都立の割に広い校庭をもつ臨海副都心の高校は、大学院が併設されているおかげで外装も設備も驚くほど整っていた。
 普段の体育で使う砂利のグラウンドを2000メートルの陸上トラックがグルリと囲い、外れにはテニスコートが設置されている。一口に校庭と言っても広い意味ではそれだけのものを指すわけだが、コの字型の校舎はさらに広い。
「コ」の内の一辺は大学院の所有する校舎だとして、残りの2辺は高校の所有であって、1フロアの長さは2キロにも及ぶという。ちょうど陸上トラックと同じ長さだ。廊下でさえキロ単位の長さを誇るのにそれが5フロア分もあるので、教室の数は100を超える。さながらショッピングモールのような校舎だ。

 ショッピングモール、と俺は思った。
 そうだ、バカ広い理由は商業施設の真似をしているからなんだ。そんな風に思っておけば、学校生活もレジャー感覚で楽しめるかもしれない。

 だだっ広いグラウンドと陸上トラックから外れたテニスコート脇の、広場みたいな砂利の平地で、俺は一人でトレーニングをしていた。
 大空翼風に言えば、2人。俺とボールだ。

 男子サッカー部。
 頭に男子と付くからには女子サッカー部もあるわけで、そちらは部員総数が100にも及ぶ強豪である。ちょうど同世代が全国大会に出た。

 一方で俺が部長を務める男子サッカー部は、部員が1人。書類上は3年生の名前が数人分あるものの、いわゆる幽霊部員。週に3回、きちんと練習しているのは俺だけだ。
 全国大会出場経験なんかあるはずなくて、地域リーグの初戦で二桁差を付けられるのが常である。少なくとも俺の経験してる2回の大会はそうだった。

 こうも惨敗していると心が折れてサッカーが嫌になると思われそうだが、もはや俺は諦めの境地に達しているというか、ほとんど機械的に続けている。
 広い大きな敷地の中にポツンとある、誰も知らないような広場で、ランニングメニューを消化して体幹トレーニングを積んでボールタッチに励み、キックを振り抜く。
 決まりきった練習メニュー――ロナウドやネイマールがフェイントで沸かせた翌日には真似したりもするが、とにかく俺はルーティンのようにトレーニングを継続していた。自分が偉いとは思っていないし、イナズマイレブンみたいな熱い思いがあるわけでもない。

 どうしてサッカーをやめないのか?

 もし理由を聞かれたとして、自分がどう答えるのかは分からないが、言うとするならおそらく「止める理由もないから」とか、そんな感じだろう。

「お前ほんとサッカーは好きだよな」

 顧問にたびたび言われる。
 その度に俺は「好きっす!」と言い切っている。本心で言ってるつもりも、嘘を言っているつもりもない。

 俺はサッカーが好きなのだろうか。
 サッカーを好きな自分が好きなのだろうか。

 少なくともサッカーという競技に対して誠実ではない。だから俺は1人でサッカーをする。

   ○

 サッカー歴は長い。幼稚園の頃からやっている。
 始めたキッカケは分からなくて、ママ友に誘われたからだったか日韓ワールドカップを観たからだったか中田英寿の影響だったか定かでない。事実として、俺は幼稚園の頃から10年以上サッカーをしている。

 中学へ上がったとき、サッカー部に入るのはほとんど当然の成り行きだった。

 小学校のジュニアチームでは敵同士だった奴が同じチームになって、上級生はちょっと見ない間に体格がよくなっていた。著しい変化が次々と姿を現すのだ。
 俺の入った中学は公立でありながらひと昔前は全国大会に出ていた古豪で、名の知れた奴はクラブチームへ行くものの、部活で続ける奴も粒ぞろいだった。

 あまりに大きな存在過ぎた3年生がいなくなった後の異質な空気を孕む秋。

「今日の試合で新体制の主力整えるぞ」

 練習試合前に顧問が放った言葉は、緩んだ雰囲気を一気に張り詰めさせた。
 チーム内での競争。
 ほとんどのチームがそうであるように、自分が戦うにはまず味方より優れていなければならない。

 結論から言えば、俺は競争に負けた側だった。

「俺ら次だっけ?」

 ウォームアップと称したパス練習を惰性でこなしていると、相方のカナトが口を開く。

「次の次」
「三軍扱いかよ……」

 俺が平然と答えると、カナトは恨めし気に試合を眺めながら呟く。
 おそらくアレが新体制の主力とやらなのだろう仲間たちの試合は、スコアレスのまま動いていない。メンバーのほとんどが2年生だが、中には俺と同じ1年生が数人いる。
 ゴールキーパーのタイガと左サイドバックのリョウイチとサイドハーフのリクム、そしてツートップの内の1人だ。

