ときの流れは早いものだ。
 気が付いたら二学期の期末試験の最終日になっていた。今日が終われば一週間後くらいには家に帰り、正月を迎えたあとセンター試験が待っている。一学期に比べて二学期は一瞬だった。
「もうそろそろ、この島ともさよならだな」結城は帰り道の途中にある自販機でコーンポタージュを買って手を温めた。結城の吐いた息が白くなる。「どうだ? 星でも見に行くか?」
「ああ。そうだな」
「……あれ? やっぱり変わったな、お前」
「そうか?」
 大きくは変わっていないが、自分のなかで余裕ができたような気がする。勉強が完璧だから、ではない。俺は赤染に教わったのだ。
 未来に怯えて生きてはいけない、今を全力で生きるのだ、と。
 俺は父親のようにはなりたくない、勉強を必死にやらなければ父親のようになってしまうと、常に自分に言い聞かせて毎日を過ごしてきた。
 確かに、目の前にある過ちを繰り返さないように生きることは重要かもしれない。
 でも、それだけではダメなんだ。
 自分の歩む道を、歩みたい道を、選ぶことも大切なんだ。
 失敗しないように生きるのではない。
 一度きりしかない人生を、満足できるように生きるのだ——
「結城と星が見たいからな」
「俺と、か……」結城はにやにやすると「照れるなぁ」とふざけながら言った。
「どうだ? 今回の期末試験は。赤染を教えてきた経験は生かされたか」
「まあ、そうだな……」
 中間試験対策で赤染を教えたとき、自分の理解力の低さが身に染みてわかった。おかげで今回の試験は確実に百点を取れる科目が増えそうだ。けれど、前の試験に比べて虚無感があった。心に穴が開いたような、そんな感じだ。
「じゃあ今日の夜、一時に学校集合な」
「わかった」
「よし、じゃあまたあとで——」
 結城は、「凍え死ぬ」と震えながらコーンポタージュを顔に当てると、俺の家の前を通り過ぎて行った。

 徹夜する人の脳は、どんな構造をしているのだろうか。俺には絶対にできない。これから星を見るというのに、眠気が襲ってきている。今なら五秒以内に寝落ちできそうだ。
 ふらふらとする頭を必死に抑えながら、正門前で待っていると、「白雪!」と声が聞こえてきた。結城だろう。俺は閉じてしまいそうな目を強引に開け、呼びかけに応じた。
 正門前に結城は自転車を止めると「よう、お前眠そうだな」と言った。
「初めてだ、こんな時間まで起きてるの」
「白雪らしいな」結城は微笑み、正門に手を掛けると、泥棒みたいに登り始めた。「ほら、生徒会長さん、後についてきな」ニタニタとしている。
「そうか……」今更だが俺は気が付いてしまった。校則を破ろうとしていることに。正門を登って校内に侵入してはならないみたいな校則はなかったかもしれないが、登ってはいけないと直感でわかる。人としてのルールというのだろうか。
「まさかここまで来て登らないは、ないよな?」
「ちょっと待て」
 頭のなかで葛藤している。
 屋上で星を見たい自分、校則を破ってはいけないと訴える自分が論争中だ。
「外部の人じゃないんだから別にいいだろ」戸惑う俺を諭すように、結城は話す。「それに、一週間もしたら、この学校とはお別れするんだから。一回くらいはいいんじゃねえか?」
「……」
 迷った末に、俺は正門に手を掛けた。
「それでいい。白雪が正門を登っている写真を学校中にバラまこう」
「それだけは辞めてくれ」バレてしまったら生徒会長の座を引きずり降ろされる。
 手慣れているのか結城は、軽々と四メートル近くある正門を登り終えると、内側から鍵を開けた。「よし、これで登らずとも学校に入れる。無意味だったな。白雪」
「……そういうことか」
 騙された。
 結城はただ、俺が正門を登る姿を見たかっただけだった。
 正門登りを途中で辞め、俺は結城の自転車を校舎内に入れた。よくよく考えれば登る必要はないってわかったはずだ。自転車かごに結城の荷物が入っているのを確認しなかった俺がバカだった。これだから夜中まで起きているのが嫌いなのだ。
