アレックスと名前で呼び合うことになったのは、わりと大きな進展だと思う。
好かれたと能天気に言うことはできないのだけど、少なくとも、嫌われることはなくなったと思う。
ただ、安心はできない。
しっかりとした友達になって、いずれくるであろう断罪イベントを潰しておきたい。
あと、彼のような人は好ましいので、個人的にも仲良くなりたい。
そこで、帰宅後、フィーにアレックスと仲良くなったきっかけについての話を聞いた。
フィー曰く、アレックスは甘いものが好きらしい。
お菓子を作っておすそ分けしたことがきっかけとなり、今のように仲良くなったのだとか。
そのことを聞いた私は、さっそくお菓子を作ることにした。
エプロンを身に着けて、屋敷の厨房に立つ。
「よし。がんばりますよ」
「あの……アリーシャ姉さま? どうして、突然、お菓子作りなどを?」
「もちろん、アレックスと仲良くなるためよ」
「うーん……アリーシャ姉さまなら、お菓子をプレゼントしなくても、自然と仲良くなることができるような気が……」
なにやらつぶやいているものの、意味がよくわからない。
自然に仲良くなるわけがない。
というか、むしろ嫌われるのでは?
なにしろ、私は悪役令嬢なのだから。
スタート時は、すでにマイナス。
だから、がんばってがんばってがんばって……
好感度がカンストしてしまうくらいが、たぶん、ちょうどいいはずだ。
そのために、できることはなんでもやっておきたい。
「というわけで、フィー。お菓子作りを教えてもらえませんか? 私、お菓子作りどころか、料理もまともにしたことがなくて」
「は、はい。でも……私でいいんですか? コックさんとかに頼んだ方が、確実だと思うんですけど」
「アレックスの舌と胃袋はフィーにがっちりと掴まれているのだから、フィーに頼んだ方がいいと思わない?」
「掴んでいるのかな……?」
「父さまから聞いたのですが、フィーはお菓子作りは得意なんですよね?」
「……はい。甘いものが好きで、中でもクッキーが一番好きですから」
「そうなのですか?」
「小さい頃、作り方を教えてもらったことがあって。あの人にとっては、戯れでしょうけど……」
「フィー?」
そう言うフィーは、なぜか懐かしいような辛いような、不思議な顔をしていた。
「えっと……大丈夫ですか?」
「あっ、だ、大丈夫です。アリーシャ姉さまのために、がんばります。小さい頃は散々でしたけど、あれから練習を重ねて、今ではけっこう上手になりましたから」
懐疑的な顔をするものの、フィー意外に頼むことは考えられない。
そのまま強引に押し切り、お菓子作りを教えてもらうことに。
「さて、がんばりますよ」
器具の準備完了。
材料の準備完了。
必ずおいしいお菓子を作り、アレックスの心を掴んでみせよう。
――――――――――
「アリーシャ姉さま……その、包丁はお菓子作りに使いません」
「目分量ではなくて、最初はきちんと計ってください。そのためのレシピなんですよ。プロならともかく、お菓子作り初心者には無理です」
「アレンジはダメです。絶対ダメです。おいしくなりそうだから? そういう考えが、なにもかも台無しにするんです」
「わっ、わあああぁ!? バターを直火にかけるなんて、なんでそんなことをするんですか!? フライパンなどに入れて、間になにかを挟むに決まっているじゃないですか!」
「あっ、あっ、あああぁ……そんな適当にしたら……いえ、もう無理です。手遅れです……」
――――――――――
以上、現場からでした。
フィーの指導は、最初は優しいものの、途中からなぜかスパルタになり……
最後の方は、なぜか投げやりな感じになっていた。
投げやりというか、全てを諦めた?
なんで、そんなことになるのか。
さっぱりわからない。
「というわけで、完成ですね!」
「……はい、完成です」
ものすごく疲れた様子で、フィーが相槌を打つ。
どうしたのかしら?
久しぶりのお菓子作りらしいから、それで疲れたのかな?
でも、そんなところもかわいい。
「出来の方は……」
初心者ということで、誰にでも作れるクッキーをチョイス。
その成果がテーブルの上に並べられていた。
形はちょっと歪だけど、まあまあだと思う。
ところどころ焦げているけれど、むしろ、それが良いアクセントになるはず。
「うん、我ながらなかなかじゃないでしょうか? 八十点をあげていいですね」
「えっ!?」
「フィー?」
「い、いえっ、その……なんでもありません」
ものすごい甘い採点なのでは?
なんていう顔をしていたような気がするのだけど……
うん、気の所為よね。
「えっと……とりあえず、なんとか、ギリギリのところで、どうにかこうにか、本当にハラハラしましたけど完成したので、次はラッピングをしましょう」
なぜだろう?
言い方がものすごく引っかかる。
でも、そのことを問うよりも先に、別の疑問が出てくる。
「ラッピング? タッパーに入れて渡すのでは、ダメなのですか?」
「ダメです」
即答!?
「夕飯のおすそ分けをするんじゃないんですから……というか、アリーシャ姉さまは、どうしてそんな平民のことに詳しいんですか?」
「まあ、色々とありまして」
前世の知識とは言えない。
「アレックスと仲直りするためのものなんですよね? それなのにタッパーなんて、ちょっとないと思います」
「そういうものですか……」
前世での恋愛経験はゼロ。
乙女ゲームの攻略対象にすら、何度か失敗して、振られてしまう始末。
そんな私に、プレゼントする際の注意点なんてわかるわけがない。
なので、フィーの話はとても役に立つ。
さすが私の妹。
かわいいだけじゃなくて、頭も良い。
最高の妹ね。
略して、最妹。
「タッパーじゃなくて、バスケットなどがいいと思います。それに、ちょっとだけリボンなどの飾りを載せておくと、なお良いです」
「なるほど……ついでに、花も飾りますか?」
「それはやりすぎです」
なぜか却下されてしまう。
むう。
ナイスアイディアだと思ったのに。
なにがよくてなにがダメなのか、いまいち基準がわからない。
そう言うと、フィーがくすりと笑う。
「アリーシャ姉さまも、苦手なことがあるんですね。私、なんか少し安心しました」
「?」
なんのことだろう?
フィーの考えていることがよくわからず、私は首を傾げるのだった。
翌日。
私はフィーと一緒に、学舎の手前で馬車を降りた。
アレックスに手作りクッキーを渡すためだ。
「アレックスは、ちゃんと受け取ってくれるでしょうか……?」
お前の作ったクッキー?
そんなもの食べるわけないだろ!
