わたしが一仕事終えて居間にやってくると、そこにはいつものようにソファに座ってテレビを観ている父親がいた。番組は当然のようにプロ野球のナイター中継だ。
 よくもまあ飽きないものだと思う。同じ事を交互に九回も――決着が付かない場合はそれ以上――繰り返して勝敗を決するという基本ルール自体そうとう退屈そうだけど、プロの場合、毎年百試以上行うというのだからたまらない。しかも、毎試合相手が違うのならまだしも、あるのは十二チームだけ、しかもリーグが異なると特別な事情でもないかぎり試合が組まれることはないそうじゃないの。同じ相手と同じことを何十年にもわたって続けているだなんて、やる方も観る方もいいかげんうんざりしてこないのだろうか。
 むろん、これは野球にまったく興味のない人間のたわごとにすぎない。好きな人間にとっては同じ試合などひとつとして存在せず、毎回のように新しい発見や喜びを見いだすことができるのだろう。野球の〝や〟字も知らないわたしでも、それくらいのことは理解できる。
 ただ、父がその手の野球好きなのかは正直疑わしい。野球中継を観ている父は、テレビの中で何が行われていようともいっさい心を動かされる様子がなかった。点が入っても喜んだり悔しがったりせず、たとえ乱闘が起ころうともエキサイトすることはない。それはまるで、飼育ケースに入っている昆虫の生態を静かに観察しているかのようだった。そもそも、ひいきのチームがどこなのかも判然としない。本当にこの人が野球観戦を楽しんでいるのかすら疑問に思えてくる。
 もっとも、ナイターくらいしか観ないくせにボーナスをはたいて貧相な居間には場違いな大きなテレビを購入したり、スポーツ専門の有料チャンネルを契約していることを考えると、この人なりに野球観戦には並々ならぬ情熱を持っているのかもしれない。感情がほとんど表に出ないため、非常にわかりにくいというだけで。
 しかし悲しいかな。立派なテレビの視聴権は、やがて来る侵略者に強奪される運命にあった。母がソファにふんぞり返り、クリアな大画面や高音質なサウンドシステムなどまったく必要なさそうなドロドロとした愛憎劇を鑑賞する一方、居間を追われた父は薄暗い寝室でひとりわびしく小さなトランジスタラジオから流れる実況中継に耳を傾けることになるのだ。
 あぁ、なんてかわいそうなお父さん……。
 そんな哀れな父に同情して――というわけはまったくないけど、わたしはいつものように肩を揉んであげることにした。
「お父さん、肩でもお揉みしましょうか?」
 と、わたしが父の背中に向かって問いかけたところ、
「う」
 ひらがな一文字による呻きとともに、ホームランが飛び出しても微動だにしない父の肩がビクリと震えた。わたしのところからでは薄い後頭部しか窺うことができないけど、その顔は恐怖で引きつっているのではなかろうか。ここ数日にわたってわたしに肩を揉まれたおぞましい記憶がフラッシュバックのように蘇ったものと推察される。
「……嫌なら別にいいんだけど」
 心に植え付けられる娘との思い出がおぞましいトラウマでは、こちらとしても不本意だ。
 しかし父は激しく首を振ると、ぴんと背筋を伸ばし、どんな攻撃に対してもびくともしない鉄になったかのように身を硬くする。わたしに覚悟を決めたような目を向け、「ん」と言って肩もみをするよう促した。
 いや、そんな悲壮な覚悟で肩もみに臨まれても……。
 でもまあ、本人の了承も得たことだし、さっそく仕事を始めることにしようか。わたしだっていつまでも下手なままではないというところを見せてやるからね。
 わたしは意を決して、父の肩に手をかけた。

 夜の団地に父の悲鳴が響き渡った。