スマホの通知音がした。画面を開いて確認する。母親からだった。既読だけ付けておく。指では数えきれないほどの未読を放置し、俺はスマホの画面を閉じた。
『ご飯、一階に置いておくから食べなさいね!』
 と、母親から連絡がきていた。俺はベッドに包まった。動く気になれないのだ。空腹になり喉が渇いても動けない。
 麻酔銃を撃たれ、目を覚ましたら赤染は血を流して倒れていた。死んだとは信じられなくて、何度も何度も揺すったけれども、目を覚ますことはなく、体温が雪のように冷たかった。
 そこからはなにも覚えていない。
 泣いて泣いて泣いて、それでも足りないから泣き叫んで。それだけしか俺にはできなかった。気が付いたら俺は、軍人が操作しているヘリコプターに乗せられていて、最寄り駅まで車に乗せられたあと、自分の足で家に帰ってきた。
 帰省した日の一週間後くらいには大学の試験があった。部屋で受験の準備をしていたら母親に、無理しないでいい、と言われたが、受験料も払っていたし、母親には申し訳なかったから、俺は試験を受けに行った。結果は落ちた。第一志望も、第二志望も、第三志望も、どこにも受からなかった。自分の無力さに、情けなさに、おかしくなってしまいそうだった。
 どうして、俺だけが生き残ったのか。
 どうして、赤染だけが助からなかったのか。
 守ったからだろう。赤染は俺のことを。
 眠っている俺を、赤染は命懸けで守ってくれたのだ。自分が殺されそうだというのに、そんな状況でも赤染は、戦場で寝込んでいる俺に気遣ったのだ。
 今ならわかる気がする。
 紅野の言っていた言葉の意味が理解できる。
 ——愛は破滅しか生まない。
 愛は人を殺す、と。
 それは違うと、間違えていると、そう否定したくても、できない自分がいる。毎日毎日、他に助けられる方法はなかったのか、俺に力さえあれば赤染を助けられたのではないか、と自問自答を繰り返してしまう——
 ベッドの上で丸くなり、暗闇を眺め続けていると、外から声がした。
 宅配便です、と誰かが声を大きくして言っている。
 無気力のまま起き上がり、物が散らかったままの部屋を歩いて、俺は玄関のドアを開けた。
「——よう。白雪」
「……結、城」配達員ではなく、結城だった。
「いくら連絡しても出ないし、なにしてるのかと思ったら、へこたれてるだけかよ」呆れたかのように結城は言った。「お前の母親が俺に訊いてきたんだ。正が部屋からぜんぜん出てこないって。学校でなにがあったのって。お前が帰ってきた日は知らねえけど、どれだけ部屋に籠ってるんだ?」
「…………」口を開ける気にもなれなかった。
「お前の部屋に上がらせてもらうぞ」「ちょっと待て——」
 抵抗したが、呆気なく入られてしまった。力が入らない。
 お邪魔します、と言い、家に上がった結城のあとに俺は続く。止めようとしても結城は無視し、玄関から俺の部屋に直行した。
「汚い部屋だな。とてもお前の部屋だとは思えない。なんなら、俺の部屋の方が綺麗だ」結城は散らかった部屋でなにかを探し始めた。「外着はどこにある」
「外には行かない」
 結城はため息をつくと、「ちょっとは付き合ってくれよ。四月に入ったら会えなくなるんだからよ」がさごそと、床に広がっている荷物を掻き分ける。
「……受験、ぜんぶ落ちた」
「……」結城の動きが止まった。目を見開き、俺を見る。「そうか。だったら尚更だ」
「え」
「もういい。これでも着とけ」
 結城は俺に、床に広がっていた服を投げた。「俺から見たら、寝間着には見えない」
 逆らっても強引に着替えさせられるだろう。そう思い、俺は結城に渡された服を着た。白いパンツとシャツに、黒のカーディガン。いつもの外着だ。
 俺の着替えを見届けると結城は、「外に行くぞ」と言って、部屋を出て行ってしまった。
「どうして外に連れ出した」
「散歩したかっただけだ。理由は特にない」
「なら俺はいらないだろ」
「いるもいらないも、そんなの関係ない。俺はお前と散歩がしたい。それだけだ」公園にある自販機で買ったカルピスを結城は飲んだ。「なにか大事なことを思い出したんだけど……まあいいかって、あっ、思い出した」
「なにをだ」
「確か幼稚園のとき、お前がタイムカプセルを埋めよう、って言ったよな」
「俺がそんなこと言ったのか」まったく覚えていない。
「そうだ。あのときのお前は、誰よりも活発で目立ってたからな」
 口を開けて結城は笑うと、「でも、どこに埋めたんだっけ……」と考え込んだ。
「……幼稚園じゃないのか。結城は家に帰ると遊べないから園内に埋めようって」
「ああー、そうだった気がする。幼稚園と小学生の頃は、俺の方が優等生だったもんな!」結城は煽るような笑い方をした。「じゃあ幼稚園に行くか」
「本気言ってるのか。そもそも入れるのかよ」
「今は春休みだろうし、先生に理由を話せば大丈夫だろ」