……なんてことを言われて、拒絶されてしまいそうな気がした。
昨日は、少し仲良くなれたような気がしたけど……
でも、それは私の勘違いかもしれない。
そもそも私は悪役令嬢なのだから、その可能性が高い。
なので、フィーに仲介役をお願いして、ついてきてもらったというわけだ。
「大丈夫です。アリーシャ姉さまが一生懸命作ったものだから、味はともかく、きっと喜んでくれると思います」
「ありがとう、フィー。……あら? 味はともかく?」
「と、とにかく。アレックスなら、絶対に受け取ってくれます。アリーシャ姉さまはなにも心配しないで、もっと自信を持ってください」
「……そうですね。不安になっていても仕方ないですし……うん、フィーの言う通りですね。ありがとう、フィー。あなたが一緒でよかった」
「えへへ」
はにかむ妹、かわいい。
「ん?」
ほどなくして、アレックスが姿を見せた。
彼は徒歩通学なので、こうして門の前で待っていれば、必ず顔を合わせることができる。
「よう、シルフィーナ。それと……アリーシャも」
「はい。おはようございます、アレックス」
「おはよう、アレックス……って、あれ?」
片手を上げて、気軽な様子で挨拶をするアレックス。
そんな彼を見て、フィーが怪訝そうな顔に。
どうしたのだろうか?
「どうしたんだ、こんなところで」
「え、えっと……今、アリーシャ姉さまのことを名前で……?」
「ん? ああ、まあな。成り行きで、そういうことになった」
「な、成り行き……?」
「で、どうしたんだ?」
「あ、うん。えっとね……アリーシャ姉さまが、アレックスに渡したいものがある、って」
「渡したいもの? なんだよ、それ」
「コレですよ」
ふふんっ、とドヤ顔をしつつ、アレックスにクッキーをプレゼントする。
これをお前が?
すごいな、こんなにうまそうなクッキーは初めてだ。
やるじゃないか、見直したぜ。
……なんていう反応を期待していたのだけど。
「へー、クッキーか。サンキュー」
「あら?」
やけに淡白な反応だ。
もっとこう……喜んでくれてもいいのでは?
いや。
嫌な顔をされず、突き返されなかっただけマシと思うべきなのか?
「これ、アリーシャが?」
「あ、はい。フィーに教えてもらいながら作りました」
「だろうな。ところどころ焦げてるし、シルフィーナが作ったなら、こうはならないな」
「それは、私ならうまく作れるわけがないという、マイナスの信頼によるものですか? それとも、フィーならもっとうまく作れるだろうという、妹に対するプラスの信頼によるものですか?」
「その両方だな」
「むう。私へのイヤな信頼があることを怒るべきか、それとも、フィーと仲良くしていることを褒めてあげるべきか。悩みますね」
「まあ、せっかくもらったからな。ありがたくいただくさ」
そう言いながら、アレックスはクッキーをそっと鞄の中へ。
それなりに丁寧に扱っているところを見ると、言葉とおり、ちゃんと食べるつもりなのだろう。
どうしよう。
少しうれしい。
「できたら、感想を聞かせてくれるとうれしいです」
「俺は世辞は言わないぞ?」
「それでも構いません。お菓子作りはなかなか楽しかったので、機会があればまた作りたいので、その時の参考に」
「えっ!?」
なぜか、フィーがぎょっとした顔をしていた。
また作るの!? と、今にも悲鳴をあげそうだ。
はて?
なぜそんな顔をするのかしら?
「どうしたの、フィー?」
「あ、いえ、その……アリーシャ姉さま? またお菓子を作るということは、私もまた、あの混沌と惨状に……いえ、参加することに?」
「そうしてもらえると助かりますが、ですが、いつもフィーに頼ってばかりではいられませんね。それに、フィーの時間を奪ってしまうのも申しわけないから、今度は一人で挑戦してみようかしら?」
「それだけは絶対にやめてくださいっ!!!」
ものすごい勢いで反対された。
なんで?
「……お前、苦労してるんだな」
「うぅ、アレックスはわかってくれるんだね……」
なにかを察したらしく、アレックスはフィーを慰めるように、その小さな肩をぽんぽんと優しく叩いていた。
なぜだろう?
ものすごくバカにされているような気がする。
まあいいや。
それよりも、アレックスと仲良くならないと。
「ちょっと、フィーを借りますね」
内緒の話というように、フィーを抱き寄せる。
「なんですか、アリーシャ姉さま?」
「クッキーのおかげで、こうして話をすることができたのだけど……この後は、どうすればいいのかしら? フィーの時は、どうやってアレックスと仲良くなったのですか?」
「えっと……私の時は、アレックスが私の作ったクッキーを食べて、その感想やどうやって作ったのかを聞いてきたりして、そのまま話をして……という感じなんですけど」
「なるほど」
「あ……アリーシャ姉さま」
フィーがさらになにか言おうとしたものの、私はすでに行動に移っていた。
再びアレックスの前へ。
「ねえ、アレックス。せっかくだから、今、クッキーを食べてくれませんか?」
「うん? なんでだよ」
「感想が聞きたいんです」
「聞くまでもないんじゃないか?」
「それは、どういう意味ですか?」
「焦げてるし形は歪だし、まずいかそこそこまずいか、その二択くらいしかないだろ。あ、むちゃくちゃまずいって選択もあるから、三択か」
「……あなた、自分が今とてつもなく失礼なことを言っているという自覚はありますか?」
「さてな」
アレックスはいたずら小僧のように、ニヤリと笑う。
完全に確信犯だ。
こ、こいつ……!
告発イベントのトリガーを握っているから、仲良くしないといけないと思っていたのだけど……でも、ダメだ。
ものすごく生意気。
仲良くするなんて、できそうにない。
それでも、我慢をして良好な関係を……
「まあ、採点くらいはしてやるよ」
ダメ、やっぱ無理。
今、ハッキリとわかったのだけど、アレックスとはうまくやっていけないだろう。
告発イベントのことは、他でどうにかするとして……私は、言いたいことを言わせてもらう。
「まあ、そうですね。アレックスのような大雑把な方に、繊細な味がわかるとは思えないですし……申しわけありません。無茶を言ってしまいました」
「なんだと!?」
「なんです!?」
バチバチと火花を散らしてにらみ合う。
その傍らで、
「アリーシャ姉さまとアレックスは、特になにかする必要がないほど、仲良くなっていると思うのですが……」
ぽつりと、フィーがそんなことを言うのだった。
アレックス・ランベルト。
彼は貴族が嫌いだった。
母の心と体を弄び、飽きたら捨てる。
面倒なことになりそうになると、途端に手を離す。
理不尽極まりない話だ。
怒りを覚えて当然。
世の中の貴族全員が腐っていると勘違いしても仕方ない。
実際、学舎に通うことで、貴族のことをさらに知ることができた。
大抵の貴族は、平民である自分を見下している。
露骨な態度に出るものは少数ではあるが、その目やちょっとした仕草で、平民を下に見ていることはすぐにわかった。
小さい頃からの環境故に、アレックスはそういうものに対して敏感で、過敏だった。
貴族なんてくだらない。
ろくでもない者ばかりで、言葉を交わすだけではなくて、顔も見たくない。
ただ、シルフィーナだけは別だ。
幼馴染という間柄のせいか、彼女を嫌うことはなかった。
むしろ、目の離せない妹のような感覚を抱いて、あれこれと気にかけるほどだった。
だから、シルフィーナが本家に引き取られて、公爵令嬢の姉ができると聞いた時は驚いた。
貴族らしくないシルフィーナが、本家とやらでうまくやっていけるのだろうか?
