「お願い! 井浦ちゃんだけが頼りなの!」
夏休み直前のある日、朝早く隣のクラスからやってきた佐野さんが私の席にくるなり、勢いよく頭を下げてきた。
傘泥棒の件がきっかけで、彼女とその友人たちと一緒にいることが増えたものの、周りでは「井浦が脅している」――どちらかといえば脅してきたのは佐野さんの方だが――と噂話が絶えない。しかし、高校三年生という最後の年に不良と関わっていることが広まってしまって以来、深く考えないようにしていた。考えている余裕も、そのたびに突っ込む気力も失せたのだ。
「井浦ちゃんが人と関わるの苦手だってわかってるけど、本当に人が足りないの!」
「わ、分かったから、とりあえず顔を上げて……?」
そんな私を前に佐野さんに頭を下げていることに、教室にいるクラスメイトの大半が、物珍しそうにこちらを見ていた。
何でも、町内会が主催の夏祭りが決まってお盆の期間中に行われており、屋台はもちろん、ステージ上での小中学生のパフォーマンスやカラオケ大会、景品が当たる抽選会など、内容が盛りだくさんで毎年好評の行事がある。特に北峰高校のグラウンドで行われていることもあって、ここ数年で企画段階からわが高校の生徒会が関わっていた。実際、秋に行われる文化祭で出店する屋台の出し物の練習として、夏祭りに出すクラスや部活動も少なくはない。売り上げはその年の文化祭費用として使われることになるので、生徒にとっては一石二鳥だ。
しかし、今年はあろうことか町内会の人員が減ってしまい、屋台の数も人員も足りなくなってしまったため、急遽生徒会がボランティアとして参加生徒を募集することになった。佐野さんもその一人で、なかなか集まらなくて困っているらしい。
「文化祭で出し物がないクラスからかき集めてこいって言われてさ、井浦ちゃんどうかなって」
「はぁ……」
確かに私がいるクラスは文化部に所属している生徒が多く、夏休みが明けた後に控えている文化祭が最後の活動になる。さらに夏の大会で引退した運動部も後輩の手伝いだと言って、クラスで行う出し物には一切関わろうとはしなかった。
話し合った末、今まで授業で作ってきた創作物を壁一面に飾って、休憩スペースを作るということで一致した。特にその場にいる必要もないため、生徒は部活の出し物や自由行動に専念できる。
元から部活に入っていない生徒にとっては関係のない話だ。
「佐野さんも大変だね」
「そうなの! だからお願い、私と一緒にかき氷売って!」
話を聞く限り、夏祭りのボランティアの仕事は担当場所によって異なるが、食材は生徒会が発注済み、夏祭り前日にテントと機材を揃える程度で、特に大きな作業はない。それに佐野さんから頼みを断る理由もない。
「い、いいよ。……私で良ければ、だけど」
「大歓迎! ありがとう、井浦ちゃんのおかげでノルマの十人達成!」
佐野さんがホッと胸を撫で下ろす。生徒会のノルマが厳しすぎる!
「やっぱり部活のほうに行っちゃう人が多いのかな?」
「そうね。でもしょうがないよ。特に美玖とか」
美玖とは、いつも佐野さんと一緒にいる友達の一人だ。名字が山田という、周りによくいる名字であることから「名前で呼んで。さん付けはダメ!」と逃げ道を塞がれて以来、私は美玖ちゃんと呼んでいる。軽音楽部でベースを担当していて、一度だけミニライブを見せてもらったことがある。黒髪のストレートボブに猫目のきりっとしたクールな印象を持つが、演奏後に見せた嬉しそうに笑った表情が一番輝いていた。確か軽音楽部も夏祭りに催し物としてステージに立つと聞いた。
「そういえば美玖ね、今年の文化祭のミスコンに出るよ!」
ミスコン――この言葉を聞いた途端、急に心臓を掴まれた気がした。顔に出てしまいそうで、無意識に佐野さんから顔をそらす。
「そ、そうなんだ……」
「うちのクラスの推薦で決まったの! いいところまで行けると思うんだよね。今年は吉川さんいないし……って、どうしたの?」
「え? あ、ううん。なんでもない!」
はにかんで誤魔化すと同時に、担任の先生が教室に入ってくると、佐野さんは慌てて自分の教室に戻っていった。
