「私は、流星になりたい」
あの方が私の耳元で囁いたのは今と同じ、夏が過ぎて誰も居なくなったこの離宮でのこと。
二人が結ばれた、最初で最後の夜のことでした。
王族と貴族。身分は違えど、私たちは確かに愛し合っていたのです。
この時、私たちは互いのこと以外には何も見えなくなっておりました。
愛があればどんな困難も乗り越えられる。身分の違いなど何の問題もないのだと、そう思っておりました。
今思えば、何の裏付けも無い無謀な全能感、若者らしい根拠のない無敵感としか言いようもありません。
当時、この国の王――すなわち私の父は、隣国テルノワールの第二王子と私との婚約の話を進めておりました。
王族の娘にとって政略結婚は当たり前。本来なら疑問を持つようなことですらありません。
ですが愛という禁断の果実に手をつけてしまった私にとって、顔も知らぬような殿方との……いえ、彼以外の誰かとの婚姻など、もはや悍ましいこととしか思えませんでした。
ですから私たちは、二人で手を取り合ってこの国を逃れ、一緒になることを約束したのです。
秋も深まりつつあった約束の日。
私は時期としては少し早いものの、冬の離宮に滞在すると称して王宮を出て、密かにこの夏の離宮を訪れておりました。
バルコニーから湖畔の小径を眺めながら、あの方の訪れを、今か今かと待ち侘びていたのを覚えています。
ですが結局、あの方がそこにお越しになることは、ありませんでした。
その日以来、部屋で独り泣き暮らしていた私に、見かねたメイドがこっそり教えてくれたのです。
『国王陛下の側仕えの者たちから聞いた話ですが……』、そんな前置きから始まったその話は、私にとってあまりにも絶望的なものでした。
私たちが互いに想い合っていることが父に伝わっていたのだと。
彼は父に呼び出され、一族郎党の生命を人質に、私と二度と会わないという約定を迫られ、それを受け入れたのだと。
父は戦闘狂とまであだ名される苛烈な人物です。
彼が一族郎党を殺すといえば、間違いなく殺すでしょう。脅しではありません。
この時点で彼が処刑されずに済んだのは、偏に父が騎士としての彼の才覚を惜しんだからではないかと思います。
私が彼を恨むことはありませんでした。
もし彼が一族を犠牲にできるような人物であったのなら、私が愛することも無かったはずです。
私は彼のことを忘れようと、そう心に決めました。
ですがその矢先のこと、隣国の王子との婚姻がまとまりつつあった、まさにその頃のことです。
私はある日、猛烈な吐き気とともに自らの身体の異変に気付きました。
妊娠していたのです。
私が愛を交わした相手はただ一人。
誰の子供かを疑うべくもありません。
私は焦りました。
こんなことが父に知れたら、あの方の命はありません。
父は私たちが想い合っていることを知ってはいましたが、身体を重ねたことは知らなかったのです。
もしそれを知られたが最後、何の比喩でもなく、あの方は八つ裂きにされてしまうことでしょう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
焦りに焦って、無意識に噛んだ爪がボロボロになった頃、私は一つの決断をしました。
今思えば狂気としか思えないような、そんな決断を下したのです。
翌日から私は、次から次へと若い貴族たちを部屋に招き入れ、閨を共にし始めたのです。
言葉遣いもできるだけいやらしげなものを心掛け、出来る限りいやらしい装いをし、色狂いの姫が荒淫の末に子を宿したのだと、そういう体裁を整えようとしたのです。
必死でした。
日に日に穢されていく身と心。
事が終わった後には夜明けまで嘔吐し続ける毎日です。
お腹が膨らみ始めてしばらくは安静にしていたのですが、安定期に入った後には大きなお腹を抱えながら、再び貴族たちを寝床へと招き入れる毎日。
そこまでせねばならなかったのは、まだ父の耳に私の行状が届いていなかったから。
私が父と顔を合わせる機会はそれほど多くはありません。