 結城は立ち止まり、急に後ろへ方向転換すると、幼稚園がある方へと歩き出してしまった——
 幼稚園のなかを見てみると、水色のエプロンをした先生がいた。花に水をあげている。
「あ、佐々木先生!」結城が呼びかける。「お久しぶりです! 結城です!」
「——あ、え、友助くん?!」
佐々木先生は門を開けると「すっかり大きくなったね!」と、笑顔になった。「あれ? もしかして正くん? 当たっているかわからないけど……」
「はい、そうです。白雪正です」
「ええ! あの正くんが、すごく真面目そうになってる!」
 口を押さえてビックリしている。そんなに昔の俺は、不真面目だったのだろうか。
「なんか二人、逆転してるみたい。友助くんが元気そうでよかったよ。両親が厳し過ぎて、昔の友助くんは、ぜんぜん遊ぼうとしないし、ずっと本読んでたもんね」
「え、俺って、そんなに偉い子だったんですか?!」
「そうだよぉ。先生から見たら、遊ばない友助くんを、正くんが引きずり回してたイメージがあるなー。二人とも、成長したねぇ」佐々木先生はにっこりした。「もしあれなら、職員室に来る? 私以外、今は誰もいないし」
「はい、お邪魔します!」結城はお辞儀すると、佐々木先生に続いて園内に入った。

 先生がいろいろな昔話をしてくれた。
 昔の俺は、無邪気に外で走り回っているような子で、よくニワトリを脱走させてしまったり、滑り台を駆け上ったりしていたらしい。別人過ぎて、自分の話を聞いているのにもかかわらず、他人の話を聞いているかのようだった。対して結城は、教室で本ばかり読んでいるような静かな子で、先生が外に遊びに行こうと誘っても、勉強するから、と断り、みんなから距離を置いているような子だったと、佐々木先生はお茶を飲みながら話した。
 会話に区切りがつくと、結城は佐々木先生に、砂場を掘ってもいいですか? タイムカプセルが埋まっているんですよ、と言った。佐々木先生は弾けるように笑うと、もちろん、と言い、スコップがある場所を教えてくれた。
「懐かしいな。幼稚園の頃って。記憶にないけど」
「だな。意外な話ばかりだった」小学生の頃ならなんとなく覚えているが、幼稚園の頃はほとんどなにも覚えていない。
 二十分くらい、木陰に隠れている砂場を掘っていると、結城が「なんか固いのに当たったぞ」と言い、しゃがみこんで、砂場に埋まっていたアルミ製の汚れた箱を取り出した。いかにもタイムカプセルらしい雰囲気を漂わせている。「やっと出てきたな。にしても、昔の俺たち、深く埋めすぎじゃないか?」
「だな。高校生の俺たちでもニ十分くらいだから、当時なら一時間は最低でもかかるだろ」
 汗を拭いながら、結城はライムカプセルを耳元で振る。かんかん、と音が聞こえてきた。「明るいところで見ようぜ」
「だな」結城と一緒に、日に照らされている校庭に出た。
「見てみよう——」
 結城はタイムカプセルを開けて、二つの封筒を取り出した。どちらにも名前が書いてある。白雪正、と書かれた封筒を結城は俺に渡してきた。
「俺の字、綺麗だなー。それに、幼稚園の頃から二字熟語が使えてる」自分の字を見て、美しい、と結城は見惚れていた。「今よりも綺麗かもしれない」
「そうだな。確実に昔の方が綺麗だ」
「そんなことは言わないでくれよ……まあ、開けるか」
 そう言うと結城は、名前の下に、願望、と書かれた封筒を開けた。
「早く大人になれますように—— え、これだけ? タイムカプセルの意味、ぜんぜん理解してないな。七夕と混同してやがる。で、白雪の方は、なんて書かれてたんだ?」
「俺の方か」封筒を開けた。
「僕は今が、凄く楽しいです。これからも楽しんでね。パパもママも、優しいです」
「はは。お前の方が、未来の自分への手紙って感じがするよ」
 結城は苦笑し、「あーあ。疲れたぁ」と、しっくりきていないような顔をしながら、校庭に仰向けで倒れた。「にしても、校庭が小さいな」
「それはそうだろ。あくまでもここは、幼稚園だ」手紙を折り畳み、俺は座った。「高校が——」
 広すぎた、と言いかけたところで、口が止まった。連想ゲームのように、次々と二度と見たくない光景が浮かんでくる。
「……う」突然、嘔吐しそうになった。
 ——自分でもわかっている。
 そろそろ、立ち直らなければいけないって。前を向かないといけないって。
 でも俺は、どうやって生きればいいのかわからない。
 赤染の命を背負っている。だから、安直な判断は、許されない——
「どうした、正」結城は起き上がった。俺の顔をじっと、見つめてくる。
「……なにもない」
「お前のその顔は、絶対になにか考えている顔だ。それも辛いことをな」
「……」
「吐け。俺は、お前の辛そうな顔、見たくないんだ……」
 結城の心配している顔が目に映る。まるで、初めから俺が、こうなるのを予想していたかのように落ち着いていた。俺をじっと見つめる結城の眼差しは、優しさに包まれていた。
「…………俺は、どう生きたらいいんだ」
