秋から冬に切り替わったある日の放課後、袴田は近江と、例に倣って近江にスカウトされた岸谷隼人と共にコンビニに立ち寄った。珍しく袴田が目を輝かせていたのは、レジ横に置かれた肉まんだった。冬の季節にしか発売されない肉まんは特別感があると、いつになく上機嫌だった。
それぞれで肉まんを買ってコンビニを出ると、すぐ近くで甲高い悲鳴が聞こえた。
見れば、コンビニの脇道で南雲の不良が北峰の女子生徒の腕を掴み「ぶつかってきたのはそっちだろ! 慰謝料寄越せ!」などと脅している。
「アイツって確か、めっちゃ悪評で有名な南雲の三年生じゃ……」
「そうだなー」
「そうだなって……あのまま放っておいていいんですか?」
岸谷が慌てている中で、近江は楽しそうに眺めており、袴田に限っては買ったばかりの肉まんにしか目に入っていない。
「袴田ぁ! そんなに肉まんが大事か!」
「だって冷めるじゃん」
「買ったばかりだし、アイツ撃退した後でもあったかホカホカだっつーの!」
「隼人、大丈夫だって。ほら」
そう言って近江が指さすと、警察官がこちらに向かって走って来るのが見えた。近くに顔面蒼白で見ている北峰の男子生徒がいる。きっと彼がパトロール中の警察官を呼び止めたのだろう。町の安全を守る警察がいるのに、自分たちが出しゃばったら、不良の喧嘩に女子生徒が巻き込まれたと疑いを掛けられる。こういう時は黙ってこの場を離れるのが一番だ。
南雲の生徒も警察官が近付いてきているのに気づいたようで、慌てて掴んでいた女子生徒を突き飛ばして逃げ出した。
「後は警察が捕まえたら良いだけの話。俺達が出る幕じゃなかっただろ」
「そうだけど、先輩……!?」
歯切れの悪い岸谷を宥める近江を横目に、袴田はせっせと肉まんを袋から食べやすいように取り出す。目に見えるほど熱々の白い湯気と、ふんわりとした弾力の皮……これをどれほど待ち望んでいたことか!
下の紙を丁寧に剥がして、熱々の肉まんにかぶりついた――はずだった。
「どけえええ!」
焦った声が聴こえたと同時に、後ろから南雲の不良が袴田に激突する。その衝撃で、まだ一口も食べていない肉まんが宙を舞った。手を伸ばしても届かず、肉まんは形を保ったまま地面に落ちていく。まだ袋に入っているから食べられるかもしれない。――そんな希望も虚しく、車道に飛び出したと同時に、軽トラックが目の前を横切った。
ぐしゃり。
白い皮が破け、中から餡が飛び散って名残惜しく湯気が立った。それが口の中だったらどれほどよかっただろう。
「袴田!」
「突っ立ってんじゃねぇよ、ク――」
罵倒を遮って振り向くと同時に、袴田は不良の胸倉を掴み、地面に叩きつけた。後ろに倒れる形になった不良は咳き込みながら顔を上げると、袴田だと分かった途端、顔を真っ青にした。
「き、北峰の……!? なんでこんなところに……」
「……てめぇ、自分が何をしたかわかってんの?」
「は、袴田? 落ち着け……?」
「不良だか他校の上級生だか関係ねぇ。食べ物を粗末にするのはろくでもねぇ奴の証拠だ!」
岸谷が制する声に耳を貸すことなく、怯えている南雲の不良に詰め寄った。ただ、ぶつかったことではなく、肉まんを落としたことに怒りを露わにしていることに、不良は感情が追いつかない。
「人に釘を刺したくせにお前がやるのかよ!?」
「うっせぇ。岸谷、お前は『食い物の恨みは怖い』って習わなかったか? 出来立てだったのに一口も食されることなく地面に落ちて、泥だらけのトラックに踏み潰されちまった肉まんの気持ちを考えたら、これを怒らずしてどうしろってんだ。せめて同じように踏み潰すか、弁償させねぇと気が済まねぇ」