公爵令嬢の姉にいじめられたりしないだろうか?
あれこれと心配をして、落ち着くことができない。
そして、アレックスは覚悟を決めた。
もしも公爵令嬢の姉がどうしようもないヤツだとしたら、どんなことになったとしても、シルフィーナを守る。
公爵令嬢にケンカを売るなんて、自殺以外のなにものでもないが……
しかし、必要とあれば迷うことなくケンカを売ろう。
アレックスは、それだけの覚悟を決めていた。
それなのに……
「フィーがウチに引き取られたことで、彼女は私の妹になりました。フィーは、私が決めた妹の愛称です」
実際に顔を合わせると、アリーシャ・クラウゼンは、とても優しい笑顔でそんなことを言うのだった。
拍子抜けだった。
もっときつい表情をしていて、シルフィーナのことをぞんざいに扱っているのだと、そう決めつけていたのだけど……
とてもじゃないけれど、そんな風には見えなかった。
だがしかし。
貴族に対して根強い不信感を抱いていたアレックスは、アリーシャは善人を装っているだけで、裏では腹黒いことを考えているに違いないと決めつけた。
……今にして思うと、なかなかに恥ずかしいことだ。
相手の話をろくに聞こうとせず、こうだ、と自分の価値観で判断して、決めつける。
それはまるで、アレックスが嫌う貴族そのものではないか。
ただ、当時のアレックスはそこまで心の余裕がなくて、ただただ、アリーシャに牙を剥いて唸ることしかできなかった。
そうすることが正しいと、信じて。
その価値観が崩れたのは、早くも翌日のことである。
昼休み。
シルフィーナが貴族の女子生徒達に絡まれていた。
突然、本家に引き取られたことで目立ち……
そして、シルフィーナの気弱な性格もあって、さっそく質の悪い貴族の女子生徒達に目をつけられていた。
アレックスは平民であり、貴族である彼女達の機嫌を損ねれば、どのような不利益を被るか。
自分一人が狙われるのならば問題はない。
しかし、お世話になっている教会まで目をつけられるようなことになれば……?
そう考えると迷ってしまい、すぐに動くことができなかった。
情けない。
シルフィーナのことを大事な幼馴染だと思っているくせに、いざとなると助けることができず、自分の都合を優先してしまうなんて。
悔しく。
自分に対して、腹立たしかった。
そんな時だった。
突然、下級生の教室に上級生のアリーシャがやってきたかと思うと、周囲の目を気にすることなく、女子生徒達に説教をした。
自分の妹を守るべく、欠片も迷うことなく行動した。
それを見たアレックスは、彼女のことを、素直にかっこいいと思った。
自分にはできないことをやってのける。
妹を守るという言葉を、嘘つくことなく実行してみせる。
なんてかっこいいのだろう。
まるで、物語に出てくるヒーローだ。
それに比べて自分は……
嫉妬やら悔しいやら情けないやら、色々な気持ちがごちゃごちゃになり、暗い感情さえ湧いてきた。
こんなところはシルフィーナに見せられない。
なにも言わず、見なかったことにして立ち去ろうとして……
その前に、せめてアリーシャにお礼を言うことにした。
色々ときつい言葉を投げかけておいて、今更なにをと思われるかもしれないが……
そうせずにはいられなかった。
最低限、それくらいのことはしないといけないと思った。
なにもできない役立たずだとしても、お礼を口にしない不義理は働きたくなかったのだ。
もしかしたら、嫌な顔をされるかもしれない。
なにを今更、と言われるかもしれない。
それでも話をして……
そして、予想外のことを言われた。
「十分にフィーの力になっています」
まさか、アリーシャから認められるなんて。
意外な展開に驚いて……
次いで、その言葉をうれしいと思っている自分に、アレックスは再び驚いた。
嫌いなはずなのに。
貴族なんて、どうしようもないはずなのに。
でも……それは、間違いだったのかもしれない。
ただ単に、自分の視野が狭かっただけなのかもしれない。
どうしようもない貴族が多いことは確かだけど……
でも、アリーシャ・クラウゼンは違う。
言葉だけではなくて、シルフィーナのことを心から大事にしている。
アレックスが知るろくでもない貴族とは違い、誇りというものを感じられる。
そしてなによりも、優しい。
大げさだと笑われるかもしれないが、まるで女神のようだ。
その優しさに、アレックスも救われていた。
アレックスは不器用であるが故に、素直になれず、時に荒い言葉をぶつけてしまうが……
アリーシャのことは、もう嫌っていない。
シルフィーナの姉として、これ以上ないほどにふさわしく、彼女になら安心して任せられるだろうという信頼も抱いていた。
ただ、それだけではない。
アリーシャに対する思いは信頼だけではなくて、他の感情も秘められていた。
今はまだ、とても淡い想い。
なにかあれば、すぐに変わってしまうような、小さな火種。
しかし、もしかしたら消えることなく、ずっと胸の奥に残るかもしれない。
そして、なにかのタイミングで一気に燃え上がるかもしれない。
その感情の名前は……
「アリーシャ・クラウゼンか……ははっ、おもしろいヤツだな」
「おはようございます」
「おはようございます、アリーシャさま」
「お姉さま、おはようございます!」
朝。
馬車から降りて学舎に向かう途中、生徒達と挨拶を交わす。
今までは、特に声をかけられることもなかったのだけど、最近はやけに多い。
特に女子生徒。
なぜか目をキラキラと輝かせていて、好きなイケメンアイドルと接しているかのような反応だ。
私は女の子なのに。
まあ、無視するわけにもいかず、普通に挨拶をしている。
すると、隣を歩くフィーが、どこか誇らしげな顔をした。
「どうしたのですか、フィー。その顔は?」
「みんなが、アリーシャ姉さまの魅力に気づいてくれて、妹としてうれしいんです」
「魅力? 気づく?」
なんのことだろう?
乙女ゲームでは、悪役令嬢のことを好きになる奇特なファンも微数ながらいたものの……
それと同じ、ということ?