 声に力が入らなかった。
 搾りかすのように、俺の想いが口から出てくる。
「俺は、赤染に、なにをすればいいんだ…… 赤染の、ために……」
 初めてだった。この言葉を口にしたのは。
 考えれば考えるほど、出口が見えなくなって、でも、答えを見つけなければならなくて。
 呪いのようだ。死ぬまでまとわりついてくる、呪縛のようだ。
「どうすれば、俺は赤染の分まで生きられる。どうすれば、赤染の死に価値が生まれてくる。わからないんだ。毎日毎日、二十四時間、考えても、考えても、答えが見つからない。俺には、赤染の命を、背負いきれない……」
 負の感情が涙となって、頬を伝い落ちる。
 黒く淀んだ感情が、口から溢れ出てくる。
「——そんなの簡単だ」
 結城は強く、言い切った。
「お前らしく生きる。それが一番の、近道だ」
「……」
「お前らしく。やりたいことをやればいい。それしか方法は、ない」
 結城も、辛そうな顔をしていた。
 昔の自分を思い出し、苦しんでいるようにも見えた。
「それが、生きてる人が唯一できる、精一杯の、感謝だ——」
 暗闇に、一筋の光が差し込む。
 淀んだ感情が霧散してゆき、少しずつ、少しずつ、明るくなってゆく。
 閉じ込められていた自分を、解放してくれたかのようだった——
 再び寝転がると結城は、「綺麗だな、空は」と、言った。
「……そう、だな」
「はは。そんな、めそめそしてると泣くぞ、赤染が」結城に肩を叩かれた。
「……こんなに、辛いんだな」
 人を思い、泣くのは初めてだ。
 それほど俺は、赤染を大事に思っていたのだろう。
 赤染の代わりになれるのなら、なりたいと、心の底から思っている——
「俺に、もっと力があれば……」
「お前は十分、頑張った。赤染も、嬉しかっただろうよ……」
 泣いても泣いても、過ぎた時間は、戻ってこない。
 赤染がいなくなった世界で、俺は、前に進むことしか許されなかった——

 結城と別れて家に帰ると、母親がキッチンで料理をしていた。
「あ……正……」
 母親は俺の顔を見て、きょとんとした。
 突然、外から帰ってきた俺に驚いたのだろう。必要最低限のことでしか、俺は部屋から出てこなかったから。
「……母さん」
「どうした? 正」
 母親は手を止めて、俺を見つめてくる。
 その優しい目が、痛い。母さんに俺は、数えきれないほどの迷惑をかけてきた。なのに母さんは、何事もなかったかのように、温かい目で俺を見つめてくる。
「……ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい」
 いったい俺は、何度泣けば気が済むのだろうか。
「いいのよ。そんなの気にしないで」
 母親は笑うと、「夕ご飯、作るから待っててね」と言った。
 一年半ぶりだろうか。
 母親と夕食を取ったのは。
 今日はいろいろな話をした。どうして母親は、俺をあの学校に入学させたのか、とか、俺が大切な人を失くしてしまったこととかを話した。さすがに軍の実験で大事な人が死んでしまった、とは言えなかった。信じないのが当たり前だ。もしも、事実をそのまま伝えたら、正の頭がおかしくなった、と母親が余計に混乱するだけだろう。代わりに赤染は、通り魔殺人にあっってしまった、ということにした。それでも、俺の気持ちは楽になった。
 ……そっか、と。
 母親は納得したような顔になると、
「正はこれから、なにがしたい?」
 と、微笑みながら訊いてきた。
「……なにをしたいのかを、探したい」
 これが本音だ。
 自分らしさが、俺にはわからない。
 これを気づかせてくれたのが赤染だ。赤染と会わなかったら、俺は今でも、がむしゃらに勉強をしていただけだろう。
 けれども、それは許されるのか。俺が生きたいように生きるのは、許されるのだろうか。
「でも——」
「大丈夫だよ」
 母親は満足そうな顔をして、俺の言葉を遮ると、「お金は大丈夫だから、精一杯、学んできなさい」
「俺は大学受験に落ちた。母さんからすれば、負担が大きすぎる。だから——」
「大丈夫だよ。正」
「…………」
「迷惑をかけたらいけない、じゃないんだよ。人は一人じゃ生きてけないし、それが子供なら尚更。迷惑かけないで生きていくなんて、無理な話なの」
 母親は、だからね、と言うと、
「感謝の気持ちを忘れちゃいけない。助け合うことが大切なんだから」
「母さん……」
「いいんだよ。いくらでも頼って。私は正の母親。正が楽しそうに生きてくれるだけで幸せなんだから。それだけで十分。全部の受験に落ちたとしても、正が島の学校で楽しんでくれたなら、私は満足だよ——」
「……ほんとうに、ありがとう」
「なにも有難いことなんて、してないわよ」
 今日で何回、俺は泣いたのだろうか。
 結城にも泣かされて、母さんにも泣かされて。
 それでも俺は、嬉しかった。
 これが幸せなんだと、そう思った。