他の者から自然に父の耳に入ることが望ましいのです。
そして私が淫蕩の限りを尽くした結果妊娠したのだと、父にはそう思ってもらわなければ、この地獄の日々が水泡に帰するのです。
結局、父の耳に入ったのは出産まであとひと月という頃。当然、隣国との縁談は破談となり、父は烈火のごとくに怒って、私と関係を持った貴族の子弟は軒並み粛清されていきました。
幸いにも父はあの方と関係があるとは考えなかったらしく、彼に累が及ぶことはありませんでした。
問題は生まれてくる子供のことです。
私と彼との愛の形そのものなのです。絶対に守らなければなりません。
ですが、あの父がこの子を放っておいてくれる訳がありません。
産まれてすぐに取り上げられてしまうに違いないのです。
私には味方が必要でした。
相応の力があって、私に味方してくれそうな人物といえば、一人しかいませんでした。
同じ母から生まれたただ一人の兄、この国の第三王子です。
心優しく争いごとを好まないこの兄は当時、父からは惰弱者と疎まれておりました。
私はこの兄に全てを打ち明けたのです。
彼は驚き、理不尽を怒り、涙を流して協力を約束してくれました。
この優しい兄の協力を得て、生まれたその日のうちに、信頼に足る兄の側近にその子を託し、王宮を逃れさせることが出来ました。逃れ先は私も知りません。
生まれて来たその子は女の子でした。
私は、彼女に兼ねてから考えていた名を与えました。
『新しい星』を意味する言葉『ステラノーヴァ』です。
ステラノーヴァの髪は父親譲りの赤毛、見つかれば言い逃れはできません。
この子を託した側近には、もし見つかったとしても、彼を決して連想させぬ髪の色――銀髪に染めて育てるようにと言い含めました。
赤子を逃れさせたことに、父はまたしても烈火のごとくに怒りました。彼はやはり殺すつもりだったのです。
これは彼が特別に残虐だという意味ではありません。
王家の血は特別なものです。その赤子を旗印に祭り上げて、反乱を起こす者だって現れかねないのです。
生かしておくことの危険を思えば、王としては当然のことなのかもしれません。
父は私を東の離宮、その地下に幽閉いたしました。
清潔ではありますが、鉄格子の填まった小さな部屋。王族専用の牢とでもいうべき場所です。
扱いとしてはもはや囚人同然、処刑されなかったのは、わずかにも残った親心だったのでしょうか。
このまま陽の光も当たらぬこの部屋から出ることもなく、そのまま老いて朽ちていくのだと諦めていたのですが、意外なことに、わずかひと月ほどで私はそこから解放されました。
許された訳ではありません。
父が亡くなったのです。
信じられませんでした。
戦闘狂とまで呼ばれ、自ら陣頭に立って周辺の蛮族を攻め滅ぼしてきた男、頑強な肉体を誇りにしていた男が病を得て、わずか数日でこの世を去ったというのです。
その上、父は遺書を残しておりました。
王太子として擁立されていた第一王子を廃嫡、第三王子、あの優しい兄を後継に指名していたのです。
これには誰もが驚きました。
これを捏造だと噂する者は後を絶たず、後に廃嫡された第一王子が、父は第三王子に暗殺されたのだと称して反乱を起こすという事態へと繋がっていきます。
ですが、これは私にとって幸いでした。
あまりにも都合が良すぎました。
あの優しい兄ではなく、他の異母兄たちが王位についていれば、父が決めた処遇を反故にすることは無かったはずです。
あの優しい兄が王位についてまずなされたことは、私の解放だったのです。
そこからしばらくの間、王宮は当然のように混乱を極めておりました。第三王子である兄が遺書に従って即位はしたものの、第一王子、第二王子が反発し、それぞれの派閥に分かれて睨みあうという、まさに一触即発の様相を呈しておりました。
そんな状況ですので、私も離宮の地下から解放されたというのに、あの方に会いに参ることもできません。
あの優しい兄の同腹の妹である私が迂闊な行動をとれば、その足を引っ張ることにもなりかねないのですから。
