「は! これは困った事になった」
席に戻った老婆は、ひと息つく間もなく、声を上げる。
客は老婆を見た。
老婆は窓を見ていた。
建て付けが歪んでいるのか、閉まる窓と窓枠に隙間があった。
「霧に触れた者は魔物になる」
老婆は焦燥感に駆り立てられた声が店内に広がる。
「どこかにガムテープ位あるだろ」
老父が言う。
「僕、持っています」
ギターの男性は言うと、カバンからガムテープを取り出した。
老父は徐に立ち上がると、その男性へ近づく。
老父は手を男性の目の前に伸ばす。
男性は、ガムテープを渡した。
老父は、窓の隙間をガムテープで塞いだ。
「よしっと」
老父はガムテープを片手に持ち、腕を組む。
「なあ、婆さん、霧に当たったらいけないんじゃ、窓際に居ないほうがいいんじゃないか?」
老父は仁王立ちで言う。
「そうだ。霧に触れたり、吸い込んだりすると悪魔になる」
「なら、一箇所に集まったほうが良くないか?」
「いいですね、皆の事を知っておきましょ」
女性客の一人が賛同する。
「噴水の周りにしようか」
老父は言う。
客は席を離れ、噴水の周りに集まる。
老婆も分厚い本を胸に抱え、集まった。
その歩幅は小さく、いそいそとしているように見えた。
妻は娘を抱きかかえて立ち上がる。
私と妻も噴水の周りに集まった。
「すまないが、僕は目が見えないから誰か手伝ってくれないか?」
男性の声が聞こえた。
そこには、一人の男性が残っていた。
その男性は、白杖を持ち、席から立ち上がっている。
レストランの外で会った白杖を持った男性だった。
私は自然と体が動き、白杖を持つ男性へと近づいた。
肩を叩くべきなのか、腰に手を回すべきなのか。
それとも、白杖を取って、持っていた手と繋ぐべきなのか。
私はどうする事も出来ず、男性に手を近づけるも、すぐに手を引っ込める。
そのしどろもどろな私の動作は、男性には見えていない。
床を細かく突く白杖が、私の足に当たった。
「そこに誰か居ますか?」
男性は言う。
「あ、はい。どうしたらいいですか?」
私は、その男性に言う。
「すみません、手を繋いでも良いですか?」
白杖を持っていない手を前に出してきた。
「わかりました」
私はその手と繋ぎ、皆の集まる噴水へ近づく。
その間も、男性は一歩先を白杖で突き、確認をしながら歩く。
私と白杖を持った男性は、妻と娘の元へ戻った。
男性は私達と同じ四人席に座る。
皆は噴水の周りにある四人席に座っている。
老婆は一番壁際の席に座り、皆を見渡せる位置に居る。
「正直、わしはまだ映画の撮影だと思ってるが、一応、外に出れない訳だし、皆、名前だけでもわかっていたほうがいいんじゃないか?」
老父はそう言い、ひと呼吸置いて話を続ける。
「わしの名前は、湯田。隣はわしの妻だ」
老父が言うと、老婦は小さく会釈する。
「じゃあ、次は私ね。私は田堂(たどう)よ。この子は息子」
老夫婦の隣の席に居る中年の女性が言う。
その息子は三十代後半位の容姿で車椅子に乗っている。
天井を見上げて、ずっとにやけている。
一定の間隔で膝を両手で叩き、リズムを刻んでいる。
何かの曲が頭の中で流れているのだろうか。
そのリズムに合わせて、上半身も上下に動かす。
ふと、その息子の表情がにこやかになり、満面な笑みで母の顔を見る。
リズムを見せつけるように叩く力が強くなる。
「わー」
その時、息子は大きな声を発する。
言葉ではないが、その息子の声は明るく、喜んでいる事がわかる。
空虚感のある店内では、その心から喜ぶ明るい声は雑音に聞こえる。
冷たい空気が流れる。
「ほら、大声は出さないの」
母は、子供をあやすように言うと、息子に一つ笑みを見せる。
「息子は障碍を持っているわ。皆さん、よろしくね」
母は、客の皆を見ながら明るい声色で言い放った。
その声は強くて曲がらない芯のある印象を受けた。
「あ、私は篠生(しのう)です。ギターが弾けます」
私の隣の四人席に座る男性が言う。