いや、まさか。
そんなことはありえない。
私、なにもしていないもの。
「フィーは、たまによくわからないことを言うんですね」
「……アリーシャ姉さまは、どうしてこう、たまに残念になるんですか」
ひどいことを言われたような気がする。
最近、フィーがものをハッキリと言うようになり、たくましくなっているのだけど……
でも、良いことばかりではなくて、こうして困った反応を見せることもある。
まったく、誰に似たのやら。
小さくため息をこぼしていると、ふと、憂いを帯びた乙女の声が聞こえてくる。
「あぁ……今日もなんて素敵なのかしら」
「あの宝石のような瞳で見つめられたら、私、どうにかなってしまうかもしれません」
「一度でいいから、そっと甘く、耳元でささやいてほしいですわ」
女子生徒達に、うっとりと甘い視線を送られているのは、もちろん私ではない。
その視線の先に、一人の男子生徒が。
男子にしては、やや背は低い。
ただ体は細身で、それでいてしっかりと鍛えられている様子で、とてもスマートだ。
モデルのような魅力があり、ついつい視線が吸い寄せられてしまう。
銀色の髪は絹のよう。
緑の瞳は宝石のよう。
体が芸術品で作られているかのようで、輝いていると言っても過言ではないだろう。
この国の第三王子、ジーク・レストハイム。
学年問わず、多くの女子生徒達の心を魅了している美男子であり……
そして、乙女ゲームの攻略対象であるヒーローだ。
ちなみに、私と同い年で、二年。
クラスは違う。
穏やかな物腰で誰に対しても優しいことから、微笑みの王子と呼ばれている。
ゲームではなんとも思わなかったけど、こうして現実になると、かなり恥ずかしい呼び名だ。
私だったら、赤面してしまいそう。
「アリーシャ姉さま?」
「……いえ、なんでもありません」
思わず顔をひきつらせてしまう私を見て、フィーが不思議そうな顔に。
適当にごまかしながら、歩みを再開する。
しかし、その頭の中はジークのことでいっぱいだ。
もちろん、彼の華麗な姿に心を奪われたわけではなくて……
やがて訪れるであろうバッドエンドを、どう回避するか、ということを考えている。
「確か……」
ゲームの内容を思い返す。
アレックスが悪役令嬢アリーシャ・クラウゼンを告発するのならば、ジークは断罪する立場にある。
アリーシャ・クラウゼンを裁判にかけて、その罪状を言い渡す。
それが彼のヒーローとしての役割だ。
彼もまた、重要なキーマンだ。
うまくいかずアレックスに告発されたとしても、ジークと仲良くなっていたら、告げられる罪状が軽くなるかもしれない。
彼は人情家でもあるのだ。
普段なら死刑だけど、うまくいけば追放くらいで済むかもしれない。
いや、追放もイヤだけど。
でも、なにもしないなんて選択肢はない。
アレックスと並行して、ジークとも仲良くなっておかないと。
「とはいえ、どうしたものか」
アレックスでさえ、なかなかうまくいっていない。
それなのに、ジークとも仲良くしないといけないなんて……
うぅ、忙しい。
というか、そんなこと私にできるのかしら?
不安しかない。
「あの……アリーシャ姉さま?」
フィーが心配そうな顔でこちらを見る。
「なにか問題でも?」
「どうして、そんなことを?」
私、顔に出ていたかしら?
ポーカーフェイスを貫いていたと思うのだけど。
「アリーシャ姉さまのことだから、なんとなくわかります」
「そう、なのですか?」
「はい。私は、いつもアリーシャ姉さまのことを見ていますから」
えへへ、とはにかみながら、フィーがそう言う。
かわいい。
かわいいのだけど、いつも、というところがちょっと怖い。
うーん?
私の妹が、妙な方向にズレていっているような?
まあ、大丈夫だろう。
なにしろ、フィーはメインヒロインなのだ。
妙な方向にズレたとしても、それがマイナスにとられることはないはず。
それに、なんだかんだで、結局のところかわいい。
かわいいは正義。
だから問題ない。
「あ、あの……なにか困り事があるのなら、私に言ってください。私になにができるか、それはわかりませんけど、というか、できない可能性の方が高いですけど……でもでも、アリーシャ姉さまの力になりたいんですっ」
「……ありがとう、フィー」
「ふわっ」
妹に対する愛しさが爆発してしまい、その場でフィーを抱きしめる。
「そう言ってもらえると、とても安心します。私は、こんな妹がいてくれて、とても幸せものですね」
「……アリーシャ姉さまは、私がいたら幸せなんですか?」
「ええ、もちろんです」
「……ありがとうございます」
フィーはわずかにうつむきつつ、小さな声でそう言う。
「どうして、フィーがお礼を?」
「そんな気分なんです」
ちょっとはぐらかされたような気がした。
でも、追求する雰囲気でもないので、そのままにしておく。
「……それじゃあ、一つ聞きたいのですが」
「はい、なんなりとっ」
「フィーは、ジー……レストハイムさまとは親しいですか?」
「えっ!? そ、そんな……王子さまと親しいなんて、恐れ多いです。親しいどころか、挨拶をしたこともありません」
なるほど。
そうなると……まだあのイベントは起きていない、ということか。
二人目の攻略対象は王子さま。
同じ学舎に通っているとはいえ、王子さまとの接点なんてなかなか生まれない。
それはフィーも例外ではなくて、最初は、まったくの赤の他人。
それが、どのようにして将来を誓い合う仲に発展するのか?
色々なイベントを乗り越えた末に、エンディングを迎えることができるのだけど……
その第一歩となるのが、出会いの鉄板イベント、不良に絡まれるだ。
買い物をするために街へ出ていると、質の悪い連中にナンパをされてしまう。
強引に連れて行かれそうなところを、ジークに助けられる……そんなイベントだ。
なんてベタな……と思わないでもないが、ベタのなにが悪い。
ありふれた手法ではあるが、それ故に、誰もに愛され支持される。
私も、ジークに助けられた時は胸を高鳴らせたものだ。
「今回は……どうしましょう?」
ジークと仲良くならないといけない、なんてことを考えていたのだけど、他にも方法があるのではないか?
二人の出会いを潰してしまい、ジークルートへの突入を完全に断ってしまう。
そうしたら、ジークによる断罪イベントは発生しないのではないか?
彼が、アリーシャ・クラウゼンを断罪するのは、ひとえにフィーのためだ。
そのために、わざわざ王子としての権力まで使う。
しかし、フィーと知り合いですらなかったら?
いくらなんでも、王子としての権力を使ってまで、アリーシャ・クラウゼンを断罪しようとは思わないだろう。
「ふむふむ、悪くないかもしれませんね」
いや、待てよ?
そうなると、ジークルートは完全に消滅するだろう。
将来、フィーが誰と結ばれるのか、それはわからない。
ヒーローの誰かと結ばれるのだと思うのだけど……
ジークルートを消滅させた場合、彼と結ばれる可能性は消える。
それはつまり、フィーの恋を邪魔するようなもの。
将来の選択肢の一つを奪い、幸せを消すようなもの。
「うぅ……あんなにかわいい妹の幸せを奪うなんて、そんなこと……」
ダメ!
