[長編]隣の席の袴田くん、死んで神になったらしい。

 ――少し、昔話をしよう
 中学に入学した頃の私は、クラスメイトともすぐ仲良くなれたし、部活動や委員会にも前向きだった。我ながら楽しい学校生活を送っていたと思う。
 しばらくして、クラス内でも必然的にできたあるグループが、先生に隠れて目立つのが苦手な女子生徒に無茶なことを押し付けるようになった。どうして彼女が狙われたのかは分からない。私はたまたま帰りがけに忘れ物に気づいて、取りに戻った教室で、蟻もしない罵詈雑言を浴びさせられている場に居合わせてしまったのだ。
 見るに堪えないほど傷ついたその姿に、私は怒りを抑えながらも生徒を教室から連れ出した。保健室なら来ないと思って休ませてもらい、何があったのか尋ねると、しゃくりをあげながら教えてくれた。

「邪魔だっていわれたの。私のことを放っておいていいから。じゃないとアイツらは、今度は井浦さんを標的にする、から……!」

 泣きじゃくって震えるその身体を、落ち着くまで擦ってあげることしかできなかった。
 その翌日、彼女は学校にこなかった。一週間も欠席が続けば、あの件がきっかけで不登校になったのは一目瞭然だった。
 クラスメイトは皆、彼女のことを忘れると同時に新しい暇つぶしを探し始める。
 そして彼らが次に狙いをつけたのが、私だった。
 ある日、私が「テストでカンニングしていた」、「人のものを盗んだ」などといったデマが流れた。
先生は私の話を聞く耳も持たず、クラスメイトとともに、何かあれば私に当たるようになった。水道のシンクに半分浸かった教科書、泥まみれになった運動着。まだ暴力が無かったことだけが唯一の救いだったかもしれない。
 何度嫌がらせを受けようと、懲りずに登校したのは、こんなことで屈してはいけないと思ったからだ。いくら「置物」だと言われようと、私にはそれだけが支えだった。

「――わ、私が通報したときには、すでに喧嘩は始まっていたんです!」

 アニメ好きの男子生徒改め、山中くんが絡まれていたときに動画を回していたのは、虚偽通報ではないことを証明するためであって、袴田くんの無実を証明することになるとは思っていなかった。
 彼が警察の厄介になっているのは噂で知っていたけど、まさかこんなところで疑われるとは思わなくて、気づいたら声を上げていた。私は学校が一緒でもクラスが別で、少し離れた教室だったから、彼らは私のことなど知らなかっただろう。
 だからこんなにも真っ直ぐな人が不良でいることに驚く半面、頼もしさも感じていた。夕日に照らされた金髪が眩しくて、本当にヒーローみたいな人だと思った。
 山中くんを高校生から袴田くんが救った、翌日のことだった。
 登校すると、私の机を囲うようにしてニタニタと笑っている彼らがいた。そこには様々な罵倒が机に書かれているだけでなく、ペットボトルに強引に挿しこまれた一輪の菊の花が置かれている。

「おー来た来た。置物。お前の特等席を作っておいてやったぞ」

 強引に机の前に連れていかれると、見たくもない真っ黒な机の文字が嫌でも入ってきた。周りはゲラゲラと笑っている。
 屈辱的だった。限界だった。
 ――ああ、でも最後くらい、何を言ったっていいよね。
 私は落書きされた机を彼らに向けて蹴り飛ばすと、言いたいことを感情まかせに撒き散らす。誰もが顔を青くして、恐れるような強張った表情を浮かべる。滑稽だった。
 名残惜しかったけど、私は足早に学校を出る。このまま家に帰ったところで両親になんて説明しよう。
 校門を出たところで運悪く雨が降ってきて、髪も制服も濡れたまま、人気の少ない公園で時間を潰していた。時間なんて気にしなかった。何も考えたくなくて、その場にずっと居たら、一向に帰って来ないことを心配した母から「学校から早退したって連絡あったけど、今どこにいるの!?」と電話がかかってきた。私は謝ることしかできなくて、公園にいることを伝えると気が抜けたのか、気を失った。
 病院に連れていかれた結果、濡れたままの状態で外を出歩いたうえ、日頃のストレスが原因で風邪を引き起こしたらしい。
 両親には学校であったことを話した。父は怒りで震え、母は代わりに泣いてくれた。私は何も感じなくて、ただ火照って怠い身体がどうしようもなく重くて眠ってしまいたかった。
 学校を休んで三日目の夜、家に教頭先生と担任の先生がやってきた。両親に止められて同席はできなかったが、気になって廊下で聞き耳を立てていた。
 内容は学校でいじめがあったこと、主犯格の生徒を三ヶ月の謹慎処分にしたこと。そして、隣にいる担任はわかっていながらも見て見ぬふりをしていたことを説明すると、今日来た一番の理由である私の今後についてある提案をした。

