「すまない、みずほ。俺との婚約を破棄してくれないか」
「……へ」

 ――おそらくこのとき、みずほは二十七年間の人生で一番間抜けな顔で呆けたし、人生で一番ドン底まで叩き落とされた。

 真樹(まき)みずほは、いたって平凡な人間である。いや、むしろなにをやらせても平均値より下、不器用で要領の悪いポンコツ女子だ。
 容姿もパッとしない童顔のちんちくりんで、友人にはプレーリー・ドッグに似ていると言われたことがある。たぶん悪口だ。

 学生時代は勉強が苦手で、運動はからっきし。かといって他に特技もなく、先生には『真樹さんはもうちょっと、全体的に頑張りましょうね』とやんわりだめ出しをされ続けた。

 しかしながら、頑張れば頑張る程、みずほはいつも空回りがちだった。

 滑り込みで入った地元の四年制大学で、これまたギリギリ卒業分の単位を得て、気合いを入れて就職活動に乗り出しても、何社も何社も立て続けに落ちた。不採用通知なんて親の顔より見たくらいだ。もうどこでもいいから……と完全に諦めていたところで、今の会社に拾ってもらえた。
 中小食品メーカーの営業事務。その仕事でもやっぱりみずほは頑張れば頑張る程空回って、そのうち自分自身に期待しなくなった。

 人生へのモチベーションも下がり、友人たちがやれ婚活だ、やれ結婚だと、どんどん先に進もうと、無為に時間を消費する毎日。

 だから……会社の飲み会帰りに、羽内(はねうち)に「前から真樹さんのこと、気になっていたんだよね。よかったら俺と付き合ってくれないかな?」と交際を申し込まれたことは、青天の霹靂であった。

 羽内大清(たいせい)はみずほの同期であり、営業部の期待のエース。
 みずほとは正反対の、なにをやらせても有能な要領のいい男で、爽やかな容姿で女性社員からも当然のように人気は抜群だ。

 そんな引く手あまたの彼が、なぜポンコツなみずほに惹かれたのかは、いまだにみずほ自身にも謎だが、始まった交際自体は順調だった。

 二年付き合って婚約もして、指輪ももらい、あとは結婚を待つだけだったのだ。

 ……それなのに。

『ちょっと、みずほ! あんた、会社を辞めるって本当!?』
「うん。本当だよ、杏(あん)ちゃん」

 社員寮の、ワンルームの自室。簡素なパイプベッドの上で、風呂上がりにキャミソール一枚で寝転がりながら、みずほはスマホで電話をしていた。

 相手はみずほの親友である、花房(はなぶさ)杏だ。
 彼女とは小中高と同じ学校で、大学は離れてしまったが、今の会社で偶然再会した。ただ、みずほと部署は違い、数少ない女性営業としてバリバリ成果を出しているお仕事女子である。

 そんな杏は現在、遠方に二か月程の長期出張中のはずだ。どこからみずほの情報を知ったのか尋ねてみても、『どこからでもいいでしょ! そんなものはあちこちから入ってくるのよ!』とすげなく返される。

『なに? 他でやりたい仕事でもできたの?』
「そういうわけじゃないけどさ」
『じゃあやっぱり、羽内くんとのことが原因ね?』
「まあ……うん……」

 詰問してくる杏に対し、みずほの歯切れは悪い。

 みずほが羽内に婚約破棄を言い渡されたのは、約三か月前。
 理由は「他に好きな人ができたから」というシンプルなものだ。ドラマや小説でも使い古されたフレーズ。

 羽内は社員寮ではなく会社近くのマンションに住んでいて、日曜日に彼の部屋へ呼ばれ、そこでいとも簡単に告げられた。ついでに部屋にあるみずほの私物も、このまま持っていってほしいとも頼まれた。
 久しぶりに部屋に招かれたと浮かれていたみずほは、まさか涙を我慢しながら、紙袋に服やらヘアブラシやらを詰めるはめになるとは思わなかった。

(ちょっと前までは、一緒に住む新居の話とかもしていたのにな……)

 横になったままだと、あのとき我慢した分の涙がここで流れそうで、みずほはゴロリと態勢を仰向けにした。

「……でも、うん。仕方なかったんだよ、たぶん」
『仕方ないなんてことあるもんですか!』

 曖昧に濁そうとしたみずほを、キレた杏は許さない。

『だから私は、羽内くんは最初から信頼できないって言ったのよ! あの胡散臭い笑顔! ろくでもない男の匂いがプンプンしていたわ!』

 女性社員の憧れの的である羽内だが、杏だけはずっと毛嫌いしていた。

 羽内も杏のことは苦手だと零していたので、単に相性の問題かとみずほは捉えていたが、今となっては杏の忠告を聞いておけばよかったとも思う。

『婚約までしといて、あんな女狐にまんまとたぶらかされて!』
「め、女狐って……すごい言葉チョイスだね」
『女狐でしょうが! 人の男を悪びれるふうもなく、横から掠め獲ったのよ!?』

 羽内の新たなお相手にして、杏が女狐と称するのが、みずほの会社に中途採用で入ってきた山(やま)辺(べ)という女性だ。

 歳はみずほの二つ下。ほんわか可愛い系の容姿で気配りに長け、男性陣からの支持はうなぎのぼりだったが、あからさまに男性にだけべったり引っ付くので、往々にして女性陣からは不評であった。