そんなこと、私にはできないわ。
いくらバッドエンドを回避するためとはいえ、フィーの幸せを奪うなんてことはできない。
私は、あの子の姉なのだから。
かわいくて可憐で健気で綺麗で優しい妹の幸せを奪うなんて、やれるわけがない。
そんなことをするなら、バッドエンドを迎えた方がマシだ。
私は悪役令嬢である前に、一人の姉なのだ。
フィーのことを一番に考えないとダメ。
「そうなると……イベントはこのまま発生させるとして、やっぱり、仲良くなる方法を模索した方がよさそうですね。とはいえ、どうしたものか……」
この時ばかりは、ゲームの知識は役に立たない。
悪役令嬢がヒーローと仲良くする方法なんて、ゲームをプレイしても知らないのだ。
それは、アレックスの時に痛感した。
さて、どうするか?
「ジークの趣味は……確か、乗馬ですよね?」
休日は郊外の牧場で、馬に乗っているのだとか。
実に王子さまらしい趣味だ。
「私もその牧場へ足を運び、どうにかして乗馬を教えてもらう……そうして、何度か顔を合わせることで仲良くなる……うん、悪くないかもしれませんね」
ジークは穏やかな性格をしていて、基本的に優しい。
丁寧に頼めば、断れることはないと思う。
そのまま仲良くなることは、おそらく可能だ。
「そうね、そうしましょう」
そうと決まれば、さっそく現地の視察に行こう。
なにも知らないと、予期せぬトラブルに遭遇するかもしれないし、下見は大事だ。
「せっかくだから、フィーも誘いましょうか?」
ついでに、かわいい妹と一緒に牧場体験……うん、いい!
私は部屋を出て、隣のフィーの部屋へ。
扉をノックするのだけど……しかし、返事がない。
「お嬢さま、シルフィーナさまをお探しですか?」
通りすがりのメイドに、そう尋ねられた。
「はい。一緒に出かけようと思ったのですが……どうやら、部屋にいないみたいですね。あなたは、フィーがどこにいるか知りませんか?」
「シルフィーナさまなら、街へ出かけました」
「街へ?」
「お菓子作りのための材料を発注しに行く、と」
先日の一件以降、フィーはよくお菓子を作っている。
そして、私が味見をすることに。
妹の作るお菓子は最高だ。
甘さが絶妙で、いくらでも食べられるほど。
そのことを伝えるとフィーはとても喜んで、一層、お菓子作りに熱中するようになった。
「なるほど。それで街に買い物へ……買い物?」
ジークとの出会いのイベントは、街に買い物へ出たところ、質の悪い連中にナンパをされて……
「あっ!?」
出会いイベント、今日だったのか!?
ゲーム内では日付なんて表示されないから、さすがに日時まではわからなかった。
まずいまずいまずい。
フィーは護衛を兼ねている執事を連れているのだけど、人波に飲まれてはぐれてしまい、その先で質の悪い連中に絡まれてしまうのだ。
ジークとの出会いなんて、この際、どうでもいい。
問題は、フィーが悪質なナンパをされるということ。
ゲームの通り、ジークが助けてくれるのならいいのだけど……
でも、もしもジークが現れなかったら?
この世界がゲームの通りに動いているなんて保証はない。
下手をしたらフィーは悪人に連れ去られて、ひどいことを……
「お嬢さま? どうかされましたか? 顔色が悪いようですが……」
「フィー、今行きます!!!」
「お、お嬢さま!?」
すぐに駆け出した。
なにやら後ろの方でメイドが叫んでいたが、フィーのことで頭がいっぱいで、なにを言っているかさっぱりわからない。
今は時間がない。
私は屋敷を飛び出して、勢いよく街に駆けた。
その日、学舎が休みということもあり、ジーク・レストハイムは一人で街を歩いていた。
時刻は昼。
人がたくさんいる街中とはいえ、彼の立場を考えれば、護衛を付き従えるのが普通だ。
そうしないのは、とある理由があるのだけど、その理由を知る者は少ない。
「うん、これで心配ないな」
ジークは満足そうな顔をしていた。
さきほどまで鍛冶屋を訪れていた。
そこで、よく行く牧場の馬の蹄の調整をお願いしてきたのだ。
小さな鍛冶屋ではあるが、その腕は超一流。
彼に任せておけば、問題なく作業は終了するだろう。
「蹄の調整が終わるまでは馬に乗ることはやめておいた方がいいから……さてと、この後はどうしようかな?」
交渉がスムーズに進んだため、時間が余ってしまった。
散歩でもしようか?
そう思い、気の向くままに歩いてみたところ……
「や、やめてくださいっ」
女の子の悲鳴のようなものが聞こえてきた。
見過ごすことはできず、声の方向へ足を進める。
すると、二人組の男と可憐な女の子が見えた。
二人組の男は下卑た笑みを浮かべていて、女の子の手を掴んでいる。
それに怯えている様子で、女の子は目の端に涙を浮かべていた。
事情はわからないが、聞くまでもないだろう。
ジークは一歩、前へ踏み出して、鋭い声を……
「君たち、そこでなにを……」
「私のかわいい妹になにをしているのですかっ!!!?」
そんな怒りの声と共に……
横からものすごい勢いで駆けてきた女の子が、男を殴り飛ばすのだった。
――――――――――
「アリーシャ姉さまっ!」
「フィー!」
フィーは涙声で私を呼んで、ひしっと抱きついてきた。
カタカタと体が震えている。
それを収めるように、優しく抱きしめた。
「大丈夫ですか、フィー? 怪我はありませんか? この男達に、なにかされていませんか?」
「だ、大丈夫です……ぐすっ、アリーシャ姉さまが助けてくれましたから。ありがとうございます……ひっく」
「お礼なんていらないですよ。妹を助けるのは姉の役目。当たり前のことなのですから」
「うぅ……アリーシャ姉さまぁ……ぐすっ」
緊張の糸が解けた様子で、フィーが小さく泣き始めた。
よしよしと、その背中をあやしつつ……
一方で、私は激しい怒りを覚えていた。
かわいい妹を泣かせるなんて……許さん!
男に生まれてきたことを後悔させるだけではなくて、人に生まれてきたことを後悔させてやろう。
私のかわいいかわいい妹に手を出そうとしたことは、万死に値するのだ。
さらなる鉄拳制裁を……
「この女!」
「どこのどいつか知らねえが、ふざけたことしやがって!」
殴り飛ばしたはずの男がすぐに立ち上がり、こちらを睨みつけてきた。
もう一人の男は、よりにもよってナイフを取り出している。
フィーのピンチということで、忘れを忘れ、男を殴りつけたものの……
悲しいかな、私って女の子なのよね。
不意の一撃も通用していないらしく、ただ単に怒りを買っただけみたいだ。
まずい。
冷や汗が流れる。
私は武術も剣術も習っていないし、ケンカが得意なわけがない。
妹のピンチということで、ついつい手を出してしまったけれど、もう少し考えるべきだったか?
