白雪くんが、みんなに集合時間を伝えてから、もうニ十分は経っただろうか。女子トイレの個室に隠れているせいで、正確な時間がわからない。
白雪くんに連絡をしたい。でも、スマホを持っていないから連絡ができないのだ。私にはよくわからないけれど、白雪くんは、もしかしたら私のスマホは軍から支給されたものの可能性がある、と言っていた。位置情報がどうだとか、通話履歴がああだとか、それで赤染の居場所とか作戦の内容が筒抜けになったら危険だ、みたいな意味だった気がする。
それで白雪くんは、トイレにいる私に伝わるように、大声で廊下にいる生徒や他の教室の子に声を掛けていたのだ。一応、私のスマホは池に落として故障したことになっている。みんなからのメッセージを返信しなかった理由を、私はちゃんと伝えたいけれど、白雪くんがややこしくなるから止めてくれ、と頼まれた。転校したとして生徒とは会話してくれ、とも頼まれている。
個室から出て、私はドア越しに音を確かめた。
……大丈夫そうだ。
誰もいない。
ドアを忍者みたいに開けて、足音を鳴らさないようにしながら、私は体育館へと向かった。
「——ああ! 愛夜!」
私が体育館に入ると、クラスメイトの妃菜が私を指差した。
妃菜につられるように、同じクラスの女子が私の存在に気が付くと、次々と名前を呼びながら私の下に走ってきた。
急に連絡が取れなくなったらから心配したよ、どこの学校に転校したの、久しぶりだね、と色々な声が一斉に飛び交ってくる。これだけで私は泣きそうだった。みんなが、こんなにも心配してくれていた、と考えるだけで、私の傷ついた心が癒されてゆくような感じがした。
一人一人に私は、スマホを池に落としちゃった、東京の学校に転校した、久しぶりに会えて嬉しいよ、と言い目を合わせて笑った。
「どうだ、久しぶりの学校は」
白雪くんが、私にそう尋ねてきた。
「うん。嬉しいよ、ほんとうに。戻って来れるとは思わなかったから」
「辛かったら無理しなくていいからな」
「うん……ありがとね」
「ああ。こちらこそ」
白雪くんは微笑むと、体育館にいる生徒全員に向って、
「これから赤染を含めた卒業写真を撮るから、クラスごとにまとまってくれ!」と、合図をかけた。
私のためだけに、やってくれている、と考えると、鼓動が速くなってしまう。今の私は、白雪くんの横顔を見るだけで、頭が真っ白になってしまう。
白雪くんは私に目をやると、「二組と三組のやつらが、真ん中に赤染が来るように空けてくれているから、そこに行きな」と言った。
「え、でも私、一組だよ?」
「いいんだよ。みんながそうしたいって言ってるんだから。この学校じゃ、赤染は有名人なんだから」
見てみると、二組と三組が一人分、すっぽりと穴を空けていてくれた。手招きもしてくれている。ここには居場所があるんだよ、と言ってくれているようだ。
「これが島の学校のいいところなのかもな。この学年も、百五十人くらいしかいないから、みんな同じクラスも同然みたいなところがあるって……どうしたんだ? 顔が赤くなってるけど」
「……なにも、ないよ」
私は目を隠して、溢れてきた涙を必死に堪えた。
こんなにも優しい人たちが多くいる学校に出会えて、私は、ほんとうに幸せ者だ——
「十秒後にシャッター切るぞ」
三脚に置いてあるカメラのボタンを押すと、白雪くんは一組の方へ走った。
雪が降る寒い季節のなか、隣の人の肌と肌が触れあい、温かさを感じる。
みんなで寒くならないように、協力して助け合っているかのように。
あなたを私たちが守ってあげる、仲間なんだから、と伝えてくれているみたいで、泣かずにはいられなかった。
全体写真を撮り終わって、そのあとは私のところに来てくれた子と写真を撮った。女子だけなのかな、と思ったけれど、男子も次々と来た。私は芸能人なのか、と疑ってしまうくらい、みんなが一緒に撮ろうよ、と声を掛けてくれた。
全体写真を撮るのに使ったカメラが高価そうだったから、それどこで買ったの? と白雪くんに聞いたら、あのカメラは結城がいつも星を撮影するときに使っている、と言っていた。私も一度は、夜空に浮かび色とりどりな星を撮影してみたい。
思えば私は、担任の先生にも挨拶をしていなかった。この際は、謝っていない、の方が正しいのだろうか。自分でも転校したのか、それともしてないのかがわからなくなってきた。会いたいのには変わりない。
「白雪くん」私は全体を見渡している白雪くんに声をかけた。見張りでもしているのだろうか。
「どうした?」
「あのさ、学校の先生に、会いに行ってもいいかな」
「んー」足元を見て、白雪くんは考え込む。
パッと顔を上げると白雪くんは、「いいと思う」と言った。「学校は安全だろう。紅野みたいな生徒はいないと思う」
「だよね。学校は安全だから、みんなをここに集めたんだもんね」
「そうだ。それに一般人が多くいる。ここにいる生徒で集団下校すれば、軍のやつらは容易に手を出せないだろう。生徒が死んだら、親が必ず気が付く。どうして私の子は帰ってこないの? って。そうなれば、学校の評判は下がり、紅野の言う、作り直し、がやりにくくなるはずだ。環境が整っていないのに実験するような空っぽな頭ではないだろう」
「……要は、生徒に手を出したら自分たちが不利になるってこと?」
「そういうことだ」
「私にはよくわからないけど、大丈夫そうだね!」
「だから、先生たちに会ってくるといい。でも、なにか違和感を感じたらすぐに逃げるんだぞ。赤染の足なら逃げられるはずだ。新幹線並みの馬力があるのに、逃げられないはずがない」
「うん! じゃあ、会って来るね」
「ああ」
今日みたいな日に辿り着くなんて、思わなかった。
私は一生、一人で時間を過ごさないといけない、
軍の人と戦わなければいけない、
そう思っていた。
でも、私には。みんながいる。
守ってくれる、みんながいる。
それだけで私は、胸がいっぱいだった——
暖房の音が聞こえるほど静かで、この学校の生徒全員が入っても大丈夫そうな職員室に行き、私は担任のみなみ先生に声をかけた。
「みなみ先生、お久しぶりです」
「んんって、え、赤染さん?!」みなみ先生は、椅子から転げ落ちてしまうくらいに驚いた。「……どうして、ここに?」みなみ先生は机の上に置いてあるスマホを手に取り、誰かと連絡を取り始める。
「みんなと写真を撮りたくて。戻ってきました」
「そうか、そうなのね……」みなみ先生は私と目を合わせず、スマホに文字を打ち込んでいた。もっと、ちゃんと話したいのに。忙しいのかな。
「先生、誰と連絡しているのですか?」
「……」私を無視して、必死に打ち込んでいる。
私は、みなみ先生のスマホを覗き込んだ。誰と連絡をしているのか、楽しみにしながら覗き込んだ。これがもしも、みなみ先生の彼氏だったら、話題が広がりそうだ。
——でも。
みなみ先生が連絡している人は、私の予想を裏切った。
「……どうして、みなみ先生が、紅野さんと連絡を取ってるんですか?」
頭の中が真っ白になった。
どうして、どうして、と疑問ばかりが湧いてくる。
「あー、そうね……」
みなみ先生は顔を上げて微笑むと、
「赤染さんが、学校に来てるって、紅野さんに伝えるためよ——」
みなみ先生の言葉を聞いたとき、私のなかで大事ななにかが断たれた。
みなみ先生が紅野さんの仲間だと気が付いたとき、私の逃げ道はすべて塞がれていた。職員室から廊下に出るための道も、外の様子が見える窓も、閉ざされている。逃げ道を塞ぐ壁は黒く、見た目からして簡単には壊せそうにない、と直感でわかった。
どうにかして逃げないと、と考えていると、私の目の前にいたみなみ先生は、私から距離を取って銃を構えていた。他の先生も、みんな、私に銃口を向けて立っている。それも訓練された軍人みたいに。
