いつの間にかまた水泡は全滅し、遊ぶのにも飽きたらしい子供たちが、みずほの方にトタトタとやってきた。

 女の子はみずほの隣にぺったり張り付いて座り、男の子はみずほの膝の上にどーんと腹ばいになる。ふたりから伝わってくる子供特有の高い体温は、確かに嵐の中で感じたものと同じだ。

 みずほはたまらない庇護欲、言い換えれば母性のような情動を一瞬抱くものの、「いやいや、待って!」と激しく首を横に振る。

「だからって、私に神様の子供なんて育てられないよ!」
「なんだ、子供たちの力が恐ろしいのか? まだ子供だからたいしたことはないぞ。先程のように、ちょっと風を操ったり、軽い電気を纏ったりするくらいだ。応用はいろいろと利くが……食らったとしても、なにも死にはしない」
「そういうことじゃなくてね……!」

(いや、その力は力で不安要素しかないけどさ)

 水明にはみずほの戸惑いが理解できないらしく、「じゃあ貴様は、なにが嫌で子育てを断るんだ?」と疑問をあらわにしている。

「現役の風神・雷神の許可も、ちゃんと得ているぞ? 前例がないため相談したが、両者とも快く了承してくれた」

 風神は『その人間も竜巻みたいに巻き込んじゃえー! 風だけに!』とウィンクをし、雷神は『おもしろそうだからビリビリによし!』とOKサインをしたのだというから、存外ノリのいい神様たちである。

「〝ゆりかご〟や〝おくるみ〟を用意したのも、現役の風神・雷神だ。彼らは親というより、位置的には初孫を喜ぶ祖父母に近いな。俺としては、祖父母は孫には甘いというし、今後子供たちと会ったら、彼らは甘やかしすぎないかと懸念している。貴様も心しておけ」
「今からそんな心配しても仕方ないと思うよ……」

(やっぱり水明って、ちょっと天然だ)

 ただのえらそうな失礼野郎だと思っていた水明も、みずほは親しみを覚えてきたが、ここで絆されてはいけない。

「まず私に子育ての経験なんてないし、結婚もしてないのにいろいろすっ飛ばして育児はちょっと……! 婚約者にも、その、最近フラれたばかりで……」
「ほう、婚約者にか」

 水明の瞳がすうっと細まり、一気に凍てつく空気が室内を覆う。
 様子が一変した彼に、みずほは「す、水明? 急にどうしたの?」と戸惑う。

「……そんな見る目のない人間のことなど、さっさと忘れてしまえ。これからは俺が、夫として貴様のことを愛してやる」
「あ、あい……っ!?」

 伸びてきた水明の手が、みずほの頬をスリッ……と、ひと撫でする。擽ったさよりも愛を囁かれた衝撃が大きく、みずほは口の開け閉めを意味もなく繰り返す。

(か、彼は本気? ううん、子育てとか夫婦に関しておかしな知識があるから、特別な感情もなく言ってみただけかも……)

 要は、共に子育てをする予定のみずほと、〝夫婦ごっこ〟を行うための形だけの言葉だ。

 現に彼は「〝夫は妻を一途に愛し抜け〟と、育児書の夫婦に関するページにもあったしな」などと零しており、単に本から影響を受けただけかもしれない。おかしな知識のもとはその育児書らしい。

(でも、定義上だけの関係で、ただのかりそめ夫婦なら……なんで、そんな目で見てくるの)

 水明の目はいたって真剣で、淡い水色の奥には確かな熱が窺えた。
 その熱はみずほに一心に注がれていて、本気で彼に愛されているのだと、勘違いしてしまいそうになる。

(だ、だいたい、たった今会ったばかりの相手に、こんなの変だよ。落ち着いて、平常心になって、私!)

 みずほは水明から逃げるように顔を逸らし、思考を別のことにシフトさせる。
 懸念はまだまだあるのだ。

「ほ、ほら、養育費のことだってあるじゃない? 私はお金ないよ? 住むところだって……」
「なんだ、そんなことか」

 水明はスーツの懐に手を入れると、なにやら古めかしい巻物のようなものを取り出した。手渡されたので、みずほはおそるおそる黒い紐を解く。一番上には達筆で『契約書』と書かれていた。

「ええっと……『貴殿は母親役として、子が一人前、人間年齢でいう十歳程度になるまでの間、子をしっかり守り……』」
「そこも大事な箇所だが、そこじゃない。もう少し下を読め」
「下……? あ、ここかな。『なお、神の子たちの母親役を引き受ける場合、子の分も含めた衣食住は、全て父親役である水神が不自由なく保障する』……ウソ!?」

 食い付いたみずほに、水明は優美に薄い唇を持ちあげる。

「当然、住むところもこちらが用意しよう。このような犬小屋より、よほど広く立派な家をな。貴様には子育てに集中してもらわねばならないから、当分の間は外で働かなくてもいい」

 あまりの破格の条件に、再びみずほの心は大いに揺れ動く。巻物を持つ手がプルプルと震えた。
 生活面で追い詰められている今のみずほには、あまりに甘美な誘惑だった。

(家探しもしなくてよくなるとか……おいしい、おいしすぎる! でもでも、母親役なんて、そんな簡単に引き受けていいものなの? 私みたいなダメダメ女には、荷が重いんじゃ………)

 それでも最後の踏ん切りがつかないみずほを、女の子は横から、男の子は膝の上から、じっと真っ直ぐに見つめている。

「……まぁあ?」
「……まま?」

 金と黄緑の瞳は、揺らめく不安を湛えていた。

「あ……」

 そのとき、みずほの中で初めて〝ママ〟という単語が、確かな質量を持って深く胸に響いた。

(そっか、この子たちにはもう私が〝ママ〟で、ここでもし私が断ったら、母親がいなくなるってことに……)

 みずほと実の母親の関係は、けっして良好とは言い難い。だけどここまで育ててくれた母には感謝しているし、子供にとってその存在の大きさは、重々理解しているつもりだ。

 そう考えると、みずほは巻物から手を離し、無意識に女の子の灰色の頭を撫でていた。

 小さく「えへへ」とはにかむ女の子に対し、男の子も「ぼくも! ぼくもなでちぇ!」とせがんでくる。請われるまま撫でてやれば、ヒマワリのような笑顔が返ってきた。

(なによりこの子たちは、私なんかを必要としてくれている……)

 ようやく、みずほの腹は決まった。

「わかった……私やるよ、この子たちの母親役! 今日からママとして頑張らせてもらうから!」
「……それは、俺と夫婦になることも了承したと捉えていいな?」
「う、うん! よろしくね、水明」

 水明の問いにも、みずほはためらいつつも頷いた。
 その途端、テーブルに放置されていた巻物が宙に浮かび、パアッと青い光を帯びる。

「こ、今度はなに!?」