雨が嫌いだった。特に、夜の雨は。
 でも、今は待ち遠しくなるほど焦がれている。彼に会える日だからだ。

 初めて自分のこの体質を知ったのはいつだったか。小学校の低学年だった気もするし、まだ幼稚園児だった気もする。
 見える日もある。見えない日もある。その違いはなんだろうと、幼い私は幼い頭でそれでも懸命に考え、何度かその体験を重ねるうち、ある共通点に気づいた。

 見えるのは、雨の日だけということだ。

「こんにちは。ユウ」

 お気に入りの赤い傘は、彼と出会ってから買ったものだ。縁が薄いピンクのフリルになっている。雨傘としても日傘としても使える、どちらかというと日傘として使う人のほうが多そうな可愛らしい傘だ。
 私は、彼と会うときしかこの傘を使わない。彼と会う日は私にとって特別な日で、だから特別な傘を使いたいという、理由はそれのみだ。

 大きな声をかけたわけではない。雨の音に紛れ、彼には私の声など届かなかったのではと、微かな不安を覚える。けれどそんな私の内心とは裏腹に、彼は静かに顔を上げた。いや、正確には微かに動いた。

『うん。待ってたよ、カナオ』

 雨の日限定のやり取りが、また始まる。
 胸が高鳴る。ユウの声はくぐもっている上に、私が知る他の男性――父親とか学校の先生とか、そんな比較対象しかいないが――に比べても低い部類に入る。よく耳を傾けなければ聞き取れないことも多い。
 だから私は、ユウと会うときには彼のすぐ傍に歩み寄る。

 学校帰り、雨の午後。時刻は午後四時の少し前。
 こんな雨の日に、ちっぽけなこの児童公園で遊ぶ子供など、ただのひとりも見当たらない。もちろん、公園の奥側にひっそりと佇むこの東屋にも。

 今この場にいるのは、私とユウのふたりだけだ。

 幽霊のユウ。私がつけた彼のあだ名だ。初めて会ったとき、彼は自分の名前さえ思い出せないと言った。だから私がつけた。
 我ながら、適当にもほどがある提案をしてしまった。もっと真面目に考えれば良かったと思うけれど、本人が気に入ったようで、訂正はもう利きそうにない。

『濡れるぞ。早く中に入れ』
「うん。ありがと」

 東屋の古びたベンチに、白い塊がひとつ。彼が腰かけていると分かるのは――いや、彼が見えているのは、きっとこの世で私だけだ。
 公園に足を踏み入れたときと同様に、周りに誰かいないか念入りに確認してから、私は傘を畳んでユウの隣に腰を下ろした。
 座ってから気づいたが、制服の肩の部分が少し濡れていた。多分、途中から走ってきたからだ。ユウに触れてしまわないよう、私はそっと自分の肩を払った。そんなふうにしなくても、幽霊であるユウが濡れることはないと、頭では分かっている。それでも気は引ける。

 少し前まで、ユウは、座っているとただの白い塊にしか見えなかった。それが、今ではだいぶ人に近い形に見えるようになった。間違いなく、ユウは人の幽霊だ。
 ユウがどこから来たのか、いつからここにいるのか、どうしてこの公園に留まっているのか、私は詳細をなにひとつ知らない。
 ……いや、知らなくていい。ユウ本人が自分自身についてなにも覚えていない以上、確認のしようがない。

 例えば、顔を見れば手がかりが得られるのではと思う。
 でも、それも無理な話だ。

『カナオ。前に会ったときと変わっていることがあれば、教えてほしい』

 白い塊が、私に向き直った……のだと思う。
 そうと断言できないのは、ユウには顔がないからだ。顔だけではない。ユウは人の形をしているけれど、基本的にはなにもかもが朧げな、そういう幽霊だ。
 初めは怖いと思った。逃げようともした。でも。

『変わっていることがあれば、教えてほしい』

 いつもと同じく、くぐもった声で話す彼の言葉を、頭の中で繰り返す。
 ユウには生前の記憶が残っていない。そもそも、果たして「生前の」という言い表し方を本当にしてもいいのか、今日も私はためらいを拭いきれずにいる。
 彼の今の言葉は、自分自身の記憶を碌に残していない彼が、私を通してそれを取り戻そうとしていることを意味している。私は彼に協力している。彼がきちんと自分の記憶を取り戻し、今の状態から本来あるべき姿に戻れるように。本来あるべき場所へ、向かえるように。

 ずきりと、胸の奥が痛んだ。
 私はユウが好きだ。学校帰り、雨の中を、傘を片手に走ってこの場を訪れてしまうほど。雨の日が待ち遠しすぎて、眠れない夜があるほど。

「うん。顔、見せて」

 白い塊の、頭らしき部分を覗き込む。
 のっぺらぼうの白い塊がふふ、と静かに笑った声が聞こえ、私も、彼の目があるだろう辺りを見つめながら微笑み返した。