客の皆は特に何の反応も示さない。
「じゃあ、私達ですね。富竹(とみたけ)です。こちらが妻と娘です。ハイキングに行く予定でした」
私は言う。
「ハイキングか、それは残念だったな」
老父が言う。
間もなくして、白杖を持つ男性が話し始める。
「郷珠(ごうたま)と申します。僕は目が見えませんので、ご迷惑になってしまうかもしれませんがよろしくお願いします」
最後に残るは老婆だった。
老婆は分厚い本を広げて、ページを凝視している。
目線が集まっている事に老婆は気が付いた。
一瞬、目を大きくさせて皆を見渡す。
しかし、すぐに目線を分厚い本のページに向ける。
「それじゃあ、婆さんでいいか」
老父は言う。
それを聞いた老婆は、ちらりと老父を見て、一つ、鼻で笑った。
老父は左上に目線を流し、天井を目で仰ぎながら、はははと微笑する。
「婆さん、感じ悪いなあ」
居心地の悪さを拭おうと明るく言う。
「婆さん、一応、念の為、聞いておくが、何が起きているんだ?」
老父は訊ねる。
老婆は口をつぐみ、瞳を左右に大きく動かす。
そして、左上に瞳を動かして止まると老婆の口が僅かに開いた。
「神の御技が届かぬ時、暗黒の深淵に封印されし悪魔の巣宮の入り口は開かれる」
老婆は時々言葉を詰まらせながら言う。
その声色はしわがれ、引きずるように重い。
聞き慣れない言葉が、真実味を感じさせる。
私の背中にぞわぞわっと緊張が走った。
「その分厚い本に書いてあるのか?」
老父は訊ねる。
老婆は話を返さない。
「また無視か」
老父は、呆れた表情を見せる。
店内に沈黙した重苦しい空気が漂う。
篠生はギターケースを撫でている。
私は篠生に話しかけた。
「昼間、川瀬で演奏していませんでしたか?」
篠生は体をびくつかせて、私を見る。
「あ、驚かせてすみません」
私は明るく接する。
「あ、あ、い、いえ。全然大丈夫です。見られていたんですね」
篠生は、おどおどとして吃りが強い。
「ええ。たまたま通りかかって、心地良い曲でしたので家族で聞き入っていました」
「いや、そんな。恥ずかしいな」
篠生は頭を掻いて困惑している。
篠生の額には汗が滲む。
「ギターのプロの方ですか?」
「いえ、そんな。ただの趣味ですよ」
「趣味で、あんなに綺麗な曲を弾けるんですね」
篠生の頬が仄かに赤らむ。
篠生は徐にギターケースを開け、ギターを取り出した。
ギターは年季がある。
ボディーのコーティングが剥げて、模様もあせていた。
篠生はギターを太ももにのせる。
「私ではなく、このギターが良い音色を奏でてくれるんですよ」
篠生はギターのボディを優しく撫でる。
その表情は我が子を愛でているように温かい。
「もし出来るなら、演奏していただけませんか?」
私は切実な思いだった。
あの演奏を聞けば、皆の気分が明るくなるのではないかと思った。
「いや、聞かせる程ではないですよ。だって…」
篠生は言いかけて、言葉を詰まらせる。
「ほんの少しだけでいいんだ。どうかお願いします」
私は頭を下げる。
「わ、わ、わ、かりました。ちょっとだけ」
ぽんと弦を指で弾いた。
その音は、この沈黙の空気感に光が射したように染み渡る。
皆の視線が集まる。
老婆は怪訝そうな眼差しを送る。
篠生は体を萎縮させて、手を止める。
「や、やっぱり、やめませんか? 皆、怒っていますし」
篠生はおどおどとして言う。
「大丈夫。皆もあの曲を聞けば、気持ちが明るくなるはずだから」
「うう」
篠生は苦い顔で言葉を濁す。
ちらりちらりと客の皆の視線を気にしながら、チューニングをしていく。
チューニングを終えると、篠生は一呼吸置いた。
そして、左の手の指の腹で弦を押さえ、右手の指で弦を弾いた。
演奏は店内へ一気に広がり、重苦しい空気感を払拭させた。
川瀬で演奏していた曲だ。
篠生の体が小さく左右に揺れる。
旋律に心体を委ねているようだった。
演奏する前の自信の無い様子は全く見られない。
演奏の上手い下手は私には分からない。
