
 正直、見直した。

「これに懲りたら、ちゃんと勉強しろよ」
「……はい」

 二人で協力して、役目を終えたペットボトルロケットや打ち上げ台を回収し、帰り支度を済ませる。

「それじゃ、帰りますね」
「気をつけて帰れー」

 鞄を背負って、下駄箱の外に出る。
 もう外はすっかり真っ暗だった。早く帰って夕飯が食べたい。

「あ、理科準備室の鍵、返していけよ」

 五十嵐先生が思い出したように、下駄箱から声をかける。
 僕は慌ててポケットを探すが、持っていない。ということは、日向さんが手にしているはずだ。

 五十嵐先生のセリフを聞いた日向さんは、ニヤリと笑うと突然駆け出して、数メートル進んだ先で振り返った。

「先生! ほら、カッキーン」

 彼女は小気味好い効果音を叫びながら、手に持った理科準備室の鍵を天高く放り投げた。

 鍵は夕闇の中、蛍光灯の灯りを反射してキラキラ輝きながら、ゆるやかな放物線を描く。

 僕は蛍光灯の眩しさで鍵を見失わないように目を細めながら、その行く先を追いかけた。

 パシッ。

 先生は顔の前に手を伸ばし、鍵を空中でキャッチした。
 それはまるで、野球のフライのように。

「......ナイスキャッチ」

 僕は思わず呟いた。
 それは世界で一番鮮やかな、セカンドフライだった。

「ばーか、物を投げるな。そんで早く帰れ」

 先生は手にした鍵をしばらく眺めた後、その手に握り直して、怒るでもなく呆れたように笑った。

「それじゃあ、先生、ありがとね!」
「おう」

 日向さんは手をブンブンと振り回しながら、足早に駆けていく。
 五十嵐先生は早く行けとばかりに面倒くさそうに手を振った。
 僕はペコリと頭を下げてから、彼女の後を追う。

 日向さんの行動の意図は分からない。
 五十嵐先生がそれをどう受け止めたのかも、僕には想像がつかない。

 人の心なんて、分かるわけがないんだから。

 何も分からない僕は、夜空を背景に小さくなっていくその背中を、ただ追いかけた。
 日向佳乃と関わるようになってから、一週間が経った。

 あの不思議なベンチでの出会い。
 なんの縁か、今まで話したことすらないようなクラスの人気者と、一緒に過ごす時間が増えた。

 放課後の図書館で一緒に調べ物をしたり、夜遅くまでペットボトルロケットの打ち上げに挑戦したり。

 改めて考えてみると、僕と日向さんはどいう関係なのだろうか。
 人に説明してみろと言われても、説明できる気がしない。

 友達、なのだろうか。
 もうしばらくそう呼べる存在がいなかったから、いまいち実感が湧かない。
 喋るようになった日数は浅いし、日常的に休み時間に話したりする関係でもない。

 あくまで、彼女が僕のもとにやってくると始まる、その時間だけの交流。

 いつも、日向さんの方から僕のもとにやってきて、あーでもないこーでもないといろんな提案をふっかけてくる。
 僕から何か働きかけをしたわけじゃない。

 僕は偶然、ベンチで眠る彼女を見つけただけ。
 全てはそこから始まったのだ。

 だいたい、夢の正体を見つけてくれなんて、無理難題にも程がある。
 そんなの占い師か、心理学者でもない限り分かるわけがない。

 何故こんな、孤独で暗い僕のような人間に頼み込んできたのか。
 とにかく自分の思う好きな方向に、僕の手を引いて突っ走っていくのか。

「まったく……」

 僕は彼女の顔を想像しながら、小さく呟いた。

 そう。
 とんだ迷惑だと口にしながらも、内心満更でもない想いを抱えている自分に、気がついていた。

 今まで味わったことのない非日常。
 いや、あるいはみんなが当たり前に味わっている、友達との日常。

 そんな感覚が、いつしか日向さんとの間に芽生えていた。

 こんな、あまりに一方的で、あまりに行き当たりばったりな不思議な関係を、僕は楽しいと思っていたのだ。

 このままなんとなく、彼女の思いつきやわがままに付き合わされて。
 やれやれと面倒くさそうに呟きながら、その背中に着いていく。

 そんな関係が続いていけば良い。
 そんな日常が続いていけば良い。
 そう、思ってしまったのだ。





 放課後、下駄箱を降りて校舎を出たところで、誰かに肩を叩かれた。

 振り返ると、女子生徒が黙ってこちらを見て立っていた。
 襟元にある、灰色のリボンに青い流星の刺繍が目に入る。
 何度も見たトレードマーク。

「あ、日向さん」
「え? 私、鈴木だけど……」

 僕の見当違いなセリフに、目の前の女子生徒が驚きに目を見開いた。
 思わず口をついて出たセリフに、猛烈な後悔が襲ってきた。

「あ、えっと、その……」

 しどろもどろになりながら、なんとか言い訳の言葉を頭の中で探す。
 だけど、この場を逃れる最適なセリフは、なかなか浮かんでこなかった。

 やってしまった。
 僕が絶対にしてはいけないミスを、今してしまった。

「鈴木さん……」

 鈴木さん、そうだ、名前なら分かる。
 日向さんとよく一緒にいる、目立つクラスメイトたちの一人だ。

 こうして会話するのも、なんなら面と向かって顔を合わせるのも初めての相手。
 最悪の初対面だ。

 鈴木さんは、不審者を見るような目つきで、うろたえる僕の顔を睨んでいる。
 気まずい沈黙が、二人の間を漂流物のように流れる。

「その、リボン……」

 僕が灰色のリボンを指さす。

 我が校の女子生徒にはもれなく着用が義務付けられている、地味でパッとしないリボン。
 そこに、少しお洒落で垢抜けた、青い流星の刺繍が施されている。

「ああ、これ、佳乃に刺繍してもらったやつだけど……なんで知ってるの?」

 鈴木さんはイライラとした様子で、不満そうに首を傾けた。

「そんなことより、最近、佳乃と仲良いよね」
「仲良いというか、べつに」

 まるで囚人を詰問する尋問官のように、鈴木さんは強い口調で言い放つ。
 穏やかな様子でないことは、どんなに鈍い人間でも一目瞭然だ。

「でも、私を佳乃と間違えるなんて、どうかしてるんじゃないの? わけわかんない」

 どうかしてる。
 そうですか、どうかしてますか。
 僕はどうかしてる人間ですか。

 クラスメイトに向けているとは思えないほど、軽蔑を込めた視線で僕の顔を睨みつける。
 どういう了見でこんな喧嘩を売りにきたような態度をとっているのか分からないけど、僕は火に油を注いでしまっているようだ。

「それは……」

 言葉を探しているうちに、目の前が急にぐるぐると渦巻いて、気分が悪くなってきた。
 さざ波が押し寄せるように、頭がズキズキと痛み始める。
 呼吸が、異常をきたしたように荒くなっているのを自分で感じる。

「この前、佳乃と話してるの見たの。アンタみたいな名前も覚えてないような暗い奴が、なんで佳乃と一緒にいるわけ?」

 鈴木さんは一歩前に出て、僕へにじり寄る。
 その語気は強く、威圧的な態度であることを隠そうともせず、こちらへ睨みを効かせている。
 明らかな、敵意だ。

「佳乃、最近おかしいの。放課後すぐ帰っちゃうし、引退した陸上部の後輩の指導も来なくなったし」

 僕は何も言い出せず、俯いたまま鈴木さんの言葉を聞いていた。

 そんな話は、完全に初耳だ。
 日向さんの口から、彼女の友人関係や最近の様子について聞いたことはなかった。

「通ってた塾も辞めちゃったみたい。何も私たちに説明してくれない……なのに、なんで染谷、あんたとは一緒に楽しそうにしてるのよ」
「べつに……そんなんじゃないけど」

 言い訳にもならない言い訳を、なんとか捻り出すので精一杯だった。
 僕は日向さんのことについて、何も知らない。

 高校三年生になるまで、人と関わらないようにしていたから、他人からの無関心には慣れていた。
 でも、こうした真っ向からの敵意には、まったく対処の仕方を知らなかった。

「とにかく、もう佳乃に近づかないで。受験生で、大切な時期なのに……」
「……ごめん」

 念を押すようにして、鈴木さんは改めて僕の顔を鋭い双眸で睨んだ。

 謝ることしかできない。
 鈴木さんの認識の中では、僕が何か怪しいことを日向さんに吹き込んで、様子をおかしくさせているというシナリオが出来上がっているようだ。
 どんな返事も、彼女の気を逆撫ですることしかないだろう。

 僕が間違っていて、世界が正しい。
 ただそれだけは、ずっと前から不変の原理なんだから。

 僕はうろたえながら、日向さんについて頭を巡らせた。

 鈴木さんの口から聞いたことは、僕の知らないことばかりだった。
 鈴木さんの方が、きっとよっぽど日向さんについて詳しいはずだ。

 友人付き合いが悪くなったとか、部活に顔を出さなくなったとか、そんなこと日向さんとの関わりの中で話題にすらあがったことはない。

 そもそも、普段彼女が何をしているかなんて僕は知らない。
 日向さんはいつも、思いつきのようなセリフを吐いて、僕を困らせるばかりだ。

 塾をいきなり辞めたなんて、たしかにちょっと普通の話ではない。
 もしかしたら何か事情があるのかもしれないけど、少なくともたかが一週間程度の付き合いしかない僕が原因なんてことはないはずだ。

「そうだ……」

 嫌な予感が頭をよぎる。
 あの、居眠り病のことについては、もしかしたら鈴木さんも知らないのかもしれない。

 見たこともないような、薬の束。
 まだ、僕は彼女のことを何も知らないのだ。

 黙っている僕にうんざりしたのか、言いたいことを言えてスッキリしたのか、鈴木さんはふんと鼻を鳴らして、その場を去っていった。

 僕は一歩も動けず、ただ肌にまとわりつく不快な暑さの中で立ち尽くしていた。





 昼休み、中庭のベンチで一人でご飯を食べていると、目の前に女子生徒が現れた。

「また一人で食べてる、染谷君」
「……日向さん」

 顔を上げる。灰色のリボンに、青色の流星。
 今度こそ、日向さんだ。

 日向さんはくすっと笑って、僕の隣に腰掛けた。
 
「この前、体育の授業ですれ違ったよね。合図したのに、なんでシカトしたの」
「いや、べつに」
「出た、いや、べつに」

 日向さんは子供みたいにベーッと舌を出した。

「ーー僕みたいな地味な奴が君に話しかけたら、クラスで変な感じになるでしょ」
「なんでそんなに卑屈なの」

 僕は食べかけの惣菜パンを口に押し込んで、なんとか嚥下した。
 空になったプラスチックの袋をクシャクシャに丸めて、ポケットに詰める。

 そして、早々に会話を切り上げるつもりで、ベンチから立ち上がった。

「もう教室に戻るの? お昼休みはまだ時間あるし、お話ししようよ」
「いや、もう戻らないといけないし」
「……なんか怒ってる?」

 日向さんは眉を寄せて、少し悲しそうな顔をした。
 僕はその小動物のようなリアクションに胸がずきりと痛んだが、その痛みを押し殺すように俯く。

「……怒ってないけど」
「怒ってるよ」

 まるで子供同士の押し問答のようなやりとりだ。
 本当に、怒ってなんていない。

「なんかおかしいよ」
「べつにおかしくない……」

 僕はおかしくない。
 おかしくない、のかな。

 自分でも、自分のことが分からない。
 そんな僕が他人のことなんて、分かるわけがないじゃないか。

「もう、あまり関わるのは良くないと思う。僕と関わっていたら、きっと変な風に思われる」

 禍々しい毒を吐き出すように、僕はなんとか呟いた。
 胸のあたりに重々しい鉛があるかのように、苦しく塞がっている。

 ずっと俯いたまま、くたびれたシューゲイザーのように足先を見つめる。
 隣に腰掛けている彼女がどんな感情なのか、僕から見えない。

「……もしかして、誰かに何か言われた?」

 日向さんは覗き込むようにして、俯く僕に綺麗な顔を近づけた。
 夏の生暖かい風に乗って、ふんわりと花のようなフレイバーが鼻に届く。

 本当の理由なんて、言えるわけがない。
 鈴木さんに因縁をつけられたなんて話をすれば、友達想いで、優しい日向さんは、きっと傷ついてしまう。

 きっと、鈴木さんも良い子なんだ。
 クラスメイトたちといつも仲良く楽しそうにしている。
 そんなまともな人間が、悪い奴であるはずがない。
 そう、良い子。どこまでも良い子。

 鈴木さんは、友達のために本気で怒ったり、本気で悲しんだりできる人なんだろう。
 友達のためにわざわざ自分のエネルギーを使って、誰かに抗議することができる。
 敵に向かって戦うことができる。

 僕は、それができない。

 いきなり言いがかりをつけてきたのはどうかと思ったけど、友達が僕のような人間に関わっていて、それに様子がおかしいとなれば、怒って当然だ。

 僕が間違っていて、世界が正しい。
 何度も言わせるなよ。何度も、何度も。

「……僕が自分でそう思っただけだよ。べつに誰かのせいじゃない」
「やっぱり言われたんだ」

 顔を上げると、怒ったような表情で眉を寄せる日向さんの顔があった。
 どうにも目を合わせることができず、逃げるみたいに視線を泳がせる。

「とにかく、もうこういう話はやめよう。日向さんも、無理して話しかけなくて良いよ」
「……無理なんてしてない」

 不自然なほど静かで、落ち着いた口調。
 日向さんは怒っているのか、悲しんでいるのか、その口調から読み取ることはできなかった。

「楽しくなかった? 私と一緒にいるの」
「それは……」
「私は、楽しかったよ。無茶苦茶言っちゃう私に、染谷君はちゃんと向き合ってくれた。染谷君は優しいから」

 優しい? この僕が?
 僕は、優しくなんかない。
 優しい人間は、こんな風に相手を突き放そうとしたりなんかしない。

「夢の正体だって、まだ見つけてないんだよ」
「ーーどうだっていいんだよ、君の夢なんて」

 膨れ上がった感情が、怪物のようにのたうち回って、僕の胸の内をドンドンと叩く。
 思わず、乱暴な言葉が口から飛び出る。
 止めようと思っても、止められない。

「だいたい、わがままじゃないか。いきなりあれこれ頼み込んで、僕には関係ことじゃないか」

 日向さんの顔を見ることができない。
 僕は地面に生えた雑草を見つめながら、強く拳を握りしめた。

「どうせ、僕みたいな地味な奴が、君みたい人気者に話しかけられて、浮かれているのを見て笑ってたんだろ。寂しい奴に構ってあげて、聖人にでもなったつもりなの。余計なお世話なんだよ」
「……染谷君」

