リュカはそっと瞼を開く。
ぼんやりと霞がかった視界の中で、肌色の球体が二重にブレながら揺れていた。
意識がはっきりしていくのに連れて、それは次第に女の顔へと像を結んでいく。
切れ長な潤んだ瞳、長いまつげ、少し乱れた赤い髪。
目を覚ませば、鼻先が触れ合うほど近くにヴァレリィの顔があった。
「……起きたのだな」
囁きと共に、彼女は啄むようにリュカの唇へと自らの唇を寄せる。
身体の上に感じる確かな重みと素肌の体温。
彼女はリュカの胸に頬を預け、かすかに微笑んだ。
「起きてたんです……か?」
「ああ、旦那さまの寝顔を見ていたのだ。存外かわいいものだな」
「……やめてくださいってば」
涎を垂らしたりしていないかと、リュカは思わず口元を擦る。
そんな彼の慌てように、ヴァレリィはくすくすと笑った。
あらためて周囲を見回せば、丸太を積み上げただけの粗末な壁。隙間から陽の光が差し込んでいる。
どうやらもう朝のようだ。
雨音は消え去って、小鳥の囀りが『ちちち』と響いていた。
昨日は森の中にサヴィニャック公爵の遺体を埋めて簡単な墓を造り、二人はそのまま森の中に見つけた猟師小屋で一夜を明かした。
どれだけ長い間、雨の中で抱き合っていたのだろうか。
厚く垂れこめる雨雲は昼と夜の境を曖昧なものにして、時間の感覚は朧げ。どうにかヴァレリィの手枷を叩き壊しこの小屋に辿り着いた頃には、厚い雲の切れ間に時折、月明かりが顔を覗かせていた。
しとどに濡れた身体は冷たく、暖をとるものといえば互いの身以外には何もない。
いや、それは言い訳に過ぎない。
二人は引き離されれば死んでしまうとでもいうように、互いに強く身を抱きあい、感情の激するままに互いを求め合った。
朝を迎えて冷静になってしまえば、なんともむず痒い恥ずかしさが押し寄せてくる。
猟師小屋に残されていたボロボロの毛布と寝藁の間、そこで触れ合う彼女の素肌、その温もりの生々しさにリュカの頬はどうしようもなく熱を持つ。
すぐ近くで目にしてもヴァレリィはやはり綺麗だ。
その美貌と地位を思えば、初めての経験がこのボロボロの小屋と相手がこんな男だったということが、あまりにも不相応で心苦しく思えてくる。
「後悔……してませんか?」
リュカのそんな一言に彼女は不愉快げに唇を尖らせると、彼の鼻をぎゅっと指先で摘まんで捩じり上げた。
「痛っ、いててて……な、何するんですか!」
「何をするではない! それが初めて妻を抱いた男のいう科白か? 目覚めたらまず『愛している』。それから『世界で一番綺麗だ』と、そう囁くのが円満な夫婦関係のコツだと聞くぞ?」
「誰です、そんなこと言ったのは……」
「ふむ、ユーディンだったかな」
「あいつの話は聞き流してください」
あの女ったらしを基準にされては堪ったものではない。
ヴァレリィは苦笑しながら手を放すと、再び彼の胸に頬を寄せて静かに囁く。
「後悔してないかと言われても、身も心もお前のものになってしまったことが、自分でも不思議なぐらいに嬉しいのだ。後悔など入り込む余地もない。それに……昨夜、お前が全てを話してくれたことが何より誇らしい。私はそう思っている」
昨晩、リュカは全てを話した。
自分の身の上のこと。彼女の父親に、なにがあっても彼女を守って欲しいと、そう頼まれたことを。
彼女は相槌も打たずに静かにそれを聞き、そして全て聞いた上でこう言ったのだ。
「良かった」、と。
思わず唖然とするリュカを見つめ、彼女は更に言葉を紡いだ。
「お前は確かに父上を殺した。だが、それは父上の最期の願いであったのだとそう思えれば、父の仇を愛してしまった自分を……許すこともできる」、と。
(愛……か)
ヴァレリィのことを愛していないのかと言われれば、たぶん愛しているのだと思う。
だが、その愛というもののために姫殿下は暴走し、彼女の父親は命を落とした。
ヴァレリィは黙り込んでしまったリュカを上目遣いに見上げて、こう問い掛けた。
「なあ、旦那さま、姫殿下の愛した男というのは、父上のことなのだろうか?」
「たぶん……」
身分違いの恋をした。二人で国を捨てる約束までした。でもどうにもできなかった。
サヴィニャック公爵は、そう言っていた。
裏切りたくは無かったのだろう。
でもどうにもできなかったのだ。
姫殿下は公爵のそんな思いを知っているのだろうか?
