老婆は瞳をちらりと動かし、周囲を確認する。
息の荒い口呼吸で、はあ、はあ、と短く呼吸している。
呼吸を整えることもせず、老婆は分厚い本を両手で頭上へ持ち上げた。
「霧の中には悪魔がいる」
老婆は開いた分厚い本を両手で頭上に掲げたまま、叫んでいる。
老婆の視線は分厚い本のページに集中し、瞳が見開いている。
瞳は漆黒のように光を吸収し、くすみ、輝きが無い。
老婆の奇天烈な行動に、客は凍りつく。
私も他の客と同様に驚いて体が凍りついている。
私はその老婆の瞳を見て、恐怖というよりも憐れみを覚えた。
老婆の瞳を見ていると、どこか寂しそうだった。
「何言っているんだ、あの婆さん、帰ろうぜ」
カップルの若い男性は、そう言って席を立ち、レジへ向かう。
その足取りは冷静に見せているが、歩幅が大股だった。
この場から逃れるように浮き足立っているのがわかる。
カップルの女性も足早に男性を追う。
「外に出てはいけません。悪魔に殺される」
老婆は分厚い本を掲げたまま声を荒げて叫ぶ。
老婆の怒号が店内の隅まで響く。
店員は老婆を気にしながら会計を進める。
カップルの男性が手元がもつれて、小銭を地面に散開する。
「あー、くそっ」
カップルの男性は苛立ちを見せながら、小銭を拾う。
カップルの女性も手伝う。
小銭を拾い終えると、再び会計を進める。
店員は強く怯えていた。
マスク越しでも容易にわかる。
瞳が泳ぎ、眉が下がり、額に冷や汗を滲ませている。
会計を済ませたカップルは急ぎ足でレストランの扉へ向かう。
レストランの扉を開ける。
すうっと、外の濃霧が足元から店内に入り込む。
カップルの足元が濃霧に覆われる。
カップルは濃霧に満たされた外へ駆けていった。
レストランの扉は自然と閉まる。
静まり返った店内。
テレビの音が、うるさいくらい大きく聞こえる。
老婆は分厚い本を机に置き、ページを凝視している。
その時だった。
鈍く重い、大きな音が耳に入る。
僅かにレストランが揺れた。
レストランに何かがぶつかったような音だった。
生肉を地面に叩きつけた音。
大きな石を地面に叩きつけて砕く音。
濡らした雑巾を地面に叩きつけた音。
これらの音に似ているが違う。
どの音も混沌していて、聞いたことのない音だった。
「お、おい、嘘だろ」
男性の怯えた声が店内で聞こえる。
私達、客の誰もがその声の発生源へ視線を向ける。
その光景は目を疑った。
いや、目は正しく映していた。
しかし、頭で理解できるような光景ではなかった。
レストランの窓には、べったりと、こびり付いた赤い液体。
それは水風船を外から窓へ当てたように放射線状に広がっている。
その放射線状の中心へ目線を動かす。
そこには先程、外へ出たカップルの男性の姿があった。
カップルの男性は捨てられた人形のように倒れて動かない。
普通では曲がらない方向へ関節が曲がっている。
カップルの男性の顔は店内に向き、口や耳から血が溢れ出ていた。
妻は娘の顔を胸で覆う。
妻の腕が震えているのがわかる。
私の手の指も異様に冷えて強張る。
絶句の無音はテレビの音をより大きくさせる。
店員が悲鳴を上げた。
その悲鳴で、客の誰もが置かれている状況を理解した。
泣き叫ぶ者も居れば、震え上がり動かない者も居る。
レストランの扉へ駆ける者も居れば、腕を組む者も居る。
扉へ駆ける者は他の客を退けて、我先に扉へ向かう。
泣き叫ぶ者や震え上がる者は石のように体を動かさない。
腕を組む男性は白い薄髭をざらざらと手でなぞる。
その男性は、レストランに入る前の列で前に居た老父だった。
「これ、何かの撮影じゃないのか?」
老父はにやりと笑みを作り、声高らかに声で店員へ訊ねる。
しかし、老父の声は、店内の行き交うどよめきに掻き消される。
その時、店内の照明が消え、テレビも映らなくなった。