「……先、生?」開いた口が閉まらなかった。
「——撃て!」
みなみ先生の声が聞こえたとき、物音すらしなかった職員室が、発砲音で満たされた。銃弾が、体を貫通してゆく。私の楽しかった思い出とともに、体を貫通してゆく。不思議と痛みはない。これもきっと、私が兵器だからだろう。
けれども胸だけは、ぎゅっと、締め付けられた——
「……ひどいよ」
私は信じていた。
先生たちは優しい人だって。私を守ってくれるって。
助けてくれるって——
「……みんな、みんな、もう死んじゃえ!」
こんな結末を迎えるなら、最初から諦めていればよかった。
人を信じられなくなるなら、死んでしまった方が楽だった。
でも私にはそれができない。
したくないのだ。
白雪くんと生きたいから、友だちとまだ、生きていたいから——
「……先、生」
あっという間だった。
私が、先生たちを殺してしまうのは。
みんな、血を出して倒れている。
「……あ、あ、あ、あああああああああああ!」
私の心はぐちゃぐちゃだ。
生きたいから殺してしまい、殺してしまって泣いている。
どうすればいいのか、自分でもわからない。
——ふと、
私は亡くなってしまった先生たちを、食べたいと思ってしまった。
口の中が湿り、頭から血の匂いが離れない。美味しそうだと、そう思ってしまう。
「……ダメ、絶対に、ダメ……」
現実から目を背けるように蹲り、私は耐え続けた。
人は食べものじゃない。私と同じ、人間なんだと言い聞かせ、暴れ出しそうな舌を噛み続けた。
「赤染の帰り、遅くないか?」結城がキャリーバッグに座りながら言った。
「だな。なにしてるんだろうな」
「先生たちと記念撮影とか」
「写真だけなら、こんなに時間かからないだろ」
赤染と体育館で別れてから、一時間は経過している。他の生徒は船に乗る準備を終え、赤染を待っている状態だ。出発まで残り五分しかない。
「赤染には時間、ちゃんと伝えたんだろ?」サランラップに包まれたおにぎりを結城は食べる。「やっぱり、塩むすびに勝るものはねえよ。米の甘味がちょうどいい」
「ああ。もちろん伝えた。で、その前に、おにぎりをここで食うな」
「いいだろ別に。こぼさないし、俺はこの学校を卒業した。それに、白雪は生徒会長の役目を終えてるわけだから、関係ないだろ?」
「関係なくはないが……」
「なら白雪も一個やるから食えよ」
ほいっと、結城は、ビニール袋に入っていたおにぎりを渡してきた。
「ここでは食わないけど、ありがたく貰っておく」
「なら返せ! お前がここで食うから面白いんだろ?」
「じゃあ返す」
「……やっぱいい。やるよ、その塩むすび」
「どっちだよ」
気分屋は扱っていて大変だ。
話がだいぶ逸れたが、今はそんなこと、どうでもいい。
「今から学校に行ってくる。だから、もしも俺が、ここに戻ってこなかったら引率を代わりにやってもらってもいいか?」俺が直接、赤染を確認すれば済む話だろう。
「別にいいけど。それでいいのか? 赤染をみんなで囲って、インスタライブをしながら帰るのが作戦だろ?」
「そうだ。けど、みんなを必ず、船に乗せなければならない。帰ったらすぐに受験が始まるからな。一日でも家に着くのが遅れると、全員に迷惑がかかる」
「確かにそうだな……うん、わかった。前に渡された紙に書いてある場所に行けばいいんだろ?」結城はキャリーバッグから立ち上がった。「とりあえず、そろそろ整列させておくぞ」
「頼んだ」
「念のために言っておくけど、死ぬような事態に巻き込まれそうだったら、必ず逃げて来いよ? 俺からしたら、赤染が救われて、お前が助からないパターンが一番、嫌だからよ」偽りのない顔で結城は言った。「お前がどうしても救いたいなら、なんも言えないけど……まあ、思う存分、やってこい」
「ああ。ありがとな」
結城は、ごちそうさまでした、とサランラップを丸めると「そろそろ出発するから整列してくれ!」と体育館に響き渡る声を出した。「そうだ、白雪」
「ん? どうした?」
「どうして俺にこの仕事を任せたんだ? 生徒会に務めていた奴らの方が頼れるだろうに」
「……信頼できるからに決まってるだろ」
「……はは、照れますなー」
結城の笑顔を見たあと、俺は赤染を探しに行った。
物音がなく、外の明るさでしか照らされていない廊下に違和感がある。つい最近まで、この廊下を歩いている生徒がいた、と考えると、不思議な感覚だ。
木の上に降り積もる雪を眺めながら歩いていると、ふだんなら通れているはずの道が、黒くて分厚そうな壁があるせいで通れなかった。
叩いてみたがビクともせず、押してみても動かない。
方向転換して、他の道で職員室に向かおうとしたが、ぜんぶ職員室に繋がる道が絶たれていた。
防火扉が作動してしまったのか、と思いながら壁に寄りかかり、結城に、赤染は体育館に戻ってきたか? とラインを送ると、遠くの方から人の声が聞こえてきた。同時に、階段を大勢の人が駆け上がってくる音もした。
直感で、マズい、と思った俺は、近くにあったトイレに身を隠し、様子を窺うことにした。
「こちら第三部隊。職員室前のバリケードに侵入成功。体育館に生徒が全員、船に乗る準備を整えて待機しています」と、男性の声が聞こえた。外部の人間と連絡を取っているのだろうか。
しばらく会話が続き、それが終わると男性は、「目的はいつ、バリケードを破ってくるかわからない。臨戦態勢を整えておけ!」
と、泣く子も黙るような男性の声が、隊員と思われる人たちに命令した。
信じたくないが目的は恐らく、赤染のことだろう。
つまり赤染は、職員室で捉えられてしまったのだ——
歯茎が折れてしまうくらいに、俺は歯を食いしばる。
悔しいのだ。
俺の判断ミスで、赤染を危険に陥れてしまったことが。
学校は安全だと勝手に思い込んでいた。幼稚園、小学校、中学校で、学校は安全な場所だ、ここにいれば命は狙われない、と思い込んでしまった。正確に言えば、信じたかったのかもしれない。疑いきれなかったのだ。紅野以外は全員ふつうの人だと、軍には関係ないんだと、俺は信じたかったのだ。
今思えば、疑うための決定的な証拠があったじゃないか。
紅野はどうして、この学校に入学できたのか。この学校の設備はどうして、生徒の人数に合わないような大きさなのか。他にも疑える場所はいくつもあったのに、俺はその現実から目を逸らしていたのだ。
甘かった、俺の考えが。
学校は軍に関係があると、安心できない場所なのだと、思いたくなかったのだ。
トイレに逃げ込んで、なにもできない自分が苛立たしい。
こんなにも俺は、役に立てない人間なのだと思うと、胸が張り裂けてしまいそうだ。
『結城、先に向かっててくれ。あとは頼んだ。絶対に来るなよ』
結城にそうラインを送って、俺は機内モードにし、電話がかからないようにした。
トイレに逃げ込んでから、どれだけの時間が経ったのだろうか。スマホで時間を確かめてみると、一時間は経過していた。誰もいないかのように廊下は異様に静かだ。軍人の張り詰めた空気が、俺にも伝わってくる。
でも。
この長い時間は、一瞬で消えた。
「——目的がバリケードを破壊して、こっちに突き進んでいるぞ!」
隊長らしき男性が声を上げると同時に、職員室への道を阻んでいた黒い壁が破壊された音がした。重機が壁を木端微塵にしたかのような鈍い音が廊下に響く。
「——打て打て打てえええええ!」
銃撃音が鳴り響く。
初めて聞く音に、俺の鼓膜が破れてしまいそうだった。
「ああああああああああああ!」
叫び声が聞こえた。人間とは思えない、獣のような声が聞こえた。
これが赤染の声なのだろうか。
巻き込まれたら絶対に死んでしまう。