それを知ってもまだ、一族を根絶やしにしなければ気が済まないほどに、彼を恨むのだろうか?
リュカはじっと天井を見つめる。
そして、ヴァレリィは静かに目を瞑ると彼の胸に頬を預け、誰に言うでもなくこう呟いた。
「私は姫殿下を責めることなど出来そうにないな……愛する者のそばにいる歓びを知ってしまっては、な」
◇ ◇ ◇
王太子バスティアンは、伯母――ヴェルヌイユ姫がいるはずの夏の離宮へと向かっていた。
今日はお忍びではない。王族として王家の紋章入りの馬車に乗り、護衛の騎士たちを引き連れての訪問である。
彼の向かいには、ヴァンデール子爵家の末娘シャルロットが、白いフリルに彩られた濃紺のドレスという、よそ行きらしい装いで腰を下ろしている。
「シャルロット、疲れてはいませんか?」
「大丈夫です、バスティアンお兄さま」
閉じられたままの瞳。彼女は首を傾げてわずかに微笑む。
彼女が生まれたのは、バスティアンがヴァンデール子爵家を出て王家に戻った後のこと。
だが、エミリエンヌとリュカが彼のことを兄のごとくに接するせいで、いつのまにか彼女も彼のことを『お兄さま』と、そう呼ぶようになっていた。
これから実の伯母をその手にかけようというのだ。
本来ならば穏やかな気持ちでいられるはずもないのだが、彼女の存在は少なからず彼の心に安らぎを齎してくれた。
彼女がこの場にいなければ、バスティアンの胸の内は激しく波立っていたことだろう。
実は今回、彼女の他にも同行者がいる。
先の王位継承の争いにおいて、現国王ではなく当時の第一王子、第二王子を支持した貴族たちである。
普通なら絶対に共に行動するはずの無い者たちだが、そうせねばならぬ理由がある。
彼らの間には、既に『ヴァレリィが姫殿下を弑した』という噂が蔓延していたのだ。
伯母の策略は周到としか言いようがなかった。
彼らは伯母の死を口実に公爵家を断罪し、王家がそれに応じねば、反旗を翻しかねない者たちなのだ。
彼らにも伯母が生きていることをしかと見届けてもらわねば、後から狂言だのなんだのと言いがかりをつけられかねない。
数刻のち、王太子の一行は六両の馬車を連ねてメルヴィル湖畔へと差し掛かる。かすかな風に波立つ湖、その湖畔に沿って続く小径。その行き止まり。そこには青々とした森を背景に、白亜の離宮が鎮座していた。
黒い鉄柵の門をくぐり、夏も終わって少し荒れた庭園を抜け、青い噴水の周囲に円を描く玄関前の広場へと辿り着くと、バルコニーからじっとこちらを眺めている女性の姿があった。
「おお、姫殿下だ!」
「本当に生きておられたのか!」
後続の馬車から貴族たちのそんな声が風にのって聞こえてくる。
期待に満ち満ちた表情を浮かべて、車列を凝視しているその女性は確かにヴェルヌイユ姫、その人であった。
だが、馬車を止めて降りてきた王太子たちを目にした途端、彼女の期待に満ちた表情は熟れ落ちた鬼灯のごとくにしおしおと萎れていく。
彼女はあからさまに肩を落とすと、すぐそばの揺り椅子の上へと倒れ込んだ。
王太子は集まってきた貴族たちを見回して、重々しい口調で告げる。
「申し訳ありませんが、貴公らはここでしばらくお待ちいただきたい。国王陛下から少々内密のお話を言付かってきておりますゆえ、まずはそちらを済ませたいのです」
国王陛下云々という下りは、もちろん嘘である。
だが、ヴェルヌイユ姫の姿を目にして戸惑う貴族たちに、それを訝しむ様子はない。
姫殿下は何をお考えなのかと、ヴェルヌイユ姫の意図するところを読み解こうと彼らは顔を突き合わせてヒソヒソと話をしはじめた。だが、恐らく彼らの内に正解に辿り着ける者は居ない。