 僕は張り裂けそうな胸の痛みを感じながら、言葉を吐き出した。
 まるで針の筵に自らを突き落としたかのように、全身から血が吹き出す感覚に囚われる。

 本心ではなかった。
 僕は嘘つきだから。

 さようなら、楽しい時間。
 もう、行かなくちゃ。

 僕は己を奮い立たせるように再び拳を握りしめて、振り返ることもなくベンチを後にした。
 日向さんが結局どんな顔をしていたのか、確認することはしなかった。

 これでいい。
 これでいいんだと、何度も自分に言い聞かせながら。

 階段を登りながら、ぼーっとした頭を巡らせる。

 鈴木さんの、怒ったような口調。
 日向さんの、悲しむような表情。

 ほら、こうなる。
 人と深く関わるから、こうなるのだ。
 分かっていたことじゃないか。
 こうなることなんて。

 あの日から、全てが始まったのだ。
 終わりの、始まり。

 僕は、両親が事故で死んだ、あの日を思い出していた。





 小学校三年生のある日だった。
 今でもはっきりと覚えている。
 あの不気味なほど真っ白で、怖いぐらいに清潔な病室。

 目が覚めると、ズキズキと悲鳴をあげるように体の節々が痛んでいた。
 特に、頭がぼんやりとして、まるで靄がかかったみたいに上手く働かない。

 僕が目を開けたことに気がついた妹が、「やっとお兄ちゃんが目を覚ました」と、白いシーツにしがみついて泣いていた。
 僕は天井を見つめながら、痛いから身体を揺らさないで欲しいと、ぼんやり思った。

 その後、高齢のおじいちゃんみたいなお医者さんが来て、病室のベットの上に横たわる僕に、いろいろ説明してくれた。
 僕はぼんやりとした頭を必死に働かせて、なんとか理解しようとした。

 交通事故だった。
 僕と、一歳下の妹と、母と、父。
 四人家族を乗せた自動車は、対向車線をはみ出して突っ込んできたトラックと正面衝突をした。

 トラックは、飲酒運転だった。

 結局、どこの誰が犯人なのか、犯人はどんな顔をしていたのか、どんな反省の弁を述べたのか、僕と妹はあえて何も聞かなかった。
 僕らはただ、警察や弁護士たちが、親戚の人たちと話している姿を何度か見ただけだった。

 ただ、無慈悲なまでの現実が僕らの目の前を覆っていた。
 避ける間も無く、予感する間も無く、突如として不条理な運命が、平凡で幸せな家族を破壊した。

 両親が死んだ。
 残されたのは僕と、妹の二人きり。

 妹は軽症だったが、僕の場合は命があっただけでも奇跡だと、お医者さんは言った。
 でも、そんな奇跡もありがたがる気持ちにはなれないくらい、この事故は小学生になる僕ら兄妹には、あまりに残酷な話だった。

 優しかった父さん、母さん、もう会えないんだ。
 もう、二度と。
 僕と妹は絶望に打ちひしがれた。

 そして、事故がもたらしたのは、両親の死だけではなかった。

「悠介君、君はーー」

 お医者さんが僕に告げた、病名。
 聞き馴染みのない、難しい漢字の羅列。

 でも、そんな病名を聞くまでもなく、僕がおかしくなってしまったことに、僕自身気が付いていた。
 だって、文字通り、一目瞭然だったから。

「治療法が見つからない限り……完治は難しいでしょう」

 お医者さんの告げた言葉。
 小学三年生の僕には難しいことはよく分からないけど、なるほど、もう僕は誰とも深く関わることはできない、それだけは確かなようだった。

 それは世界で一番悲しいプロポーズだった。

 その日から世界は、すっかりと姿を変えてしまった。
「ーーお兄ちゃんこの前、笠原さんと歩いてたでしょ」

 日向さんを一方的に責めて、二人の間に距離を作ってしまった、あの日。
 その日以来初めて迎える週末、自宅のリビングで一人勉強をしていると、妹の梨沙が不意に声をかけてきた。

 勉強といっても、正直まったく身は入っていなかった。
 日向さんのことで頭がいっぱいで、勉強どころではない。
 言い訳のように開きっぱなしの参考書は、いくら目で追っても解読不能の古文書のようで、その役目をまったく果たしていなかった。

 僕はぼーっと意味もなく参考書に目を泳がせながら、気の抜けた調子で答えた。

「笠原さんって、誰のこと?」
「誰って……」

 妹は「はあ?」と呆れたように口を開けた。

 そんな苗字の人間と一緒に歩いた記憶なんてない。
 笠原なんて奴、クラスにいただろうか?
 誰と勘違いしているのかな。

「ーー笠原佳乃さんよ」

 僕は思わず、手にしていたシャープペンシルをコロリと落とした。

 妹の口から飛び出した名前に、耳を疑った。
 頭の中で、ぐるぐると思考が巡る。

 笠原佳乃が、なんだって?
 込み上げてくる衝撃を必死に抑えながら、ごくりと生唾を飲み込む。

「佳乃……もしかして日向佳乃?」
「え、笠原さんじゃなかったっけ。でも、佳乃さんだよ」

 当然のように、その名前を口にする妹。
 あまりにも自然にその名前が出てきたので、僕は自分の感覚がおかしくなったのかと疑った。

「ーーなんで知ってるんだ?」
「なんでも何も……転校前に仲良くしてたじゃん。だいぶ前の話だけどさ」

 妹の梨沙は、こともなげにあっけらかんと答えた。
 僕はそのセリフに驚きを隠せなかった。

 転校前の記憶。
 思い出したくはなかった。
 まだ両親が生きていた頃の、幸せな記憶。
 まだ僕がまともだった頃の記憶。

「笠原……」

 本当に、掛け値なしに本当に、久しぶりに思い出した。
 今、この瞬間まで完全に忘れていたと言っても過言じゃない。

 たしかに、小学校のとき、同じクラスに笠原佳乃という女子生徒がいた。

 笑顔が特徴的な、元気な女の子だった。
 そう、近所の仲良しグループの一人で、放課後になると同じ公園で遊んでたっけ。

 おぼろげながら、そんな印象が思い出せる。
 あくまで小学校低学年の頃の記憶だから、ハッキリと覚えているわけではないけど。

「懐かしいね〜。私もよくお兄ちゃんのお友達グループに混ぜてもらって遊んでたでしょ? そのときよく佳乃さんに面倒見てもらったなあ」

 そうだ、たしかに妹の梨沙は小さい頃は人見知りで、僕の遊びによくついて来たことがあった。
 妹は学年は一個下だけど、近所に住んでいる同じ学校の子供達で一緒によく遊んでいた。

「お兄ちゃんも仲良かったでしょ、佳乃さん」
「そう……だった気もする」

 もう十年近く前のことだし、まだ幼かったから、ハッキリとした記憶があるわけじゃないけど、言われてみればその女の子のことが印象に残っている気もする。

 笠原佳乃と日向佳乃。
 苗字が違うけど、まさか同一人物なのだろうか。

「話しかけようと思ったけど、ちょうど別れ際みたいだったからタイミング逃しちゃった」

 妹はそう言いながら、残念がるように眉を寄せた。

 図書館で宇宙に行く方法について調べた日か、あるいはペットボトルロケットを打ち上げた日か、たしかに家の近くまで二人で帰り道を共にしたことがあった。

 妹は別の高校に通っているから、家の近くで偶然二人でいる場面を目撃したのだろう。

「なんで、分かったの」
「うーん、雰囲気? 顔とか、わりと変わってないよ。昔から可愛かったし」
「僕は……分からなかった」

 胸の内になんとも言えない感情がざわつく。
 日向佳乃が、実は小学生のときクラスメイトだった。

 たしかに、両親の事故死をきっかけに、僕と妹は隣の市に住む叔父さんの家に引き取られた。
 隣の市なので、途方もないほど距離が離れているわけではないから、当時の知り合いとどこかでで会う可能性はゼロではない。

 それこそ、日向さんが苗字が変わっているということは、なにか家庭の事情があって地元を離れたのかもしれない。

 でも、たしか中庭のベンチで顔を合わせたとき「初めて話す」と彼女は言っていた。
 日向さんも、僕がかつての同級生であったことに気がついていなかったのだろうか。

 混乱する様子の僕を見て、妹は困ったようにため息を漏らした。

「お兄ちゃん、顔が分からないのはしょうがないけど、流石に喋ったら気付きなよ」
「いや、本当に気がつかなくて……そもそも小学生の頃だって正直覚えてないんだよな」

 小学校低学年の頃の自分。
 それは、両親が事故で亡くなるまでの、唯一友達と遊んだり、普通に過ごせていた頃の記憶。

 あの頃の僕は、少なくとも今の僕よりは明るくて社交的だった。
 人生のピークが小学校低学年なんて、なんとも言えない物悲しさがあるけど、こればかりは事実なんだから仕方がない。

 思い出せないというより、思い出したくない過去なのかもしれない。
 あの頃の、もうこの手には戻ってこない世界を、思い出しても辛くなるだけだから。

「気付いてないのに一緒に帰ってたの? 逆にどういう関係よ」
「クラスメイト……だけど」

 日向さんは、僕の過去に気がついていたのだろうか。

 小学生の頃、同じクラスで何回か遊んだ記憶があるくらいの関係。
 妹が覚えていたのが不思議なくらいで、忘れていたって不自然ではない。

「話してみたら、小学生の頃の話。意外と盛り上がるかもよ」
「べつに……盛り上がりはしないでしょ」

 僕は首を振って、妹の提案を否定する。

 ここまでお互い気がつかず忘れていたくせに、今さら懐かしい思い出話に花を咲かせたり、久闊を叙するのも白々しく感じる。

 それに、僕が小学校三年生で転校したことや、日向さんの苗字が変わっていたことは、センシティブな話題だ。

 お互いに、触れられたくないデリケートな部分だってあるだろう。
 なんでもかんでも曝け出すことが、正しいコミュニケーションのあり方とも思えない。

「ーーでも、話した方がいいと思う」

 妹は改まったように、声のトーンを少し落とす。
 ゆっくりと顔を上げると、神妙な面持ちで僕の顔を見つめていた。

「……梨沙」

 吐き出したい想いを飲み込むようにして、ポツリと呟く。
 にわかに、静かな雰囲気が二人を包む。

「お兄ちゃん、最近少し変わったと思うよ。明るくなった。病気でしょうがないことはもちろんあるけど、私は変わって欲しいって思ってる」

 妹の言葉を聞きながら、目の前に広げられた参考書に目を落とす。
 相変わらず、参考書に書かれた言葉は一文字だって頭には入ってこない。

「そろそろ、一歩踏み出してもいいんじゃないかな」

「それじゃ」と小さく微笑む。
 妹はそんな言葉を残して、自分の部屋へ戻っていった。

 リビングに一人残された僕は、妹とのやりとりを頭の中で反芻する。

 本当に人間的によくできた妹だと思う。
 一歳年下とは思えないな。

 精神年齢でいえば、むしろ僕の方がよっぽど低いような気がする。

 交通事故に遭ったとき、僕と妹もその車に同乗していた。
 幸い、僕と違って妹は軽症で、特に後遺症もなかった。

 しかし、幼くして両親を失ったという衝撃は、並大抵のものではなかっただろう。
 妹という立場で、僕とは違う苦労や悲しみが沢山あったはずだ。

 叔父さん夫婦の家庭に引き取られてから、本当に良くしてもらった。
 小学生の子供二人を引き取るなんて、突然降って湧いたような状況に嫌な顔一つせず、我が子のように迎え入れてくれた。

 こうして兄妹揃って高校に通えているのも、叔父さん夫婦の援助があってこそだ。
 経済的にも不自由することはなく、現在進行形で、本当に感謝している。

 ただ、そんな環境で、僕は妹に対して兄らしいことを一つもやってやれなかった気がする。

 もっと模範となる立派な人間になりたかった。
 心配されるどころか、叔父さん夫婦や妹にも「いてくれてよかった」と感謝されるような、そんな存在になりたかった。

 それどころか、妹は僕のことをこうして、何かと気遣ってくれる。

 両親が交通事故で突然いなくなって、後部座席に乗っていた僕と妹だけがこの世に残された。

「そう、だよな……」

 あの日から止まっていた時計の針。
 もう事故から十年近くが経ち、僕も十八歳になった。

 自分の力で、自分の人生の扉を開く必要がある。
 妹のおかげで、そう覚悟をすることができた。

 僕が口にするのを遠ざけ、逃げ続けてきた事実。
 そろそろ、自分の人生と向き合わないといけない時期なのかもしれない。





 物語はいつも、放課後に始まる。
 放課後、僕は中庭のベンチに向かった。

 帰りのホームルームが終わると、日向さんは荷物を片付けて、そそくさと教室を出て、どこかへ向かっていった。

 僕はそれを、教室の後ろの席から眺めていた。

 日向さんが教室を出る直前、鈴木さんが席を立ち上がって、日向さんに話しかけようとしているのが見えた。

 しかし、日向さんは気がつく様子もなくさっさと教室を出てしまった。
 置いていかれた鈴木さんは、所在なさげに立ち尽くしていた。

 そんな場面を目の前で目撃すれば、鈴木さんの言っていた、日向さんの友達付き合いが悪くなったという話もにわかに信憑生が増す。

「……行くか」

 ゆっくりと帰り支度を済ませて、僕も教室を出る。
 向かう先は、中庭のベンチ。

 目的の場所に足を運んだのは、何も確信があったわけじゃなかった。
 普通に考えれば、授業が終わって教室を出たなら、もう帰ってしまったと考えるのが妥当だ。

 日向さんがまだ帰っていないことを祈るしかなかった。
 もし今日話せなければ、明日も残る。
 明日もダメなら、明後日も。
 それくらいの覚悟だった。

 教室で、僕から彼女に話しかけることはできない。
 クラスメイトが周りにいる状態では。

 それこそ、鈴木さんのような友達連中から、本格的に反感を買ってしまう恐れがある。
 大勢の目がある中でそんな揉め事になれば、亀裂は決定的になってしまう。

 日向さんはきっと、こんな僕でも庇おうとしてくれる。
 そんな状況でも友達として、みんなの折り合いがつくような方法を模索しようとしてくれる。

 しかし、せっかくもう三年生の夏終わりだというのに、そんなしょうもないことでクラスメイトたちの関係性を悪くしてしまうのは、本意ではない。

「……ふう」

 中庭のベンチに腰掛けて、あの日の出来事を思い出す。
 ベンチで横たわる、眠り姫を見つけた瞬間。

 そうだ、あの瞬間から。
 僕は、彼女のことをーー

「ーー奇遇だね」

 待ち始めて、二十分ほどが経った頃だろうか。
 気がつくと目の前に、華奢な女子生徒が立っていた。

 ガラスの風鈴を夏風が鳴らしたような、耳心地の良いソプラノボイス。

「……そうだね」

 日向佳乃が、そこにいた。

 彼女がそこにいるだけで、当たり前の風景が特別に見える魔法にかけられたみたいだった。
 古ぼけた校舎の壁が、雑草の生える赤茶けたタイルの床が、まるで生きたアニメーションのようにキラキラと輝き始める。そんな気がした。