薄暗くなった店内。
店内に混乱をきたした悲鳴が飛び交う。
「静かに」
老婆は分厚い本を胸に抱え、大きな声で一喝する。
一喝した老婆の体はぶるっと一度小さく震える。
老婆の目は見開き、にたっと笑みを浮かべている。
その目は天井の一点を見続けている。
どこか、水を得た魚のように生き生きと楽しんでいるように見えた。
「ここに居ることが悪魔にばれてしまう」
老婆は畳み掛けて言う。
客の誰もが置かれている状況を少しずつ理解する。
それに比例して店内は段々と静まる。
私の体が小刻みに震えている。
空調設備も停止したからだろうか、体が異様に冷える。
私は、妻と娘の座る席へ移動し、妻と娘を抱擁した。
妻も体を震わせていた。
娘は両腕を妻の背にまわして抱きついて離さない。
私達は、お互いの震えを共感する。
不思議と不安感が穏やかになっていく。
「怖いよ」
娘が妻の胸に顔を埋めたまま言う。
娘の小さな声が妻の肺に振動して、もごっと、こもって聞こえる。
私は娘の頭を撫でることしかできなかった。
私は優しく撫でながら考えていた。
悪魔というのが現実に居るのだろうか。
虚言なのではないか。
しかし、こうして今、濃霧の中で一人が亡くなった。
電気も断たれ、テレビから情報収集することもできない。
ふと、そろりそろりと厨房へにじり寄る店員の姿が視界に入った。
そして、さっと店員が厨房の中へ入る。
そうだ、スマートフォンで連絡は取れないのか?
私はスマートフォンを手に取る。
スマートフォンは圏外になっていた。
圏外ではどうすることもできない。
知り得る情報は老婆の言葉だけだった。
私は、ふと思った。
この状況で店員はどうしているのか。
ホールの女性店員は厨房に入ったっきり、出てこない。
厨房で調理するものもいるはずだ。
「すぐに戻る」
私は妻と娘に一言添えて、立ち上がった。
「え? どこへ行くの?」
妻は私を見上げる。
妻の下瞼が充血し、厚ぼったい。
目は潤い、頬を下げて、悲観した表情だった。
「店員に聞いてくる。もしかしたら、本当に撮影中なのかもしれないからね」
私はそう言うと、店内を静かに歩いて厨房へ向かう。
席に座る客の視線が私に集まる。
どうしてだろう。
お前だけ動いていいなんてずるいと言わんばかりの圧力を感じる。
「どこへ行く」
老婆は立ち上がり、高圧的に言う。
「ああ、いや、店員はどうしているかなと思って」
私は立ち止まり答える。
「確かにそうね、撮影なら、店員が知っているわよね」
老夫婦の老婦が言う。
老婆は何か言いたそうだった。
しかし、老婦に返す言葉が見つからないのか、口を吃らせる。
老婆は座り、再び分厚い本のページを見入る。
そのページを見ながら何やらぶつぶつと呟いている。
私は厨房へ再び歩き出す。
先に、一つ、床にお皿が落ちている。
慌てて落としたのか、お皿は砕けて、破片が散乱している。
その砕けたお皿を越える。
厨房に着いた。
「ごめんください」
私は了承を伺いながら厨房の中に入った。
厨房には誰も居なかった。
調理中だったのか、フライパンの中には料理が残っている。
水道の蛇口からは、水が出しっぱなしになっている。
その水によって、シンクの中は水に満たされている。
そのシンクの中には沢山の食器があった。
私はそっと水を止める。
シンクの数々の食器の間に数本、注射器を見つけた。
その注射器の針は、私の手首から指先までの長さがある。
注射器にはメモリが記されている。
何の調理に使うのだろうか。
香辛料の分量に使うのだろうと勝手に結論付ける。
そうして深く気に留めることなく、疑問を解決した。
私は厨房を見渡した。
厨房の壁には棚が備わり、様々な調味料が並んでいる。
棚の側面には鍵掛けがあり、鍵が下がっている。