王太子はシャルロットの手をとって玄関へと足を踏み入れる。するとホール正面の大階段、その前に銀髪のメイドが一人、背筋を伸ばして待ち構えていた。
「案内……する」
彼女はそう告げると、返事も待たずに大階段を上り始める。
離宮はしんと静まりかえり、メイド、王太子、シャルロット、三人の足音だけがコツコツと吹き抜けに反響して輪唱のように響き渡る。
静かなのも当然だろう。
本来であれば、来年の夏までは使われることのない離宮なのだ。
二階へと上がり部屋を二つ通り抜け、バルコニーへと続く扉の前までくると、王太子はメイドへと告げた。
「ここから先の案内は必要ありません。すみませんが、外にいる貴族たちを庭園に案内して、茶の一つも出してやってくれませんか」
「うん」
メイドは返事の素っ気なさとは裏腹に恭しく頭を下げると、部屋を出て大階段の方へと向かう。
彼女が行ってしまうのを見届けて、王太子はバルコニーへと続く扉を開け放った。
途端に涼しい風が吹き込んでくる。
夏の終わり、秋の初め、曖昧な時節。うららかな午後。
空は数日前までの雨が嘘のように晴れ渡って、やわらかな陽射しが降り注いでいる。
王太子とシャルロットがバルコニーに足を踏み入れると、揺り椅子の揺れる音が、ぎっ、ぎっと規則正しく響いていた。
「まさか、こんなに早く見つかってしまうとはのぅ」
ヴェルヌイユ姫は揺り椅子に腰を下ろしたまま、首だけで背後を振り返り、そう言ってつまらなさげに口を尖らせた。
ぼんやりと霞がかった視界の中で、肌色の球体が二重にブレながら揺れていた。
意識がはっきりしていくのに連れて、それは次第に女の顔へと像を結んでいく。
切れ長な潤んだ瞳、長いまつげ、少し乱れた赤い髪。
目を覚ませば、鼻先が触れ合うほど近くにヴァレリィの顔があった。
「……起きたのだな」
囁きと共に、彼女は啄むようにリュカの唇へと自らの唇を寄せる。
身体の上に感じる確かな重みと素肌の体温。
彼女はリュカの胸に頬を預け、かすかに微笑んだ。
「起きてたんです……か?」
「ああ、旦那さまの寝顔を見ていたのだ。存外かわいいものだな」
「……やめてくださいってば」
涎を垂らしたりしていないかと、リュカは思わず口元を擦る。
そんな彼の慌てように、ヴァレリィはくすくすと笑った。
あらためて周囲を見回せば、丸太を積み上げただけの粗末な壁。隙間から陽の光が差し込んでいる。
どうやらもう朝のようだ。
雨音は消え去って、小鳥の囀りが『ちちち』と響いていた。
昨日は森の中にサヴィニャック公爵の遺体を埋めて簡単な墓を造り、二人はそのまま森の中に見つけた猟師小屋で一夜を明かした。
どれだけ長い間、雨の中で抱き合っていたのだろうか。
厚く垂れこめる雨雲は昼と夜の境を曖昧なものにして、時間の感覚は朧げ。どうにかヴァレリィの手枷を叩き壊しこの小屋に辿り着いた頃には、厚い雲の切れ間に時折、月明かりが顔を覗かせていた。
しとどに濡れた身体は冷たく、暖をとるものといえば互いの身以外には何もない。
いや、それは言い訳に過ぎない。
二人は引き離されれば死んでしまうとでもいうように、互いに強く身を抱きあい、感情の激するままに互いを求め合った。
朝を迎えて冷静になってしまえば、なんともむず痒い恥ずかしさが押し寄せてくる。
猟師小屋に残されていたボロボロの毛布と寝藁の間、そこで触れ合う彼女の素肌、その温もりの生々しさにリュカの頬はどうしようもなく熱を持つ。
すぐ近くで目にしてもヴァレリィはやはり綺麗だ。
その美貌と地位を思えば、初めての経験がこのボロボロの小屋と相手がこんな男だったということが、あまりにも不相応で心苦しく思えてくる。