そう思い、息を止めて耳を澄ませていると、突然、廊下から音が聞こえなくなってしまった。そんなはずはない、と頭を振り、再度、廊下から音がしないか耳を澄ませてみたが、人が歩く音さえもしなくなっていた。
そっとドアを開け、隙間から廊下を覗いてみる。
「……嘘、だろ」
廊下が赤く、染まっていた。
重厚そうな壁に、人が走って体当たりしたかのような穴がぽっかりとできていた。廊下に赤染の姿はない。
「……う」
生臭さはないが、血の臭いが鼻を刺激した。
こんな形で死体を見る日が来るとは、思わなかった。
結城もきっと、こんな光景を紅野に見せられたのだろう。あのとき、結城が俺に、赤染と軍が戦争をしていたと伝えたとき、俺の目の前で急に嗚咽したのは、きっとこれが理由なのだろう。
トイレから出て、廊下を見渡しても、やはり誰もいない。
赤染は外に行ったのかもしれない。
こんなところで折れていたら、赤染が救えるはずがないだろ——
道路の水溜まりを踏むみたいな足音を聞きながら、俺は外へと向かった。
物陰に隠れながら赤染を探していると、空からヘリコプターの音が聞こえてきた。見てみると、隊列を組んでいるかのように並ぶヘリは、校庭へと向かっていた。銃撃戦の音が聞こえているから、きっとこのヘリは、応援部隊かなにかだろう。正門を見てみると、戦車が校内に入り込んできたかのような車輪の跡が雪に残っていた。
ここまで来たら俺の存在なんて気にしないだろう。
赤染のもとに向かおうと立ち上がった瞬間、今までとは比べものにならないような爆発音がした。ミサイルでも放ったのだろうか。校庭の方から煙が立つ。
俺は走った。
赤染を助けたいが一心に、走り続けた。
途中で、部外者発見、みたいな声が聞こえてきたが、俺は気にせず、全力疾走した。
炎と煙が校庭を包み隠すなか、赤染の姿が見えたところで、俺は、
「——赤染!」
と、喉が裂けてしまうくらいに叫んだ。
このまま突き進めば死ぬ、とわかっていながらも俺は、赤染のもとに向かい続けていた。赤染が俺の声に気が付いたのは、俺が叫んだ刹那だった。
——目が合った。
顔が血に染まり、無表情だった赤染が、いつもの笑顔を見せた。
すると赤染は、表情を一変させ、
「白雪くん!」
と、俺に手を伸ばし、「嫌だ! 止めて!」と叫び声を上げた。
どうしてそんなに嫌そうな顔をする、と考えたときには、もう遅かった。
全身の力が突然抜け、瞼が鉛のように重くなった。
麻酔銃で、俺は撃たれてしまったのだろうか……だとしたらいつ、俺は撃たれてしまったのだろうか。
意識が遠のいてゆく。
赤染を守りたい意志すらも消えてゆく——
「…………赤、染」
聞こえてくるのは、誰かの悲鳴。
目に映るのは、桜の色みたいに、赤く染まった白い雪。
俺が最期に見た景色は、まるで季節外れの冬に咲く、雪の桜のようだった。
間に合わなかった。
白雪くんの後ろに軍人がいたから、助けないと、って思ったけれども、ダメだった。
意識を失って倒れてゆく白雪くんを見ながら、私は、白雪くんの後を追ってきていた軍人を死なない程度に殴り飛ばした。これ以上、人が死んでしまうのを見たくなかった。
白雪くんはここにいたら危ない。
そう思い私は、白雪くんの体を持ち上げようとしゃがみ込んだとき、
「——やっぱり愛は、破滅しか生まないわね」
と聞こえてきた。
白雪くんから目を逸らし、間近にいた紅野さんを見たとき。私の心臓に、銃口が突きつけられていた。
「じゃあね。赤染さん——」
銃声が鳴り響く。
決着がついた、と知らせるかのように銃声が轟いた。
さすがに重かった。
直接、心臓に打ち込まれたら耐えられるはずがない。
全身の力が抜け、私は倒れた。
「それにしても凄いわね。赤染さん。これくらいの力なら、紛争の一つや二つ、止められるでしょうに」
起き上がれる体力は残っていない。
どれくらい私は戦い、撃たれてきたのだろうか。
最初の方は銃弾に当たっても傷口はすぐに塞がったのに、今じゃ細胞が生まれるような気配すらもない。撃たれたところから血が出てくるだけだ。
「でも、どうして赤染さんは誰も殺さなくなったのかな。殺さないと敵の数は減らないでしょ?」
紅野さんは、私に殴られた軍人のことを言っているのかもしれない。
どれだけ撃たれても、私はその人たちを殺さないように殴ってきた。力を込めて殴ったら内臓が壊れてしまうから、私は痛くて起き上がれなくなるくらいの強度で軍人を殴ってきた。
「あの人たちは、あなたを殺そうとしてきた人たちよ? みんな、みぞおちを殴られて動けなくなってるだけだけど、三十分でもしたら立ち上がってくるわよ? それに、どうして赤染さんは、その子を守ろうとするのかな? 守ろうとした結果、あなたは私に撃たれ、死にかけているのよ?」
「……殺して食べてしまうくらいなら、私が死んだほうがいい。白雪くんを守るのは、大切な人だから……がっ!」
喀血した。
意識が朦朧とする。
「大切な人?」
「白雪くんは、私を変えてくれた人だから……」
「食べないの? 白雪くんのこと」
「食べない。絶対に」「——それはどうかな」
銃口が私の頭に向けられると、再び銃声が鳴り響いた。
足、腕、胴体、と、止めを刺すかのように、紅野さんは私の体に銃弾を放った。音が聞こえる度に、無気力になってゆくのを感じる。
「赤染さんにいいこと教えてあげる」
紅野さんはしゃがみ込み、ポケットに入れていたバトルナイフを取り出すと、「私の血を飲めば、あなたは回復するわよ」と言い、自分の親指をバトルナイフで切った。
目の前にぽたぽたと、血が垂れてくる。
「ほら、これを舐めれば、傷口くらいは塞がるわよ?」
「……いらない。こんなの、いらない」
今すぐにでも舐めて、体力を戻したい、と思う自分が憎い。
白雪くんと生きるには、クラスメイトと仲良くするには、この破裂してしまいそうな食欲を殺さなければならない。
「——そんなわけないでしょ!」
思うようにならなくて、むしゃくしゃしてしまったのだろうか。
紅野さんは私を蹴り、
「人間でも死に追い込まれたら、人を食べるというのに、あなたが人を食べないわけがないじゃない!」と怒鳴った。
「……」
紅野さんは白雪くんに銃口を向けると、躊躇いも無く撃った。
銃声が鳴り響くと、辺りは誰もいないかのように静かになった。
「……どう、して……」
紅野さんは困惑した顔を浮かべた。「どうして、その子を守るのよ」
「……大切、だから」
紅野さんが銃口を白雪くんに向けたとき、私は白雪くんを守るように、抱きついた。今の私にはこれくらいしかできない。
「大切、大切って! そんなものがあるわけない!」
紅野さんは怒り狂ったかのように話し続けた。
「あなたは白雪くんが好きだからね。だから守るのよね。私が、白雪くんの身代わりになれば助かるってね。でも、それは違う。あなたが白雪くんを庇ったからって、身代わりになったからって、白雪くんは救われないのよ。白雪くんは必ず、俺が死んでいれば、って後悔するのよ……」
声音が変わったと思い、紅野さんを見てみると、泣いていた。
私たち二人を見て、紅野さんは泣いていた。
「今でも思うのよ、私は。あのとき、ワイアットが私の身代わりにならなかったら、ってね。私は紛争がある地域に生まれ育った。四歳のとき、買いものをするために私は、街に出た。そこで知らない人に声を掛けられて、そのまま車に乗らされ、誘拐されたのよ。人目のつかないところに連れていかれたら、服を脱がされて、強引に体を触られた。
それで、私の価値観がズレてきちゃったのよ。調教された豚みたいにね、その人たちの言うことをすんなり受け入れるようになった。それで言ったのよ、私を誘拐した人たちは。両親を殺せって。銃を渡すから、これで撃ってこい、ってね。もちろん反抗した。嫌だって。そんなこと、私にはできないって。でも、その人たちは、殴ったり蹴ったりして、私に両親を殺させた。そこからは毎日のように人殺しを私にさせた。
