「すまない、みずほ。俺との婚約を破棄してくれないか」
「……へ」

 ――おそらくこのとき、みずほは二十七年間の人生で一番間抜けな顔で呆けたし、人生で一番ドン底まで叩き落とされた。

 真樹(まき)みずほは、いたって平凡な人間である。いや、むしろなにをやらせても平均値より下、不器用で要領の悪いポンコツ女子だ。
 容姿もパッとしない童顔のちんちくりんで、友人にはプレーリー・ドッグに似ていると言われたことがある。たぶん悪口だ。

 学生時代は勉強が苦手で、運動はからっきし。かといって他に特技もなく、先生には『真樹さんはもうちょっと、全体的に頑張りましょうね』とやんわりだめ出しをされ続けた。

 しかしながら、頑張れば頑張る程、みずほはいつも空回りがちだった。

 滑り込みで入った地元の四年制大学で、これまたギリギリ卒業分の単位を得て、気合いを入れて就職活動に乗り出しても、何社も何社も立て続けに落ちた。不採用通知なんて親の顔より見たくらいだ。もうどこでもいいから……と完全に諦めていたところで、今の会社に拾ってもらえた。
 中小食品メーカーの営業事務。その仕事でもやっぱりみずほは頑張れば頑張る程空回って、そのうち自分自身に期待しなくなった。

 人生へのモチベーションも下がり、友人たちがやれ婚活だ、やれ結婚だと、どんどん先に進もうと、無為に時間を消費する毎日。

 だから……会社の飲み会帰りに、羽内(はねうち)に「前から真樹さんのこと、気になっていたんだよね。よかったら俺と付き合ってくれないかな?」と交際を申し込まれたことは、青天の霹靂であった。

 羽内大清(たいせい)はみずほの同期であり、営業部の期待のエース。
 みずほとは正反対の、なにをやらせても有能な要領のいい男で、爽やかな容姿で女性社員からも当然のように人気は抜群だ。

 そんな引く手あまたの彼が、なぜポンコツなみずほに惹かれたのかは、いまだにみずほ自身にも謎だが、始まった交際自体は順調だった。

 二年付き合って婚約もして、指輪ももらい、あとは結婚を待つだけだったのだ。

 ……それなのに。

『ちょっと、みずほ! あんた、会社を辞めるって本当!?』
「うん。本当だよ、杏(あん)ちゃん」

 社員寮の、ワンルームの自室。簡素なパイプベッドの上で、風呂上がりにキャミソール一枚で寝転がりながら、みずほはスマホで電話をしていた。

 相手はみずほの親友である、花房(はなぶさ)杏だ。
 彼女とは小中高と同じ学校で、大学は離れてしまったが、今の会社で偶然再会した。ただ、みずほと部署は違い、数少ない女性営業としてバリバリ成果を出しているお仕事女子である。

 そんな杏は現在、遠方に二か月程の長期出張中のはずだ。どこからみずほの情報を知ったのか尋ねてみても、『どこからでもいいでしょ! そんなものはあちこちから入ってくるのよ!』とすげなく返される。

『なに? 他でやりたい仕事でもできたの?』
「そういうわけじゃないけどさ」
『じゃあやっぱり、羽内くんとのことが原因ね?』
「まあ……うん……」

 詰問してくる杏に対し、みずほの歯切れは悪い。

 みずほが羽内に婚約破棄を言い渡されたのは、約三か月前。
 理由は「他に好きな人ができたから」というシンプルなものだ。ドラマや小説でも使い古されたフレーズ。

 羽内は社員寮ではなく会社近くのマンションに住んでいて、日曜日に彼の部屋へ呼ばれ、そこでいとも簡単に告げられた。ついでに部屋にあるみずほの私物も、このまま持っていってほしいとも頼まれた。
 久しぶりに部屋に招かれたと浮かれていたみずほは、まさか涙を我慢しながら、紙袋に服やらヘアブラシやらを詰めるはめになるとは思わなかった。

(ちょっと前までは、一緒に住む新居の話とかもしていたのにな……)

 横になったままだと、あのとき我慢した分の涙がここで流れそうで、みずほはゴロリと態勢を仰向けにした。

「……でも、うん。仕方なかったんだよ、たぶん」
『仕方ないなんてことあるもんですか!』

 曖昧に濁そうとしたみずほを、キレた杏は許さない。

『だから私は、羽内くんは最初から信頼できないって言ったのよ! あの胡散臭い笑顔! ろくでもない男の匂いがプンプンしていたわ!』

 女性社員の憧れの的である羽内だが、杏だけはずっと毛嫌いしていた。

 羽内も杏のことは苦手だと零していたので、単に相性の問題かとみずほは捉えていたが、今となっては杏の忠告を聞いておけばよかったとも思う。

『婚約までしといて、あんな女狐にまんまとたぶらかされて!』
「め、女狐って……すごい言葉チョイスだね」
『女狐でしょうが! 人の男を悪びれるふうもなく、横から掠め獲ったのよ!?』

 羽内の新たなお相手にして、杏が女狐と称するのが、みずほの会社に中途採用で入ってきた山(やま)辺(べ)という女性だ。

 歳はみずほの二つ下。ほんわか可愛い系の容姿で気配りに長け、男性陣からの支持はうなぎのぼりだったが、あからさまに男性にだけべったり引っ付くので、往々にして女性陣からは不評であった。

 みずほも、山辺が羽内と共にいるところを社内でよく目撃していて、じわじわと不安を募らせていたのだ。それに合わせて、羽内の態度も冷たくなっていった。

 だけどみずほは、羽内を問い詰めるようなことは一切しなかった。聞くことで、羽内にうっとうしがられたり、直接突き放されたりすることが怖くて、現実から目を逸らした。
 それに「私と大清は婚約しているんだから」と、高を括っていたところもある。
 その結果がこの有様だ。