「ヒィィッ! すんません!」
「あっははっ! 玲仁が喧嘩以外でガチギレすんの初めて見た!」
「落ち着けって袴田! 先輩、笑ってないで手伝ってくださいよ!」
それからすぐに警察官が到着して、岸谷と二人がかりで袴田を抑え込まれ、残念ながら踏み潰すことは敵わなかった。しかし、「たかが肉まん一つでこれほど怒る高校生がいたとは」と警察官を関心させ、内緒で新しい肉まんを奢って貰い、袴田の機嫌は元通りになったらしい。
*
肉まん事件の翌日、袴田のクラスに絡まれていた女子生徒――吉川明穂がやってきた。セミロングの黒髪を耳にかけ、頬を赤らめて視線をそらしながらもお礼を言いに来たという。
「袴田くん、昨日は助けてくれてありがとう」
「……は? 何の話?」
「何って、私を助けてくれたじゃない。南雲の人に『ろくでもない奴だ』って怒ってくれたの、かっこよかったわ」
「……ああ、アレか」
(確かに“食べ物を粗末にするのは”ろくでもねぇ奴、とは言ったけど)
それは吉川を擁護するために言った言葉でないことは確かだが、どうやらそう受け止めてしまったらしい。
「あなたが助けてくれなかったらどうなっていたことか……だから、お礼がしたいの。今日の放課後って空いてるかな?」
「俺は通りがかっただけで、お前と助けたのは別の奴。俺じゃない」
「えっと……どうだったかしら?」
「は? 突き飛ばされた時に背中を支えてもらっていただろ。お前は助けてもらった奴の顔をそんな簡単に忘れるのか?」
袴田がそう言うと、吉川はだんだんと顔を引きつらせていった。教室の入口という、人目の多い場所でのそれはある意味、公開処刑だった。
「ところで……お前誰だっけ?」
その一言で吉川の笑みが固まる。周りにそれを聞いていた人がいなかったこともあって、後ろ指を刺されなかったことが唯一の救いだったか、吉川は何も言わずにそのまま立ち去った。
***
「――今思えば、吉川って子が玲仁に付きまとうようになったのは、それがきっかけだな。なんか役に立ちそう?」
「……整理するのでちょっと待ってください」
どうしよう、肉まん事件の印象が強すぎて何も入ってこない。
確かに正論を述べた袴田くんらしい行動かもしれないけど、アプローチしてくる女子に対して「お前誰?」はダメだと思う。私はともかく、女の子は傷つく。いや、本当に知らなかったとしても、別の言い方があったはずだ。秘策と言いながら船瀬くんを強引に引き合わせた時と同様に、無自覚で勝手すぎるのは、今に始まったことではないらしい。
「でも驚きました。袴田くんのこと、何でも知ってるんですね」
てっきり高校入学した頃から話してくれると思っていたのに、まさか小学生の話から聞けるとは予想外だった。しかし、岸谷くんから事前に聞いていた話だと、近江先輩は袴田くんとは違う小中学校に通っていたし、家も離れているはずだ。
私が腑に落ちない顔をしているのを見て、近江先輩は「あー……実はね」と苦い笑みを浮かべた。
「袴田が手伝ってた新聞配達のおっちゃんと俺は親戚なんだ。小学校までは手伝ってたけど、俺が引っ越して遠くなったからそれっきりになっちゃって。中学であったことを知っているのは、アイツが道中で助けた奴と俺が従兄弟同士だから」
「……はぇ?」
混乱して変な声が出た。新聞配達のおじさんと親戚で、助けた男子生徒が従兄弟?