人を何人も殺して洗脳された私は、紛争に行くことになった。私以外にもたくさんの子供がいたわ。みんな、みんな、怯えた顔して、でも、大人の人たちに見透かされないように、必死に顔を作って——
そこでワイアットと出会ったのよ。彼も街で誘拐された人で、人を何人も殺した感じだった。けれども、彼だけは他の子どもとは違った。
意見の食い違いで人は殺してはいけない。お互いの意見を尊重して、助け合わないといけない。
そう言ったのよ。
最初は理解できなかったわ。この子はなにを言っているのかなって。でも、彼は訴え続けた。みんなの目を覚まそうと、訴え続けたのよ。さすがに大人たちの前では、そんなこと言わなかったけれども、子供たちだけのときは言い続けていた——
そんな彼に、私は恋をした。
凄いなって。大人たちに酷いことをされても、強い意志を持って、自分を失わなかった彼に、私は惚れてしまった。だから私は約束したの。この紛争を終わらせようって。これからの子供たちのためにも、頑張ろうって。
紛争に連れていかれるまで、私と彼は、大人たちの目が届かないところで話し合った。どうしたら、この紛争を終わらせられるか。なにをしたら、私たちは救われるのかも。考えた末に私たちは、紛争で大人たちの目が届かなくなったら、そのままこの国を脱出して、もっと裕福な国に逃げ込もう、ってなった。
みんなが銃を構えて、敵を撃つなか、私と彼は戦場から離れようと逃げ続けた。移動しやすいように銃も捨てて、爆音が聞こえるなか、ひたすら走り続けた。
もう逃げ切れる、これで助かるんだって、本気で思った。
けれでも、神様は私を見放した。
踏んでしまったのよ、私は地雷を——。
逃げ足を失った私は、痛みのあまり泣き喚き、その場で蹲ってしまった。
その声に、相手は気が付いたんでしょうね。
銃を持った一人の大人が、私たちに近づいてきたのよ。
その男は微笑みながら銃口を私に向けてきた。
死ぬって。これで私の人生は終わるって——
銃声が聞こえて目を閉じたとき、体に銃弾が当たったような気がしなかったの……なにが起きたんだろうって目を開けたとき、ワイアットが私の前に立って、身代わりになってたのよ——」
辛そうだった。
倒れている私たちを見て、紅野さんは思い出してしまったのだろう。
「それでワイアットはこう言ったわ。俺にとって、お前はなによりも大切だ。だって、初めてできた、仲間だから——
そう言い残すと彼は、私の目の前で倒れてしまった。
それで今になって思うのよ。
お互いを大切に思わなければ、あんなことにはならなかったはずだって——」
「……」
私は、なにも言い返せなかった。
言い返す気にも、なれなかった。
「だから愛は、破滅しか生まないのよ」
「……」
「あなたが白雪くんを想うなら、そこを退きなさい。これは白雪くんのためよ。必ず、この子は私みたいに悲しみ、後悔する。赤染は俺の身代わりになった、俺の命を守るために、赤染は死を選んだ、ってね。本人も覚悟はしていたはずよ。ここに飛び込んだら、自分は死ぬかもしれないって。白雪くんを殺したあと、私はあなたもこの手で殺す。汚れるのは、私の手だけで十分」
「……」
紅野さんの意見は正しい。
身代わりになった人の気持ちを背負わないといけないのは、辛い。
でも私は、
紅野さんの意見に、賛成できなかった。
「……私はいいけど、白雪くんは、ダメ」
「この子に苦しめって、あなたはそう言うの?」
「違うよ。私は白雪くんに、楽しく生きて欲しいの」
白雪くんの笑顔が頭に浮かんだ。
いつもは目が鋭くて近づきにくい顔しているのに、笑顔になると心が落ち着く、そんな顔。
「夏休みに遊ぶ前まで、白雪くんはぜんぜん私に笑顔を見せてくれなかったんだよ。なにをしてるときも辛そうな顔をして、大変そうだったんだよ。私から見て白雪くんは、人生を楽しんでるように見えなかったんだ。だから私は、一緒に勉強してるとき白雪くんを笑わせるために変顔をしたんだよ。恥ずかしかったよ。急にそんなことやるなんて。結局白雪くんは、笑わなかったけれど。でもあのとき私は、白雪くんに人生の楽しさを教えてあげたいと思ったんだ。
その分、白雪くんが笑ってくれたとき、私はほんとうに嬉しかった。
白雪くんの笑顔が輝いて見えたんだ。大きな山を登ったあとに見る、太陽みたいに……そんな白雪くんが、人生の楽しさを知り始めた白雪くんが、ここで死んでいいはずがない」
私の言葉は、紅野さんからしたら偽善だろう。
でも、それでいいのだ、私は。
私はそうやって生きてきた。
人の記憶に残るために、私は誰よりもみんなに優しく接してきた。鏡の前で笑顔の練習もした。いつかまた、記憶がなくなるかもしれないと怯えていた時期の私は、みんなの心に残り続けるように努力してきた。人のためにではなく自分のために生きてきた。
「あなたの言葉は偽善よ。自分がいい気になって、白雪くんを傷つけるだけ」紅野さんの顔が、怒りに染まっていた。「そんなあなたが、私は嫌いよ」
紅野さんは今、頭のなかがぐちゃぐちゃなのだろう。
そんな感じがした。
「なんで紅野さんは、私を作ったの?」
「世界から紛争をなくすためよ。不死に近い存在の、あなたのような人がいれば、殺し合いの意味はないって彼らは気が付くはず」
「あとは、ワイアットさんのためでもあるんでしょ?」
「そうよ。それがどうしたの?」
「ワイアットさんは紅野さんを助けた。それも、身代わりになって助けた。そんな、紅野さんの言う偽善者のために、どうして紅野さんは頑張ってるの? 自分を苦しめた偽善者のために、私を造る努力はしないはず」
「…………そうよ」
「ワイアットさんが好きだから、今も紛争を解決するために、頑張ってるんでしょ?」
「……そうよ、そうよ、そうよ!」
紅野さんは銃口を白雪くんに向けた。
「私は、あなたたちに、私と同じような道は歩んで欲しくないから! 私の手を汚すだけで終わらそうとしているのに!」
紅野さんはそう言い、引き金を引こうとした。
「——白雪くんだけは!」
力の入らない全身を奮い立たせて立ち上がり、私は銃弾に当たりながらも、紅野さんを突き飛ばした。
紅野さんが地面に倒れるのと同時に、私もその場で倒れ込む。
お腹に命中した銃弾は、私のなかにある血を全て奪った。
「……白、雪、くん」
目の前に、白雪くんの顔がある。
でも、私の手が届かない位置に、白雪くんはいる。
白雪くんに触れたいのに体が動かない。
「……大好き、だよ。白雪、くん」
この言葉を、耳元で囁きたかった。
直接、言いたかった。
けれども、それは叶わない——
「……楽しく、生き、てね」
白い雪が赤く染まるなか、私は眠っている彼に言葉をかけた。
届かない言葉を彼に伝えた。
意識が遠のいてゆく。
白雪くんの顔が、ぼんやりとしてくる。
最期くらい、キスをしたかった。友だちなのか、恋人なのか、どっちなのかもわからない——
「私は、楽しかった、よ……」
目を閉じるとき、私は白雪くんと、季節外れの雪の桜でも見たかったなと、卒業写真を撮ったカメラで雪の桜を背景に白雪くんと写真を撮りたかったなと、そう思った。
スマホの通知音がした。画面を開いて確認する。母親からだった。既読だけ付けておく。指では数えきれないほどの未読を放置し、俺はスマホの画面を閉じた。
『ご飯、一階に置いておくから食べなさいね!』
と、母親から連絡がきていた。俺はベッドに包まった。動く気になれないのだ。空腹になり喉が渇いても動けない。