ただ、ふんわりとした幸福感が体に染み渡るのを覚えた。
皆も、その旋律に聞き入っている。
疲労感や恐怖心に塞ぎ込んだ表情がほぐれていく。
妻は眉を下げて、どうする事も出来ない状況に悲しみを浮かべている。
涙袋にじんわりと涙が滲む。
集まった涙は涙袋の土手を超えると、ほろりと頬を伝う。
再び、涙が涙袋に少しずつ少しずつ集まっていく。
そして、また一つ、ほろりと涙が滴る。
老婆は篠生を睨み付け、口が何やらもごもごと動く。
その口の中から、カチッカチッと金属的な音が鳴る。
入れ歯を定位置に戻そうとしているように見える。
その時だった。
レストランの出入り口の扉が開いた。
「お届け物です。凄い濃霧ですねー」
配達員のような容姿の男性が入ってきた。
その扉の開閉で、沢山の濃霧が入り込む。
配達員は両手で観葉植物の育った鉢を持っている。
ギターの演奏は止まり、客の皆は配達員に視線を向けた。
「すみません。お届け物ですー」
配達員は再び厨房へ声をかけて、手元の伝票に目を通す。
配達員はふと店内をちらりと見た。
「え?」
配達員は店内に顔を向けて動作を止めた。
鋭い視線が配達員を刺す。
配達員は顔をそらす。
「人が集まっていましたし、何かあったんですかー?」
配達員は再び厨房へ声をかける。
「おい! 外はどうなっているんだ?」
老父は立ち上がり、配達員に怒鳴りつける。
「え? どうもこうも、凄い霧ですよ」
配達員は、きょとんとした表情で答える。
「そうじゃない! 悪魔だよ。町はどうなってるんだ」
老父は血相を変えて激しい口調で言う。
「この濃霧の中、運転してきたのかい?」
老婆は畳み掛けるように配達員をぎろっと見て言う。
「え? あ、伝票はここに置いておきますねー」
配達員は逃げるように店外へ出ようとする。
「外に出してはいけません!」
それを見た老婆は叫んだ。
老婆の言葉を聞いた老父は配達員に駆けつける。
そして、老父は配達員を掴みかかる。
老父は配達員を客の皆が集まる噴水へ連れてきた。
老父の隣に配達員は座る。
「外は危険だ。今や、外は悪魔の巣宮と地界は繋がった」
老婆は語る。
「そういう事だ。運転してきたから気付かなかったのかもしれないが、良かったな、ここまで無事で」
老父は、にこっとして言う。
配達員は一つ笑みを返す。
その笑みは引き攣っている。
「皆、よく聞くがよい。霧に触れたこいつは、じき、悪魔になる」
老婆は神妙な口調で言う。
それを聞いた老父は配達員から小さく距離を取る。
「おい、外に出すなって言ったのは婆さんだろ?」
老父は言う。
老父の額に冷や汗が見える。
「外に出してしまっては、ここに居る事が悪魔に、ばれてしまうではないか」
老婆は言う。
老父は言葉を詰まらせる。
「こいつを椅子に縛りつけよ。さもなくば、こいつに、皆、食い殺される」
「何言っているんですか」
配達員は小さく嘲笑して言う。
しかし、客の皆の表情は険しい。
客の皆の表情を見た配達員の表情は引き攣る。
「あの…、ロープなら持っています」
篠生がロープを手に持ち立ち上がった。
「縛りつけよ」
老婆が言う。
「何で持っているんだ? まあ、いいや、貰うぞ」
老父は篠生からロープをさっと奪う。
「私も手伝うわ」
田堂の母は意気込んで立ち上がる。
老父と田堂の母は配達員ににじり寄る。
「おい、嘘でしょ?」
配達員は慌てて出入り口へ走る。
途中で足がもつれ、腰を抜かした。
配達員は動けずに老父と田堂の母を見る。
その眼差しは怯えている。
老父は配達員の体を押さえ込み、田堂の母がロープを巻き付ける。
「私達は助かりたいのよ」
田堂の母は配達員を縛りながら言う。
「助かるも何も冗談やめてくださいよ」
配達員はそう言いながら両手で抵抗するも、老父が押さえる。
私はその光景を見て、無意識のうちに顔を逸らしていた。
妻も胸で娘を抱きしめて、顔を逸らしている。
田堂の息子は車椅子に乗ったまま、体を大きく左右に揺らしている。