いつも通り始まったホームルームが進められる中、私の頭にはミスコンの話がぐるぐると渦巻いていた。夏休みが明けたら、学校全体で文化祭の準備が始まる。だから前回の優勝者の名前が出るのも不思議じゃない。
ただ、彼女がこの場にいない事を平然と口にする事が、私にはできない。
『おい井浦。ぼーっとしてどうした?』
窓側の席では、袴田くんが気怠そうに今日も机に寝そべっている。冬服姿の彼を見るだけで暑く思えてしまうが、こればかりは仕方がない。
「なんでもない、大丈夫」
『夏バテか?』
「……なんだか今日は親切だね? 変なモノでも食べた?」
『そんなに珍しいことじゃねぇだろ。それにお前が倒れたら俺が遊べないじゃん』
「人をおもちゃにしないで」
先生や周りのクラスメイトを気にしながら小声で言い返す。人の気も知らずに、相変わらず袴田くんはニヤリと口元を緩めて楽しんでいた。
『もう夏休み入るんだよな。井浦は補習とか受けねぇの?』
「この間の期末テストで赤点は回避したから受けないよ。……あ、でも夏祭りのボランティアすることになったから、何日かは来るかも」
『マジ!?』
寝そべっていた袴田くんが勢いよく立ち上がると、ガタン、と音を立てて椅子が引かれた。それはホームルーム中で先生しか喋っていない教室内に響いて、周りの目が一斉にこちらへ向けられた。特に先生は、幽霊(仮)の彼の姿は見えないのに、勝手に椅子が動いたように見えたらしく、口をパクパクさせていた。
「井浦、今その席……動かなかったか?」
「わ……私が足で蹴りました! 足元に虫がいたので驚いて!」
「そ、そっか……お、驚いた時は声出していいからな、物は大切にしてくれないと……」
「はい、すみません……!」
『くははっ! 誤魔化し方が上手くなってきてんじゃねぇの!』
誰のせいだ、と睨みつけるも、隣の彼は笑い転げるだけ。周りのクラスメイトには白い目で見られ、先生には心配される。ああ、デジャヴ。嫌でも慣れたと思っていたのに!
ぎこちない空気の中で再開したホームルームの話は、いよいよ夏休みの話に入った。
補習授業の日程の他に、お盆に行われる夏祭りの関係でグラウンドが使えないこと、さらに最近絶えない不良同士の喧嘩について話が出た。
「先生たちが学校から駅近辺まで、ほぼ毎日見回りをしているが、未だ学生同士の喧嘩は減らない。それどころか、大学生や大人にまで手を出している生徒も少なくはない。北峰は今年に入って改善されてきたとはいえ、根本的な解決には程遠いのが現状だ。特に皆は三年生だし、進学や就職に向けて本格的に動いている人が巻き込まれないとは限らない。危ないことはしないでくれ。これは担任の教師として、そして……一人の人間としてお願いしたい」
先生が真剣な眼差しで訴える。一瞬だけ、後ろの窓側の席を見て悲しそうな顔をしたが、すぐ目線を戻して話を続けた。クラスメイトは重く受け止めているのか、誰も先生を茶化すようなことは口にしなかった。
今になって思えば、袴田くんの席を卒業まで残すと言い出したのは先生だった。
初めて担任を持ったクラスであり、全員を無事に卒業させたいという先生の思いに、クラスメイト全員が賛同した。
その思いは、この教室にいる誰よりも重く受け止めていたのは袴田くんだった。
幽霊(仮)として存在していても、彼がこのクラスで授業を受けている間は、本当に生きているのかと勘違いしてしまうくらい、とても楽しそうに見える。私が休み中に学校に来るか聞いて、途端に声を上げたのは、寂しかったからなのかもしれない。
ホームルームが終わると同時に賑やかな声が飛び交う教室で、しきりに『夏祭りも来んの? 何の屋台やんの!?』と聞いてくる彼が、尻尾を振っている大型犬に見えたのは、ここだけの話だ。
その日の放課後、夏祭りのボランティアに参加することになった生徒が視聴覚室に集められた。
思っていたより多くの人数が集まっており、席の半分が埋まっている。おそらく生徒会のノルマのおかげだろう。隣で佐野さんがむっと眉をひそめた。
「これ、生徒会が声かけるだけでよかったんじゃない……?」
「あはは……まぁ、人が多いことに越したことはないかと」