「いやぁ、大変申し訳ございませんが、娘さんがこのまま学校に来られるとは思いません。宜しければ転校、といった形をとっていただけませんでしょうか」

 教頭先生はそう言って、近隣の中学校の資料とともに札束が入った封筒をテーブルの上に並べた。
 父は封筒を叩きつけ、今にも殴りかかりそうな剣幕で怒鳴りつけた。それでも教頭先生はフローリングに額をこすりつけて懇願する。次期校長と噂されていた教頭先生にとって、私は邪魔者でしかなかったのだ。
 聞いていられなかった私は、止められていたにも関わらずリビングに入っていき、教頭先生に言った。

「……転校します。だから、もう――」

 汚いからやめてください。

 私の記憶はそこで途切れている。後から聞いた話だと、その場に崩れるようにして倒れ、救急車を呼ぶほどの騒ぎになったらしい。
 体調が安定する間、父の実家がある隣の県の中学への転入手続きを済ませてもらい、引っ越しもして新しい生活を始めた。あの光景を毎晩思い出したこともあったけど、一つの区切りとして考えて何度も飲み込んできた。

 新しい生活にも慣れ、無事進級した頃。私が転校せざる得なくなった中学でのいじめ騒動がニュース番組に取り上げられていた。一見、あの騒動は学校側が主犯格と担任に鉄槌を下したとして、すでに終結したことになっているが、その後もクラス内でいじめは続いていたらしく、ある生徒からの通報で警察が介入した。これごとの大事になるのだから、負傷した生徒が出たのだろう。誰が被害に遭ったのかはわからない。
 今度こそ主犯格の生徒は退学処分になったが、結局は三ヶ月間の謹慎という、生温い処分がもたらした最悪の結果だ。
 さらに、このことが公になる直前に「君がいることでイメージが損なわれるから出て行ってくれ」と教頭先生が被害者の生徒を説得したことが公になると、中学校には取材に訪れた記者たちに囲まれる映像も流れていた。「こんなことになるなら、最初から改心なんて期待しなければよかった!」と、ぐしゃぐしゃの顔で弁明している教頭先生が画面いっぱいに埋め尽くされると、私はテレビを消した。
 「後悔先に立たず」と綺麗な言葉で締めくくるには、見苦しい会見だったのを今でも覚えている。
 人の意地汚さを思い知った気がして、いつかこうなる自分がいるんじゃないかと思うと怖かった。
 だからなるべく人と関わらないように避けてきた。自分が嫌な思いをしないように、自己防衛のつもりだった。
 決して忘れていた記憶じゃない。忘れたくても忘れられなくて、話せなかった、黒い記憶だ。
    ***

「――井浦さん? 大丈夫?」

 山中くんの呼びかけで引き戻される。外は鈴虫が鳴いているのが聴こえてくるほど、辺りは薄暗くなっていた。放課後にお邪魔したとはいえ、さすがに長く居すぎてしまった。

「顔色悪いよ。もしかして俺、不味いこと言った?」
「……ううん。大丈夫」

 振り払うようにして冷めきったお茶を流し込む。後からくる渋みが喉を通ると、多少なりとも落ち着きを取り戻せた気がした。そのまま頭の中で散らかった情報を整理する。
 まず、先程の袴田くんが女子生徒の安否が気になって成仏できない説は取り消そう。
 彼が後悔するほど思っていたのであれば、その女子生徒が私であることは、隣の席になった時点ですぐに分かったはずだ。今まで挨拶程度しかしていないことを考えると、分かったうえで避けていたかもしれない。岸谷くんのファンに呼び出される前に私に忠告し、教室に入るのを引き留めたのは、中学の時に私のクラスで起こった光景を目の当たりにしていたからだろう。
 ――とすると、新たな疑問が浮上する。
 私が転校しあの騒動を知っているのは、私が転校する前にいたクラスメイトと教師だけで、テレビで報道されたのはその後に起こったものが大々的に取り上げられたものだ。だから私が被害者である事は世間に知られていない。それなのに、まったく関わりのない吉川さんが、あの時と同じように机へ誹謗することを書き、菊の花を添えた光景を再現した。私にとってトラウマ同然だが、あの場に居なかった彼女が作れるはずがない。彼女はどこでその情報を知ったのか?