……ダメだ、わからない。偶然がこんなに重なることがあるだろうか。
「袴田くんはそれを知ってたんですか?」
「いいや、知らないんじゃない? 別に言うほどのことじゃないし。……あ、その顔は絶対嘘だって思ってるだろ?」
「思ってます」
「ハッキリ言うねぇ、井浦チャン。でも残念、これは本当の話。さすがの俺でもふざけないよ」
近江先輩はまた一口、お茶を飲んで話を区切る。
「ところで、何か気になったことはない? ちなみにアイツが警察官のおっちゃんに奢って貰ったのは特上肉まんだったぜ」
肉まんの話はもういい。
「……袴田くんの中学時代、でしょうか」
彼が助けられなかった女子生徒――いじめを受けながらも、袴田くんの無実を証明した彼女が、彼と喧嘩を繋げた人物と言っても過言ではない。「彼女の安否が気になって成仏できなかった」は仮説として成り立たないこともないだろう。過保護というか、心配性というか。まともに会話をしたことがないのに「助けられなかった」と後悔するほどなのだから、特別な感情でも持ち合わせていたのかもしれない。
すると、近江先輩はもう一つ湯呑を用意しながら言う。
「だと思ってさ、とっておきの奴を呼んでおいたよ。おーい、タイセー!」
食堂の方に向かって声を掛けると、おばさんと談笑していた、同い年くらいの男の子を呼んだ。ここら辺では見かけない制服を着た、タイセーと呼ばれた彼を見て、私は愕然とした。
「や、やまなかくん……?」
「……もしかして井浦さん? マジで!? そうだよ、山中だよ!」
山中大晴――根っからのアニメ好きで、三度のメシよりアニメをこよなく愛している。私が初めて袴田くんと対面した際、高校生に絡まれていた男子生徒でもある。
あの頃に比べて体格もしっかりして、身長も倍近く伸びている。何より顔つきが全く違う。最初見たときはわからなったけど、両手で抱きかかえるようにして持っている、身を呈して守っていたアニメの画集を見て思い出した。
山中くんはお座敷に上がってこちらに来ると、近江先輩の隣に座った。
「久しぶり! いきなり遼太郎くんから来いって言われた時は何事かと思ったけど……まさか井浦さんだったなんて!」
「う、うん……」
おかしい。彼はこんなに笑顔で話す人だっただろうか。
「おい大晴、なんかいいことでもあったのか? やけに機嫌が良いな」
「そうなんだよ! 実はゲームのガチャで推しのSランクが三つも出てさ! 今日はハッピーだよ!」
「おし……? この間勧めてきたアプリか。そういやまだインストールしてなかったな」
「ええっ!? 今すぐしようよ! フレンド申請するからさぁ。あ、井浦さんもどう?」
「……大丈夫です」
「大晴、お前のノリについていけなくて井浦チャンが固まっちまったぞ」
「ああっ! ご、ごめん、嬉しくてつい……」
「ううん、大丈夫。……ちょっとビックリして」
中学の時、といってもクラスが一緒だったわけではないし、話したこともなかったけど、隅で一人でいるような暗いイメージだった気がする。それは彼にも自覚があるようで、少し躊躇いながらも教えてくれた。
「実は中学三年間で身長がすごく伸びて、高校でバスケ部に勧誘されて入部したんだよ。そこでアニメ好きの子がいて盛り上がってさ、掛け持ちでアニメ同好会を立ち上げたんだ。好きなアニメを語り、おすすめのアニメの鑑賞会をする、趣味の集まりみたいなモンだったけど、気づいたら部員の人数が増えすぎて、一気に大所帯になった。もう卒業して後輩に部長の座を渡したけど、今でも連絡がくる。それが楽しくってさぁ」
「コイツ、部員が増えるたびにここに来て俺と長話すんの。俺はアニメとかよくわかんねーけど、楽しんでいる奴がいることはよくわかった」