「奇遇って言葉、素敵だよね。奇跡の奇と、偶然の偶。決められた運命みたいなのものに、逆らってる感じが好き」

 日向さんは爽やかな微笑みを湛えながら、僕の横にゆらりと座った。

 ベンチに並んで、同じ景色を眺める。
 もう、こうして隣り合って座るのも、だいぶ慣れてきた。

「ーー話したいことがあって、待ってたよ」

 僕は日向さんと向かい合って、正直に思いを伝えた。
 今日はありのままに、思ったことを伝えようと決めていた。

「そう、私も聞きたいことがあって、来たよ。職員室に寄ってたから、遅くなってごめんね」

 僕は胸に込み上げる不安を押し殺しながら、覚悟を決めて口を開いた。

「君を避けてた。この間は酷いことを言って、ごめん」

 頭を深く下げて、謝罪の意を示す。
 そしてそのまま言葉を続ける。

「鈴木さんに言われて。僕と関わることが、君に迷惑をかけるんじゃないかって。でも、それは僕の勝手なエゴだった。ごめん」
「……やっぱりそうだったんだね」

 日向さんは、納得したように笑った。
 彼女は、鈴木さんの独断行動をある程度予期していたのかもしれない。

 ーーもしかしたら、日向さん自身にも、友人たちと距離を置いている自覚があったのだろうか?

「うーん、優里も悪い子じゃないんだけどね」

 優里、鈴木さんのことかな。

「良い子だと思うよ、彼女は」

 きっと二人には今までも、親しいが故の衝突や悩みもあったのだろう。
 人と深く関わらないで生きてきた僕には、想像するしかできない。

「それに、確認しておきたいことがあるんだ。僕らの話」
「私と……染谷君の?」

 不思議そうな顔で首を傾ける日向さん。

 そう。妹から背中を押されて、向き合おうと決意した過去の話。

「僕らは、小学生のときに同じクラスだった……違うかな」
「ーー思い出したんだね」

 彼女は手品のタネを披露するマジシャンみたいに、にっこりと笑った。
 まるで答え合わせをするのを、ずっと楽しみにしていたみたいだ。

「正確には、妹に言われて気がついたんだ」
「梨沙ちゃん! 懐かしいなー元気にしてる?」
「妹は元気すぎるくらいだよ」

 そっか、良かったと日向さんは昔を思い出すように目を瞑った。
 小学生のとき、友達グループで遊ぶときには妹も一緒に混ざっていたっけ。
 よく覚えてくれているものだ。

「覚えてる? 小学二年生のときかな。ツチノコを探しに行くって男子たちが言い出して、染谷君たちと山に行ったよね」
「……懐かしいね」
「私や梨沙ちゃんは止めたのに、結局男子は迷子になって、警察沙汰になったっけ」
「思い出したくない失敗談だよ」

 日向さんはやけに嬉しそうに思い出話を話した。
 そんな子供の頃の失敗を聞かされるとは予想していなかった。
 思わず気恥ずかしくなって、目線を泳がせる。

「あの頃は、染谷君もやんちゃだったね」
「誰しも若かりし頃はあるんだよ……」
「今も若いじゃん」

 嬉しそうに笑う日向さん。
 なんとか話題を変えようと頭を巡らせる。

「そ、そうだ、日向さんは僕のこと、いつ気づいてたの?」
「ーーうん、実はね。入学してすぐ気がついてたよ」

 僕は思わず驚いて、口を開けた。

 日向さんと同じクラスになったのは、高校三年生になってからだ。
 クラスメイトですら関わりの薄い三年間を過ごしてきたというのに、そんな僕のことを一年生の頃から知っていたなんて。

「定期テストの順位表を見て、ビックリしたよ。名前だけで分かった。他のクラスまでわざわざ確認に行って、顔を見て確信したの。面影があったからね」
「そうかな……」

 小学校三年生から高校三年生なんて、だいぶ容姿は変わっていそうだけど。
 妹といい、日向さんといい、人の顔とか雰囲気を覚えるのが得意な人には分かるものなのだろうか。

「ずっと、覚えてたんだ。何回か遊んだことがあるくらいの関係だったと思うけど、それ以上に転校した理由がーーね」

 小学校三年生で転校したあのとき。
 忘れられない傷を、残した両親の死。

「話して、大丈夫?」
「うん」

 日向さんは、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
 僕のことを慮ってくれる彼女の優しさが、胸に沁みた。

「両親が事故で亡くなって、親戚に引き取られたんだ。妹と一緒に」
「そうだよね……人づてに聞いたよ」

 日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
 僕はそれを見て、胸がずきりと痛んだ。

「ーー実はね、私のお父さんね、私が中学生のとき病気で亡くなったの」

 日向さんは深く息を吸ってそう言った。
 思わず顔をあげて、彼女の顔を見る。
 驚きの感情が頭の中に広がる。

「……そうだったんだ」

 僕は言葉が見つからず、なんとか絞り出すようにして呟いた。

 こんなにも明るく楽しそうな笑顔を振る舞える日向さんが、抱えている悲しみの部分。

 中学生にして、父親の死。
 その悲しみは、察して有り余る。

「病気……」

 不意に、以前目にした、日向さんの大量の薬が頭をよぎった。
 ポシェットいっぱいに詰められた色とりどりの錠剤やカプセル。
 それはなんとも不吉な、カラフルカラー。

「苗字、変えなくてもよかったんだけど、前を向いて歩こうってお母さんが」

 日向さんは、なるべく重たい雰囲気にならないように気を遣ってくれたのか、明るい調子で話した。
 その軽妙さが、かえって物悲しさを冗長させるようにも感じた。

「お父さんが亡くなったときね、あの転校していった小学校の同級生も、きっと私と同じような気持ちだったのかなって、印象に残ってたんだ」
「……辛かったね」

 僕はなんと返していいものか分からず、ただそんな言葉を返すことしかできなかった。
 こんな場面で、気の利いた言葉や、悲しみを和らげられるようなセリフを返せたらと思うが、不器用な僕にはできない。

「辛い記憶を思い出させたら可哀想だと思って、あえて染谷君には昔の話はしなかったんだ。だから、このベンチで起こしにきてくれたときは驚いた!」

 日向さんは大袈裟に目を丸くして、僕の顔を見た。
 その芝居がかった仕草になんだか気恥ずかしくて、僕は目を泳がした。

「まるで私を起こしにきたーーいや、なんでもない」

 日向さんは言葉の途中で口をつぐんで、誤魔化すように手を振った。

「……なにさ」
「へへー、内緒」

 にっこりと頬を上げて、いたずらっぽく笑う日向さん。
 なんだろう、何かを言いかけたように思ったけど。

「でも、ショックだったなー。私のこと覚えてなかったんだもん」
「それは……ごめん、苗字が変わっていたし」
「でも、妹の梨沙ちゃんは私の顔覚えてたんでしょー」

 疑うようなジト目で、こちらに視線を投げかける日向さん。
 思い切りこちらに投げかけてくるその視線が痛い。

「実は、まだ話さないといけないことがあるんだ」
「……なに?」

 僕は姿勢を正して、改めて日向さんに向き合った。
 日向さんも、僕の真剣さを汲み取ってくれたのか、真面目な面持ちで向き合う。

「僕のーー脳の話なんだ」

 僕の目から見えている視界。
 目の前に座っている、日向さんの顔。

 目がぱっちりとしてモデルみたいだとか、唇が薄くて綺麗だとか、クラスメイトの女子が騒いでいるのを聞いたことがある。
 美少女と表現して大袈裟でない、日向さんの容姿。

 でも、僕は見たことがない。
 本当に見たことがないのだ。

 そう、顔に靄がかかったみたいに、僕には見ることができない。

「相貌失認っていう、病気なんだ。交通事故の後遺症で」
「そうぼう……しつにん?」

 日向さんが、子供のようなたどたどしい口調で復唱する。
 初耳だったようだ。
 それはそうだ、あまり一般的な病名とは言い難い。

「脳の障害で、人の顔が認識できなくなる病気なんだ。だから、小学校三年生からずっと、人の顔が分からなくて」
「人の顔が……」

 日向さんは相当驚いたようで、口をぽっかりと開けてこちらを見た。

 そう、人の顔が分からない。
 もちろん、覚えることもできない。
 そもそも、識別ができないのだ。

 例えば、顔写真を並べて、この中から家族が写っている写真を選べと言われたら、間違える人は誰もいないだろう。

 でもそれが、手のひらの写真だったとする。
 どの指紋が家族の指紋か当てろ、という問いだったらどうだろう。
 正解できる人はおそらく、いないだろう。

 話の例えとして正しいのか分からないけど、今の僕にとっては、人の顔が指紋や板の模様のように、識別が不可能なものに見えているのだ。

 まるで靄がかかっているように、ぐにゃりと視界が曲がっているように、不思議なくらいに顔だけが理解できない。

「喜怒哀楽くらいは分かるんだけど、覚えたりはできないんだ」

 相手がどんな目線でどちらを見ているとか、顔にどんな感情を表しているのかとか、それくらいは何となく理解できる。
 でも、その程度だった。

「だから、ごめん、実は日向さんの顔も、鈴木さんの顔も、五十嵐先生の顔も、僕には分からないんだ」

 普段は、声や背丈といった身体的な特徴、そして衣服や持ち物などでなんとか見分けている。
 しかし、いちいち一人一人の特徴を記憶しておくことには限界があって、どうしても対人コミュニケーションが上手くいかないことが多かった。

 たとえば、五十嵐先生は僕の症状を知ってくれている。
 だから、ワイシャツの胸ポケットにいつもお決まりの特徴的なボールペンを挿してくれているのだ。

 もし同じくらいの体格で、同じような格好をされると、ほぼ見分けがつかないと言っていい。
 つまり、制服を着るのが当たり前の学校という場所では、特定の相手を識別してコミュニケーションを取る術が壊滅的になってしまう。

「ごめんね、初めて聞く病名で……それが、染谷君が一人で過ごそうとしてる理由なんだね」
「うん、どうしても……どうにもできなくて」

 僕は諦めたように笑った。

 何度か、この障害を克服しようと思ったときもあった。
 顔が見えなくたって、コミュニケーションは取れる。
 そう自分に言い聞かせて、学校や社会に溶け込もうとした。
 でも、無理だった。

 声や仕草を見てからでないと、相手を識別できない。
 遠くから名前を呼んだり、写真から特定の相手を見つけることもできない。
 ましてや、顔が分からない以上、クラスメイトの名前を間違えて呼んでしまうリスクだって常にある。

 そんな人間が、溶け込めるわけもなかった。
 僕は早々に諦めて、とにかく他人に迷惑をかけないことだけを考えて、日陰で生きることを決めた。

「もう、治らないの?」

 日向さんは自分のことのように、悲しそうに呟いた。

「治療法はまだ分かってないらしくて……見つかるのいつになるか。ある日急に、自然に治ったなんて人もいるらしい。でもそれが明日なのか、十年後なのかも、分からない」

 定期的に病院で検査をしてもらっているが、未だに症状は改善されていなかった。
 そもそも症例の少ない病気だから、どうしても分からないことが多い。
 脳の仕組みはまだ解明されていない部分が多い、とか。

「そっか……」
「でもね」

 今日は病気のことはもちろん、どうしても伝えたい気持ちがあったのだ。

 僕は改めて勇気を出して、口を開いた。

「僕は日向さんに出会えてよかった。嬉しかった。僕に手を差し伸べてくれて」
「染谷君……」

 僕は万感の想いで、感謝の気持ちを口にした。

 誰の顔も分からず、世界で一番孤独に過ごしていた僕に。
 日向さんは当たり前のように、手を差し伸べてくれた。

 それは、何者にも変え難い、救いだった。

「もし良かったら、これからも君の夢の正体を探す手伝いをさせて欲しい。正直、何をすれば良いのか未だに見当もつかないけどね」
「……ありがとう、染谷君」

 日向さんはゆっくりと微笑んで、たしかに頷いた。
 分からなくても、分かる。
 きっとその顔は、とびきり可愛いに決まっている。

「まるで、告白だね」
「いや、あの……」

 日向さんのからかうような口調に、しどろもどろになる。

 改めて考えてみると、こんな一対一で向かい合った愛の告白みたいなシチュエーション、人生で初めてだ。

 勢いでベラベラと話してしまったけど、改めて自分を顧みてみると、妙に恥ずかしくなってきた。

「ーーまあ、なんて言うか、日向さんがこのベンチで寝てたことに感謝しないとね」

 恥ずかしさを紛らわそうと、思いついたテキトーなセリフを話す。

 しかし僕はそう口にした瞬間、はっとした。

「あ、ごめん、無神経なこと言った。日向さんも居眠り病って病気なのに、大変だよね……」

 罪悪感を感じて、すぐさま謝る。
 つい調子に乗って言わなくても良いことまで喋ってしまった。

 病気の当事者にしか分からない辛さや悩みがある。
 日向さんに不快な思いをさせてしまったかとしれない。

 日向さんは思い詰めたような表情で、目をぱちぱちさせた後、少し間を置いて口を開いた。

「あのね」
「うん?」

「あのね、実はーー」

 そう、彼女が口にした瞬間だった。

 それは、突然の出来事だった。
 日向さんは、急にがくりと身をかがめて、胸を押さえた。

「え、日向さん?」

 あまりに不意の出来事に、頭が混乱する。

 考えている間も無く、日向さんは倒れ込むようにしてその場に崩れた。

「日向さん! 大丈夫⁈」
「染谷……くん」

 声にならない声を絞り出して、日向さんはその場で意識を失った。
 放課後、二人きりでお互いの秘密を打ち明けたあの日。

 僕らが小学校で同級生だったこと。
 僕が事故で両親を亡くして転校したこと。
 日向さんのお父さんが病気で亡くなって、苗字が変わっていたこと。
 そして、僕が相貌失認という障害で人の顔が認識できなくなっていることーー