配達員は拘束された。
腕や足は曲げる事も出来ない。
配達員は出入り口の扉の前で仰向けにされた。
老父と田堂の母は戻り、席に座る。
配達員は一人取り残されている。
篠生は突然、貧乏ゆすりを始める。
その貧乏ゆすりは大きく、体全身が震えている。
「ああ、ロープを渡さなければ。いつもそうだ。いつも余計な事をして、人を困らせるんだ」
篠生は両手を膝の上で広げる。
両手の掌を顔に向けて、その掌をじっと見つめる。
両手は大きく震えていた。
「怖い! 怖い!」
田堂の息子が車椅子に乗りながら、何度も叫ぶ。
その息子は体を大きく左右に揺さぶる。
その度に、車椅子から軋む音が聞こえる。
「うるさい!」
老婆は鬼の形相で睨みつけて言う。
「ご、ごめんなさい」
田堂の母は、息子を何とかなだめようとする。
「静かにしようねー、怖くないよー」
息子の声は止まない。
息子の鼻から、黄緑色の粘度の高い鼻水が流れ出る。
それを息子は、ずびびびと吸い上げる。
鼻水が喉へと流れ込んだのか、一瞬、顔色を青くして声が止む。
しかし、再び、息子は声を上げた。
「しー、だよ」
田堂の母は、人差し指を伸ばして、口元で縦にして見せた。
息子はそれを見て、今度は、しーしーと繰り返し言い始めた。
それも次第に穏やかになり、声も小さくなった。
「悪魔なんて居ないのかもしれませんよ?」
突然、老婦が言う。
老婦は老父の顔色を窺いながら、言葉をそっと発した。
「なーに言ってるんだお前。窓を見てみろよ、ああやって死んでいるだろ?」
老父は窓に寄りかかる死体を指差して言う。
すかさず、私は立ち上がる。
「いや、私もまだ信じられないです。もっと、悪魔以外の可能性も考えていくべきだと思います」
私は言う。
老婆は私を睨んでいるように感じる。
「じゃあ、何なんだよ。あの死体、動かないんだぞ。撮影なら動いてもいいよな」
老父は私に言う。
「それは」
私は言葉を詰まらせる。
「でも、もしかしたら、初めから、悪魔なんてものは居なくて、ただの濃霧なのかもしれませんよ?」
私の妻も座りながら言う。
妻の加勢に心が強くなるのを感じた。
「じゃあ、この先、どうするのか教えてくれ」
老父が鼻で笑い、訊ねた。
「あの方に外の様子を聞きます」
私は配達員へ顔を向けて言う。
配達員は、こほこほと咳を小さくしている。
客の皆が配達員に顔を向けた時、突然、老婆は立ち上がった。
「皆よ! よく聞くがよい」
老婆は私の話を阻止するように言い放った。
「あいつが店内に入り、霧が沢山入り込んだ。もう誰が霧に触れているかわからない。誰でも悪魔になりえる」
老婆のしわがれた言葉が妙に耳の奥に響き、印象付ける。
「じゃあ、どうしたらいいのよ」
田堂の母が聞く。
「そうだよ、どうしたらいいんだ?」
老父も賛同して訊ねる。
老婆は一呼吸置いて、口を開いた。
「一人一人の距離を空けなさい」
「距離を空ける?」
老父が訊ねる。
「そうだ。段々と咳が出るようになる。その咳でも感染する」
老婆は答える。
「だってよ、皆」
老父は客の皆に言う。
「いや、私はしない」
私は異論を唱えた。
常に妻と娘に触れられる距離で居たい。
妻と娘に何か起きた時に何も出来ないからだ。
いや、違うのかもしれない。
私が家族と近くに居たい。
家族と居れば、私は強い姿を保てるように思えた。
「あなただけが、距離を取らなかった為に誰かへ感染させたら、どう責任取るつもりなのかしら」
田堂の母が言う。
私はそれに反論する事は出来なかった。
「さあ、皆よ。距離を空けなさい」
老婆の言われるがまま、客の皆は動き出す。
私の妻と娘は、私の席の左右隣の席に居る。
娘の席の隣席には、白杖を持った郷珠が居る。
妻の席の隣席には、ギターを持った篠生が居る。
他の皆も噴水を中心に、各四人席に一人ずつ座った。
「咳で感染するなら、マスクを皆に渡したほうがいいかね」
老婦が淑やかな口調で言うと、カバンから何やら箱を取り出した。