「ありがとな、自転車」結城は自転車かごに入っていた荷物を取り出すと背負った。
「おう」一秒後にはどうでもよくなっていた。頭が回らない。
 非常口から学校に入り、屋上に繋がる廊下へと歩いてゆく。明かり一つついていない廊下は不気味だ。消火栓設備だけが暗闇を赤く照らしている。
 階段を昇り、屋上の扉を開けた。古いせいか軋む音がした。
「どうだ、この景色」
 結城はビップ席にでも招待するかのように、俺を先に屋上へと行かせた。
「……すごい」
 宇宙を見ているようだ。
 月が出ていない夜空は、星の輝きで彩られている。
「この学校の生徒しか見られない絶景スポット。誰にも邪魔されないで見られるのは最高だろ?」
「結城が屋上に来る理由がわかった気がする」
 眼前に広がる夜空から目が離せない。スマホのホーム画面にしようと、写真を一枚撮ったが、まったく奇麗に映らなかった。
「スマホじゃ撮るの難しいぞ」結城はバッグを漁り、カメラを取り出した。「これで前に撮ったことがあるから送ってあげるよ」
「ありがとな!」誕生日プレゼントを貰ったかのような気分だ。
「お、おう。白雪がそんなに喜ぶなんて、見たことない」
「それは嬉しいよ」
 星空は奇麗だと知ってはいたが、スマホの画面で見るのと直接見るのとではやはり違うものだ。これだけで屋上に来た甲斐があったなと思う。
「白雪の驚く顔を見れたことだし、早速準備するか」結城はバッグから、キャンプ椅子の収納バッグを取り出した。「キャンプ椅子を立てて、その上から布団をかけるのさ」
 寒い寒い、と言いながら結城は椅子に座り、膝の上に布団を掛けた。「これぞミニチュアキャンプ」
「幸せそうだな」
「幸せだ。断言できる」結城はそう言い切ると、椅子の隣に置いてあるバッグから水筒とマグカップを取り出してマグカップに飲みものを注いだ。
「はい、味噌汁。具材は豆腐とワカメ」
「用意周到だな」結城と違って、俺は防寒着しか持ってこなかった。防寒着で全身を包むように座り、腹を冷やさないようにする。
「もちろん。ここで手抜かりはしない」日頃の疲れを吐き出すかのように、結城は深呼吸した。「やっぱ、この学校に来た意味があったな。こんなにも奇麗な風景が見れるなんて」
「わざわざこの夜空を見るために、結城はこの学校に来たのか」
「そんなわけないだろ」結城は可笑しそうに笑った。「親元を離れたくてこの学校に来た」
「厳しいからな。結城の親は」
「それも嫌なくらいにね。あれだけ真面目だと、人生を楽しんでるのかを問いたくなるね」愚痴っぽく言うと、結城は味噌汁をずるずると飲んだ。「なにが先を見て行動しろだ。今を見れないやつに未来なんて見れるわけがないだろ。……あ、悪い。夜なのに人の悪口なんて聞きたくないよな」
「いや、大丈夫だよ」
「ネガティブなことは極力言わないようにしてるんだけど」
「しょうがない。誰にでも言いたいときはある」味噌汁をちょっぴり飲む。鳥肌が立った。食事する環境がここまで味覚に影響を与えるとは知らなかった。
「白雪はどうしてこの学校を選んだ?」
「そうだな……」この質問をされると、母親を思い出す。「母親に入れって、言われたからだよ。家事の手伝いもするから、偏差値の高い学校に入学させてくれ、とも頼んだ。でも、断れなかった……」
 ほんとうなら都内の学校に行きたかった。いい学歴を持ちたかったからだ。母親にそのことを伝えたが、辞めてくれ、と頼まれたから諦めざるを得なかった。でも今は後悔していない。この学校に入学してよかったと、心の底から思っている。
 二人の間に沈黙が流れると、「はは、ははは」と突然、結城は笑い出した。
「なにが可笑しいんだよ」
「いや、だてよ」笑いを堪えると結城は、「俺と真逆な理由だけど原因は同じだからさ」
「どこか同じなんだよ」