麻酔銃を撃たれ、目を覚ましたら赤染は血を流して倒れていた。死んだとは信じられなくて、何度も何度も揺すったけれども、目を覚ますことはなく、体温が雪のように冷たかった。
そこからはなにも覚えていない。
泣いて泣いて泣いて、それでも足りないから泣き叫んで。それだけしか俺にはできなかった。気が付いたら俺は、軍人が操作しているヘリコプターに乗せられていて、最寄り駅まで車に乗せられたあと、自分の足で家に帰ってきた。
帰省した日の一週間後くらいには大学の試験があった。部屋で受験の準備をしていたら母親に、無理しないでいい、と言われたが、受験料も払っていたし、母親には申し訳なかったから、俺は試験を受けに行った。結果は落ちた。第一志望も、第二志望も、第三志望も、どこにも受からなかった。自分の無力さに、情けなさに、おかしくなってしまいそうだった。
どうして、俺だけが生き残ったのか。
どうして、赤染だけが助からなかったのか。
守ったからだろう。赤染は俺のことを。
眠っている俺を、赤染は命懸けで守ってくれたのだ。自分が殺されそうだというのに、そんな状況でも赤染は、戦場で寝込んでいる俺に気遣ったのだ。
今ならわかる気がする。
紅野の言っていた言葉の意味が理解できる。
——愛は破滅しか生まない。
愛は人を殺す、と。
それは違うと、間違えていると、そう否定したくても、できない自分がいる。毎日毎日、他に助けられる方法はなかったのか、俺に力さえあれば赤染を助けられたのではないか、と自問自答を繰り返してしまう——
ベッドの上で丸くなり、暗闇を眺め続けていると、外から声がした。
宅配便です、と誰かが声を大きくして言っている。
無気力のまま起き上がり、物が散らかったままの部屋を歩いて、俺は玄関のドアを開けた。
「——よう。白雪」
「……結、城」配達員ではなく、結城だった。
「いくら連絡しても出ないし、なにしてるのかと思ったら、へこたれてるだけかよ」呆れたかのように結城は言った。「お前の母親が俺に訊いてきたんだ。正が部屋からぜんぜん出てこないって。学校でなにがあったのって。お前が帰ってきた日は知らねえけど、どれだけ部屋に籠ってるんだ?」
「…………」口を開ける気にもなれなかった。
「お前の部屋に上がらせてもらうぞ」「ちょっと待て——」
抵抗したが、呆気なく入られてしまった。力が入らない。
お邪魔します、と言い、家に上がった結城のあとに俺は続く。止めようとしても結城は無視し、玄関から俺の部屋に直行した。
「汚い部屋だな。とてもお前の部屋だとは思えない。なんなら、俺の部屋の方が綺麗だ」結城は散らかった部屋でなにかを探し始めた。「外着はどこにある」
「外には行かない」
結城はため息をつくと、「ちょっとは付き合ってくれよ。四月に入ったら会えなくなるんだからよ」がさごそと、床に広がっている荷物を掻き分ける。
「……受験、ぜんぶ落ちた」
「……」結城の動きが止まった。目を見開き、俺を見る。「そうか。だったら尚更だ」
「え」
「もういい。これでも着とけ」
結城は俺に、床に広がっていた服を投げた。「俺から見たら、寝間着には見えない」
逆らっても強引に着替えさせられるだろう。そう思い、俺は結城に渡された服を着た。白いパンツとシャツに、黒のカーディガン。いつもの外着だ。
俺の着替えを見届けると結城は、「外に行くぞ」と言って、部屋を出て行ってしまった。
「どうして外に連れ出した」
「散歩したかっただけだ。理由は特にない」
「なら俺はいらないだろ」
「いるもいらないも、そんなの関係ない。俺はお前と散歩がしたい。それだけだ」公園にある自販機で買ったカルピスを結城は飲んだ。「なにか大事なことを思い出したんだけど……まあいいかって、あっ、思い出した」
「なにをだ」
「確か幼稚園のとき、お前がタイムカプセルを埋めよう、って言ったよな」
「俺がそんなこと言ったのか」まったく覚えていない。
「そうだ。あのときのお前は、誰よりも活発で目立ってたからな」
口を開けて結城は笑うと、「でも、どこに埋めたんだっけ……」と考え込んだ。
「……幼稚園じゃないのか。結城は家に帰ると遊べないから園内に埋めようって」
「ああー、そうだった気がする。幼稚園と小学生の頃は、俺の方が優等生だったもんな!」結城は煽るような笑い方をした。「じゃあ幼稚園に行くか」
「本気言ってるのか。そもそも入れるのかよ」
「今は春休みだろうし、先生に理由を話せば大丈夫だろ」
結城は立ち止まり、急に後ろへ方向転換すると、幼稚園がある方へと歩き出してしまった——
幼稚園のなかを見てみると、水色のエプロンをした先生がいた。花に水をあげている。
「あ、佐々木先生!」結城が呼びかける。「お久しぶりです! 結城です!」
「——あ、え、友助くん?!」
佐々木先生は門を開けると「すっかり大きくなったね!」と、笑顔になった。「あれ? もしかして正くん? 当たっているかわからないけど……」
「はい、そうです。白雪正です」
「ええ! あの正くんが、すごく真面目そうになってる!」
口を押さえてビックリしている。そんなに昔の俺は、不真面目だったのだろうか。
「なんか二人、逆転してるみたい。友助くんが元気そうでよかったよ。両親が厳し過ぎて、昔の友助くんは、ぜんぜん遊ぼうとしないし、ずっと本読んでたもんね」
「え、俺って、そんなに偉い子だったんですか?!」
「そうだよぉ。先生から見たら、遊ばない友助くんを、正くんが引きずり回してたイメージがあるなー。二人とも、成長したねぇ」佐々木先生はにっこりした。「もしあれなら、職員室に来る? 私以外、今は誰もいないし」
「はい、お邪魔します!」結城はお辞儀すると、佐々木先生に続いて園内に入った。
先生がいろいろな昔話をしてくれた。
昔の俺は、無邪気に外で走り回っているような子で、よくニワトリを脱走させてしまったり、滑り台を駆け上ったりしていたらしい。別人過ぎて、自分の話を聞いているのにもかかわらず、他人の話を聞いているかのようだった。対して結城は、教室で本ばかり読んでいるような静かな子で、先生が外に遊びに行こうと誘っても、勉強するから、と断り、みんなから距離を置いているような子だったと、佐々木先生はお茶を飲みながら話した。
会話に区切りがつくと、結城は佐々木先生に、砂場を掘ってもいいですか? タイムカプセルが埋まっているんですよ、と言った。佐々木先生は弾けるように笑うと、もちろん、と言い、スコップがある場所を教えてくれた。
「懐かしいな。幼稚園の頃って。記憶にないけど」
「だな。意外な話ばかりだった」小学生の頃ならなんとなく覚えているが、幼稚園の頃はほとんどなにも覚えていない。
二十分くらい、木陰に隠れている砂場を掘っていると、結城が「なんか固いのに当たったぞ」と言い、しゃがみこんで、砂場に埋まっていたアルミ製の汚れた箱を取り出した。いかにもタイムカプセルらしい雰囲気を漂わせている。「やっと出てきたな。にしても、昔の俺たち、深く埋めすぎじゃないか?」
「だな。高校生の俺たちでもニ十分くらいだから、当時なら一時間は最低でもかかるだろ」
汗を拭いながら、結城はライムカプセルを耳元で振る。かんかん、と音が聞こえてきた。「明るいところで見ようぜ」
「だな」結城と一緒に、日に照らされている校庭に出た。
「見てみよう——」
結城はタイムカプセルを開けて、二つの封筒を取り出した。どちらにも名前が書いてある。白雪正、と書かれた封筒を結城は俺に渡してきた。
「俺の字、綺麗だなー。それに、幼稚園の頃から二字熟語が使えてる」自分の字を見て、美しい、と結城は見惚れていた。「今よりも綺麗かもしれない」
「そうだな。確実に昔の方が綺麗だ」
「そんなことは言わないでくれよ……まあ、開けるか」