でもわからん、と頬杖を付きながら近江先輩が言う。茶々入れさえも嬉しいのか、山中くんは先程から笑みが絶えない。
「井浦さんはどう? その制服だと……北峰だよね? 袴田には会えた?」
「え?」
「あ! えっとその……袴田が昨年亡くなったのは知ってるよ。でも北峰の不良をまとめてたことは俺の高校でも有名だったからさ。アイツ、井浦さんと話したがってたからどうなったかなーって思って」
「……話したがってた?」
先程、私と山中くんは同じ中学出身と大きく括ったが、実際は入学して半年後に、私は諸事情で県外に転校している。高校の進学先を北峰に選んだのは、今住んでいる場所からでも充分通える距離だったからだ。
「俺が高校生に絡まれた頃、俺は袴田と同じクラスだった。井浦さんは……何組だったっけ。でも教室はすごく遠かったから、関わりはほとんどなかったよね」
「うん……それは覚えてる」
ちゃぶ台の下に置いた手が小刻みに震えている。
「俺が今もアニメを好きでいられるのは、袴田のお陰なんだ。高校生に絡まれた時期、丁度周りとうまくいかなくてアニメ好きを公言するの止めようと思ってた。でもあの時、袴田にすごく救われた。だから中学で省かれたこともあったけど言い続けたし、高校に入って同じアニメが好きな人と出会って毎日が楽しくなった!」
「……それって」
話を聞いてすぐ、私の頭の中である場面が再生されていた。
中学時代に私が初めて、袴田玲仁という存在と対面したあの瞬間。高校生を相手に怯まず、ボロボロの山中くんを庇いながら全員をなぎ倒した光景。
――「お前、すげぇ強いよ。ちゃんと好きなモン守れるヤツってかっこいいよな」
恐ろしい存在だと思っていた彼が、優しい目ではにかみながら告げた言葉。
「その後の井浦さんもすごかったよね。警察に通報してくれて……袴田が巻き込まれそうになったところを引き留めてくれたのも、井浦さんのおかげだ」
山中くんが思い出に花を咲かせながら、笑みを浮かべている。
やめて、そこから先は言わないで――。
「俺を――ううん、俺と袴田を助けてくれてありがとう。井浦さん」
彼はそういって頭を下げた。
――少し、昔話をしよう
中学に入学した頃の私は、クラスメイトともすぐ仲良くなれたし、部活動や委員会にも前向きだった。我ながら楽しい学校生活を送っていたと思う。
しばらくして、クラス内でも必然的にできたあるグループが、先生に隠れて目立つのが苦手な女子生徒に無茶なことを押し付けるようになった。どうして彼女が狙われたのかは分からない。私はたまたま帰りがけに忘れ物に気づいて、取りに戻った教室で、蟻もしない罵詈雑言を浴びさせられている場に居合わせてしまったのだ。
見るに堪えないほど傷ついたその姿に、私は怒りを抑えながらも生徒を教室から連れ出した。保健室なら来ないと思って休ませてもらい、何があったのか尋ねると、しゃくりをあげながら教えてくれた。
「邪魔だっていわれたの。私のことを放っておいていいから。じゃないとアイツらは、今度は井浦さんを標的にする、から……!」
泣きじゃくって震えるその身体を、落ち着くまで擦ってあげることしかできなかった。
その翌日、彼女は学校にこなかった。一週間も欠席が続けば、あの件がきっかけで不登校になったのは一目瞭然だった。
クラスメイトは皆、彼女のことを忘れると同時に新しい暇つぶしを探し始める。
そして彼らが次に狙いをつけたのが、私だった。
ある日、私が「テストでカンニングしていた」、「人のものを盗んだ」などといったデマが流れた。