その鍵は持ち手の部分がびっしりと錆び付いている。
棚の隣に、三つの冷蔵庫が備わっている。
厨房の奥にはシャッターがあり、しっかりと閉まっている。
こちらから、仕入れた食材を搬入しているのだろう。
厨房の天井は、照明が設置されているが、電気は点いていない。
厨房の床はタイル張りで、にわかに調理油でぎらついている。
もう一つの壁側には何も置かれていない。
壁には排水溝があり、床の水が流れていくような仕組みになっている。
その排水溝の入り口は鉄網で塞がれ、びっしりと錆がこびり付いている。
その錆は赤黒く、べっとりとしている。
私は厨房から出ようと出入り口へ視線を向ける。
その視線の先には老婆が居た。
老婆は分厚い本を片手に持ち、無言で立っている。
厨房の出入り口で、私を見ていた。
私は思わず、びくっと体に緊張が入り、身の毛がよだつ。
私は老婆を避けるようにすれ違い、足早にホールへ戻った。
背後に居る老婆を見ようとちらりと振り返る。
老婆は私をじとっと見続けていた。
老婆の気味の悪さに、私の足取りは急かす。
妻と娘の元へ向かう。
妻は私を席から見ていた。
私を見た妻の表情は仄かに安堵する。
「すみません、どうでしたか?」
歩いている途中、右側の席の人が話しかけてきた。
その声は中性的で物腰の柔らかく優しかった。
私は立ち止まり、その人に顔を向ける。
そこには、一人の青年の男性が座っていた。
足を揃えて座り、両手を膝の上に乗せている。
その両手は、僅かに握り拳を作っている。
男性の隣には、ギターケースが置かれている。
私は、ふと、川瀬で演奏していた男性を思い出した。
白いシャツにジーンズ。
服装も同じだった。
あの男性に違いない。
「誰も居ませんでした」
「そうですか、ありがとうございます」
その青年は、小さく頭を下げてお礼を言う。
「いえ」
私は、さっと答えて、妻と娘の元へ急ぐ。
次の瞬間、店内の照明が点き、テレビから音声が流れ始めた。
眩くて強い刺激に思わず、目を閉じて、立ち止まる。
目を閉じると何も見えなくなった。
照明の明かりが、まぶたに当たり、ほんのり赤みに帯びた白色の視界を映す。
不安感からすぐに目を開けたい。
しかし、思うように開いてくれない、まぶたに不安が増していく。
逃げたいのか立ち向かいたいのか、私の鼓動が高鳴る。
その鼓動に合わせて、そわそわとして体の内側で何かが掻き立てる。
薄っすら目を開ける。
目が明かりに慣れると、まぶたが更に少し開くようになる。
光に慣れていきながら、まぶたを開いていく。
完全に照明の明かりに慣れ、視界がはっきりとする。
私は無意識のうちに、妻と娘の存在を確認していた。
妻と娘はテレビを見ていた。
気が付けば、客の皆はテレビに釘付けだった。
テレビに映る映像に私は驚愕した。
テレビには、青々とした山が映っている。
その山には霧が立ち込めて山の形が微かに見える程度だった。
カメラマンは、その山の麓から撮影しているようだ。
ガードレールが設置されている二車線道路から山を見上げるような映像。
その道路は一台も車は通っていない。
画面の左上には、『ライブ』と表示されている。
カメラマン荒い息づかいが映像に入り込む。
映像は山の斜面を通って下っていく。
そして、一人のアナウンサーにカメラが向けられた。
そのアナウンサーはカメラマンと同じ道路に居る。
アナウンサーは目尻を尖らせて、眉を下げて、呼吸が早い。
何かに畏れている事が容易に理解できた。
一つ大きく深呼吸してアナウンサーは平然を装う。
「ス、スタート!」
カメラマンは動揺を隠せぬまま早口で言う。
アナウンサーはマイクを口元に持っていく。
「ご覧ください! 突如として発生した霧の中で黒い何かが飛び交っています!」
そのアナウンサーから緊迫している事がわかる。