「俺は親から逃げるために来た。お前は親に追い出されてここに来た。どっちも親に左右されてるなって考えると笑えてきて。お前はもっと真面目な理由かと思ったけど違ったな」再び結城は笑い出し、「それに、境遇も似てるよな」
「境遇が似てる?」
「そうだ」
 結城は昔を懐かしむような目になると、
「大切な人がいなくなったって意味でだ」
「……」
「俺はあいつの分も生きる。生きたいんだ。俺が選んだ道だからな」
 結城の声音が変わったから、顔を見てみると、いつもケラケラしている結城の顔が覚悟に満ちていた。空を眺め、どこか遠くを見ている結城は、今は亡き彼女を見ているかのようだった。
「……結城」
「ん? なんだ?」
 言おうか言わないか迷った末に俺は、
「……過去に戻りたいか」
 と、質問してしまった。
 後悔していないのか気になったのだ。
 他の子と付き合っていれば、今も楽しい時間を過ごせていただろうに——
「いいや」
 結城は強くそう言い、
「後悔なんてしてない。満足してるよ、俺は。確かに日葵(ひまり)は余命宣告されていた。長くは生きられないって。持っても二年だろうってな。でも、俺は日葵が好きだった。世界を広げてくれた日葵を、俺は大事にしたかった。日葵のおかげで俺は、人生って楽しいもんなんだって気が付かされたんだよ。逃げるのが人生じゃない。立ち向かうのが人生なんだってね」
「……」
「俺の両親は毎日毎日、勉強しないと将来困るのはお前だぞ、って言ってきた。確かにこの意見は正しい。役立つのは間違いないからな。でも、違うんだ。その考え方が。勉強はやらされるものではない。将来の自分のためにやるものではなく、今の自分のためにやるものなんだってね。勉強の目的の焦点を、今に当てるか、それとも先の見えない将来に当てるかは、似ているようで、まったく意味が違う。
 日葵は限られた時間を楽しむために必死に生きてた。暇さえあれば自問自答を繰り返して、自分にとっての幸せを考えていた。驚いたね、あの日記、『過去と今と未来の私』には」
 結城は思い出し笑いし、話しを続けた。
「今までの出来事が全部、書かれてるんだ。あのときはどう思ったか、このときはどう思ったか、てね。でもこの日記は、日常を細かく記すだけじゃ終わらなかった。
 未来を書いてるんだよ。今までの自分を分析して。それも、未来で起こるであろう感情までも細かく書いてあった。それで答え合わせするんだってさ、昔と今が、繋がっているかって。それで予想が外れたときは嬉しいんだってさ。新しい縁が生まれたって。
 度肝を抜かれたね。初めて見たときは。こんなに自分を見つめられるやつがいるんだなって。それで俺は、日葵を好きになったわけさ」
「インスタとか、ツイッターとかじゃなくて、手書きで日記を書いてるのか?」
「そうだ。全部手書き。文字でそのときの気持ちがわかるからって言ってたよ」
「……すごいな」日葵さんの生き方に、言葉が出てこなかった。
「見してもらったときは、なにかの連載小説かと思ったよ。それでそのとき、日葵は言ったんだよ。どうして人は、今を見つめ切れていないのに、将来のことばかり見るんだろうって。それも暗い未来ばかりで、明るい未来だけを見ようとしないってね」
「だからさっき、結城は親に不満を言ってたのか」
「はは、まあ、そういうことだ。俺の両親は不安で生きている。希望で生きてないからな。そこが気に食わないだけ」結城は足元にある水筒を取ると、湯気が立っている味噌汁をマグカップに注いだ。「そんなことを教えてくれた日葵の名前を、俺はこの世に残したいのさ」
「なんだ? それ」
「星の名前に日葵を刻み込む」
「……は?」意味がわからなかった。
「俺も最近、本を読んで知ったんだけどな。星の命名権について」
「もしかして新しい星を見つけて、それに日葵の名前を付けるのか?」
「そうだ。それが俺の希望だ」
 星の命名権? 彼女の名前を刻み込む? 希望? 