先生は私の話を聞く耳も持たず、クラスメイトとともに、何かあれば私に当たるようになった。水道のシンクに半分浸かった教科書、泥まみれになった運動着。まだ暴力が無かったことだけが唯一の救いだったかもしれない。
何度嫌がらせを受けようと、懲りずに登校したのは、こんなことで屈してはいけないと思ったからだ。いくら「置物」だと言われようと、私にはそれだけが支えだった。
「――わ、私が通報したときには、すでに喧嘩は始まっていたんです!」
アニメ好きの男子生徒改め、山中くんが絡まれていたときに動画を回していたのは、虚偽通報ではないことを証明するためであって、袴田くんの無実を証明することになるとは思っていなかった。
彼が警察の厄介になっているのは噂で知っていたけど、まさかこんなところで疑われるとは思わなくて、気づいたら声を上げていた。私は学校が一緒でもクラスが別で、少し離れた教室だったから、彼らは私のことなど知らなかっただろう。
だからこんなにも真っ直ぐな人が不良でいることに驚く半面、頼もしさも感じていた。夕日に照らされた金髪が眩しくて、本当にヒーローみたいな人だと思った。
山中くんを高校生から袴田くんが救った、翌日のことだった。
登校すると、私の机を囲うようにしてニタニタと笑っている彼らがいた。そこには様々な罵倒が机に書かれているだけでなく、ペットボトルに強引に挿しこまれた一輪の菊の花が置かれている。
「おー来た来た。置物。お前の特等席を作っておいてやったぞ」
強引に机の前に連れていかれると、見たくもない真っ黒な机の文字が嫌でも入ってきた。周りはゲラゲラと笑っている。
屈辱的だった。限界だった。
――ああ、でも最後くらい、何を言ったっていいよね。
私は落書きされた机を彼らに向けて蹴り飛ばすと、言いたいことを感情まかせに撒き散らす。誰もが顔を青くして、恐れるような強張った表情を浮かべる。滑稽だった。
名残惜しかったけど、私は足早に学校を出る。このまま家に帰ったところで両親になんて説明しよう。
校門を出たところで運悪く雨が降ってきて、髪も制服も濡れたまま、人気の少ない公園で時間を潰していた。時間なんて気にしなかった。何も考えたくなくて、その場にずっと居たら、一向に帰って来ないことを心配した母から「学校から早退したって連絡あったけど、今どこにいるの!?」と電話がかかってきた。私は謝ることしかできなくて、公園にいることを伝えると気が抜けたのか、気を失った。
病院に連れていかれた結果、濡れたままの状態で外を出歩いたうえ、日頃のストレスが原因で風邪を引き起こしたらしい。
両親には学校であったことを話した。父は怒りで震え、母は代わりに泣いてくれた。私は何も感じなくて、ただ火照って怠い身体がどうしようもなく重くて眠ってしまいたかった。
学校を休んで三日目の夜、家に教頭先生と担任の先生がやってきた。両親に止められて同席はできなかったが、気になって廊下で聞き耳を立てていた。
内容は学校でいじめがあったこと、主犯格の生徒を三ヶ月の謹慎処分にしたこと。そして、隣にいる担任はわかっていながらも見て見ぬふりをしていたことを説明すると、今日来た一番の理由である私の今後についてある提案をした。
「いやぁ、大変申し訳ございませんが、娘さんがこのまま学校に来られるとは思いません。宜しければ転校、といった形をとっていただけませんでしょうか」
教頭先生はそう言って、近隣の中学校の資料とともに札束が入った封筒をテーブルの上に並べた。
父は封筒を叩きつけ、今にも殴りかかりそうな剣幕で怒鳴りつけた。それでも教頭先生はフローリングに額をこすりつけて懇願する。次期校長と噂されていた教頭先生にとって、私は邪魔者でしかなかったのだ。