教卓の前で打ち合わせをしている生徒会の中には、風紀委員長である岸谷くんの姿も見受けられる。 確か毎年町内会と風紀委員会が、校内の見回りに出て清掃や駐輪所の整理を行っていると聞いたことがある。そのまま喧嘩に突入することも少なくはないとも言うが、先日の南雲第一高校との事もあるから、警備は例年より厳重になるはずだ。
全員が席に着いたのを確認すると、生徒会の役員が遠くの席まで届くようにマイクを使って説明を始めた。
≪えー……今回、夏祭りのボランティアについての説明ですが、今から配るプリントをそれぞれ確認していただいて、各ブースの責任者の指示に従ってください。中には町内会の皆さんと一緒に行う屋台もありますので――≫
長々と続く役員の話に耳を傾けながら、前の席からまわってきたプリントに目を通す。タイムスケジュールと細かい注意事項が書かれており、その裏にはグラウンドと屋台が書かれた配置図が載っている。
私は佐野さんと一緒にかき氷ブースでの販売担当だった。他にも一年生と町内会の人が一人ずつ加わることになっているらしい。
「町内会の人が入ってくれるから、他のブースよりかは気楽にできるよ。氷削ってシロップかけるだけだし。それに井浦ちゃんも、クラスの人以外となら話せるでしょ?」
「ボランティアってランダムで振り分けられるよね? もしかして佐野さんが決めてくれたの?」
「ううん。ただ『井浦ちゃんと一緒じゃないとやらないよ』って、キッシーに言ったら手をまわしてくれたの。持つべきは風紀委員ね!」
小声ながらも爽やかな笑顔で脅した彼女を見て、思わず岸谷くんに同情した。申し訳ないと思う反面、佐野さんが私の事を考えてくれた事が嬉しかった。
「でもキッシーも大変だよね。今年も町内会のボスの岩井っていうオジサンが仕切るんだって」
岩井さんの噂は聞いたことがある。町内会の最年長で、喧嘩ばかりする若者をあまり快く思っていない。なにかあれば「だから最近の若い奴らは……」と小言を延々と続けることで有名だ。特に生徒と町内会の間に挟まれる生徒会は、ストレスで胃痛を起こしている人もいるようで、まともに取り合っているのは岸谷くんだけだった。
そっと生徒会の役員と話している岸谷くんを見るも、特に変わった様子はない。今のところ問題はなさそうだ。
生徒会の説明が終わって解散になり、視聴覚室からぞろぞろと出ていく。その人混みを逆らって、見覚えのある一年の男子生徒がこちらにやってきた。
「かき氷ブース担当になりました、野中です! よろしくお願いします」
「確か、船瀬くんと同じクラスの……」
「はい。この間は大変お世話になりました!」
あの日、心配して探しに来た野中くんは船瀬くんと一緒にいるようになった。元々趣味や好きなアーティストが同じだったようで、彼の方から話しかけたらしい。当の船瀬くんは、南雲の不良に暴行された右腕は骨折、医者から最低三ヵ月は絶対安静だと言い渡されていた。そんな彼がよくボランティアに参加すると知った時は思わず聞き返してしまった。
「俺もびっくりしたんですよ。その場に居たんですけど、岸谷先輩から声かけてくれたんです。気分転換にどうだって」
「へぇ……キッシー、後輩想いだね!」
もうすっかり定着してしまった佐野さん独特のニックネームに、野中くんが首を傾げる。
それにしても意外だった。怪我人とわかっていながら、外部と接触する機会が多い夏祭りに船瀬くんを参加させるなんて、岸谷くんがするとは思えなかったのだ。よほど人が足りなかったのだろうか。
『だろうな。半分は監視するとか?』
いつからいたのか、私のすぐ近くの壁に寄り掛かっていた袴田くんが言う。相変わらず金髪が照明に反射して眩しい。
「……誰の?」
『船瀬に決まってんじゃん。スパイとして送り込んでいた駒がバレたのに、南雲の奴らが何もしないわけがない』
「でも情報は何も持っていないって、船瀬くんは言ってたよ」
『本人はな。些細なことでも知られると困るモンだってあるだろ。……ま、岸谷はそれを見越して呼び込んだのかもな』
「……船瀬くんを囮に使うとか、そういう汚い話?」
『お前、いつになく物騒だな。ちげぇよ。近くに置いたほうが守れるって話』
どういう意味?
