それは、古代文字や難しい文字は無く、いくつもの写真が貼られていた。
ページを捲る。
次のページも、次のページも、様々な写真が貼られているだけだった。
すぐにそれが、写真アルバムだとわかった。
写真のどれもに、男の子の人物が写る。
一ページ目では幼少期。
ページを捲る毎に成長していく。
その人物の成長記録があった。
ページを捲る手が震える。
ぐらぐらと熱い何かが、喉元へ込み上がる。
ページを捲る手が止まった。
そのページには、文字が記されていた。
「アー、お誕生日おめでとう」
小学生の頃の人物と誕生日ケーキが写る写真に文字が添えられていた。
この人物が、アーと言う人のようだ。
それを知った瞬間、視界が、ぐわんぐわんと大きく回転し、めまいが起きた。
不意に現れた目眩と強い吐き気がもよおす。
写真アルバムが手から離れて、床に落ちた。
何度吐いても、唾液と胃酸が出るだけだった。
「あー!」
私は、叫んだ。
「あー!」
噴火して、マグマがどんどん噴き出すように、制御が出来なかった。
「あー!」
唾液と胃酸が混ざった、よだれを噴き出して、叫ぶ。
口から、だらだらと、よだれが垂れる。
何度叫んだだろう。
声も枯れている。
叫び声が止まると、次第に、笑いが込み上がる。
私は、高笑いする。
理由も無く、笑いが止まらない。
篠生の死体、老夫の死体、老婦の死体、老婆の死体、来訪者の死体。
一つ一つを見ると、何故か堪えがたい笑いが押し寄せる。
顔一杯に笑いが広がる。
抑えようにも収まらない。
妻の横たわった姿に視線を向ける。
その瞬間、口角は大きく下がり、目も細く、目尻が下がった。
妻の隣に、娘も横たわっている。
一瞬も余韻を残さずに、笑顔はしーんとした虚無を残して去っていった。
視界は細かく揺れ動き、光景を曖昧にする。
脳は明らかに違う解釈をでっち上げる。
寝ているだけだ。
誰かが、家族を殺したんだ。
そうだ、今、夢の中なんだ。
しかし、手に残った指圧の感触が、現実を突きつける。
再び、笑いが込み上がる。
高笑いが止まらない。
笑みで膨らんだ頬に涙が伝う。
首は、ぶるっと震える。
首から上の頭部は、勝手に前後左右、不規則に動く。
その動きは、まるで、壊れたロボットのようだ。
ギターが視界に入ると、あの旋律が頭の中で流れる。
その途端、高笑いも首の動きも止まった。
私は、徐に、ギターを持つ。
一番細い弦が切れているギター。
そのギターを見て、死に方が決まった。
「もうちょっと待っててね」
亡骸の妻と娘に言う。
私は、レストランのカーテンを開けてまわる。
全てのカーテンを開けた。
外は、白い朝陽に反射した霧が充満していた。
その霧は神秘的で、既に天界に居るように思えた。
私はレストランの中央へ戻る。
欠けた噴水の縁に座り、足を組んだ。
ギターを膝の上に乗せて、弦に指を置く。
そして、篠生から教わった曲の出だしのコードをぽろんと弾いた。
おぼつかない手先でコードをひとつひとつと押さえては弾いていく。
この曲を川で初めて聴いた、あの時。
体が癒されていくのを感じた。
しかし、今はもう、この一夜の出来事を思い出させる、悪魔の旋律のように思える。
到底、癒しなんて感じられない。
時折、コードを押さえる力が弛み、音が淀む。
いたるところに血がこびり付き、死体が何体も横たわる店内では、淀んだ音で丁度良い。
繊細な音色は合わない。
ギターを演奏していれば、霧の中の悪魔は、私に気がつくだろう。
それでいい。
私は悪魔に殺される。
これで私は妻と娘に会える。
早く悪魔よ、来い。
自殺をためらった弱くて惨めな私を早く殺してくれ。
妻と娘に置いていかれるのだけは嫌なんだ。
独りはもう嫌なんだ。
ふと、妻と娘の笑顔が脳裏に浮かぶ。
しかし、それも束の間、その笑顔はじわじわと、絞殺した時の表情に変化する。
それを払い除けるように、弦を強く弾く。
歪んだ音が鳴り、弦は波打つ。
突然、レストランの出入り口の扉が静かに開いた。
来た!