 本命の主力がいま戦っている一軍だとして、次の試合では2年生の控えと1年生内の主力が二軍として出ることになる。
 つまり三軍扱いの俺たちは1年生内の控えということだ。

「来年チャンスあるっしょ」

 励ましというより会話の流れとして声をかけたが、カナトは俺とのパスそっちのけで試合に見入っている。
 フォワードの彼が目で追っているのは、1年生の方のトップ――ショウに違いない。体格がよくてキックが強い、細い相手なら一蹴できるタイプの選手だ。
 対してカナトは中肉中背でフィジカルの弱い、代わりに敏捷性と技術に優れるテクニシャン。ショウとは真逆の選手だ。
 実力的に劣っているとは思わないが、優れているわけでもない。そんな理由で三軍扱いされているカナトを見ていると不憫に思えてくる。

 試合の間、顧問はしきりに大声で指示を出していた。もはや怒鳴り声のようでもあって、アレでは選手が委縮しまいかと心配になるほどだった。

「すぐ取り返せよ!」
「ライン上げろ!」
「持ち過ぎんな、早く散らせ!」

 顧問の声が響くたびに選手たちは慌てて動き直して、困惑したような表情で首を振り、ボールと選手と顧問の顔を順々に見回した。

 あんな試合には出たくないな、と声には出さずに言ってからカナトを見ると、やはり彼はジッと試合を見つめている。顧問の怒鳴り声などお構いなしといった様子だ。

 俺は仕方なしにボールをすくい上げて、1人でリフティングを始めた。特別なワザはできないので、足の甲で回数を重ねるだけ。退屈なリフティングだ。

「なんで俺出さねえんだよ!」

 憂さ晴らしのようにカナトが叫ぶと同時、ビブスを来た2年生がだれかを呼びに来た。

「カナト」
「おれ?」
「呼ばれてる」

 短いやり取りの後で、カナトが足取り軽くグラウンドへ向かう。

 やがてボールがタッチを割り、ユニフォーム姿のカナトが試合に出る。交代したのはショウではなく、二年生の方だった。


 俺は結局一軍でも二軍でも呼ばれなくて、三軍の試合になってようやく出番がきた。
 ポジションは右のサイドハーフ。小学5年生からずっと立っている、俺の主戦場だ。
 右のサイドバックは2年生の控えで、心許ないとは思っているが、中学から始めた初心者1年生よりはマシだ。

 ホイッスルが鳴って、試合が始まる。
 キックオフは俺たちから。すぐ俺にボールが回ってくる。トラップしてチラリと前方を見やる。相手選手が1人、突進してくるのが目に映る。おそるおそる間合いを図りつつ、ここぞというタイミングがきて、足裏でボールを引きながら回転して相手をかわす。マルセイユルーレット、ジダンの得意技。そして俺も、得意。

 相手を抜き去った余韻に浸る間もなく、一気に加速してサイドを駆け上がる。しかしすぐに2人目の相手がきて、今度は間合いも取れずフェイントのアイデアもないまま、あっさりとボールを奪われた。奪い返しに走り出したものの、ロングパスで遠くの方へ蹴り出される。うんざりして一瞬棒立ちになるが、思い直してボールを追った。

 それからも何度か俺にボールが回って来て、その度に俺は様々なフェイントで仕掛けた。
 シザース、マシューズ、ダブルタッチ、裏街道、ヒールリフト……あの手この手で抜き去る度に驚いた表情を浮かべる相手選手の顔が、俺をどんどん爽快にさせた。

 一軍の試合ではあれだけ怒鳴っていた顧問も、俺の試合では静かにしていた。セットプレーのときに一度様子をうかがったが、目深に被った帽子の奥で何を見つめているのかは分からなかった。位置取りやキッカーの指示も特別なかったので、気にせず好きなようにポジション取りをして好きなように動き出した。

 結局試合は0―2の敗北。
 でも俺の中ではプレーへの満足度の方が勝っていて、勝敗の割に晴れやかな気分だった。


 中学3年の夏。最後の大会。

「いつでも出れる準備しとけ」

 ジッと戦況を睨んでいると、顧問が声をかけてくる。

「ハイ!」

 俺は腹から返事を出し、ウォームアップを始める。

 ブロック大会出場を決める区のリーグ戦。4チームごとの総当たり戦で、各リーグの1位と2位が決勝トーナメントに進む。2位で抜けた俺たちは、トーナメントの初戦を戦っていた。
 計4チームが戦うトーナメント戦は、初戦を制した二チームがブロック大会に進める。言ってしまえば決勝戦は勝つ必要がない。逆に言うと初戦は負けられない。