その中でもなるべく冷静な言葉を選んで、リポートしている。
カメラマンは映像を空に向けた。
濃霧に覆われた空。
その濃霧の中には、無数の黒い影が飛び交っている。
続いて、映像を左に動かして市街地を映した。
市街地が目下に広がっている。
その市街地は目を疑う光景が広がっていた。
高層ビルよりも背の高い黒い生物が闊歩していた。
映像はその黒い生物にクローズアップする。
その姿はこの世のものとは思えなかった。
手足が異様に長く、皮膚表面に骨が浮き出ている。
背には蝙蝠のような羽が生え、細長い尾がしなやかに動く。
肋骨も皮膚表面に浮き出ており、心臓付近が赤く点滅して光る。
長くて鋭い犬歯が二本見え、豚鼻がひくついている。
瞳は光を失い、真っ黒に塗り潰したようだった。
耳は尖り、周囲の音を細かく掴んでいる。
まるで想像上のドラキュラのようだった。
「も、もう逃げましょう」
カメラマンの震えた声がする。
映像が揺れる。
「もう少し、もう少しだけ!」
アナウンサーの表情は恐怖と勝ち気に入り乱れる。
カメラマンは手が震えているのだろう。
かたかたと、手とカメラがぶつかる雑音が止まらない。
次第に映像の中の景色が影に覆われていった。
細かく揺れ動く映像は真上を映した。
濃霧によって、姿は微かにしか見えない。
しかし、足の大きさから、山を遥かに超える巨大な生物だと理解できる。
足はすらりと長く、皮膚表面に骨が浮き出ている。
足元は犬のような骨格で、鋭い爪が剥き出しになっている。
その生物は四足歩行で闊歩する。
その足の動きは極めて遅い。
関節一つ一つの動きが、空に浮かぶ雲を見ているように遅かった。
しかし、一歩の歩幅は、ひと山を越える程だ。
一歩踏み込む度に地上を掘り返し、建物や木々が地上の土と混ざり合う。
その軌跡は、地ならしのように平面になっていた。
再び停電した。
照明の明かりもテレビの映像も消えた。
私は急いで妻と娘の元へ向かった。
浮き足だち、私の足取りに動揺が見える。
私は妻の隣へ座ると、すかさず妻と娘を強く抱擁した。
妻と娘を抱擁しながら、私の思考が目まぐるしく処理を始める。
レストランの外で起きていることを理解しようとした。
確かに、霧の中には、見た事のない異形の姿をした何かが居る。
しかし、まるで想像上の物語のような光景の数々。
それらを現代と繋げる事は困難だった。
第二次世界大戦以降、国は豊かになり、今では戦争も無く、カルトによる事件も無い。
過激派も、とうの昔に解体された。
最近では暴走族も少なく、反抗する子供も見かけない。
時々、無差別事件などがあるが、身近では聞いた事が無かった。
悪魔?
そのような生物が居るはずが無い。
それが私の脳が導き出す、唯一の答えだった。
思考回路がどうしても安易な考えに傾く。
これまでの生活の中で問題は多々あった。
家庭内で喧嘩もあった。
職場で問題もあった。
しかし、それらの問題は、時間が経てば解消された。
命を脅かす事なんてあるはずが無かった。
ただ、今回は違う。
目前に死が迫ってきている。
理解が追いつかない私の思考は、段々と一つ言葉を産まれる。
不可解な出来事をその言葉でまとめ、無理矢理、解釈した。
必ず家族は守る。
娘は今にも泣きそうな表情を浮かべていた。
うるうるとした目の中には澄んだ瞳が溺れていた。
私は、家族を励まそうと笑みを作る。
精一杯の笑みを作るも、頬が石のように硬い。
娘も一所懸命、笑みを真似しようと頬を上げた。
頬が上がり、下まぶたが押し上がる。
その拍子に、娘の目尻に涙が集まる。
そして、すうっと小さな一筋の涙が頬を伝った。
それに気が付いた娘の我慢は決壊した。
娘は私の顔を見上げながら、声をひっくり返して泣く。
涙がほろほろと頬を伝う。
その涙は、妻の太ももに滴り、ズボンを濡らす。