心の中が期待で一杯になる。
まるで、映画を見始めたような好奇心と高揚感だ。
店内に霧が漏れ入る。
見る見るうちに、出入り口は真っ白な霧に満たされた。
演奏を間違えたら、悪魔がどこか行ってしまうのではないかという思考にかられる。
私の脳は明らかに根拠の無い試練をかせた。
間違えたら、妻と娘とあの世で会えない。
それは絶対避けなければならない。
私は、夢中で、ギターを演奏していく。
霧は、私の足元を冷やす。
迫り来る白い霧の壁。
この霧の中に悪魔が居るだろう。
悪魔はまだかと期待が膨らむ。
思わず、にやりと笑みを作った。
鼓動は高鳴り、高揚感から息が上がる。
霧は私の足元を隠した。
見る見るうちに、膝、腰、腕を白く隠した。
手元が見えなくなった。
しかし、ここで、演奏を間違える事は出来ない。
指の腹の感覚に集中する。
不意に、曲の速さが増しているのを感じた。
慌てるな。
視界で捉えられない指を感覚で従わせる。
その時、ひとつ、押さえる弦を間違える。
再び演奏を始めようとしても、指がどの弦に置いているのかがわからなかった。
演奏を続けるのはもう難しかった。
私はギターをおろした。
私の周囲は真っ白に覆われていた。
何も見えない。
妻も娘も皆も霧に飲み込まれ、姿が見えない。
白を認識しているのか、それとも、視力を失ったのかすらわからない。
今、レストランに居ると認識しているのは、レストランに居た記憶があるだけ。
その記憶が無ければ、どこに居るのかさえ、わからない。
次第に自らの記憶を疑い始める。
そうだ。
このまま、レストランに来た記憶すら無くなれば、また、普段の生活戻るのではないか。
ならば、これは、夢だったと認識すれば良いのだ。
脳は脳のよりどころを探していた。
しかし、ふと思った。
私は生きているのか?
真っ白の中では、私の影すら映らない。
鏡も水溜りもガラスも無くて、自らを認識できない。
誰も居なければ、私は生きていると認識する手段がわからなかった。
何もなければ、私の存在を証明する事は出来なかった。
とても静かだ。
ふと、何もない静寂に、物足りなさを感じた。
視界は白を映すだけで何もない。
私は耳で周囲を確認する。
霧が、私の体をじとっと湿らせて重い。
霧は、何の音も発してはくれない。
何もない環境では、死を奮起させる。
死ぬ為に、ここで悪魔を待っている。
しかし、耳の奥へ奥へ侵攻する無音の軍勢がが、死の恐怖を煽り立てる。
その無音の軍勢に、脳の守衛は反撃する。
死が怖いのは何故か!
痛いからか!
苦しいからか!
もう楽しい事を経験出来ないからか!
そうなら、お前は何故知っている。
死んだ者しか味わえない、この死を生きているお前は何故知っている。
死がどういうものかわからない以上、死が怖いものかもわからないではないか。
怯んだ無音は、耳の中で、ありもしない音を作り始めた。
その音は高音、中音、低音が混ざっている。
娘の透き通った繊細な高い声。
老父や篠生が争うような中音の声。
老婆の説得力と預言の信憑性を高める低音の声。
お互いが別々の主張をして不協和音になっている。
その一つ一つが聴こえる度に、視界に広がる霧に映像が流れる。
映像は断片的な光景を走馬灯のように現れては消える。
時折、妻と娘の光景が映ると、仄かにほっこりした。
段々と、妻と娘の光景を求めるようになり、まだかまだかと、娘の声を待ち望む。
次第に、私の中で、優劣がつき、娘の声以外に不満を感じるようになる。
パキッ。
突然、前方で床に砕けたガラスを踏む音が鳴った。
瞬く間に、雑音は止み、映像も消えた。
周囲はただ白いだけで、視力は意味をなさない。
耳で周囲をくまなく確認していく。
パキッ。
再び鳴った。
パキッ。
その音は、ゆっくりと、私に近づいている。
パキッ。
耳が、その音の正体がもう目の前にいることを知らせる。
目の前にじわりと黒い影が現れた。
黒い影は、獣のような荒々しい呼吸をしている。
悪魔だと確信した。
ようやく、妻と娘のもとへ行けると思い、心が穏やかだった。
そして、遂に姿が見えた。
一匹の犬、ドーベルマンだった。
毛並みは黒く、長い尾は垂れ下がり、尾の先が僅かに上を向いている。
悪魔は、わざわざ、私の苦手な犬に姿を変えてきたのだろうか。
人によって、悪魔は姿を変えるのだろうか。
私は、目を閉じて、殺されるのを待った。
あれ程、怖かった犬が目の前に居るのに、私は、とても穏やかだった。
これで終わると思うと、洞窟を抜けた先に青空が広がっているような、心地よささえ感じる。
ゆっくりと深呼吸した。
その時を待つ。
突然、右肩をがしっと掴まれる感覚に襲われた。
遂にその時が来た。
「大丈夫ですか」
男性の声が聞こえ、掴まれた右肩を大きく揺さぶられる。
私は、人の声が聞こえる事は予期していなかった。
不意に目を開けて、その声の聞こえた方向を見た。
そこには、一人の男性が立っていた。
男性は警察官の装いで、胸元には、バッジが付いている。
目の前に居る犬は、首輪を付け、リードに繋がれている。
リードは、その男性が短く持っていた。
「悪魔さん、早く、私を殺してください」
私は言った。
力一杯に言い放ったはずが、よろよろと、か細い。
「警察です」
その男性は言う。
「悪魔さん、もう正直に言ってください。早く妻と娘のもとへ行かなくちゃいけないんです」
「警察ですよ、もう安心してください」
「警察?」
「そうです、警察です。気を確かに」
警察官がここに居る?
