短い逢瀬のあと、火照る体のまま咲子は乱れた心を整えた。十年以上も思い続けた彼の人に、後宮で再会できるとは思いもしなかった。それも、あまりに美しい青年に成長していたのである。一瞬でもあの腕に抱かれたのかと思うと、頭はのぼせ上がるばかりであった。
 
「ここにいるということは、帝に近しい殿上人の方々――彼の人はあのようにお声掛けをしてくださったけれど、本来なら私のような下女がお目通りできるような人ではない。私は、この思い出だけで十分です」

 咲子は体に残る男のぬくもりを思い出して首を横に振り、湧き上がる思いを胸に秘めた。もう、二度と会えることはないだろうと――

 宴から戻ってきた慶子は不機嫌であった。咲子を見るなりあれをしろ、これをしろと散々命令を出してから、自分は梨壺で寛ぎ始めたのである。

 ここまではいつものことである。だが、今日に関して異なっていたことといえば、慶子が目ざとく咲子の機嫌のよさに気がついたことである。どことなく色気を帯びた咲子が一層美しく見えたのも面白くなかった。

「おまえ、私がいない間になにか悪さをしたんじゃないでしょうね!」
「そんな、滅相もありません」

 咲子はそういったが、慶子の不機嫌さが直るはずもない。慶子は鋏を取り出し、咲子の美しい髪を鷲掴みにした。

「見苦しい髪を少し切ってあげましょう!」
「おやめください!」

 抵抗する咲子を押さえつけ、慶子は咲子の美しい髪を切り刻んでしまったのである。

 これには咲子も大層ふさぎ込んでしまった。悲しみの色を滲ませる咲子を見て、慶子はようやく腹の虫もおさまったようである。上機嫌に歌などを口ずさみながら菓子をほおばった。

 その夜のことである。誰もいない桐壺まで来た咲子は頭巾をかぶり、欠けた月を見ていた。自分を勇気づけようと歌っていた歌すらも声にならない。艶やかな黒髪は尼のように短くなっていた。こらえきれない涙が止めどなくあふれた。

「いっそ、このまま出家してしまいたい」

 そう涙ながらに声に出した時のことである。

「それは駄目だ」

 昼間に聞いた愛しい人の声がした。このような姿になってはもう会わせる顔などありはしない。咲子は頭巾を深く被り、逃げようとした。その手を男が掴む。

「待ってください我が君。どうしてそのような頭巾を被っておられるのか」
「……あなたさまに見せられるような様ではございません」

 涙ながらに答えると、頭巾の隙間からざっくりと切られた髪が流れ落ちた。

「髪を、切られたのですか――」
「……」
「誰がこんなことを――いえ、尋ねるのは愚問でしょう。愛しい我が君、どうかもう少しの辛抱です。私は必ずあなたを迎えに参りますから」
「いいえいいえ! このような見苦しい髪の女を、誰が娶るものですか! もう良いのです。私のことなど、もう忘れてください。どうか――」

 泣きはらす咲子を、男はしっかりと抱きしめた。嫌だ嫌だと抵抗する咲子の唇を塞ぐ。

「やっと泣き止んでくれましたね、桐花姫――いえ、咲子殿」

 月明かりに照らしだされた美しい男の顔は、優しく微笑んでいた。

「私は、あなたを傷つける者を決して許さない。そのために与えられた天からの力です。今までは不要と思っていましたが、今ほど自分の地位を頼もしいと思ったことはない」

 咲子には男の言葉の意味が少しもわからなかった。

「どうかこれ以上涙を流さないでください我が君、これ以上痩せ細ってしまっては、抱く度に折れてしまいそうだ。この髪も、私がいずれもとに戻して差し上げます」

 涙に濡れた瞳で男を見ると、男は苦しそうに顔を歪めて咲子をかき抱いた。

「申し訳ありません、あなたが愛しくてたまらない、自分でも驚くほどに歯止めが効かないのです」

 男は咲子を抱きかかえたまま桐壺の中に入り、咲子を組み敷く。

「い、いけませんっ」
「私も、あなたをずっと探していたのです。こうしてやっと巡り合えたというのに、なぜあなたは身分に捕らわれるのか――」

 男は咲子の帯に手をかけると、ぎこちない手つきでゆっくりとほどいていく。
 咲子は身をよじって抵抗しようとしたが、男の力が強く、びくともしない。

「身分だけではございません、このように醜い女など、なんの価値もございません」

 咲子は乱れた髪を揺らしてふるふると首を横に振った。愛しいと思うこの男にだけは、今の姿を見られたくなかった――

「咲子殿、あなたは美しい――。この後宮、いや、どこの国を探しても、あなた以上に美しい人などいるはずがない」
「いいえいいえ! どうかお許しください、私のような醜い下賤の者――どうかお捨て置きください。このような醜い様をあなたに見られるなど、耐えられないのです」

 再び泣きじゃくる咲子に、男は優しく声をかける。

「咲子殿、ここに在るのは想い合う男と女でしかないではありませんか、今だけは、心のままに振舞っても、誰にも咎められることはありません。咲子殿、あなたは美しい──」

 男の言葉に、咲子はついに抵抗するのをやめ、大人しくなった。ゆっくりと互いに唇が重なり合う。

 男が触れた瞬間、咲子はかつての恐怖を感じて体をビクリと震わせた。夜に八重邸に忍び込んできた男のことを思い出す。すると、咲子の恐れを感じ取ったのか、男は耳元でささやいた。

「大丈夫、怖がることはない」

 男の声を聞くと、自然と恐怖が消えて行った。こわばっていた体の力が抜け、その身を男の腕に預ける。
 触れ合った肌は熱を帯び、空気は湿気を帯びたものに変わる。

「ようやくあなたを手にすることができる――夢のようだ」
「私も――夢のようです」
「咲子殿、愛しい我が君――」

 月に照らされた二つの影は一つに溶け合うように重なり合う。咲子は生まれて初めて感じる激しい波にのまれた。

 長く互いを求め合っていた二人が、ようやく結ばれたのである

 空が白み始めた頃、咲子の柔肌に名残惜しそうに触れてから、男は体を持ち上げた。そろそろ夜が明ける。互いに元の場所へと戻らなければならない。

「必ず、あなたを迎えに参ります」

 もう一度口づけをが落とされる。熱っぽい男の言葉に、頬を桃色に染めた咲子は首を横に振った。

「もう十分幸せでございます。これ以上は、私には不釣り合いの幸せです」

 桃色の頬を涙が伝う。そのあまりに健気なさまを見て、男はよりいっそう咲子を愛しく思うのだった。

 男は咲子を固く抱きしめると、「長居が出来ずに申し訳ありません」と言い残して去って行った。

 三度目の逢瀬の喜びよりも、見苦しい髪を見られたことが悲しかった。体に残る倦怠感を愛しいと思うと同時に苦しいと感じた。決して、結ばれることのない相手なのだから。