 不意の告白に俺は耐えきれず、「……ははは」と笑みがこぼれてしまった。
「なに笑ってるんだよ」
「いや、ちょっと……」まさか結城が、こんなにもロマンチックな人だとは思わなかった。
「バカ、冗談に決まってるだろ」
「冗談には聞こえなかったけどな」
「冗談だ! 冗談! できたらいいなって ——熱っ!」
 どうしたと思い見てみると、どうやら結城は味噌汁をこぼしてしまったようだ。いつもなら俺がからかわれる側なのに。結城の反応が面白かった。
「バカになんてしない。カッコいいと思うぞ」
「この流れからしてバカにしてるようにしか聞こえない」
 結城の話を聞いて、俺は同じ道を歩いているな、と思った。
 赤染は俺に、生きるとはなにかを教えてくれた。そして、結城も日葵さんに生きるとはなにかを教えてもらった。
 これでやっとわかった。結城が自由人になってしまった理由が。今はもう、マイナスのイメージを持っていない。学校の規則を破る部分は認められないが、今をしっかりと見つめている姿にはすごいな、と素直に思う。
「じゃあ、そろそろ家に帰るよ」俺は立ち上がり言った。丁度いい節目だろう。
「え? 屋上に泊まらないのか?」
「こんな寒いところに一晩いたら凍え死ぬだろ!」結城が持っている布団を強奪したくなる。指がかじかんで動きずらくなってきた。
「準備が甘かったな、白雪」
「俺は泊まり込みだなんて聞いてないぞ」
「悪かったな。いつも一人でここに来てるから。言い忘れた」
「体調崩すなよ」屋上の扉に向かいながら言う。
「はっ。お前は俺の母親か」結城は吐き捨てるように笑いながら言った。
 その言葉を聞き俺は、「ある意味、同じなのかもな」と言い、校舎に入った。

 いくらか温かい。
 ゼロ度に近いとちょっとした温度の差で温かく感じてくるものだ。
 暗闇に包まれた廊下を歩き、角を曲がる。手で壁を伝いながら歩かなければならない程の状況ではないが、ゆっくり歩かなければ、壁に衝突してしまうだろう。そんなことを考えながら歩いていると、教室の明かりが目に入った。しかもそこは、俺の教室だった。
 今日の掃除当番が消し忘れてしまったのだろうか——
 足早に教室へ向かい、ドアを開ける。
「……あ」
 体が動かなくなり、喉に言葉が詰まった。
 こんな出来事が起きるとは思っていなかったからだ。
「……白雪、くん」
 お互いに目が合い、ときが止まったかのような感覚が襲ってくる。
「……赤、染?」
 そう。赤染がいたのだ。
 転校したはずの赤染が、自分の席に座っていた。
 ……あり得ない。
 赤染が教室にいるはずがない。
 だって赤染は、転校したはずだろ——
 目を擦り、再び赤染の座っていた席を見た。
 が、そこにはもう、赤染はいなかった。幻覚でも見たかのように、一瞬で消えてしまった。そして俺の目には、戻されていない赤染の椅子、それから、開いた窓から入り込む風で揺れているカーテンが映っていた。
「……」
 やはり幻覚だった。
 赤染と会いたいという意志が作った、満たされることのない幻想だった。
 だって赤染は、既にこの島から出て行ったはずなのだから——

 教室の明かりを消し、階段を下りて、正門へと向かった。
 やはり夜の学校は怖い。存在しないはずの人が見えてしまうのだから。これはきっと、俺の睡眠不足が原因だろう。
 正門を開けようとしたとき、学校に向かって車が走ってきているのがわかった。暗闇を照らす光が目立つ。
 教員かもしれない。と思い至った俺は、近くにあった木陰に入り姿を隠した。夜中に学校へ忍び込んでいる、とバレてしまったら、俺の立場は確実に剥奪されてしまうだろう。
 校内に入る車の姿を見ていると、「……トラック?」と、思わず声を出してしまった。教員が学校に来るためにトラックを使うとは想像がつかない。それにこんな時間に、荷物の運搬だなんてあるはずがない。
 陰に身を潜めていると、トラックに続いてきた二台の車から人が出てきた。顔までは見えないが、どちらも軍服を着ている。二人の内、身長が二メートル近くありそうな軍人がトラックにノックすると、なかから銃を持った軍人が二十人くらい、それから手錠をかけられている囚人らしき人が五人出てきた。牢屋で碌な食事を摂っていなかったのか、食事をしっかりと取っているのかが疑わしくなるほどに痩せていた。
 車から出てきた偉そうな二人を先頭に、銃を装備した軍人と囚人たちが校庭に向かって歩き出す。これから軍事演習でもするのか。まだ夜中で、近隣の住民を起こしてしまうような訓練はやらないだろうから、結城は大丈夫だろう。
 目の前に誰もいなくなったあと、俺は木陰から出て、家へと帰った。
 それも、結城から電話がかかっていたことを知らずに——