「ありがとうございました」
僕は凌牙さんにスマホを返しながら軽く頭を下げた。
「姉ちゃんは、秀翔くんにすごく助けられたんだと思う。二人の間に何があったのか詳しくは聞いてないけど、あんまりあいつのこと悪く思わないでほしいな」
困ったやつだけどさ、と笑って付け加える凌牙さん。
「僕も」
凌牙さんのスマホを見つめながら、言葉を返す。
「遥奏さんのおかげで、道が拓けた気がします」
気づくのが遅すぎたのは否定できない。
それでも、遥奏との関わりが、胸の奥に閉じ込められていた強い想いを呼び覚ましてくれた。
「そっか、それならよかった」
凌牙さんが、ほとんど残っていないコーラを飲む。ずずずっと空気の通る音がした。
「あ、そうだ、もうひとつ」
そう言って、凌牙さんがカバンの中をがさごそと漁り始める。
「これもね、なんかわざとらしくオレの机に置かれててさ。秀翔くん宛で間違いないと思うから、渡しとくわ」
そう言って凌牙さんが、カバンから袋をひとつ取り出して、僕の手元に置いた。
青い不織布の袋。サイズは、新書を二冊横に並べた程度だ。細い金のカラータイで口が閉じられている。
カラータイに、七夕の短冊のような縦長の色紙がつるされていて、『チラシのお礼です!』と書いてあった。
そういえばそんな話もあったなと思いながら、差し出された袋を手に取ってみる。中には、薄くて硬い直方体状のものが入っているようだった。
「ありがとうございます」
包装を解かないまま、その「お礼」をカバンに入れた。カラカラっと細かい音を立てながら、それはスケッチブックの隣に収まった。
「ちなみに、姉ちゃんの連絡先渡すこともできるけど、要る?」
凌牙さんが、トレーをまとめながら尋ねてきた。
遥奏の連絡先。
「もちろん、あいつがオーケーって言ったらだけど」
LINEを交換すれば、いつでも遥奏にメッセージが送れる。電話だってかけられる。
会うことは叶わなくても、またあの声を聞いて以前のように笑い合えるかも。
想像すると、心臓が軽やかにスキップし始めた。
——けれども。
「いえ、大丈夫です」
今は、そうすべきではない。直感がそう告げていた。
「ただ、もしよかったら、凌牙さんのLINEをお借りして、遥奏さんに動画のお礼だけ言わせてもらえませんでしょうか。返信不要で、一回切りにしますので」
「いいよ。ただ、もし姉ちゃんから何か返ってきてLINEが続くようなら、もう二人でやってもらうからな」
どこか冗談っぽく、だけど有無を言わせない口調でそういう凌牙さん。
「もちろんです。ありがとうございます」
これ以上、凌牙さんに伝書鳩をさせるわけにはいかない。
それから僕は、凌牙さんのLINEを借りて、簡潔な文章を送った。傷つけてしまったことのお詫びと、動画を含め今までしてくれたことのお礼。最後に、「遥奏の気持ちは動画で伝わったので、返信は不要です」と添えて。
「ありがとうございました」
頭を下げながら、凌牙さんにスマホを返す。
「とりあえずオレの連絡先は渡しとくからさ、何かあったらメッセージちょうだい」
凌牙さんはそう言って、僕のLINEのアカウントを友達追加してくれた。
「それじゃ、オレはこれから予定あるから」
凌牙さんがスマホをポケットにしまい、帰る支度を始める。
「ごちそうさまでした」
そう言ってまた頭を下げた途端、大事なことを思い出した。
「あの、すみません、最後にひとつだけ」
「ん? どうした?」
凌牙さんに——遥奏ではなく凌牙さんに、どうしても言っておきたいことがある。
「僕も、『もふもふビート♪』好きなんです。ほのぼのしてて、癒されますよね」
かつて、駅で凌牙さんが遥奏にお金をたかりながら口にしていた漫画の名前を出す。
動物の音楽隊たちの日常を描く、まったりとした日常系漫画、『もふもふビート♪』。女子小・中学生を中心に大人気で、今年の一月からアニメも放送されている。