助けに来た?
私は助かる?
「一名、生存者確認。衰弱している。今すぐ救護を」
警察官は、無線で話す。
間もなくして、複数人の警察官が店内に入ってきた。
その後に続いて、救急隊員が来た。
救急隊員は、私を半ば強制にタンカーへ乗せた。
私は、すかさず暴れて、タンカーから、落ちた。
床に尻餅をついたまま、集まった救急隊員や警察官を見上げる。
「私、助かる?」
私は言った。
「はい、もう大丈夫ですよ」
この先も生きてしまう絶望感が押し寄せる。
「だめだよ! 殺してくれ。妻と娘が待ってるんだ」
私は、救急隊員に願う。
しかし、救急隊員は、私を救う為に、なだめようとする。
私は、乱暴に救急隊員の手を振り払う。
「あー!」
その絶望感が、体の中でぐつぐつと煮えたぎり、口から溢れ出るように、叫ぶ。
生きたいなんて頼んでいない。
死にたいんだ。
しかし、私を助けようとしてくれる。
ここが地獄か。
私は救いを求めるように、床に散乱している陶器の破片を握った。
その鋭利な側面で、握った手を切り、血が滴る。
破片の先端を救急隊員に向ける。
真っ直ぐに向けているはずなのに、腕が震える。
救急隊員は、一歩下り、身構える。
警察官達は、距離をとり、私をなだめようとする。
しかし、頭がぐわんぐわんと脈打ち、何て言っているのか理解が出来ない。
私は、その破片の先端を首元に向ける。
警察官達が私を囲う。
私は、大きく息を吸い込んだ。
そして、勢いに任せて、破片の先端を喉へ突き刺そうと腕に力を入れた。
これで、解放される。
一瞬の恐怖と痛みを受け止める為、目をぎゅっと閉じる。
破片の先端が喉元へ向かい進んでいく。
しかし、ぱしっと、腕を掴まれた感覚がした。
私は驚いて目を開いた。
警察官が、私の腕を掴んで、自殺を阻止していた。
私は暴れ狂った。
それを見た、他の警察官も、私の体を押さえ付け、両手を拘束した。
警察官達は、私に有無も言わせずに、連行し、出入り口から店外へ出た。
霧は陽に温められて、薄霧になっていた。
駐車場が朧げに見える。
駐車場には、何台もの警察車両が止まっていた。
その警察車両は、駐車場の白線を無視して、レストランを囲むように並んでいる。
ほんの僅かに流れるそよ風に、薄霧の水の粒が揺らめく。
私は、警察官に連行される。
警察車両の周りには大勢の警察官が居る。
その中に、見覚えのある人達が居た。
それは、老婆が、霧の中に悪魔がいると叫んだ、あの時、早々にレストランを出た若いカップルだった。
そのカップルは、私を見ている。
その表情は、悲しさと恐れが混ざっている。
私もカップルを見た。
カップルは、すかさず目を逸らす。
私は駐車場の崖側に止まっていた救急車に誘導される。
その時、崖の下に広がる町並みが見えた。
所々、雲のように霧が町並みを隠している。
しかし、霧の無い場所は、はっきりと見える。
悪魔が地ならしした様子は無い。
道路を行き交う車は忙しなく、人々は変わらない朝を迎えていた。
何の気持ちも変わらないのに、自然と、目に涙が滲む。
私は、誘われるまま、救急車に乗った。
軽快な鳩の鳴き声が聞こえる。
その鳴き声は軽快だった。
朝を迎えて、一日が始まる事を喜んでいるように聞こえる。
その鳩の鳴き声をぼうっと聞いていると、それを遮るように、救急隊員は、救急車のドアを閉めた。