「静かにしなさい」
老婆の声がすぐ隣で聞こえた。
私と妻は、びくっと驚き、顔を向ける。
私達の席の前に、老婆が立っていた。
妻は咄嗟に娘の顔を胸で抱擁した。
その妻の表情は、子猫を守る母猫のようだった。
娘なりに泣くのを止めようと努力しているのだろう。
うー、うーと唇を噛んでいるような声が聞こえる。
「早く泣き止ませなさい。ここに居る事が悪魔にばれてしまう」
老婆はそう言って、自らの席へ戻っていった。
私は、その老婆の背を目で追う。
ふと、周囲の視線が私に集まっている事に気が付いた。
それはどことなく冷ややかな眼差しだった。
「は! これは困った事になった」
席に戻った老婆は、ひと息つく間もなく、声を上げる。
客は老婆を見た。
老婆は窓を見ていた。
建て付けが歪んでいるのか、閉まる窓と窓枠に隙間があった。
「霧に触れた者は魔物になる」
老婆は焦燥感に駆り立てられた声が店内に広がる。
「どこかにガムテープ位あるだろ」
老父が言う。
「僕、持っています」
ギターの男性は言うと、カバンからガムテープを取り出した。
老父は徐に立ち上がると、その男性へ近づく。
老父は手を男性の目の前に伸ばす。
男性は、ガムテープを渡した。
老父は、窓の隙間をガムテープで塞いだ。
「よしっと」
老父はガムテープを片手に持ち、腕を組む。
「なあ、婆さん、霧に当たったらいけないんじゃ、窓際に居ないほうがいいんじゃないか?」
老父は仁王立ちで言う。
「そうだ。霧に触れたり、吸い込んだりすると悪魔になる」
「なら、一箇所に集まったほうが良くないか?」
「いいですね、皆の事を知っておきましょ」
女性客の一人が賛同する。
「噴水の周りにしようか」
老父は言う。
客は席を離れ、噴水の周りに集まる。
老婆も分厚い本を胸に抱え、集まった。
その歩幅は小さく、いそいそとしているように見えた。
妻は娘を抱きかかえて立ち上がる。
私と妻も噴水の周りに集まった。
「すまないが、僕は目が見えないから誰か手伝ってくれないか?」
男性の声が聞こえた。
そこには、一人の男性が残っていた。
その男性は、白杖を持ち、席から立ち上がっている。
レストランの外で会った白杖を持った男性だった。
私は自然と体が動き、白杖を持つ男性へと近づいた。
肩を叩くべきなのか、腰に手を回すべきなのか。
それとも、白杖を取って、持っていた手と繋ぐべきなのか。
私はどうする事も出来ず、男性に手を近づけるも、すぐに手を引っ込める。
そのしどろもどろな私の動作は、男性には見えていない。
床を細かく突く白杖が、私の足に当たった。
「そこに誰か居ますか?」
男性は言う。
「あ、はい。どうしたらいいですか?」
私は、その男性に言う。
「すみません、手を繋いでも良いですか?」
白杖を持っていない手を前に出してきた。
「わかりました」
私はその手と繋ぎ、皆の集まる噴水へ近づく。
その間も、男性は一歩先を白杖で突き、確認をしながら歩く。
私と白杖を持った男性は、妻と娘の元へ戻った。
男性は私達と同じ四人席に座る。
皆は噴水の周りにある四人席に座っている。
老婆は一番壁際の席に座り、皆を見渡せる位置に居る。
「正直、わしはまだ映画の撮影だと思ってるが、一応、外に出れない訳だし、皆、名前だけでもわかっていたほうがいいんじゃないか?」
老父はそう言い、ひと呼吸置いて話を続ける。
「わしの名前は、湯田。隣はわしの妻だ」
老父が言うと、老婦は小さく会釈する。
「じゃあ、次は私ね。私は田堂(たどう)よ。この子は息子」
老夫婦の隣の席に居る中年の女性が言う。
その息子は三十代後半位の容姿で車椅子に乗っている。
天井を見上げて、ずっとにやけている。
一定の間隔で膝を両手で叩き、リズムを刻んでいる。
何かの曲が頭の中で流れているのだろうか。