年末に書店で見かけた時、パステルカラーの表紙に描かれたかわいい動物たちの姿に惹かれて一巻を買ってから、休みの日に少しずつ読んでいる。
「……まじで!」
快活な凌牙さんの表情が、さらに明るくなった。
「男子で仲間見つけたの初めてだわ! あ、そうだ、今度映画やるよな! 一緒に観に行こうぜ!」
「はい、ぜひよろしくお願いします!」
「いやー、原作から入ったけど、アニメもいいよな! 声優の配役めっちゃイメージ通りだったわ!」
「あ、ごめんなさい、僕まだアニメは見られてなくて」
正直にそう告げると、凌牙さんは少しがっかりしたような声を出した。
「なんだよー! 好きってんなら、アニメもリアルタイムで追うもんだろー!」
まっとうな批判だ。
原作の既刊は全て揃え、アニメも放映された時点で鑑賞し、最新情報のチェックはかかさない……。
ファンとしての模範的な姿は、そういうものだろう。
けれども、
「いえ」
口から飛び出した主張は、自分でも驚くほど毅然としていた。
「僕が好きだって言ったら、好きなんです。アニメも、これから見ますし」
チョコファッションの甘い風味が残る舌を動かしながら、凌牙さんをまっすぐ見据える。
凌牙さんは、一瞬驚いた顔をした後、ニヤッと笑って言った。
「まーためんどくさいやつが、身近にひとり増えちまったな」
凌牙さんが出ていってからほどなくして、僕もドーナツショップを後にした。
そのまま迷うことなく、歩き慣れた道を突き進む。
自分の目がどのように変わったのか確かめるには、あの場所が一番だと思った。
まだまだ日照時間の短い三月。なるべく陽の落ちないうちに辿り着けるように、テンポよく足を動かすこと十分弱。
いつもの河川敷に到着した。
おおらかな芝生の感触を足元で味わいながら、右に、左に、ときどき体ごと後ろに向けて、周囲の人々を観察する。
いつも通り目に映る「風景」から、いつもは見えなかった鮮やかな色合いがあふれ出ていた。
あのおばあさんは、ぼーっと川を眺めるのが好き。
あのお兄さんは、走るのが好き。
あのおじさんは、サックスを吹くのが好き。
あの家族連れは、シャボン玉を吹くのが好き。
あの小学生集団は、石切が好き……。
寛大な緑色の芝生を受け皿にして、たくさんの「好き」が空間をせめぎあっていた。
左上の方から轟音がして、橋を見上げると、電車が勢いよく通っていた。
その横を、たくさんの車が行き交う。
あの電車や、車一台一台の中にいる人たちにも、きっとたくさんの「好き」があって、その気持ちはどれも、一人ひとりにとってかけがえのないもので。
電車が通り過ぎるのを見届けながら川岸まで進み、いつもの階段に座って、スケッチブックを取り出した。
水面を眺めるおばあさん、ランニング中のお兄さん、サックスを吹くおじさん……。
それぞれの「好き」をすくい取って、白紙の上に描き留めた。
頭上の空がすっかり群青色に染まった頃、色鉛筆を置いてスマホの時計を確認した。
やろうと思っていたことを実行に移す時刻が近づいていると気づき、スケッチブックを閉じる。
画材をしまおうとスクールバッグのファスナーを開けた途端、目に映った青い袋を見て、はっとした。
「そういえば」
ひとり呟きながらスクールバッグを開き、遥奏がくれた「お礼」を取り出す。
金色のカラータイを解き、中身を掴んで袋の外に出した。
……なるほどな。
僕の左手に握られたそれは、思わずため息が出るほどに腑に落ちるプレゼントだった。
「さてと」
金属製の冷たいそれに僕の体温を覚えさせながら、空いている右手でスマホを操作し、LINEを開いた。
最終下校時刻間際。ほとんどの部活動生がちょうど校舎を出る頃。
受話器のマークをタップしてスマホを耳に当てると、案の定、テニス部の友達は電話に出てくれた。
「もしもし」
「もしもし、水島くん、今大丈夫?」
「うん、どうしたんだい?」
「今日は、話を聞いてくれてありがとう。水島くんのおかげもあって、僕の中で整理がついたよ」