片手で持てる位の紙の素材の箱。
その蓋を開けると、マスクが沢山入っていた。
「おお! 神はこの者を遣わしてくださった。皆よ、神の恩恵に感謝し、マスクを受け取りなさい」
老婆は一瞬、笑みを見せて言う。
「良かったな、お前、褒められるなんて今まであったか?」
老父は薄笑いの表情を浮かべながら老婦に言う。
それを見た老婦は不服そうに目を細める。
その目線は、老父と反対の方向に動かす。
そして、老婦は無言で立ち上がる。
老婦は各席に居る客の皆に、マスクを一枚ずつ配っていく。
客の皆に配り終え、老婆にもマスクを渡そうと近づく。
「近寄るな!」
老婆は開いていた分厚い本を勢い良く閉じて、剣幕で一喝する。
老婦は突然の剣幕にびくっと立ち止まる。
「マスクはそこに置け」
老婆は誰も居ない席を指差して言う。
老婦は従うまま、その席にマスクを一枚置き、元の席へ戻った。
老婆はそのマスクを受け取り、元の席に座る。
客の皆は徐にマスクを付けて、口元を隠した。
「嫌だ、嫌だ」
田堂の息子がマスクを体全身を激しく動かして拒否する。
「付けなくちゃ、駄目なのよ? 皆に迷惑がかかっちゃうんだから」
田堂の母は、何とかマスクを息子に付けようとするも上手くいかない。
マスクを無理強いすると、田堂の息子の体動の激しさを増す。
「おいおい、早いとこ、何とかしてくれないか」
老父が呆気に取られるように言う。
田堂の母は息子の両肩を両手で撫でて、なだめる。
しかし、一向に、息子の体動は収まらない。
老父は立ち上がる。
「えーっと、篠生だっけか? こちらに来てくれ」
老父はそう言いながら手招きする。
「え、あ、あ、は、はい」
篠生は言われるがままに老父の席に向かう。
その足取りは小走りだった。
篠生は老父の居る席に着いた。
「いやあ、さっきの曲、良い曲だったよ。お前さん凄いな。オリジナルの曲かい?」
老父は言う。
「あ、は、はい」
篠生は答える。
「わしはファンになったよ、お前さんの。もっと聞きたいんだけど、こんなに騒がしいとお前さんの良い曲がちゃんと聞けないから、あいつを静かにしてくれないか?」
老父は座ったまま、たたずむ篠生に言う。
「え?」
篠生の声が緊張のあまり、裏返る。
「簡単だろ? これをあいつにかければ、すぐに静かになる。ここにいる皆も望んでいる事だ。お前さんもそうだろう? 皆と同じ意見だよな?」
老父は煽り立てる。
「は、はい」
篠生は小さく何度も、うなづいて、答える。
「ならできるよな。これをすれば皆から褒められるぞ」
老父は水の入ったコップを差し出す。
「ほーら、早く」
老父は更に前へ差し出す。
篠生は恐怖に怯えていた。
目を丸くして、眉は下がり、両肩を上げて、首を縮こませている。
篠生の震える手は、そのコップを持った。
「ほーら、早く」
老父は篠生の顔を見上げて煽る。
私は目の前で起きる異常な光景に理解が追いつかない。
篠生は、関節をがちがちにこわばらせて、田堂の息子へ足を進める。
まるで、壊れかけのマリオネットのようだった。
老婆は横目で見ている。
篠生は田堂の息子の前に立った。
「ちょっと、何するつもり?」
田堂の母は鋭い表情で睨み付ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
篠生は田堂の息子に向かってコップを傾ける。
「駄目だ! してはいけない」
私は無意識のうちに声が出ていた。
篠生は、私の声に動作を止める。
しかし、その拍子に、水がコップから流れ、田堂の息子の顔にかかった。
田堂の息子は、驚いた表情で体動を止める。
怒りの頂点に達した田堂の母は、篠生の頬を平手打ちした。
「何て事をするの」
田堂の瞳に涙が溜まる。
篠生の瞳も平手打ちの衝撃で涙が込み上がる。
田堂の息子は、両腕を胸元に縮こませる。
何度も繰り返し、両腕を胸元に縮こませる。
その両手は握り拳で硬く、怯えた表情で田堂の母を見つめていた。
その一連の光景を老婆は横目で見ていた。