 こんなに、自分の本当に根っこの部分について人に話したのは、高校に入って、いや人生で初めてだった。

 そして、日向さんは最後、何かを伝えようとしていた。

 しかし突然、前触れもなく日向さんは意識を失って倒れた。
 糸の切れた人形のように、電力を失ったロボットのように。

 僕は迷うことなくすぐに救急車を呼んだ。
 そしてその後職員室に走り、五十嵐先生をはじめとした先生たちと協力して、彼女を介抱した。

 数分後、けたたましいサイレントと共にやってきた救急車。日向さんは救急隊によって担架で乗せられた。
 そして息をつく間も無く、養護教諭の先生だけが同乗をして、すぐさま救急車は行ってしまった。

 救急車が去った後は先生たちも解散して、また静かになった中庭で立ち尽くす。

 僕は予想できない展開に、動機が収まらず、とにかく不安でたまらなかった。

「お前が近くにいて良かった。救急車をすぐ呼んだのも正しい判断だった。ありがとう」

 五十嵐先生は感謝の言葉を口にしながら、僕の肩にそっと手を置いた。
 その手は大きくて、温かった。

 きっと、落ち着かない様子の僕を、安心させようとしてくれたんだと思う。

「五十嵐先生……」

 あんな騒ぎだったというのに、五十嵐先生は落ち着いた様子だった。
 こうした事故や不測の事態にも、きっと先生たちは慣れているのだろう。

「先生、日向さんは……」
「保護者には学校から連絡しておく。お前はもう帰れ」
「でも……」
「いいから」

 僕の訴えを遮るようにして、五十嵐先生はやめろとばかりに手を振った。
 そして、下駄箱を指さして帰りを促す。

 日向さんはどうなってしまったのだろうか。
 いきなり意識を失うなんて、尋常じゃない事態だ。

 もし何か深刻な病気とかだったら……そう考えると、不安で押しつぶされそうだった。

「先生、何か僕にできることはありませんか」
「……分かったよ、これ」

 今までの僕なら考えられないほど、柄にもなく前のめりになって訴えかける僕に、五十嵐先生も担任として思うところがあったのかもしれない。

 五十嵐先生は不意に、小さいメモ用紙を押し付けるようにして僕に手渡した。

「これは……」

 おそるおそるメモ用紙を開くと、そこには殴り書きのような文字で「西南大学病院」と記されている。

「救急隊の人に聞いた。搬送先の病院だそうだ。いちおう……お前にも教えておく」

 僕は顔を上げて、五十嵐先生の顔を見た。
 五十嵐先生は、面倒くさそうにボサボサ頭を掻きながら、一方の手で僕の頭をポンポンと叩いた。

「まあなんだ、もしこういうことが起きても、大事にしないで欲しいと、事前に日向からお願いされてる。だから染谷、お前も不安だろうが、明日もちゃんと学校こいよ」
「事前に……」

 僕は五十嵐先生の言葉の意味が図りかねて、頭に疑問符が浮かんだ。

 事前に日向さんからお願いされている?
 彼女が救急車に運ばれてしまうような自体が起きるかもしれないと、前から本人が分かっていたということなのか?

「ーーとにかく、今日は帰れ」

 五十嵐先生の口調は強く、今度こそ本気で帰れというメッセージが伝わった。
 ここに立ち尽くしていても、埒があかない。
 せっかく気を回してくれた五十嵐先生にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。

 僕はざわめき立つ心の中を押さえながら、仕方なく諦めて帰途に着いた。

 僕は学校からの帰り道をとぼとぼ歩きながら、ポケットに入った「西南大学病院」のメモの感触を確かめていた。





 次の日の放課後、僕は帰りのホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出した。

 当たり前だけど、日向さんは欠席だった。
 五十嵐先生はクラスの生徒たちに対して「日向は体調不良だ」の一言で済ませて、それ以上の説明はしなかった。

「ねえねえ、日向さんってさーー」

 人の噂が回るのは早いもので、昨日の放課後、救急車が来て誰か女子生徒が搬送されたという話はクラスで話題になっていた。
 おそらく部活やなんかで学校に残っていた生徒がその場を目撃したのだろう。

 そして、その女子生徒が日向さんかもしれないという話で、朝からクラスの話題は持ちきりだった。
 特に、鈴木さんをはじめとした日向さんを慕っているクラスのメンバーは、深刻そうな顔で額を寄せ合って心配をしていた。

 どうやら、当の本人である日向さんと連絡が取れていないらしかった。
 スマートフォンが手放せない現代の学生からしたら、一日メッセージが返ってこないなんて、それだけで大騒ぎの案件だ。

 僕は騒がしい教室を後にして、スマートフォンで道を調べながら、五十嵐先生に教えてもらった西南大学病院に向かった。

 日向さんが意識を失う直前、何かを伝えようとしてくれていた。
 一体、何を言おうとしたんだろう。
 そして彼女の体調は大丈夫なのか。
 とにかく何でもいいから行動して、確認をせずにはいられなかった。

 電車で二駅、さらに駅から十分ほど歩くと、目的地にたどり着くことができた。

「ここか……」

 実際に来たのは初めてだったけど、西南大学病院は市内では一番規模の大きい病院として有名だった。
 さまざまな種別の受診ができて、医師の数も多い。
 たしか、僕が脳の検査で定期的に通っている専門病院とも関連がある。

 以前、日向さんに教えてもらった連絡先。
 念のため、そちらにメッセージを送ってみたけど、返信はおろか既読もつかなかった。

 他のクラスメイトたちも連絡が返ってこないと言っていたことも考えると、日向さんはそもそもスマートフォンを確認していないようだ。
 あるいは、どうしても確認ができない状態なのかもしれない。

 今の僕には、五十嵐先生から渡された病院名のメモしか情報はない。
 しかし、じっとしていることはできなかった。
 なんとか、日向さんのもとに駆けつけたいと、そう思った。

 病院の中は驚くほど広く、人の数も多かった。
 天井に下げられた案内板を頼りに受付にたどり着く。

 そして意を決して、受付の女性に声をかけた。

「すみません、お見舞いに来たんですけど……」
「はい、面会ですね。そしたら患者さんのお名前か病室番号分かりますか?」
「えっと、名前しか分からなくて……昨日から入院している日向佳乃さん、という方なんですけど」

 受付に座る制服を着た女性はにこやかに微笑んで、設置されているパソコンのキーボードを叩いた。

「ご関係をお伺いしても良いですか?」
「えっと、高校の同級生です……西南高校の三年生」

 僕は念のため学校名も告げる。
 しばらくパソコンの画面を眺めた後、受付の女性は眉を顰めた。

「申し訳ありません、ご家族のご意向で面会のご希望をお断りさせていただいております」
「え、そうなんですか……」

 受付の女性が告げたセリフに、言葉をなくす。
 いわゆる面会拒絶、ということなのだろうか。

「ということですので、ご案内できません」
「そうですか……ありがとうございました」

 ここで粘ったところで、迷惑をかけてしまうだけだ。
 僕はペコリと頭を下げて、受付から離れた。

 家族の意向……もしかして、面会もできないほどの重たい病気なのだろうか。

 もう、今日のところは諦めて帰るしかないか。
 メッセージで連絡が返ってくるのを待つしかない。

 そうして、肩を落として帰ろうとしたそのときだった。

「ーーあ、染谷くん」

 病院の広いフロアで、聞き馴染みのあるソプラノボイスが耳に届いた。
 この声の主は、顔を見るまでもない。

 声の方向に顔を向けると、そこにはパジャマ姿の日向さんが立っていた。

 もちろん、日向さんの顔は僕には判別がつかない。
 ただ高校生くらいの若い女性、と識別できる程度だ。
 それに普段と違う服装をしているから、ただ人混みに紛れているだけなら、僕に見つけることはできなかっただろう。

 でも、声や仕草で彼女だと分かるくらい、もう彼女のことを覚えている。

「声をかけてくれてありがとう。おかげで気づけたよ」
「もしかして……お見舞いに来てくれたの?」
「う、うん、心配だったから」

 日向さんは僕の返しに、嬉しそうににっこりと笑った。

「ありがとう、嬉しいよ」
「あの、五十嵐先生が教えてくれたんだ。ここに入院してるって。それに、メッセージも送ってたんだけど」
「あーごめん! 朝から身体の検査で、スマホまだ見てないんだ」

 やはりスマートフォンをそもそも見られる環境じゃなかったようだ。
 メッセージが来ているのに気が付いたうえであえてスルーされていたわけではないと分かって、少しホッとする。

「立ち話もなんだし、そっちの座れるところに行こうか」
「うん」

 お互いに頷きあって、受付でごった返す人混みを抜ける。
 病院内の購買やカフェのようなお店があって、そこに併設されているテラス席に、二人並んで座った。

「そういえば、救急車、染谷君が呼んでくれたんだよね。ありがとう、また助けられちゃった」
「いや、そんなことないよ」

 日向さんは目尻を下げて、感謝するように両手を合わせた。

「驚いたでしょ、いきなり私が倒れちゃって」
「それは……まあ」

 以前、彼女が大量の薬を持ち歩いているのを目撃したことがある身としては、驚きというより心配の気持ちが勝っていた。

「みんな心配してるみたいだった。鈴木さんとか」
「あちゃー、スマホの通知大変なことになってるかもね。後で返信しとかなきゃ」

 漫画のヒロインのように額をコツンと叩いて舌を出す日向さん。
 そんな陽気なオーバーリアクションが出来るなら、彼女は結構元気なのかもしれない。

 クラスの人気者が急に学校を休んで、それも救急車で運ばれたかもしれないとなれば、クラスメイトたちはこぞってメッセージを送って心配することだろう。

「五十嵐先生も、みんなには君が倒れたってことは言ってなかった」
「うん、私が頼んでたの」

 日向さんはこうなることが分かっていたかのように、平然とした顔で微笑んだ。
 どうして、そんな疑問符が頭に浮かぶ。

「今日もさ、受付で君のお見舞いに来たと伝えたら、面会できないと言われちゃった。こうやって会って、大丈夫だった?」
「あれ、そうなの? もしかして……お母さんだな、きっと。もう、心配性なんだから」

 日向さんは意外そうな表情を浮かべた。
 面会できないようになっていたことを、自分で知らなかったということは、彼女自身が頼んだわけではないということだ。

 もちろん、外部の人間に会うと身体に差し障るからということもあるだろうけど、こうして普通に院内を出歩いているということは、必ずしもそれだけが理由じゃない。

「お母さん、お父さんを病気で亡くして、一人娘までこんな調子だから、ちょっと過剰に心配してるんだよ。べつにお見舞いが来たからって病気が悪くなるわけでも、良くなるわけでもないのに」

 日向さんはそう言って、自嘲気味に笑った。
 こっそりと面会を禁止していたのは、母親なりの娘の身体への気の使い方だったのかもしれない。

「その、答えにくかったら、答えなくてもいいんだけど……」
「なに、改まって。私は何でも答えるよ。NGなし」

 日向さんは大袈裟に手を広げて、イタズラっぽく笑う。

 ここが病院で、彼女が入院患者でなければ、クラスの人気者の美少女にいろんなあれこれを聞くチャンスだっただろう。
 しかし、このシチュエーションで聞きたいことは、一つだけ。

 僕は不安の入り混じる感情を抑えて、恐る恐る口を開いた。

「その、居眠り病っていうのは、入院しなきゃいけないような重い病気なのかな。それとも、何か違う病気とか……」

 病気のこと。
 それは、極めてプライベートな質問だ。
 僕自身、事故で障害を負っている身なので、気持ちは分かる。

 たやすく他人が踏み入れて良い領域じゃない。
 でも、僕はもっと日向さんのことが知りたかった。
 もし許されるなら、力になりたかった。

「居眠り病……」

 彼女は質問に答えるでもなく、その言葉を口の中で繰り返した。

 実は、彼女の口からその病気の存在を聞いて、インターネットで軽く検索をかけて調べてみたことがある。
 しかし、具体的な症例や記載した記事はほとんど見つからず、よく分からなかった。

「……ごめん、本当のことを言うね」

 彼女は何かを諦めたように、あるいは覚悟したように、僕に視線を合わせた。

「本当のこと?」
「居眠り病は……嘘なの。病気自体は本当にあるものなんだけどね」
「どういう意味なの?」

 居眠り病が、嘘?
 日向さんの言葉の意図がよく分からず、僕は思わず怪訝な顔をした。
 じゃあ、あの束になっていた薬は、一体なんのために持っていたというんだ。

「実は、眠気が我慢できなかったのは、服用してた薬の副作用なんだ。病気自体は、違うものなの」
「それは……」

 日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
 でも、その嘘はおそらく、僕を騙し貶めるための類の嘘ではない。
 人を傷つけないように、相手のことを思ってついた、優しい嘘。

 僕は彼女の告げた言葉が驚きで、少しの間言葉を失っていた。
 あの大量の薬が彼女に与えていた影響が、あのベンチでの昼寝に繋がっていたって言うのか。

「じゃあ、あの薬は……」
「違う病気を抑えるための薬だったんだ。染谷君に見つかったとき、とっさに嘘ついたんだ。心配かけたくなくて……」
「それは、他のクラスメイトにも?」
「うん」

 以前、鈴木さんが僕に難癖のような言いがかりを僕につけてきたとき、病気の話なんてまったく触れなかった。
 ということは当然、日向さんの病気の話は知らなかったのだろう。

 親しい友達にも黙っていた理由。
 嘘をついてまで隠していた、別の病気。

「ーー私、心臓が悪いんだ。お父さんと同じ病気」

 日向さんは深く息を吸った後、吐き出すようにそう言った。

 心臓。
 それは人間が生きていくうえで、なによりも重要な臓器。
 何物にも替えが効かない、世界で一つだけの存在。

 僕らの座っているテラスは、患者さんや面会のお客さんで溢れていた。
 それにも関わらず、ガヤガヤと響く周囲の喧騒が、随分と遠くに聞こえた。

「それは……結構悪いの?」

 恐る恐る、僕は彼女に質問した。

 正直、これ以上詳しい話は聞きたくはなかった。
 いつもみたいに明るく笑いながら、「すぐ治るよー」と、そんな答えを期待していた。
 そんな深刻な顔はしないで欲しい。
 それじゃまるで、本当に。