「そうか、それはよかった」
「でね、水島くんに協力してほしいことがひとつあるんだけど」
「具体的には?」
矢のような突風が、スマホで塞がれていない方の耳に入り込んできた。
全身が風船のように膨らむのを感じながら、僕は切り出した。
「僕が水島くんの協力をする」
三月二十三日、修了式前日。
もし部活に行っていればやっとウォーミングアップが終わった頃であろう時間に、僕はすでに家にいた。
今日、母さんは友達と外食の約束があり、帰りが遅いらしい。
昨日の夕食の残りのカレーを食べて入浴も済ませた僕は、何をするでもなくひたすらそのときを待った。
二十時を少し過ぎた頃、玄関が開く音がした。
父さんが帰ってきたのだ。
恐れとも高揚ともつかない感情に包まれたまま、僕は部屋の中で時間を過ごした。
やがて、父さんが入浴を済ませ、夕食を取り始めた気配。
僕はそのタイミングを見て、リビングに向かった。
「父さん」
「おお、秀翔、帰ってたのか。部活は……」
「話がある」
ただならぬ気配を察したのか、父さんの表情が真剣になった。
「まず、嘘をついて部活をサボっていてごめんなさい」
そう言って、僕は父さんに頭を下げた。
「これからは、父さんや母さんに嘘をつきません」
なんだかんだ、いい親なんだ。低学年の頃は勉強を見てくれたし、立派な部屋も与えてくれた。サッカーをさせようとしたり、部活に行くように促しているのも、父さんなりに僕のためを思ってくれてのことだろう。
味方でいてくれる人に嘘をついたのは、ほんとうにいけないことだったと思っている。
「それはもういい。今から頑張れば、二年生からは試合にも出られるだろう」
「待って、まだ続きがある」
声が細かく波打つのを感じる。
覚悟を決めて、決意を口の外に送り出した。
「僕、卓球を辞める」
「なんだと?」
父さんが目を開いた。
「父さんの言っていることもわかる。スポーツは健康にいいし、運動部の活動を通して学ぶことは、将来の役に立つんだと思う」
実際、半年ほど卓球部で活動しただけでも、目上の人との接し方とか、集団行動におけるマナーとか、いろんなことを学んだ。忍耐力も、ちょっとはマシになったかもしれない。
こういうのは全部、父さんに促されて運動部に入ったから得られたこと。きっと将来に活きるであろう大事な経験ができた。
「だけど——」
運動部で活動することだけが正解じゃないってことが、伝わってほしい。
「僕のやりたいことは卓球じゃなくて、ほかにあるから」
「ほかにやりたいこと?」
「ちょっと待ってて」
そう言って僕は一度部屋に戻り、生徒会室から持って帰ってきた一枚の紙をリビングに持ち出す。新聞紙を広げたほどの大きさのポスター。
それを父さんの前に掲げて、こう言った。
「このポスター、僕が作ったんだよ」
——凌牙さんに動画を見せてもらった日の夜。
『話が見えないな。篠崎くんが、僕の協力をする?』
混乱している様子の水島くんに、僕は話を続けた。
「水島くん、この前言ってたイベントのポスター、まだできてない?」
『ああ、できてないな。さすがに当日が迫っているから、もうなしにしようと思っているよ』
「それさ、僕に作らせてくれないかな?」
『え?』
「画材はなんでもいい?」
『そうだね……見えやすいものであれば、ある程度なんでもいいと思う。もともと担当だった先輩は、水彩絵の具を使うつもりだと言っていたな』
「それならぴったりだ。ぜひ僕にやらせてほしい」
『ありがとう。先輩方に聞いてみるけど、きっと喜んでくれると思う。ただ、それで篠崎くんにとってのメリットは……』
「ひとつだけ、僕から生徒会のみなさんにお願いがある。完成したポスターを、イベント前に一度僕に持ち帰らせてほしい。見せたい相手がいるんだ」
そうして、僕はその日から生徒会室にお邪魔してポスター作りを始めた。