そう言うと結城は、名前の下に、願望、と書かれた封筒を開けた。
「早く大人になれますように—— え、これだけ? タイムカプセルの意味、ぜんぜん理解してないな。七夕と混同してやがる。で、白雪の方は、なんて書かれてたんだ?」
「俺の方か」封筒を開けた。
「僕は今が、凄く楽しいです。これからも楽しんでね。パパもママも、優しいです」
「はは。お前の方が、未来の自分への手紙って感じがするよ」
結城は苦笑し、「あーあ。疲れたぁ」と、しっくりきていないような顔をしながら、校庭に仰向けで倒れた。「にしても、校庭が小さいな」
「それはそうだろ。あくまでもここは、幼稚園だ」手紙を折り畳み、俺は座った。「高校が——」
広すぎた、と言いかけたところで、口が止まった。連想ゲームのように、次々と二度と見たくない光景が浮かんでくる。
「……う」突然、嘔吐しそうになった。
——自分でもわかっている。
そろそろ、立ち直らなければいけないって。前を向かないといけないって。
でも俺は、どうやって生きればいいのかわからない。
赤染の命を背負っている。だから、安直な判断は、許されない——
「どうした、正」結城は起き上がった。俺の顔をじっと、見つめてくる。
「……なにもない」
「お前のその顔は、絶対になにか考えている顔だ。それも辛いことをな」
「……」
「吐け。俺は、お前の辛そうな顔、見たくないんだ……」
結城の心配している顔が目に映る。まるで、初めから俺が、こうなるのを予想していたかのように落ち着いていた。俺をじっと見つめる結城の眼差しは、優しさに包まれていた。
「…………俺は、どう生きたらいいんだ」
声に力が入らなかった。
搾りかすのように、俺の想いが口から出てくる。
「俺は、赤染に、なにをすればいいんだ…… 赤染の、ために……」
初めてだった。この言葉を口にしたのは。
考えれば考えるほど、出口が見えなくなって、でも、答えを見つけなければならなくて。
呪いのようだ。死ぬまでまとわりついてくる、呪縛のようだ。
「どうすれば、俺は赤染の分まで生きられる。どうすれば、赤染の死に価値が生まれてくる。わからないんだ。毎日毎日、二十四時間、考えても、考えても、答えが見つからない。俺には、赤染の命を、背負いきれない……」
負の感情が涙となって、頬を伝い落ちる。
黒く淀んだ感情が、口から溢れ出てくる。
「——そんなの簡単だ」
結城は強く、言い切った。
「お前らしく生きる。それが一番の、近道だ」
「……」
「お前らしく。やりたいことをやればいい。それしか方法は、ない」
結城も、辛そうな顔をしていた。
昔の自分を思い出し、苦しんでいるようにも見えた。
「それが、生きてる人が唯一できる、精一杯の、感謝だ——」
暗闇に、一筋の光が差し込む。
淀んだ感情が霧散してゆき、少しずつ、少しずつ、明るくなってゆく。
閉じ込められていた自分を、解放してくれたかのようだった——
再び寝転がると結城は、「綺麗だな、空は」と、言った。
「……そう、だな」
「はは。そんな、めそめそしてると泣くぞ、赤染が」結城に肩を叩かれた。
「……こんなに、辛いんだな」
人を思い、泣くのは初めてだ。
それほど俺は、赤染を大事に思っていたのだろう。
赤染の代わりになれるのなら、なりたいと、心の底から思っている——
「俺に、もっと力があれば……」
「お前は十分、頑張った。赤染も、嬉しかっただろうよ……」
泣いても泣いても、過ぎた時間は、戻ってこない。
赤染がいなくなった世界で、俺は、前に進むことしか許されなかった——
結城と別れて家に帰ると、母親がキッチンで料理をしていた。
「あ……正……」
母親は俺の顔を見て、きょとんとした。
突然、外から帰ってきた俺に驚いたのだろう。必要最低限のことでしか、俺は部屋から出てこなかったから。
「……母さん」
「どうした? 正」
母親は手を止めて、俺を見つめてくる。
その優しい目が、痛い。母さんに俺は、数えきれないほどの迷惑をかけてきた。なのに母さんは、何事もなかったかのように、温かい目で俺を見つめてくる。
「……ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい」
いったい俺は、何度泣けば気が済むのだろうか。
「いいのよ。そんなの気にしないで」
母親は笑うと、「夕ご飯、作るから待っててね」と言った。
一年半ぶりだろうか。
母親と夕食を取ったのは。
今日はいろいろな話をした。どうして母親は、俺をあの学校に入学させたのか、とか、俺が大切な人を失くしてしまったこととかを話した。さすがに軍の実験で大事な人が死んでしまった、とは言えなかった。信じないのが当たり前だ。もしも、事実をそのまま伝えたら、正の頭がおかしくなった、と母親が余計に混乱するだけだろう。代わりに赤染は、通り魔殺人にあっってしまった、ということにした。それでも、俺の気持ちは楽になった。
……そっか、と。
母親は納得したような顔になると、
「正はこれから、なにがしたい?」
と、微笑みながら訊いてきた。
「……なにをしたいのかを、探したい」
これが本音だ。
自分らしさが、俺にはわからない。
これを気づかせてくれたのが赤染だ。赤染と会わなかったら、俺は今でも、がむしゃらに勉強をしていただけだろう。
けれども、それは許されるのか。俺が生きたいように生きるのは、許されるのだろうか。
「でも——」
「大丈夫だよ」
母親は満足そうな顔をして、俺の言葉を遮ると、「お金は大丈夫だから、精一杯、学んできなさい」
「俺は大学受験に落ちた。母さんからすれば、負担が大きすぎる。だから——」
「大丈夫だよ。正」
「…………」
「迷惑をかけたらいけない、じゃないんだよ。人は一人じゃ生きてけないし、それが子供なら尚更。迷惑かけないで生きていくなんて、無理な話なの」
母親は、だからね、と言うと、
「感謝の気持ちを忘れちゃいけない。助け合うことが大切なんだから」
「母さん……」
「いいんだよ。いくらでも頼って。私は正の母親。正が楽しそうに生きてくれるだけで幸せなんだから。それだけで十分。全部の受験に落ちたとしても、正が島の学校で楽しんでくれたなら、私は満足だよ——」
「……ほんとうに、ありがとう」
「なにも有難いことなんて、してないわよ」
今日で何回、俺は泣いたのだろうか。
結城にも泣かされて、母さんにも泣かされて。
それでも俺は、嬉しかった。
これが幸せなんだと、そう思った。
カーテンを開けて、朝日が差し込んでくるなか、俺は部屋の掃除をした。部屋で飲み食いはしていなかったから、生ごみの臭いはしなかったが、それでもしばらく放置していると、部屋の臭いを吸った服が臭くなっていた。それに、これは食事をしている最中に母親から聞いた話なのだが、母親は夜中に俺の部屋に忍び込んでいたらしく、脱ぎっぱなしの服をバレないように回収していたらしい。勝手に部屋に入り込まれていた、と考えると怖気がするが、助かった、とも思っている。
部屋掃除を終えたあと、俺は外出する準備をした。
これから俺は、本屋でバイトをしようと思う。気になる本を読み漁り、日記も書いて、自分と向き合う努力をしていければいいな、と思ったからだ。
忘れものがないかを確認し、玄関に向かう。
「正」
靴を履き、外に出ようとしたら呼び止められた。
「どうした?」
「行ってらっしゃい——」
母親は微笑み、手を小さく振った。
前の俺なら、行ってらっしゃい、と言うためだけに呼び止めるな、と思っただろう。でも今の俺は、そう思わなかった。
「——行ってきます!」
玄関でのやり取りで、初めて笑顔になれたような気がした。肩の荷が下りたような、気持ちが楽になったような、そんな感じがしたからだろう。