「オーバーヒートしてんね、井浦チャン」

 考え込んでいるところに、新しいお茶が入った湯呑を差し出された。自分が何かしたのではと慌てる山中くんの隣で、近江先輩はいたって冷静だった。

「俺も今の話を聞くまで知らなかった。まさかこんなところで繋がってるなんて、世の中は狭いな」
「そ、そそ、それは俺だってびっくりだよ!」
「大晴、井浦チャンが転校した後の騒動についてもっと教えろ。確かニュースにもなってたよな?」
「ああ、うん。ニュースだと嫌がらせによって怪我をした生徒がいたって話だったけど、実は最初に目をつけられた女子生徒が証言したらしいんだ。俺も会ったことはないんだけど、当時は不登校でずっと引きこもっているみたい」
「女子生徒……?」
「井浦さんと同じクラスにいた子だって聞いてる。覚えてたりする?」
「……うん」

 忘れるわけがない。怯え、泣きじゃくっている姿が今でも思い出せる。入学してすぐに不登校になったから、顔も名前も曖昧だけど、私には彼女しか思い浮かばなかった。

「でもね、彼女が証言してくれたのは、袴田がきっかけなんだ」
「玲仁が? なんでまた……」
「袴田が動いたのは井浦さんが転校していってすぐのこと。『同じ思いをする奴がこれ以上増えないように』って、その子と直接会って協力してもらったんだって。クラスと先生が結託してるのは目に見えていたから、警察に持って行ったらしい。最初はまともに取り合って貰えなかったけど、頭下げて、女子生徒が精神科に受診したときの診断書を見て話を聞いてもらった。現在進行形で行われていた嫌がらせも、酷くなる前に袴田が止めたんだ」
「……つーことは、表向きには知られてないけど、結果的に玲仁が解決したようなモンか」
「結局はそうなるのかな。主犯格で退学になった田中って奴、相当悪い人と繋がってたみたいで、袴田と鉢合わせすると必ず喧嘩してたみたいなんだ。だから中学は喧嘩三昧だったと思う。アイツ、いつも一人でいたから狙われやすくて……」
「それで大晴、お前はどこからその話を聞いたんだ?」
「袴田本人から聞き出しだ。これ以上関わるとまた怪我するからって、その日以来話す事はなくなったけど……今思えば、俺に話してくれたのは井浦さんに伝えるためだったのかな」
 山中くんの話を聞けば聞くほど、見えない何かに押しつぶされていく。
 彼が無意味な喧嘩をしていたのも、疑われるのがわかっていていじめの証拠を警察に持って行ったのも、多くの人から反感を買われてしまったのも、全部私が原因だった。
 
 私が関わらなければ、彼は今もここにいたかもしれない。
 喧嘩なんてしなくても、髪色が金髪でも、仲間思いで心配性な彼なら、いろんな人から愛されていたかもしれない。
 それこそ、吉川さんの猛烈なアップローチにも上手く対応できたかもしれない。
 あの事故で死ななかったかもしれない。
 復讐なんて、ふざけたことを考えなかったかもしれない。
 考えれば考えるほど、自分の心臓が沈んでいくような気分だった。
 私が彼を助ける? なんてふざけた綺麗事だろう!
 すると突然、ちゃぶ台越しから近江先輩が腕を伸ばして私の肩を掴んだ。

「責めるな。戻ってこい」
「近江、先輩……」
「もっと他に方法があったはずなのに、強行手段に出た玲仁も、玲仁を悪者にする環境を作った周りの奴らも皆悪い。だから自分だけを責めるな。今お前がここにいるのは、玲仁が体張って守った結果だ。だからお前が、守ってもらった自分を捨てるようなことを考えてたら、アイツが傷ついた意味がねぇ」
「……自分を、捨てる?」
「今、自分が関わったから玲仁が不運な目に遭ったとか思ってるだろ。お前が関わらなかったら、例え死ななかったとしても、きっと今も人を殴ってた。殴って安心感を求めるだけの化け物になってたんだよ! それをお前が止めたんだ。お前が味方になってくれたから、アイツは弱いことを恥じなかったんだよ。……頼むからさぁ」