 しかし、彼女の反応は違った。

「ーーもう、長くないみたい」

 彼女は、静かにそう答えた。

 嫌な予感は、いつだって的中する。
 僕は不安を通り越して、にわかに吐き気まで催してきた。

 長くない?
 何がだろう。
 彼女は一体、何の話をしているのだろう。

 そうだ、まだ日向さんの夢の正体だって分かっていない。
 まだ調べていない、一緒に宇宙へ行く方法もあるのかもしれない。
 まだ、何も。

「すごい顔してるよ、染谷君」
「え、あ、ごめん」

 僕は多分、相当思い詰めた顔をしていたのだろう。
 日向さんは少し吹き出すように笑顔を浮かべた。

「ーーねぇ、染谷君、一つだけお願いをしても良い?」

 彼女は思いついたように指を立てて、僕に顔を近づけた。

「お願い……」
「一つだけじゃないか、今まで、染谷君はたくさんのお願いを聞いてくれた」

 僕は何も返すことができず、ただ黙って俯いていた。

「ーー夢の正体に、一番近い場所に連れて行って」

 彼女は、消え入りそうな笑顔で、そう口にした。
「ーー宇宙ロケットには乗れないから、私の行ける一番宇宙に近い場所」

 その言葉をきっかけに、僕と彼女は隣町にある天文台に行くことになった。

 天文台といっても、国立の研究所があるような本格的な施設ではなく、小高い丘に天体観測ができる広場があるような、市民向けに開かれた簡単な場所だ。

 行き方をスマートフォンで調べて、ルートを覚える。
 この小さな四角い箱があれば、どこにでも行ける気がした。
 どこにも行けない気もした。

 二人並んで夜の市営バスに乗り、ガタガタと田舎道を揺られて行く。
 山の方へ向かう道はたんだんと民家やお店が減り、自然豊かで静かな雰囲気になっていった。
 夜も遅い時間のせいか、バスは他の乗客は少なくまばらだった。

 僕は普段着ているくたびれた外着で、日向さんもラフなシャツにスカートという出立ちだった。

 日向さんは、病院での検査が一旦終わり、この夜のために一時帰宅を許可してもらったそうだ。
 
「でも、また明日から再入院だから、今夜が外に出かけられる最後の機会かもしれない」

 そんな驚きのセリフを、さも当たり前のように言ってのける。
 僕は不安に蝕まれる心を押し殺して、日向さんの横顔を眺める。

「そんな……そんな大切な時間を、僕と天文台に行くのに使って良いの?」
「いいの、お母さんにも、分かってもらったし」
「それは……友達とかは? それこそ鈴木さんたちは」
「だから、染谷君も友達だって」

 日向さんは呆れたように笑った。

「五十嵐先生にお願いして、クラスメイトには病気のことは内緒にしてるんだ。優里も、みんなも、受験を控えてるこの時期に、邪魔したくない」

 日向さんは何かを悟ったような、落ち着いた表情をしていた。

 彼女の言葉を聞く限り、五十嵐先生は事前に日向さんから話を聞いて、全て知っていたのだろう。
 担任だから当然とも言えるけど。
 救急車を呼んだあのとき、妙に落ち着いた様子だったのも得心がいった。

「染谷君は別ね。最後まで、巻き込ませてもらうから」
「……望むところだよ」

 日向さんはイタズラっぽく笑って、僕はそれに答えるように笑い返した。

 他のクラスメイトたちに内緒にしているというのは、日向さんなりの社会との向き合い方なのだろう。
 べつに、自分の置かれた状況や身体のことを周囲に告白することだけが、正解ではない。

 亡くなった父親と同じ心臓の病気。
 なるべく黙っているという選択が、どんな運命が待ち受けていようと、自分の人生でお世話になった人たちへの、彼女なりのアンサーなのだ。

 日向さんはもう長くないと言った。
 正直、それ以上詳しく追求することはできなくて、その言葉の真意は聞いていない。

 そして、最後になるかもしれないというセリフ。
 言葉の綾だろうか。それとも、本当にーー

「あ、着いたみたいね」

 日向さんの言葉で、顔を上げてバスの窓から外の景色を眺める。
 バスの行く先に、小高い丘の上にある天文台へ続く入り口が見えた。

「染谷君は何度か来たことがあるんだよね」
「うん、父さんが……天体観測が好きだったから」

 懐かしい景色に郷愁の思いを抱えながら、ポツリと呟く。
 子供の頃に何度か、父親に連れられてこの場所に来たことがある。

 父親は天体観測が好きだった。
 簡易な望遠鏡が部屋にあって、小学校に上がる前の幼い頃はよくそれで遊ぼうとして怒られた。

 夜空を指さしながら、父親が読み上げる星座の名前。
 あれがオリオン座、それがおおいぬ座、これがこいぬ座……。
 一つだって思い出すことができずに、僕はもうその名前をほとんど忘れてしまった。

 市営バスが空気の抜ける音とともに、緩やかにスピードを落とした。
 車掌さんのアナウンスが、僕たちが目的地に到着したことを告げていた。

 バス停に着いた僕たちは、ICカードをタッチして料金を支払って、バスを降りた。
 そこで降りたのは僕たちだけだった。

「へー近くに来てみると、思ったより高いね」
「うん、こっから階段が続くよ」

 日向さんが首を伸ばして、丘の上を見上げる。

 辺りは林のように木が生い茂っており、それを突き抜けるように道ができている。

 そして木で作られた大きな看板のふもとに、土と木で固められた自然由来の階段がある。

 僕らは荷物を背負い直して、天文台の広場へと続いていく階段を登り始めた。

「大丈夫?」
「うん、なんとか」

 彼女を気遣いながら、一段一段ゆっくりと登っていく。

「絶対、無理しないって約束してね。途中で体調が悪くなったら、担いででもすぐに帰るよ」
「頼りになるねー」

 僕はわりと本気だったのだけど、彼女はからかうように笑った。

 正直、彼女の顔色を見ていると、入院が必要なほど心臓が悪いだなんて想像もできないくらいだ。

 以前ベンチで眠っていた時もそうだけど、血色も悪くなくて、むしろ僕みたいな人間の方が不健康そうに見てるくらいだ。

 でも、彼女の胸には爆弾が埋め込まれている。
 それが、いつ爆発するかは誰にも分からない。

 体調のことだって、無理をしているのかもしれない。
 周りに心配をかけないよう、明るく振る舞ってしまう日向さんのことだ。
 もし万が一、この間のように倒れてしまうようなことがないよう、最新の注意を払う必要がある。

「ーーねぇ知ってる? 匂いって、人間の一番最後まで残る記憶なんだって」
「喋りながらで大丈夫? まだ階段は続くよ」
「いいの、お喋りしながらの方が気が紛れるから」

 僕は隣で少し息を荒くしながら、階段に足をかけていく日向さんの横顔を眺めた。

 雑談をしながらの方が、階段登りが捗るというのは僕も同意だった。
 もう秋が近づいていて、以前のような暑さはないのが救いではあったけど、完全に整備されたわけではない土と木の階段を登っていくのは、なかなか大変な作業だった。

「匂い……そうなんだ。たしかにカレーとか一発で思い出せるもんね」
「そうだけど、カレーって」

 日向さんは面白がって小気味よく笑う。
 僕の例えがおかしかったようだ。

「私は金木犀かな。あの匂いを嗅ぐと、子供の頃のお父さんと散歩した思い出が、すぐに浮かんでくる……」

 彼女はふと、昔を懐かしむように目を細めた。

 僕も足場の悪い階段を滑らないように踏みしめて登りながら、かつての思い出を心に浮かべた。

 匂い、か。
 カレーの匂いと言ったのは、あながち見当違いではなかった。

 叔父さん夫婦の家に引き取られてから、二人とも辛いものが苦手だったため、夕飯でカレーが出されることが無くなった。

 逆に、亡くなった両親はカレーが大好きで、週に三回は食卓にカレーが並んでいた記憶がある。

 僕と妹は、「またカレー?」と言ってぶーぶーと文句を垂らしていたけど、両親はどこ吹く風といった様子でパクパクとカレーを食べていた。

 カレーの匂いを嗅ぐと思い出す。
 もう戻ってこない、あの時間を。

「匂いが記憶に残るっていうのも、確かにそうかもしれない」

 意識したことはなかったけど、言われてみれば匂いは記憶に強く結びついている気もする。
 匂いはいつ、どのタイミングで嗅いでも、何故忘れていたのか不思議に思うくらい、すぐに記憶が引き出されることがある。

「逆に、一番早く忘れる人の要素って知ってる?」

 日向さんはクイズ番組の出題者のように、指を立てた。

 僕は頭の中の引き出しを探して回ったが、答えは見つからなかった。

「……分かんないな。顔とか?」

 だとしたら、僕の人間に対する記憶力の悪さが証明される。
 やはり顔が覚えられないと、その人の名前や特徴もいまいち印象に残りにくい。
 僕はそんな苦労をもう何年も続けている当事者だ。

「うふふ、それはね」

 日向さんはイタズラっぽく頬に人差し指を当てて、答えた。

「声、だよ」
「ーー声」

 僕は日向さんの答えを反復した。
 声、か。

「声って、結構重要な気がするけど、忘れちゃうんだね」

 両親の声。
 もちろん、音声データなんて残っていないから、もう十年近く聞いていない。

 もう、どんな声だったか、思い出すことは確かに難しい。
 僕や妹の名前を呼んでくれた、父さんや母さんのあの優しい声も。

「ーー覚えていてね、私の声」

 日向さんはまるで、もう二度と会えないみたいに、そう言った。





 人の顔が識別できない。

 この相貌失認という障害を負ってからの僕というのはまるで、排水溝に揺蕩う髪の毛のようなものだった。
 自らの意思とは関係なく、大きな力に流されるがまま、意味のない時間を浪費していた。

 もう、誰とも関わることはできない。
 そう思っていた。

 あのベンチで、眠り姫に出会うまで。

「ーーついた」
「やったー!」

 僕と日向さんは、長い階段を登りきって、やっと天文台の広場までたどり着いた。

 天文台は芝生の生えた広場になっており、そこで寝転ぶなり、望遠鏡を立てるなりして思い思いに天体観測を行うことができる。

 日中は家族連れのハイキングや遠足の子供達で賑わっているそうだが、流石に夜となると人気は少なかった。

「すごい、綺麗だね」

 彼女は僕の隣で大きく伸びをするように手を伸ばして、夜空を見上げた。

「うん、晴れて良かった」

 満点の星空、とは言わないが、それなりに美しい星空が広がっていた。
 これがもっと田舎の方で、もっと標高の高い場所なら、もっと美しく見えるのだろう。

 墨汁を垂らしたような暗い夜空に、頼りなさげな星々がキラキラとした海岸の砂を散らしたみたいに煌めいて見えた。

 幸運なことに、今夜は快晴だった。
 夜になると、曇っているか晴れているかなんて気にする人はほとんどいないと思うけど、天体観測するとなれば話は別だ。

 雲ひとつない夜空は、とりわけ深く遠くに感じられた。
 一度溺れてしまえば、もう二度と助からない深海のような深さだった。

「ーー望遠鏡が残っていれば良かったんだけど、どこかにいっちゃったみたいで、ごめんね」

 父親が残した望遠鏡だが、叔父さん夫婦の自宅に引っ越す過程でどこかに紛失してしまったらしく、見つからなかった。

 あくまで簡易な小さいものだったから、処分されてしまったのかもしれない。
 思い出の品ではあったけど、仕方ない。

「そんな、謝らないで。直接この目で見れるだけで、すごく嬉しいよ」

 こちらに気を遣わせないように、明るく振る舞ってくれる日向さん。

「寝っ転がろうよ」
「……うん」

 僕と日向さんは、芝生の生えた座り心地の良さそうな地面に荷物を置いて、そのままゴロンと横になった。
 芝生が服にまとわりつく感覚がしたけど、もう今日は気にしないことにしよう。

 日差しの暖かい晴れの日が続いていたためか、芝生は湿っていることもなくふかふかとして、寝転ぶには最高のコンディションだった。

「なんだか不思議な気分。昨日まで病院の白い天井を見つめてたから。こんなふうに染谷君と夜空を眺めてるなんて」
「僕も……不思議だよ」

 呟くようにして答える。
 ほんの一ヶ月前ですら、日向さんとこんな関係になるなんて、想像すらしていなかった。

 日向さんは大気から生命を受け取るみたいに、大きく息を吸い込んだ。

「あーすっごく遠いね。星って。人類はどこまで行けるんだろうね」

 夜空に輝く星を掴み取るみたいに、寝転んだまま天に手を伸ばす。

 当然、何も掴めずに、日向さんの小さい手のひらは空を切る。
 まるでその手のひらから、大切な何かがこぼれ落ちていくみたいに見えた。

「人類の科学は進歩してるから、案外、百年もしたら宇宙の果てまで行けるようになるかもね」
「えー、年内にできるようにならないか」
「無茶を言わないでよ」

 数ヶ月で宇宙の果てまで届くロケットを開発するなんて、世界中の技術者がひたすら徹夜で研究し続けても不可能だろう。

 そう返事をしながら、日向さんを真似て僕も首を傾げて空を見上げた。
 数え切れないくらいの星が瞬いていた。

 あの星の中には、光でさえ何百万年と掛かるくらい遠くに存在している惑星もある。

 隣で目を輝かせている彼女。
 彼女との距離は数十センチ。声も届く。
 手を伸ばせば触れられる。
 すぐそこに血の通った身体が存在している。

 そのはずなのに。
 僕には、日向さんの方が、この夜空の星々よりもよっぽど遠くにいるような気すらした。

 恒星のように発熱する彼女が、不思議なほどに遠く儚げで、触れられないくらいずっとずっと遠く離れた存在に感じられた。

「科学が発展したら、宇宙ロケットにも気軽に乗れるかな」
「きっと行けるよ。電車に乗るくらい気軽に、宇宙に行けるようになるよ」
「ーー染谷君の病気も、治せるようになるかな」