日に日に募っていく想いに苦しみながら、一年、また一年と時は過ぎていきます。
そして三年の月日が経った頃、遂に第一王子が反乱を起こし、第二王子がそれに呼応、一時は国を二分する戦乱に発展するかと思われました。
ところが信じられないことが起こりました。
第一王子、第二王子が事故で次々と命を落としたのです。
偶然、あえて偶然と申しましょう。
彼らに呼応した貴族たちは粛清、もしくは領地を削減されて力を削がれ、ようやく待ちに待った平穏な日々が帰って参りました。
私はすぐにもあの方に会おうといたしました。
ですが、今度は兄がそれを許してくれません。直接お願いしてもただ寂しげに微笑むだけ。
権力を手にして兄は人が変わってしまったのでしょうか。
厄介ごとに巻き込まれるのが嫌になってしまったのでしょうか。
私はそう訝しみました。
ですが、決してそういう事ではありませんでした。しばらくしてその理由がわかったのです。
兄は、これ以上、私が傷つくことを避けようとしていただけだったのです。
あの方は、すでに結婚していました。
相手は同じ公爵位を持つ家の長女。
普通に考えれば妥当な婚姻なのでしょう。
さすがに王家の者が貴族の第二婦人、第三婦人として嫁ぐ訳には参りません。
あの方と私が一緒になる道は、既に潰えていたのです。
裏切られた……とは思いませんでした。
彼も、私と同じように望まぬ婚姻を強いられてしまったのだとそう思いました。
彼に手紙を出しても返事は来ず……彼の下に届いているかどうかもわかりません。
いえ、兄は私が彼に逢うことに反対しているのですから、きっと届けられることは無かったのでしょう。
年を追うごと、日を追うごとに、切なさは募るばかりです。
どうすることもできない無力さに、私の生活は次第に荒んでいきました。
兄が黙認してくれるのを良いことに、見目の麗しい若い男の子たちを侍らせ、鬱屈した想いを晴らすためだけのために消費していく日々。
気が付けば、あれほど嫌悪した閨の営みが、私の唯一の慰みとなっておりました。
行為の間だけは虚しさを麻痺させることが出来たのです。もはや殿方に抱かれるという行為に、大した後ろめたさは無くなっておりました。
今にして思えば、私は獣に取りつかれていたのだと、そう思います。
そんな爛れた日々を過ごしていたある日、娘を託したあの側近から一通の手紙が参りました。
手紙には、その側近は現在病の床にあり、もはやそれほど長くは無い。私の娘をお返ししたい。と、そう記されていました。
私は狂喜しました。
愛する娘が、あの方と私の愛の結晶が、ここへ帰ってくるというのです。
ですが、彼女の存在はあくまで王家の秘事。事は慎重に運ばねばなりません。
私は身の回りに侍らせていた男の子たちの髪を全て銀色に染めさせ、男の子たちを集める役割を託していた者たちにも「銀髪の少年」を所望しました。
私が好んで銀髪の者を周囲に侍らせていることが広まれば、銀髪の娘を傍に置くことは何も不自然ではなくなるからです。
返事を送り返して数週間の後、ついに娘が私を訪ねてやってきました。
多少表情には乏しいものの、どことなく彼の面影のある美しい娘でした。
側近の娘として大切に育てられ、彼女は私が本当の母親であることは知りませんでした。
実際に顔を合わせるその時までは、母として存分に甘えさせてやりたいと、そんなことを考えていたのですがいざ対面してみると、自分が母であるとはとてもではありませんが口にすることは出来ませんでした。
当然です。
こんなに穢れきった女が、どの面を下げて母を名乗れるというのでしょう。
それでも私は、娘がそばにいてくれるというそのことだけで幸せでした。
名乗り出られずとも、娘と過ごす日々は何物にも代え難いものでした。
ですが、人間の欲望には限りがありません。
日に日に想いは募る一方です。
この娘のためにも、望まぬ形でサヴィニャックの家に縛り付けられているあの方を救い出すべきなのではないかと、次第に私はそんな思いに捉われていったのです。