(一応、山辺さんには謝罪されたけど……)

 大きな瞳をうるうるさせながら、山辺は「ごめんなさい、真樹さんから大清さんを奪うつもりとか、そんな気は一切なかったんです。でも大清さんが、どうしても私といたいって……」などと述べた。

 それを聞いたとき、みずほは不思議と怒りは湧いてこなかった。
 ただ「山辺さんのアグレッシブさはすごいなあ」と変に感心していて、すでにだいぶ疲れていたのかもしれない。

 その山辺の表面上だけの謝罪は、社員がたくさんいる会社の休憩室でパフォーマンスのように行われた。
 それが一番いただけなかった。

 今考えると完全にわざとだったのだろうが、みずほたちのいざこざは社内中に光の速さで広まり、おかげでみずほには〝婚約破棄されたかわいそうな女〟という、悪目立ちするレッテルを貼られた。

 杏を筆頭に、羽内と山辺側に非難の声をあげてくれる者もいたが、「でも正直、羽内くんと山辺さんの方がお似合いだよね」なんて囁く声も少なくはなかった。
 みずほが退職を決意したのは、それら全部がもう限界だったからだ。

「ごめんね、杏ちゃん。私の代わりに怒ってくれてありがとう。でも……あれもこれも、どうでもいいやってなっちゃって」
『みずほ……』
「とっくに退職届も出したし、しばらくはのんびりしたいかも。恋愛も当分いいや。一生独身もアリかなって、今は考えているくらい」
『それはまあ、個人の生きかただから、私もアリだとは思うけど……あんた、住むところはどうするの? 社員寮にはもう住めないのよ?』

 痛いところを突いてくる杏に、さすがだとみずほは笑ってしまう。
 彼女のこういうはっきりした性格が、自分にない面だと、みずほは学生時代から好ましく思っていた。

「二週間後には寮を出る予定で、住むところはまだ探し中かな。不動産屋も何軒か回っているんだけど、あんまりいいところがなくてさ。どうしても退寮日までに見つからなかったら、しばらく格安ホテルに泊まるか、実家に連絡してみるよ。実家自体はすぐに行ける距離だしね……その、だいぶ気まずいけど」

 婚約破棄のことは、まだ母親には伝えていない。
 みずほの家は母子家庭で、両親はみずほが幼い頃に離婚している。みずほは父親の顔もろくに覚えていなかった。

 母は女手ひとつでみずほを立派に育てようと、昔から躍起になっている節があって、なにかと厳しい言動が目立つ人だ。
 母の求める〝立派さ〟に追いつけなくて、みずほはつらい思いもした。

 そんな母に婚約破棄のことを明かして、どんな反応が来るのか……。
 母は羽内をそれなりに気に入っていたし、お小言を食らうのは確実だ。「あんたにも原因があったんじゃないの?」と、いかにもあり得る可能性を突き付けられたら、心への負荷がでかそうでみずほは言えなかった。

(私、ずっと逃げているな……)

 羽内と向き合うことからも、母親と向き合うことからも。

『……困ったことがあったら、いつでも電話してきなさいよ? あんた、妙なところで遠慮するから』
「うん……杏ちゃんも無理しないでね。私より忙しい杏ちゃんの方が心配だよ」
『バカ! 根がいい子なんだから、みずほは! こういうときは、自分のことだけ心配していればいいのよ!』
「わ、わかったよ」
『よろしい。じゃあね、みずほ。暖かくして早く寝るのよ!』
「そんなチビッ子相手みたいな」

 みずほが苦笑したところで、通話は終了した。
 暗くなったスマホをシーツに投げだし、ベージュ色の天井を見つめる。

 この猫の顔っぽい形をしたシミのある天井とも、もうすぐでお別れだ。羽内にネタとして笑ってほしくて、「天井に猫がいたよ」と、写真に撮って見せたたわいのないやり取りが懐かしい。
 あいにくながら羽内は笑ってくれず、すべって終わってしまったが……。

「……もう! やめやめ!」

 しょっぱい気持ちが加速してきて、みずほは頭を振って起きあがる。

「甘い物とか食べたいな……」

 新発売のチョコレートでも買ってこようと、気分転換も兼ねてコンビニに行くことにした。
 寮では朝夕と、栄養バランスのいいおいしいご飯が食堂で食べられて、今日のような日曜日は夕食後にミニデザートまでつけてもらえるが、さすがにお菓子は自力で調達しなくてはいけない。

(けど実家に帰らないなら、今後は自炊かあ)

 料理どころか家事全般苦手なみずほには、お先が真っ暗すぎるが、あえてなんとかなるかと楽観的に考えておく。

 まずは出かけるために薄手のパーカーを着てジーンズを穿き、ボサボサのハニーブラウンの髪は雑にひとつにまとめる。失恋をしたら髪を切るものだと、いにしえからの慣習でロングヘアーをセミロングにしてみたが、思いきってベリーショートくらいにしてもアリだったかもしれない。

 そんなことを考えながら、みずほは最低限の持ち物を手に寮を出た。
 黄昏時の空は赤々と燃えている。五月初旬の気温は暖かくも寒くもなく、散歩がてらのんびり歩くにはピッタリだ。

 コンビニまでは十分程で難なく到着し、チョコレート以外にもドリンクとポテトチップスを購入して、店員の気怠そうな「ありがとうございましたー」という声を背に帰路につく。

「あれ……?」

 だけど歩いている途中で、ふと頬を冷たい水が叩いた。気付けば空模様は一変していて、ポツポツと雨が降りだしていた。

「ウソ! 傘ないし、お風呂だってもう入ったのに……わっ!」

 うろたえているうちに、ザアッとものすごい音を立てて雨脚が強くなる。しかも風も出てきて、遠くの方ではまさかの雷まで鳴った。
 そこでみずほはようやく、夕方から嵐の予報だったことを思い出す。