いや、そんなことはない。
フィーのピンチなのだから、なによりも先に行動する必要がある。
例え過去に戻れたとしても、フィーのために、私は同じ行動を繰り返すだろう。
「フィー、ここは私がなんとかしますから、あなたは逃げなさい」
「そ、そんな!? アリーシャ姉さまを置いて逃げるなんて、できませんっ」
「お願いだから、私の言うことを聞いてください。このままでは二人共……そんなことになる前に、誰か呼んできてください」
「うっ、うぅ……」
フィーは泣きそうな顔で、しかし、反論は止める。
かわいいだけじゃなくて、とても賢い子だ。
私の言うことが最善だと気づいているのだろう。
「おいおい、どっちも逃さねーよ」
「ふざけたことした分、楽しませてもらうぜ? へへへ」
片方の男が、フィーに下卑た視線を向けて……
よし、決めた。
噛みつくなり急所を攻撃するなりして、コイツは地獄に叩き落とす。
あと、絶対にフィーには指一本触れさせない。
私がどうなったとしても、妹は守る!
そうなれば先制攻撃だ。
わずかかもしれないが、隙が生まれるかもしれない。
私は覚悟を決めて、前に……
「なにをしているのかな?」
第三者の声が乱入してきた。
今の声は、もしかして……
「なんだ、てめえは?」
「取り込み中なんだ、あっち行ってろ。でないと、痛い目見るぞ」
男達の視線の先に……ジーク・レストハイムの姿があった。
学舎で見かける時と同じように、微笑みを浮かべている。
ただ……気の所為だろうか?
その笑みは冷たく、質が違うように見える。
「どう見ても事件のように見えるのだけど、どうなのかな?」
「あぁ?」
「人気の少ない裏通りとはいえ、警備の兵が巡回しているよ。厄介なことになる前に、退散した方がいいんじゃないかな?」
「うるせえな、コイツ……めっちゃくちゃうぜえ」
「消えろや」
気が立っていた男達は、ジークの言葉で怒りが頂点に達してしまったらしい。
片方が舌打ちしつつ、ジークの前へ。
大きく拳を振りかぶる。
「あぶ……!?」
危ない、と言おうとしたところで、ゴンッ! という鈍い音が響いた。
それは、ジークが男を殴り倒した音だった。
たったの一撃。
それで男は完全に伸びていた。
そういえば……
今思い出したけど、ジークは穏やかな笑みとは裏腹に、武術の達人なのだ。
その実力は国内でもトップクラスで、故に、街中を歩く程度では護衛を必要としていない。
そんなジークに、そこらのチンピラが敵うはずもなくて……
「やれやれ。うるさいのは君達の方だと思うのだけど、どうかな?」
瞬く間に二人の男を倒してしまい、ジークは、つまらなそうにそう言うのだった。
すごい。
ジークがなにをしたのか、まったく見えなかった。
気がついた時には、二人の男は地面に倒れていた。
ゲームでは具体的な描写はされていなかったのだけど……
まさか、これほどなんて。
ただ……
「……ふん」
ジークはとても冷たい目をした。
倒れる男達に、ゴミでも見るかのような目を向けていた。
ただ、それは一瞬の間。
すぐに微笑み王子の呼び名にふさわしい笑みを浮かべると、私達の方を見る。
「大丈夫? 怪我はない?」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます。レストハイムさまのおかげで、私も妹もなにもありませんでした」
フィーは若干緊張しつつ、私は別の意味で緊張しつつ、それぞれお礼を言う。
フィーを心配するあまり、なにも考えずに飛び出してしまったのだけど……
よくよく考えてみれば、ジークと会うのは必須。
まだ仲良くなる方法を思いついていないのに……ああもう、どうすればいいのやら。
「なにもないようでよかった。偶然だけど、この男達が……って、あれ? 僕の名前……自己紹介はしていないよね?」
「ご謙遜ですか? レストハイムさまのことを知らない者など、学舎にはいません」
「ああ、そういう……君達も、同じ学舎の生徒だったんだね。でも、ごめん。僕は、君達のことを知らなくて……」
「では、自己紹介をしないといけませんね」
「え?」
「私達のことを知らないのならば、知ってもらえればと。そして、これからは、顔を見かけた時に挨拶くらいはできればと……そう思うのです」
「……」
「どうしたのですか、ポカンとして?」
「……いや、なんでもないよ」
なんでもない、というような顔はしていないのだけど……
下手に話を深く掘り下げて、地雷でも踏んだら困る。
気にしつつ、そのままスルーしておいた。
「私は、アリーシャ・クラウゼンと申します。そして、こちらが妹の……」
「し、シルフィーナ・クラウゼンです! 改めて、アリーシャ姉さまを助けていただいて、ありがとうございました!」
私のことを心配してくれる妹、かわいい。
思わず相好を崩していると、なぜか、ジークがじっとこちらを見つめてきた。
「あの……なにか?」
「ああ、いえ。なんでもありません。それよりも、もしかして、クラウゼン公爵の?」
「はい。クラウゼンは私達の父になります」
「……なるほど、そうなんだ」
あれ?
なぜかわからないけど、ジークの機嫌が急降下したような?
笑顔は変わらないのだけど、目が笑っていないというか、つまらないものを見るような目というか……
気がつかないうちに、地雷を踏み抜いていた。
でも、どこに?