私は自分の手足となる人間を集め始めました。
執事のフロービオは、王宮に出入りしていた商人から仕入れました。
彼はカルカタ仕込みの暗殺者です。
商人曰く、カルカタの暗殺者は主人には決して逆らわない。そう仕込まれていると言っていました。
次に、専属の護衛騎士として、オリガをスカウトしました。
単純に腕の立つ騎士を数名アンベールに推挙させたのですが、人間関係に恵まれず、実力に見合った役職に就けぬまま自意識だけを肥大させ続けてきた彼女は、実に理想的な人材でした。
実力は十分。その上、ほどよく屈折しているところが丁度良かったのです。
清廉潔白な者に汚れ仕事を任せることは出来ませんから。
そんな折、私の下にアンベール死亡の知らせが齎されました。
かつて彼は、私が可愛がってきた男の子の一人でした。
大臣の地位に就けるよう工作したのも私です。
もし彼を殺した犯人がわかるようであれば、仇の一つも討ってやろうと片手間に情報を集めさせていたのですが、アンベールの死を調べるうちに、一つの名前が浮かび上がってきました。
――ヴァレリィ・サヴィニャック。
計画の最後のひとかけらが見つかりました。
サヴィニャック家の誰かに私を殺させ、その罪を以てサヴィニャック家を誅滅する。
その計画の実行の時が、遂にやってきたのです。
この時、私は本気であの方は私の救いを待っている、そう思っていました。
あの方をサヴィニャックの家から解放することができる、そう思っていたのです。
冷静に考えれば、あの方がそんなことを喜ぶはずがないことぐらい、すぐにもわかろうというものです。
舞い上がってしまっていたとしか言いようがありません。
計画の実行日を定め、それに合わせて、執事のフロービオに彼への手紙を届けさせました。
計画の全貌を伝え、最後に『あの日と同じように、夏の離宮であなたを待っている』と、そう書き記した手紙を。
……ですが結局、それは、私の一人よがりでしかありませんでした。
あの方が私の耳元で囁いたのは今と同じ、夏が過ぎて誰も居なくなったこの離宮でのこと。
二人が結ばれた、最初で最後の夜のことでした。
王族と貴族。身分は違えど、私たちは確かに愛し合っていたのです。
この時、私たちは互いのこと以外には何も見えなくなっておりました。
愛があればどんな困難も乗り越えられる。身分の違いなど何の問題もないのだと、そう思っておりました。
今思えば、何の裏付けも無い無謀な全能感、若者らしい根拠のない無敵感としか言いようもありません。
当時、この国の王――すなわち私の父は、隣国テルノワールの第二王子と私との婚約の話を進めておりました。
王族の娘にとって政略結婚は当たり前。本来なら疑問を持つようなことですらありません。
ですが愛という禁断の果実に手をつけてしまった私にとって、顔も知らぬような殿方との……いえ、彼以外の誰かとの婚姻など、もはや悍ましいこととしか思えませんでした。
ですから私たちは、二人で手を取り合ってこの国を逃れ、一緒になることを約束したのです。
秋も深まりつつあった約束の日。
私は時期としては少し早いものの、冬の離宮に滞在すると称して王宮を出て、密かにこの夏の離宮を訪れておりました。
バルコニーから湖畔の小径を眺めながら、あの方の訪れを、今か今かと待ち侘びていたのを覚えています。
ですが結局、あの方がそこにお越しになることは、ありませんでした。
その日以来、部屋で独り泣き暮らしていた私に、見かねたメイドがこっそり教えてくれたのです。
『国王陛下の側仕えの者たちから聞いた話ですが……』、そんな前置きから始まったその話は、私にとってあまりにも絶望的なものでした。
私たちが互いに想い合っていることが父に伝わっていたのだと。
彼は父に呼び出され、一族郎党の生命を人質に、私と二度と会わないという約定を迫られ、それを受け入れたのだと。
父は戦闘狂とまであだ名される苛烈な人物です。
彼が一族郎党を殺すといえば、間違いなく殺すでしょう。脅しではありません。