「ど、どこか雨宿りできるとこ……!」

 走って寮に戻るより、一時避難することに決めた。ちょうど立ち止まった場所が、神社に続く石段の前で、駆けあがって手水舎の屋根の下に飛び込む。

「最悪……」

 全身はだいぶ濡れてしまった。
 化粧品のオマケのエコバッグも、中身とセットでびしょびしょだ。
 まだやみそうにない空を、みずほはじとりと睨む。大粒の雫は、石畳を強く打ち付け続けている。

(それにしても……ここってこんな感じだったんだ)

 この神社はいつも素通りするだけで、鳥居をくぐって中まで来るのは初めてだったが、境内はそこそこ広く、パッと見渡しただけでも、手入れがきちんと行き届いていた。
 拝殿の装飾も見事で、中備(なかぞなえ)に彫り込まれているのは龍だろうか。
 よく見れば手水舎の縁にも、石造りの龍の置物が置かれ、その口からチョロチョロと水が出る仕様になっている。
 
(龍は、雨や水を司る神様だっけ……)

 どこか清廉とした空気がここに漂っているのは、神聖な龍が守っているからかもしれない。

(そういえば昔、よくお参りしていた祠にも、龍の置物があったよね)

 記憶がよみがえり、みずほは微かに目を細める。中学校のそばにあった小さな祠に、通るたびに手を合わせていたことは懐かしい思い出だ。

「せめて遠くからでも、お参りしておこうかな……ええっと、二礼二拍手一礼だっけ?」

 みずほは拝殿に向かって、朧気な知識ながらも手順を踏み、願い事もちゃっかり頭の中で述べる。今のみずほに願い事なんて星の数程あったが、一番に浮かんだことだけにしておいた。

(ちょっと抽象的な願いだったかな……)

 礼から頭をあげると、灰色の空が目に飛び込む。
 やむ気配のない雨に、みずほがやるせない溜息をついたときだった。

「ふぎゃあ……ふぎゃあ……」
「ん?」

 雨音に交じるように、赤ん坊が泣くような声が聞こえた。

「き、気のせいよね? こんなところに赤ん坊なんて……」
「ふぎゃあ……」
「気のせいじゃない!」

 二度目はよりしっかりと聞こえて、どうも空耳ではなさそうだ。

「ど、どこから……!?」

 みずほは辺りに視線を走らせる。
 耳を研ぎ澄ましてみて、どうやら泣き声のもとは賽銭箱の裏からだと特定した。そんなわけがないとは疑いつつも、確かめずにはおれず、みずほは手水舎から賽銭箱までの短い距離を一気に駆けた。

 髪から雨水を滴らせながら、おそるおそる賽銭箱の裏を覗く。

「ほ、本当に赤ちゃん……!」

 そこには籐製のゆりかごが置かれており、純白のおくるみに包まれた、生後半年くらいの赤ん坊が寝かされていた。しかも、ふたり。寄り添うように、ゆりかごに収まっている。

 激しく泣いている方は、薄っすら生えた髪が金色で、目も緑がかった金だった。みずほが聞いた泣き声はこの子のものだろう。
 隣の子も泣いてはいるが、声が小さく控え目だ。こちらは髪が灰色で、目は鮮やかな黄緑色をしている。
 どちらも日本人ではないのかもしれない。男女の区別はつけられなかったが、顔の細かい造りは双子のようによく似ていた。

「どうしてこんなところに赤ちゃんが……まさか捨てられて……?」

 ゾッとする想像に、雨に濡れた寒さ以外で背筋が震える。
 訳ありなことは間違いない。とにかくこの子たちを保護しなければと、みずほは必死に頭を働かせる。

「こういうときは警察……? 電話して説明すればいいのかな。スマホは……ああっ、部屋に置いてきた!」

 コンビニに行くくらいならと、ベッドに放置してきたのだった。もっとも有効な手段が手元にないのは絶望的だ。

「ふぎゃあ! ふぎゃあ!」
「うああ、うああ」
「ああっ、ふたりとも泣かないで!」

 いっそう大声で泣く赤ちゃんたちに困り果ててしまう。
 赤ん坊は、お腹が空いたときや、オムツが汚れたとき、単に不安なときにも泣くとは知識として理解していたが、こんな状況ではろくな対処もできない。
 ただみずほは、あやすようにゆりかごをそっと揺らして、へたくそな笑顔を作って笑いかけた。

「あ、安心してね。私が絶対になんとかしてあげるから。あなたたちのことは、私が守るからね」

 パチリと、金色の目がみずほを映す。黄緑色の目も、みずほのことを確と捉えた。

「わっ!」

 そこで突風が吹いて、拝殿の中央に吊られた真鍮製の鈴が、鈴緒と共にガランガランとけたたましく鳴った。一拍遅れて暗闇を裂くような光が空に走り、どこかに落雷したのか轟音が響く。
 とっさにみずほは、庇うようにゆりかごに覆い被さった。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ……」

 ぎゅっと目を瞑って、赤ん坊たちに言い聞かせるように唱える。どのくらいそうしていただろう。実際はほんの一分足らずのはずが、みずほの体感では数十分も経った頃。

 赤ん坊たちの声がしなくなったことにハッとして、急いで体を起こすと、そこには信じられない光景が広がっていた。

「えぇ……!?」

 なぜか赤ん坊たちは跡形もなく消えて、代わりに光の球体が浮いていたのだ。
 金色と黄緑色の、ソフトボールサイズの塊が、淡く発光しながらふよふよとゆりかごの中を漂っている。よくよく見れば、球体の色はそのまま、あの赤ん坊たちの瞳の色だ。