聞いていられなかった私は、止められていたにも関わらずリビングに入っていき、教頭先生に言った。
「……転校します。だから、もう――」
汚いからやめてください。
私の記憶はそこで途切れている。後から聞いた話だと、その場に崩れるようにして倒れ、救急車を呼ぶほどの騒ぎになったらしい。
体調が安定する間、父の実家がある隣の県の中学への転入手続きを済ませてもらい、引っ越しもして新しい生活を始めた。あの光景を毎晩思い出したこともあったけど、一つの区切りとして考えて何度も飲み込んできた。
新しい生活にも慣れ、無事進級した頃。私が転校せざる得なくなった中学でのいじめ騒動がニュース番組に取り上げられていた。一見、あの騒動は学校側が主犯格と担任に鉄槌を下したとして、すでに終結したことになっているが、その後もクラス内でいじめは続いていたらしく、ある生徒からの通報で警察が介入した。これごとの大事になるのだから、負傷した生徒が出たのだろう。誰が被害に遭ったのかはわからない。
今度こそ主犯格の生徒は退学処分になったが、結局は三ヶ月間の謹慎という、生温い処分がもたらした最悪の結果だ。
さらに、このことが公になる直前に「君がいることでイメージが損なわれるから出て行ってくれ」と教頭先生が被害者の生徒を説得したことが公になると、中学校には取材に訪れた記者たちに囲まれる映像も流れていた。「こんなことになるなら、最初から改心なんて期待しなければよかった!」と、ぐしゃぐしゃの顔で弁明している教頭先生が画面いっぱいに埋め尽くされると、私はテレビを消した。
「後悔先に立たず」と綺麗な言葉で締めくくるには、見苦しい会見だったのを今でも覚えている。
人の意地汚さを思い知った気がして、いつかこうなる自分がいるんじゃないかと思うと怖かった。
だからなるべく人と関わらないように避けてきた。自分が嫌な思いをしないように、自己防衛のつもりだった。
決して忘れていた記憶じゃない。忘れたくても忘れられなくて、話せなかった、黒い記憶だ。
***
「――井浦さん? 大丈夫?」
山中くんの呼びかけで引き戻される。外は鈴虫が鳴いているのが聴こえてくるほど、辺りは薄暗くなっていた。放課後にお邪魔したとはいえ、さすがに長く居すぎてしまった。
「顔色悪いよ。もしかして俺、不味いこと言った?」
「……ううん。大丈夫」
振り払うようにして冷めきったお茶を流し込む。後からくる渋みが喉を通ると、多少なりとも落ち着きを取り戻せた気がした。そのまま頭の中で散らかった情報を整理する。
まず、先程の袴田くんが女子生徒の安否が気になって成仏できない説は取り消そう。
彼が後悔するほど思っていたのであれば、その女子生徒が私であることは、隣の席になった時点ですぐに分かったはずだ。今まで挨拶程度しかしていないことを考えると、分かったうえで避けていたかもしれない。岸谷くんのファンに呼び出される前に私に忠告し、教室に入るのを引き留めたのは、中学の時に私のクラスで起こった光景を目の当たりにしていたからだろう。
――とすると、新たな疑問が浮上する。
私が転校しあの騒動を知っているのは、私が転校する前にいたクラスメイトと教師だけで、テレビで報道されたのはその後に起こったものが大々的に取り上げられたものだ。だから私が被害者である事は世間に知られていない。それなのに、まったく関わりのない吉川さんが、あの時と同じように机へ誹謗することを書き、菊の花を添えた光景を再現した。私にとってトラウマ同然だが、あの場に居なかった彼女が作れるはずがない。彼女はどこでその情報を知ったのか?