 僕は寝転がったまま、黙って夜空を眺めていた。

「日向さんは、自分のことを第一に考えて。病気を治して、学校に戻ろう」
「私はーーそうだね」

 僕の励ましをどう受け取ったのか、日向さんは何かを言おうとして少し詰まった後、誤魔化すように笑った。

 僕はそれ以上、それについて何かを言う気になれなかった。

 夜空は美しく輝いていた。
 まるで、僕らの代わりに悲しんでくれてるみたいだった。

「宇宙一遠い星って知ってる?」
「またクイズかい」
「うん、クイズ」

 星空の下で、日向さんは妙に饒舌だった。
 まるで、最後の時間を惜しんでいるみたいに思えた。

「知らないな。どれくらいだろう」
「320億光年くらいらしいよ」
「へー、その向こうには何もないのかな」
「分かんない」

 日向さんはおかしそうに喉を鳴らして笑った。
 僕も釣られて笑った。
 僕らは、分からないことだらけだ。

「でもさ、もし一番遠くにある星が爆発して跡形も無くなっていたとしても、私たちが知ることができるのは320億光年後なんだよ」
「待ってられないな」
「そんなのって、どれだけ孤独なんだろう」

 日向さんは、寂しそうにポツリと呟いた。

 320億光年の孤独。
 たかが数十年しか生きてられない僕らには、想像も及ばない。

 光ですら320億年もかかってしまう遥か遠く彼方で、ポツンと佇んでいる惑星がある。
 想像するだけで、寂しい気持ちになった。

 その後、僕らは芝生に寝転がりながら、いろいろな話をした。

 明日世界が終わるなら何をしたいとか、旅行で行ってみたい国とか、百万円あったら何に使うかとか、そんなしょうもない世間話。

 まるで、忘れたい現実から逃げるみたいに、毒にも薬にもならない話をし続けた。
 彼女の世界最後の日は、もうすぐそこまで迫っているのかもしれない。

「進路はどうするの?」
「あー、僕は地元の国公立を受けようと思ってるけど」
「理系だよね。どんなことを勉強したいの?」
「うーん決めてないかな……」

 日向さんはどこを受けるの、と聞こうとした瞬間、僕は口をつぐんだ。
 それは、恐らく今の日向さんに聞いてはいけない、残酷な質問だった。

 そんな申し訳なく思う僕の心中を察したのか、日向さんは寝転がりながらこちらに顔を向けた。

「私はね……受験しないよ。来年まで生きれたら……それはそのとき考えるかな」

 僕はその言葉に、何も答えることができなかった。
 虫の鳴き声さえ遠くに聞こえる静かな沈黙が、二人と夜の闇を包んだ。

 本当に、日向さんの病状は深刻なのだろう。
 そんな彼女を前にして、来年の受験のことを当たり前のように考えている自分が、なんて薄情なんだろうと思った。

 僕は彼女が死ぬなんてこと、到底受け入れられていないくせに、頭の片隅では自分の将来を当たり前のよう考えていたのだ。

 明日が来ないかもしれない人の隣で、自分の明日の予定を考えている。
 大切な人の死を前にしてすら、社会での役割やルーティンを守ろうとしている。

 そんな僕は、なんてちっぽけなんだろうと思った。

「ーー星は孤独ね。あんなに真っ暗な宇宙で、一人きりなんだから」

 日向さんはそう言って、また空を見上げた。
 夜空に走っている長い飛行機雲が、まるで空を二分するみたいに直線を描いていた。

「ねえ、知ってる? 惑星は、最後には自分の重さに耐えられなくなって、重力の塊になっちゃうらしいよ」
「へー、そうなのか。なんか皮肉だね」
「ま、いずれにしても人間には想像もつかない、途方もなく先の話」

 日向さんの胸中を、僕は知ることはできない。
 誰にも、人の心の中なんて、見えるわけがない。

「小さい頃、父さんに聞いたんだ。いつか、僕たちの地球がある天の川銀河は、アンドロメダ銀河と衝突しちゃうらしい。その衝撃に僕たちは耐えられるのか、小学生の僕はものすごく不安になった」
「……かわいいね」

 日向さんはそう言って微笑んだ。

 しばらく星空を二人で眺めた後、日向さんは意を決したように、静かに口を開いた。

「ーーこうやって夜空を眺めているとね、なんで私だけがこんなことにって、正直思うこともあるよ。私と同じような年頃の子たちが、当たり前みたいな顔して元気に歩いてる。子供を連れたお母さんや、お爺さんと連れ添って歩くお婆ちゃんを見て、あんな未来が私にもあったはずなのにって思う」

 明るい調子の口調が、かえって物悲しく感じられた。

 それは、いつだって明るく、品行方正な日向佳乃の、本心の独白だった。

「でもね、気がついたの」

 僕は何も言わずに、ただ彼女の声に耳を傾けていた。

「この病気にも、きっと意味があるの。神様が私に与えた、この病気も私の一部なのよ」

 そんなの。
 そんなのって。
 あんまりじゃないか。

「だからね――」
「意味なんてないよ。意味なんてない」

 彼女の言葉を遮るように、堪らず本音が口をつく。

 日向さんはそれを意に介する様子はまるでなく、何でもないように笑った。

「染谷君は相変わらず現実主義者だ」
「意味なんてないよ。だって君が病気で死んでしまったら、二度と目覚めない。もう僕は君に会えない」

 もうこうして、僕と話すことも出来ない。
 世界は、彼女の笑顔を見ることはもう二度と叶わない。

 一体誰が得するって言うんだよ。
 こんな世界、明らかに間違ってるじゃないか。
 どこかで見てる、神様という存在がいるのなら、今すぐここに来て「間違いでした」と謝罪してほしい。

「みんな君を必要としてる。君みたいな人間が生きていくべきなんだ。僕なんてーー」
「染谷君」

 不意に手に触れる、温かい感触。

 それは、隣に寝転ぶ日向さんの小さい手だった。
 以前触れた時は冷たく感じられたその手は、世界の何よりも暖かかった。

 日向さんは嗜めるようにして、僕の手をそっと握る。

「染谷君は、世界に必要だよ」

 僕はずっと思っていた。

 きっと日向さんは、世界中のあらゆることが好きなんだと思う。
 出会った全ての人、関わった全てのこと、彼女の世界を構成するすべてが、好きで構成されている。
 彼女にとって世界は愛すべきものなんだ。

「だって……」

 僕は彼女を見ているのが辛かったんだ。

 だって、僕は世界のあらゆることが大嫌いなんだから。

 教室でもいつもクラスメイトに囲まれて、こんなにも楽しいことはないって笑顔で笑って。

 話すようになる前から、そんな僕とは真逆の日向さんが、僕は怖かったんだ。

「意味はあるんだよ。だって」

 日向さんはまるで、世界の全てを知っているみたいな微笑みで、僕に笑いかけた。

「だって、君に出会えた」

 ありがとう、と小さく呟く。

「染谷君と出会ってからね。目を覚ましたら君が側にいてくれる、そう思うと、眠るのが怖くなくなったの」

 小さく握られた日向さんの片手から、どくどくと血液の鼓動が伝わってくる。

 それは、確かに生命の躍動だった。
 彼女がこの世に存在している、なにより確かな存在証明だった。

「まるで私たちって白雪姫と王子さまみたいって」
「ーーそんな、大層なものじゃないよ。すくなくとも僕は王子様なんてのには不相応だ」
「そうかしら? 世の中に地味で平凡な王子様が一人くらいいたって良いと思うわ」

 日向さんはいつもみたいにイタズラっぽく笑った。

 僕はいつもみたいに無感情な表情を保とうとした。
 でも、無理だった。

 溢れてくる。
 抑えきれない感情が、思いが、涙になって溢れ出そうとする。
 必死に、目頭を押さえて、感情を押し殺す。

「確かに、僕は限りなく平凡な人間だけど、改めて指摘するのはやめてくれ」
「大丈夫、君は相当変わってるから。普通とは程遠いよ」
「君にだけは言われたくないな」

 そこまで会話を続けて、あまりのくだらなさに僕らは声をあげて笑った。

 少しの間、二人で笑い続ける。
 そして二人の笑いがゆっくりと治ると、また世界は静寂に包まれた。

「ーー私ね、昨日また夢を見たの。宇宙ロケットに乗って、君と宇宙に行くの。数えきれないくらいの星に囲まれた夢」
「それは……それはきっと正夢だよ。だから生きてよ」

 そう言いながら、僕の片手は震えていた。
 怖い、そう怖いのだ。
 彼女と繋がる唯一の手段である、この手を離さなければいけない瞬間が来るのが。

 もう、神様の気まぐれみたいな少しばかりの幸運を求めて、暗いトンネルを歩いて生きていくのは嫌なんだよ。

「僕は......何者でもないんだ。何もない。君にもっといろんなことを教えて欲しい」
「大丈夫よ、染谷君なら」

 こんな悲しい夜でさえ、彼女はまるで旧知の友人との久方ぶりの再会のように、明るく笑った。

「ーーだって、私を見つけてくれた。誰にも見つけられない星だった、私を」

 それが、彼女が僕に残した最後の言葉だった。

 ふう、と深く息を吐いて、目を閉じる。
 そのまま日向さんは眠ってしまった。

 すうすうと寝息を立てて、その小さな胸が呼吸に合わせて上下する。

 彼女の寝顔を眺めながら、僕はあることに気がついた。

「そんな……」

 日向さんの顔が、見える。
 文字通り、見えるのだ。

 あまりに自然で、ゆるやかに視界が晴れたので、自分ですら気がつくのに時間がかかった。

 相貌失認が、治っている。
 いや、これは治ったと言うべきなのだろうか。

 もう十年近く見えていなかった人間の顔が、今僕の目に映っている。

 目を閉じた日向さんの顔。
 緩やかで長い曲線を描いたまつ毛。
 スラリと筋の通った綺麗な鼻。
 リボンを結んだかのような薄くて整った唇。
 ーー綺麗な、寝顔だった。

 唐突に、子供の頃、お医者さんに言われた言葉をフラッシュバックする。

「精神的なショックである日突然、自然に治ったケースもあってーー」

 僕は込み上げてくる複雑な感情に、思わず叫び出しそうになった。

 顔が、見えるようになった。
 それは、日向さんからの、特別なギフトだった。

 僕は寝息を立てる眠り姫の横で、夜空を眺めながら、その小さな手を包むように握った。

 心には触れられないと聞いていたけど、確かに彼女の心はそこにあった。

 そう、すぐそこに、心があった。
 日向佳乃が亡くなったのは、秋の終わり頃だった。

 結局、彼女は頑なとしてその病名や、詳しい病状を僕には話そうとしなかった。
 いや、正確に言うと、クラスメイトの誰にも話さなかった。

 何度か病院で会った日向さんの母親や、五十嵐先生も緘口令が敷かれていたようで、詳しいことは話そうとしなかった。

 それは、日向さんなりの意地だったらしい。

 病気の症状や、薬の副作用で彼女はだんだんと痩せ細っていった。
 ただでさえ華奢な彼女が、まるで世界から少しずつ消えていくみたいに儚くなっていった。

 そんな日向さんを側で見るのは、本当に辛かった。
 胸が苦しくて、苦しくて、刺々の薔薇で心を締め付けているみたいだった。

 両親がこの世を去ったときは、本当に突然で、理解が追いつかなかった。
 でもこうして、たしかに一人の人間が少しずつこの世界から居場所を失っていく姿は、また別の悲しみがあった。

 そして最後は、文字通り眠るように息を引き取った。
 そう、眠るみたいに。

 彼女の通夜には、同じクラスの同級生が全員参加した。
 他にも、もともと在籍していた陸上部の生徒や、過去の同級生、教職員の姿もあった。

 もちろん、学校から必ず参加しなさいと強制されたわけでもないのに、あれだけの人数が集まったのは、まさに彼女の人徳の成せる技であるとしか言いようがなかった。

 日向さんのお母さんも、夫と娘を同じ病で亡くし、一人残されてしまった悲しみは計り知れない。
 しかし、そんな中でも、友人たちとの最後の別れの場を提供し、通夜への参加を受け入れてくれた日向さんの母親も、本当に器の大きい人だと思った。

 通夜の間、僕は何も言わずにただ立ち尽くしていた。
 参列者の中には、泣き叫ぶようにして悲しむ女の子や、深い悲しみに落ち込む様子のクラスメイトたちが多かった。
 僕はその中で紛れるみたいに、ただ涙も流さずぼーっとしていた。

 葬儀場の帰り道だった。
 式が終わると、僕は誰と話す気にもなれず、その場にいた五十嵐先生にも何も言わずにすぐに会場を後にした。

 もう冬の訪れを感じる、冷たい空気を感じながら、コンクリートの道を歩く。

 乾燥した冷たい風が、肌を舐めるように吹き付ける。

「……寒いな」

 吐く息が少し白んで、綿飴を水に溶かしたみたいに消える。

 僕はこうして生きている。
 酸素を吸って、二酸化炭素を吐いて、呼吸している。

 不意に、目頭から涙が湧いてきた。
 涙は垂れることなく、乾いた空気中で小さい泡になって弾けた。

 救いたかった。
 救いたいと思ってしまった。

 もう、わがままも言わないから。
 誰のせいにもしないから。
 僕の命なんて百個だってあげるから。

 だって。
 だって君は僕を。

 こんな救えない、格好悪くて、気持ち悪くて、最低な僕を。

 救ってくれたから。

「……日向さんは死んだ」

 自分自身に言い聞かせるように、呟いた。
 独りごちた言葉たちは、どこにも行けずに道端の石ころとして転がる。

 心の整理なんて、一つだってついてなかった。
 心の中は、まるで荒れ狂った海原のように、何もかもが無茶苦茶で、濁流が渦巻いていた。

「ーー染谷」

 早足に歩く僕の背中を追いかけるみたいに、呼び止められた。

 立ち止まって、服の袖で目頭をゴシゴシと擦る。
 顔を上げて振り返ると、そこには鈴木さんが立っていた。

 その胸元には、灰色のリボンに、青い流星の刺繍。
 もう、リボンを確認する必要はなかった。
 顔は覚えられるようになったから。

「鈴木さん……」
「名前、覚えたんだ」
「名前っていうか、顔が分かるようになったんだ」
「なにそれ」

 鈴木さんは僕の言葉の意味が分からなかったのか、眉をひそめた。

 相貌失認で相手の顔が認識できていなかったことについては、結局クラスメイトの誰にも言っていない。

 日向さんは「そんな珍しい体験、みんなに自慢しようよ! テレビ局にインタビューされるかも!」と嬉しそうに騒いでいたけど、丁重にお断りした。

 誰かに自分のことを説明するのも、変に注目されたり同情されるのも、苦手だ。
 そもそも、僕みたいな暗い奴がそんなことを声高らかに言い出したら、なんだコイツはと白い目で見られかねない。

