呆けた気分で帰路に就いた。
公園から自宅までの道は、小学時代と中学時代、そして現在まで通学路だ。車や自転車などが走らないなら、目を瞑ってでも歩けそうなほどに慣れた道だった。
歩きながら、なんだかすごいことが起きたな、と思う。
ぼんやりと足元を見つめる。一緒に視界に入り込んでくる傘の先端が、得体の知れない幽霊に触れていた――正確には手応えもなにもなかったが――と思うと、いまさらながら冷や汗をかいてしまいそうだ。
自分の名前さえ覚えていないなんて。白い塊と一緒にいたときに感じた胸の痛みが、じりじりと再燃する。
幽霊相手にあそこまで話し込んだのは……いや、あんなに長く顔を突き合わせていたこと自体が初めてだ。いつだって私は、そういうものが目に見えてしまったらすぐに視線を逸らし、なにも見なかったことにして過ごしてきた。
雨の日にはなるべく外出しないよう心がけているものの、通学ばかりはどうにもならない。今日みたいな遭遇は、年に数回、時には数年に一回で済む場合もあったけれど、とにかく私は毎度そうやって切り抜けてきた。ひとりのときも、隣に誰かがいるときも。
傘の先端をじっと見ていると、スカートの裾が視界に入り込んできた。濡れた道路に転倒し、グシャグシャのビショビショに汚れたスカートが。
同時に、したたかに打った鼻が鈍く痛み出す。さまざまなことが一気に起こりすぎて忘れかけていたが、あれほど派手に転んだのだ。腫れているかもしれない。
「……はぁ。どうしよ」
溜息が零れた。肩から下げた通学鞄が、さっきまでより重く感じられる。ジャケットやワイシャツも汚れているが、スカートは一段とひどい。このスカートを見て、母はどう思うだろう。どんな言い訳をしようかと考えると、憂鬱な気分に拍車がかかる。
自宅に到着し、鞄を漁って玄関の鍵を手に取る。それを鍵穴に差し込もうとしたとき、ふと背後から人の足音がした。
はっとして振り返った先、私は露骨に顔をしかめてしまう。
「あ……」
そこにいたのは、幼馴染の藤堂 悠生だった。
一瞬だけ視線がかち合い、思わず声が出た。……まずい。急いで鍵を回し、玄関のドアを開け、家の中に入る。
玄関に立ち竦みながら、私は片手で頭を抱えた。
藤堂家は、三軒隣のご近所さんだ。家と家の距離が近いから、玄関先で会ったら挨拶くらいはしないわけにいかないのに、またやってしまった。
私はハルキが嫌いだ。ハルキも私を嫌っている。端的に言い表すなら、私たちの関係は犬猿の仲だ。
ハルキの視線は、目が合った次の瞬間にはスカートへ向いていた。目を逸らす直前に口を開いていたから、もしかしたらグシャグシャのスカートについて言及する気だったのかもしれない。
玄関の鍵をかける。ガチャンと重々しい音がして、その音こそが、ハルキの視線をぶった切ってくれた気がした。ハルキがわざわざ追いかけてきてまで私に苦言を呈するとは思わないけれど、要は気持ちの問題だ。
ハルキは、「幽霊が見える」という自分の体質について、家族以外で初めて打ち明けた相手だ。
当時小学四年生だったハルキは否定した。ひどい言葉で私の体質を罵った。まるで私そのものを非難せんばかりの勢いで声を荒らげた相手の顔を、今ではもう思い出せない。思い出したくもなかった。
まったく口を利かないタイプの不仲だ。昔からの顔馴染みである親同士も、私たちの関係に余計な口を挟もうとしなくなって久しい。
学区は変えられないから、中学校まではどうしたって顔を合わせなければならなかったけれど、別々の高校に進学してやっと距離を置けるようになった。最近は顔を突き合わせる機会がほとんど消滅していただけに、こんなタイミングで鉢合わせてしまって、なおさら気分が悪い。
再び頭を押さえたそのとき、家の中から足音が聞こえてきた。
玄関が開く音がしたわりに、いつまで経ってもリビングへ現れない娘に痺れを切らしたのか、エプロン姿の母が玄関へ顔を出す。
「おかえり、遅かったじゃない……ってアンタ、なにそのスカート! どうしたの!?」
「あ、ただいま。その、コケた……」
初めは呑気に、言葉の最後には叫びに似た声をあげた母を直視していられず、私は俯いてぼそぼそと報告する。