「オーバーヒートしてんね、井浦チャン」
考え込んでいるところに、新しいお茶が入った湯呑を差し出された。自分が何かしたのではと慌てる山中くんの隣で、近江先輩はいたって冷静だった。
「俺も今の話を聞くまで知らなかった。まさかこんなところで繋がってるなんて、世の中は狭いな」
「そ、そそ、それは俺だってびっくりだよ!」
「大晴、井浦チャンが転校した後の騒動についてもっと教えろ。確かニュースにもなってたよな?」
「ああ、うん。ニュースだと嫌がらせによって怪我をした生徒がいたって話だったけど、実は最初に目をつけられた女子生徒が証言したらしいんだ。俺も会ったことはないんだけど、当時は不登校でずっと引きこもっているみたい」
「女子生徒……?」
「井浦さんと同じクラスにいた子だって聞いてる。覚えてたりする?」
「……うん」
忘れるわけがない。怯え、泣きじゃくっている姿が今でも思い出せる。入学してすぐに不登校になったから、顔も名前も曖昧だけど、私には彼女しか思い浮かばなかった。
「でもね、彼女が証言してくれたのは、袴田がきっかけなんだ」
「玲仁が? なんでまた……」
「袴田が動いたのは井浦さんが転校していってすぐのこと。『同じ思いをする奴がこれ以上増えないように』って、その子と直接会って協力してもらったんだって。クラスと先生が結託してるのは目に見えていたから、警察に持って行ったらしい。最初はまともに取り合って貰えなかったけど、頭下げて、女子生徒が精神科に受診したときの診断書を見て話を聞いてもらった。現在進行形で行われていた嫌がらせも、酷くなる前に袴田が止めたんだ」
「……つーことは、表向きには知られてないけど、結果的に玲仁が解決したようなモンか」
「結局はそうなるのかな。主犯格で退学になった田中って奴、相当悪い人と繋がってたみたいで、袴田と鉢合わせすると必ず喧嘩してたみたいなんだ。だから中学は喧嘩三昧だったと思う。アイツ、いつも一人でいたから狙われやすくて……」
「それで大晴、お前はどこからその話を聞いたんだ?」
「袴田本人から聞き出しだ。これ以上関わるとまた怪我するからって、その日以来話す事はなくなったけど……今思えば、俺に話してくれたのは井浦さんに伝えるためだったのかな」
山中くんの話を聞けば聞くほど、見えない何かに押しつぶされていく。
彼が無意味な喧嘩をしていたのも、疑われるのがわかっていていじめの証拠を警察に持って行ったのも、多くの人から反感を買われてしまったのも、全部私が原因だった。
私が関わらなければ、彼は今もここにいたかもしれない。
喧嘩なんてしなくても、髪色が金髪でも、仲間思いで心配性な彼なら、いろんな人から愛されていたかもしれない。
それこそ、吉川さんの猛烈なアップローチにも上手く対応できたかもしれない。
あの事故で死ななかったかもしれない。
復讐なんて、ふざけたことを考えなかったかもしれない。
考えれば考えるほど、自分の心臓が沈んでいくような気分だった。
私が彼を助ける? なんてふざけた綺麗事だろう!
すると突然、ちゃぶ台越しから近江先輩が腕を伸ばして私の肩を掴んだ。
「責めるな。戻ってこい」
「近江、先輩……」
「もっと他に方法があったはずなのに、強行手段に出た玲仁も、玲仁を悪者にする環境を作った周りの奴らも皆悪い。だから自分だけを責めるな。今お前がここにいるのは、玲仁が体張って守った結果だ。だからお前が、守ってもらった自分を捨てるようなことを考えてたら、アイツが傷ついた意味がねぇ」
「……自分を、捨てる?」
「今、自分が関わったから玲仁が不運な目に遭ったとか思ってるだろ。お前が関わらなかったら、例え死ななかったとしても、きっと今も人を殴ってた。殴って安心感を求めるだけの化け物になってたんだよ! それをお前が止めたんだ。お前が味方になってくれたから、アイツは弱いことを恥じなかったんだよ。……頼むからさぁ」
――ずっとアイツの味方でいてやってよ。
近江先輩の声が震えていた。肩を掴む手に力が籠っている。隣で黙っていた山中くんも、唇を噛みしめていた。
悔しくないわけがない。
助けたいと思った人が、助けてもらった恩がある人が呆気なく去ってしまうこの世界で、死を悔やまないわけがない。それこそ二人にとって袴田くんは、誰よりも救われてほしいと願った人だったのだから。
私は何も言えなくて視線を落とすと、台の下で震えていた手を見る。手のひらに爪が食い込んで出血していた。複数の赤い弧を描いたそれは、感覚がわからないほど痺れていた。