「ーーアンタと、結局あんまり話してなかったから、いちおう」

 そう口にしながら、鈴木さんはこちらに歩を進めた。

 住宅街のど真ん中で、高校生の男女がまるでタイマンで喧嘩するかのように向かい合う。

 鈴木さんはいきなり、その場で深々と軽く頭を下げた。

「……とりあえず、あのときは悪かったと思ってる。佳乃がおかしくなったのはアンタのせいって、責めたこと」

 予想外の行動に、僕は面食らってしまった。

「あ、えっと、うん……」

 正直、また日向さんのことで責められると思っていた僕は、拍子抜けした。

 頭を上げた鈴木さんは、少しだけ腫れた目をして僕の顔を見つめた。

「聞かせて。染谷は、いつから知ってたの。佳乃が心臓が悪いって」

 僕は複雑な感情でざわつく胸の内をなんとか整えながら、俯いてポツリと答えた。

「9月の終わり頃だった。日向さんが救急車で運ばれた日。その前から薬を飲んでることは知ってたけど……もっと軽い病気だと思ってた」
「……そっか」

 鈴木さんは僕の返答に、納得したように目を瞑って静かに頷いた。

「私たちが知ったのは、佳乃が亡くなる二週間前だった」

 鈴木さんの表情は、涙で腫れた目も相まって、物悲しく耐えられない哀愁を湛えていた。

「ずっと隠そうとしてた。私たちの受験勉強に迷惑かけたくないって……ね」

 日向さんは、本当に最後の最後まで周りの人たちを気にして、心配していた。
 死の淵に立ってまで、誰かのために生きることのできる、本当に凄い人だった。

「ーーもう、今日は責めないんだね」

 僕はそんな言葉を口にしてから気がついた。
 意図したものではなかったけど、少し攻撃的な口調だったかもしれない。

 鈴木さんはなんとも言えない、気まずそうなふうに目を伏せた。

「だって、アンタは、悪くなかったから」

 ポツリと呟かれた慰めの言葉。
 何故かは分からない。
 でもその一言は、僕の感情の琴線に触れた。

「……って」

 張り詰めていた、悲しくて、やり切れない感情が、どうしようもなく溢れ出す。

「僕が全部悪いんだって! 何もできなかった……彼女を救いたいって」

 思ってしまった。
 傲慢だろう。
 人が人を救うなんて、はなから無理な話なのに。

 知ってしまった。
 人との繋がりの大切さを。
 大切な誰かと過ごす、かけがえのない大切な時間。
 もう永遠に取り戻せない、楽しかったあの時間が。

 悔しくて、悲しくて、とめどなく涙が溢れ出してきた。
 ぼたぼたと大粒の雫が零れ落ちる。

「ーーだから嫌だったんだよ」

 どうだっていい。
 どうだっていい。
 どうだっていい。
 そのはずだったのに。

 一度知ってしまったその生温さは、まるで緩やかに回る蛇の毒のように僕の体を蝕んだ。

 知らなければ、こんな辛さも味合わずに済んだのに。
 期間限定の幸福の代償は、一生続くかとも思われる激痛だった。

「染谷、アンタが佳乃とどう言う関係だったのか、正直知らないわ。でも佳乃との付き合いで言えば、私たちの方が長いし、仲も良かったって、私は自信を持って言える」
「……鈴木さん」

 鈴木さんは僕の激昂にも取り乱すことなく、冷静に僕の顔を見つめた。

「でも、佳乃は自分のことを誰かのせいにしたりしない。それは佳乃に対する侮辱よ」

 鈴木さんはそう言って、鋭い双眸で力強く僕を睨みつける。

 にわかに訪れた、二人の間に横たわる沈黙。
 時間と共に、僕の心に渦巻く感情が少しずつ落ち着いてくのを感じた。

 親しい友達だった鈴木さんもきっと、果てしなく深く傷ついているはずだ。
 僕だけがこんなふうに言いたいことを言い散らかして、楽になるなんて間違っている。

「……ごめん、取り乱して」
「いいよ」

 鈴木さんはゆっくりと、そしてたしかに頷いた。

「ーー僕は、鈴木さんに怒られると思ってた」

 日向さんの選んだ「友人たちには出来る限り黙っている」という選択は、正しいものだったのか僕にも分からない。
 一緒に過ごせる最後の時間が減ってしまうわけだし、心の準備をする十分な期間もなかった。

 そんな中、僕は他のクラスメイトたちよりも先に秘密を知っていて、まだ外出ができた最後の時間を一緒に、そして大切に過ごすことができた。

 それは、親友である鈴木さんからしたら、恨まれてもおかしくはない。

「……なんでアンタに怒るのよ。さっきも言ったけど、べつに佳乃が亡くなったのも、病気を隠してたのも、染谷のせいじゃない。最後の時間をアンタと過ごすって、佳乃が選んだんだもの」

 鈴木さんをはじめ、クラスメイトの女子生徒たちは、通夜の間泣き崩れている子が多かった。

 しかし、鈴木さんは今は目を腫らしながらも、真っ直ぐとした姿勢で僕の目を見ている。

「だから、泣かないで」
「……鈴木さん」

 僕は頬を伝って流れた涙の跡を、くたびれた制服の袖で擦るようにして拭く。

「どうするの、これから」

 鈴木さんは、僕の目を見ながら問いかけた。

「ーーとりあえず、受験勉強するよ」

 それは、かねてより考えていた答えだった。

「切り替えが早いのね」

 鈴木さんは予想していた答えと違ったのか、意外そうな表情を浮かべた。

 でも、これは本気の答えだった。
 彼女が亡くなってから、僕なりに考えたこれからのこと。

 暗黒の世界で孤独に過ごしていた僕が、初めて未来について本気で考えた。
 日向さんのいない未来で、僕にしかできないこと。

「ーー約束したから、正体を見つけるって」
「約束……」

 多分、伝わらないだろうと思った。
 世界で、僕と彼女しか分からない、秘密の約束。

 僕はくるりと踵を返して、帰途に着いた。
 鈴木さんはそれ以上は何も言わず、着いてもこなかった。

 再び、コンクリートの道を一人で歩く。
 寒さでぼやけた頭の中で、緩やかに思考を巡らせる。

 天文台で過ごした、あの時間。
 日向さんは僕に、こんな惨めで情けない僕に、世界にとって必要だと言ってくれた。

 そうだ。
 こんなふうに重力に縛られて地面にへばりつく僕も、いつかなれるだろうか。

 彼女のように輝くことはできなくても。
 彼女のように大きく、あたりを照らせる存在にはなることはできなくても。

 足を動かなしながら、首をもたげて空を見上げる。
 ちょうど、夕焼けが夜空に変わる頃だった。

 そうだ、あの綺麗な夜空で輝く存在になりたい。
 世界のどこかで孤独を感じているかつての僕みたいな人間に、一人じゃないと伝えられる存在になりたい。

 夜空に輝く星に。
 そう、誰にも見つけられない星に。
 夢を見ていた。
 宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろす夢。

 白色で統一された船内は、名前も知らない様々な機器やコードが雑多に繋がれており、とても狭かった。
 丸くて小さい窓から見える景色は、漆黒に包まれた宇宙空間が広がっている。

 見下ろすようにして下を見ると、青く淡く光る地球が見えた。

 白い雲に覆われながら、広大な海が見える。
 茶色に見えるのは陸地だろうか。
 あの大陸の形はどこの国だろう。
 日本は、僕たちの住む街はどこなんだろう。

 宇宙ロケットの船内を改めて見回すと、僕ともう一人誰かが載っている気配がした。

 すると、そのもう一人が、無重力に揺られながら姿を表す。

 その人は宇宙服を着ている。
 頭まですっぽりと装備を整えて、いかにも宇宙パイロットといった様子だ。
 もちろん、顔は見えない。

 そこにいるのは誰か分からない。
 でも、誰かは一緒にいる。

 僕は気軽にその人に挨拶をした。
 おはようと、と。

 その相手はおはようと返した。
 宇宙に朝も夜もあるものかと不思議な気持ちになった。

 その人の顔を覗こうとする。
 君は一体誰なんだろう、と。

 いつもそこで目が覚める。

 重量挙げの選手が必死にダンベルを持ち上げるみたいに、重たい瞼をなんとか上げる。

 そこには見慣れた学生アパートの薄汚れた天井がある。
 これもいつものことだった。

 四年前から、何度も見るようになった夢。
 日向佳乃が死んでから、何度も見る夢。





 今日は大学の講義も、日課のコンビニのアルバイトもなかったので、久しぶりの休みだと思って一日寝ていた。

 深夜まで、大学の研究で必要な論文を読んでいたので、布団に入ったのは明け方だった。
 世間の人々が生活の営みを送っている日中、僕は泥のように眠り続けた。

 ガチャガチャとアパートの部屋の鍵が開く音で目が覚める。

 寝ぼけ眼で身体を起こすと、病院での仕事終わりの妹が部屋に帰ってきた。
 今年の四月から、妹は市内の病院で看護師として勤務している。

「あ、お兄ちゃん、もしかして今起きたの?」
「ん? ああ」
「昼夜逆転しちゃダメだよ。もう就職も決まったからって油断してたらーーお兄ちゃん?」

 妹は母親のように生活習慣について口うるさく注意をする。
 これもすっかり日常の一部になっていた。
 しかし急に言葉を切って、眉を寄せて不審げな目つきで僕の顔を見た。

「あれーー」

 ふと、僕も不自然なことに気がついた。
 いやあるいは、あまりに自然で気がつかなかった。

 僕の頰から、一筋の涙が流れていた。
 僕自身も泣いていたことに気が付いていなかった。

 夢から目が覚めたら泣いている。
 悲しいからではない。

 毎回、あの夢を見て目が覚めると、まるで記憶の残滓が零れ落ちるみたいに、涙が自然と流れていた。

「またーー佳乃さんの夢を見てたの」

 妹は部屋に上がると、悲しそうな表情を浮かべて僕の顔を覗き込んだ。

 僕は弱ったところを不意に見られたことが気恥ずかしくなって、急いで涙を拭って立ち上がった。

「いや、いいんだ。大丈夫。気にしないで」

 日向佳乃が死んで、もうまる四年が経った。

 県内の国立大学の工学部に進学した僕は、学生アパートで一人暮らしを始めた。

 妹も専門学校に進んで看護師になることを決めていたし、叔父さん夫婦に経済的な負担をかけたくなかった僕は、実家から通うと主張したが、叔父さんは「男は早く一人暮らしを経験した方が良い」と頑なに譲らなかった。
 申し訳ない思いを抱えながらも、僕は格安の寂れた学生アパートを選んでそこから大学へ通った。

 毎日大学に通い、勉強に打ち込んだ。
 周りからはやけに熱心で真面目な学生だなと驚かれたが、やりたいことは決まっていたから、そこまで苦ではなかった。

 高校三年生のとき、相貌失認が治った僕は、いわゆる普通のコミュニケーションが取れるようになった。

 ちゃんと相手の顔を見て、会話をする。
 そんな世界中の誰もが行っている当たり前が、やっと僕のもとにも訪れた。

 もう、一人きりで閉じこもっている必要はない。
 日向さんの存在に背中を押され、僕は大学ではしっかりと人付き合いも頑張った。

 相手と交流して友達になるというプロセスは、まったくもって得意ではなかったけど、理系の国立大学という地に足のついた学生が多い風土も相まって、なんとかやっていけている。

 もちろん、日向さんのように出会う人全員友達の人気者とは行かなかったけど、少なくとも顔を合わせれば挨拶をしたり、たまにご飯に行ったりするくらいの友人は何人か作ることができた。
 これは、かつての僕からしたらとんでもない進歩だ。

 そして大学四年生になり、激烈で過酷な就職活動の結果、僕はかねてより希望していた宇宙ロケットを開発している民間企業に内定をもらうことができた。
 嬉しかった。ずっと目標にしてきた道だったから。

 理系ということもあり、周りの同級生たちは大学院に進む人も多かったけど、僕はなるべく早く目的地に辿り着きたくて、就職を選んだ。

「ーー佳乃さんのこと、まだ想ってるの」
「……梨沙」

 妹は泣き出しそうな顔で僕のことを見つめた。

 日向さんは、太陽のように光り輝く存在だった。
 あたりを照らし、生命を与える日の光のようだった。

 彼女と僕は、光と影だった。
 いや、僕は影ですらないかもしれない。

 彼女は光に違いない。
 だけど僕は、この暗闇に支配された世界では、真っ黒に塗りつぶされた地面に己の輪郭すら描けずにいた。

 彼女に近づくこともできず、影にもなれずにいる。
 では僕は一体何者なのだろう。
 どうやって僕は、僕の輪郭を描けば良いのだろう。

 それは、アメリカに本社を置く検索エンジンサービスを使っても、岩のように分厚い聖典を引いても、どこにも答えは載っていないようだった。

「……お墓参り、行ってきたら。目標の宇宙ロケット開発には携われることになったんだし、区切りをつけるときなんじゃないかな」

 妹は諭すような口調でそう言った。

 いつだったか、かつても妹の説得で日向さんと和解できたことがあった。
 昔から僕よりも精神年齢の高いしっかりした妹だったけど、看護師になってからはさらに大人びたようだ。
 まったく、頭が上がらない。

「……そうだね。もう、そういうタイミングなのかもしれない」

 四年。
 長いようで、早かった。

 高校三年生の頃の僕は、どうしようもなく子供だった。
 自意識ばかりが肥大化して、何かあれば不遇な境遇のせいばかりにしていた。
 今の自分からすると、拳骨を頭に落としたくなるほどのクソガキだった自覚がある。

 じゃあ、今の自分はどうなんだろうか。

 今年で二十二歳になる。
 来年からは、立派なサラリーマンだ。

 僕が高校生の頃想像していた二十二歳は、もっと大人だった。
 格好良い、頼りがいのある大人。
 人の悩みを解決して、卒なく問題を処理して、誰かに頼られるような存在。

 でも、そんな大人になんてなれているはずもなく、今もまだ僕は鼻を垂れた子供のままだった。

 社会人になる前に、蹴りをつけなければならない。
 この宙ぶらりんな気持ちに。
 この過去に囚われている記憶に。





「ーー久しぶりだな」
「ご無沙汰してます」

 五十嵐先生は、くたびれたようなボサボサ頭を掻いた。
 その癖は四年たった今でも相変わらずらしかった。

「一丁前に挨拶できるようになったな」

 僕のかしこまった態度がおかしかったのか、五十嵐先生は楽しそうに笑った。
 なんだか子供扱いされるのが気恥ずかしくて、僕は目線を泳がせた。

 四年という時間が立っていたが、五十嵐先生の外見はほとんど変化がなかった。
 四年前の写真と見比べても違いが分からないかもしれない。
 相変わらずのボサボサ頭と黒縁メガネで、ダウナーな雰囲気を保っていた。