叱られるかな、と思っていたのに、母は叱責を一切口にしなかった。
早く中に入りなさい、スカートって予備が一枚あったわよね、ありゃまぁアンタ随分派手に転んだこと、怪我はないの、早く着替えてご飯食べちゃいなさい――滝のような勢いで繰り出される母の言葉の数々に、私は相槌を打つ隙さえ逃しそうになりながら、はい、はい、と返すしかできない。
部屋着に着替えてからスマートフォンを確認すると、母から、それも三度も電話がかかってきていた。
時間は、十五分前と十分前、それから八分前。どれも白い塊とやり取りをしていた間だ。まったく気づかなかった。
「ごめん。電話、今気づいた」
「ああ、遅かったから心配してたのよ。まぁ無事で良かったわ、怪我もないみたいだし……あら、鼻打ったの? 赤いけど大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと痛いけどそれだけ」
母の心配は、私が転んだことに対して向けられている。そうは思っても、どうにも居心地が悪かった。
母は私の体質を知っている。雨の日で少しでも帰りが遅くなりそうなときは、学校に迎えに来たがる始末だ。変に目立ちたくないから断ってはいるが、思えば今日も朝からピリピリしていた。
間もなく午後七時だ。遅くなったせいで、母には余計な心配をかけてしまった。
実際には幽霊に遭遇したせいでこんな帰宅時間になったわけで、けれどわざわざそんな事情は伝えなくてもいいかなと思う。心配を煽る必要もない。現に私は無事だ。
食事を取り、風呂に入る。
ぬるめの湯船に浸かりつつ、今日、児童公園の前で起きたことをぼうっと思い返す。
彼の姿が急に見えなくなったのは、雨がやんだからだ。
彼――実際には男性か女性かもはっきりしていないが――は、なにも覚えていないと言った。名前は聞けずじまいだったが、あの様子ではそれすらも記憶に残っていなそうだ。かわいそうだな、と私はまた同情を覚える。
夜でなければ、あるいはもう少し雨が降り続いていれば、もっといろいろ話を聞けたのかもしれない……でも。
『幽霊が見えるなんて、そんな馬鹿みたいな話、誰が信じるかっつの』
口論になったクラスメイトの鼻で笑うような声が、不意に脳裏を掠めた。
あの子は、なにも私を指してそう言ったわけではない。彼女の弟の友達が幽霊を見たという話について、その信憑性を疑っていて、話し相手だった私に同意を求めてきただけだ。
向こうは、私が肯定するか相槌を打つか、どちらかを期待していたはずだ。それなのに、なにをあんなにムキになって言い返してしまったのかと、いまさらながら後悔が過ぎる。相手は、明日も顔を合わせなければならないクラスメイトだというのに。
でも、あんな言い方をされると悲しくなる。たとえ私に向けられた言葉でなくても。
きっと私は、彼女の言葉そのものに怒ったのではない。「幽霊なんているわけがない」と鼻白むような態度を、彼女がはなから隠そうともしなかったことこそがつらかった。
心の中の寂しい部分に、公園前で出会った白い塊が、すっと入り込むように重なる。
自分についてなにも思い出せない、のっぺらぼうの幽霊。もしまた雨の日にあの公園へ顔を出したら、もう一度会えるだろうか。また電柱の下にうずくまっているだろうか。気になって仕方がない。
クラスメイトとの喧嘩の内容が内容だっただけに、それが影響している気はする……だが。
夕飯のときにテレビで見た天気予報では、明日は曇りのち晴れと言っていた。雨の日しか会えない彼とは、明日は遭遇できない。
なにも覚えていないのにあんな場所にずっと留まって、かわいそうだ。また会えたら、こちらから声をかけてみようか……そこまで思ってから、自分は一体なにを考えているんだと頭を抱えたくなった。
初めて幽霊と話したから、気が動転しているだけだ。
強くそう意識していないと、気づいたときにはまた彼のことを考えてしまいそうで、なんだか落ち着かない。
「……はぁ」
溜息が零れた。
今日の私はどうかしている。どのみち、明日にあの幽霊と会うことはない。時間が経てば気持ちも落ち着いてくるかもしれないし、とにかく今日は早く休もう。
のぼせかけた頭を軽く左右に振り、私は浴室を後にした。