自分の言動を振り返ってみるものの、ミスらしいミスをしたとは思えない。
「兵士を呼んでおいたから、すぐにここに……ああ、来たみたいだ」
ジークの言う通り、二人組の兵士の姿がこちらにやってくるのが見えた。
「じゃあ、僕はこれで」
「あ、あのっ」
引き留めようとするものの、ジークは足を止めることなく、そのまま立ち去ってしまうのだった。
それでも、私は言葉を続ける。
「ありがとうございました」
チラリと、ジークが振り返る。
肩越しに視線が合い……
しかし、すぐに逸らされてしまい、ジークはそのまま立ち去った。
――――――――――
「……助けるんじゃなかったな」
少し早足に街中を歩くジークは、ぽつりとつぶやいた。
悪漢に絡まれている女の子を助けたのだけど、その正体は、公爵令嬢の娘だった。
そうと知っていれば、助けることはなかった。
なぜなら、ジークにとって貴族は最も嫌悪する存在であり、敵と言っても過言ではないからだ。
二人の兄はすでに成人している。
それ故に、まだ成人していないジークが後継者レースに参加することはない。
それでも王族という立場故に、それなりの公務を任されてきた。
学生の身分であっても、色々な場所へ赴いた。
そして……人の汚い面をまざまざと見せつけられてきた。
王族である自分に取り入ろうとする者。
あるいは、利用しようとする者。
誰も彼も、その顔に貼りつけている笑顔は偽物で、まるで仮面のよう。
本心から笑っている者なんて一人もおらず、全員が汚い醜い打算を抱えていた。
幼い頃からそんな環境で過ごしてきたジークは、人間不信に陥っていた。
第三王子という立場故に、笑顔の仮面をかぶり、トラブルを起こすようなことはしていないものの……
心は冷めきっており、人を見下しており……
特に、傲慢で恥を知らない貴族というものを嫌っていた。
「慣れないことをするものじゃないな」
気まぐれに人助けをしてみたら、相手は公爵令嬢。
公爵と話をしたことはない。
その令嬢と顔を合わせたこともない。
でも、話すまでもない。
他の人と同様に、汚い心を持ち、恥を知らず、どこまでも傲慢な存在に違いない。
人とは、そういうものなのだ。
「……誰も彼もつまらないな。醜いヤツばかりだよ。そして……僕もつまらないヤツだな」
人間不信のせいで、未だ心を開いた人はいない。
それだけではなくて、興味を持つことすらない。
ただただ、空虚で退屈な日々を過ごしていた。
「……」
ジークは、ふと足を止めた。
それから先ほどのことを思い出す。
「それにしても……」
自分でも理解できないのだけど、自然と公爵令嬢の娘達のことを思い返した。
妹と姉の二人。
どうせ、他の汚い連中と変わらない。
心を覗けば、直視するに耐え難い感情が見えるだろう。
そう思うのだけど……しかし、なぜか気になるものがあった。
うまく言葉にできないのだけど、心の中で、なにかが引っかかる。
特に気になるのが……
「アリーシャ……と言ったかな」
とても綺麗な目をしていた。
今まで見たことのない、まるで宝石のように輝いていて、それでいて濁りが一切ない透明な感情を宿していて……
「って、僕はなにを考えているんだ」
所詮、公爵令嬢。
他の者と同じく、心が汚いに違いない。
そう決めつけたジークは、再び歩みを再開した。
あれから、簡単に兵士の事情聴取に応じて……
それからはぐれていた執事と合流して、買い物は中断。
他にもろくでもない輩がいるかもしれないということで、念の為、すぐにフィーを家に連れて帰った。
そして、夜。
一人、部屋でのんびりくつろいでいると、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「あの……アリーシャ姉さま、シルフィーナです」
「どうぞ」
「失礼します」
部屋に入ってきたフィーは、とても落ち込んでいるように見えた。
いや。
事実、落ち込んでいるのだろう。
他の人ならわからないくらいの差異かもしれないが、姉である私ならハッキリとわかる。
私の妹センサーで調査した結果、フィーの元気具合はなかなかに低い。
「どうしたのですか? 元気がないように見えますが」
「……私のせいで、アリーシャ姉さまが危ない目に」
あぁ、なるほど。
昼のことを自分のせいだと思い込み、強い責任を覚えているのだろう。
フィーに責任なんて何一つないのに……
あーもう、なんて優しい子なのだろう。
私の妹はかわいいだけじゃなくて、心も天使。
ヒーロー達の嫁に出すことなく、私の嫁にしたい。
って、いけないいけない。
話が逸れた。
ついでに欲望もこぼれた。
「フィーのせいなんていうことは、決してありませんよ」
「あっ……」
そっとフィーを抱きしめた。
それから、いい子いい子と頭を撫でてあげる。
「でも、私……」
「妹が困っていたら、助けるのは姉の役目ですよ。それに、私が同じような目に遭っていたとしたら、フィーはどうしましたか?」
「も、もちろん、助けます!」
「ほら。だから、気にしないでください」
「……私は、アリーシャ姉さまに色々なものをもらってばかりですね」
「それが妹の特権ですよ」
「でも……」
「どうしても気になるというのなら、いつか返してください。私が困っている時、迷っている時、泣いている時……そんな時に傍にいて、優しく抱きしめてください。そうすれば、私はまた立ち上がることができると思いますから」
「そんなことでいいんですか?」
「これ以上の恩返しはありませんよ」
「……やっぱり、アリーシャ姉さまはとても優しいです。それに、おひさまのような匂いがして、大好きです」
にっこりと笑い……
それから、抱きしめられることが心地よかったらしく、すぅすぅと寝息を立ててしまう。
私の妹マジ天使。
「それにしても……」
フィーのおかげで、思い出すことができた。
というか、私はどうして、こんな大事なことを忘れていたのか?
「フィーは、こうしてとても純粋な心を持っているのだけど、ジークはとてつもなくこじらせていましたね」
ジークルートは攻略済みだ。
だから、彼の本当の性格や、心に抱えている闇などは知っている。
第三王子という立場故に、早くから貴族の社交界にデビューをした。
しかし、そこで見たものは腹黒い貴族の汚い笑みばかり。
それにより、彼はすっかり人間不信に。
そんなジークの心を癒やすのがフィーなのだけど……
「参りましたね……」
アレックスの時と同じように、貴族を嫌うヒーローと仲良くならなければならない。
しかも、今度の嫌われ具合はアレックスの比じゃない。
ジークは、心底、人というものに愛想を尽かしているのだ。
メインヒロインの補正はゼロ。
むしろ、悪役令嬢というマイナス補正がかかっている状態で、どうやって仲良くなればいいのか?
「難題ですね。というか、難題ばかり? どうして、こんなにも悪役令嬢の待遇は悪いのでしょうか? といっても、それが当たり前ですね。悪役なのですから……やれやれ」
ため息をこぼして……
でも、フィーの温もりに癒やされて、まあ明日のことは明日考えるか、と問題を先送りにしてしまう私であった。
――――――――――
どうにかしてジークと仲良くなりたい。
友達とまではいかなくても、せめて、顔を覚えてもらい、挨拶をするくらいの関係になりたい。
そんなことを思い、学舎で何度か話しかけてみたものの、全て軽やかに回避された。
にっこりと微笑みつつ、用事があるからと立ち去る。
追いかけてみるものの、すぐに見失う。
そんな日々が続いているために、私は焦っていた。
破滅までの期間はまだあるものの、だからといって、油断はできない。
できるだけスケジュールは詰めておきたい。
そこで、私は一晩かけて考えた作戦を実行に移すことにした。
「あの……アリーシャ姉さま? これからどこへ?」
放課後。
私はフィーを連れて、学舎の廊下を歩いていた。
「ジー……レストハイムさまをお茶に誘ってみようと思いまして」
「えっ、レストハイム王子を!? ど、どうしてそのようなことを……?」
「んー、それは秘密です」
破滅を回避したいから、なんて言えば頭がおかしいと思われてしまうかもしれない。
フィーにそんな目で見られたら、私は、破滅を前に精神的に死んでしまう。
「というか、どうして私も……?」
「フィーがいると、ひょっとしたら、うまいこと仲良くなれるかもしれませんから」
「???」
私と一緒ではあるものの、ひょっとしたらメインヒロイン補正が働くかもしれない。
それに期待して、フィーを連れて行くことにした。
頼んだら二つ返事でついてきてくれた。
かわいい上に優しい。
私の妹は世界一だよね。
「ところで、どうして中庭へ?」
そう。
目的地はジークのクラスではなくて、中庭だ。
人間不信の彼は、放課後、教室に残ることは少ない。
中庭のような人の少ないところでリラックスして、それから帰宅している。
全てゲームで得た知識だ。
「こういう情報は役に立つのですが、肝心の仲良くなる方法はフィーにしか適用されず……なかなかもどかしいものですね」
「適用?」
「いえ、なんでもありません。ただの独り言です」
そろそろ中庭だ。
今日こそ進展してみせる!
