耳に痛いほどの静けさ。夜の静寂(しじま)(ぬる)い風がそっと頬を撫でた。

 わずかに視線を上げて遠く南の方角へと目を向ければ、明滅する星を呑み込みながら暗雲が広がる気配を見せている。

「しばらくは雨かもしれぬな」と愛馬の背を撫でながら、ヴァレリィの父――サヴィニャック公爵は独りそう呟いた。

 王都から南へ一日、サヴィニャック公爵家本邸の庭先。

 夜中だというのに彼はそこで独り、愛馬の背に荷物を結わえ、旅支度を進めていた。

 引退して以来長らく身に着けることも無かった甲冑を引っ張り出し、家伝の大剣『鬼殺し(オーガキラー)』を背負う。

 これで準備は整ったと、馬の手綱を曳いて門の方へと歩み始めようとする彼の傍に、夜着の上にローブを羽織った妻が静かに歩み寄ってきた。

「……あなた」

 公爵は足を止め、妻の方を振り返る。

「……私は務めを果たさねばならぬ。王家への忠義は果たされねばならぬ。だが同時に、姫殿下を再び裏切ることも出来はしない。ならば私が採るべき道は一つしかない」

 すると、彼女は弱々しく微笑んだ。

 鼻先と目元はわずかに赤い。それを指摘するのは野暮というものだろう。

「わかっております。止めに参った訳ではありません。何年あなたの妻をやっていると御思いですか? 私とてサヴィニャック家の女でございます」

「うまくいかなければ九族誅滅。サヴィニャック家の名は泥にまみれ、お前たちの命もない」

「ええ、わかっておりますとも」

 思えば彼女とは、幼少期より兄と妹のように育ってきた仲である。

 彼女を女として意識したのは、随分後のこと。

 道ならぬ恋に破れ、抜け殻のように生きていた頃のことである。

 思えば彼を支えてくれたのは、この妻であった。

 彼の罪、彼の失意、彼の決断、そのすべてを知りながら必死に支えてくれたのはこの女なのだ。

 自分には過ぎた女だと思う。

「……愛している。私はお前を誰かの代わりだと思ったことはない。私は本当に幸せであった」

「私も幸せでございました」

 公爵は自嘲気味に微笑む。

 互いに過去形で語り合わねばならぬとは、と。

 公爵自身にはもはや何も変えられない。

 王家への忠誠を至上のものとして生きてきたのだ。

 それを曲げることはできない。

 だから全てはあの婿殿に懸かっているのだ。

 あの頼りない男に全てを賭けねばならない。

 公爵は馬に結わえた荷物から一通の書簡を引っ張り出して妻に手渡すと、彼女の目を見つめながら言い含める。

「これを……この書簡を、人を使って王太子殿下へ届けさせてくれ。かの御方であれば、決して悪いようにはなさらんはずだ」

 そして、公爵は馬へと飛び乗った。

「では……な」

「ええ、あなた」

 彼は馬に鞭を入れると、振り返ることもなく門から外へと駆け出していく。

 妻は公爵の姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くし、そして独り、膝から地面に崩れ落ちる。

 暗い地面にぽたりぽたりと雫が落ちて、押し殺すような嗚咽(おえつ)静寂(しじま)の中に溶けていった。


  ◇  ◇  ◇


 リュカたちが城砦を出発した日から数えて、三日目の朝。

 サヴィニャック公爵家の長男――ヴァレリィの腹違いの弟が、旅人に身をやつして密かに王都へと辿り着こうとしていた。

 彼の(ふところ)には公爵が妻に託した書簡がある。

 彼は真っ直ぐに王太子のいる王宮を目指していた。

 同じ頃――。

「見えたで! あの馬車や! ぼんぼん、覚悟はええか!」

「今さら聞くんじゃねぇ、んなこと!」

 テルノワールとフロインヴェールの国境近く、朝靄の立ち込める鬱蒼とした森の中、黒曜の森と呼ばれるその森を貫く一本道。

 そこでリュカたちは視界に一両の馬車と、姫殿下直属の騎士たちの馬影を捉えていた。