家を出たあと俺は、郵便物を確認した。一人暮らしでの習慣は、帰省したとしても続くものだ。中身を確認してみると、小さな封筒らしきものに手が当たった。封筒をなかから取り出して確認してみると、『白雪正様へ』、と書かれていた。思い当たる節がない。
誰が送ってきたのだろうか、と考えながら、白色の封筒を開けてみると、白い紙に、丁寧な文字が縦に並んでいた。文章から目をずらし、差出人が書かれているであろう、左下に目線をずらす。こんな改まった形の手紙を、誰が俺に送ってきたのだろうか。
「……」
息を呑んだ。
思いもよらない相手が、差出人だったからだ。
「紅野が、どうして……」
見間違いだと思ったが、差出人は紅野だった。丁寧な字で、紅野理守、と書かれている。すぐに俺は名前から目を離し、文章を読んだ。書かれている内容を、小さく声に出しながら読み上げた。
……紅野は俺に、なにを伝えたいのだろうか。
この紙には、肝心な用件が書かれていなかった。記されていることは、紅野はレイクタウンのスターバックスで、ずっと待っている、だけだ。待ち合わせ場所に俺が来るまで、永遠に待っている、とも受け取れる内容だった。
信用できない。
拉致される可能性は十分にあり得る。
だが、そう思ってしまうのは、紅野の言動がそう思わせているのだけであって、確信にはならない。集合場所を人目の多い場所に指定する理由、それから、この手紙が俺の家に届いている、ということは、紅野はすでに、俺の個人情報を握っていると断言できる。紅野なら、母親がいない時間帯を狙って俺を誘拐する計画を平然とやるだろう。
ポケットからスマホを取り出して紅野の連絡先を探す。が、見当たらなかった。なくなっていた。俺が削除したわけではない。紅野の名前を思い出すだけでも嫌だったから、連絡先を消そうだなんて考えに至らなかった。
スマホの画面を閉じ、考え込む。
厄介なのだ。
レイクタウンに居座り続けられても。
恐らく紅野は、俺が困る場所をあえて指定してきたに違いない——
仕方なく俺は、人通りの多い道を選びながら、紅野のいるレイクタウンへと自転車をこいだ。
駐輪場に自転車を止め、店内へと足を踏み込む。
相変わらずここは賑やかだ。春休みが関係しているのか、年齢層に幅がある。友だちとクレープを食べながら買いものをしている人もいれば、エコバックを肩にぶら下げて、店内を歩き回っている人もいる。
直接待ち合わせ場所には行かず、俺は二階に行って、上から紅野がスタバにいるか否かを確認した。
信じたくはないが、残念ながら紅野は窓際の椅子に座っていた。店内をぼーっと眺めているだけで、なにも作業をしていなかった。今日は制服姿ではなく私服を着ている。ベージュのワンピース姿を見ると、やはり同じ学年にはとても見えない。今となれば、その理由もわかる。
速まる鼓動を落ち着かせるように深呼吸をし、俺は、紅野が待っているスタバに向かった。店内に入り、紅野に声を掛けようとしたとき、
「あ…… 白雪くん……」
と、紅野が俺に気が付き、体をこちらへ向けてきた。
「ありがとう…… わざわざ来てくれて」足音で消えてしまいそうな声だ。
「ここに居られ続けても困る」落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、「で、用件はなんだ?」と質問した。「お前からしたら、俺はもう用済みだろ」
「まだ終わってない——」
そう言って紅野は立ち上がると、「赤染さんのことを話したい」
「……あ?」腑抜けた声が出てきた。「どうして今更、赤染の話が——」
「お願いします……どうか、お願いします」
紅野は頭を深く下げた。その姿には、あの島にいたときの不気味な雰囲気がまったくなかった。
「無理を言っているのはわかります。でも、それでも、話だけでも聞いて——」
「やめろ」
「白雪くん、赤染さんに私は——」
「おい」
頭を下げ続けてお願いし続ける紅野を、俺は止めた。
「…………」
「周りの目が気になる」
「……そう、だね」
すみませんでした、と、俺は周りにいる人たちに軽く頭を下げた。
「話なら聞く。とりあえず、ここを出よう」俺は、紅野に背を向けて、歩き出した。後ろから、紅野がついてきている気配はあるが、直接、紅野の顔を見ていなくても、紅野は俯いているとわかる。俺は、紅野の伝えたいことを一通り聞いたあと、どうしたら早く帰れるかを、歩きながら考えていた。
声を大きくされても困るから、俺は人気のない池に来た。友だちと昔話でもするなら、喫茶店とかフードコートでもいいが、紅野が相手なら外がいいだろう。
「赤染の話ってなんだ。もう話すことなんてないだろ」
紅野を見ているだけで、俺の腸が煮えくり返りそうだ。なにもかも、紅野のせいで失ったと思うと、正気ではいられなくなってしまいそうだ。
紅野は申し訳なさそうな表情を浮かべると、「私は、白雪くんに、彼女と……」
——会って欲しい。
そう言ったのだった。
「……」
「会うのが嫌なら、断っても——」
「冗談でも辞めろよ、そんなことを言うの」
耐えられなかった。
今すぐにでも、紅野を殴りたかった——
俺は紅野に背を向け、歩き出す。これ以上、紅野と話していたら気が狂ってしまいそうだ。
「——待って!」
腕をぎゅっと、掴まれる。「まだ、終わってない……」
「なんだよ」
平静を装えているのは周りの目があるからだ。二人だけで話していたら、とっくに暴れ回っているだろう。けど紅野の顔は、冗談ではなく、本気で言っているように見えた。
「お願い……最後まで、聞いて欲しい……」
「……」
俺の手を紅野は放すと、
「……ありがとう」
と言い、
「私は、気が付いたんだ……揺るぎない感情こそが、理性を上回る解決策だって——」
それから紅野は話した。
卒業式の日。傷だらけになり、人の血を吸うことが唯一の助かる方法だったのにもかかわらず、赤染は軍人を食べなかったどころか、殺そうともしなかったことを。これは、人を想う気持ちが産んだ奇跡だ、と紅野は言った。
「許してとは言わない。でも、赤染さんと会って欲しい。これは、今の私にできる、最大限の感謝。どうか、受け取って欲しい……」
「要は赤染を、生き返らせたってことか」
「……そういうことになる」
申し訳なさそうにしている紅野の顔。
その顔が、俺のなかの糸を切った。
弱弱しい表情が、俺を一層、怒りに陥れてくる。
「——美談にするな!」
限界だった。
声を荒げずに、黙って紅野の話を聞いているのは。
申し訳なさそうな紅野の顔を見ていると、頭に血が上ってくる。
「お前は、赤染がどれだけ傷ついたのかを知っているのか? 自分が人を食べなければ生きていけないって気が付いた日から、赤染は学校に来なくなった。みんなに会いたくても、会ったら傷つけてしまうかもしれないからって、赤染は別れの言葉も言わずに、みんなの前から姿を消した。だからこそ、赤染は嬉しかったんだろうよ。みんなが好きだから、泣かずにはいられなかったんだろうよ。卒業式の日、赤染はみんなと顔を合わせただけで、泣いたんだ。これ以上の幸せはないって、そんな顔をしてたんだ。
そんな赤染を、お前は殺した。
自分の実験のためにお前は、赤染の命を、時間を、奪った。
赤染を蘇らせたからって、戻ってこないんだよ。赤染にとって、大切なものは……」
赤染を考えれば考えるほど、胸が締め付けられるような感じがした。
人の欲望で生まれてきた子だった、と考えるだけで、胸に穴ができそうだった——
「……ほんとうに、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
紅野は謝りながら、土下座をしようとしたとき、
「ああああ!」