「な、なんなの、コレ? きゃっ!」

 混乱の極みに達しているみずほの頬に、金色の球体がピトリとくっついた。黄緑色の球体も、まるで甘えるように手首にすり寄ってくる。

「あったかい……」

 球体たちは人肌のような温度があり、冷えたみずほの体に熱を分け与えてくれた。赤ん坊を直接抱っこしているようなぬくもりだ。それが心にまで染みてきて、みずほは「ほう……」と息を吐く。

「まさかあなたたち……さっきの赤ちゃんなの? こんな姿になって、いったい何者なの……って、あ!」

 問いかけた途端、球体はパッと消えてしまった。ゆりかごも一緒に消えていて、みずほは呆然とする。

「ゆ、夢?」

 白昼夢というやつだろうか。
 だけど耳奥には赤ん坊の泣き声が残っているし、ゆりかごを揺らした感触も指が覚えている。
 どこからが夢で、どこまでが現実なのか……みずほには判断がつきそうにもなかった。

「なんだったんだろう……」

 賽銭箱に手をつきながら、のろのろと立ち上がる。すると雨脚が弱まっていることに気付いた。今ならなんとか帰れそうだ。
 ただ一度感じたぬくもりがいやに恋しく、もう少しここにいたい気もしたが……。

「くしゅんっ」

 盛大なくしゃみが出て、このままいても風邪を引くだけだと断念したみずほは、頭を切り替えて足早に神社を後にした。
 嵐の中、神社で奇想天外な出来事に見舞われた後日。

 みずほは案の定、ひどい風邪を引いてしまった。
 三十八度を超える熱が出て、咳と頭痛に襲われ、ほとんど部屋のベッドから動けなかった。

 だが幸いにして、会社の方は有給消化中。わざわざ連絡を入れる必要もなく、寝込んでいる間に会話をしたのは寮母さんだけだ。
 出張中の杏にこれ以上いらぬ心配をかけることもできず、実家の母に頼ることも憚られ、ひとり熱にうなされるみずほを、面倒見のいい寮母さんは唯一気にかけてくれた。差し入れのたまご粥とりんごのコンポートがおいしくて、鼻水を啜りながら完食したものだ。

 みずほの熱は長引き、回復には五日程かかった。

 その間、物件探しなどしている気力はもちろん皆無で、住居をどうするか決めかねているうちに、退寮日はもう目前だ。

「やっぱりいいところないなあ……どうしよ……」

 自室のミニテーブルに、みずほはぐでっと突っ伏す。テーブルには物件情報の載った資料が無造作に散らばっている。

 あちこちの不動産屋からもらい、即日入居可能な物件を中心に吟味していたのだが、どれもピンとはこなかった。まず家賃が高い。社員寮の安さとどうしても比べてしまう。
 貯金もさほどないし、まだ次の仕事のあてもないのだから、家賃問題は深刻であった。

「もっと条件を緩めてみようかな……でも間違っても、事故物件とかだったら怖いし。やっぱり実家……でもなあ」

 うだうだ、ぐだぐだ。思考は堂々巡りだ。
 ×印をつけた資料が腕に当たり、ヒラリと床に落ちたところで、ピンポーンとチャイムが鳴る。

「……寮母さんかな」

(宅配便とかも頼んでないし……病み上がりの私を心配して、様子を見に来てくれたとか?)

 他に心当たりなどなかったみずほは、そうに違いないと決めつけて、ドアスコープを確認もせずノブを回した。こういう迂闊な面も、常々直したいと自省していたのだが……そう簡単には直らないようだ。

「ままー!」
「まぁま」
「へっ?」

 ドアを開けた瞬間、元気いっぱいな声と共に、みずほの腰あたりに衝撃が訪れた。

「わっ! い、いたたたっ!」

 幼い子供ふたりに、同時に真正面からタックルされ、受け止めきれずその場で尻餅をつく。

 臀部の痛みに悶絶するみずほにかまわず、お子さまたちはみずほに乗りあげたままキャッキャッと笑っている。
 歳はふたりとも二、三歳くらいだろうか。

 ひとりは男の子で、Tシャツにハーフパンツ姿。明るい金髪がぴょんぴょんと跳ねて、少々やんちゃそうだ。目は黒だが、光の加減で緑っぽい金にも見える、珍しい虹彩をしている。
 もうひとりはワンピース姿の女の子で、髪は灰色のおかっぱ。小さな両手で口元を隠す笑いかたが、男の子よりおとなしそうで、こちらも黒目が光によっては黄緑色に見えた。

 またどちらも、顔がお人形のように整っていて非常に愛らしい。子役モデルでもなかなかお目にかかれないレベルである。

 だけどみずほは、このお子さまたちに強烈なデジャブを感じていた。

(神社で会った、あの赤ちゃんたちに面影が……いやいや、でもそんなわけ……! というかこの子たちさっき、私のことママとか呼ばなかった!?)