 ――ずっとアイツの味方でいてやってよ。

 近江先輩の声が震えていた。肩を掴む手に力が籠っている。隣で黙っていた山中くんも、唇を噛みしめていた。
 悔しくないわけがない。
 助けたいと思った人が、助けてもらった恩がある人が呆気なく去ってしまうこの世界で、死を悔やまないわけがない。それこそ二人にとって袴田くんは、誰よりも救われてほしいと願った人だったのだから。
 私は何も言えなくて視線を落とすと、台の下で震えていた手を見る。手のひらに爪が食い込んで出血していた。複数の赤い弧を描いたそれは、感覚がわからないほど痺れていた。
 おんど食堂を出たのは、すでに夜の八時を越えた頃だった。山中くんは新作アニメの放送があるからと言って猛ダッシュで帰っていった。先程のシリアスな空気は幻だったのか、呆れていると近江先輩が「まぁ、いつものことだから」と鼻をすすりながら通常モードに戻っていた。
 街路灯が夜道を照らす中、私は近江先輩の一歩後ろを歩いた。飄々と歩く先輩の背中は猫のように丸まっている。

「ごめんな。最後の方で取り乱したりして」
「い、いえ、気にしないでください」
「でもまさか、玲仁の助けられなかった相手が井浦チャンだったとは。気づかなかった?」
「気づくわけないじゃないですか」

 袴田くんがあの教室の光景を見て助けられなかったと後悔していたなんて、あの後一度も学校に行かずに転校した私が知るわけがない。それに北峰に入学していたのを知ったのは、二年に進級して同じクラスになってからだ。

「内容が暗いだけに話しかけづらかったと思います。……私も、人見知りを装って話しかけませんでした。生前の彼とまともに話したのは、多分山中くんが絡まれた後に少しだけだったんで」

 何を話したかはほとんど覚えていない。あの時はただ状況を説明するだけで精一杯だったから、たいした会話はしていないはずだ。

「あ、でも近江先輩と似たようなこと言ってました」
「似たようなこと?」
「はい。『自分を持ってんなら負けんなよ』って。あの時が初対面だったのに、背中を押されるような感覚でした」

 話しているうちに袴田くんは鼻で笑い、呆れた顔をしていた気がする。それでも口調は心なしか優しかった。私がそう言うと、先を歩く近江先輩は立ち止って顔だけをこちらに向けた。

「押したんだろ」
「え……?」
「頭が固い真面目な子ほど自分をしっかり持ってる。でも軸がズレたら流されちまうからさ。玲仁は止めに入ろうとしてたかもしれないけど、井浦チャンを見て留まったと思うんだ。自分で解決できる、周りに流されないって。だから多少なりの勇気とエールを渡せたら、って意味だったんじゃね?」
「…………」
「ま、俺は人から玲仁の過去を聞いて知ったんだ。中学と高校は別モンだから、同一人物でも思考は変わる。アイツがどんな信念を持ってたか知らねぇが、少なくとも腕っぷしが強いだけじゃないからな」
「……先輩は、どうしてそこまで袴田くんを気にかけていたんですか?」

 いささか癪に障る質問だったかもしれない。それでも近江先輩は「愚問だな」と口元を緩ませた。

「俺が助けたいって思ったこと以外に、理由もクソもねぇよ」
 駅に着いて、近江先輩とは改札口で別れた。ホームに行けば、帰宅するサラリーマンたちが電車を待っている。来る途中に見かけた電子掲示板には次の電車は五分もしないうちにくるらしい。
 乗車口の前に立って待っている間、スマホを確認すると一時間前に母から『お父さんが迎えに行ってくれるって。連絡してあげて』とメッセージが届いていた。了解と吹き出しが入ったスタンプで返信するとすぐに既読がついた。いつ返信がくるか待ち構えていたらしい。
 中学の件以来、両親は私に過保護になった。転校した後も、大雨に打たれながら帰宅した際、ふやけた教科書が鞄からでてきたのを見て「新天地でも酷いことをされたのではないか」と過剰に反応してしまったのだ。高校生になって門限こそ無くなったが、学校での出来事は事細かに聞いてくることがある。そのせいか、ありがたいことに親との関係は良好だ。