そのリズムに合わせて、上半身も上下に動かす。
ふと、その息子の表情がにこやかになり、満面な笑みで母の顔を見る。
リズムを見せつけるように叩く力が強くなる。
「わー」
その時、息子は大きな声を発する。
言葉ではないが、その息子の声は明るく、喜んでいる事がわかる。
空虚感のある店内では、その心から喜ぶ明るい声は雑音に聞こえる。
冷たい空気が流れる。
「ほら、大声は出さないの」
母は、子供をあやすように言うと、息子に一つ笑みを見せる。
「息子は障碍を持っているわ。皆さん、よろしくね」
母は、客の皆を見ながら明るい声色で言い放った。
その声は強くて曲がらない芯のある印象を受けた。
「あ、私は篠生(しのう)です。ギターが弾けます」
私の隣の四人席に座る男性が言う。
客の皆は特に何の反応も示さない。
「じゃあ、私達ですね。富竹(とみたけ)です。こちらが妻と娘です。ハイキングに行く予定でした」
私は言う。
「ハイキングか、それは残念だったな」
老父が言う。
間もなくして、白杖を持つ男性が話し始める。
「郷珠(ごうたま)と申します。僕は目が見えませんので、ご迷惑になってしまうかもしれませんがよろしくお願いします」
最後に残るは老婆だった。
老婆は分厚い本を広げて、ページを凝視している。
目線が集まっている事に老婆は気が付いた。
一瞬、目を大きくさせて皆を見渡す。
しかし、すぐに目線を分厚い本のページに向ける。
「それじゃあ、婆さんでいいか」
老父は言う。
それを聞いた老婆は、ちらりと老父を見て、一つ、鼻で笑った。
老父は左上に目線を流し、天井を目で仰ぎながら、はははと微笑する。
「婆さん、感じ悪いなあ」
居心地の悪さを拭おうと明るく言う。
「婆さん、一応、念の為、聞いておくが、何が起きているんだ?」
老父は訊ねる。
老婆は口をつぐみ、瞳を左右に大きく動かす。
そして、左上に瞳を動かして止まると老婆の口が僅かに開いた。
「神の御技が届かぬ時、暗黒の深淵に封印されし悪魔の巣宮の入り口は開かれる」
老婆は時々言葉を詰まらせながら言う。
その声色はしわがれ、引きずるように重い。
聞き慣れない言葉が、真実味を感じさせる。
私の背中にぞわぞわっと緊張が走った。
「その分厚い本に書いてあるのか?」
老父は訊ねる。
老婆は話を返さない。
「また無視か」
老父は、呆れた表情を見せる。
店内に沈黙した重苦しい空気が漂う。
篠生はギターケースを撫でている。
私は篠生に話しかけた。
「昼間、川瀬で演奏していませんでしたか?」
篠生は体をびくつかせて、私を見る。
「あ、驚かせてすみません」
私は明るく接する。
「あ、あ、い、いえ。全然大丈夫です。見られていたんですね」
篠生は、おどおどとして吃りが強い。
「ええ。たまたま通りかかって、心地良い曲でしたので家族で聞き入っていました」
「いや、そんな。恥ずかしいな」
篠生は頭を掻いて困惑している。
篠生の額には汗が滲む。
「ギターのプロの方ですか?」
「いえ、そんな。ただの趣味ですよ」
「趣味で、あんなに綺麗な曲を弾けるんですね」
篠生の頬が仄かに赤らむ。
篠生は徐にギターケースを開け、ギターを取り出した。
ギターは年季がある。
ボディーのコーティングが剥げて、模様もあせていた。
篠生はギターを太ももにのせる。
「私ではなく、このギターが良い音色を奏でてくれるんですよ」
篠生はギターのボディを優しく撫でる。
その表情は我が子を愛でているように温かい。
「もし出来るなら、演奏していただけませんか?」
私は切実な思いだった。
あの演奏を聞けば、皆の気分が明るくなるのではないかと思った。
「いや、聞かせる程ではないですよ。だって…」
篠生は言いかけて、言葉を詰まらせる。
「ほんの少しだけでいいんだ。どうかお願いします」
私は頭を下げる。