と言いながら、右足を抱え、倒れてしまった。
痛すぎるせいか、脂汗が出ている。
「土下座なんてしなくていい。手を貸すから、立ち上がってくれ。人の目が気になる」
「…………」
歯を食いしばりながら紅野は、俺の手を取って立ち上がった。
「ごめんなさい……まだ、手術してなくて……」紅野は顔を歪ませた。「赤染さんに押された衝撃で、壊れちゃったみたい……でも、もう私は、付ける必要がないのか……」
ははは、と。
紅野は苦笑いしながら呟いた。
「……どうしたの白雪くん。私の足をずっと見てるけど」
「いや、なにも」
俺が、最新の義足を知らないだけかもしれないが、紅野のしている義足は、ふつうのとは違うような気がした。機械なのだ、足が。ロボットのような戦闘するための足に見える。学校では一般的な義足を付けていたが、どうして今は、違うのだろうか。
「そうだね……この話は、白雪くんにもしないといけないかな」
「なんの話だよ」
「どうして私が、義足なのかって話」
紅野は息を、ゆっくりと吐いた。
「実は私、日本生まれでも、育ちでもないんだ。毎日紛争が起きている、そんな国で生まれたんだ——」
そう言って紅野は、過去にあったことを、俺に話した。
「私のやったことは、絶対に許されることじゃない。頭を下げただけで、どうにかなるような問題ではない。たとえ、どれだけ悲惨な過去があったとしても、ね」
話し終えた紅野は、笑顔を作った。
ほんとうの気持ちを誤魔化すかのように、表情を緩ませたように見えた。
「……お前はこれから、どうするんだよ」
疑問だった。
紅野は紛争をなくすために人間兵器を開発してきたわけだが、本人曰く、それはもう止めることにしたそうだ。赤染の行動で、紛争を抑えるための十分な情報を得られたのと、自分の行動が間違えていたと気が付かされたから、らしい。となれば、これから紅野は、なにをするのだろうか。
やることがなくなった紅野は、どうやって生きていくのだろうか。
「公にするよ。私のしてきたことを」
「……紅野。言っている意味、わかってるのか?」
公にするとは、自分の罪を認めるも同然の行為で、確実に罰則が与えられるだろう。軽度な犯罪ならばまだしも、紅野のしてきたことは国際的にも問題になるような事件だ。もしかしたら、この事件が公にされるのを日本政府は恐れて、紅野の存在がなかったことにしよう、と働きかけるかもしれない。
「わかってる。でも、しなきゃいけない。二度と、私のような人が生まれてこないためにも」
「日本の評判を落としたくないからって、誰かがお前のことを殺しにくるかもしれない。それでも大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。人間兵器を造れるのは、私以外にも、あの島に務めていた軍人のなかでも一握りだけだし、人間兵器は人の争いを止めるかもしれないって、評判がいいんだよ。だから私は、信用されてる。あいつなら裏切らないだろうって、思われている」
紅野は当たり前のような顔をして、そう言った。
「…………」
俺は、なにも答えられなかった。
なんて答えればいいのか、わからなかった。
だから俺は、「おでこ出せ」と、命令口調で言った。
「……え」
「いいから、出せ」
「……わかった」紅野は前髪を退かし、おでこを出してきた。
紅野に勘づかれないよう、太ももの後ろで、デコピンの準備をする。
「白雪くんは、私のおでこを見て、なにがしたいの?」
「これでもくらえ」中指に溜め込んだ力を、紅野のおでこに放つ。
「いた……」反応は、以外にも薄かった。俺の力が無さ過ぎるせいだろう。
「これ以上、お前の話は聞きたくない」
「……」
「で、どこにいるんだ。赤染は」
「フードコートで、食事してると思うわ」
「赤染の食糧って、人の血じゃないのか?」
「今はもう違う。体を修理するのと一緒に、脳の部分もいじくったわ。でも大丈夫よ。記憶を司る部分は、なにも操作してないから」
ね、と。
紅野は微笑むと、「赤染さんなら、三階のフードコートにいるから。迎えに行ってあげな」
負の感情を抑え込みながら、笑顔で見送ろうとしているのが容易にわかった。これを、心が泣いている、とでも言うのだろうか——
「……後悔は、してないのか」
「ええ。もちろん…… でも——」
そう言って紅野は、目に涙を浮かべた。
「……羨ましいよ。君たちが」
「……」
「ほら。早く、行ってあげな。赤染さんが待ってるわ」
自分が救われなかったとしても、笑顔で送り出そうとする紅野に、俺は、
「…………ありがとな。俺を、救ってくれて」
そう感謝することしかできなかった。
「私には、これくらいしかできないから——」
スマホのズーム機能で、赤染の座っている位置を確認した。修理をされて、容姿が変わっているかと思ったが、まったく変わっていなくて安心した。周りの人に気を付けつつも、俺は、足音を立てないように赤染のもとへ近づいた。
息を潜め、赤染の真後ろにつく。
ステーキの焼ける音、香り、色、すべてが最高だ。
「——ん? 白雪くんの匂いがする」
ばっと。
赤染は後ろに振り返ると、「やっぱり、白雪くんだ!」
そう言って赤染は、椅子から立ち上がった。
「戦闘機能だけは、残ってるのか——」
「会いたかったよ!」
「よせ! ここで抱きついてくるな!」
腕ごとクラッチされているせいで抵抗ができない。
「嬉しいんだもん、しょうがない、じゃん……」
喜んだと思ったら、今度は泣き出してしまった。
赤染の鼻を啜る音が、俺の目を曇らせる。
「……ああ。俺も、嬉しいよ」
公共の場で、しかもフードコートで、泣くとは思わなかった。周りの人には迷惑かもしれない。
食事をしている傍らに泣いている人がいたら、美味しい食事も台無しになってしまう。けれど、俺は耐えきれなかった。
嬉しかったのだ。
赤染と、再会できたことが——
「こんなところで、なにをしているんだろうね、私たち」
赤染が、ぼそりと呟く。
「そっちから抱き着いてきたんだろうが」
俺は笑う。
「白雪くん」
「なんだ?」
「これって、カップルがすることだよね?」
「そうなのかもな」
赤染は、「ふふふ」、と笑い、腕の力を緩めて、俺の顔を覗き込むと、
「ねえ。白雪くん」
と、真面目な顔で、見つめてきた。
「ん?」
「——私と、付き合ってくれませんか?」
赤染の真剣な顔に、時間が止まったかのような感じがした。この止まった時間を、俺は、二度と忘れないだろう。
「もちろん。よろしくな。これからも、そして、ずっと——」
結ばれることが許されなかった運命。それに抗い、立ち向かい、俺たちは、二度と破られることはない絆で結ばれた。
この物語は、誰かが欠けたら紡がれなかっただろう。
両親がいなければ、俺は産まれてこなかった。結城友助がいなければ俺は立ち直れなかった。赤染愛夜がいなければ俺は今を生きることができなかった。そして、紅野理守がいなければ、赤染と会うこともなかったし、俺も紅野と同じように、絶対的な力を求めて生きていたかもしれない。そして、紅野と同じような運命を辿っていたかもしれない。
赤染は目を輝かせると、「うん! よろしくね、正!」と言った。
「な、人を急に、下の名前で呼ぶな」
「いいじゃーん、もう付き合ってるんだし」
「……名前の件はもういいから、俺から離れてくれ。周りの目がすごいことになってる。それに、腹が減った」
「お肉食べなよ! レアのお肉は美味しいよ?」
「愛夜が言うと、ブラックジョークに聞こえてくる」
俺らは笑い合った。
今までにあったこと、それから、未来の話をして盛り上がった。
そんな、桜の咲く季節に起きた奇跡は、まるで、季節外れの雪が彩った、雪の桜のようだった。