 その負けられない初戦も、後半戦の半分を迎えている。
 スコアは0―1。
 負け越しているが、チャンスは何度か見られる。試合内容は五分五分だ。

 ベンチ脇のウォームアップゾーンでジョグをしつつ、ときどき足を止めては試合を注視する。

 3年になっても、俺は控えだった。
 ただのサブメンバーではなく、どちらかといえばスーパーサブというような位置付けだ。

 サッカー選手として、俺はドリブルが上手い。自分で言っているわけではなくて、顧問や部員からの客観的な評価だ。
 一方で欠点は、視野が狭いことと球離れが悪いこと。つまりパスを出せないので、相手を1人抜いても2人目に奪われてしまったり、チャンスを潰したりする。これもまた客観的な評価だ。

 不安定なプレースタイルのおかげで、下級生が入ってきてもサブのままだ。
 しかし、大事な試合では必ず途中出場して、そして決定的な仕事をする。たとえば試合を決める得点やアシストだ。

 だから、スーパーサブ。このチームで戦う最後の試合でも、後半から俺が入るのは当たり前のことだった。

 ウォームアップを進めながら、俺は試合をジッと見る。

 カナトのシュートを相手キーパーが弾いて、コーナーキックになる。背の高いセンターバックの二人がゴール前に出てくる。キッカーは左サイドハーフのリクム。緩やかな弧を描いてボールが放り込まれて、誰かの頭に当たる。ボールは軌道を変えて、ゴールの枠を逸れていく。センターバックの二人が急ぎ足で自陣に戻っていく。
 ゴールキックによって試合が再開され、高く放られたボールは、ボランチのトウキが競り勝って足元に納める。センターバックにバックパスし、受け取ったセンターバックのセイジはダイレクトで前線に放り込む。ショウがジャンプし、胸でトラップする。その脇をカナトが駆け上がって、ショウがスルーパスを出す。ディフェンスラインの裏を抜けたカナトはゴールキーパーと1対1になる。ギリギリまで引き付け、キックフェイントで左右に振ってから、ループシュートで相手の頭上を越える。ボールはそのままゴールに吸い込まれる、かのように思えたが、全速力で戻った相手のディフェンダーがギリギリのところでクリアする。

 息を吐く間もなく進む試合を見ながら、俺は独りで焦りを感じていた。
 得点が入らないことではなく、顧問が俺を呼ばないことに。

 会場は熱気に包まれている。追いつこうとするチームと逃げ切ろうとするチームの熱が混ざりあって、高温の大気に溶け込む。選手も、監督も、審判も、保護者も、他チームも、全員が試合に見入って声援を送る。
 目まぐるしく進む試合に会場中が魅了され、されればされるほど、俺の冷めた焦燥が際立っていく。

「ゴール狙え! 戦え戦え!」

 顧問の声が轟く。普段の怒鳴り声と同じはずなのに、いまだけは誰よりも心強い声援に聞こえる。

 仲間たちが一斉に前を向く。カナトも、リョウも、セイジも、タイガも、全員が真っ直ぐに相手ゴールを見据える。
 得点を奪うという、共通の狙いを定める。ゴールマウスというターゲットを、全員が捉える。

 チームがひとつになる、その瞬間にあって俺は、顧問の横顔を呆然と見ることしかできなかった。

 ――俺は出ないんですか?

 言い出せず、誤魔化すようにストレッチをする。アキレス腱、ハムストリング、手首、肩甲骨……。
 両腕を交差して肩を伸ばしていると、ホイッスルが鳴った。

 試合終了。

 俺は呆然とピッチを見つめた。失望とか驚愕とか無念とか屈辱とか憤怒とか、なにか具体的な感情があるわけではなかった。あるものといえば、混沌か無。どちらか。

 選手たちは、一方が歓喜に湧いていて一方が涙を流している。
 顧問はジッと彼らを見つめたまま、堅く口を結んでいる。俺の方は見向きもしない。

 ベンチ挨拶にきた相手チームの選手たちは、一様に顧問や保護者を見る。勝利の驕りも敗者への侮蔑もない、健闘を称える真っ直ぐな瞳を浮かべている。 
 彼らが頭を下げ、ニネンとイチネンの控えがパラパラと手を叩く。

「ブロック大会決定だよな」
「はい」
「絶対都大会行けよ」

 堂々と言い放った顧問の言葉に、相手選手はみな「ありがとうございます!」と誠実な感謝を述べた。

 やがて部員たちが帰って来る。キャプテンのトウキが、嗚咽を堪えながら号令をかける。
 歯を食いしばって涙をこらえる選手たちに、顧問も保護者も下級生たちも、惜しみない拍手を浴びせた。

 決して俺には向けられない拍手。

 なにをすべきか、なにをしていいのかが分からなくて、俺は周りに合わせて仕方なく拍手した。