田堂の息子に水がかかった時、老婆は一瞬驚いた表情を浮かべた。
私は篠生へ駆け寄る。
「何て事をさせるんですか」
私は老父に怒声を与える。
「まさか、本当に水をかけるとは思っていなかったよ」
老父は言う。
ははっと薄笑いしながら話を続ける。
「でも、静かになれば、悪魔に見つからず、皆が生きていられる」
老父は答える。
私は奥歯を噛み締める。
口を開けば、喧嘩になる。
込み上がる怒りと不満を何度も飲み込んだ。
私は篠生の腰にそっと手を添える。
篠生の体は震えていた。
私は篠生を誘導して、元の席へ戻った。
田堂の母は息子をハンドタオルで拭いている。
けほけほ。
配達員の空咳が聞こえる。
「ねえねえ、お父さん、これ見て」
娘がひそひそと言ってきた。
娘の席は外が見える窓がある。
その窓にびっしりと結露している。
娘は人差し指でアニメのキャラクターの絵を描いていた。
「上手いね。そう言えば、今日の夜にそのアニメがあったね」
私は答える。
「うん」
娘はキャラクターの細部までこだわって描いていく。
私は不安感を悟られないように大きく笑みを作る。
「将来は絵描きさんかな?」
私は娘に訊ねる。
「うん!」
娘は絵を描きながら軽やかに答える。
絵を描く娘の眼差しがより真剣になる。
娘が指で、なぞった線は結露が無くなり、外の様子が窺える。
外の濃霧が陰り始めていた。
時計を見る。
もう夕方だった。
これがいつまで続くのか。
客の皆の表情に疲れが見える。
外が暗くなるにつれて、心細さというか虚無を感じる。
私はふと思い出した。
「携帯用ですが、ランタンを持っています」
私はカバンからランタンを取り出した。
「明かりは助かるわ」
田堂の母が言う。
「お婆さん、点けてもいい、ですか?」
私は恐る恐る老婆に聞く。
「明かりを見つけて悪魔が集まる。カーテンを閉めよ」
老婆は答える。
「今度はカーテンか。だとさ、篠生」
老父は言う。
「あんた、やり過ぎよ」
老婦が言う。
「あ? お前は黙って、わしの計画に従っていればいいんだよ」
老父の苛立ちに老婦は黙る。
篠生は立ち上がり、カーテンを閉め始める。
「篠生さん、従う必要は無いんですよ?」
私は言う。
「篠生がしたいんだよな?」
老父は煽り立てる。
篠生は動作を止める。
小さな間が空く。
「はい」
小さく呟くと、再びカーテンを閉めに回る。
それを見た私もカーテンを閉めに回る。
全てのカーテンが閉まった。
店内は一段と暗くなり、客の皆の表情が窺えなくなった。
私はマッチを擦り、ランタンに火を着ける。
辺りを明るく照らす。
その炎が揺めき、周囲の温かな橙色の明かりもゆらゆらと照らす。
妻の表情もほんのり明るくなる。
私はランタンを噴水の縁に置いた。
「まあ、そのうち、警察や自衛隊が来て助けてくれるだろうよ」
老父は言うと、背もたれに寄り掛かる。
老父の言葉に返す人は居ない。
沈黙が続く。
「神は善良な者をお守りくださる」
老婆はそう言うと、分厚い本のページを一枚めくる。
「神か、今まで信じた事が無かったけど、どんな姿だろうな」
老父の問いかけに誰も反応しない。
徐に、老婆が立ち上がった。
客の皆の視線が老婆に向く。
老婆は小さな歩幅で歩き出す。
その両手には分厚い本を抱えている。
老婆の歩く先にお手洗いがある。
お手洗いの扉を開き、老婆は入っていった。
「なんだよ、何かのお告げかと思ったら、ただのトイレかよ」
老婆が居なくなった店内では、体の緊張がほどけるのを感じた。
娘も緊張が解けたのか、席から降り、歩き始める。
ちらりちらりと私の表情を見ながら一歩一歩足を動かす。
私は一つ小さく頷くと、娘は、たたたたっと妻の元へ駆け寄った。
妻は娘を膝に乗せる。
娘の頬が緩み、笑みがほころぶ。
それを篠生はじとっと見ている。
その目は、体の輪郭を這うように見続ける。
私はその目にねちっこい不快を覚えた。
田堂の母は息子の頭を撫で、老夫婦は何やら話している。