眉をひそめると、袴田くんは私の持っていたプリントの、校舎側に設置されたテントの枠を指さした。
〇夏祭り本部・巡回隊待機場所:岸谷、…………船瀬
「……どうしよう、袴田くんのせいで完全に監視にしか見えなくなっちゃった」
『くはは。だろ?』
「でも夏祭りに参加させるより、家にいた方が安全なのでは……?」
『んなことしたら「暇なんでバイト入れます」って言い出すに決まってんだろ』
「あー……確かに」
船瀬くんは入学当初からアルバイトと学業を両立していた。不良からお金を巻き取られていたこともあって、一時掛け持ちしてまで働き、右腕が折れていても病院に行かず、独学で腕を固定して生活していたのだ。
そんな彼が、夏休みという稼ぎ時にシフトを入れない訳がない。しかし彼は今、病院から言い渡された絶対安静期間の真っ只中だ。
「あんな目に遭ったんだから、さすがに大人しく家にいるって!」
『俺が知るかよ。本人に言え』
「本人……?」
「井浦先輩!」
後ろから呼ばれて振り向くと、爽やかな笑顔の船瀬くんがそこにいた。以前のぎこちない空気はどこにもなく、がっちり固定されていたギブスも外れて以前よりもすっきりしている。
「先輩も参加するんですね。僕、買いに行きますから!」
「あ、ありがとう……でも船瀬くんは大丈夫なの? その……怪我とか、いろいろ」
「迷子の相手や忘れ物を管理するだけですし。……それに岸谷先輩も一緒ですから」
船瀬くんは屈託のない笑みを浮かべながらも、周りを気にして小声で教えてくれた。私が思っていたよりも冷静なのかもしれない。
内心ホッとしていると、隣で『忘れるなよ、コイツは頭は悪くないが、信じる奴にはとことん付いていくからな』と不安を仰られる。
「……船瀬くんのことだから多分大丈夫だと思うんだけど、無茶はしないでね」
「はい。ありがとうございます。そうだ、あの時の金髪の人にお礼がしたいんですけど、どこのクラスの人か知りませんか?」
「え!? えっと……」
「あれ、淳太じゃーん!」
「うわっ!? ちょ、佐野先輩!」
佐野さんに絡まれた船瀬くんが顔を背けたのを見計らって、にやついた笑みを浮かべる袴田くんに小声で言う。
「……お礼がしたいってさ、金髪の人」
『阿呆か。俺がぶっ飛ばしたのは一部だ。南雲の奴らが襲ってくる可能性は充分ある。安心してたら足をすくわれるぞ』
袴田くんの言う通り、岸谷くんが彼に付きっきりでいたら夏祭りの巡回に支障が出てしまうかもしれない。何より、北峰にとってこの状況は守りに入った状況だ。根本的な解決になっていない。
……あ、そうだ。
「袴田くんも巡回隊に入ったら?」
『は?』
「だってやることないでしょ? 岸谷くんと連携を取って見回りすれば、喧嘩も未然に防げるかもしれないし」
『……くはは。お前、俺がとっくに死んでるって分かってて言ってんの?』
ウケるんだけど、と呆れた顔をされる。もちろん彼がすでに亡くなっていて、基本私以外の人物に姿が見えないこともわかった上での話だ。一度船瀬くんを尾行したことがある彼ならできるだろう。
あの時私はいなかったのに、岸谷くんと共有できていたのだから、きっと大丈夫だ。
「でもせっかくの夏祭りなんだから、一緒にいることくらい、いいでしょう?」
お盆――つまり、ご先祖様が家に帰ってくる日でもあるのだから、幽霊(仮)が一人混ざっていても問題はない。もしかしたら彼も家に一度帰るかもしれないし。
私の突飛な提案に袴田くんは『……まぁ、それもいいか』とすぐニヤリと笑みを浮かべた。
『早く夏祭りになんねぇかなぁ。そしたら井浦も学校に来るんだろ?』
「そうだけど……袴田くん、学校が好きなんだね」
生前、全く会話をしたことがなかった頃、喧嘩をするわりにしっかり授業を受けている姿を見ていて、実は真面目なのではと疑ったことがある。もしかしたら、学校でクラスメイトや不良仲間と会うことで寂しさを埋めているのかもしれない。
『俺には、学校しかなかったからな』
そう呟いた彼の横顔は、どこか寂しそうに見えた。