「後悔……してませんか?」
リュカのそんな一言に彼女は不愉快げに唇を尖らせると、彼の鼻をぎゅっと指先で摘まんで捩じり上げた。
「痛っ、いててて……な、何するんですか!」
「何をするではない! それが初めて妻を抱いた男のいう科白か? 目覚めたらまず『愛している』。それから『世界で一番綺麗だ』と、そう囁くのが円満な夫婦関係のコツだと聞くぞ?」
「誰です、そんなこと言ったのは……」
「ふむ、ユーディンだったかな」
「あいつの話は聞き流してください」
あの女ったらしを基準にされては堪ったものではない。
ヴァレリィは苦笑しながら手を放すと、再び彼の胸に頬を寄せて静かに囁く。
「後悔してないかと言われても、身も心もお前のものになってしまったことが、自分でも不思議なぐらいに嬉しいのだ。後悔など入り込む余地もない。それに……昨夜、お前が全てを話してくれたことが何より誇らしい。私はそう思っている」
昨晩、リュカは全てを話した。
自分の身の上のこと。彼女の父親に、なにがあっても彼女を守って欲しいと、そう頼まれたことを。
彼女は相槌も打たずに静かにそれを聞き、そして全て聞いた上でこう言ったのだ。
「良かった」、と。
思わず唖然とするリュカを見つめ、彼女は更に言葉を紡いだ。
「お前は確かに父上を殺した。だが、それは父上の最期の願いであったのだとそう思えれば、父の仇を愛してしまった自分を……許すこともできる」、と。
(愛……か)
ヴァレリィのことを愛していないのかと言われれば、たぶん愛しているのだと思う。
だが、その愛というもののために姫殿下は暴走し、彼女の父親は命を落とした。
ヴァレリィは黙り込んでしまったリュカを上目遣いに見上げて、こう問い掛けた。
「なあ、旦那さま、姫殿下の愛した男というのは、父上のことなのだろうか?」
「たぶん……」
身分違いの恋をした。二人で国を捨てる約束までした。でもどうにもできなかった。
サヴィニャック公爵は、そう言っていた。
裏切りたくは無かったのだろう。
でもどうにもできなかったのだ。
姫殿下は公爵のそんな思いを知っているのだろうか?
それを知ってもまだ、一族を根絶やしにしなければ気が済まないほどに、彼を恨むのだろうか?
リュカはじっと天井を見つめる。
そして、ヴァレリィは静かに目を瞑ると彼の胸に頬を預け、誰に言うでもなくこう呟いた。
「私は姫殿下を責めることなど出来そうにないな……愛する者のそばにいる歓びを知ってしまっては、な」
◇ ◇ ◇
王太子バスティアンは、伯母――ヴェルヌイユ姫がいるはずの夏の離宮へと向かっていた。
今日はお忍びではない。王族として王家の紋章入りの馬車に乗り、護衛の騎士たちを引き連れての訪問である。
彼の向かいには、ヴァンデール子爵家の末娘シャルロットが、白いフリルに彩られた濃紺のドレスという、よそ行きらしい装いで腰を下ろしている。
「シャルロット、疲れてはいませんか?」
「大丈夫です、バスティアンお兄さま」
閉じられたままの瞳。彼女は首を傾げてわずかに微笑む。
彼女が生まれたのは、バスティアンがヴァンデール子爵家を出て王家に戻った後のこと。
だが、エミリエンヌとリュカが彼のことを兄のごとくに接するせいで、いつのまにか彼女も彼のことを『お兄さま』と、そう呼ぶようになっていた。
これから実の伯母をその手にかけようというのだ。
本来ならば穏やかな気持ちでいられるはずもないのだが、彼女の存在は少なからず彼の心に安らぎを齎してくれた。
彼女がこの場にいなければ、バスティアンの胸の内は激しく波立っていたことだろう。
実は今回、彼女の他にも同行者がいる。