 みずほも、山辺が羽内と共にいるところを社内でよく目撃していて、じわじわと不安を募らせていたのだ。それに合わせて、羽内の態度も冷たくなっていった。

 だけどみずほは、羽内を問い詰めるようなことは一切しなかった。聞くことで、羽内にうっとうしがられたり、直接突き放されたりすることが怖くて、現実から目を逸らした。
 それに「私と大清は婚約しているんだから」と、高を括っていたところもある。
 その結果がこの有様だ。

(一応、山辺さんには謝罪されたけど……)

 大きな瞳をうるうるさせながら、山辺は「ごめんなさい、真樹さんから大清さんを奪うつもりとか、そんな気は一切なかったんです。でも大清さんが、どうしても私といたいって……」などと述べた。

 それを聞いたとき、みずほは不思議と怒りは湧いてこなかった。
 ただ「山辺さんのアグレッシブさはすごいなあ」と変に感心していて、すでにだいぶ疲れていたのかもしれない。

 その山辺の表面上だけの謝罪は、社員がたくさんいる会社の休憩室でパフォーマンスのように行われた。
 それが一番いただけなかった。

 今考えると完全にわざとだったのだろうが、みずほたちのいざこざは社内中に光の速さで広まり、おかげでみずほには〝婚約破棄されたかわいそうな女〟という、悪目立ちするレッテルを貼られた。

 杏を筆頭に、羽内と山辺側に非難の声をあげてくれる者もいたが、「でも正直、羽内くんと山辺さんの方がお似合いだよね」なんて囁く声も少なくはなかった。
 みずほが退職を決意したのは、それら全部がもう限界だったからだ。

「ごめんね、杏ちゃん。私の代わりに怒ってくれてありがとう。でも……あれもこれも、どうでもいいやってなっちゃって」
『みずほ……』
「とっくに退職届も出したし、しばらくはのんびりしたいかも。恋愛も当分いいや。一生独身もアリかなって、今は考えているくらい」
『それはまあ、個人の生きかただから、私もアリだとは思うけど……あんた、住むところはどうするの? 社員寮にはもう住めないのよ?』

 痛いところを突いてくる杏に、さすがだとみずほは笑ってしまう。
 彼女のこういうはっきりした性格が、自分にない面だと、みずほは学生時代から好ましく思っていた。

「二週間後には寮を出る予定で、住むところはまだ探し中かな。不動産屋も何軒か回っているんだけど、あんまりいいところがなくてさ。どうしても退寮日までに見つからなかったら、しばらく格安ホテルに泊まるか、実家に連絡してみるよ。実家自体はすぐに行ける距離だしね……その、だいぶ気まずいけど」

 婚約破棄のことは、まだ母親には伝えていない。
 みずほの家は母子家庭で、両親はみずほが幼い頃に離婚している。みずほは父親の顔もろくに覚えていなかった。

 母は女手ひとつでみずほを立派に育てようと、昔から躍起になっている節があって、なにかと厳しい言動が目立つ人だ。
 母の求める〝立派さ〟に追いつけなくて、みずほはつらい思いもした。

 そんな母に婚約破棄のことを明かして、どんな反応が来るのか……。
 母は羽内をそれなりに気に入っていたし、お小言を食らうのは確実だ。「あんたにも原因があったんじゃないの?」と、いかにもあり得る可能性を突き付けられたら、心への負荷がでかそうでみずほは言えなかった。

(私、ずっと逃げているな……)

 羽内と向き合うことからも、母親と向き合うことからも。

『……困ったことがあったら、いつでも電話してきなさいよ? あんた、妙なところで遠慮するから』
「うん……杏ちゃんも無理しないでね。私より忙しい杏ちゃんの方が心配だよ」
『バカ! 根がいい子なんだから、みずほは! こういうときは、自分のことだけ心配していればいいのよ!』
「わ、わかったよ」
『よろしい。じゃあね、みずほ。暖かくして早く寝るのよ!』
「そんなチビッ子相手みたいな」

 みずほが苦笑したところで、通話は終了した。
 暗くなったスマホをシーツに投げだし、ベージュ色の天井を見つめる。

 この猫の顔っぽい形をしたシミのある天井とも、もうすぐでお別れだ。羽内にネタとして笑ってほしくて、「天井に猫がいたよ」と、写真に撮って見せたたわいのないやり取りが懐かしい。
 あいにくながら羽内は笑ってくれず、すべって終わってしまったが……。

「……もう! やめやめ!」

 しょっぱい気持ちが加速してきて、みずほは頭を振って起きあがる。

「甘い物とか食べたいな……」

 新発売のチョコレートでも買ってこようと、気分転換も兼ねてコンビニに行くことにした。
 寮では朝夕と、栄養バランスのいいおいしいご飯が食堂で食べられて、今日のような日曜日は夕食後にミニデザートまでつけてもらえるが、さすがにお菓子は自力で調達しなくてはいけない。

(けど実家に帰らないなら、今後は自炊かあ)

 料理どころか家事全般苦手なみずほには、お先が真っ暗すぎるが、あえてなんとかなるかと楽観的に考えておく。

 まずは出かけるために薄手のパーカーを着てジーンズを穿き、ボサボサのハニーブラウンの髪は雑にひとつにまとめる。失恋をしたら髪を切るものだと、いにしえからの慣習でロングヘアーをセミロングにしてみたが、思いきってベリーショートくらいにしてもアリだったかもしれない。

 そんなことを考えながら、みずほは最低限の持ち物を手に寮を出た。