この時点で彼が処刑されずに済んだのは、偏に父が騎士としての彼の才覚を惜しんだからではないかと思います。
私が彼を恨むことはありませんでした。
もし彼が一族を犠牲にできるような人物であったのなら、私が愛することも無かったはずです。
私は彼のことを忘れようと、そう心に決めました。
ですがその矢先のこと、隣国の王子との婚姻がまとまりつつあった、まさにその頃のことです。
私はある日、猛烈な吐き気とともに自らの身体の異変に気付きました。
妊娠していたのです。
私が愛を交わした相手はただ一人。
誰の子供かを疑うべくもありません。
私は焦りました。
こんなことが父に知れたら、あの方の命はありません。
父は私たちが想い合っていることを知ってはいましたが、身体を重ねたことは知らなかったのです。
もしそれを知られたが最後、何の比喩でもなく、あの方は八つ裂きにされてしまうことでしょう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
焦りに焦って、無意識に噛んだ爪がボロボロになった頃、私は一つの決断をしました。
今思えば狂気としか思えないような、そんな決断を下したのです。
翌日から私は、次から次へと若い貴族たちを部屋に招き入れ、閨を共にし始めたのです。
言葉遣いもできるだけいやらしげなものを心掛け、出来る限りいやらしい装いをし、色狂いの姫が荒淫の末に子を宿したのだと、そういう体裁を整えようとしたのです。
必死でした。
日に日に穢されていく身と心。
事が終わった後には夜明けまで嘔吐し続ける毎日です。
お腹が膨らみ始めてしばらくは安静にしていたのですが、安定期に入った後には大きなお腹を抱えながら、再び貴族たちを寝床へと招き入れる毎日。
そこまでせねばならなかったのは、まだ父の耳に私の行状が届いていなかったから。
私が父と顔を合わせる機会はそれほど多くはありません。
他の者から自然に父の耳に入ることが望ましいのです。
そして私が淫蕩の限りを尽くした結果妊娠したのだと、父にはそう思ってもらわなければ、この地獄の日々が水泡に帰するのです。
結局、父の耳に入ったのは出産まであとひと月という頃。当然、隣国との縁談は破談となり、父は烈火のごとくに怒って、私と関係を持った貴族の子弟は軒並み粛清されていきました。
幸いにも父はあの方と関係があるとは考えなかったらしく、彼に累が及ぶことはありませんでした。
問題は生まれてくる子供のことです。
私と彼との愛の形そのものなのです。絶対に守らなければなりません。
ですが、あの父がこの子を放っておいてくれる訳がありません。
産まれてすぐに取り上げられてしまうに違いないのです。
私には味方が必要でした。
相応の力があって、私に味方してくれそうな人物といえば、一人しかいませんでした。
同じ母から生まれたただ一人の兄、この国の第三王子です。
心優しく争いごとを好まないこの兄は当時、父からは惰弱者と疎まれておりました。
私はこの兄に全てを打ち明けたのです。
彼は驚き、理不尽を怒り、涙を流して協力を約束してくれました。
この優しい兄の協力を得て、生まれたその日のうちに、信頼に足る兄の側近にその子を託し、王宮を逃れさせることが出来ました。逃れ先は私も知りません。
生まれて来たその子は女の子でした。
私は、彼女に兼ねてから考えていた名を与えました。
『新しい星』を意味する言葉『ステラノーヴァ』です。
ステラノーヴァの髪は父親譲りの赤毛、見つかれば言い逃れはできません。
この子を託した側近には、もし見つかったとしても、彼を決して連想させぬ髪の色――銀髪に染めて育てるようにと言い含めました。
赤子を逃れさせたことに、父はまたしても烈火のごとくに怒りました。彼はやはり殺すつもりだったのです。
これは彼が特別に残虐だという意味ではありません。
王家の血は特別なものです。その赤子を旗印に祭り上げて、反乱を起こす者だって現れかねないのです。