 固まるみずほに追い討ちをかけるように、お子さまたちは曇りなき眼で「どちたの? ままー?」「まぁあ?」と見つめてくる。
 雰囲気も髪色も違うのに、その表情はそっくりで、まるで双子のようだ。つい純粋に『可愛い』とみずほは感じてしまう。

「こら、お前たち。乗っかったままだと、ママも起きられないだろう」

 そう窘めながら、誰かがお子さまたちを両腕でそれぞれ抱きあげた。みずほが見あげた先には、質のいいスーツを着た、とんでもない美丈夫が立っていた。

 見た目の年齢は、みずほよりふたつ程上。しかし不思議と、もっと年上にも感じる。
 高い鼻や薄い唇など、パーツのひとつひとつが精巧で、それがシュッとした輪郭の顔に狂いなく収まっている。サラサラの髪はミディアムの長さで、光を透かす白銀が見事だ。
 だが、切れ長の水色の瞳には、冬の湖面のごとき冷ややかさを宿しており、みずほは「人外級のイケメンだけどちょっと怖い」という第一印象を抱いた。

(そう……〝人外〟ってのがピッタリなんだよね。この男の人も、この子たちも。どことなく、人間っぽくないっていうか……)

 ぼんやりと座り込むみずほに、男性は「見つけた」と小さく呟いた。

「探したぞ、俺の花嫁。立てるか?」
「た、立てます……って、え? 今なんて……」
「……まったく、間の抜けた顔だな。これから母親にもなるのだから、もっと気を引き締めておけ」

 男性は態度が横柄で、けっこう口が悪かった。だがそんなことよりも、みずほとしてはスルーできない発言だらけだ。

「花嫁に母親ってなに……ちょ、ちょっと! 勝手に入らないで!」

 男性は細身の肢体に反して、軽々と子供たちを抱えたまま、立ち上がったみずほを置いて部屋にあがろうとしている。「詳しい話は中でしてやろう」などと言いながら、みずほが止めるのもおかまいなしだ。

「ねーねー、ぱぱ! あれ、あれちて! ちゃぼんだま!」
「今ここでか?」
「いま! みりゅ!」

 自由奔放な男の子の方が、パシパシと男性の腕を叩いてなにかをねだっている。
 すでに靴を脱ぎ終えた男性は、「仕方ないな」と肩をすくめた。

(この男の人は、この子たちの父親……? 似ているような、似ていないような……)

 みずほが訝しんでいる横で、男性はふうっと吐息を吐きだす。
 するとどこからともなく、彼の周りにいくつもの、ゴルフボールサイズの水泡が現れた。歓声をあげる子供たちを、男性はそっと下ろす。

 男の子は「ちゃぼんだまー!」と頬っぺたを紅潮させて喜んでいるが、みずほは目を白黒させる。

「な、なにこれ……手品!?」
「ちょっと水神の力を使っただけだ。そう騒ぐな」
「水神……?」
「これくらいでうろたえていたら、この子たちとも付き合えないぞ」

 パチンと、そこで水泡が弾けた。男の子が指先で触れて割ったようだ。
 その水滴が顔に飛び、びっくりした男の子は「んー!」と体を震わせる。途端、彼の周りにバチバチッと電気のようなものが発生した。

「うわっ!」

 近くにいたみずほは、慌てて手を引っ込める。ほんの少し触れた指先はピリッと痛く、冬場に静電気と遭遇したときと同じ感覚だった。

(今の電気……この子が?)

 濡れた顔を「うー」と拭う男の子に、女の子が丸い指先を向けて「おみず、ないないー」と呪文のように唱える。すると今度は、彼女の指先を中心にブワッと風が吹き荒れた。

 男の子の顔の水滴は吹き飛んだが、水泡は全て割れ、おまけにそばのシューズラックも風の勢いで倒れてしまった。

「ああっ! 靴がぐちゃぐちゃに……!」

 みずほは困惑しつつもラックを直そうとするが、女の子は「ちゃぼんだまも、ないないした……」と落ち込み、風で髪がボサボサになった男の子は「しゅごい、しゅごい!」と楽しそうに笑っている。

 そんな子供たちに毒気を抜かれ、みずほはラックのことなど、もう後回しにすることに決めた。

 今はこの子たちがいったい何者なのかも聞かなければならない。
 追い出すことは諦めて、彼らを部屋に通してやる。男性は再び水泡を作りだし、玄関口で子供たちを遊ばせておいて、自分はミニテーブルの前に腰を下ろした。

 ……なぜか、みずほの真横で、みずほの肩をごくごく自然に抱いて。

「あ、あの、この距離感はいったい……」
「夫婦になるのだから、このくらいは当然だ。〝絶え間ないスキンシップは夫婦円満のコツ〟だと教わったからな」
「誰にそんなこと……わっ!」

 さらにぐっと引き寄せられ、みずほの心臓が跳ねる。

 極上の美形にこんなふうにされたら、嫌でも体温があがってしまう。
 羽内と別れてから異性との接触は皆無だったし、そもそもその羽内が、あまり恋人同士のスキンシップなどは好まないタイプだった。

(甘えたいなーって思っても、あんまり甘えさせてくれなかったっていうか……いや、私が自己主張しなかったのも悪いんだろうけど……)

 悶々と考え込むも、男性の白銀の髪が頬に触れたところで、みずほはハッと我に返った。

「と、とにかく離れて!」

 存外大きな男らしい手を引っぺがして、みずほは適切な距離を取る。
 男性は「嫌だったのか?」と首を傾げており、クールな見目に反してけっこう天然なのだろうか。

「それにしても、ずいぶんと狭いところに住んでいるな。まるで犬小屋のようではないか」

 サッと室内を観察した男性の口から出たのは、なんとも失礼極まりない評価だ。もうすぐ出ていくとはいえ、みずほにとっては大切な住処だというのに。

「ワンルームの寮部屋なんて、こんなものだと思うけど……」
「だがこんな部屋では、伸び伸びと子育てなどできないだろう」
「そ、それってなんなの? 私が母親とか子育てとか……は、花嫁とか。あなたたちの変な力のことも……」
「質問が多いが、まあいい。まずは喜べ――真樹みずほ。貴様は人間の身でありながら、名誉なことに、風神と雷神の子供を育てる〝親〟に決定した」
「はい?」