「わ、わ、わ、かりました。ちょっとだけ」
ぽんと弦を指で弾いた。
その音は、この沈黙の空気感に光が射したように染み渡る。
皆の視線が集まる。
老婆は怪訝そうな眼差しを送る。
篠生は体を萎縮させて、手を止める。
「や、やっぱり、やめませんか? 皆、怒っていますし」
篠生はおどおどとして言う。
「大丈夫。皆もあの曲を聞けば、気持ちが明るくなるはずだから」
「うう」
篠生は苦い顔で言葉を濁す。
ちらりちらりと客の皆の視線を気にしながら、チューニングをしていく。
チューニングを終えると、篠生は一呼吸置いた。
そして、左の手の指の腹で弦を押さえ、右手の指で弦を弾いた。
演奏は店内へ一気に広がり、重苦しい空気感を払拭させた。
川瀬で演奏していた曲だ。
篠生の体が小さく左右に揺れる。
旋律に心体を委ねているようだった。
演奏する前の自信の無い様子は全く見られない。
演奏の上手い下手は私には分からない。
ただ、ふんわりとした幸福感が体に染み渡るのを覚えた。
皆も、その旋律に聞き入っている。
疲労感や恐怖心に塞ぎ込んだ表情がほぐれていく。
妻は眉を下げて、どうする事も出来ない状況に悲しみを浮かべている。
涙袋にじんわりと涙が滲む。
集まった涙は涙袋の土手を超えると、ほろりと頬を伝う。
再び、涙が涙袋に少しずつ少しずつ集まっていく。
そして、また一つ、ほろりと涙が滴る。
老婆は篠生を睨み付け、口が何やらもごもごと動く。
その口の中から、カチッカチッと金属的な音が鳴る。
入れ歯を定位置に戻そうとしているように見える。
その時だった。
レストランの出入り口の扉が開いた。
「お届け物です。凄い濃霧ですねー」
配達員のような容姿の男性が入ってきた。
その扉の開閉で、沢山の濃霧が入り込む。
配達員は両手で観葉植物の育った鉢を持っている。
ギターの演奏は止まり、客の皆は配達員に視線を向けた。
「すみません。お届け物ですー」
配達員は再び厨房へ声をかけて、手元の伝票に目を通す。
配達員はふと店内をちらりと見た。
「え?」
配達員は店内に顔を向けて動作を止めた。
鋭い視線が配達員を刺す。
配達員は顔をそらす。
「人が集まっていましたし、何かあったんですかー?」
配達員は再び厨房へ声をかける。
「おい! 外はどうなっているんだ?」
老父は立ち上がり、配達員に怒鳴りつける。
「え? どうもこうも、凄い霧ですよ」
配達員は、きょとんとした表情で答える。
「そうじゃない! 悪魔だよ。町はどうなってるんだ」
老父は血相を変えて激しい口調で言う。
「この濃霧の中、運転してきたのかい?」
老婆は畳み掛けるように配達員をぎろっと見て言う。
「え? あ、伝票はここに置いておきますねー」
配達員は逃げるように店外へ出ようとする。
「外に出してはいけません!」
それを見た老婆は叫んだ。
老婆の言葉を聞いた老父は配達員に駆けつける。
そして、老父は配達員を掴みかかる。
老父は配達員を客の皆が集まる噴水へ連れてきた。
老父の隣に配達員は座る。
「外は危険だ。今や、外は悪魔の巣宮と地界は繋がった」
老婆は語る。
「そういう事だ。運転してきたから気付かなかったのかもしれないが、良かったな、ここまで無事で」
老父は、にこっとして言う。
配達員は一つ笑みを返す。
その笑みは引き攣っている。
「皆、よく聞くがよい。霧に触れたこいつは、じき、悪魔になる」
老婆は神妙な口調で言う。
それを聞いた老父は配達員から小さく距離を取る。
「おい、外に出すなって言ったのは婆さんだろ?」
老父は言う。
老父の額に冷や汗が見える。
「外に出してしまっては、ここに居る事が悪魔に、ばれてしまうではないか」
老婆は言う。
老父は言葉を詰まらせる。
「こいつを椅子に縛りつけよ。さもなくば、こいつに、皆、食い殺される」