生かしておくことの危険を思えば、王としては当然のことなのかもしれません。
父は私を東の離宮、その地下に幽閉いたしました。
清潔ではありますが、鉄格子の填まった小さな部屋。王族専用の牢とでもいうべき場所です。
扱いとしてはもはや囚人同然、処刑されなかったのは、わずかにも残った親心だったのでしょうか。
このまま陽の光も当たらぬこの部屋から出ることもなく、そのまま老いて朽ちていくのだと諦めていたのですが、意外なことに、わずかひと月ほどで私はそこから解放されました。
許された訳ではありません。
父が亡くなったのです。
信じられませんでした。
戦闘狂とまで呼ばれ、自ら陣頭に立って周辺の蛮族を攻め滅ぼしてきた男、頑強な肉体を誇りにしていた男が病を得て、わずか数日でこの世を去ったというのです。
その上、父は遺書を残しておりました。
王太子として擁立されていた第一王子を廃嫡、第三王子、あの優しい兄を後継に指名していたのです。
これには誰もが驚きました。
これを捏造だと噂する者は後を絶たず、後に廃嫡された第一王子が、父は第三王子に暗殺されたのだと称して反乱を起こすという事態へと繋がっていきます。
ですが、これは私にとって幸いでした。
あまりにも都合が良すぎました。
あの優しい兄ではなく、他の異母兄たちが王位についていれば、父が決めた処遇を反故にすることは無かったはずです。
あの優しい兄が王位についてまずなされたことは、私の解放だったのです。
そこからしばらくの間、王宮は当然のように混乱を極めておりました。第三王子である兄が遺書に従って即位はしたものの、第一王子、第二王子が反発し、それぞれの派閥に分かれて睨みあうという、まさに一触即発の様相を呈しておりました。
そんな状況ですので、私も離宮の地下から解放されたというのに、あの方に会いに参ることもできません。
あの優しい兄の同腹の妹である私が迂闊な行動をとれば、その足を引っ張ることにもなりかねないのですから。
日に日に募っていく想いに苦しみながら、一年、また一年と時は過ぎていきます。
そして三年の月日が経った頃、遂に第一王子が反乱を起こし、第二王子がそれに呼応、一時は国を二分する戦乱に発展するかと思われました。
ところが信じられないことが起こりました。
第一王子、第二王子が事故で次々と命を落としたのです。
偶然、あえて偶然と申しましょう。
彼らに呼応した貴族たちは粛清、もしくは領地を削減されて力を削がれ、ようやく待ちに待った平穏な日々が帰って参りました。
私はすぐにもあの方に会おうといたしました。
ですが、今度は兄がそれを許してくれません。直接お願いしてもただ寂しげに微笑むだけ。
権力を手にして兄は人が変わってしまったのでしょうか。
厄介ごとに巻き込まれるのが嫌になってしまったのでしょうか。
私はそう訝しみました。
ですが、決してそういう事ではありませんでした。しばらくしてその理由がわかったのです。
兄は、これ以上、私が傷つくことを避けようとしていただけだったのです。
あの方は、すでに結婚していました。
相手は同じ公爵位を持つ家の長女。
普通に考えれば妥当な婚姻なのでしょう。
さすがに王家の者が貴族の第二婦人、第三婦人として嫁ぐ訳には参りません。
あの方と私が一緒になる道は、既に潰えていたのです。
裏切られた……とは思いませんでした。
彼も、私と同じように望まぬ婚姻を強いられてしまったのだとそう思いました。
彼に手紙を出しても返事は来ず……彼の下に届いているかどうかもわかりません。
いえ、兄は私が彼に逢うことに反対しているのですから、きっと届けられることは無かったのでしょう。
年を追うごと、日を追うごとに、切なさは募るばかりです。
どうすることもできない無力さに、私の生活は次第に荒んでいきました。
兄が黙認してくれるのを良いことに、見目の麗しい若い男の子たちを侍らせ、鬱屈した想いを晴らすためだけのために消費していく日々。