 僕が向かったのは、母校である西南高校だった。
 足を運んだのは、高校の卒業式以来だった。

 県内の国立大学への進学を機に、別の市の学生アパートに引っ越したから、自然と足が遠のいていた。

 あの頃と同じ校舎、あの頃と同じ中庭。
 見ているだけで、懐かしさに身が震える思いだった。

 幸いなことに、五十嵐先生は転勤せずに西南高校にまだ勤めていたので、挨拶に伺うことはそこまで難しくなかった。

 職員室で話し込むわけにも行かないので、僕と五十嵐先生は理科準備室で椅子に座って顔を突き合わせた。

「大学はどうだ。たしか県内の国立だろ」
「おかげさまで、あと少しで卒業です」
「そうか、俺は遊びすぎて留年したから、なによりだ」

 五十嵐先生はこともなげにそう話した。
 しかし、五十嵐先生が遊びすぎて留年とは、意外な事実だ。
 もちろん、初めて耳にした。

 もし日向さんが聞いたら大喜びして質問攻めにしそうなエピソードだ。

 こうして、他人の意外な一面を知っていくことが、案外大人になるということなのかもしれないと思った。

「大学院か? それとも就職?」
「えっと、就職です。宇宙ロケット開発を手がかけてる民間企業です」
「ほお」

 五十嵐先生は、珍しく感心したように声を漏らした。

「大したもんだ。染谷も成長したな。昔はあんなに斜に構えてたじゃないか」
「あの頃は……まあ」

 僕は気まずさから、なんとか愛想笑いで誤魔化す。
 高校生の頃の尖っていた性格を数年越しに改めて指摘されると、ものすごく恥ずかしい。

「あの頃は、僕の障害で、ご迷惑おかけしました。いろいろ便宜を図ってくれて」
「いんや、生徒のために便宜を図るのが俺たちの仕事みたいなもんだからな。迷惑じゃない。気にすんな」

 面倒くさそうに手を振って、僕が頭を下げるのを制止する五十嵐先生。

 五十嵐先生は、当時の僕が抱えていた障害を理解してくれていた、数少ない人間の一人だ。

 天文台の夜に、奇跡的に相貌失認が治るまで、特徴的なボールペンをわざと胸元につけて、僕の見分けがつくようにしてくれていた。

「あのボールペン、今でもつけてんだ。いつの間にか俺のトレードマークになったみたいでな。生徒からも評判が意外といいんだ」

 そう言って、胸元に挿してあるボールペンのキャップを指さす。
 僕が高校三年生の頃見たキャップのキャラクターとは変わっていたが、かつてと同じような特徴的な可愛らしい猫のデザインがあしらわれていた。

 僕はそれを見て、なんだか急に懐かしい感覚に襲われた。

「先生って、意外と卒業生のこと覚えてるんですね。もう四年も前なのに……」
「まあ、正直言ってお前らは特別だな。お前らっていうのは、染谷とーー」

 僕はその先の名前が予想できた。

「ーー日向佳乃。後にも先にも、お前らみたいな生徒は、なかなかいない」

 五十嵐先生は深く息を吸って、疲れた目つきで窓の外の景色をじっと眺めた。
 容姿はあまり変わらないけど、少しだけ目尻の皺が増えた気もする。
 僕にも、五十嵐先生にも、平等に時間は流れて、積み重なっている。

「その話をしにきたんだろ?」
「まあ……はい。社会に出る前に、自分の中で、整理をつけておきたくて」

 懐かしい景色。
 古びた校舎に囲われた、あの中庭のベンチで、僕は彼女を見つけた。
 もう、この世にはいない、夢見る眠り姫を。

「日向はなんていうか、生きているスピードが早い奴だった。止まることのない、まるで短距離走の選手みたいだった。速くて、速すぎて、世界からも飛び出していった。そんな感じだ」

 昔を思い出すような、遠い目をして外の景色を眺めながら、五十嵐先生はそう口にした。

 僕は五十嵐先生の言葉を、何も言わずに黙って聞いていた。

 今ではこの校舎も中庭も、理科準備室も図書館も、僕のまったく知らない生徒たちが過ごしている。
 あの生徒で溢れた教室にも、もう僕や日向さんのことを知る人は誰もいない。
 あの頃同じ授業を受けていたクラスメイトたちは、今はもう違うどこかで、それぞれの人生を生きている。

 それは当然の事実なのに、どうにも不思議に感じられた。

「お前は今どうなんだ? もう、吹っ切れたか?」

 五十嵐先生の問いかけに、僕は少し考え込んだ。

 吹っ切れているとは、正直言い難い。

 今でも彼女の夢を見る。
 まさに彼女が言っていた、宇宙ロケットに乗って地球を見下ろす夢を。

 彼女がしつこいくらいに言っていたせいで、刷り込まれて僕に移ってしまったのか。
 あるいは、彼女への未練が潜在意識として、夢というスクリーンにその幻想を写しているのか。

 しっかりと大学の勉強も頑張ったと思う。
 彼女の生き方に背かないように、大学では人間関係からも逃げず、しっかりと向き合える仲間にも出会えた。

 この四年間の自分の姿だけ見れば、しっかりと彼女の想いを引き継いでいると言えなくもない。

 でも、やはり心の中の悲しみはなかなか癒えてくれなかった。

「まだーー忘れられません。今でも、夢に見るくらい」
「そりゃ……悪いこととは言わないけどよ」

 五十嵐先生は、なんとも言えない表情で、困ったように眉を寄せた。

 なんと返したものかと僕が迷っていると、五十嵐先生がスーツの内ポケットをごそごそと漁り始めた。

「まあ、お前が話しにきてくれたのは嬉しかった。やっとーー渡せるよ」
「渡せる?」

 僕は五十嵐先生の言葉の意味が分からず、思わず素っ頓狂な声で聞き直した。

「実は、日向に頼まれてた。もし卒業後にお前が俺に会いに来る機会があったら、渡して欲しいって」

 そう言って、五十嵐先生が差し出したのは、真っ白の小さい封筒だった。

 恐る恐る、震える手でそれを受け取る。

 宛名には、染谷悠介様と書いてある。
 差出人には、日向佳乃と。

 名前の横に添えられた日付は、四年前になっていた。

 そんな。
 これって、まさか。

「これ……」
「何年後になってもいいから、渡してくれって頼まれてよ。俺は自分で渡したほうが確実だぞって言ったんだが、『どうしても染谷君が自分で過去に向き合おうと思った時に読んで欲しい』って譲らなくてよ」

 五十嵐先生は昔を懐かしむように微笑んだ。

「まるで、今日のことを予言してたみたいだな」

 手元の白い封筒へ、目を落とす。
 そんなことがあったなんて、僕はまったく知らなかった。

 天文台で語り合ったあの日も、病気が深刻化し集中治療室に入って面会拒絶になる直前も、日向さんは手紙の存在なんて一言も言わなかった。

「まあ、読んでみろ」
「はい……」

 僕は促されるがまま、封筒を開いた。
 中には数枚の便箋が折り畳まれて封入されていた。

 緊張で、指がかさつく。
 丁寧に描かれた文字を、走るようにして目で追う。
 便箋に書かれた丸みを帯びた文字は、たしかに日向さんのものだった。





『染谷君へ

 こんな形でのお手紙になってごめんなさい。
 このお手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないんですね。

 こんなありきたりでドラマみたいなセリフを、自分がいう日が来るなんて夢にも思ってみませんでした。
 でも、そんな日が来てしまったのだから、せっかくだから使ってみました。

 私が死んで、染谷君は悲しんでいるかな。
 どうだろう、染谷君が泣いているところは見たことがないけど、私のために泣いてくれていますか。

 きっと、私の死は染谷君にとってショックを与えると思います。
 べつに全然気になんないぜ! って前向きに歩いてくれたら、それはそれで嬉しいけど、でも染谷君はそういうタイプじゃないと思うから。

 もし、自分の過去と訣別したいと、そう決意した日が来たなら、このお手紙を読んで欲しいなと思ったので、五十嵐先生に託すことにしました。

 五十嵐先生にお礼言っといてね!
 染谷君以上に、いろんなわがままを言って困らせてしまっていた気がします。
 でも、私の担任なんだから、仕方ないよね。

 私がもう治らない身体だと知ったのは、半年ほど前でした。

 二年生の冬に、一度家で意識を失って倒れて、検査の結果心臓が悪いことが分かりました。
 そしてそれがお父さんが亡くなった原因と同じ病気だってことも。

 きっと、もう私は長くない。
 直感的にそう感じました。
 そして、その直感は当たってました。

 そう、検査の末、私が主治医の先生から言い渡されたのは、残酷なプロポーズでした。

 私はもう死を待つだけの存在。
 私の世界はここで終わることは、神様の決定事項みたいでした。

 検査入院したとき。
 真四角の白い病室を眺めていると、時間の流れから取り残された気分になりました。

 世の中では色んな人間が、色んな経験をして、色んな出会いと別れを繰り返している。
 もうこの世を去るだけの私には、全てが他人ごとに思えました。

 意外に思うかもしれないけど、病気がわかったとき私は、正直いろんなことを諦めようと思ってました。
 人生があと少ししかないと分かっているのに、何かを頑張ろうとか、特別なことをしようという気分にはなれませんでした。

 自分でも分からないけど、たぶん薬の副作用による身体の怠さとか、人生に対する諦観とか、いろんな理由が重なっていました。

 でも、思い出したのです。

 短かった人生を振り返るつもりで、めくっていた昔の卒業アルバムや写真。
 そこに写っていた、小学校三年生の染谷君を見つけました。

 お父さんの死で、悲しみの底に落ちていた私。
 きっと、幼い頃同級生だったあの子も、同じような気持ちを抱いていたはず。

 あのときと同じような気持ちを、お母さんや、仲の良い友達に味あわせるわけには行かない。

 生きているうちに、みんなの心の中に何かを残したい。

 人生ってこんなに面白いんだぞ!
 日向佳乃はこんなに後悔のない人生を最後まで送ったんだぞ!

 そう伝えようと思ったんです。

 それ以来、なんとか服薬を続けながら、学校に通いました。

 所属していた陸上部も最後の大会まで続けたし、活動時間が持つうちは塾にも通い続けました。
 もちろん、お母さんと先生たち以外には病気のことは内緒で。

 でも、だんだんと限界は近づいていました。
 服薬の量が増えて、副作用で身体が上手くコントロールできなくなってきました。

 体を動かしたりすることも難しくなって、放課後病院に通う日も増えました。

 もう、そろそろ普通の生活は難しいかもしれない。
 そんなことを考えているとき、染谷君に出逢いました。

 まさか、君の方からやってくるなんて思っても見ませんでした。
 それも、眠っている私を起こしにやってくるなんて。

 この不思議な縁を失いたくなくて、私は思い付いたお願いをすることにしました。

 宇宙ロケットの夢の正体を一緒に探して欲しい。

 我ながら、無茶苦茶なお願いです。
 でも、君は何も言わずに付き合ってくれました。

 それからは楽しい日々でした。
 身体のことを、病気のことをなんとかバレないように気をつけながら、染谷君と遊びました。

 そう、遊んでいたんです。
 小学校低学年の頃に戻ったような、そんな不思議な感覚でした。

 でも、染谷君は昔と変わっていました。
 その理由が、脳の障害にあると知ったときは本当に驚きました。

 月並みなセリフになってしまうけれど、病気が治って良かったです。
 本当に、本当に良かった。

 そして、天文台に行って、一緒に夜空を眺めましたよね。

 嬉しかったです。
 嬉しかったのです。

 もう、私はカーテンの閉まった医療機器に閉じられた部屋から出ることはできません。
 あの天に広がる夜空が、私にとっての最後の夜空です。

 あの夜、私が伝えたことは本心です。

 優しくて、賢くて、手先が器用で、他人の痛みが分かる染谷君なら。
 染谷君ならきっと、周りの人を幸せにすることができます。

 大切な誰かのために頑張ったり、戦ったりすることができます。

 日向佳乃は、染谷悠介のことを、信じています。
 どうか、いつかの私みたいな、世界のどこかで眠っている存在を、起こしてあげてください。

 染谷君のことは、好きとか、なんだかそんなありきたりな表現では説明できません。
 染谷君との関係は、上手く言い表すことはできそうにありません。

 それでは、そろそろ検査の時間なので、ここらで手紙を書き終えようと思います。

 ありがとう、出会ってくれて。
 誰にも見つけられない星を、見つけてくれて。』





 手紙を読み終わった僕は、そっと理科準備室の机に便箋を置いた。

「読み終わったか?」
「……はい」

 五十嵐先生は、そっと問いかけるように声をかけた。
 僕は潤む目を必死に抑えながら、ゆっくり頷いた。

「まあ、これ以上は無粋だから、俺からは何も言わないでおくよ」

 僕は俯きながら、涙がこぼれないように必死に耐えた。

「五十嵐先生、あの世ってあると思いますか」
「……自殺でもする気か?」

 怪訝な表情を浮かべる五十嵐先生。
 しかし僕は即座に首を振って否定する。

「いや、死にません。むしろ、めちゃくちゃ色んなことを経験して、めちゃくちゃ面白いこと探して、周りの人間幸せにしまくってから、百歳まで絶対生きるってきめました」
「……そうか」

 僕の馬鹿げた決意表明に、五十嵐先生は納得したように笑った。

 宇宙ロケットを作ろう。
 僕のこの手で作った宇宙ロケットが、地球の大気圏を飛び出して、この地球の重力を振り払って、美しい宇宙空間に向かう。

 そんなイメージが、頭の中で浮かんだ。
 でも、作る方だから、自分が宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろすことはちょっと難しいかもしれない。
 もし日向さんがいたら、文句を言われそうだけど、こればっかりは仕方ない。

「じゃあ、俺はもういくよ」
「あ、あの、ありがとうございました」
「ーーおう」

 五十嵐先生は椅子を立ち上がって、理科準備室の扉をガラガラと開けた。

 去り際、五十嵐先生はこちらを振り返った。

「もし、あの世があったら、どうするんだ」
「それはーー」

 僕はあえてその先は何も答えず、静かに顔を上げて、窓から見える外の景色を眺めた。

 もう二度と出会うことはない君へ。

 探しに行こう。
 この宇宙のどこかで光っている君を見つけよう。

 いつかどこかで、君にまた出会えたなら、真っ先に伝えようと思う。

 誰にも見つけられない星を、やっと見つけたと。

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