公園から自宅までの道は、小学時代と中学時代、そして現在まで通学路だ。車や自転車などが走らないなら、目を瞑ってでも歩けそうなほどに慣れた道だった。
歩きながら、なんだかすごいことが起きたな、と思う。
ぼんやりと足元を見つめる。一緒に視界に入り込んでくる傘の先端が、得体の知れない幽霊に触れていた――正確には手応えもなにもなかったが――と思うと、いまさらながら冷や汗をかいてしまいそうだ。
自分の名前さえ覚えていないなんて。白い塊と一緒にいたときに感じた胸の痛みが、じりじりと再燃する。
幽霊相手にあそこまで話し込んだのは……いや、あんなに長く顔を突き合わせていたこと自体が初めてだ。いつだって私は、そういうものが目に見えてしまったらすぐに視線を逸らし、なにも見なかったことにして過ごしてきた。
雨の日にはなるべく外出しないよう心がけているものの、通学ばかりはどうにもならない。今日みたいな遭遇は、年に数回、時には数年に一回で済む場合もあったけれど、とにかく私は毎度そうやって切り抜けてきた。ひとりのときも、隣に誰かがいるときも。
傘の先端をじっと見ていると、スカートの裾が視界に入り込んできた。濡れた道路に転倒し、グシャグシャのビショビショに汚れたスカートが。
同時に、したたかに打った鼻が鈍く痛み出す。さまざまなことが一気に起こりすぎて忘れかけていたが、あれほど派手に転んだのだ。腫れているかもしれない。
「……はぁ。どうしよ」
溜息が零れた。肩から下げた通学鞄が、さっきまでより重く感じられる。ジャケットやワイシャツも汚れているが、スカートは一段とひどい。このスカートを見て、母はどう思うだろう。どんな言い訳をしようかと考えると、憂鬱な気分に拍車がかかる。
自宅に到着し、鞄を漁って玄関の鍵を手に取る。それを鍵穴に差し込もうとしたとき、ふと背後から人の足音がした。
はっとして振り返った先、私は露骨に顔をしかめてしまう。
「あ……」
そこにいたのは、幼馴染の藤堂 悠生だった。
一瞬だけ視線がかち合い、思わず声が出た。……まずい。急いで鍵を回し、玄関のドアを開け、家の中に入る。
玄関に立ち竦みながら、私は片手で頭を抱えた。
藤堂家は、三軒隣のご近所さんだ。家と家の距離が近いから、玄関先で会ったら挨拶くらいはしないわけにいかないのに、またやってしまった。
私はハルキが嫌いだ。ハルキも私を嫌っている。端的に言い表すなら、私たちの関係は犬猿の仲だ。
ハルキの視線は、目が合った次の瞬間にはスカートへ向いていた。目を逸らす直前に口を開いていたから、もしかしたらグシャグシャのスカートについて言及する気だったのかもしれない。
玄関の鍵をかける。ガチャンと重々しい音がして、その音こそが、ハルキの視線をぶった切ってくれた気がした。ハルキがわざわざ追いかけてきてまで私に苦言を呈するとは思わないけれど、要は気持ちの問題だ。
ハルキは、「幽霊が見える」という自分の体質について、家族以外で初めて打ち明けた相手だ。
当時小学四年生だったハルキは否定した。ひどい言葉で私の体質を罵った。まるで私そのものを非難せんばかりの勢いで声を荒らげた相手の顔を、今ではもう思い出せない。思い出したくもなかった。
まったく口を利かないタイプの不仲だ。昔からの顔馴染みである親同士も、私たちの関係に余計な口を挟もうとしなくなって久しい。
学区は変えられないから、中学校まではどうしたって顔を合わせなければならなかったけれど、別々の高校に進学してやっと距離を置けるようになった。最近は顔を突き合わせる機会がほとんど消滅していただけに、こんなタイミングで鉢合わせてしまって、なおさら気分が悪い。
再び頭を押さえたそのとき、家の中から足音が聞こえてきた。
玄関が開く音がしたわりに、いつまで経ってもリビングへ現れない娘に痺れを切らしたのか、エプロン姿の母が玄関へ顔を出す。
「おかえり、遅かったじゃない……ってアンタ、なにそのスカート! どうしたの!?」
「あ、ただいま。その、コケた……」
初めは呑気に、言葉の最後には叫びに似た声をあげた母を直視していられず、私は俯いてぼそぼそと報告する。
