凌牙さんが出ていってからほどなくして、僕もドーナツショップを後にした。
 そのまま迷うことなく、歩き慣れた道を突き進む。
 自分の目がどのように変わったのか確かめるには、あの場所が一番だと思った。
 
 まだまだ日照時間の短い三月。なるべく陽の落ちないうちに辿り着けるように、テンポよく足を動かすこと十分弱。
 いつもの河川敷に到着した。
 おおらかな芝生の感触を足元で味わいながら、右に、左に、ときどき体ごと後ろに向けて、周囲の人々を観察する。
 
 いつも通り目に映る「風景」から、いつもは見えなかった鮮やかな色合いがあふれ出ていた。

 あのおばあさんは、ぼーっと川を眺めるのが好き。
 あのお兄さんは、走るのが好き。
 あのおじさんは、サックスを吹くのが好き。
 あの家族連れは、シャボン玉を吹くのが好き。
 あの小学生集団は、石切が好き……。

 寛大な緑色の芝生を受け皿にして、たくさんの「好き」が空間をせめぎあっていた。

 左上の方から轟音がして、橋を見上げると、電車が勢いよく通っていた。
 その横を、たくさんの車が行き交う。
 あの電車や、車一台一台の中にいる人たちにも、きっとたくさんの「好き」があって、その気持ちはどれも、一人ひとりにとってかけがえのないもので。

 電車が通り過ぎるのを見届けながら川岸まで進み、いつもの階段に座って、スケッチブックを取り出した。
 水面を眺めるおばあさん、ランニング中のお兄さん、サックスを吹くおじさん……。 

 それぞれの「好き」をすくい取って、白紙の上に描き留めた。