『ふーん。井浦ってスタンプとか使うんだ?』

 聞き慣れた声が耳元で聞こえた。顔を向けると、さも当然のように袴田くんが私のスマホを覗き込むようにして立っていた。

『よう、井浦。こんなに遅いの珍しいな』
「……なんで」
『散歩? ほら、夜の方が活発に動けるからさ』

 幽霊の特権だろ? とニヤリと口元を緩めた。やはり周りの人には彼の姿は見えていないらしい。

「夏祭りが終わった後、どこ行ってたの?」
『どこって……学校にはいたぞ。いろんなクラス見て回ってた。あんなこと言った手前、普通に教室にいたらお前が困るだろ』
「そうだけど……」
『そうだけどって、動揺しすぎじゃね?』

 動揺するに決まってる。ついさっきまで私は近江先輩と山中くんと会っていたのだ。このタイミングで、学校の外で袴田くんと会うなんて思ってもいなかった。

『それで、どこまで聞いたわけ?』

 小さな笑みを浮かべて私に問う。最初から全部知っていて様子を伺っていたのかもしれない。

「悪趣味」
『勘違いすんなよ。お前が岸谷と話してるのを聞いただけだ。放課後にお前がどこに行ってたかは知らねぇ。その様子だと、俺の過去のこと調べて終わったんだろ?』
「やっぱり尾行してたんでしょ?」
『図星かよ。時間かかりそうだな』
「……近江先輩、いい人だね」
『自由人だっただろ。高校卒業してから二回会ったきりだけど、前よりかは落ち着いた気がする。おんど食堂には行ったか?』
「うん。岸谷くんから食事券もらって食べてきた。美味しかったし、雰囲気も温かいお店だね」
『俺もよく行ってたなー。先輩の顔パスで食事券なしで定食食わせてもらってたっけ。岸谷からもらったってことは、野菜炒め定食だな。アイツいつもそればっかり頼むから、もう固定なんだよ』
「自分の家で出した野菜を、食堂でも食べてるってこと?」
『そういうこった。先輩の顔パスが使えるようになったら、肉団子定食頼んでみろよ。めっちゃ美味いから』
「肉団子……なんか珍しいね。でも食事券は使っちゃったし……」
『先輩ならまたくれるって。あー久々に食いてぇ』
  電車が来るまでの数分間、久々に袴田くんと話をしているのが不思議な気分だった。学校で話しているのと同じテンポで、いつも通りの受け答えをしているはずのに調子が狂う。ここが駅のホームだからなのか、もうすぐ電車が来るから焦っているからなのか。近江先輩の話から入ったせいか、心なしか嬉しそうに話してくれる。
 それを見るたびに、やはり彼との時間は嫌いじゃないと思う。厄介事に巻き込まれることもあるけど、何気ない会話だけでも楽でいられる。
 すると、袴田くんは左耳に付けている黒の二連ピアスに触れた。

『このピアス、先輩がくれたんだ。あんなに穴空けてんのに、今じゃ一個もつけてないだろ?』
「あ……確かに、てっきり食堂だったからだと思ってたけど……」
『後輩に自分のピアスをあげていたら手持ちが無くなったって、最後に会ったときに言ってた。もう穴も塞がってるんだろうな』

 くはは、と特徴的な笑いをすると、自慢げに耳につけたピアスを私に見せびらかしてくる。
 誰の目にも入るようにと染めた金髪、先輩がくれた黒の二連ピアス。この二つさえ揃えば、誰だって袴田玲仁だと想像するほど、彼の存在は、亡くなった今でも大きい。

「ねぇ、どうして金髪にしたの?」

 明るくしたいだけであれば、茶色でも赤でも、はたまた銀髪でも良かったはずだ。その中でも特に目立つ金髪にしたのかが気になっていた。根元が黒いところもあまり見かけなかったところからして、日頃からかなり丁寧なケアをしていたはずだ。

『別に、美容師のにーちゃんが出してきたカラー表で一番目立ってたのが金髪だっただけ。でもまぁ……しいて言えば、近所のおっちゃん達がすぐ俺だって気づくようにしたかったってところだな。住んでた土地柄、よく手伝いに呼ばれたんだ。意外か?』
「全く」
『だよな。全然動じてねぇもん。どうせ近江先輩がベラベラ喋ったんだろ。中学の時のこととか』