先の王位継承の争いにおいて、現国王ではなく当時の第一王子、第二王子を支持した貴族たちである。
普通なら絶対に共に行動するはずの無い者たちだが、そうせねばならぬ理由がある。
彼らの間には、既に『ヴァレリィが姫殿下を弑した』という噂が蔓延していたのだ。
伯母の策略は周到としか言いようがなかった。
彼らは伯母の死を口実に公爵家を断罪し、王家がそれに応じねば、反旗を翻しかねない者たちなのだ。
彼らにも伯母が生きていることをしかと見届けてもらわねば、後から狂言だのなんだのと言いがかりをつけられかねない。
数刻のち、王太子の一行は六両の馬車を連ねてメルヴィル湖畔へと差し掛かる。かすかな風に波立つ湖、その湖畔に沿って続く小径。その行き止まり。そこには青々とした森を背景に、白亜の離宮が鎮座していた。
黒い鉄柵の門をくぐり、夏も終わって少し荒れた庭園を抜け、青い噴水の周囲に円を描く玄関前の広場へと辿り着くと、バルコニーからじっとこちらを眺めている女性の姿があった。
「おお、姫殿下だ!」
「本当に生きておられたのか!」
後続の馬車から貴族たちのそんな声が風にのって聞こえてくる。
期待に満ち満ちた表情を浮かべて、車列を凝視しているその女性は確かにヴェルヌイユ姫、その人であった。
だが、馬車を止めて降りてきた王太子たちを目にした途端、彼女の期待に満ちた表情は熟れ落ちた鬼灯のごとくにしおしおと萎れていく。
彼女はあからさまに肩を落とすと、すぐそばの揺り椅子の上へと倒れ込んだ。
王太子は集まってきた貴族たちを見回して、重々しい口調で告げる。
「申し訳ありませんが、貴公らはここでしばらくお待ちいただきたい。国王陛下から少々内密のお話を言付かってきておりますゆえ、まずはそちらを済ませたいのです」
国王陛下云々という下りは、もちろん嘘である。
だが、ヴェルヌイユ姫の姿を目にして戸惑う貴族たちに、それを訝しむ様子はない。
姫殿下は何をお考えなのかと、ヴェルヌイユ姫の意図するところを読み解こうと彼らは顔を突き合わせてヒソヒソと話をしはじめた。だが、恐らく彼らの内に正解に辿り着ける者は居ない。
王太子はシャルロットの手をとって玄関へと足を踏み入れる。するとホール正面の大階段、その前に銀髪のメイドが一人、背筋を伸ばして待ち構えていた。
「案内……する」
彼女はそう告げると、返事も待たずに大階段を上り始める。
離宮はしんと静まりかえり、メイド、王太子、シャルロット、三人の足音だけがコツコツと吹き抜けに反響して輪唱のように響き渡る。
静かなのも当然だろう。
本来であれば、来年の夏までは使われることのない離宮なのだ。
二階へと上がり部屋を二つ通り抜け、バルコニーへと続く扉の前までくると、王太子はメイドへと告げた。
「ここから先の案内は必要ありません。すみませんが、外にいる貴族たちを庭園に案内して、茶の一つも出してやってくれませんか」
「うん」
メイドは返事の素っ気なさとは裏腹に恭しく頭を下げると、部屋を出て大階段の方へと向かう。
彼女が行ってしまうのを見届けて、王太子はバルコニーへと続く扉を開け放った。
途端に涼しい風が吹き込んでくる。
夏の終わり、秋の初め、曖昧な時節。うららかな午後。
空は数日前までの雨が嘘のように晴れ渡って、やわらかな陽射しが降り注いでいる。
王太子とシャルロットがバルコニーに足を踏み入れると、揺り椅子の揺れる音が、ぎっ、ぎっと規則正しく響いていた。
「まさか、こんなに早く見つかってしまうとはのぅ」
ヴェルヌイユ姫は揺り椅子に腰を下ろしたまま、首だけで背後を振り返り、そう言ってつまらなさげに口を尖らせた。