行事のテーマは「主体性」。生徒の自治組織としての生徒会の性格を表現したいという水島くんの意見が多分に反映されたとのことだ。
水島くんの難しい話をなんとか僕なりに理解し、イメージをポスターの上に描き表していった。
作成を始めて一日目、鉛筆で下書きを終えた僕は、青いラッピング袋から取り出した「お礼」の中身を開いて、色塗りに取り掛かった。
※ ※ ※
水彩色鉛筆。
見た目は普通の色鉛筆でありながら、水で濡らすと水彩画のような表現ができる画材。
水彩絵の具に比べれば持ち運びが便利な分、屋外で使う画材としても人気が高いらしい。
金属製の薄いケースの中に、二十四色の水彩色鉛筆と水筆のセット。それが「お礼」の中身だった。
遥奏が僕への贈り物としてこれを選んだ理由は、考えるまでもなかった。
『ほかに興味のある画材もあるの?』
一月中旬、水族館に行った帰り、遥奏の質問に僕はこう答えた。
『強いていうなら、水彩絵の具かな。ただ、水を用意しないといけなかったり、いろいろ面倒だから、当面は色鉛筆でいいかなって思ってる』
僕自身の頭からはすっかり抜けていたその回答を、遥奏の方はちゃんと覚えてくれていたらしい。
僕は、遥奏がくれたその新しい画材を使って、水島くんや生徒会の人たちのイメージする世界観を、可能な限り白紙の上に表現した。
普段の色鉛筆とは描き心地が微妙に違って、慣れるまでは思ったよりも苦戦した。水と組み合わせて色合いを演出するのも初めは上手くいかなくて、別の紙に練習しながら慎重に進めた。
けれど、慣れてくると、普段使っている油性の色鉛筆では出せない繊細なニュアンスに魅了されて、どんどん描くのが楽しくなってきた。
完成したポスターを見た生徒会の人たちの喜びいっぱいの顔を目にした時、世界が自分のために存在しているかのような錯覚に包まれた。
『いつか、秀翔の描いた水彩画も見てみたいな』という君の願いを叶えることはできなかったけど。
君のおかげで、僕は少しずつ自信をつけているよ。
「僕は、絵を描くことが好きだ。美術に真剣に向き合って、自分がどこまでできるのか試してみたい」
豊富な人生経験で武装された父さんの脳内に少しでも響くように、声を張る。
自分が、こんなに力強い声を出せるなんて、知らなかった。
「だから、卓球部を辞めて美術部に入る」
川岸で何度も聴いたソプラノが、頭のてっぺんからつま先まで僕を支えてくれている。足がすくまないように、ちゃんと父さんの目を見て話せるように。
数秒間の沈黙。
父さんの瞳が、大きなポスターの上を散策している。
知らない土地をじっくり味わうような視線。
やっと、見てもらえた気がする。
「運動ができない男の子」以外の僕の側面を。
「俺には絵はわからんが、すごいんじゃないか」
異国の伝統料理を咀嚼するような表情を浮かべて、ゆっくりと言葉を紡ぐ父さん。
「落書きだなんて言って、すまなかったな。人によって、何が大事かは違うのにな」
リビングは、父さんに嘘がバレたあの夜のように静かだった。
「小さい頃から、よく絵を描いていることが多いとは薄々感じていたがな。子供ってそういうもんなのかとか考えたり。よくわからなかった。お前がそんなにしっかりとした気持ちを抱いていることを知らなかった」
ちゃんと説明すればよかったのかもしれない。
頭ごなしに叱られるだけだなんて、僕の思い違いだったのかもしれない。
「話はそれで終わりか?」
「うん」
「わかった。片桐先生にもきちんと挨拶するんだぞ。それと——」
そこで言葉を切った父さんの表情は、僕が物心ついて初めて見るほどに寛大だった。
「何か道具が必要なら、いつでも相談してきなさい」
「……うん、ありがとう」
父さんがテレビをつけると、ニュース番組で春の甲子園のハイライトが取り上げられていた。
ピッチャーの手元を飛び出した豪速球を黄金色のバットが正確に捕らえ、爽快な音が鳴り響く。
青空を切り裂いたボールが、流星のように観客席へ舞い降りた。