 よく通る声で朗々と告げられたが、みずほは内容を咀嚼しきれていない。

「なんだ、貴様は風神と雷神も知らないのか」
「そのくらいは知ってるよ」

 名前のとおり、風や雷などの天候を司る神様だ。
 古来より一対として扱われ、もっとも有名なのは俵屋宗達の〝風神雷神図屏風〟だろうか。大きな袋を持つ風神と、太鼓を担いだ雷神が雲に乗っている絵画は、みずほも学生時代に教科書で見た覚えがあった。

「まちぇ、まちぇー!」
「つめちゃい」

 何気なく、水泡と戯れる子供たちの方に視線をやる。
 みずほは先程の電気や突風のことから、信じ難い可能性を導きだす。

「も、もしかして、その風神・雷神の子供って……」
「察しは悪くないな、そのとおりだ。おなごが風神で、おのこが雷神だ」
「……マジじゃないよね?」
「マジだが」

 おきれいな真顔で返され、みずほはつい怯んでしまう。

「俺はこの地域一帯を治める、水神の水明。俺は水を司る神だ。これから一緒に子育てをする仲だからな、名を好きに呼ばせてやろう」

 えらい上から目線である。しかし彼も神様だというなら、人間相手にはこんなものなのか。
 またもや〝一緒に子育て〟とか、意味深な内容があったが、今は話を進めるためにみずほは触れずにおく。

「神にはそれぞれ役割があり、人間の世界を管理する重要な務めがある。だが我々神にも、人間の会社と同じで、いずれは退任の時期が来るんだ。わかりやすく言うと定年退職というやつだ」

 神様の定年退職。
 定年までの期間はおそらく相当長いだろう。

「その時が来たら、必然的に新しく神の子が生まれるようになっている。子がきちんと育ったら引き継いで、代替わりをするわけだ。そしてこのたび、現役の風神・雷神の退任が決まり、先日の嵐の夕刻に、次の風神・雷神候補が誕生した。それがあの子たちだ」
「先日の嵐……?」

 神社での出来事が、みずほの脳にフラッシュバックする。
 遭遇した例の赤ん坊たちは、やはり水泡で遊んでいるあの子たちで間違いないようだ。

「神の子は自然から生まれるゆえに、〝生みの親〟という概念はない。火の神は火の中から、大地の神は土の中から、海の神は海の中から……風神・雷神は雷が鳴り、風が吹き荒ぶ嵐の中からだ」
「じゃあ、あの嵐の日が、あの子たちの誕生日……」
「そうなるな。子供たちは生まれてすぐの頃は、自然のエネルギーを吸って、ひとりで急速に成長する。一週間もあれば、人間でいう二、三歳くらいまでは育つな。だがそれ以降は内面の発達も必要になるため、人間の子と成長速度は同じだ。〝親〟に任命された手近な神、〝養親(ようしん)〟ならぬ〝養神(ようしん)〟のもとへ預けられ、一人前になるまで養育されることになっている」
「えっと、でも、風神・雷神の子なら、現役の風神・雷神さんたちが育てればいいんじゃ……?」
「風神・雷神の子は、古くから水神が育てるのが習わしだ。風神・雷神のお役目はひとりずつしか就けず、現役の彼らでは子育てまで手が回らないからな。水神は地方ごとに複数いるから、審査を経てそのうちのひとりが選抜される。養神に選ばれることは、大変名誉なことなのだ」
「な、なるほど……」

 話の流れ的に、美しい白銀の髪を揺らすこの水神の水明こそが、栄えある養神に決定したのだろうが……。

「それでどうして私まで、一緒に子育てすることになるの……?」
「……少々、不測の事態でな」

 なんでも、神社でみずほが遭遇したとき、彼らはまさしく生まれたてで、水明が迎えに行くところだったという。あの神社は水神を祀っており、この地域にいくつかある水明の根城のひとつだそうだ。

 だが水明と対面する前に、赤ん坊たちはみずほと出会ってしまった。

「そもそもあの状態の子供たちは、普通は人間には見えないし、声だって聞こえない。だが貴様とは、稀なことだが波長が合ったのだろう。対面し、刷り込みで貴様を母親だと認識したらしい」

 刷り込みとは、〝刻印づけ〟または〝インプリンティング〟とも呼ばれる、動物行動学者であるコンラート・ローレンツが提唱した現象だ。雛鳥が孵化後すぐに見た対象を、親と認識するというもの。

 それが神の子にも適応されるなんて、みずほはもちろん初耳である。

「それに貴様は、子供たちの御霊にも触れただろう」
「御霊……?」

 なんのことかと、みずほは眉をひそめるも、次いで「あ!」と思い当たるものがあった。

「赤ちゃんたちが、あの、えっと、途中で光の球に変わったやつ……? まさかあれのこと?」
「そう、あれらは子供たちの魂そのものだ。生まれたては人間の姿を保つのも不安定であるから、時折ああなると『子育ての手引き』に載っていたが……」
「神の子用の育児書があるんだ……」
「御霊でくっついてくるのは、すでに心を開いている証拠だという。貴様のことを、子供たちは相当気に入ったということだ」

 みずほはあの日、光の球体……御霊が、冷えた体に分けてくれたぬくもりを思い起こす。あれは大切に大切に慈しみたくなるような、そんなとびっきり優しい温かさだった。

(離れたくないって、感じたんだっけ……)

「まぁま、おはなち、まぁだ……?」
「あきちゃー!」
 いつの間にかまた水泡は全滅し、遊ぶのにも飽きたらしい子供たちが、みずほの方にトタトタとやってきた。

 女の子はみずほの隣にぺったり張り付いて座り、男の子はみずほの膝の上にどーんと腹ばいになる。ふたりから伝わってくる子供特有の高い体温は、確かに嵐の中で感じたものと同じだ。