そう意気込みつつ、私とフィーは中庭に移動して……
「くっ……何者だ、お前達は!?」
謎の黒尽くめの男達に襲われているジークを発見した。
「ジークさま!」
私はあえて大きな声を出した。
一つの目的は、周囲の人に気づいてもらうため。
もう一つの目的は、襲撃者達に動揺を与えるため。
「ちっ、見られたか。なら……ぐっ!?」
敵が複数人ということで苦戦していたジークだけど、隙を見逃すことなく、男の一人を打ち倒した。
仲間がやられたことで、黒尽くめの男達がさらに動揺する。
ジークはたたみかけるように前へ出て、二人目の男を倒す。
ヒーローだけあって、さすがに強い。
でも、安心はできない。
こういう突発的なイベントは、大抵が主人公が不利になるものだ。
「フィー、校舎へ戻って先生達を呼んできてください!」
「は、はいっ」
フィーの足音が遠ざかり、
「きゃっ!?」
「フィー!?」
悲鳴が聞こえて、慌てて振り返ると、黒尽くめの男の腕の中でぐったりとするフィーの姿が。
まだ他に仲間がいたなんて……!
「フィーを離しなさい!」
「お前も眠れ」
「あ……」
黒尽くめの男からフィーを取り返そうとするものの、逆に拘束されてしまう。
そのまま薬を嗅がされてしまい、私の意識は遠くなるのだった……
――――――――――
「……うぅ」
目を覚ますと、そこは薄暗い部屋だった。
灯りは一つだけ。
窓はなし。
頑丈そうな扉も一つだけで、鍵がかけられている様子。
「ここは……?」
頭がぼんやりして、重い。
えっと……なんで、こんなところに?
記憶を掘り返して……
「フィー!?」
黒尽くめの怪しい男達のことを思い出して、それから、フィーの姿を探す。
妹は硬い床の上で寝ていた。
「フィー!? 大丈夫ですか!?」
「……すぅ」
よかった、寝ているだけみたいだ。
たぶん、薬の効果がまだ続いているのだろう。
それにしても、ここはいったい?
というか、なぜこんなことに?
「起きたんだね」
「あ……レストハイムさま」
部屋の壁に寄りかかるようにして、端の方にジークがいた。
黒尽くめの男達と殴り合いをしていたからか、顔が少し腫れている。
「ごめんね。僕のせいで、きみ達を巻き込んでしまったみたいだ。実は……」
「待ってください。その前に、えっと……」
手当するための道具を探すものの、なにもない。
前世ならともかく、公爵令嬢の今世では、薬を持ち歩くなんてしないもの。
「なにをしているの?」
「ごめんなさい。その傷を手当しようと思ったのですが、なにもなくて」
「……」
なぜか、ジークがポカンとした顔に。
それから、クククと楽しそうに笑う。
「まさか、こんな時にまで他人の心配をするなんて。きみは、噂通りに、女神のような性格をしているんだね」
「女神? なんですか、それは?」
「生徒達の間で噂になっているよ。優しく聡明で、妹をとても大事にしている姿は、まるで女神のようだ、ってね」
なんでそんなことに?
私は、悪役令嬢なのだけど……ん?
なんで、そんな噂話をジークが知っているのだろうか。
彼の本性を知っているため、そんなものに興味を持たないことを私は知っている。
「レストハイムさまは、なぜそのような噂を?」
「……少しだけきみに興味があって、調べてみたんだよ」
そう言うジークは、複雑な表情をしていた。
ツンデレが日頃辛く当たる幼馴染に恋してると気がついて、でもそれを認めたくないと、そんな顔をしている。
なんていう例えだ。
とりあえず、触れない方がいいだろう。
彼の設定は知っていても、どんな反応を示すかなんてことはさすがにわからない。
地雷のような反応に、わざわざ触れることはない。
「話を戻しますが、巻き込んでしまった、というのは?」
「きみ達は、僕を狙った連中を目撃してしまった。だから、口封じのために一緒に誘拐された……そんな感じなんだ」
聞けば、王子達の間で派閥争いが起きているらしい。
我こそが跡継ぎにふさわしいと、功績を立てて、王らしい振る舞いをして……
裏では、犯罪行為を平然と繰り返して、相手を蹴落とそうとする。
第一王子と第二王子は、そのような感じで、日々、派閥争いを繰り返しているのだとか。
ジークは王になりたいと思っていないが、第一王子と第二王子がその言葉を簡単に信じることはない。
なりたくないと言葉にしても、内心では別のことを考えているに違いない。
そう決めつけて、そして……
どちらの勢力か知らないが、ジークを排除することにした。
ただ、さすがに命を奪うまでのことはできない。
誘拐して、脅して、王位継承権を放棄する念書にサインさせる。
「……たぶん、連中が考えているのはこんなところだろうね?」
「まるで、見てきたかのように話すのですね?」
「見てきたからね」
「え?」
「きみが目を覚ます前に、連中と話をしたんだよ。そこで、念書を書くように脅された」
「そ、それで、どうしたんですか……?」
「まだなにも。考える時間が必要だろう、って言われて、今は放置されているよ」
「そうですか……よかったです」
「なんで、きみが安心するんだい?」
ジークが不思議そうに言うのだけど、なぜ、それくらいわからないのだろう?
「レストハイムさまが望んでいないことだとしても、それは今だけのことかもしれません。この先、気持ちが変わることもあるでしょう? なら、選択肢は手元に残しておくべきです。だから、まだ放棄されていないことを安心したのです」
「いや、だから……なぜ、無関係のきみが僕の心配をするんだい?」
「無関係だと心配できないのですか? 無関係だろうと関係があろうと、目の前で大変なことになろうとしている人がいたら、心配してしまうものでしょう?」
「……」
当たり前のことを言うのだけど、でも、それはジークにとって衝撃的なことだったらしく、目を丸くするのだった。