 袴田くんはそう言って私から目線を逸らした。そろそろ電車が入ってくると、駅構内のアナウンスが流れ、ヘッドライトが線路をちらつかせた。

『俺さ、北峰の生徒で良かったよ。喧嘩ばかりしてたけど、クラス思いの担任とクラスメイト。自由すぎる先輩と喧嘩しかできない奴ら。無意味に殴ってたあの頃よりずっと居心地が良かった。学校だけが俺の居場所だった。……それに、井浦とまた会えた』
「え?」
『上手くいかなかったのが癪だが、最初からこうすれば良かった』
「それってどういう――」
『あーあ。お前にもっと時間あげたかったんだけど、ちょっと限界だわ』

 私の言葉を遮って袴田くんは空に手をかざす。途端に手が透けて、向こう側が見えてしまう。
 それを見てハッとした。なぜ私はずっと、この先も彼が隣にいるのだと錯覚していたんだろう。
 幽霊とは言い難く、異質な存在でいる袴田くん自身に変化が起きないわけがないのに!

「袴田く――」
『俺が死んだのは文化祭が終わった後だったけど、今年は文化祭の初日なんだよな』

 ニヤリと笑みを浮かべた袴田くんは、横目で私を見て言う。

『あと一週間。それまでに俺を止めないと死ぬぞ』

 袴田くんの姿をかき消すように、ホームに入ってきた先頭車両が前を颯爽と通り過ぎる。わずか数秒で見せた彼の笑みは悲しそうで、時間がないことを物語っていた。

 第四章 君の面影      〈了〉
「袴田玲仁って誰だっけ?」
 クラスメイトの一人が悪気なくそう言った。
 普段と変わらない朝を迎え、何事もなく授業を受けてようやく今週末に迫った文化祭の準備に取り掛かる最中、私だけが違和感を覚えた。教室のカーテンの色が変わったわけでも、クラスメイトの誰かがイメチェンをしたわけでもない。今までと何も変わらないこの光景に、いつからこの違和感が存在していたのだろう。
 壁に掲示する授業の課題をまとめた模造紙も決まって、位置の確認と装飾の作成を同時進行で進めていると、クラスメイトの一人が広げた模造紙を見て口にした時、予感が的中した。二年生の頃から残っていた模造紙には、作成した班のメンバーの名前が書かれている。その中には勿論、袴田くんの名前もあった。

「そんな名前の奴っていたっけ? 別のクラス?」
「なに言ってんだよ。昨年まで一緒だっただろ。……あれ、どんな奴だっけ?」

 それがきっかけで、教室内が気まずい空気に包まれた。クラスメイトのほとんどが袴田くんのことを忘れかけているなんて信じられない。つい先週、そこに書かれていた袴田くんの名前を見て思い出話に花を咲かせていたというのに、それさえも忘れてしまっている。

「袴田って、アイツだよ。金髪の不良で、昨年事故で亡くなった奴。袴田が座っていた席を皆で卒業まで残そうって話をしたじゃないか」
「……ああ、そっか! なんで俺、忘れていたんだろう」

 言い出した彼だけでなく、他のクラスメイトからも窓側の席に座っていたことや、沢山の人に慕われていたこと、あんなに目立つ容姿をしていた彼の存在を忘れかけていた。わざとには見えなかった。
 たった数日のうちに忘れるような記憶じゃない。久々に模造紙を広げたときにすっと挙がった彼の名前や思い出は、少なくとも亡くなった年に同じ教室にいたクラスメイトたちはしっかり刻んでいたはずだ。
 休憩に入ってすぐ、私は教室を飛び出して岸谷くんがいるクラスへ向かった。丁度教室から出てきたところを捕まえると、彼は口を開く前に勢い任せに尋ねる。

「岸谷くんは、袴田くんのこと覚えてる?」
「は?」
「袴田くんだよ! クラスの皆が忘れてたの。つい昨日まで名前が出ていたのに、悪ふざけには見えなくて……岸谷くんは忘れてないよね?」

 私の問いかけに岸谷くんは一瞬考え込むと、青ざめてハッと顔をあげた。