 みずほはたまらない庇護欲、言い換えれば母性のような情動を一瞬抱くものの、「いやいや、待って!」と激しく首を横に振る。

「だからって、私に神様の子供なんて育てられないよ!」
「なんだ、子供たちの力が恐ろしいのか? まだ子供だからたいしたことはないぞ。先程のように、ちょっと風を操ったり、軽い電気を纏ったりするくらいだ。応用はいろいろと利くが……食らったとしても、なにも死にはしない」
「そういうことじゃなくてね……!」

(いや、その力は力で不安要素しかないけどさ)

 水明にはみずほの戸惑いが理解できないらしく、「じゃあ貴様は、なにが嫌で子育てを断るんだ?」と疑問をあらわにしている。

「現役の風神・雷神の許可も、ちゃんと得ているぞ? 前例がないため相談したが、両者とも快く了承してくれた」

 風神は『その人間も竜巻みたいに巻き込んじゃえー! 風だけに!』とウィンクをし、雷神は『おもしろそうだからビリビリによし!』とOKサインをしたのだというから、存外ノリのいい神様たちである。

「〝ゆりかご〟や〝おくるみ〟を用意したのも、現役の風神・雷神だ。彼らは親というより、位置的には初孫を喜ぶ祖父母に近いな。俺としては、祖父母は孫には甘いというし、今後子供たちと会ったら、彼らは甘やかしすぎないかと懸念している。貴様も心しておけ」
「今からそんな心配しても仕方ないと思うよ……」

(やっぱり水明って、ちょっと天然だ)

 ただのえらそうな失礼野郎だと思っていた水明も、みずほは親しみを覚えてきたが、ここで絆されてはいけない。

「まず私に子育ての経験なんてないし、結婚もしてないのにいろいろすっ飛ばして育児はちょっと……! 婚約者にも、その、最近フラれたばかりで……」
「ほう、婚約者にか」

 水明の瞳がすうっと細まり、一気に凍てつく空気が室内を覆う。
 様子が一変した彼に、みずほは「す、水明? 急にどうしたの?」と戸惑う。

「……そんな見る目のない人間のことなど、さっさと忘れてしまえ。これからは俺が、夫として貴様のことを愛してやる」
「あ、あい……っ!?」

 伸びてきた水明の手が、みずほの頬をスリッ……と、ひと撫でする。擽ったさよりも愛を囁かれた衝撃が大きく、みずほは口の開け閉めを意味もなく繰り返す。

(か、彼は本気? ううん、子育てとか夫婦に関しておかしな知識があるから、特別な感情もなく言ってみただけかも……)

 要は、共に子育てをする予定のみずほと、〝夫婦ごっこ〟を行うための形だけの言葉だ。

 現に彼は「〝夫は妻を一途に愛し抜け〟と、育児書の夫婦に関するページにもあったしな」などと零しており、単に本から影響を受けただけかもしれない。おかしな知識のもとはその育児書らしい。

(でも、定義上だけの関係で、ただのかりそめ夫婦なら……なんで、そんな目で見てくるの)

 水明の目はいたって真剣で、淡い水色の奥には確かな熱が窺えた。
 その熱はみずほに一心に注がれていて、本気で彼に愛されているのだと、勘違いしてしまいそうになる。

(だ、だいたい、たった今会ったばかりの相手に、こんなの変だよ。落ち着いて、平常心になって、私!)

 みずほは水明から逃げるように顔を逸らし、思考を別のことにシフトさせる。
 懸念はまだまだあるのだ。

「ほ、ほら、養育費のことだってあるじゃない? 私はお金ないよ? 住むところだって……」
「なんだ、そんなことか」

 水明はスーツの懐に手を入れると、なにやら古めかしい巻物のようなものを取り出した。手渡されたので、みずほはおそるおそる黒い紐を解く。一番上には達筆で『契約書』と書かれていた。

「ええっと……『貴殿は母親役として、子が一人前、人間年齢でいう十歳程度になるまでの間、子をしっかり守り……』」
「そこも大事な箇所だが、そこじゃない。もう少し下を読め」
「下……? あ、ここかな。『なお、神の子たちの母親役を引き受ける場合、子の分も含めた衣食住は、全て父親役である水神が不自由なく保障する』……ウソ!?」

 食い付いたみずほに、水明は優美に薄い唇を持ちあげる。

「当然、住むところもこちらが用意しよう。このような犬小屋より、よほど広く立派な家をな。貴様には子育てに集中してもらわねばならないから、当分の間は外で働かなくてもいい」

 あまりの破格の条件に、再びみずほの心は大いに揺れ動く。巻物を持つ手がプルプルと震えた。
 生活面で追い詰められている今のみずほには、あまりに甘美な誘惑だった。

(家探しもしなくてよくなるとか……おいしい、おいしすぎる! でもでも、母親役なんて、そんな簡単に引き受けていいものなの? 私みたいなダメダメ女には、荷が重いんじゃ………)

 それでも最後の踏ん切りがつかないみずほを、女の子は横から、男の子は膝の上から、じっと真っ直ぐに見つめている。

「……まぁあ?」
「……まま?」

 金と黄緑の瞳は、揺らめく不安を湛えていた。

「あ……」

 そのとき、みずほの中で初めて〝ママ〟という単語が、確かな質量を持って深く胸に響いた。

(そっか、この子たちにはもう私が〝ママ〟で、ここでもし私が断ったら、母親がいなくなるってことに……)

 みずほと実の母親の関係は、けっして良好とは言い難い。だけどここまで育ててくれた母には感謝しているし、子供にとってその存在の大きさは、重々理解しているつもりだ。

 そう考えると、みずほは巻物から手を離し、無意識に女の子の灰色の頭を撫でていた。

 小さく「えへへ」とはにかむ女の子に対し、男の子も「ぼくも! ぼくもなでちぇ!」とせがんでくる。請われるまま撫でてやれば、ヒマワリのような笑顔が返ってきた。

(なによりこの子たちは、私なんかを必要としてくれている……)