叱られるかな、と思っていたのに、母は叱責を一切口にしなかった。
早く中に入りなさい、スカートって予備が一枚あったわよね、ありゃまぁアンタ随分派手に転んだこと、怪我はないの、早く着替えてご飯食べちゃいなさい――滝のような勢いで繰り出される母の言葉の数々に、私は相槌を打つ隙さえ逃しそうになりながら、はい、はい、と返すしかできない。
部屋着に着替えてからスマートフォンを確認すると、母から、それも三度も電話がかかってきていた。
時間は、十五分前と十分前、それから八分前。どれも白い塊とやり取りをしていた間だ。まったく気づかなかった。
「ごめん。電話、今気づいた」
「ああ、遅かったから心配してたのよ。まぁ無事で良かったわ、怪我もないみたいだし……あら、鼻打ったの? 赤いけど大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと痛いけどそれだけ」
母の心配は、私が転んだことに対して向けられている。そうは思っても、どうにも居心地が悪かった。
母は私の体質を知っている。雨の日で少しでも帰りが遅くなりそうなときは、学校に迎えに来たがる始末だ。変に目立ちたくないから断ってはいるが、思えば今日も朝からピリピリしていた。
間もなく午後七時だ。遅くなったせいで、母には余計な心配をかけてしまった。
実際には幽霊に遭遇したせいでこんな帰宅時間になったわけで、けれどわざわざそんな事情は伝えなくてもいいかなと思う。心配を煽る必要もない。現に私は無事だ。
食事を取り、風呂に入る。
ぬるめの湯船に浸かりつつ、今日、児童公園の前で起きたことをぼうっと思い返す。
彼の姿が急に見えなくなったのは、雨がやんだからだ。
彼――実際には男性か女性かもはっきりしていないが――は、なにも覚えていないと言った。名前は聞けずじまいだったが、あの様子ではそれすらも記憶に残っていなそうだ。かわいそうだな、と私はまた同情を覚える。
夜でなければ、あるいはもう少し雨が降り続いていれば、もっといろいろ話を聞けたのかもしれない……でも。
『幽霊が見えるなんて、そんな馬鹿みたいな話、誰が信じるかっつの』
口論になったクラスメイトの鼻で笑うような声が、不意に脳裏を掠めた。
あの子は、なにも私を指してそう言ったわけではない。彼女の弟の友達が幽霊を見たという話について、その信憑性を疑っていて、話し相手だった私に同意を求めてきただけだ。
向こうは、私が肯定するか相槌を打つか、どちらかを期待していたはずだ。それなのに、なにをあんなにムキになって言い返してしまったのかと、いまさらながら後悔が過ぎる。相手は、明日も顔を合わせなければならないクラスメイトだというのに。
でも、あんな言い方をされると悲しくなる。たとえ私に向けられた言葉でなくても。
きっと私は、彼女の言葉そのものに怒ったのではない。「幽霊なんているわけがない」と鼻白むような態度を、彼女がはなから隠そうともしなかったことこそがつらかった。
心の中の寂しい部分に、公園前で出会った白い塊が、すっと入り込むように重なる。
自分についてなにも思い出せない、のっぺらぼうの幽霊。もしまた雨の日にあの公園へ顔を出したら、もう一度会えるだろうか。また電柱の下にうずくまっているだろうか。気になって仕方がない。
クラスメイトとの喧嘩の内容が内容だっただけに、それが影響している気はする……だが。
夕飯のときにテレビで見た天気予報では、明日は曇りのち晴れと言っていた。雨の日しか会えない彼とは、明日は遭遇できない。
なにも覚えていないのにあんな場所にずっと留まって、かわいそうだ。また会えたら、こちらから声をかけてみようか……そこまで思ってから、自分は一体なにを考えているんだと頭を抱えたくなった。
初めて幽霊と話したから、気が動転しているだけだ。
強くそう意識していないと、気づいたときにはまた彼のことを考えてしまいそうで、なんだか落ち着かない。
「……はぁ」
溜息が零れた。
今日の私はどうかしている。どのみち、明日にあの幽霊と会うことはない。時間が経てば気持ちも落ち着いてくるかもしれないし、とにかく今日は早く休もう。
のぼせかけた頭を軽く左右に振り、私は浴室を後にした。