気が付けば、あれほど嫌悪した閨の営みが、私の唯一の慰みとなっておりました。
行為の間だけは虚しさを麻痺させることが出来たのです。もはや殿方に抱かれるという行為に、大した後ろめたさは無くなっておりました。
今にして思えば、私は獣に取りつかれていたのだと、そう思います。
そんな爛れた日々を過ごしていたある日、娘を託したあの側近から一通の手紙が参りました。
手紙には、その側近は現在病の床にあり、もはやそれほど長くは無い。私の娘をお返ししたい。と、そう記されていました。
私は狂喜しました。
愛する娘が、あの方と私の愛の結晶が、ここへ帰ってくるというのです。
ですが、彼女の存在はあくまで王家の秘事。事は慎重に運ばねばなりません。
私は身の回りに侍らせていた男の子たちの髪を全て銀色に染めさせ、男の子たちを集める役割を託していた者たちにも「銀髪の少年」を所望しました。
私が好んで銀髪の者を周囲に侍らせていることが広まれば、銀髪の娘を傍に置くことは何も不自然ではなくなるからです。
返事を送り返して数週間の後、ついに娘が私を訪ねてやってきました。
多少表情には乏しいものの、どことなく彼の面影のある美しい娘でした。
側近の娘として大切に育てられ、彼女は私が本当の母親であることは知りませんでした。
実際に顔を合わせるその時までは、母として存分に甘えさせてやりたいと、そんなことを考えていたのですがいざ対面してみると、自分が母であるとはとてもではありませんが口にすることは出来ませんでした。
当然です。
こんなに穢れきった女が、どの面を下げて母を名乗れるというのでしょう。
それでも私は、娘がそばにいてくれるというそのことだけで幸せでした。
名乗り出られずとも、娘と過ごす日々は何物にも代え難いものでした。
ですが、人間の欲望には限りがありません。
日に日に想いは募る一方です。
この娘のためにも、望まぬ形でサヴィニャックの家に縛り付けられているあの方を救い出すべきなのではないかと、次第に私はそんな思いに捉われていったのです。
私は自分の手足となる人間を集め始めました。
執事のフロービオは、王宮に出入りしていた商人から仕入れました。
彼はカルカタ仕込みの暗殺者です。
商人曰く、カルカタの暗殺者は主人には決して逆らわない。そう仕込まれていると言っていました。
次に、専属の護衛騎士として、オリガをスカウトしました。
単純に腕の立つ騎士を数名アンベールに推挙させたのですが、人間関係に恵まれず、実力に見合った役職に就けぬまま自意識だけを肥大させ続けてきた彼女は、実に理想的な人材でした。
実力は十分。その上、ほどよく屈折しているところが丁度良かったのです。
清廉潔白な者に汚れ仕事を任せることは出来ませんから。
そんな折、私の下にアンベール死亡の知らせが齎されました。
かつて彼は、私が可愛がってきた男の子の一人でした。
大臣の地位に就けるよう工作したのも私です。
もし彼を殺した犯人がわかるようであれば、仇の一つも討ってやろうと片手間に情報を集めさせていたのですが、アンベールの死を調べるうちに、一つの名前が浮かび上がってきました。
――ヴァレリィ・サヴィニャック。
計画の最後のひとかけらが見つかりました。
サヴィニャック家の誰かに私を殺させ、その罪を以てサヴィニャック家を誅滅する。
その計画の実行の時が、遂にやってきたのです。
この時、私は本気であの方は私の救いを待っている、そう思っていました。
あの方をサヴィニャックの家から解放することができる、そう思っていたのです。
冷静に考えれば、あの方がそんなことを喜ぶはずがないことぐらい、すぐにもわかろうというものです。
舞い上がってしまっていたとしか言いようがありません。
計画の実行日を定め、それに合わせて、執事のフロービオに彼への手紙を届けさせました。
計画の全貌を伝え、最後に『あの日と同じように、夏の離宮であなたを待っている』と、そう書き記した手紙を。
……ですが結局、それは、私の一人よがりでしかありませんでした。