 ようやく、みずほの腹は決まった。

「わかった……私やるよ、この子たちの母親役! 今日からママとして頑張らせてもらうから!」
「……それは、俺と夫婦になることも了承したと捉えていいな?」
「う、うん! よろしくね、水明」

 水明の問いにも、みずほはためらいつつも頷いた。
 その途端、テーブルに放置されていた巻物が宙に浮かび、パアッと青い光を帯びる。

「こ、今度はなに!?」
 巻物はそのまま、光の円になってふたつに分裂し、片方はみずほの手首へ、もう片方は水明の手首へと飛んでいった。

 光が消える頃には、みずほの左手首には銀の細いチェーンが嵌まっていた。

「これ、ブレスレット……?」

 チェーンは軽く華奢なつくりながらも、純銀製だろうか、輝きが上品だ。中心に水色の水晶玉が埋められており、それは水明の瞳をそのまま宝石にしたようだった。

 水明の右手首にも、まったく同じものが嵌まっている。

「それは俺と貴様の間で、番関係が成立したことを示す証だ。つまりは夫婦の証明であるということだな」
「夫婦の証明……」

 そうはいってもまだしっくりはこず、ぼんやりブレスレットを見ていたら、その腕を水明がやんわりと取った。
 そのまま、みずほの手首に唇を寄せてくる。

「これで俺たちは夫婦だ……貴様は俺から離れられないし、俺も離すつもりはない。一生を添い遂げる覚悟はしておけよ?」

 これも育児書を参考にした行動だというのか。気障だが様になる、水明の甘い台詞と仕草に、みずほは「ひえっ」とおののく。

「まま、びっくりー!」
「びっくりー」

 ぎょっとするみずほの顔がおもしろかったのか、囃し立ててくる子供たち。
 腕が解放されてから、みずほは羞恥に駆られるままブレスレットを外そうとしたが、どう足掻いても外れない。

「契約がある限り外せないぞ。壊そうとしても無駄だ」
「な、なにそれ!? 呪いのブレスレットじゃない!」
「呪いどころか、魔除けの効果もある一級品の御守りだぞ。寝るときも風呂のときも、貴様を守ってくれる優れものだ」

 ついでに、どうでもいいが防水仕様だそうだ。
 ブレスレットをつけたみずほを改めて眺め、なにやら水明は満足そうにしているが、みずほは手首を押さえて縮こまってしまう。

(うう……さっき水明に唇を寄せられたところが、まだ熱い……)

 手首の一部だけが燃えるようだ。

 そこで「愛してやる」と言われたときの、水明の熱っぽい瞳まで思い出してしまえば、みずほはもう心臓が破裂しそうだった。

(かりそめとはいえ夫婦になったってことは、子供たちはもちろんだけど、水明ともこれから同じ家に住むのよね……? ひとつ屋根の下で、こんな天然心臓ブレーカーな神様と……?)

 チラッと、みずほは水明の顔を窺う。目が合ってしまい、水明からはきれいな微笑みを返された。
 その微笑みにさえ、自分への思慕が宿っているように感じるのだから、やはりどう考えてもみずほの心臓は持ちそうにない。

「……話がまとまったところで、母親として最初の仕事だ」
「あ、は、はい!」

 改まった口調で告げられ、みずほはピシッと姿勢を正す。みずほに体をくっつけている子供たちも、まねをしてピシッとする。

(う、浮わつくな、私! 水明とのことは置いといて、この子たちのママになったんだから! もっとしっかりしないと!)

 そう自分に活を入れながら、緊張感を持って水明の言葉を待ったが、告げられた仕事は意外なものだった。

「子供たちに名前をつけてやれ」
「え……名前、まだないの?」
「慣例どおりならすでに俺がつけているところだが、現役の風神・雷神に、こんなこと滅多にない機会だから、人間に名付けさせたらどうかと提案されてな。それに俺も、母である貴様がつけた方がいいと判断した。名は大切なものだからな」
「プ、プレッシャーが……名前かあ」

 みずほはふたりの子供たちを、行ったり来たりしながら見比べる。四つの色付きのビー玉のような瞳が、期待にキラキラしているのは幻覚か。

(ネーミングセンスとかないんだけど……こ、こういうのは、フィーリングで決めた方がいいよね?)

 変にこねくり回すと一生つけられそうにないので、みずほは頭に浮かんだ名前をそのまま口にした。

「女の子は風神だから……風子。男の子は雷神だから、雷太でどうかな」
「……安直だな。覚えやすくはあるが」

 水明からは及第点といった感じだったが、子供たちは気に入ってくれたようで、「フウは、フウ?」「ライちゃ! ライ!」と名前を繰り返してくれている。みずほも改めて、つけたばかりの名前を呼んでみた。

「風子、フウ」
「あい」
「雷太、ライ」
「あーい!」

 しっかり返事をされると、名付け親であるみずほとしても、しみじみと感じ入るものがある。

(これからいっぱい、いっぱい呼んであげたい……!)

 しかしながらいったん、ここでお別れのようだ。

「……俺たちはそろそろ退散するぞ。また近日中には迎えに来る。それまでに荷造りをしておけ。逃げるなよ?」
「に、逃げないよ。決意はした、し」
「いい答えだ」

 みずほの返答に、水明はひとつ頷いて立ち上がる。彼は「行くぞ、フウ、ライ」と気軽に愛称で子供たちを呼んだ。

 どこに帰るのかは疑問だが、あの神社だろうか。だけど素直に頷いた風子に反し、雷太はぐずりを見せる。

「やーあー! まぁだ、ままと、いりゅ!」
「ライ……」