郷珠は何する事も無く、座っている。
私は、静かに立ち上がった。
妻は私を心配そうに見上げる。
「何でもないよ。すぐに戻る」
私は今も悪魔を信じる事は出来なかった。
私は配達員の居る場所へ足を進める。
確かに一人亡くなり、ニュースでは悪魔が闊歩していた。
それは間違いない。
しかし、実際に目の前で悪魔の姿を見ていない。
悪魔がどのような姿をしているのか。
そして、悪魔が地上にやってきた理由は何だろうか。
町を破壊する理由は何だろうか。
疑問だけが膨れ上がり、老婆の発言の真偽を疑ってしまっていた。
私は、配達員さんの居る場所に着いた。
配達員は拘束されて、横になっている。
配達員は、私に怯えていた。
動かない体を何とか這わして、私から遠ざかる。
「すみません、縛ってしまい。本当は今すぐにでもこのロープを解きたい」
私はそう言いながら、片膝を立てて座った。
遠ざかっていく配達員は壁にぶつかった。
これ以上、遠ざかる事は出来ない。
「お、お前達はイカれてる」
配達員は怯え震えた声で言い放つ。
客の皆の視線を感じる。
「教えてください」
私は言う。
配達員は客の皆が居る方向へ視線を向ける。
客の皆の視線が配達員に集中している。
「外はどうなっているのですか?」
私は訊ねる。
「見ての通り、濃い霧が出ているだけですよ」
配達員は答える。
「しかし、ニュースでも悪魔が町を破壊している報道がされていました」
「頭おかしいんじゃないですか? この店へ配達に町から出発した時も、いつも通りの町でしたよ」
配達員は答える。
けほけほと配達員は空咳する。
「濃霧は? 霧はこんなに続くのですか?」
私は続けて質問する。
「濃い霧が発生しやすい山なんですよ。ただ、今日の霧は珍しいですね。運転が出来なくなる程に濃い霧でした」
配達員は答える。
「悪魔を見た事は無いのですか?」
私は訊ねる。
配達員は大きく溜め息をつく。
「見た事ありませんよ。いや、あなた方が悪魔に見える」
配達員は答える。
「わかりました。一つお願いがあります。もし、外に出れるならばこのロープを解くので、人を呼んできて欲しい。誰でも構いません。大勢の人が来れば、悪魔が居ない事が証明出来るかもと思っています」
私は神妙な面持ちで言う。
「この霧だから、車を使うのは難しいかもしれないけど、やってみます」
配達員は小さく頷いて答える。
私は手足を固く縛られたロープを解いていく。
両手を縛っていたロープが解かれる。
配達員は、手首に食い込んだロープの跡をさすっている。
「おいおい、何しているんだ」
老父は大きな声で言う。
その声を聞きつけた老婆は、お手洗いから荒れた足取りで出てきた。
客の皆が私に視線を向ける。
「この者に助けをお願いします」
私は配達員の足を拘束しているロープを外しながら言う。
「ならぬ!」
老婆は恐ろしい剣幕で近づいてくる。
ロープが解かれる。
配達員は拘束から解放された。
私は配達員に一つ頷く。
その合図を受け取るように、配達員も一つ頷く。
配達員は、立ち上がる。
老父も近づいてくる。
「開けてはならぬ!」
老婆は怒鳴る。
「霧を中に入れるな!」
老父も怒鳴る。
その怒号から逃げるように、配達員は出入り口から外へ出た。
私は、小さく安堵する。
老婆と老父はその場に立ち止まり、何も話さない。
老婆は瞳を左右に大きく動かして、そわそわしているように見える。
老父はその場で腕を組んでいる。
老婆と老父は私の目の前に立ち塞がっている。
老婆と老父の攻撃的な圧力を感じ、動く事も出来ない。
妻と娘の元へ戻る事も出来ない。
早く、妻と娘の元へ戻りたい。
その時だった。
「うわっ! 誰だ、止めてくれ! 助けてくれー」
レストランの外から叫び声が聞こえた。
それは紛れも無く、配達員の声だった。
「くそっ! いっぱい居る。触れるな! 近づいてくるな」
配達員の声がレストランに反響した。
そして、それ以降、配達員の声を聞く事は無かった。